2013年10月31日木曜日
農業はセンス
『農業はセンスだと思う』
その一言に、わたしは最初どういう意味でそれを友達が言っているのかわからなかった。
どういう意味か、この発信者である友達に突っ込んで聞いてみるとこんな風だった。
最初にわたしは友達からこんな質問を受けた。
「ぶっしーがどうやって職場まで行ってるかわからないけど、
仮に歩いて行ってるとして、その間になんびきの虫を見つけられる?」
しばし考えて、
よく見るのはうちにある観葉植物の周りをうろうろする小さな名前も知らない虫と、
最近お昼を食べる公園で時々服に止まる、赤い2ミリくらいのクモみたいな虫とを思い付いて
「2ひきかな…」
と答えた。
友達は続けた。
「多分、俺が同じところを歩いたらもっと見つけられると思う。
子どもの頃から虫とか好きだったからね~。
同じ道を歩いても、
ぶっしーが目にするものと俺が目にするものは多分違うと思う。
ぶっしーが気付いても俺が気付かないものもあれば、
俺が気付いてもぶっしーが気付かないものもある。
それぞれ同じところを歩いても、まったく見える世界は違うはず。
で、さっきの『農業はセンス』の話の続きだけど。
それは『畑をどう見るか』がカギになってくる。
同じ畑に立った時、何が見えているかで、出てくる結果はまったく違うものになる。
たとえば、今日今年初の白菜を出荷した。
この初出荷の白菜は、正直ちょっと「初物」としては遅い。
あと1日、たった1日でいい、夏の日に早く植えていたら、確実に初物はもう少し早かったし、
そして白菜としての出来も数段良くなっていたと思う。
畑を見て、何を感じ取ったか、そこから何が見えたかで、
まるっきし違うものが生まれる。
最初の虫の話もそう。
なんびきの虫に気付けるか。
たった1ぴき、小さなちいさな虫に気付かなかったとする。
数が少ない時に気付けば、すぐその時に何とかすることができる。
その少ない時点で気付かず、大量に発生してから気付いたとしたら、
それはそれは大変な作業になってしまう。
俺からしたら、くすり(農薬)は最終手段。
早くに気付けば、くすりに頼らなくて済む。
些細な小さなことだけど、それに気付けるかどうか、
そういうこともとても大切になってくる。」
さらに、友達は将来の自分の農業の方面の展開と共に、彼の人生訓を続けて披露してくれた。
「俺は夢は見るものだと思っていない。
俺の中で、夢は、将来の希望そのものとイコールになってる。
叶わないものではなくて、形にしていくものだと。
当然、できないことも出てくる。
俺は「できない」と思った時にすることがある。
それが『夢を分解すること』だ。
飛行機だってボルト1個から始まってる。
夢もそれとおんなじで、夢全体を見て「できない」と思う。
そういう時は、分解する。ばらばらにする。
そうすると、明確になる。
そしてできるものを見つけてできるところからやっていく。」
2013年10月29日火曜日
人恋しい時間
ときどき、多分1年に片手で数えるくらいの回数。
猛烈に人恋しくなるときがある。
心地良い沈黙を共有できる誰かに、会いたくなる。
寂しいから恋したいとか、
心の隙間を埋めたくて誰かにいて欲しいとか、
いう感じではなくて、
とにかく意味もわからず誰かと一緒にいたくなる。
男性女性、老若関係なくて、
そう、心地良い沈黙を共有できる、
そんな人たちに会いたくなる。
ドミニカにいた頃。
直前まで打ち合わせか何かで人に会っていた。
用事がすべて終わって昼下がりの明るい外に出た。
雲ひとつないような晴天の空が広がっていたのはよく覚えている。
閑静な住宅街の中を歩いている時。
突如、泣きたくなるくらいに、寂しくなった。
人恋しくて人恋しくてたまらなかった。
ちなみに、その時ふと会いたいと思ってとっさに思い浮かんだのは、
手芸大好きで3児の母をしている素敵な日本人女性Mさんだった。
記憶があいまいすぎて、細かくは思い出せないけど、
その日はMさんには連絡を取っても仕方ない、繋がらない、というのだけはわかっていた。
他に連絡を取ろうと思えば他にもいるだろうに、
すごく人恋しいのに、誰にも連絡できなくて、
なんだかひとりでぽつんとしてしまった。
その後どのように過ごして、どのような経過をたどってまた日常に戻ったのかは憶えていない。
ただ、憶えているのは、青い真夏のような天気の空の下、
閑静な住宅街の中で、ひとりぽつんとそこに存在して、
異常なほどの人恋しさに襲われたことだけ。
こんなことを思い出したのは、昨日の朝6:55にかかってきた1本の電話だ。
週末の計画が流れそうになっていることの連絡と一緒に、
結婚に向けて着々と準備が進んでいるという一報が、
これから5連チャンの勤務の初日、月曜日の朝、
めでたい話のはずなのに、
わたしの中では嵐のごとく色んな感情が渦巻いていた。
まじめにわたし何を自分の人生でやっているんだろう???
