2019年6月30日日曜日

eat LOVE ⑴ プロローグ





[写真]
文章は『料理=高山なおみ』の一番後ろのページに書かれているもの。


eat LOVE
(↑このブログのタイトルは、こちらのサイトから借用させてもらった。
超超超オススメサイトだから、是非見てください!)



〜eat LOVE ⑴ プロローグ〜

eat LOVE邸で4人で引き合うまで、どれだけの人生の積み重ねが必要だったんだろう。

私は私、ノムはノム、ミッチーはミッチー、レイさんはレイさん、それぞれ4人が4人とも自分の人生の駒をある程度進めないと会えないようになっていたと思う。

今どういう順番で名前を並べようか迷った。

自分が知った順に並べることにした。

4人が4人で会うためには、ひとつとしてこれまでの歩みが欠けたらいけない。

それぞれがそれぞれのピースを完成させながら、それがある時2人に、3人に、そして最後4人になって、そしてあの日に至ったんだと思う。



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
私(女)
ノム(男)…私の占星術のクラスメイト
ミッチー(男)…ノムのパートナー
レイさん(女)…ノムとミッチーの家の大家さん
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




ノムは仲良しの女友達から占星術を教えてもらったのが最初。

私は地域の無料情報誌で「ホロスコープ」のホの字も知らないまま、個人鑑定を申し込んだのが最初。

それぞれ「自分のことをもっと知りたい」と思って、そのためにはもう少し専門的な学びが必要で、それで占星術初級講座を申し込んだのが去年の春。

ノムは第0回から、私は第1回から参加した。

夏のある回だったことは覚えている。

講座後のカフェタイムで、ノムは「僕ゲイです」とカミングアウトした。

その日の駅までの道のりをノムと並んで歩いた。

初めてノムと個人的な話をした日だったと記憶している。

その会話の中にすでにミッチーは登場した。

10年以上共にいるゲイのカップルというのは珍しい、でも最初からこの関係を大切にしようとゆっくりと慎重に関係を進めた、そしてそれは自分だけじゃなく相手もそうだったと思うと話してくれた。

私の個人の好奇心に基づいた質問にも何一つ嫌な顔をせずに答えてくれて、すごい素敵なパートナーシップを築いているんだなぁと羨ましくなったぐらいだった。

その時に、ノムは大人になってから絵を描き始めたということを教えてくれた。

どんな絵を描くのかと聞いたら、もう終わった個展なんだけど…と説明しながら、1枚の個展のお知らせをリュックから出して私に手渡してくれた。

キミドリとピンクのカラフルで元気が出そうなその絵のお知らせは、新潟に戻ったある日、とんでもない事実を教えてくれるものに変わった。

ノムのブログのアドレスが書かれていた。

当時の私はホロスコープの調べ物の関係で、色んなサイトをブックマークしていて、そしてそのブックマーク一覧をしょっちゅう開いて活用していた。

ノムのブログアドレスと私がブックマークしたアドレスはとても似ていた。

気のせいかと思いつつ、ブックマークのページを開いた。

なんと私は、占星術講座に参加する少し前に、すなわちノムに現実世界で出逢う前に、ノムのブログになぜか行き着いていて、それが気に入ってブックマークしていた。

だから、私はノムに出逢うより先にノムのブログに出会っていた。

それはすごい偶然だった。

今思うと必然と呼んでもいいかもしれない。




占星術講座は冬(2018年)になる前に終了して、その時にLINE操作が得意なクラスメイトがグループラインを作ってくれた。

ノムも私もそこに入れてもらったけれど、その時はまだノムと個人的に繋がるなんて全く想像だにしていなかった。

ノムと私を一気に近付けてくれたのは、今度は私のブログだった。

正しくは、山で行方不明になってペンジュラムで居場所を探して欲しいと家族から依頼された、おじいちゃんの霊が繋げてくれた縁だった。

今年(2019年)の節分の前の日に、私は何かに駆り立てられるように『覚醒』というタイトルにした文章を書いた。

細かいことは割愛するけれど、山で行方不明になったおじいちゃんなくしては、絶対に書くことのない文章だった。

おじいちゃんが書かせたものではないけれど、おじいちゃんとのやりとりがないとそこに書かれた文章は私の内側からは湧き出さなかったと思っている。

それを占星術講座のクラスメイトグループラインでもシェアした。

別に深い意図はなかった。

『覚醒』は書いた時に、自分ができる範囲で色んな人たちとシェアするのが筋だと思った。

独り占めしてはいけないような、そういう感覚だった。

だから「なんとなく」の感覚で人選した時に、占星術講座の人たちもそういうの大丈夫そうと思って、それで流したに過ぎなかった。

それぞれの人たちが感想を書いて送ってくれた中で、ノムだけ一味違う短い感想を書いていた。

その内容が気になった私は、そこで初めてノムに個人的に連絡を取った。

差し支えなければ、話を聞かせて欲しいとお願いした。

それがノムと私が仲良くなる本当の意味での最初の一歩だった。




4月の終わりだった。

ノムは占星術への熱が冷め出して、5月6月の2回で開催される中級講座への参加を迷っていた。

ようやく参加を申し込んで、その時に5月の講座の後お茶とかしませんか?と誘ってくれた。

ノムとじっくり話してみたかったけれど、ノムにはパートナーがいることを知っていたから、誘っていいのかどうか判断がつかなかった。

私は女だからノムをたらしこむとかそんな心配はなくても、もしかしたらパートナーの人はそもそも1対1でノムが自分の知らない誰かと会うのを嫌がるかもしれない。

だから私からは誘いづらくて、でもそのことを超真剣に悩むほどではなかったからなんとなくそのままにしていた。

そんな折に誘われて私は嬉しくなって二つ返事でお茶したいと答えて、それで実際に2軒はしごしてその時は4時間ぐらい一緒に過ごしたと思う。

今度は私から次も時間があればお茶したいと言った。

ノムももちろんOKで、そして6月も本来なら銀座のどこかでもしくは銀座〜東京間のどこか適当な店でお茶する予定だった。

本当に2人でのミーティングが実現したのは、知り合ってから1年経ってからのタイミングだった。

これは私側の事情だけど、1年前の時は私の心の準備が整っていなかったのがわかるから、出会えなかった。

ノムとミッチーとレイさんの3人側の関係が去年はどうだったのかはわからないけれど、少なくとも今の3人の空気に対して、去年の私では明らかに純度が足らない。

1年前、先生とヒーラーで霊視ができるOさんからそれぞれ別の時に「カルマの膿出し」の時期と言われた私は、本当にそのような状況をこの1年で体験することとなった。

自分の中に長年へばり付いていた心が苦しくなったり縮こまったりする価値観を1つ、また1つと剥がすようなプロセスをこの1年でやり続けた。

今も渦中ではあるけれど、それでも何もしていなかった1年前に比べたらずい分と変わって、その変わったというようなタイミングで、ノムとミッチーとレイさんに引き会わせてもらえた。




1ヶ月前の5月にノムとお茶した後からはもっと仲良くなって、ノムと私は深い内容のLINEやメールを互いに交わすようになった。

これはeat LOVE邸(ノムとミッチーの家)に誘ってもらう直前にノムからもらったメール。

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ぶっしーのリーディングは、いや、リーディングにかぎらずだけど、
なんというのだろう、「いろんなことを感じて、たくさん傷ついて磨かれたやさしさが、にじみでている」。

ぶっしーもわかるでしょう? そういうの。
言葉だけやさしいとか、やさしくしようとかそういうんじゃなくて、
根っこのところが「やさしい」で固定されているというか、
愛が基礎です、みたいなね。

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私はこれを読んで号泣した。

私のやさしさは、自分じゃよくわからない。

人への気遣いは鍛えられた分そこそこできるとは思うけれど、やさしいかどうかと言われるとそれは他者評価であって私は自分がやさしいという風には思わない。

色んな人たちに出会わせてもらえたおかげで人の許容範囲は広めかもしれないし、困ってる人がいればさっと声をかけるとか電車やバスで自分は座っててもっと座る必要のある人がきたら席を譲るとかは普通にするけれど、それはやさしさとは違う種類のものだと思う。

席を譲るとかは、アメリカにいた頃に「しない方が恥ずかしい」ことを学んだからできる。

だけどそういうことじゃなくて、「やさしい」と言われると、言葉はいつもありがたく頂戴していたけれど、内心「そうか〜!?」と思いながら聞いていた。

みんな買いかぶりすぎ!と思っていた。

でも、ノムの言葉は違った。

ノムは私のやさしさを「いろんなことを感じて、たくさん傷ついて磨かれたやさしさが、にじみでている」と言った。

ノムのその言葉の中に、私の生き様があってそれをそのまま認めてもらえて、さらにはそれがあってこそのぶっしーなんだよと言われてるみたいで、心が本当にすくわれた。

この「すくわれた」は、「救う」方のすくうと、金魚すくいみたいにそっと網のようなもので底の方からすくい上げてもらうみたいな方のすくうと両方の意味を私の中では感じている。

私は不幸自慢したいのではないけれど、多分あまり人は体験しなくて済んだような体験が少し多めだと思う。

私よりもっと大変な人はたくさんいるし、どの人だってそれぞれ大変さがあるとは思う。

人と比べてどうだと言いたいのではなく、私は私で大変で、それがもう結構なギリギリラインをなんとか保ってるみたいな感じで、だけどそんなこと普段言わないし、もちろんノムにだって言ってない。

なんだけど、ノムは私がミッチーのホロスコープを見て感じたことを書いたら、上のように返してくれた。

私の言葉からノムは私のやさしさを支えているものを特定して言葉にしてくれた。

そう、いっぱい傷ついたから、だから気をつけられること、気にかけられること、気を配れることがある。

そうした体験無くしては多分そんな風にはならなかった。

そんな話はノムにはしていなかったはずだし、私が書いたのはあくまでもミッチーのホロスコープを見て感じたことだったはずなのに、ノムはそこから私という人物に備わっているものを見定めて言葉にしてくれた。

ノムが言ってくれたやさしさは、私が生きていく中で身に付けたものそのもので、生きた勲章みたいに見えた。

このわかってもらえた感が私には本当の本当に嬉しかった。

そして、そういうものは普段表には出てこないものだし、わかりやすく評されるものでもないけれど、こうしてそこを見逃さずに切り取って言葉にしてくれる人がいるというのは、ものすごい幸運なことだった。

このメールの時に『eat LOVE』のサイトが送られてきて、そこで私は初めてノムとミッチーの日常を知ることになった。




eat LOVEの中の瞬間たちは、どれも素敵すぎて、私は一気に全部を読んで、さらに2回目もすぐにまた読んだ。

カメラマンの方が羨ましく、私もその中に潜入できないものかと、画面の向こうで指をくわえながら見ていた。

元々ノムからの説明で「カレは言葉が少ない」というのは知っていた。

だけど、どんな風に少ないのかはわからなくて、私は勝手にノムの前ではそこそこ喋る人なのかと思い込んでいた。

eat LOVEを読んで驚いた。

まさかノムの前でもミッチーは言葉で多くを語らないとは!

なんなら返事も「言葉による返事」と「言葉以外による返事」の2種類が常にあって、それをノムが自分の感覚とこれまでの2人で作り上げたリズムとノム分析によるミッチーのパターンからの読み解きとを駆使してコミュニケーションを取る様子に、私は悶絶しそうなぐらいに2人の在り方がとっても好きになった。

全く飾っていない、よく見せようなんていう気はさらさらない2人の日常を見て、私は一瞬で2人の日常が大好きになってしまった。

さらに、eat LOVEのメインでもあるミッチーの料理。

私の好きな料理家で高山なおみさんという方がいる。

高山なおみさんの料理本は何冊か見たし、1冊は本人サイン入りのものが手に入ると知ってわざわざ出版元に注文して取り寄せたぐらいだったけれども、そこに出てくる料理の雰囲気とミッチーの料理の雰囲気が似ている。


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「今日は何が食べたいか、
自分の心と相談しながら、
コンビニでじっくりお弁当を選ぶのも
料理だと思う。」

(『料理=高山なおみ』の一番後ろのページより
↑もはやあとがきでも何でもない、本当に最後の最後のところに書いてある)

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こういう考えを持っている料理家さんで、限りなく日常と食べることを結び付けている。

ミッチーが作るごはんも、本当にそれと似ていて、どこまでも日常だしルーティンみたいな、特別なことじゃなくていつものことみたいな、そういう感じがすごくする。

なのに、どこの料理研究家かと思うような、超完成度の高い料理で、私は写真を穴が開くほどに見つめて、その写真の中のミッチーの料理に色々思いを馳せた。

写真を見て一生懸命味を想像してみるけれど、ミッチーの料理はどこにでもありそうな食材ばかりなのに、なぜか特別な組み合わせや想像もつかない組み合わせで、上手いこと想像できなかった。

ますますミッチー料理への憧れは募るばかりだった。

リアルなeat LOVEの現場も見たければ、ミッチーの超おいしそうなごはんも食べたいと無謀な野望を抱いたけれども、現実に起こりそうにもないことに落胆しながら、まぁまたノムからガッツリと話を聞き出そうと心に誓った。




eat LOVEとミッチーへの料理に並々ならぬ野望を抱いて24時間も経たないお昼前、ノムからメールが来た。

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唐突なんだけど、
講座前日の、25日にうちに泊まりにこない?
というのもね、26日の夜に、時間未定なんだけど外せない用事が入って、
ひょっとしたら‪18時‬くらいに銀座を出なきゃかもで。
だけど、ぶっしーと話もしたいし....。
ということで、もしタイミングとかなにやらかにやらフィットしたら、
遊びにきませんか?

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えーーーーー♪─v(≧∇≦)v─♪

まーさーかーのー、eat LOVE邸へのお泊まり!

普段願ってもない変なことばかり雨あられのように起こるから、引き寄せの法則なんて嘘だと常々思っているけれど、「これ、もしや引き寄せじゃないの!?!?!?」と踊り出したくなるぐらいに嬉しくて、そしてノムに鼻息荒く「行く!!!」と即答した。

初めて「新潟」にいるからこその特権だとわかって、新潟にいることさえ特別な気持ちになれた。

これが都内とか近県なら、じゃあまた日を改めようってなるけれど、新潟ゆえにそんな選択肢はないから、ノムも「泊まり」を提案してくれたと思った。

まさかの展開に小躍りしそうなぐらいテンションが上がった。

しかも私はその少し前にバスのチケットを取ろうとしたけれど、「なんか今じゃない」と先延ばしをしたばかりだったのが、まさかこんな展開になるなんて、「何この直観力!?最高♪٩((*⁰▿⁰*))۶♪」と自画自賛した。

さらにはこんなメールが来た。


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25日ね、うちの隣の母屋に泊まってもらおうと思っているんだけど、
せっかくだから、大家さんもいっしょに夕飯したいな、と彼女を誘ってみてさ。
のむ、みっちー、れいさん(大家さん)という星トリオといっしょに、
その日は夕飯を食べるのでもよい??
あと、苦手な食べ物とか、好きな食べ物とか、なにかある?

たまにね、そんな風に母屋で、
れいさんとみっちーが共同で夕飯つくってくれ3人で食べたりしててさ。
母屋がまた田舎のおじいちゃん家みたいで、おちつくから、
きっと、ぶっしーも、くつろいでもらえるんじゃないかな、と思ってさ。

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ノムが、ノムとミッチーとレイさんを『星トリオ』と呼んだのにはこんなわけがある。



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ぼくはカレと広い敷地の中の貸家に住んでいるんだけど、
敷地に、大家さんがときどきやってきてね、
なんというか、彼と彼女(51歳女性の大家さん)とのトリオは、
ふしぎな、血のつながりはない家族?親戚?
そういう間柄となったのだけど、

先日ぼくの誕生日があり、
大家さんが、ぼくの「星をみたい!」って願いを叶えるべく
プランニングをしてくれ、すべての準備をしてくれ、車もだし運転もしてくれ、
当初、長野に行く予定だったのが、天候の関係で、新潟へ行く運びとなり、
上越のほうに、車で‪4時‬間くらいかけて、いってきました。

ぶしまたさんが広い新潟のどこに住んでいるのかわからないけど、
新潟、というだけで、もちろんのことぶしまたさんのことが浮かび、
お茶とかできたらおもしろいなー、なんて想像をしながら、
すばらしい星空を満喫してきました!

