ペンジュラムがカーナビデビューした日のことはとてもよく憶えている。
しかもその時はペンジュラムにそんなすごい機能があるとは一切知らずにいて、結果的にペンジュラムがカーナビ的な役割を果たしてくれて、それで私も初めてそのすごい機能に気付いた。
2017年の年末、1人反省会を休みの初日だったか2日目に決行した。
1人反省会自体はとても楽しかった。
とても楽しかったけれど、1つだけいつまでも悶々としていることがあった。
ちょうど休みに入る前の日、私はある人の恒例の年末のスケジュールを別の人から聞かされることになった。
相手も教えようと思って教えたわけじゃないし、私も聞きたくて聞いたわけじゃなかった。
その教えてくれた人の理想の年末のスケジュールの話から話が飛んで、その知りたくもなかった別の人の恒例の年末の過ごし方まで耳にすることになった。
この年末もそうするなんて言ってるわけじゃなかったし、ましてやこんな又聞き状態で情報の信ぴょう性もわからない。
だけどどういう過ごし方が恒例で、そしてそのイベントの際どういう人と一緒にいるのかまで知る羽目になった。
本気で要らない情報だったし聞きたくも知りたくもなかった。
そのたった1つの情報で私が悶々とするには十二分な威力と破壊力があった。
そういう時の想像力というのはとどめを知らない。
本当に余計な想像を働かせ、自分もそれでますます落ち込み、年末だというのに負のループ始動という怖ろしいことに発展した。
年末の1人反省会、途中で美味しいケーキ屋さんでお茶をしながら日記を書いて、今度はそこから日帰りの天然温泉を目指すことにした。
iPhoneのマップで経路を確認した。
そんなには難しくなく、普通にきちんと着けるだろうと思って、画面を開いたまま時々現在地を確認しつつ曲がる場所を確認しつつ行けばいいなと思って運転した。
ところが私はそのマップの経路通りに行っているつもりでも、なんと4~5回道を間違えて、そして大雪が降り出し始めたせいで道も悪い中何度もハンドルを切って狭い道をUターンしなければいけなかった。
地図を読めない自分が悪いとは思えず、iPhoneのマップがわかりにくすぎる!とiPhoneのせいにした(苦笑)。
温泉に入って少し気持ちがすっきりとした。
悶々度100とするなら、温泉から出て悶々度80くらいまでは下がってくれた。
少し気持ちが落ち着いた私は、なんとなく肉まんが食べたい気分だった。
帰りにコンビニに寄ろうと思った。
その時パッと思い浮かんだコンビニが1つあった。
その道を経由して帰るのが実は近道かもと思ってそちらを目指そうと思った。
でもそこまでの行き順もわからなければ、そのコンビニをどうやってピンポイントで検索していいのかもわからなかった。
そこでふと「ペンジュラムに聞いて行ったら面白いかもしれない」と思った。
万が一間違えてもその時はそれこそマップをiPhoneで見たらいいし、そして途中からは何度も通ったことのある道に繋がるのはわかってたから、そこに出るように検索したらいいんだと思った。
そうやって運転を始めた。
運転を始めるとさっきまでのすっきり感は一瞬で消えて、またもやあの要らぬ情報が頭を駆け巡り出した。
忘れたいのに忘れられない。
ましてや今年もそういう過ごし方をするのなら、これから数日の間でそのようになる。
もちろんそんなの私が実際に知ることはないのだけれど、世界のどこかでその予測した出来事が起こっているんだと思うとそれだけで私は嫌だった。
ものすごく嫌だった。
ごちゃごちゃ考えつつも運転に集中しなきゃと気持ちを切り替えてひたすらペンジュラムが指す方指す方を進んだら、見知らぬ住宅街の中に入ってさらにはどんどん道も細くなっていった。
途中は本当に車1台通れるレベルの細さだった。
とうとうペンジュラムも狂ったのかと思った。
私の心の状態がすごい不安定で思考もばんばんネガティブな方に引っ張られて、だからペンジュラムもそれに同調するように狂ってる!?と思った。
大真面目にそう思った。
あまりにも変な道をペンジュラムが案内するから、途中で私はもう本当に訳の分からない道に出ることになったらその時はiPhoneを開いてマップで現在地を検索してそこから軌道修正しようと決めた。
とにかく何でもいいから大きな通りに出たかった。
しばらくペンジュラムが指す方にひた走ると、数百メートル先に信号が見えた。
しかもその信号は大きな国道とかに繋がりそうな交差点で、そこでようやく道を正せるかもしれないと思った。
信号の前に着いて驚いた。
なんとその交差点は、私が肉まんを買いたいなと思ってじゃあコンビニに寄ろうと思った時に「あのコンビニがいいかも」と思った、まさにそのコンビニが角にある交差点だった。
本気でびっくりした。
温泉からコンビニまでも多分最低でも10kmある。
下手したら15kmぐらいある。
その間私はほとんどよくも知らない民家の間の道をペンジュラムが指すままに突き進んでいて、だから通った道もその近隣の町も全く土地勘がなかった。
全く土地勘がないのにも関わらず、私のひざの上にあったペンジュラムは迷うことなく右だの左だのと私に指示を出していた。
交差点が出てくる度に私はペンジュラムを右手に持ち、次はまっすぐなのか右なのか左なのかを都度都度聞いていた。
ペンジュラムそのものは水晶で石だから、当たり前だけど喋るわけじゃない。
だけど私が質問すれば方角を教えてくれる。