とどんよりしてしまった。
結婚していない焦りよりも、
すべてが宙ぶらりんの自分の状態に対しての焦りがわぁ~っと押し寄せてきた。
その後仕事にも行ったし、日常をこなしたけど、
先に書いたドミニカでの人恋しい体験が鮮明に思い出されて、
あぁなんだかあの時と似ているなぁと思った。
この流れを変えるべく、思いっきり「非日常」の体験を自分でしてみたい!と思った。
できたら、誰か心地良い沈黙を共有できる人がいれば尚のこと良い、
と思った。
いくつか候補を考えて自分で昨日の夜は少し調べたりもしたけど、
どれも気乗りせず、すぐにやめた。
まぁいいか~と流して、そんな計画頭のすみに追いやられ、
また日常に戻った。
そうしたら、今日、予想もしていなかったところから突然「非日常」にふさわしい計画の話が届いた。
計画者の友達とさっき電話で話した時のこと。
ぶっしー今何やってる?という話になった。
派遣しながら、これからの身の振り方を考えてる、と答えた。
友達はわたしに一言、
「ゆっくりでいいや~ん!」
といつもの関西弁でさらりと言ってくれた。
しかも、相手は心からそう思って言ってくれてるのがよく伝わってきた。
気を利かせようとか、
いいことを言ってやろうとか、
そういう計算めいたことは微塵もない。
ただただ、その人の心からぽろっと出てきた言葉だった。
多分だけど。
猛烈な人恋しさは、
こうした無計画の人の優しさによって癒されてる気がする。
毎回どうやって回復したのかなんて、
そんなこといくら記録好きなわたしでも書き残していない。
だけど、多分、今日みたいに、突然やってくる人の想いに救われているんだろうなぁと思う。
2013年10月27日日曜日
6年の軌跡
6年と数ヶ月ぶりに、2ヶ月限定で住んだ町を友達と一緒に訪れた。
友達が誘ってくれなければ、絶対に行こう!と思わなかったところだ。
アルプス山脈に囲まれたその場所は、景色や空気は抜群に良かった。
だけど、その2ヶ月というのは、
スペイン語の勉強+毎回強烈な眠気と戦うことになった座学+最後までなじめなかった集団生活
という、良い思い出を思い出す方が大変な毎日だった、わたしにとっては。
今日、本来であればもうそことは何も関係のないわたしや友達は建物の中にまでは入れないのだけど、
とても親切で機転の利く方たちのおかげで中に足を踏み入れることができた。
6年ぶりの建物の中は、当時とそう大きくは変わらず、
だけどわたしの中でなつかしさや感慨とは違う別の感情を喚起させるようなものがあった。
友達に見送られて、ひとりで名古屋行きの高速バスに乗った。
バスに乗り込んでから、この6年をひとりで振り返った。
2ヶ月その建物で暮らし、
2年ドミニカ共和国で暮らし、
出たり入ったりしながら実家で5ヶ月ほどお世話になり、
そして名古屋に来てもう4年が過ぎようとしている。
2年ドミニカ、4年名古屋としても、
わたしの中のこの6年の第一感想は「強烈」だった。
楽しくて笑ったことよりも、
多分、行き詰まりを感じまくって笑えなかった日の方が圧倒的に多かったと思う。
「もう無理」と何回思ったかわからない。
だけど、どういうわけか、過ぎ去った日々たちは、
「強烈」であっても、
それが「うん、本当に苦しかったよ」と思うことでも、
どれもこれも、「これでよかった」と心底感じた。
去年も今年も自分の在り方、生きる方針に疑問符つきまくりだった。
「だった」だと過去形になるから、今も現在形の「疑問符付きまくり」。
今は、好きでもない興味もない条件だけで選んだ派遣の仕事に毎日嫌だと思いながら通い、何やってんだかわたし…と思う日もいっぱいいっぱいある。
だけど、どんな今であっても、多分今の状態が今のわたしにとっては良いもの、
たとえ今大否定していたとしても、
後々になってみれば「これでよかった」と思ってるのではないかと思えた。
走り抜けた6年と数ヶ月。
本当に文字通り動いて走り抜けた時もあるし、
ただただ息をひそめてその瞬間が終わるのを何もせずただじっとしていたこともたくさんある。
布団に横になって天井を仰ぐだけの時もあった。
悔しくてやるせなくて、そういう気持ちをどう消化していいのかわからなくなったこともたくさんあった。
だけど、どんな結果に終わったものでも、
自己満足とは違うけど、
なぜなのか「これでよかった」感情が後々芽生えるのだからすごい。
あの時はよかった…というものでもなくて、