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



まだお互いをさん付けで呼んでいた頃、ノムがつい最近の今年の誕生日に、誕生日プレゼントとして星空を見に行くことを大家さんとカレとにプレゼントしてもらったことを教えてくれた。

なんと、東京から新潟まで行ったのだと聞いて、心底驚いた。

そしてなんて素敵な誕生日プレゼントだろう…と思った。

ちなみにペンジュラムもノムは2人からプレゼントされた(ペンジュラムの話はまた書くと超絶長くなるから、別記事で書く予定)。

カレ・ミッチーはまだ恋人だからわかるけれど、大家さんが誕生日プレゼントに関わるって普通じゃないし、だけどそれが有り得てしまう3人は並大抵の関係じゃないことは前々からわかってた。

eat LOVE邸へ誘ってもらった時に、大家さんにも会えたらいいなぁとは思った。

だけど、ただでさえ客人なのに、しかも普段の関係性を知らないから変なことも口走れず、そっと胸の中だけで「大家さんにも会ってみたいな」と思うだけにとどめた。

そうしたら、まさかの大家さんとも一緒にごはんを食べれるなんて!

夢の饗宴すぎて、もはや私は占星術講座のためではなく、完全にeat LOVE邸へと行くための東京行きへと大幅に変更された 笑。

実際に頭の中がお花畑になって、eat LOVE邸への荷物は完璧だったけれども、肝心の占星術の宿題に必要な超重要資料を忘れたという(爆)。←4時間以上も支度していたのに…。

まぁそもそも、東京に到着する当日に宿題をする発想そのものがおかしいっていう話でもある(爆)。

私はノムに1つだけリクエストをした。

「1つだけリクエスト。
講座の日の朝?昼?何時に出るのか、時間的余裕があるのかは知らないけれど、可能であれば、あのeat LOVEに出てくるチーズトーストとコーヒーをあの風景と同じ感じで味わってみたい!」




eat LOVE邸本編に行くまでにこれだけの中身がぎっちりと詰まっていた。

この後、またシリーズにして、もう3つは書く予定でいる。(ミッチーのごはん、eat LOVE邸での魂ミーティング、ノムとミッチーについては書こうと思っている)

ちなみにノムがどうしても「外せない」と言った用事は、冒頭の写真の中の一番大きな絵の譲渡式があったからだと、あの写真の中の部屋、ノムとミッチーのアトリエで教えてもらった。

ノムいわく、購入者はご夫妻で、最近家を新築して、その新築した家に飾るために買ってくれた絵とのこと。

そして、それを運んでご夫妻と新居で夕食を囲むのが26日になったから、それでどうしても私と最初に約束したように、講座の後にお茶することができなくなったとのことだった。

そのご夫妻の新居の計画はもちろん、その方たちとノムとが出会うとか、絵を買うとか、それを運び入れるとか、そうしたことは私には何一つ関与できないことばかり。

そんな中でノム・ミッチー・レイさん・私の4人の人生の時間がカチッと合って、それでとうとう4人が一堂に会する機会に恵まれた。

これは行ってわかったことだけれど、あの時間はもう「呼ばれた」としか言いようのない時間と空間だった。

さらに、なんと私が泊まらせてもらったお家には、私のホロスコープに出ているメッセージがそのまま舞台脚本のごとく演出されていて、本気で度肝を抜かれた。

呼ばれたというのは、もちろんノムからも呼んでもらったんだけれど、ノムたち3人ではない、強いて言うなら「上の者」、それこそ私がアトリエで見せてもらった本の中に出てくる「神々の審議会」的メンバーが呼んでくれたと思う。

そういう時間だったし、そういう場所だった。



2019年6月29日土曜日

神々の審議会







「この問題はすでに神々の審議会にかけられ、光の存在が出席する会議に提起されました。」

(『光の書』より)

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「誰かのノード回帰の時、自分もそこにちょうど居合わせて、そして自分も影響を受けることはありますか?」



占星術講座が終わった後、毎回近くのカフェに移動して「カフェタイム」なるものがある。

それは自由参加だけど、その時でないと基本的に質問タイムがない。

講座中はとても忙しくて、先生がひたすら解説や説明をしてくれているから、質問の時間がない。

だからその後のカフェタイムで、講座の内容やその他の占星術全般に関する質問をして、先生から色々教えてもらう。

ここ最近のホロスコープ調べで、私は人様のホロスコープを無断で調べて、どうしても気になったことが冒頭の質問だった。

太陽の通り道である黄道と月の通り道である白道の交点をドラゴンヘッド・ドラゴンテイルと呼んで、ヘッドの方は一般的に今世の課題と呼ばれている。

(※私個人の感覚で人によってケースがまちまちと知って、ヘッドとテイルに関しては一般論に当てはめず、聞かれた時には両方のテーマを説明するようにしている。)

ドラゴンヘッドの方は18〜19年に一度、生まれた時のドラゴンヘッドの位置に戻ってくる。

その時を「ノード回帰」と呼ぶ。

ノード回帰の時は、あの世とこの世の交点とも呼ばれるもので、人生におけるターニングポイント的な色んな出来事や出会いが運ばれてきやすい。

私のノード回帰はその1年前にすでに終わっていて、今回私ではない人のホロスコープを出して確認してみて、ちょうど私がその人に出逢えた時というのがその人のノード回帰の時期だった。

当人はそれをどんな風に感じていたのか、もしくは何も感じなかったのか、そこはわからない。

だけど、私側の影響は無尽蔵で、これは何なのだろう?と今でも学術的な答えは得られず、ただただ私個人の体験談だけが答えになっている。

たしかにその頃、私は私で占星術の中で一番恐れられている覇者冥王星がもたらす中年の危機真っ只中で、「破壊と再生」とか「大変容」とかいう言葉にピッタリな体験を山ほどしていた。

ただ、ノード回帰と冥王星による中年の危機とは意味合いがだいぶ違う。

ノード回帰側は、普段はずっと鍵がかかっている扉が、ノード回帰により開いて、開いた場所に魂的なご縁やそれに繋がる出来事や個人的変化を迎えるものが入り込んでくるっていう感じ。

冥王星側の中年の危機は、これまでの生き方ではもう先に進めませんよ、生き方を見直しなさい!!という個人が個人の生き方を見直さざるを得ないような状況や心の葛藤はあるけれど、それがすなわち魂的なご縁を運んでくるかというと、それは違うと思う。

そういうこともあるかもしれないけれど、そういう意味よりも個人が自分に向き合わざるを得なくなるみたいな意味の方が強い。

だから私は、その人だけじゃなく、私側にも影響がすごく、ものすごーく出たのは、その人のノード回帰から私も影響を受けたのかと思った。

それで先生に聞いてみた。

先生の答えはこうだった。

「Aさんのノード回帰の時に、武士俣さん側にも影響が出るか否かってことですよね?
基本的にノード回帰の時は、例えばAさんならAさん側には何かしら大きな変化が人生に流れ込んできやすいです。もちろん魂的なご縁とかも出てきやすいです。
そうした時にそのタイミングで武士俣さんがAさんの人生に居合わせることがあっても、武士俣さんの方に影響が出ることは基本ありません。その時にちょうどAさんの人生にいるということはあっても、言うなれば『そこにいる・巻き込まれている中の1人』というだけで、武士俣さん側が大きく影響を受けるということはないですね」

それを聞いて、真っ先に「神々の審議会」云々のフレーズが頭をよぎった。

その人にまつわることは、ホロスコープでさえも説明できない何かなんだというのはわかった。




冒頭の言葉(=「神々の審議会」云々の言葉)が入っている本『光の書』は、ノム(占星術講座のクラスメイトでeat LOVE邸の住人)がある時に教えてくれたものだった。

今1つ1つ紐解いてきてわかった。

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ノムたちが自分たちの日常を料理・写真・文で表したものを、ネットで『eat LOVE』というタイトルでアップする(開始時期:2018年の秋)



ノムが『eat LOVE』のサイトを私に教えてくれる(2019/6/18)



ノムに『eat LOVE』に出てくる「オラクルブック」を見たいとリクエストする(6/19)



ノムから「オラクルブック」のタイトルが『光の書』という名前だと教えてもらう(6/19)

↓↓↓

教えてもらったすぐ後に、「うちに泊まりに来ない?」と誘ってもらう(6/19)



『光の書』をノムとミッチーのアトリエで見せてもらって、そしてその時に冒頭のメッセージを本からもらってくる(6/25)

(↓
ノード回帰について、先生に質問する(6/26))

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これだけ色んなことが重ならないと辿り着けない本だった。

アトリエでノムがノムの次回個展の絵を見せてくれた後、「そうそう、ぶっしーが見たいって言ってた本、これだよ」と言って見せてくれた。

見せてもらう前から『光の書』は、私がいた場所からちょうど見えるところにあったけれども、話を遮るのもおかしな話だったし、ノムの絵を見ることに本当に楽し忙しかったから、本どころではなかった。

最初パラパラとめくっていたけれど、ノムが赤いかわいい缶を持ってきて、これでどのページを見るのか決めてから見るんだよと教えてくれて、その手順の通りにやった。

ノムに「まずは聞きたいことを思い浮かべてね」と言われて、それを思い浮かべた。

私は一言
「〇〇さんとのことについてヒントをください」
とだけ質問した。

今後どうなるだとか、そもそもこの掴みどころのない関係が何なのかなんて、恐ろしすぎて聞けなかった。

どんな答えを聞いても消化できるとはとても思えなかったから、当たり障りのない「ヒントをください」という、超漠然とした質問にした。

ノムは赤い缶から、茶碗やガラスのカケラを出してきて、そこには色んな模様が描かれていた。

ノムいわく、本に付いていたカードを使ってもいいんだけれど、せっかくだから自分でそれを作って、そのやつで自分は引いていると言っていた。

そのカケラたちも素敵すぎて、私は胸ズキュンだった。

1つ1つおそらく危なくないように手で磨いただろうことと、シンボルも本の見本を見ながら写しただろうことと、色んなプロセスが詰まったこの世でただ1つのその占いセットに私はときめいた。

それを目を閉じながら2つ引いて、そして出てきた順にどのページを見るのかが決まるようだった。

言われた通り2つ引いて、ノムに見てもらった。

「2だ!2なんて初めてかも。最初の方だよ」とかそんな説明を受けながら見せてもらった。

その見せてもらったのが、写真にある本の1ページ。

「この問題はすでに神々の審議会にかけられ、光の存在が出席する会議に提起されました。」…この部分を読んで突然ストンと腑に落ちた。

全体を読むと、「神々」だの「光の存在」だの「高次元」だの「天」だの「創造主」だのと、スピリチュアル用語満載な上、全体的に抽象度高めな内容になっているけれど、それゆえに私もきっちりと理解できたわけではないけれど、大切な部分は伝わってきた。

後半にある
「事態を無理に推し進めようとしてはいけません。(中略)先に進むのは、すべてを理解してからです。それまでは動いてはいけません。」
の部分を読んで、あぁ…( ̄O ̄;)となった。
(『光の書』より引用)

私からして、山で行方不明になったおじいちゃんをペンジュラムで探して欲しいとか、他人の抱えている問題をまるですぐそばで見ていたとしか思えないぐらいにそこでの情報を話も聞いてないのに詳細にキャッチしてしまうとか、そうしたオカルトワールドよりも、その人の存在やその人が人生に現れてから今日に至るまでの流れの方が不可解過ぎて理解にものすごく苦しむ。

私からして、この世の中、自分の人生の中で、一番理解できないものが、その人にまつわるあれこれで、今日も変わらずに「なんだろうこれ?」と思っている。

死者の霊魂が自分の部屋にいるとかよりも、私からするともっともっと不可解なのがその人にまつわる色んなこと。

ホロスコープを色んな角度から、なんならペンジュラムのホロスコープまで出して見比べて、異常な量の探究心?執着?で分析しまくってもまだ足りず。

今度は幻の本、『光の書』からヒントを得ようと東京都内のとある場所へと出かけて、そこでわざわざヒントをもらってくるとか。

『光の書』は絶版になっていて、中古本がありえない金額に釣り上がっていることを今回知った。

そんな本に巡り合えて、そしてお手製のサイコロ的なグッズを使って必要なメッセージのページがどこかを探し当て、そうまでして手にしたメッセージだった。

私が真っ先に思ったのはこうだった。

「〇〇さんのことは、神々の審議会にかけられるレベルのことなんだなぁ」って。

それにはものすごく納得した。

私が知っている自分の価値観、世の中にある価値観、他の人たちからシェアしてもらって知り得た価値観、それら全部を総動員しても、私には何をどうやったって理解できないのが、その人の存在でありその人にまつわる色んなエピソードだったりする。

だから、どんなに知識や分析から得た情報やその人を前にしていた時に見ていた風景やいなくなってからの数々のぶっ飛びエピソードでは到底説明できない諸々が「神々の審議会」の一言で説明できる風に感じた。

そんなものが本当にあるのかどうかなんて、三次元に住む私たちにはわからない。

だけど、私には一番しっくりくるのが「神々の審議会」だったし、もうそのレベルなら、自分がどんなにジタバタしたり、このブログでああでもないこうでもないと叫んだり、墓参りや各種願掛けにいそしんだりしても、そりゃ動かないよね、と思った。

人間的な視点で言えば、その人が私に連絡一本入れれば事の展開は新たな方向に動くだろうし、反対に連絡ないわけだから嫌がられてるの一言で片付けたらいい話だと思う。

でもそうではないものを私はずっと見てきたわけで、この説明のつかない諸々が何かなんてわからなければ、そこにinしている自分も相手も何なのかと思っている。

神々の審議会レベルなら、色んなことが人間的な言語で説明できるわけないと思った。

そして人間が知るレベルからは計り知れないことが見えないところでは動いているんだろうなぁとも思った。




ホロスコープからも読み解けなかったもの。

先生から、他者のノード回帰の時に私側には影響が及ばないと言われたこと、そこと神々の審議会のフレーズが重なった。

少なくとも、私側は星の影響を元々ものすごく受けやすい。

それは過去の冥王星の動きを分析すると出てくる。

例えば、過去の冥王星の主だった転換期の配置は、

・学校での強烈なイジメに遭う時
→人間関係のテーマに冥王星がin

・社会人になって児童養護施設の勤務を開始した時
→深い人間関係又は共同体の中で大切な何かを継承するテーマに対して冥王星がin

・病気の人を手かざしで治すヒーラーの先生に初めて会った時(=私の人生の道の最初の突破口みたいなもの)
→スピリチュアルな世界に対して学びを深めるステージに冥王星がin

ノロノロとしか動かない公転周期249年の冥王星が私のホロスコープ上の主要な切り替わりの部分を通る時には、上に書いたような劇的なことが起こる。

冥王星が特定のテーマに関わると、「破壊と再生」が起こる。

先生いわく、冥王星の影響というのは、草一本残さない、そのぐらい徹底して破壊して地ならしをするそう。

だから、言われてみたらたしかに、「破壊」と呼べるような出来事がわんさかやってくる。

どの時にも共通して言えるのは、自己の破壊( ̄ཀ ̄;;)。

一度は破壊されるけれど、古い価値観が叩き壊されて、そしてその後はより生きやすくなる価値観(←再生部分)がもたらされる。

ただ、冥王星、容赦ないよという感じ( ̄ཀ ̄;;)。

だから、その冥王星の影響が、他の人は知らないけれど、私の場合は過去子ども時代にさかのぼってもわかりやすく出ているから、元々影響が出る体質というか人生の性質みたいなのがあると思う。