友達に言わせると私は極度の方向音痴らしいから(←自覚がないのがもっとやばいと言われた 汗)、もうどこをどう走っていてもどの方角に自分がいるのかもわからない。
さらには夜で真っ暗で街灯もとても少ない集落ばかりを通過していた。
もしくは農道と思しき道か。
ペンジュラムよ、どこからその情報を持ってきてる!?と思いつつも、私はそのコンビニが角にある交差点に着いた時に思った。
ペンジュラムから「心配しなくて大丈夫!」「不安にならなくて大丈夫!」「信頼して大丈夫!」それを伝えてもらってるんだと思った。
ペンジュラムはコンビニの中に入ってからも面白いことを教えてくれた。
入るまでは「肉まん」と思っていたけれど、実際に中に入るとレジ脇に置いてある他のお総菜が割引になっていてそちらに惹かれた。
定価では買わないけれど、割引セール中の値段なら試してみたい。
こういう時私は人目につかない適当な棚の前に行って、ペンジュラムにどうするかを聞く。
ペンジュラムはお総菜NO、あくまでも肉まん推しだった。
3回は聞いたと思うけれど、絶対に肉まんにしかYESと言わなかった。
初心貫徹しろということだろうか?などと煩悩まみれの私の頭は考えた。
まぁ肉まんを食べたいと思って入ったコンビニだから、ペンジュラムが言うように肉まんにしようと決めた。
肉まん1つだけ買って車内で一口食べてびっくりした。
これまでの人生においてコンビニで買った肉まんの中で、いっちばん美味しい肉まんだった。
コンビニにはそうそう行かない私だけれど、毎年冬になると肉まんを色んなコンビニで買うぐらい肉まんは好きでよく食べている。
でも一度として肉まんがすっごく美味しいと感じたことはない。
寒い冬の夜にはふはふしながら食べるあの雰囲気が好きなだけというところも否めない。
だけどその時の肉まんは、本当に本当に味がおいしくて、ふっくら具合もアツアツ加減も全部が全部百点満点だった。
ペンジュラムが肉まん推しした理由もわかった。
なぜそんな情報をペンジュラムが知ってるのか相変わらず私は知らないけれど、そんなことどうでも良くて美味しい肉まんに引き合わせてくれたペンジュラムにただただ感謝するばかりだった。
すっかり気を良くした私は、ある秋の日の仕事の昼休みに立ち寄った静かな場所へと車を走らせた。
その場所でその秋の日、私は賭けごとをした。
その賭けごとは絶対に100%起こらないとわかりきっていたことだった。
だから私は起こるわけないことに対して、賭けごとをした。
色々あきらめるつもりだった。
もうこれ以上面倒なことを自ら引き起こしたくなかった。
大人なんだからもう少し理知的になろうよと思った。
何をどう考えてもそっとしておくのが一番だった。
もう面倒なことも傷付くことも嫌だったから、それ以上首を突っ込むつもりはなかった。
だから私は、次なる行動を起こさないつもりで賭けごとをしていた。
もしその絶対に起こらないことが起こったら、それは本当に動けということだから、その時はそうしようと、起こらない体で私は賭けごとを始めた。
目の前で絶対に起こらないことが起こった時の驚きようと言ったらなかった。
嘘かと思った。
まさかのまさかで天変地異が起こった。
ものすごい混乱したけれど、多分私はGOサインが欲しかったのかもしれなかった。
私はまさかのことが起こったことで、その後本当に行動に出た。
それらの本当の意味を知る手がかりを得たのはそれから5ヶ月も経った頃だったけれど、当時は何が何だかわからないままに動いていた。
そして年末のその日も私にはまだ何が起こったのかよくわかっていないままその場所へ行き、その日から数えて3ヶ月ほどの時間と年末の悶々とする情報とを頭の中に思い浮かべながらしばらく車を止めて目の前の景色を眺めていた。
その賭けごとの時もペンジュラムに背中を押してもらっていた。
あの秋の日、なんとペンジュラムは私に全力で色んなことを伝えていた。
ペンジュラム自体は言葉を持たないから、ペンジュラムはそれまで一度も見せたことのない動きを目の前で始めた。
そんなの見たことなかったから驚いた。
ペンジュラムが何を一生懸命伝えようとしてくれてるのかは半分以上わからなかったけれど、とにかくもう色んなことが普通ではなかった。
何かが確実に動いていたし、それを信じて動くことが大切なんだろうと思った。
その時のことや、その年末のその時にペンジュラムが不安になっていた私に道案内をしてくれて「すべて大丈夫」というサインを見せてくれたこと、それらを振り返って私はペンジュラムにとにかく感謝した。
ペンジュラムがカーナビデビューを飾った日は、私はそんなこと1ミリも期待も予想もしていなかった。
実際にパーフェクトに道を案内してもらうまで、ペンジュラムにそんな機能があるとは私は知らずにいた。
だけどよくよく考えてみたら、昼間明るい時にiPhoneのマップ見て何回も道を間違えた人が、夜暗くなってからペンジュラム頼りで運転してただの一度も間違えることなく目的地に無事着いたのだから、本当にすごい。
ペンジュラムは私のカーナビにもなってくれるし、他の色んなことも教えてくれる。
いつかこのブログでペンジュラムは私にとってドラえもんみたいな存在だと書いた記憶があるけれど、それはそのカーナビデビューを飾った日、それまでで一番強くそう思った。
ちなみに3月になった今、ペンジュラムはもっともっとドラえもん化している。
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