とにかく「これでよかった」とまるで死を迎えた老婆のような気持ち?みたいな感じ。
明日から始まる仕事には何の楽しみもない。
できたら避けたいと思ってる。
だけど、これまでと違うのは。
今日その町を友達と一緒に訪れるまでは、
本当にこれまでの歩みが良かったのかどうかずっとわからなくなっていた。
もう今さらやり直しがきかないのもわかってるし、
過ぎ去ったことは過ぎ去ったことでこれで良かったんだと思いこもうとしていた。
できれば、自分の選んだことだから、否定だけはしたくなかった。
否定したくないけど、どこか否定するような気持ちもあったと思う。
だけど、今日、それこそこの6年の中で一度も感じたことのない
「これでよかった」というからだの奥底から沸き上がるものが出てきた。
涙まで出たくらい(笑)、帰りの高速バスの中で。
明日も「これでいいのか、わたし!?」と思いながら仕事に行くだろうし、
今日感じた、しびれる様な感覚は明日にはすっかり消え失せている可能性大だし、
まぁそういうネガネガ系の想像はいくらでもできてしまうけど、
だけど、やっぱり今日感じた、これまでの歩みに対しての
「これでよかった」
は本物だと思う。
2013年10月22日火曜日
毒を吐ききる
昨日は、今月から通い出した新しい職場の中で
これまで「なにかが違う」と感じた違和感がはっきりとわかって、
そこにどっぷりとはまってしまった。
隠しようのない違和感。
これから数ヶ月そんなでやっていけるのか?という自分への不信感
やっぱりいくら行動でカバーしても、感じるものは感じるままだから自分にはウソはつけなくて、
お先真っ暗なくらいに暗かった。
いつまでもいや~な感情や思考が頭の中をぐるぐる巡っていて、
本を読んだりご飯作ったり食べたりしていても頭から離れない。
何もかもが嫌!!!!
そんな風だった。
とりあえず、少しでもすっきりするために昨日はブログを書いたようなもんだった。
で、今日の朝も満員電車に乗って仕事場に行った。
変わらない風景と変わらない空気と
その辺りはいつもと同じだった。
でも、昨日より明らかにわたしの中が軽い。
何が変とか違和感だとか、その正体がわかったから楽になったのかもしれないし、
わたしの中でその違和感ははっきり言って「人としてどうなの?それ?」というようなものだったが故に余計と嫌悪感が増して、それが一気に頂上に到達したから、あとは下降するしかなくなったのかもしれないし、
そういうよくわからないことがまかり通るところなんだ、というあきらめに似た気持ちが湧いたからかもだし、
そういう諸々の下地ができたらから、
まぁそういうこともあるさ…と開き直ったのかもだし、
理由はよくはわからない。
だけど、もうそんなに嫌だと思ってない自分がいた。
当然、昨日のミスが存在しても、仕事そのものは回っていたし、
そこに関わった人たちも今日はもう今日の仕事に向かっていた。
気付けば、今日は1日、とても楽ちんに息をしていた気がする。
体もそうだけど、
毒を出し切ると元気になるように、
心も毒を出し切ると元気になる。
言葉にするならそんな風だった、昨日の毒出し体験。
2013年10月21日月曜日
違和感の正体
今の仕事に就いて3週目。
整いすぎているくらい整っている。
にも関わらず、なにかしらわたしは変な感じがしていた。
「けち」なんかつけれない位にしっかりとしている会社だ。
最初の2週間、この違和感は単純に仕事の内容そのものに興味がない、
というところから来るものだと思っていた。
条件だけで選ぶと、こんな展開になるのか…
と今さらのように日々感じていた(後悔していた)。
でも、ようやく何が違和感だったのかわかったことが今日起きた。
わたしが、後の対応に困るようなことを多分やらかしたのだと思う。
「多分」というのは、わたしも本当のところ、
自分がやらかしたのか、
別の誰かがやらかしたのか、
けむに包まれたまま帰ってきたから、
一体誰のミスだったのかはわからない。
ちなみに、わたしはその件に関して、叱られてもいなければ注意も受けていない。
もうひとりも然り。
代わりにまったく別の人が怒られてしまったから、
そしてさらに別の人が謝っていたから、
すべて変な感じに回っていた。
別に、やらかしたのがわたしでもいいし、
多分もう一人ほどミスを犯した可能性のある人でもどちらでもいい。
それよりもわたしは、そのミスの後処理というか、
そこで巻き添えになった人たちの在り方にただただ違和感を感じていた。