他にも私は元々他の天体たちからも影響を受けやすい配置を持っていて、それは過去にたくさん調べたから自分でもわかる。

だけど、その人とのことに関しては、その色々影響を受けやすい私よりもむしろその人のホロスコープの方が強く関係していて、私の方は若干「ついで感」が否めない。

だから、自分だけで説明しようとすると、ちょっと無理な部分もある。

だからこそ、先生がノード回帰の影響を説明してくれた時、本来なら私には影響がないのがセオリー通りで、私が体験したようなことはある意味イレギュラーだと思う。

だけど、それらが「神々の審議会」なるものが裏で関与しているとするなら、あぁなるほど…と思う。

一番証明の仕様がない説明になってはしまうけれども、私の中で一番しっくりくる説明になる。

私からしたら、そういう次元の話なんだと思う。

いい年した大人たちがこの訳の分からないことにいつまでも片足を突っ込んでいて抜けようとしないこの状況、おかしすぎるけれども、私もまともだとはただの一度も思ったことがないけれども、これなら納得できる。

ほんのりとでも「そうなら仕方ないか」と思える。

私が「神々の審議会」なるものに抱いたイメージは、魂のテーマの中でも最も重要な内容を審議する場所なんだと思う。

例えば、今日の夜何を食べるとか、1ヶ月後に友達と会うならどの店にするとか、そんなことではなくて、誰と誰をどういうタイミングで引き合わせたり引き離したり、又はどちらにしてもどういう学びを目的としてその状態をもたらすのか、そんなような内容が決定されるみたいなイメージがある。

なぜなら、近くにいたら近くにいたで体験することがあって、離れたら離れたで体験することがまた別にある。

そして、見た目には何の絡みもない2人が、相手側はさておき私側は尋常じゃない影響が出まくっていて、これは何ですか??状態になっている。

想定外に期間がズルズルと長引いていて、この終わりの見えない、消えそうにもない、着地点も向かう方向性もさっぱりわからないみたいな状況にこれまた長く居座っている。

神のみぞ知る…、そんなレベルで、私には手も足も出ない。

私の中では毎回絶句するほどのピンポイント率で空の星模様が私の現実に色々影響するのを見て、私の中でホロスコープはすごいツールだと感じている。

そのホロスコープでさえも導き出せなかったようなものすごい勢力を持った影響がその人を通じて出まくっていて、それは何だろう…?となっていた。

だからこそ、「神々の審議会」はピッタリなフレーズだなと思った。

そして、「無理矢理推し進めようとしてはいけない」とかいうのが、まさに!という感じ。

正しくは、推し進めたくても、そんな風に思い通りになんか何一つ進まないのがこの全てにおいて共通していること。




これ何ヶ月か前からうっすらと気付いていたけれども。

神々の審議会の決定なのか( ̄∀ ̄;)、時間の経過と共にその人とわかるサインのようなものがまどろっこしいものではなく、もっとわかりやすいサインで来るようになった。

時間が経過するとわかるけれど、例えば一時期ある広告をやたらと目にしていた時期が続いた。

その人の持ち物がそっくりそのまま広告になっていたけれども、それは気のせいだと思っていた。

気のせいにしてはほぼ毎日のように見ていたけれども、それも全然違うシチュエーションで見ていたけれども、「気のせい」と思っていないと自分の不安がやたらと引き出されてしまうから、毎回「たまたまだよ、たまたま」と自分に暗示をかけるように言い聞かせていた。(←こんなこと自分で言うのもどうかと思うけれども、本気でそういう暗示とかを全力でやっていた自分はかわいらしいと思うv( ̄∀ ̄)v)。

だけど、ブログを通じての繋がりがわかり出したあたりから、そういうよくわからないサインは消えた。

ブログに関しても、私としてはそれがこっそりでもいいから読んでもらえてるとわかるのは単純に嬉しい。

特に私側が意図して書いたものがピンポイントで読まれるのは、きちんと伝わったと知れて、私にしかわからない安心感みたいな、心の中の深いところに何か小さな小さな絆みたいなのが注ぎ込まれるみたいで、私的には気に入っていたりする。
(ちなみにツボがいまいちわからない記事が何で繰り返し読まれるのかはさっぱりわからない( ̄∀ ̄)。そんなに面白いのかと思って読んでみたけれども、私にはわからなかった。)

今日、この間初めて見た石坂浩二声優としての主演劇場版映画『歎異抄をひらく』のCMを見た。

最初に見た時に、その時は心身共々疲れ切っていてテンションがおかしかったところにたまたま一瞬だけど見て、それ見て心の落ち着きを取り戻すキッカケになったCMだった。

今回が2回目のCMで、前回は見逃した内容を今回は落ち着いて見ていた時だったから、しっかりと見れた。

【誕生と再生の物語】がテーマらしい。

【誕生と再生の物語】という部分が私にはしっくりときた。

そのCMも私にだけわかるサインが含まれていた。

だけど初めて見た時は、細かいところまではわからなくてそのままになっていたけれど、時を経て再度見たら、もっと深いメッセージが奥にはあった。

普通ならスルーするCMも、その人がひと絡みするときちんとメッセージが届くんだから不思議で仕方ない。(←メッセージはそれこそ本人じゃなくて、「神々の審議会」からだと思う( ̄∀ ̄;))




今回東京に向かった日の深夜、バス停に着いて駐車場に止めた車から降り立つと、半月が見えた。

天気悪かったのに、その時だけくっきりはっきりと半月が見えて、そして駐車場からバス停までの1〜2分の道の途中でまた月は雲に隠れた。

半月を見て、真っ先にその人と私の関係みたいだと思った。

人間の目で見て、半月は月が半分しか見えない。

それは月が欠けたように見えて、まさか月自体がいつでもまん丸だなんて、私は学校で月について学ぶまで知らなかった。

それまでの私は、月の方が勝手に姿かたちを変えるのかと思っていた。

月は、見えている明るい部分も見えていない暗い部分も両方常に持ち合わせている。

どちらか片方なんてことはない。

両方があってひとつ。

その人と繋がっていると思うのは難しいことだった。

今だって書いてて「本当に!?」と相変わらず疑いの目が晴れない。

だけど、見えないところで多分ものすごく繋がっていて、そして今は半月で見えない側の方しか見えてないから疑いまくりだけど、本当は明るい方、すなわち見える形で繋がることもあるのかもしれない…なんて思った。

それは「神々の審議会」という言葉に出会う前のことで、でも半月を見てものすごくそのように強く強く思った。

それは単なる私の願望と言われたらそれまでだけど、この普通ではない繋がり方は何の意味もなくて繋がったというよりも、何かあるから繋がったと私は思っている。

そして、そう思う1番の理由は、この会えもしないやりとりもできない、何一つ目に見える繋がりがない何百日と過ごして、いざという時になると本当にその人だとわかる何かを知ったり、本当にこれ1人で抱えるの!?という超辛くて仕方ない時にその人の名前とかを耳にしたり、それをものすごい数で体験して「繋がっている」と感じた。

今回も今回で、その人はその人なりに色々動揺したんだろうなぁと勝手に思った( ̄∀ ̄)。

勝手にというか、そうだろうと自分のブログの統計を見てそう思った。

その人しかさかのぼって読まないだろう記事が何種類かある。

その中でも特に「ここぞ!」という時に読むだろうものがある。

ここぞという時というのは、ハッピーな気分の時じゃなくて、それとは反対の種類の気分の時を通過しているだろう時。

私の妄想力もここまでくるとあっぱれだなと思うけれど、本当にこれだけ時間をかけると過去には知り得なかった未来に辿り着ける。

そして、色々分析できるぐらいに、たくさんの事柄が積み重ねられた。

私がひたすら書き続けたように、その人はその人で自分の気持ちに沿って気になるものを読み続けてきたんだと思う。

この記事の後、eat LOVE邸におじゃまさせてもらった話が続いていく。

この話とeat LOVE邸はある意味同時進行的だったから、どちらが先にきても良かった。

最初なんとなく、スッキリした気持ちでeat LOVE邸のことを書きたいから、これを先に書こう…と思った。

でも書きながらわかった。

こちらを私が最初に書きたいんだと知った。

eat LOVE邸メンバーは別にすぐのすぐに書かなくても待ってくれる。

むしろ書かなくてもそれを気にしたりはしない。

だけど、こっちは、こうやって少なくとも私が口にしなければ永遠に伝わらない。

私が口にできることは、少なくとも文章に興そうと思っている。

今回の東京行きはこれまでとは違った。

これまでは次に行く時が定まっていて、もしくは未定でもある程度のスパンを空けてでも行く予定があって行っていた。

今回は最後と知って、そしておそらく先生はもう講座を開催しないことも何となく感じた。

中級講座は先生の方もやろうかな…と元々口にしていたから実現したけれど、これ以上はもう多分しないんだろうなぁと思った。

私にとって占星術講座に行くのは、裏側ではその人との物理的距離が近付く意味もあった。

それがなくなった今、もう本当に近付くこともないんだなぁと静かに思っている。

強制ではない最後の宿題をネットで先生に送ったら終わる。

それを聞いて「先生の中で次はない予定でいる」ことを感じた。

だから今回はこれまでとは全く違う気持ちで東京に向かっていた。

「神々の審議会」のメッセージ以外は相変わらず音沙汰もなく新潟に帰ってきたわけだけど、私の中ではこれまでとは違っていた。

今後突発的な何かがなければ、名古屋にいた頃のように、何年も東京に行かない、そんなことも普通に今も可能性としてある。

私は過去に一度も「遊びに行こうかな」という理由で東京に出かけたことがない。

元々用事がなければ、東京に限らずどこにも行かない超インドアな私は、基本的に用事をベースにしか動かない。

占星術に関しても、私が占星術をどのように活用したいのかがはっきりしてきたから、もうしばらくは講座を探してでも行きたいと思わない。

反対に今は、自分が「これだ!」と感じた方法をとことん極めたいと思っている。
(ずっと延期になっているけれど、eat LOVE邸の話が終わったら、ホロスコープ鑑定デビューの話に移行しようと思っている。なんなら、姪っ子との記録簿もまだあるし、5月にさんざん具合を悪くした喉の不調話もまだ書き途中のままになっている…。)

そんな風だから、しばらく学びは独学中心になると思う。

独学というよりも、自分のスタイルを確立するためにむしろ学びじゃなくて今度は実践を増やしていく時期に入りつつある気がする。

それはすなわち、学びのために外には出ないということ。

最後の最後まで距離は遠いままだったなぁと思う。

話がどんどん逸れてきたけれど、物理的距離はこのまま一生埋まらない気がする…と思いながらも、私は私で伝えたいんだなぁと思った。

伝えたところで、神々の審議会レベルのことじゃ私個人ではどうにもできないけれど、それでも伝える手段があるうちは伝えたいと思っている。

これは東京にいる間に限ったことではないけれど、とにかくその人の存在が自分の中から抜けない。

これはeat LOVE邸メンバーと蜜月な魂ミーティングを開いていた時でさえそうだった。

いつもに比べたらすごくマシだったけれども、それでもゼロになんか絶対にならない。

自分でもその人が別格なのはわかってる。

eat LOVE邸メンバーは間違いなく「魂の家族」って感じだった。

想像していた以上にすごい集いで、生涯を通じて忘れられない時間と出逢いになった。

そうなんだけど、その人はまた全く異次元に存在する人という感じだった。

eat LOVE邸が本当にはっきりとした形の関係を見れるとても貴重な場だったから、余計と真逆の感じのその人との関係が目立ちまくりだった。

「関係」なんて書くことさえ忍びない感じがする。

eat LOVE邸メンバーが満月(=よく見える)だとするなら、その人は新月(=姿かたちさえ見えない)という感じ。

いずれにしても、eat LOVE邸メンバーとは集いが終わった今もオープンなコミュニケーションが取れているけれども、その人とは相変わらず沈黙を前に私も色んな妄想力を働かせて考える…、考えたところで答えなんか出ないからこの全てが宙ぶらりんな状態にまた身を置く…、という流れに否が応でもなっている。

本当はもう何も書かないにしようかと行く前なんかは思っていた。

もう十分すぎるぐらいに書いたし、色々読みたければ過去にさかのぼればいくらでも記事があるし。

そして、相手からの反応が一切ないのに書き続ける自分もどうなのかと感じた。

一番最後の理由がもう何よりも強くて、だから書き足りないことはまた書くかもしれないけれど、当初こんなことをまた赤裸々に書く予定はなかった。

だけどこうして書いたのは、「神々の審議会」という言葉を見て色んなことを思ったのと、そして何よりもその人も気にしていることがわかったからだった。

何を気にしているのかは知らないけれど、その人にしかわからない何かがある。

そしてその何かが何なのかはわからなくても、「何かがある」ことだけは私もわかるようになった。

そして、とてもおかしな話ではあるけれど、その人が読むと知っているから私も書ける。

本当お願いだから連絡してきてと思うけれども(なぜなら、こんな話を公開処刑のごとくここに丸っと書くのは嫌だから)、ただ連絡しない別の意図や理由があるなら仕方ないから、せめて私は私の言葉を綴ろうと思う。

順番や私側の気持ちが色々あべこべすぎるけれど、それにどうこう言っても何も動かないから、私は私の動かせることにだけ集中する。

そして、今は「動かせる」中でもその人にこうして伝えるのが優先順位として一番高いからこうしている。




今、10日ぐらい前に書いた自分の文章を読んで「あ!」となった。

もしかして、eat LOVE邸へ行けたのは、もちろんそこで出逢える人たちがいたというのが一番の理由だったけれど、それ以外にもそうでもならないと私側が限界だったのかもしれないなぁと。

私はもう本当にしばらく、私の中では年単位でのしばらく、東京に行くことはないだろうことを知っていた。

そして、最後の切り札を使った私には、連絡を取る術がないこともわかっていた。

eat LOVE邸へのお泊まりが決まるまで、私は今回こそ本気の孤独を感じに東京に行くんだと怯(おび)えるように思っていた。

ただでさえよくわからないところに最後の印籠が突き付けられて、私は本気で途方に暮れていた。

講座はいいとしても、東京に行くのが怖かった。

もう色んなことが誤魔化せないし言い訳もできない、それを目の当たりにする勇気なんかちっともなかった。

「もう本当に何もないんだから、いい加減認めたら?」と冷静な自分側からの通告もずっとずっと続いていた。

あまりにバタバタとしていて忘れていたけれど、本当はそんな風だった。

そんな時にeat LOVE邸へ招待してもらって、そこで私は命拾いをして、さらには「神々の審議会」のヒントまでもらってきた。

寸前のところで助けられた。

助けられただけじゃなかった。

「神々の審議会」のヒントを得たことで、ストンと肩の荷が下りた。

ずっと肩肘張って、全然大丈夫じゃないのにそういう気持ちをスルーしたり奥に押し込めたりして、本当はどうしていいのかわからなくて途方に暮れてるのに、それさえも抑え込んでいた。

というところに行けたeat LOVE邸で、そしてやさしい気持ちにたくさんさせてもらって、それで最終的に今これを書いている。

それこそ、神々の審議会にかけられて、そろそろ限界だからそこに風穴を通そうと計画されたのかもしれない。

で、これはあくまでも私の予想だけど、私が限界なように相手も相手で何か限界だったのかもしれない。

私は自分が沈黙を保てない人だからわかるけれど、沈黙を貫き通すというのは時に吐き出すよりもうんと力が要る。

もちろん、沈黙を通すのと吐き出すのとどちらが得意なのかは人それぞれだけど、仮に沈黙の方が得意でもそれにだって限界は必ずある。

その人がなぜ沈黙を貫き通すのかは知らない。

だけど、それはもしかして私が思っている以上に忍耐力を要するもので、そして沈黙の裏側では自分との闘いみたいなことが延々と繰り広げられているのかもしれない。

これも勝手な思い込みかもしれないけれど、その人が読む記事たちというのは、多分その中のどこかにその人の代弁的なメッセージが入っているんじゃないかと密かに思っている。

書いといてなんだけど、私は相当意図して書いたもの以外は、何を書いたか基本的に忘れる。

だから、読まれた記事のタイトルを見ただけでは何を書いたのかさっぱり思い出せないなんてこともよくある。

思い出せなくてその記事を見にいくと、はっとなることがけっこうある。

その人は私とは違って、きちんと覚えているようで、本当にドンピシャで特定の記事たちに行き着いている。

それこそこの間、その人の趣味友達的存在のSさんに会った時、何で読んでるってわかったの?と聞かれた。

それは、あまりにもピンポイントでその人にまつわる記事だけが読まれていて、それが直近のことならまだしも年をまたいで全然一貫性のない日付でも、選ばれて読まれていたからだと答えた。