そして、それがこの2週間感じていた違和感、
その時はまだ予感めいたものでしかなかったし、
予感どころか言葉にすら表わせない何かしらの変な空気や雰囲気を感じ取っていた、
と今さらのようにわかった。
なぜ、そこに行き着いたのか…
今年の夏、3ヶ月限定である会社で派遣として働いた。
そこでわたしは驚きの体験をする。
今日わたしなのかもう一人なのか犯人はどちらかわからないけど、
その3ヶ月の間もわたしは似たようなミスをやらかした。
ミスに気付いたのはすべてが完了してからだったけど、
どう考えてもまずいと思って、気付いてから即刻リーダーに報告した。
そのリーダーというのが、仕事のできる具合も素晴らしかったが、
人格がさらに素晴らしかった。
いつも口癖で
「だめな時はわたしが全部フォローするから、だから大丈夫!」
と言って、
とにかく個人の裁量にいい意味で責任を持たせてくれ、
個人のやることは相当なことがない限りは口出しもせず、
だけどいざ大なり小なり問題が起こると全身全霊でフォローしてくれるだけじゃなくて、
もうお手上げという時には、わたしや周りに代わって表に出て行った人だった。
こんなヒーローみたいなリーダーって世の中にいるんだ~といたく感心した。
この絶大な安心感・安定感は、全体にいい空気を生んでいたし、
そこまでやってくれる人がいるからがんばろうという気にもなれば、
隠し事はなしで何かあればすぐに報告相談をした。
何もわたしだけじゃない。
そのチームで働いていた人は、みんながみんなそんな風だった。
こんなにまとまりのあるチームというのは、
ある意味初めて見た。
よく会社で掲げられる「ほうれんそう(報告・連絡・相談)」のモデルのようだった。
で、今日やらかしたのととっても似ているミスをわたしがこの夏その職場でやらかした時。
そのリーダーはわたしの報告を聞いて、
数秒の沈黙の後、
「もうやっちゃったんでしょう!?いいよ(笑顔)!」
それで終わった。
「もうやってしまったものは取り戻せないから、仕方ない。
それで後々に大問題になったらその時にまた対応するわ」
というようなことを続けて言っていたような気がする。
このすごい安心感に包まれてわたしは今年の夏仕事をさせてもらっていた。
働くことが苦痛にならないどころか、
そこに行ってその空気を肌で感じて、
仕事の中で見る様々な光景や出来事を本当に楽しんでいた。
その仕事もまったく興味のない分野の内容だったけど、
人に恵まれて本当に良い体験をしたと思ってる。
話は戻って今日。
今のところも悪くはない。
色々整っている。
だけど、わたしが決定的に「これは何かが絶対に違う」と感じていたものが
はっきりと露呈された。
もうこれは仕方ない。
ここは気持ちを切り替えて、
その微妙な違和感がどこからやってくるのかひたすら観察することに身を徹してみようと思ってる。
こういうとき、わたしはこう考える。
「これは批判でもないし文句でもない。
不満といえばそうかもしれない。
でも、それよりも、この『ちがう』感覚を通じて、
自分が本当に大切にしたいこと
絶対にゆずれない価値観を確かめている、
そういう時間なんだ」
と、とっても都合のいいように、自己解釈してる(笑)。
どこまで自分に言い訳しながら、
自分の気持ちにウソをつきながら、
日々を過ごせるのか、
それもある意味見ものだと思ってる。
2013年10月18日金曜日
わたしの「ぶれてる」の答え
前々回のブログ『「ぶれがない」の新定義』を書いた後から、
じゃあ「わたしの中の『ぶれてる』って何!?」
と自分に問いかける形で質問が出てきた。
何をしていた時か忘れたけど、
時間を置いて、突然答えはやってきた。
「生き定まらない」
頭に浮かんだというか、心に浮かんだというか、
また違うことを始めたら忘れてしまいそうな言葉だったから、
あわててノートに「生き定まらない」と書き記した。
「自分の生きる軸が定まらないこと=生き定まらない」
と本当に赤字で書いた。
わたしの中で「ぶれてる」というのは、
1、感情のアップダウンが激しいこと
2、自分の生きる軸が定まらないこと=生き定まらない
上の2つをずっと指していたことにようやく気付いた。
感情のアップダウンの激しさはさておいても、
わたしの中で「生き定まらない」ことはと~~~~っても悪い事になっている。
わたし以外の人がそうでも全然気にならないけど、
むしろわたし以外にもそういう人がいると思うと心強くなったりするけど(笑)、
だけど、自分の生き定まらない感じはどうにもこうにも許せる範疇を超えている。
「そういう自分もゆるしましょう!」
なんて言葉の通りにできたらどれだけ楽か!と思う。
言わんとしているところは頭ではわかる。
じゃあその通りにやってみましょう!と言われたら、
「で、どうやってやるの(ゆるすの)?」となる。
機嫌がよろしくない時にそんな言葉がきたら、
さらに怒り増幅まちがいなし(苦笑)。
じゃあ「わたしの中の『ぶれてる』って何!?」
と自分に問いかける形で質問が出てきた。
何をしていた時か忘れたけど、
時間を置いて、突然答えはやってきた。
「生き定まらない」
頭に浮かんだというか、心に浮かんだというか、
また違うことを始めたら忘れてしまいそうな言葉だったから、
あわててノートに「生き定まらない」と書き記した。
「自分の生きる軸が定まらないこと=生き定まらない」
と本当に赤字で書いた。
わたしの中で「ぶれてる」というのは、
1、感情のアップダウンが激しいこと
2、自分の生きる軸が定まらないこと=生き定まらない
上の2つをずっと指していたことにようやく気付いた。
感情のアップダウンの激しさはさておいても、
わたしの中で「生き定まらない」ことはと~~~~っても悪い事になっている。
わたし以外の人がそうでも全然気にならないけど、
むしろわたし以外にもそういう人がいると思うと心強くなったりするけど(笑)、
だけど、自分の生き定まらない感じはどうにもこうにも許せる範疇を超えている。
「そういう自分もゆるしましょう!」
なんて言葉の通りにできたらどれだけ楽か!と思う。
言わんとしているところは頭ではわかる。
じゃあその通りにやってみましょう!と言われたら、
「で、どうやってやるの(ゆるすの)?」となる。
機嫌がよろしくない時にそんな言葉がきたら、
さらに怒り増幅まちがいなし(苦笑)。
2013年10月16日水曜日
第3の選択肢
「30歳の時は、35歳くらいになったら、結婚して子ども産んで育てているか、
もしくは独身なら独身で、何かキャリアを形成してバリバリやっているかだと思っていた。
========================================
【後記】
このブログアップするかずっと迷っていたけど、アップすることに決めた。
上の中であと5ヶ月で35歳と書いているけど、
保留している間に厳密にはあと5ヶ月きってしまって、
このまま放っておくとアップする機会がなくなってしまう・・・
と気付いた。
内容は、なんともこっぱずかしいものだけど、
後からどんなに振り返ってみても
今この瞬間に感じていることは、やっぱり今この瞬間のものでしかなくて、
なんとなく、今は恥ずかしかったり隠したいと思っていても、
ずっと後になってから「残しておいてよかった~」と思うような気がしてる。
まだまだいろんなふんぎりがつかずに、
こんな自分は人には知られたくないと思っている自分もいるけど、
前回ブログを始めたことを公言した時に
意外と公言するのも悪くないと思った。
思ったというよりも、思わせてもらった。
かっこわるい自分
恥ずかしいと思っている自分
そんなものを自分から話すと周りに応援してもらえる、
と誰かの本に書いてあったけど、
本当にその通りだった。
ひとりでも共感してくれる人
ひとりでもわかってくれる人
ひとりでも応援してくれる人
そういう人がいるだけで、本当に人ってがんばれるもんなんだ~と温かい気持ちにさせてもらった。
迷いながら、またしばらく第3の選択肢生きます(笑)。
もしくは独身なら独身で、何かキャリアを形成してバリバリやっているかだと思っていた。
今35歳を目前にして、そのどちらでもない自分の人生にただただ驚いている。
そしてどうしていいのかわからなくなっている。」
この間、同い年の独身の女友達と会った時に彼女が言った言葉で、
私も猛烈に共感した言葉だった。
5ヶ月すると35歳になる。
結婚も子育ても仕事もすべて絵に描いたもち状態で、
まさかそのどれにもあてはまらない今の自分の状態なんて
30歳の時の自分は想像だにしていなかった。
30歳の時の自分は想像だにしていなかった。
迷いまくりの人生。
自分はどうしたいのかもぼやけていて、
いったいどんな道の上を歩いているのかも自覚できていない。
目標とか展望とか、そういうことを描けばなんとかなるというものでもない。