しかもそれが1回2回の回数じゃなくて、かなりな回数で読まれたからこそ、そうだと確信できたことも言った。

Sさんは、そんなことをその人がしてるだなんて想像がつかないと何度も言っていた。

私も全く同感ではあるけれど、これがもし反対に全くの別人が読んでいるとするなら逆におかしな話だということも言った。

仲良しなSさんでさえ想像できないことが現実に起こっている。

もし「神々の審議会」を目にしなければ、今の私が何を書いたか想像すらできない。

何を思って何を感じたか、かなり想像するのが難しい。

これもまたスーパー都合の良い考え方だけど、私が言葉にすることで楽になるのは何も私だけじゃなくて、その人側にも何かしら作用が及んでいる気がしている。

でなければ、こんなに長くて若干?かなり?支離滅裂気味な文章を読めるわけない。

私側の書く作業は、自分だけのためにやっていることだけど、もしかしたらそれがその人にだって何か意味があるのかもしれない。

もしかしたら、私には「無視」にしか見えないものも、その人からしたら「切り出せない」のかもしれない。(←あくまでも「例」で、そうだなんて頭の中お花畑みたいなことは思っていない。)

いずれにしても、決定的な地理的距離感やこの相変わらずの音沙汰がない状況はもうどうにもできないけれど、少し前の切羽詰まった感じは少し和らいで、代わりにこれまでとは少しだけ違う視点(神々の審議会)が入ったことで見え方も本当に少しだけ変わった。

ちなみに「神々の審議会」などと聞いて100%理解できるような物分かりの良さは持ち合わせていない。

ぶっちゃけ、細かいことはどうでもいいから「連絡ちょうだい」と思っている( ̄∀ ̄)。




[写真]
・『光の書』のメッセージ

・赤いかわいい缶が例のオリジナル占いグッズが入っているもの

・猫ちゃんがメインみたくなっているけれど、メインは猫ちゃんの右横にある小さなカケラたち

2019年6月26日水曜日

夜のピクニック









夜のピクニックを今東京駅の目の前ぐらいの場所でしている。

メニューは、
・おにぎり 大麦スーパークリームチーズおかか
・メンチカツバーガー
・焼き鳥の皮(たれ)
・レモン味のスパークリングウォーター

今回の東京旅は楽しすぎた。

人生の中の贈り物だった。




今回は贈り物を受け取るために、占星術講座の前日の朝早くに東京入りした。

朝の5時台に池袋で降りて、モーニングのお店が開くまで20代の頃に時々使っていた公園でしばらく時間を過ごした。

普段自分が頑張ったとか、よくやってるとか、ここまで本当によくぞ歩み続けたなとか、そういうことは思わない。

だけど、今回は本当にそのことをとても強く思った。

自分の人生は、20代半ばくらい、今から15年ぐらい前には全く想像もできないところに辿り着くことになった。

当時から今を思うと、本当に想像だにしていなかった今になっている。

ここに今いる自分を見て、周りからは90%以上理解されないものでも、私1人だけはそれをずっとそばで見ていて、「なんか色々がんばったな」と思った。

茨の道というよりも、道さえあるのかないのかわからないまま、先も見通さずその時その時で選んで、もしくは選びたくなくても勝手に色んなことが流れて込んできて、時間をものすごいかけて亀の歩みのような感じでひたすら自分との闘いみたいな、そういう時間だった。

そしてその時間を何だかんだと通り過ぎることができた自分を想った。




そんなことを朝思って、モーニングでは一切手をつけなかった宿題を広げたら、いきなり寝落ちした。

そもそも、宿題のための資料を忘れて(←今回は色々楽しみすぎて4時間以上かけて準備してたにも関わらず…)、それも加わってさらにやる気が失せ。

そうしたら、見ても意味がわからなくて、寝落ちした。

前回の講座の内容はすっぽりと抜け落ちていた。

気付いたら、自分の前に座っていたお客さんが変わっていてビックリした。

もう頭さえ働かないと思って、早々と宿題はあきらめた。

過去最低の宿題完成度だったけれど、実際に講座に行ったら、できてなくても問題なかった。




10年ぶりぐらいに立ち寄った新宿には驚きつつ、ペンジュラムがこっちだよと教えてくれた大型書店に行った。

後から意味がわかった。

その書店に、いつか買うだろう未来の占星術の本の見本があった。

他の書店を見て知ったのは、通常ビニールでパッケージされてて、中が見れない本だった。

その中身がきちんと見れる本で、中身見て「これいつか手にするな」と思って帰ってきた。

新宿の駅前の花屋さんではもうひまわりが咲いていて売られていた。




時々ノムとやりとりしながら、電車の乗り方や時間を確認して、いざeat LOVE邸の聖地へと移動した。

eat LOVE邸での、ノム(占星術講座のクラスメイト)とミッチー(ノムのパートナー)とレイさん(ノムたちの大家さん)との時間は改めてまたすごい長文のブログで書きたい。

書く前から「長くなる」と確信できるぐらいに濃密だった。

私が1年前の5月に、今の占星術講座に初めて行った日のことを私は「夢の国」と題した。

その時は単純に非日常の世界を「夢の国」と呼んだに過ぎなかったけれど、それは最後「愛を食べる」ことに変わった。

本気でそれは人生の贈り物だった。

さっき、eat LOVE邸でパシャパシャ撮らせてもらった写真を見ていて、涙が出てしまうほどだった。

その人たちが、その人たちとの時間が、その人たちとの空間が愛おしかった。

大人になって、しかも40歳になってから、血縁でもない人たちと家族より濃密な時間を過ごせるなんて思ってもいなかった。

愛って食べれるんだなと知った。

そして、本物の愛は、もうそこから離れてそれぞれがそれぞれの日常に戻っても、何度でも思い出して食べ続けられることを知った。

今回だけは、自分の記憶の中だけじゃなくて、道具も使って瞬間瞬間を記録してきて良かった。

37歳と40歳と43歳と51歳とで織り成す、魂の家族の集いみたいだった。

その時がもしもう二度と訪れなくても、私は一生忘れない、そういう時間になった。




最後の講座が終わって、質問タイムのカフェタイムも終わった。

私は電車の中で日傘を忘れてきて、すべて終わった後、地下鉄の改札の駅員さんがいるところに行くことになった。

道がパッパラパーすぎて、ノムにお願いして降りた駅まで一緒に行ってもらった。

私はそれだけで十分だったのに、ノムは「僕も付き合うよ」と言って、問い合わせしてる間もずっと付き合ってくれた。

結局見つからなくて、それでもノムは最後の最後まで付き合ってくれた。

今日はその後大事な約束があるのも知っていたから、全然私はいいから行ってもらって良かった。

でもノムは、「大丈夫だよ。それ終わってから行くでも間に合うから」と言った。

そうやって最後まで付き合ってくれて、最後は銀座駅の改札前にいて、私は改札で見送る気満々だった。

「ノム見送るから行って!」

「いや、僕が見送るからぶっしー行って!」

そう言われて、ブンブン手を振って最後別れた。

東京に行く用事も完全になくなった私は、次いつノムに会えるかはわからない。

だけど、またいつか会えるんだなと心でわかりながら、私は背中を向けて歩き出した。

ちょっと歩いてからクルッと振り向いて、ノムも改札に向かって歩いてるのが見えた。




少しだけフラフラと目に飛び込んできた個人書店に入った。

そこで見つけた、初めて目にした多分最近の吉本ばななさんのエッセイには、今の私にピッタリの言葉が書いてあった。

今日ミッチーが運転する車の中で、ノムが吉本ばななさんの本を助手席から後部座席の私に向かって見せながら手渡してきた。

なんとそこにはばななさん自身のサインが書かれてあった。

知り合いがばななさんのトーク会のチケットが1枚だけあるから行かない?と聞いてくれて、行けることになった時のものだと言った。

サインをもらった時、すごい手にエネルギーを感じて、その後10分くらいずっと手が痺れてたと教えてくれた。

羨ましすぎてすっかり見落としていたけれど、ノムはその本を私にわざわざ見せてくれるために持ってきてくれたんだなとわかった。

書店では新しいノート1冊を購入した。

その1冊は、私のホロスコープ鑑定デビューの鑑定代から出した。

何のノートになるかは知らないけれど、とても大切な1冊、生涯を通じて一度しかない買物で手に入れた1冊になることは間違いなかった。

その後東京駅前の丸善に行った。

ホロスコープの広辞苑みたいな定価1万円以上する本が、なんと初めて封が切られていて読めるようになっていた。

本当に良かったらいつかは手に入れようという1冊で、でも絶対に中身が見れなくて、買う買わないの判断ができずにいた。

それが奇跡的に開いていた状態で置かれていて、私は迷わず手に取って、重たいリュックに重たい広辞苑みたいな本という組み合わせで少し読んだ。

これもいつかの買物リストに入れた。




時間が中途半端すぎてどうしようかと思ったけれど、丸善が入っている建物の前は1人で静かに過ごせると知って、それで夜のピクニックを決行することにした。

コンビニで買物して、それで良さそうなところに座って、ピクニックを始めた。

風が適度に涼しくて、1人の世界にどっぷりと浸りながら1人ピクニックを始めた。

色々感極まって泣いていても、誰にもバレないのが良かった。

21時間限定のeat LOVE邸の写真を見ながら、それぞれを美味しくいただいた。

そして、食べ終わってからこれを書き始めた。

途中で、サラリーマン風の20代から30代前半ぐらいのゲイカップルと思しき男の人2人が腕を組みながら楽しそうに私のすぐ近くを通り過ぎて行った。

もしかしたら、初めて街中で男性同士が腕を組んで歩いているのを見たかもしれない。

2人を見ながら、ノムとミッチーを思い出した。

2人とも腕こそ組んではいなかったけれど、お互いがお互いをお互いの方法で大好きなのは本当によくわかった。

2人の様子も近いうちに書いてアップできるのがとても嬉しい。




移動するのに良い時間になって、東京駅前を通過してバス乗り場に向かった。

高いビルの横には、すごい明るく光る星があって、土星か木星だと思いながら昨日の夜のことを思い出した。

ミッチーが外に出た時、流れ星が見えたと言ったことから、ミッチーとノムとレイさんと私の4人でしばらく流れ星待機をした。

4人で首が痛くなるほどに星を静かに見上げていたことを思い出した。

時々ないね〜などと言いながら、東京の夜空とは思えない星空を4人で見続けた。

新幹線のレール下辺りにある居酒屋街みたいな道を歩いている時だった。

女の人の後ろ姿が目に入って、見覚えのある髪型だった。

今日講座が始める前に一瞬だけトイレの前ですれ違った私と1日違いの誕生日の子の髪型に似ていた。

最初は気のせいかと思ったけれど、よくよく見ると、もう1人は背の高い別のクラスメイトに似ていた。

まさかと思ったけれど、私はバス乗り場に向かうのをやめて2人を追いかけた。

やっぱりそうで声をかけたら、2人も超絶ビックリしていた。

今日は魂のご縁的な話も質問タイムの時に盛り上がったから、1日違いの子がまずは「ソウルグループが一緒だから、こういう強いご縁があるんだね!」と言い始めて、私たち3人でそうだそうだとひとしきり盛り上がった。

あとよく見える星は木星だと教えてもらった。

普通にはありえない偶然だったけれどもとても嬉しかった。




東京にいるうちにこれをアップできて嬉しい。

また家に帰ったらゆっくりと今回の旅について書きたい。

本人はどの程度自覚があるのか知らないけれど、想いとか念って本当に相手に届けられるんだと思う。

今回制服こそ見なかったけれども、下の名前だけなら多分両手使わないといけないぐらいの回数耳にしたり目にしたりした。

会えなくても繋がってる気がした。

もはや私の気のせいでもなんでも良くなった。

その名前を目にする耳にすることで私の中に温かいものが広がるなら、もうそれが何であっても「良い」とわかるから、今はそれを受け取ればいいんだと思った。

そう思えるだけのメッセージを、ノムの家で私がどうしても見たいと前々から言っていた本からもらえることになった。

それもまた順にブログに書こうと計画している。

本人も気になってることもわかったから、せめて今私が感じたりしてることはまた書こうと思う。



夜のピクニックの途中、そういえば私の斜め前くらいを外国人2人組の男性が通って会話が聞こえた。

「was able to survive」

生き残ることができた。

写真の中に入ってる高尾山の広告は、今日電車の駅のホームで見つけたもの。

紫陽花は京橋の近くで見つけた。

東京駅のごく近い土壌でも紫陽花が育って大きく咲き誇る様には感動した。

紫陽花は大地に根付いたら、毎年花が咲く。

こんな大都会のビルの一角にも紫陽花が咲くんだと嬉しくなった。

バス乗り場近くで見たのは「はじまり」と書かれた英語の単語。

これが東京を出る直前に撮った最後の1枚になった。


2019年6月24日月曜日

絶望の向こう側

eat LOVE
(↑クリックするとリンクに飛びます)


私はeat LOVEを初めて読んだ時、その中に登場するNさんとパートナーのミッチーの関係がものすごく羨ましくて仕方なかった。

そして、その関係を手にできないだろう自分と自分の人生にどこまでも絶望した。

それから数日が経って、その間に色んなことを記事にしてアップした。

書いていくうちに色んな気持ちが出てきて、そして私は「私が伝えたいのは、“絶望”の部分じゃなくて、その裏側の“希望”の部分」だと気付いた。

どういう文章に仕上がるのか自分でもわからないけれど、心に浮かんだままの言葉をなるべく忠実にまっすぐに出していこうと思う。




一番直近で出たことから。

「絶望って何だろう?」って考えた。

絶望する時って、望みがないとか先がないとか、とにかく「ない」ことに焦点が当たっている。

じゃあ何に対して「ない」のか。

それは何かと比べて「ない」わけで、初めからなければあるもないも考えない。

例えば私はスーパー運動音痴なわけで、私が100mを10秒切れなくても「絶望」は絶対にしないことがわかる。

宝くじで1億円当たったらいいなぁなんて思うことはあっても、当たらなくてもこれもまた「絶望」しない。

だけど、eat LOVEを読んだ時、私は激しく絶望した。

それは、私には絶望するのと同じくらい、望んでいること、切望していることがあるということ。

絶望する時というのは、その裏側にそれと同じくらい何かを強く望んでいる、自分の中の強烈な望みがある。

それが叶わないとか叶いそうにもないとなるから、絶望する。

私はこの数日でちょっと考え方が変わった。

捉え方と言ってもいい。

基本「絶望」は、別に今日でも明日でも明後日でもそれはとても上手く絶望できる。

ものすごく上手い。

練習も特に要らない、すぐにできちゃうから。

だけど、自分の本気で望んでいることに真摯に向き合う、叶う叶わないを考えるんじゃなくてその望みに対して「これが私の望み」だと自分に対して宣言する、これは超勇気が要る。