自分のできることをやったらいい、というような単純明快に決められるものでもなかった、
私の場合は。
私の場合は。
とにかく色んなことが「停滞」しているようなこの状態を
その時の気分で通り過ぎているような感じだ。
その時の気分というのは、
不安や焦りでいっぱいの日もあれば、
やっとひとつ派遣の仕事が決まってほっとする日もあれば、
自分をどうしてこうまでしてしまったんだろう・・・と自己嫌悪になることもあれば、
まぁいろいろある。
正直なところ、
自分がどんな感じでちょっと近い未来を迎えているかはわからない。
========================================
【後記】
このブログアップするかずっと迷っていたけど、アップすることに決めた。
上の中であと5ヶ月で35歳と書いているけど、
保留している間に厳密にはあと5ヶ月きってしまって、
このまま放っておくとアップする機会がなくなってしまう・・・
と気付いた。
内容は、なんともこっぱずかしいものだけど、
後からどんなに振り返ってみても
今この瞬間に感じていることは、やっぱり今この瞬間のものでしかなくて、
なんとなく、今は恥ずかしかったり隠したいと思っていても、
ずっと後になってから「残しておいてよかった~」と思うような気がしてる。
まだまだいろんなふんぎりがつかずに、
こんな自分は人には知られたくないと思っている自分もいるけど、
前回ブログを始めたことを公言した時に
意外と公言するのも悪くないと思った。
思ったというよりも、思わせてもらった。
かっこわるい自分
恥ずかしいと思っている自分
そんなものを自分から話すと周りに応援してもらえる、
と誰かの本に書いてあったけど、
本当にその通りだった。
ひとりでも共感してくれる人
ひとりでもわかってくれる人
ひとりでも応援してくれる人
そういう人がいるだけで、本当に人ってがんばれるもんなんだ~と温かい気持ちにさせてもらった。
迷いながら、またしばらく第3の選択肢生きます(笑)。
2013年10月14日月曜日
『ぶれがない』の新定義
わたしは自分のことをとてもぶれぶれの人間だと思っている。
感情のアップダウンは基本的に激しい。
感情の振り幅が大きくてアップアップしてしまうことも多い。
今の自分の状況を見て、
わたしはどうしたいんだろう・・・と思うことはたくさんある。
いつも色んなことを迷っていて、
何かをしていてもこれでいいんだろうか・・・?と不安になり、
いくら年を重ねてもぶれない軸どころかぶれぶれの軸・・・
と自己嫌悪なんてしょっちゅうだ。
この間会った友達に
「ぶっしー(わたし)はぶれてないよ~。ほんとにぶれがない!!」
と断言された。
わたしが見ている「わたし」と彼女が見ている「わたし」が同一人物とは思えないほどのギャップだった。
だから、なぜわたしが彼女の目からして「ぶれてないのか」を聞いてみた。
返ってきた言葉を要約するとこんな感じだった。
たしかに、
向かう方向性を見失った感じはその通りだし、
それに伴って迷いも心の中のぶれもたくさんあるとわたしの話からはうかがえるけど、
それもこれも全部含めて自分にウソがなくて、
とにかくあるがままの自分や
あるがままのその時の感情を「そうだ」と認めている、
そういうところが「ぶれてない」とのこと。
これには、意表をつかれた。
自分の中では、ぶれぶれだ~(涙)となっているのも本当だけど、
たしかにぶれぶれだと感じていることをそうだ、ともうあきらめていることも本当だ。
わたしはこれまで「ぶれてない」というと、
ひとつの軸がしっかりと定まっていて、
何かしらの方向性もしっかりとしていて、
紆余曲折があってもそれに沿って進んだり動いたり生きたりしていることだと思っていた。
有名なサッカー選手が「ぶれない軸」みたいなタイトルの本を出していたと思うけど、
タイトルから勝手に自分の全神経を集中させて結果を出すみたいなイメージを持っていた。
でもそうではない「ぶれがない」という意味、
たとえば友達が言ってくれたみたいに
自分の気持ちにウソがないことや
ありのままをその時その時で受け止めることでぶれない、ぶれがない
というのもありだな~と。
こちんこちんに凝り固まっていた「ぶれない」「ぶれがない」の定義が
少し広がった感じになった。
追記。
この後、じゃあわたしの「ぶれてる」感覚ってどこから来てるんだろう・・・?と考えてたら、
ひょっと答えが出てきた。
これはまた別のブログで。