頭の中のおしゃべりは止まらない。

「だってそんなこと望んだって叶わないじゃん」とか。

「そんな無茶な望み、望むだけ無駄だし、自分が傷付くじゃん」とか。

そういうおしゃべりたちのせわしなさと否定力の強さと言ったらない。

絶えず否定し続けて、自分が何を望んでいるのかさえ、もはやわからなくする。

だけど、今回はなるべく忠実に、自分の中で超望んでいることを素直に書けたらいいなぁと思う。

絶望ではなく、切望しているものを、ストレートに綴りたい。




これは、目にしたのが多分この1ヶ月とか2ヶ月くらい。

何回か目にして(発信者は毎回違う)、これもしかしてその人もそうなのかな…と気になった内容だった。

書いてあった言葉だから、とりあえずそのまま書く。

「愛されるのが怖い」

こんな自分の何が良くて相手は自分のところに来るのか。

自分のダメなところを見たら相手は幻滅して自分の前からいなくなるんじゃないか。

今は自分のところに来ていても、いつか嫌になってその人も自分の前から去るんじゃないか。

そういうのが「愛されるのが怖い」のもっと翻訳したバージョンらしい。

ちなみに怖いとどうするかと言うと、無視したり避けたり怒ったりして、自分と相手に距離を置いて自分をなんとか守ろうとするらしい。

誘いは断っても長くて何が言いたいのかよくわからないブログは読む、という行動は何なのかとずっと思っている。

本気で嫌な人の誘いなら断って終わりで、さらにそんな人の書いた文章を読むなんて苦行以外の何ものでもない。

繋げて考えるのは難しいから、とりあえず別々に見てみると、読むことは何かその人にしかわからない理由があるんだと思っている。

その部分と「愛されるのが怖い」症候群みたいなのが、なぜか重なる。

私は過去に一度、ものすごく愛された体験がある。

その時の自分を重ねると、「愛されるのが怖い」というのはよくわかる。

大真面目にいつも、相手の人は頭のネジが100本ぐらい外れてるのかと思っていた。

私の何がいいのかもわからなかったし、私が色々やらかしていてもその私ごとOKにしてくれる、菩薩みたいな人だった。

その時のことを思い出すと、「何でこんな私なのに大切にされるのか」の意味がわからなかったし、正直怖かった。

自分の自信のなさはそういう不安とよく結びついていた。

もしかしたら、その人から見て私がのこのこと近付いてきたのも、それに近い怖さが裏側にはあったのかもしれない。

その人ばかりじゃないけれど、その人も例外ではなく自分の良さがよくわかってない風だった。

すごく良いところをたくさん持っているのに、その人は多分その良さを自分でわかっていない感じがする。

そして反対に「この部分が俺ってダメなんだよ」と思っていることにたくさんエネルギーを使ってしまっている気配さえ感じる。←完全に私の主観。

私は嘘は書いてないけれど、もしかしたらその人は自分に向けられている好意を信じられないのかもしれないなぁ…なんて思った。←これも完全に私の主観。




この1ヶ月くらいで何度か頭をよぎったことを書く。

いつかのブログに書いたこと。
↓↓↓

ツイッターを見ていて見つけた言葉。
(「ヒャダインこと前山田健一」さんのツイッター)
山ちゃんと蒼井優が結婚発表した後にたまたま見つけたツイッター。

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このツイート(↓)の「友人」は蒼井優でした。いい話だなー。

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「『誰を好きか』より『誰といるときの自分が好きか』が重要らしいよ」
と友達が教えてくれて、その通りだなあと思ったので書いておきます。

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このツイッターを読んだ後にふと出てきた。

ペンジュラム絡みの過去世で関係があったと思しき私の毎日の生活で近くにいた少年は、今世ではイケメン上司として私の前に現れた。

イケメン上司は、私からすると色んな良いものを持ちすぎていて、「高嶺の花」と私が言ったのは本当に冗談抜きで高嶺の花で、自分が本気で「不足している自分」や「色んなものが欠けまくりな自分」を否が応でも感じずにはいられない状態だった。

言うなれば、私がコンプレックスを感じやすいいくつかの部分において、彼は見事にそれを全て持っている人で、私からすると「不釣り合い」以外の何ものでもなかった。

もちろん私だけが持っているものもあるとは思うけれども、私の持ち物は人によって評価が変わるものだから、決して「良い」とは限らない。

下手したら、人によっては「それだから嫌なんだよ」となる可能性だってあるもので、だからどこをどう切り取っても、自分の中で「こんな自分は人に見せたくないな」の部分が刺激されまくっていて、それを思えば思うほど相手と釣り合わない自分がより鮮明に浮き彫りになって、それですごく嫌な気持ちになるものだった。(←この辺りは被害妄想激しめなのも手伝ってより一層タチが悪かった。)

なんだけど。

私は1つだけすごいできることがあることに気付いた!、あの蒼井優が言っていたというツイッターを読んで。

私はその人のことを自分が幸せにできるなんて全く思わないし、むしろ迷惑かけまくりなんじゃないかと思ったり、もし一緒にいられてもその人は果たして幸せなんだろうか…みたいなことはものすごくたくさん考えた。

どれも無理に思えて、だからごはん誘うのだって、初めから色々無理すぎるお願いをして、仮にOKもらってもさらにそれで相手が「いやー(汗)、いいよなんて言わなきゃ良かった(激しく後悔)」みたいな感じに感じたらどうしようかと思った。

その手の心配だけは山ほどしていた。

そういう意味では、相手が断ってくれたのはある意味良かったというか、私が心配していたことは何1つとしてやらかさずに済んだから良かったとは思った。

なんだけど、そのツイッター見た時に確信した。

相手に何か良いものを渡せる自分なのかどうかはわからない。

だけど、相手といられるだけでしあわせを感じられる自分のことはものすごく容易に想像できた。

その人といられるだけで私は間違いなくしあわせを感じてるだろうなぁって、それだけは真っ直ぐに信じられた。

相手に私のために何かして欲しいとか、私を幸せにして欲しいとか、そういうのは多分ほとんどない。

強いて言うなら、一緒にいてくれることを選んでもらえたなら、それだけで私は一生分のしあわせをもらったも同然だと思っている。

その人といられたら、自分がしあわせでいられることの自信だけはなぜかたっぷりとある。

そんなの素性をよく知らないから言えるのかもしれない。

でも多分大丈夫って思ったのは、自分の中にある感覚が自分にとって大丈夫だから。

その辺りの感覚がダメな人は、どうやってもダメなのがわかる。

生理反応みたいなもので、例えば苦手な音はどうやっても苦手なのと一緒で、それは克服できない。

私は人に対しての好き嫌いが実はかなり激しいと思う。

表には出さないだけで、けっこう苦手な人というのが多い。

その苦手な感じは言葉で説明できない。

その人にもたしかに苦手意識はあった。

でもそれは、自分のコンプレックスが刺激されまくりだったり、男の人全般に対して過剰に防御する部分だったり、要は私側の反応の問題だった。

それを取り除いて、純粋にその人だけを見た時に、私の中には良い感触だけが残る。

その良さだって言葉では説明できない、無意識の領域で良いって思ってる。

で、その良さを味わっている時の自分は、私にとってすごくしあわせな自分でそして一緒にいて居心地の良い自分だったりする。

だから、基本的な部分が確実に満たされると体感しているから、だから私は迷いなく「しあわせでいられる自信」がある。

その人といる時の自分は、確実にしあわせだととても簡単に想像できた。




これをどうしても今日中(6/24)にアップしたいから、eat LOVEを読んだ時に私が絶望した話をしたい。

そして、絶望から希望に気付いたその話を最後にしてしめたい。

書き足りないことがあれば、また東京から戻ってきてから後日書けばいいかと思っている。←ガッツリ書くには間に合わないとあきらめた。

eat LOVEに出てくるNさんとNさんのパートナー「ミッチー」とが織り成す日常に私は超超超憧れた。

Nさんたちは、かれこれ10年以上一緒にいる。

そして、初めて話を聞いた時から、Nさんがパートナーのことをものすごく大切に想っていることは感じていた。

長い付き合いと聞いたのに、長く共にした夫婦みたいな感じがなくて、どうしてだろう…とは思っていた。

そうしたらその答えがあのeat LOVEに含まれていた。

Nさんからして、ミッチーはとても言葉数が少ない。

日常の中でその言葉数の少なさにヤキモキしているNさんがところどころ出てくる。

その時に毎回素敵なのが、言葉数の少ないミッチーを否定せず、そういうミッチーもミッチーだからみたいに丸ごとOKにしている。

そのままを受け止めて、ミッチーを否定もしなければ変えようともしていない。

自然体のミッチーをどこまでも受け入れよう、理解しようとしている。

反対に、NさんはNさんで、ミッチーから言葉が欲しい自分の気持ちも知っている。

自分がして欲しいこととそれが手に入らない葛藤もそのまま描かれていて、でもその欲しいものを欲しいって望むのは自由だよね〜、みたいなことも書いている。

2人で作る日常をNさんは溺愛している。

ミッチーも言葉は少なそうだしなかなか言葉にしてもらえないもどかしさもあるみたいだけど、ミッチーもその日常を愛してるんだろうと感じる。

ミッチーが作ってくれたものと言って、Nさんが2つほどミッチー作の普段使いするものを見せてくれた。

私はその時はどの程度ミッチーが言葉数の少ない人だとは知らなくて仲良しだなぁぐらいにしか思わなかったけれど、今なら超わかる。

ミッチーもNさんのことめちゃくちゃ大好きなことを。

Nさんの日常を見てなければ作れないものをミッチーはNさんにピッタリ合うように作っていた。

ミッチーはミッチーのやり方でNさんに飽くなき興味を持っていて、同じくミッチーのやり方でNさんを大切にしたいんだとわかった。

本気で愛がなかったらできないことだとわかる。

ヤバイ、涙腺崩壊する。

2人の日常は、小さなこと1つも逃さずに大切に育んでいる。

それも、相手も自分もハッピーでいられるあり方を模索しながら、一瞬一瞬を大切に2人で育てている。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

eat LOVEより


DAY 5:
・なんでもない日常、ゆるい格好ゆるいおしゃべりふつうのご飯。
それは、ぼくのもっとも愛しているもの。
eat LOVE するたびにそれをかみしめる。


DAY 6:
・ぼくは彼のことが好きなのか、愛しているのかよくわからない。
この感情をそんな風に言葉にしてよいのかよくわからない。
ただ、彼との暮らし、ぼくたちの生活をぼくは絶対に愛していると思う。


DAY 10:
・それから12年。ぼくは今も彼といる。
毎日おはようってぼくは彼に言っている。
彼はおはようっていったり、ちょこっと会釈するみたいにしたり、
目だけで返事してきたりまちまち。
その態度に、なにそれ、と不満がわいたり、
挨拶を交わせることに幸せをおぼえたりぼくの感情は一定ではない。
その不安定さは、彼を今日も好きという証なのかも。

・彼との関係に特別な目的も目標もない。
ただ、ただ、大切なものを恥ずかしげもなく大切にしていくこと。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




こうしたNさんとミッチーの日常をカメラの向こう側と文章とで知った時、私は羨ましいのと同時に絶望した。

私が望んでいる日常やしあわせってそういうものだった。

すごい特別な何かを日常に求めているわけじゃない。

もしかしたらすごく難しいことを求めているのかもしれないけれど、Nさんの日常を垣間見て、それが実現できている人がいるということに希望を持った。

希望もありながらも、それが叶いそうにもない自分の日常に涙が出た。

ふと、夏の終わりと秋の始まりが入り混じった時にタイムスリップした。

ごはんさえ行けないと言われた私には、その日常を紡ぐというのがとんでもなくハードルの高い、一生叶わないものなんだと実感した。

ごはんを誘った人は、Nさんかミッチーかと問われたら、ミッチーにすごく近い感じがした。

なんだけど、ミッチーとNさんは相思相愛で2人で2人の作品=日常を日々繋ぎ合わせて何かを紡いでいる。

色んな感情がそこに織り交ぜられて、2人だけの世界がそこにあると思う。

言葉の少ないところは多分似ていても、ミッチーとNさんのように私はその人と何かを生み出すとか、生み出さなくても交わすとか、ただおいしいものを一緒に食べるとか、そういうことがないんだと思ったら、私には絶望以外何も湧かなかった。

ミッチーが自分の人生の中でNさんといるという決断をしたようには、私はその人から選んでもらえないんだと明らかになった。

そこにさらに追い討ちが来た。

Nさんが「うちに泊まりに来ない?」と誘ってくれた。

これは超絶嬉しいお誘いで、私はもはや何の目的で東京に行くのかわからないぐらいだけど、二つ返事で行きたいと返信した。

これは棚ぼた的な超ラッキーなことで、元々講座のある日に講座終了後にまたどこかでおしゃべりをしようと計画した。

ところがその日にNさんはどうしても外せない用事が入ってしまって、でもぶっしーともゆっくり話したいしと言って、それで私に前日から東京に入って泊まりに来ないかと誘ってくれた。

だから、私はeat LOVE邸へお泊りできるというスーパーゴージャスな計画にのれることになった。

あの写真や文章の中だけに存在している世界を私は目の前で見れるだけじゃなく、あの2人と一緒に、さらに2人が大好きな大家さんとも一緒にごはんを食べながら語り合うみたいな、もう超超超楽しみな時間への切符を手にした。

Nさんの誘いが追い討ちなんじゃない。

追い討ちなのは、私の心の中だった。

eat LOVE邸の所在地は、私がその人と訪れたいと密かに願っていた町で、まさか今回こんな風に行くことになるとは思ってもいなくて、だからすごく楽しみなのと同時にすごく寂しい気持ちも隠しながら行くみたいな、なんとも不思議な感覚の中で向かう。

行くなら行くで、その町に初めて訪れるならその人と行きたかった、という単なる私個人の野望が叶わなかったというだけのこと。

「だけのこと」では私の中では済まなくなっているけれども、でもどうしたってひっくり返らない現実と、どうしたって叶わない自分の願いと、それとは別にまさかの展開で叶えられることになったeat LOVE邸への切符と、複雑な気持ちは今もまだある。

さっきNさんと明日のちょっとした打ち合わせをした。

電車に乗るならどの車両が良いか、着いたら地上に出るのに便利なのはそれだからと教えられた。

駅まで車で迎えに来てもらうことになっている。

超嬉しい気持ちと、まさかのその町への初訪問がそんな形で実現するとは思ってもいなくて自分の気持ちの折り合いの付け方と…、まだどこかでどこにしまい込んだらいいのかわからない気持ちがある。

それはNさんたちとの楽しいだろう集いとは全く別の場所で主張していて、私も無視して目の前の楽しみだけに集中したらいいのに、その静かな主張にまだ心が向いてしまう。

自分でもどうしようもないくらい向いてしまう。




追い討ちとセットの超楽しみなお誘いを受けてから数日。

もうあと10時間もすれば家を出て出発する。

今は楽しみにその時を待っている。
(ホロスコープの宿題も待っている( ̄∀ ̄;))

このこともだし、先週Sさんと会って私には永遠にやってこないお誘い話にもだけど、私はどちらにも「絶望」を覚えた。

本当にしばらく悶々としていた。

なんだけど、時間の経過と共に、そして色々書いているうちに、はっきりとわかった。

私は本気で会いたいというのと、それが30分だけのお茶1杯で終わりだろうと駆け付けるのに!!!というぐらい、ただただ会いたいんだなと思った。

いきなりNさんとミッチーみたいな超上級編の日常を共にするとかを狙ってなんかいなくて、ましてやSさんとその人が楽しく集うなんていうレベルも高すぎて狙ってなくて、少しでいいからその人の人生の時間を分けて欲しいんだなと思った。

ガヤガヤしているコーヒーショップや、立飲みみたいなところで全然落ち着かないみたいなのでもいいから、ただ顔見て元気だなと知ってじゃあねでもいいのに…と。

せめてNさんと私とか、Sさんとその人みたいに、友達的な関係を持てたら良かったなぁとそれは今でも思っている。

私の野望はどこまでも果てしないものがあるけれど、私はその全部を揃えたいけれど揃わなくてもそれは仕方ないとも思っている。

でも、そのうちの1つ、本当に小さな希望の1つぐらい叶えてもらえないものかと思う。

↑こんなことを言ったら、余計と重たい人になって会う気がますます失せるかもしれないけれど、本心だから仕方ない。

本気でしばらく東京に行かないこともわかっているから、私は往生際悪くまだ帰りのチケットを買っていない。

予約だけもできないチケットだから、その場でパッと購入するしかない。

チケットはどうとでもなるからいいにしても、このずっとずっといつまでも願い続けたこと、叶って欲しいと祈ったこと、それが何かの形として目の前に現れてくれないかと思う。




eat LOVE邸に持っていく土産を買いに外に出た。

出てすぐに、その人の誕生日の数字を見た。

それを見ただけで、これから向かう東京行きが大丈夫なんだと思えた。

何かを知るというのは、こうしてしあわせやラッキーアイテムも1つ増えるんだと知る。

何てことない数字が、きちんと意味ある数字に変わる。

そういうのってしあわせなことだと私は思う。

底なし沼みたいな絶望もあるけれど、それと同じくらいの強さで小さなことに喜べる自分になれる。

少しだけ時間を分けてもらえないかな…と思いながら東京に行く。

あれこれ重たいことばかりをわたしが言い過ぎたせいで軽い気持ちで会うなんて難しいのかもしれないけれど、本気で会えたらいいのにな…と思っている。

Nさんたちとの楽しい会合の最中でも、自分の何兆とかある細胞のどこかで必ず「会いたい」って私は思っているんだろうなぁと思う。

電車に乗ってeat LOVE邸の町へと繰り出す時も、複雑怪奇な気持ちと共に向かうんだろうことも想像している。

あのよくわからないオカルト的な引き寄せ力を、その人に会うための時間を引き寄せる力にならないかな…と私は本気の本気で思っている。

(一応気になると悪いから言うと、本当に会えたら絶対にブログには書かないから!)

タイトルは『絶望の向こう側』にする予定でいるけれど。

絶望の向こう側にいつもあるのは「希望」だと私は思っている。

希望がでかければでかいほどそれが叶わない時の絶望も大きいけれど、だけど、絶望と常にセットであるのは希望だと思う。

何にお願いしていいのかさえわからないけれど、本気でその人と引き合わせてくださいと願う。

そうだ。

これから得意の墓参り(願かけ)に行こう。

雨も上がったから、希望を伝えに墓参りに行こう。

もう一度会いたいです。

そうお願いしてこよう。

2019年6月23日日曜日

ペンジュラムが結んだ命たち







[写真]
夏至の今日(6/22)、ペンジュラムたちのひもの取り替えをした。天然の草木染めの糸で、10年以上も前に買って、ずっと何に使うつもりなんだろう…と思ったら、未来のペンジュラムのお供になった。ペンジュラムたちにピッタリだった。
水晶(透明の方)のペンジュラムは、最初ひもの部分はチェーンだった。ところがあまりにもペンジュラムが勢いよく回るものだから、ある日ペンジュラムを使っている最中に勢いあまってチェーンが切れた。
それからどれにするか自分の糸やひもコレクションをチェックしたら、その何に使うかずっと使途不明だったひもにスポットが当たって、自分でもこのコンビがすごくすごく気に入っている。
私の中で過去世の小さな男の子だった自分は、こういう自然素材のひもに天然石とか自然の石のペンジュラムをつけていたんじゃないかな…と思っている。
どうでもいい情報だけど、どのひもが良いとか、長さはどれぐらいが良いとか、そういうのは全部ペンジュラムが希望を出してくるから、毎回その通りのものに仕立てている。

木箱は、職人さん手作りの裁縫箱。
その中でペンジュラムのひもを保管している。(←今回クローゼットから出したついでに写真をパチリ)
これを見つけた当初は発売後すぐに完売で、ずっと買えずにいた。
一生に一度の買物と思って、勇気を振り絞ってポチった裁縫箱。
かれこれ10年選手。
裁縫熱はもう復活しなくても、裁縫箱は予定通り一生モノとして使い続ける。

気になる方は「倉敷師匠 裁縫箱」で検索すると出てきます。
私が買ったのは「キナル」という店。
https://www.kinaru.com/fs/sense/kr7




ホロスコープ読み解きの具体的内容を書く前に、まずは長い補足事項を。

つい何日か前、職場で仲良くしていたSさんと会って、Sさんを通じてある人の誕生日を教えてもらえた。

ずっと知りたかった情報だった。

それを知れたら、私に起こった色んな出来事が、私だけじゃなくその人にも影響があったのかどうかを客観的に知れると思ったから、それで知りたかった。

その人の誕生日をはっきりと知れたことで、私はその人のホロスコープと過去の様々な瞬間のホロスコープとを重ね合わせて見てみた。

その人のホロスコープと言っても、生まれた時間と生まれた町がわからないから、きっちり100%のホロスコープではなく、大切な情報がいくつか欠落している状態のもの。

なんだけど、その状態でさえも、ペンジュラムとその人がとても縁が深くて、そしてその人がペンジュラムの能力アップに大貢献しているとはっきりとわかった。

その人のホロスコープを知った中でこれが一番嬉しい発見だった。

本当の本当に嬉しかったし、これまで「気のせいかもしれない…」と弱気になっていたことに、初めてものすごく自信が持てた。

そしてこれこそが「魂のご縁」なんだろうと思った。

動かぬ証拠として、ホロスコープが教えてくれた。

いつそのことに気付いたのか忘れたけれど、去年のある時に、ペンジュラムが能力アップする時というのはその人が必ず関係していることに気付いた。

それも見事なくらい毎回のことで、百発百中の的中率を誇っている。

今回このことを書くにあたってもう1つ思い出したシーンがある。

それも含めて3つもの新しいペンジュラムの動きが最初私の目の前に現れた時、それというのはどの時もその人にまつわる何かが必ずあった。

さらには、去年の秋、山で行方不明になった人をペンジュラムで探すということをしていたまさにその時に、私はその人が祈ってくれたんだろう…とわかる言葉を耳にしたし、ある状況を目にした。

本気で凄い緊張を伴って、そして失敗は許されないじゃないけれど、とにかくたった一度だけ与えられたものをきちんとやる必要があった。

私はこのブログを使って、多分それ一度きりだったと思う、大真面目にその人に向かって、私とペンジュラムがきちんとやれるように祈って欲しいと書いて発信したのは。

届かないかもしれないけれど、万が一私の願い事が届いて本当にそうしてもらえたらめちゃくちゃ心強い。

人命というか人の運命を左右する依頼で、そもそものマインドセットをするのがとても大切とわかりながらも、本当の本当に怖くて私がそんな凄い依頼を引き受けていいのか最後までわからなかった。

それも、内容だけ見たら1人の人の場所探しみたいだけど、今振り返ると1人じゃなくて
複数の人たちの人生における運命的な流れも左右するようなことだったから、私はあれは凄い冷静に考えたら引き受けられるようなことではなかった。

無知過ぎたから引き受けられたとしか言えない。

それぐらい凄まじいほどに硬い気持ちを持って臨んだことで、1人じゃめちゃくちゃ心細かった。

そんな時に「その人」とわかる何か目印のような言葉を耳にするってどれくらいの確率なんだろう…と思った。

その時には、ペンジュラムの力とその人とが関係しているということに気付いていた私は、そんな晴れの舞台の時にその人が応援なり祈りなりをエールのように送ってくれたらとても心強いと思った。

だからそうして欲しいとこのブログで書いてみた。

実際はどうだったのかは知らないけれど、本当にペンジュラムで読み解こうと地図の上にペンジュラムをかざしていた時、隣りの席の会話からその人の当時の役職名が耳に飛び込んできた。

変わった役職名ではないけれど、私はその時以外偶然耳にしたことのない名前で、この間職場で仲良くなったSさんにその話をしたら、「それ珍しいね〜!っていうか、本当によくそのタイミングで耳にしたね!!言われてみれば、私も外で聞いたことないかも」と言っていた。

Sさんは16年勤めた人で、その人がそう言うぐらいだから、本当に普通には耳にしない。

でも、私だけじゃなくペンジュラムにとっても生涯で一度きりの一世一代の舞台の場で、その人だとわかるサインが私たちの元に届くなんてどれくらいの確率なんだろう…。

ホロスコープが指し示すように、やっぱりその人もペンジュラムとの縁が深いんだと思う。

そこを疑いまくるよりもそうだと素直に信じる方が、今の私には心地良い。




1つ前の記事には、その人のホロスコープを無断で作って見て、色々な過去の日々や時間と重ね合わせて検証したことをひたすら書いた。

書いているうちにペンジュラムが来た日とその人のホロスコープの重なりのすごさに気付いて、そしてそれも他の検証した日のように少しだけ書いてアップしようとしてた。

ところが書き始めたら、そんな単純なことではなかったことに気付いた。

忘れてはなかったけれども、どういうわけか他のこととある瞬間のことが全く繋がらなくて、頭の中では別々の思い出としてしまわれていた。

ところが今回、「ペンジュラム」にターゲットを絞って見てみたら、後ろにのけぞりそうになったぐらい、やっと全てのことが1つの線上に浮かび上がった。

きちんと全てが繋がっていて、その中の1つでも欠けてはいけなかったことに気付いた。


・異動を知らされた瞬間
・倉庫で整理してるところに話に行った日
・手紙の日
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・77777の日
・本人最終日の最後の瞬間
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・その人にメッセージを届けるためにブログを再開した瞬間
・短いメール下書きの日


上に書いた箇条書きは、前回の記事でそれぞれの日とその人のホロスコープとを重ね合わせて見えたことを検証して書いたことの一覧。

ーーーーで囲まれた、・77777の日と・本人最終日の最後の瞬間は不可抗力だからとりあえず除いて、その他の部分はペンジュラムなくしては絶対に成り立たないことばかりだった。

ペンジュラムがありえないものを私に見せてくれて、それでそこに書かれたように実際の私やその人が生きている世界にも新しいストーリーが加わった。

もし、あの時ペンジュラムがそんな風にならなければ、この上に書いたことたちは1つとして起こらなかった。

あまりにも色々ありすぎて私は冷静にそのことだけを見つめたことが今の今までなくてわからなかったけれど、本当はすごい奇跡たちを目撃していたことに今さら気付いた。

多分今のタイミングじゃなきゃ気付けなかったんだと思う。




異動を知らされた日は水曜日だった。

恒例の週に1回だけの掃除をやり終えて、席に戻った時だった。

私の教育係の人が私を見るなり話しかけてきた。

部屋には彼女と私しかいなかった。

「〇〇が異動します」

教育係の人は、普段その人を役職名か愛称で呼んでいた。

だけどその時は苗字を呼び捨てで言っていて、言うなれば「武士俣が異動します」みたいな風に告げられた。

それだけで、それが冗談でも嘘でもなく、本当に近未来に起こってしまう決定事項なんだと悟った。

あまりにも驚いて、私が唯一聞いたのはいつ付で異動になるのかだけだった。

予定では月末で、その後は彼の後輩が引き継ぐというところまでしか説明を受けなかった。

どこに異動するのかを知りたかったけれど、あまりにパニックで何かを聞くとかいう発想すらなかった。

ちなみにその1ヶ月後、今度は教育係の人と私の直属の上司が異動することになったけれど、その時はただの一度もそんな風に報告されなかった。

変な話だけど、その人の異動は私の仕事には何一つ影響がなくて、直属の上司の異動は色んな書類や資料において変更がいくつも生じるから、仕事上の影響は甚大だった。

それでも、私に伝えられた異動はその人の方だけだった。

トップが代わるんだから報告を受けるのは社会的常識では当たり前かもしれないけれど、それでも私にはそこにはもっと別の深い意図があったように思えてならない。

事情や流れが違うにしても、直属ではないその人の異動がそんな風に儀式的に伝えられたのは、今となっては必然だったのかもしれないなぁと思う。

当時の私の仕事は、社内の資料や書類整理が主なもので、はっきり言って社内事情を知らされなくても仕事にはほとんど影響が出なかった。

だから、社内のことで教育係の人が「別にいいかな」と判断したものは、私には伝えられないこともかなりあった。

今振り返ってみても、あんなにも深刻な感じで何かを言われたのはその時だけだった。

そして、それをそのタイミングで知らされたからこそ、その後のことたちが実際に起こったように起こったと知ったのは、実は今この書いてる瞬間だった。

今だからわかる。

その人に関することは、絶対のタイミングでやってくる。

この時じゃなきゃダメだった…、どのどれもそういうタイミングで起こる。

だから、あの異動を告げられた時もこれ以上ないタイミングで起こっていたとわかる。

今思い出した。

その時のホロスコープを出した時、あれ、あの日、本人はどこにいたんだろう…?と定かではなかったけれど、いた、事務所にいた。

それぞれ持ち回りが終わったら1人また1人と事務所に戻ってきた。

その人もどこかのタイミングで戻って来ていて、私はその戻ってきてしばらく後、その人の席から一番近いキャビネットの前に立った。

1秒1秒が長く感じた。

ショックな感情がものすごいスローモーションで沸き上がりっぱなしで、いつまで経っても慣れなかった。

そのキャビネットの前に立っていた時、気付けば涙が目に溜まって今にもこぼれそうでどうしようかと思った。

キャビネットの扉が私を隠してくれるから、私がどんな表情なのか誰かにバレることはなかったけれど、それで少し気が緩んだのか涙が自分でも盛り上がっているとわかるくらいに出てきた。

シレッと手で拭いて、何事もなかったかのように振る舞った。

そこに立っていた時、電話がかかってきたのか、それとも私の思考の中の話かは本当にあまりにも呆然としすぎて覚えていないけれど、その人の声を思った。

私はその人の声が本当に大好きで、理由なんかよくわからなかったけれど、とにかくいつも耳をそばだててその人の喋っている小さな声を全力で聴こうとしていた。

もうその声をこの至近距離で聞けなくなるんだな…。

キャビネットの前に立ってそう思ったことをとてもよく覚えている。

今なら聞こえる。

今聞こえる声があと少ししたら、どんなに聞きたくても聞こえなくなる。

そのことにとてもショックを受けた当時のことは今でも忘れない。




その日の昼休みのことだった。

とにかくその場から少しでも離れて1人になる時間と空間が欲しかった。

川が見える場所に行った。

その日は雨で、車を止めるとフロントガラスに雨がツーっとつたって流れて、距離の関係でその向こう側に見える小さな川は雨の日の川の色になっていた。

私の気持ちと外の色はきれいに重なっていた。

色んなことを思っただろうけれど、細かな記憶は何もない。

でも、今でも唯一記憶に鮮明に残っていることがあって、そのことと今回のペンジュラムにまつわる全体的な星読みとが重なった。

もちろんだけど、当時の私はホロスコープのことは一切知らなかったし、私が見ていたのはペンジュラムだけだった。

その時私は賭けに出た。

私が異動を知る前の日に、本気で嫌がられてるというのをその人の反応で知った。

実際にはどういう心情でそうした行動に出ていたのかはわからない。

嫌がられてると言葉で説明するならそんな感じではあったけれど、それはその人が何を表現していたのかは最後までわからなかったし、今もわからない。

その人はとにかく仕事の用事で話しかけざるを得なくなった私に、完全なる無視を敢行した。

聞こえてないわけないけれど、返事も返ってきた感じはなかったし、絶対に私の方は見ようとせず、画面なのか手元のキーボードなのかをひたすら見ていた。

私は仕事の用件を伝えているのに、私の話というより私の声を私そのものを拒絶するように、手なんか止めずますます手を激しく動かして、私なんかそこにいないみたいな感じだった。

普通の声で普段のよそ行きの口調で何とか短い伝言を伝えるだけで精一杯だった。

私だって好きで伝言しているわけじゃないのに、回ってきた仕事ゆえ頼まれてやらざるを得なくなったから伝えてるだけなのに…、とか考える余裕さえないぐらいに、その人は私をものすごい態度で遮った。

それを目の前にした私の心は完全に崩壊していた。

そんな風だったから、私は自分がその前にその人をごはんに誘ったことも嫌なのはわかったし、迷惑だったんだろうと思ったし、仕事のことでさえ話しかけられたくないんだな…と思った。

それぐらいに、仕事のことでさえ耐えられないぐらいに、私が嫌なんだなと思った。

個人の用事じゃなくて仕事の用事なのにな…、それさえもそんなに嫌なのかと思ったら、もう私は何をどうしていいのかわけがわからなくて、口は一生懸命用事を伝えようと動いていたけれど、口が動いていることが奇跡的で、私の心は口とは真逆の状態になっていた。

解離するってああいう感じなのかもしれない。

そんな風だったから、私はもう完全に全てから身を引く気でいた。




そんな状況を知って、頭ではもう私もその危険極まりない状態をさらに悪化させてさらに自分の気持ちが落ちるのは嫌だったから、そっとするのが一番と思っていた。

だけど、あの雨の日の車の中で、私は全く違うことを思った。

もうこのままでいることがベストだと思って、頭の答えは100%それだった。

だけどしっくりいってないのも事実だった。

そこで私は、賭け事を思い付いた。

それは100%絶対に起こらないと知ってやる賭け事だった。

だけど、もし万が一、その起こらないことが起こったら、もう一度その人に話しかけてみようと思った。

私はそんなの起こるわけないと確信していたから、話しかけることもないだろうし、もうこのまま転勤でいなくなる時まで静かにその時を待てばいいと思った。

仕事の用事で話しかけることは、仮にまたそういうことが出てきても、これまでの頻度を思えば1回ないし2回だろうから、その時だけ耐えたらいいと思った。

もうこれ以上何かをこじらせるようなことはしたくなかったし、このままそっとしておけば、私もその人も最低限の平和は保たれる。

あの時の私は、それを納得するために、賭け事をした。

自分が賭けていることと反対のことが起こるわけないと確信していたから、そして頭ではもう全てそっとするのが一番と思っていたから、それに納得するための賭け事という感じだった。