感情のアップダウンは基本的に激しい。
感情の振り幅が大きくてアップアップしてしまうことも多い。
今の自分の状況を見て、
わたしはどうしたいんだろう・・・と思うことはたくさんある。
いつも色んなことを迷っていて、
何かをしていてもこれでいいんだろうか・・・?と不安になり、
いくら年を重ねてもぶれない軸どころかぶれぶれの軸・・・
と自己嫌悪なんてしょっちゅうだ。
この間会った友達に
「ぶっしー(わたし)はぶれてないよ~。ほんとにぶれがない!!」
と断言された。
わたしが見ている「わたし」と彼女が見ている「わたし」が同一人物とは思えないほどのギャップだった。
だから、なぜわたしが彼女の目からして「ぶれてないのか」を聞いてみた。
返ってきた言葉を要約するとこんな感じだった。
たしかに、
向かう方向性を見失った感じはその通りだし、
それに伴って迷いも心の中のぶれもたくさんあるとわたしの話からはうかがえるけど、
それもこれも全部含めて自分にウソがなくて、
とにかくあるがままの自分や
あるがままのその時の感情を「そうだ」と認めている、
そういうところが「ぶれてない」とのこと。
これには、意表をつかれた。
自分の中では、ぶれぶれだ~(涙)となっているのも本当だけど、
たしかにぶれぶれだと感じていることをそうだ、ともうあきらめていることも本当だ。
わたしはこれまで「ぶれてない」というと、
ひとつの軸がしっかりと定まっていて、
何かしらの方向性もしっかりとしていて、
紆余曲折があってもそれに沿って進んだり動いたり生きたりしていることだと思っていた。
有名なサッカー選手が「ぶれない軸」みたいなタイトルの本を出していたと思うけど、
タイトルから勝手に自分の全神経を集中させて結果を出すみたいなイメージを持っていた。
でもそうではない「ぶれがない」という意味、
たとえば友達が言ってくれたみたいに
自分の気持ちにウソがないことや
ありのままをその時その時で受け止めることでぶれない、ぶれがない
というのもありだな~と。
こちんこちんに凝り固まっていた「ぶれない」「ぶれがない」の定義が
少し広がった感じになった。
追記。
この後、じゃあわたしの「ぶれてる」感覚ってどこから来てるんだろう・・・?と考えてたら、
ひょっと答えが出てきた。
これはまた別のブログで。
2013年10月3日木曜日
ブログに対する思い
ようやく自分のブログを公開する決心がついた。
実際公開する前は、
周りの人たちにどう思われるのか怖いとも思ったし、
自分のまとまりのない文章に自信がないのもあるし、
公開するからどうだというのもわからないし、
考えたら考えた分、答えは迷宮入り状態だった。
だけど、いつかのタイミングでは公開しようと思っていたわけで、
それならもう今日でいいじゃんとなり、
そしてようやく公開。
行動してみれば一瞬のことで、
今もあんまり落ち着かないけど、
もうどうにでもなれの精神だ。
さて、1ヶ月近く書いてきて、
とりあえずこの1ヶ月で出てきたひとつのテーマがある。
私は、このブログには、
自分の数多い失敗談とそれに比べたら数少ない成功談を織り交ぜて書こうと思ってる。
自分の感情に振り回されたり
自分の感情におぼれたり
自分がわからなくなったりするのは
何も私だけじゃないと思う。
感情を取り扱うセミナーもたくさん出たし
感情を取り扱う本も色々読んだし
そういうことをプロとして取り扱っている方のブログもかなり読んだ。
たとえば
「流れに身を任せる」
と習ったり読んだりしたとする。
書いてある日本語は読める。
意味のわからない言葉はない。
だけど、私は「流れに身を任せる『感覚』」がわからない。
色んな手法は書いてある。
手法を実践するための考え方なんかも書いてある。
でも、自分の感覚でわからない。
流れに身を任せるとは、どんな感じなのかがわからない。
それは、力を抜くこともそうだし、
がんばらないこともそうだし、
自分の声を聞くこともそうだし、
とにかく言葉はわかっても感覚がわからないことが山とある。
で、さっきの話に戻ると、
その感覚の部分や、日常の具体的なプロセスが書いてあるものが非常に少ないことがわかった。
だから、逆にその部分を私は書こうと思った。
それは自分の見せたくない部分を見せることでもあるし、
それはそれでとっても勇気のいることだった。
だけど、それを見せることもどこかやりたいと思っている自分がいる。
本当に自分が苦しいときにヒントとなるものは