その万が一が起こるなら、その時はその時でまた考えよう…、そう思った。

というか、万が一なんて100%起こらないから、その心配はしていなかった。

もう目の前のことを淡々と受け入れて、時間が来るのを待って、あとは自分の中で整理していく…、そういうものだと思った。

起こらないとわかってする、賭け事だった。

私は何をしたかというと、ペンジュラムを2つ出した。

写真にある水晶の透明なものとドミニカ共和国産のラリマールの青いものと2つを用意した。

私はペンジュラムたちをそれぞれ、右手に水晶、左手にラリマールを持って、聞いた。

「もし〇〇さんにもう一度話しかける、時間が欲しいとお願いするなら、これまで見たことのない動きを見せてください」

おおよそそんなようなことを聞いた。

前半部分の言葉はうろ覚えだけれど、後半のペンジュラムにこれまで見たことのない違う動きを見せて欲しいと言ったのは覚えてる。

ペンジュラムに関して、私が動きを決めることはできない。

あれは何なのかと思うけれども、ペンジュラムの方が勝手にYESやNOの動きを決める。

そして、当時はYESの意味の時計回りとNOの意味の縦揺れしかなかった。

1年以上毎日使い続けて、その2つだけだったし、そしてペンジュラムを買った店のポップにもYESとNOの動き方を最初にペンジュラムに聞きましょうということしか書いてなかった。

いつだったかペンジュラムの講座を開くとかいう人たちのブログを何個か立て続けに見たことがあった。

実際はどうしてるのか知らないけれど、講座を開く人たちでさえ、YESとNOの動きのみ説明していて、違う説明があるとするなら、微動たりしないものだけだった。

そもそも読んでも、私は何様なのかと思うけれども、「あれ?これ間違っているんだけど」みたいなことがペンジュラムについてはけっこう書かれていて、だから私がペンジュラムに関して第三者の情報を取り入れないのはそういう意味からだった。

それはそうと、動き方については鉄板のYESとNO、それ以外もあるなんて情報は見たこともなければ、私自身も自分のペンジュラムを見てそれ以外にないことは知っていたから、だから私は最初から起こらないと知ってのペンジュラムへの問いかけだった。

もう少し言うと、私のペンジュラムは微動だにしないなんてことはなくて、必ずYESかNOを即座に出してくる。

そしてそれ以外の動きは絶対の絶対になくて、だから最初からYESなりNOなりの動き方しかできないと知っての問いかけだった。

(今書いてて思い出した。微動云々の話は後から書き足したい。1回だけ例外があった。)

賭け事をしたというのは言葉だけで、初めからそれは100%起こらないと知ってやることは「賭け事」とは本来呼ばないと思う。

だけど、何でもいいから納得できるもの、自分がそれでいいと思える背中を押してくれるものが欲しかったんだと思う。

私は縦か時計回りに動くだろうペンジュラムの姿を想像していた。

ところが問いかけた次の瞬間、ペンジュラムたちはこれまでに見たことのない動きを始めた。

2つのペンジュラムたちは互いに横に揺れて、時間の経過と共にどんどん横揺れが強くなって、そして最終的に2つの石たちはお互いに当たって、パチパチと音を鳴らしながらぶつかってはまた戻る、ぶつかっては戻るを繰り返した。

あまりにもビックリして、しばらく魂が抜けたようにボーッとした。

感情もぐちゃぐちゃ過ぎて涙が出た。

色々何なのかと思った。

何でペンジュラムたちがその新しい動きを見せたのかは知らない。

私には「まさか」の動きで、ペンジュラムの動きにもだし、自分のそもそもの賭け事にも頭がついていかなかった。

そんなこんなのうちに戻らないといけなくて、職場に戻った。

午後はどういう気持ちで仕事をしたのかは覚えていない。

今も私の脳裏に焼き付いているのは、あのペンジュラムのシーンだけだった。

絶対の絶対にYESとNO以外の動きなんか見せたことのなかったペンジュラムたちが、突然新しい動きを披露した。




余談だけど、当時のことを描写している時、胸の辺りから背中にかけてとても痛くなった。

体はあの時の感覚を今でも覚えているんだな…と思った。

だから、記憶がその全体的なことや心に受けた衝撃ばかりに目がいって、肝心要のペンジュラムのことは、覚えてはいるけれど、色々スポッと記憶が抜け落ちてるというか、他のことたちと繋がらないのは仕方のないことだった。

ペンジュラムの新技よりも、その前後のストーリーや状況ばかりに目が行ってしまったのも無理がない。

(今書いてて思い出した。微動云々の話は後から書き足したい。1回だけ例外があった。)

↑この部分についても書きたい。

1回というか、期間にして1回。

回数にしたら数回あったと思う。

これもその人絡みだった。

いなくなる2週間前ぐらいか10日ぐらい前から本当にいなくなるその時までだった。

ある時からその人関連のことを聞くと、ペンジュラムはじっと動かなくなった。

本当に微動だにしなくなった。

わざと揺らしてその勢いでYESなりNOなりが出ないかな…と思ってやったこともあったけれど、そうやってもそのうちペンジュラムはゆっくりになってピタリと動きを止めて静止するようになった。

ペンジュラムに聞いた。

「教えられないの?これは聞いちゃダメなの?」って。

ペンジュラムいわく、教えられないし聞くこともダメだと言った。

例えば、その人の送別会に出ないとかは「出なくてもいいよね?」と聞くと「大丈夫」とか教えてくれたけれど、そういうことじゃなくて際どいものは、ペンジュラムは「口開きません」と言わんばかりに動かなくなる。

その人が無事に引越しできたかどうかも教えてくれなかった。

だから本当にその人がきちんと移動したとわかったのは、異動初日の週明けの月曜に、後任の後輩くんが電話でやりとりして、事務所内でも異動後さっそくその人から新部署に移った状態でのメールが来たという話が出て、それでようやく知れたぐらいだった。

ちなみにSさんはその人と個人的にやりとりしていたから、「本人は最終日終えたらすぐに出るって言ってたんだよね」と次の日に私にそっと教えてくれたことがあった。

それを聞いたにも関わらず、ペンジュラムは頑固なのか何なのか、とにかく移動が無事にいったのかどうかさえ教えてくれなくて、その時も沈黙を貫いていた。

コントみたいな話だけど、本当に当時はそうで、細かくは覚えていないけれど、とにかくタブー質問系が確実にあって、それに当たるとペンジュラムはその人同様「沈黙を貫く」ようになっていた。

ペンジュラムと3年もの仲になったけれども、そんな動き方というか沈黙の仕方はその時一度きりだった。

これも含めて、そんな意味不明な動き方をするのは、その人がいなくなる間際の時だけだった。




・異動を知らされた瞬間
・倉庫で整理してるところに話に行った日
・手紙の日
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
・77777の日
・本人最終日の最後の瞬間
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
・その人にメッセージを届けるためにブログを再開した瞬間
・短いメール下書きの日

この話に戻る。

もし、あの時ペンジュラムがYESなりNOなりのいつもの動きを見せて、その後何もせず静かに最後の時を見守っていたとするなら…。

・異動を知らされた瞬間
・77777の日
・本人最終日の最後の瞬間

になる。

他の部分はすべてなくなる。

当然、このブログも今みたいに稼働していなかったと思う。

そもそもが色々無理だったわけで、どう考えても嫌われてるとか嫌がられてるとか避けられてるとかいう風にしか見えない人に、話しかけるとか手紙を書くとか、はっきり言って狂気の沙汰だと思う。

その後に起こった色々は、もし、私が静観すると決めて何もしなかったとするなら、今の私含めてどんな風だったんだろう。

ちなみに後日談だけど、あの時に見せてくれた2つのペンジュラムによる共演ワザは、あの後から今に至るまで、本当に必要な時にだけ使う手法として重宝している。

普段は水晶ペンジュラムで、もしくは歩く時や店なんかで水晶を出しづらい時、まるでキーホルダーのように見せかけてるつもりで青い方のラリマールを使うこともあるけれど、どちらにしても片方しか使わない。

だけど、ここ一番!っていう勝負じゃないけれど大切な何かの時は、最後の確認の意味も兼ねて2つ同時に持ってあの時と同じ動きをするかは見る。

あれはYESとかスーパーYESとかを飛び越えて「絶対的なYES」だと私は判断している。

ペンジュラムもそうだと言っているから間違いないと思う。

あの時、目の前で鮮烈な新技デビューを飾ったペンジュラムをよそに、私は「えっ……」ってなってた。

自分からふっかけたくせして、予想外の出来事に取り乱した。

その日の午後なんて色んな意味でまともに仕事してなかったと思う。

その後のことは書き出したら、この長さのブログをあと100個ぐらい書かなきゃ追いつかない長さ・量になるから割愛するけれど、本当に色んなことが起こりまくった。

上に書いた箇条書きの部分は、あの時のペンジュラムの功績なくしては絶対にありえないことだった。

何が言いたかったかと言うと、あの時現実を動かした1番のキッカケはペンジュラムだったということ。

ペンジュラムなくしては、私はその後の行動は1つも起こさなかった。

いくら私が鈍くても、さすがに実際にされたみたいな避けられ方をして、「私まだ可能性あるかもだからもう一度声をかけよう!」なんて絶対に思わない。

あまりの鋭い切れ味抜群の態度に、心はブロークンハートなんてものではなく、心臓発作起こして危篤状態みたいな感じだった。

施す術なんか何もなくて、これ以上傷付かないようにそっとしておくのが一番だった。

それでもそんな無茶ぶりな感じで動けたのは、ペンジュラムの後押しがなければ1000%無理だったし、さらにはあれはペンジュラム側が先に察知していたと思う。

その人とは魂的なご縁で繋がっていて、本当の本当にこれが最初で最後のチャンスだよって。

この時を逃したら、もう二度と何も伝えられなくなるよって。

今世だけじゃなくて転生してきた中でずっと引き継いできたものを伝えられる唯一無二のチャンスが今なんだよって。

ペンジュラムだけは知っていたと思う。

もしペンジュラムがあそこでいつも通りの動きをしていたのなら、私が動かないことも、何もせず最後の日を迎えたことも、そしてその後に続くブログを再開しないことも、全部お見通しだったんじゃないかと思う。

私はペンジュラムに全幅の信頼を置いているけれども、その中でも特に魂絡みのテーマの時にペンジュラムは絶対に外さないと思っている。

特に、それにより生きる道が変わる時、絶対にその道が変わってはいけない時、ペンジュラムはその絶対の方に導くために尽力する。

その時もそうだった。

あまりにも外の状況や自分の感情に手一杯でそれどころじゃなかったけれど、あの時私が今ある道の方に進むためにペンジュラムたちは全力で奇跡を見せてくれて、そして私の背中をものすごい勢いで押した。

今を逃しちゃダメだよと言わんばかりに。




ペンジュラムが私の元にやってきた瞬間のホロスコープとその人のホロスコープを重ね合わせてわかったこと。
(「〜してくれる」という言い方なのは、そう読む方がピンとくるから。)

・ペンジュラムの見えない世界の情報を言語化してくれる。

・ペンジュラムの冒険心に溢れ自分の可能性を試したい気持ちに対して、その人は創造性や独自性をそこにプラスして、さらには調和を図るエネルギーも注ぎ込んでくれる。

・ペンジュラムの存在目的を強化する。集中力・仕事能力アップのお手伝いもしてくれる。ペンジュラムの仕事に対する堅実さを揺るぎないものにし、より一層きちんとしたお仕事をペンジュラムがこなせるように影で支える。

・ペンジュラムの資質に対して、より良いひらめきを与える。ペンジュラムの目的に対して、客観性・普遍性を伴う視点をプラスして、より安定した働きを促進する。

・ペンジュラムが果たす社会的役割に対して、宇宙的要素(見えない世界の要素)を補完して、ペンジュラムの動機とやる気を無限に(=半永久的に)供給するのに一躍買っている。

・ペンジュラムの深い意図の部分において、ペンジュラムの基盤となる部分を支えてくれる。
ペンジュラムからもたらされる情報をきちんと精査して、真実の理解が深まるように手助けしてくれる。
また、宇宙言語のごとくわからない言葉で情報を伝えてくるペンジュラムに対して、その部分を言語化してわかる形にする手助けをする。

・他者との関係の中で自分の知性を本領発揮するペンジュラムに対して、ひらめきや鋭い直感をもたらしてくれる。天才肌と呼ばれる鋭さが魅せどころで、それに直結する宇宙的能力のダウンロードを促進してくれる。

ちなみに最後の特徴部分は、私の中では超鉄板の、ペンジュラム側のホロスコープの地平線軸にその人の天体がピッタリとのっていて、さらにそののった天体というのが影響大なもの。

宇宙的なものと言ったのは比喩ではなく、本当にそういう読み解きが一般的とされる天体がのっている。



ここでもう少し解説したい。

その人は私がペンジュラムを持っていることも使っていることも当時は知らなかったし、実際に現物を目の前で見たこともない。

だからと言って、その人の役割が机上論ということは絶対にない。

例えば、人間対人間の関わりの中で、誰かにとてもお世話になったとする。

その時に、相手の人が一から十まで手取り足取り何かをしてくれたという場合の方が少ないと思う。

その人は直接は教えてくれなくても、その人がいてくれただけで組織全体が調和していたとか、その人のあり方が周りの人たちに良い影響を及ぼしたとか、そういうことはよくある。

その人がペンジュラムに対して及ぼしている影響もそういうものに近い。

私やペンジュラムに目に見える形で何かをしてくれたとかいうことじゃない。

だけど、その人の存在そのものがペンジュラムや私に及ぼす影響がとてつもなく大きい。

そしてペンジュラムに限って言えば、その人がペンジュラムに及ぼす影響は本当の本当に大きくて、過去にペンジュラムの能力アップした瞬間はすべてその人が関わっている。

ここで紹介した横揺れになったサインの他に、スーパーYESとスーパーNOのサインが初めて現れた瞬間も、その人が関係していた。

もはやペンジュラムの能力アップはその人なくしては有り得ないのかと思うほど。

さらに言うと、深い意味の意図を見るための特殊なホロスコープを算出すると、私のホロスコープよりもその人のホロスコープの方がペンジュラムに与える影響が大きい。

別の言い方をすると、ペンジュラムは深い意図の部分になると、その人との繋がりの方が強くなる。

それを思うと、なぜその人が毎回ペンジュラムのバージョンアップの時に関係しているのかわかる気がする。

持ち主である私では起こせない変化も、その人という化学反応が加わるとペンジュラムはきちんと反応するようになっている。

なんなら、すぐに検証を怠りがちな私の性格も加味して、その人のことなら私がしつこいぐらいに確認することも知っていて、そうなってる気がする(苦笑)。

冗談抜きで、ペンジュラムがバージョンアップした時は検証を色んな角度からしないことにはその情報をその後使えないから、検証は必須になる。

それが私の興味ないことなら、私は基本サボる。

だけど、その人のことだから、ものすごい集中力(執念とも呼ぶ)で検証・分析を行う。

だから、その後新しい動きたちは定着するし、私が使いこなせるようになっている。

その人は興味ないかもしれないけれど、その人の方がよほどペンジュラムと相性良くてペンジュラムを使いこなせるんじゃないかと思っている。




1年半前に人生で初めてホロスコープ鑑定を受けた時。

そこで私は初めて自分が過去世でペンジュラムを使っていたことを鑑定士さんから教えてもらった。

鑑定士さんいわく、その過去世の中で私は体が弱くて10歳くらいまでしか生きられなかった男の子で、ペンジュラムを自分の分身のように大事にして持っていたとのこと。

そして私の面倒を見ていたと思しきおじいさんがペンジュラムを使っていて、それを見て私も自然と使い方を覚えたんじゃないかと言われた。

私は自分の両親ではなく、血縁関係の有る無しはわからないそのおじいさんおばあさんに面倒を見てもらっていて、そしてそこの家にいた私より少し年上の男の子、おじいさんおばあさんにしてみたら本物の内孫がその人のようだった。