色んな理論や考え方、手法よりも
ある人の実際の体験じゃないかと思ってる。
私は苦しくて抜け道がないと感じた時にその体験談を必死で探した。
やりかたじゃない。
そのちいさなちいさなプロセスを知りたかった。
なぜなら、実際に体験した言葉は、生きていて、私なりの解釈ができる。
私なりの解釈ができれば、それがいつか自分も使えるかもしれない。
だったら、逆も可能性としてあるわけで、
私の個人的な体験が、
もしかしたら別の誰かのヒントになってくれる場合もあるのでは??とほのかに期待している(笑)。
3年前だろうか。
私の5つ下の妹よりもさらに年下の友達に
「ねぇ私の強みってなんだと思う?」
と聞いた。
彼女から返ってきた言葉は
「数々の大失敗の経験
恋愛にしろ仕事にしろ、何か色々恥ずかしい思いしてきた話をよくしてくれた。
病気になったことのない人間が病気ばかりしてる人間の痛みは理解できないみたいに、
失敗経験が多いと色んな人間の心に寄り添えるんじゃないでしょうか?」
だった。
数々の大失敗の経験。
これを強みとして使えるなら飽きるまで使ってみようと思っている。
実際公開する前は、
周りの人たちにどう思われるのか怖いとも思ったし、
自分のまとまりのない文章に自信がないのもあるし、
公開するからどうだというのもわからないし、
考えたら考えた分、答えは迷宮入り状態だった。
だけど、いつかのタイミングでは公開しようと思っていたわけで、
それならもう今日でいいじゃんとなり、
そしてようやく公開。
行動してみれば一瞬のことで、
今もあんまり落ち着かないけど、
もうどうにでもなれの精神だ。
さて、1ヶ月近く書いてきて、
とりあえずこの1ヶ月で出てきたひとつのテーマがある。
私は、このブログには、
自分の数多い失敗談とそれに比べたら数少ない成功談を織り交ぜて書こうと思ってる。
自分の感情に振り回されたり
自分の感情におぼれたり
自分がわからなくなったりするのは
何も私だけじゃないと思う。
感情を取り扱うセミナーもたくさん出たし
感情を取り扱う本も色々読んだし
そういうことをプロとして取り扱っている方のブログもかなり読んだ。
たとえば
「流れに身を任せる」
と習ったり読んだりしたとする。
書いてある日本語は読める。
意味のわからない言葉はない。
だけど、私は「流れに身を任せる『感覚』」がわからない。
色んな手法は書いてある。
手法を実践するための考え方なんかも書いてある。
でも、自分の感覚でわからない。
流れに身を任せるとは、どんな感じなのかがわからない。
それは、力を抜くこともそうだし、
がんばらないこともそうだし、
自分の声を聞くこともそうだし、
とにかく言葉はわかっても感覚がわからないことが山とある。
で、さっきの話に戻ると、
その感覚の部分や、日常の具体的なプロセスが書いてあるものが非常に少ないことがわかった。
だから、逆にその部分を私は書こうと思った。
それは自分の見せたくない部分を見せることでもあるし、
それはそれでとっても勇気のいることだった。
だけど、それを見せることもどこかやりたいと思っている自分がいる。
本当に自分が苦しいときにヒントとなるものは
色んな理論や考え方、手法よりも
ある人の実際の体験じゃないかと思ってる。
私は苦しくて抜け道がないと感じた時にその体験談を必死で探した。
やりかたじゃない。
そのちいさなちいさなプロセスを知りたかった。
なぜなら、実際に体験した言葉は、生きていて、私なりの解釈ができる。
私なりの解釈ができれば、それがいつか自分も使えるかもしれない。
だったら、逆も可能性としてあるわけで、
私の個人的な体験が、
もしかしたら別の誰かのヒントになってくれる場合もあるのでは??とほのかに期待している(笑)。
3年前だろうか。
私の5つ下の妹よりもさらに年下の友達に
「ねぇ私の強みってなんだと思う?」
と聞いた。
彼女から返ってきた言葉は
「数々の大失敗の経験
恋愛にしろ仕事にしろ、何か色々恥ずかしい思いしてきた話をよくしてくれた。
病気になったことのない人間が病気ばかりしてる人間の痛みは理解できないみたいに、
失敗経験が多いと色んな人間の心に寄り添えるんじゃないでしょうか?」
だった。
数々の大失敗の経験。
これを強みとして使えるなら飽きるまで使ってみようと思っている。
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