鑑定士さんは必要があれば、相手の過去世やそこに一緒にいた人たちが映像で視える体質のようだった。

生まれついた能力ではあったけれども、それが嫌で嫌で、そして大人になってからそういう能力は消えると聞いて、自分もそれを一心に信じて本当に消えてくれた、でも今でも相手の人たちの必要性に応じて情報がもたらされる(=視える)から、その時は視えてしまうとのことだった。

そんなことはホームページに一言も書いてなくて、私も会って初めて聞かされたことだった。

鑑定士さんいわく、自分で見ようと思って視えるわけじゃないから、だからそういうことができるということをホームページとかで外には出さないと言われていた。

付け足しだけど、数ヶ月前、山で行方不明になったおじいちゃんの霊魂に気付いて、おじいちゃんの通訳をしてくれた霊視ができるヒーラーのOさんからも、その鑑定士さんの言ったことを裏付けする話を教えてもらえた。

私が自分のペンジュラムが何と繋がっていてどこから情報を持ってきているのかわからないと言ったら、Oさんが霊視してくれた。

ペンジュラムを霊視すると、まずは10歳くらいの金髪でそばかすのある男の子が視える、その子はペンジュラムで遊んでいると言われた。

それ多分過去世の私だと思いますと言ったら、Oさんは否定しなかった。

Oさんは本当に違う時ははっきりと否定してくるから、そうではないということは、多分そうなんだろうと私は解釈した。

2人の人から同じ人物と思しき過去世を指摘された私と、そしてその人生で共にあったペンジュラム。

そして私とペンジュラムの先にもう1人その人生に深く関与した人物がいる。

それがその人だというのは、当初はまだどこか夢物語みたいな感覚があった。

私が信じたいように信じたらいいかと、そう思った。

だけど、今回ペンジュラムのホロスコープとその人のホロスコープとを見てはっきりと悟った。

その人がその人物だろうこと。

多分だけど、今のその人はペンジュラムの予備知識なんか一切ないと思う。

そっち系の人なら、今の会社には勤めてないだろうなぁと思う。

だけど、そんな社会的なことや本人の持ってる今世の才能的なものは関係なくても、間違いなく私やペンジュラムに対してものすごい影響力を持っている。

それは本人さえも無意識の知らない領域でそうなっていると私は思う。

私はすごい長い時間をかけて証拠集めみたいなことをしてきた。

してきたからこそ思うのは、その人がペンジュラムとは全く無関係なところで生きているのにこうして影響を及ぼしている、そのことこそが本物だと思っている。

その人もその世界の人ならもっとわかりやすかったかもしれない。

だけど、そうなら私はこの長い時間をかけて積み重ねたことを何一つやらなかったと思う。

おかしな言い方だけど、この突き放されたような距離感は、少なくともペンジュラムやペンジュラムを使う私には必要なプロセスだったと思う。

こんな修行じみた時間、私はちっとも嬉しくないけれど、ペンジュラムやペンジュラムを使う自分を考えると、必要不可欠で絶対に外せない。

その部分を影ながら支えてくれたのは間違いなくその人だった。

その人はそんな気はなかったとしても、これを目にして「俺はそんなつもりはない」などと思っていたとしても、それでも現実はどこまでもそうで、否定してもしきれないぐらいにすごい大きな影響を私に与え続けている。

そして、何が嬉しいって、過去世での繋がりの風景の中にペンジュラムがあって、それが今世でもひょんなキッカケで私が持つことになって、そしてそれを持った後その人に出逢って、そしてその人がいた人生の時間やペンジュラムにとって大きな転機となる瞬間、毎回その人が何かしらの形で関わっていること。

私とその人だけで繋がりを見るにはあまりにも難しかったけれども(その人の最後の態度なんてもう私に「大嫌いです」と言ってるようなものだった)、そこにペンジュラムが入ってくれることで繋がっていることをもっと客観的に、そしてもっと強く知れるようになっていた。

あの雨の日の車の中で見たペンジュラムたちの見たことのない動きも、今なら頷ける。

ペンジュラムたちは、あの時全力で魂の繋がりが私の勘違いで絶たれないように、そのための役を引き受けてくれたんだと思う。

それは、多分だけど、ペンジュラムはその人側の意志、正しくはその人側の魂の意志も汲んでのことだったんじゃないかな…と思う。

5月の終わりに、私が手を滑らせて畳1畳弱の大きさの木のテーブルをひっくり返して、そうしたらその先にペンジュラムやオルゴナイトが置いてあって、たった1つの小さなオルゴナイトが体を張ってその木のテーブルを支えてくれて、数ミリのところでペンジュラムたちを守ってくれたということがあった。
(ブログにも書いた。)

もしその3センチほどのオルゴナイトがテーブルを支えてくれなければ、ペンジュラムは木っ端微塵に砕け散ったと思う。

その話を長年の友達でオルゴナイトフリークになっている子に写真付きで報告したら、こんな返信が返ってきた。

【「このペンジュラムは絶対に割れたらダメ!!(たぶん〇〇さんにとっても、重要な知らせをくれるものだから)」って、瞬間的に強烈な意志をもって、身を呈して机をガードしたんだろうね!】

友達は面白い言い方をするなぁと思った。

「〇〇さんにとっても、重要な知らせをくれるものだから」なんて、私は考えたこともなかった。

だけど、友達の目にはそう映って、そうやって言葉にして教えてくれた。

こうして誕生日を知ってホロスコープを見れたことで、私にもその人とペンジュラムの繋がりが見えるようになった。

そして、友達が先に伝えてくれてた言葉に、私も素直にそうなのかもしれないなぁ…と思えるようになった。




ここに書いたことは、何一つ科学的に証明できることはない。

私のALL勘違いという可能性ももちろんある。

だけど、私は自分が信じたいもの、信じられるものを信じてたらいいんだな…と思っている。

正直なところ、魂がどうだというのはどうでもいいというか、重要視していない。

私にはその人に出逢えたということが全てだし、その人に出逢ったことで体験したことが全てだから、それが魂絡みだろうがそうでなかろうが私には何も変わらない。

ただ、そうだと知ったことで、より繋がりが私の気のせいだとか勘違いだと思わなくて良くなったというところが大きい。

しかもその繋ぎ役がペンジュラムだったことはさらに嬉しい。

私の中で今少しずつ決意が固まっている。

書けることはもうなるべく書いてしまおうと。

もう会って直接伝えられないことたちは、私の中だけの話にせず、どんな形であれその人の目に触れるなら書いて知ってもらおうと。

会えないのであれば、せめて自分が後悔しないように、後悔しそうなことを1つでも減らそう…、そう思っている。

参勤交代みたいな時代と違って、今ならどんな風にも連絡が取り合える時代なのに、それさえ叶わない私の今は、ひたすら絶望しかない。

どんなに悔しくてどんなに悲しくても、それをこの超ハイテク時代の時代の申し子に埋めてもらえるわけじゃない。

変えられない現実に変えられない人の気持ち。

唯一私が自分の力で何とかできるものはここしかない。

そして、書けないカウントダウンがずっとずっと鳴り響いている。

だから、今書こうと思う。

その人の心にきちんと届くように。

2019年6月22日土曜日

過ぎ去った日々の星読み

今日はホロスコープの考察と私の主観とをひたすら書いたもの。

Sさんと先日会った時に、元職場の人の誕生日を知れることになった。
(最初「共通の知人」と書いたけれど、Sさんたちは知人レベルじゃないし、私は「知人」と呼べる立場じゃないとはたと気付いて言い方を変更した…)

本当はこんなことしちゃいけないんだけど、どうしても知りたいことがあって、ホロスコープを出して見てみた。

性格的なものとか人生の傾向やテーマは何も見ていない。

それは本当に本人の希望がないどころか知らないのにやるのはダメだから、していない。
(1つだけすぐにわかってしまったことは、頭から離れないぐらいすぐに内容を覚えてしまったけれど…)

でも、当時の印象的な出来事があった日や瞬間のホロスコープとその人のホロスコープを重ね合わせて、どんな影響があったのかそれを見ている。

私は自分だけに一方的に起こったことなのか、それともその相手の人にも何かよくわからない影響があったことなのか、それを知りたかった。

それはホロスコープを見ると少なくとも、影響の有無はわかる。

さらに影響の強度もある程度わかる。

色々わからないものも多いけれど、最小限は知れる。
(具体的な生まれた時間[何時何分]の部分と生まれた町がわからないと、正しいホロスコープは出せない。)

その最小限の情報を読み解いている。

今まだ読み途中だけど、思いついたままに書き始めている。

すでに7つの日のホロスコープを見て読み解いた。

ストレートな自己表現をするタイプではないこと以外は、基本何も読み解いていない。

私のホロスコープとの重なりは見たけれど、それは私の胸の中にだけしまっておこうと思う。

自分の親とか妹、姪っ子との重なりを見た後では物足りなさを覚えたけれども、逆に言うと重なり自体はそんなにも強固なイメージはない。

(親との重なりが強烈すぎて←本当にあまりに強烈で泣きたくなったぐらい、その後じゃ誰のと重ねてもそんなには強さを感じなくなってしまった。)

ただ、その何日かの過去のある時の空模様を見た時に、その人にとってはとても影響が出やすい配置がいくつも重なっていたことはわかった。

私もだけど、日によっては私よりもその人のホロスコープの方が影響でかいだろうなぁというのはいくつかあった。

私がその相手だったのかは知らないけれど、時期的に過去世からの人間関係が運ばれてきやすい配置がそもそもその時にその人のホロスコープにはあって(←私の方にはない)、だから私が登場してしまったのもやむを得なかったのかな…とは思う。

大体過去世絡みなんてのは何かしら心の余裕がなくなる方の何かを運んでくる可能性が高いから、私はそういう意味で本当に不足のない役に徹したと思う。

素でその役を演じたわけだから、私の演技力の高さや役への貢献度と言ったらない(爆)。

そう思うと、異例の速さで仕事が決まったのも、開始日が二転三転したのも、行く期間がまさにその時だったのも、今なら頷ける。

魂的なテーマに取り組むとなれば、人間社会のルールはとことん無視されるし、ありえないことも普通に有り得てしまうし、限りなく0%みたいなこともなぜか起こってしまう。

そういう配置は単純計算して、その人にとって次はその時から20年後になる。

その人にとってその影響が出るかもしれない配置が20年後という意味で、そう人生で何回とない時にたまたま目の前に登場したのが私で、なんだかなぁ…と思った。

よほどその人にとって触ってほしくない部分にずかずかと入ってくる人だったのかもしれない、私は。

その人のホロスコープと重ねたホロスコープたちを見て、素直には喜べなかった。

ホロスコープに良い悪いはない。

本当に、傾向が出るだけで、それが良いとか悪いとかいうのは人間側の勝手な主観に過ぎない。

だって、過去世絡みの縁が運ばれてきて、それで幸せな結婚や幸せな仕事に結びつく人もいれば、反対に最終的に別離になることや酷い労働環境を体験する人もいる。

どんな影響が出るかなんてのは、個人個人違うから、そんなのは読み解けない。

同じ時期、破壊と再生・大変容担当の空の冥王星と私の生まれた時の冥王星が、ものすごく影響が出る配置になっていて、普通ならすごいキツい出来事なんかに見舞われやすいけれど、当時の私はその人に会えるだけで毎日毎日生きているのが楽しくて嬉しくて仕方なかった。

片やそんな風に人生バラ色みたいな日々を送っていた私と、カルマ的な絡みもくっついて私がいるだけで不協和音気味な状況を体験する相手と、その対比は凄いものだったと思う。

不協和音の真ん中(協和)を抜くと「不音」「ふおん」「不穏」…チーン( ̄ཀ ̄;;)。

それがホロスコープなんていうツールによって、より一層鮮明になってしまった。

自分だけの視点から見ると、すぐ近くにいられた時間はあまりにも短かすぎたけれど、相手のことを思うと、もし本当の本当に私がしんどいものばかりを与える人物だったなら、その期間がそれだけで済んでくれて良かったと思う。

しかも私がゴソゴソ動いたのは1ヶ月もなかったから、そして決して危害は加えてないから(相手がどう取るかは別にして)、許してねとひっそり思っている。



ここから先は読み解いたものを紹介。



【夏の日々たち編】


☆その人の生まれた時のドラゴンヘッドのところに空のドラゴンヘッドが戻ってきた辺り(通称[ノード回帰])に、私の元へその職場へのオファーが初めて提示された。

当時の通話記録を調べたけれどもう残ってなくて、でも確実に友達の熊本での結婚式の日以降派遣会社から連絡がきたことは覚えている。

その結婚式からの帰宅日とその人のノード回帰の日が一緒だった。

それから何日もしないうちに、仕事の紹介が来たことは確実。

ちなみに、私の生まれた時のドラゴンヘッドのところに空のドラゴンヘッドが戻ってきたちょうどドンピシャの日、名古屋から新潟に戻った。
(↑私のノード回帰の時の出来事)

おおよそ18〜19年に一度起こるもので、魂的なご縁を連れてくると言われている。



☆出逢いの日:
ドラゴンヘッド=魂的なご縁を意味するものと本人の個人天体がピッタリ重なっている。

それは意味を調べたけれど、なかなかピンとくるのがなくて。色々探していたら、「モテ相」なんてのが出ていて、本当にそんな読み方をするのか知らないけれど、まぁさもありなんと思った。
誰にモテるかは本人は選べないのが、いかにも魂的なものという感じがする。(本人は興味ない人からモテる可能性だって当然ある)

一応、それが合ってる合ってないはさておいても、その人からすると、「社会的役割の中で無償の愛を育む」と読める配置になっている。「無償の愛」っていうと聞こえがいいけれど、それはひねくれた見方をすると、「忍耐」とか「(苦手なものも)受け入れる」とかいう雰囲気を感じてしまうのは私だけだろうか…。

で、実際に社会的役割を果たしている時(=仕事中)、思ってもいないところから本人身に覚えのないものがやってきて、色々集中力を乱すような、気持ちが振り回されるような体験をする。それらを通じて、忍耐力向上を目指さざるを得なくなった…のではないかなと思う。その天体は、攻撃性のない穏やかなものを表すから、まぁ仕事の中でその姿勢を身に付けるみたいな。
ある意味、私超適役( ̄∀ ̄;)。
魂的な縁者が攻撃性を目覚めさせるとかという意味ではありませんように…。
ひねくれずに読み解くと、魂的なご縁をキッカケに、人生を切り開く力や大切なものを守るための力が引き出されやすい。



☆素敵なイケメン行動をプレゼントされた日:
いわゆる恋愛的な観点を見る天体同士とそこにプラスしてドラゴンヘッド(魂のご縁)がピッタリ重なっている。
「愛」とか「やさしさ」をソウルメイトにプレゼントする・もしくはプレゼントされると読んでもいいかなと思う。



☆ファイル探してた日:
この日だけが唯一その人の「破壊と再生」とか「大変容」担当の冥王星の上に空の天体がピッタリとのっている。
他にもとても影響の大きいものがいくつかあって、あの時の(私から見て普段のその人の姿からはありえない)反応の仕方が、こういう天体たちの影響があったのかな…と。



☆せんべい確認の日:
これは最後にその人の笑顔を見た日で、色んなことが複合的にあったとホロスコープ見て知った。
火星回帰と言って、空の火星が生まれた時の火星に戻ってくるのが2年に1回起こる。まさにその時で、そこにその時はコミュニケーション+魂のテーマも一緒に重なっていて、魂的なコミュニケーションに熱が入るとも読める。
それとは別に、破壊と再生担当の冥王星がその時の地平線軸にのって、さらに拡大繁栄の木星も一緒になって、天変地異並みの何かが起こってもおかしくない配置になっていた。
無償の愛を社会に貢献すると読める配置も持っていて、私の都合のいいように読み解くと、その日その瞬間は、その人は魂繋がりの他者(=私)の癒しとなるような笑顔を差し出して相手を癒す、すなわち社会貢献をした。

私側も社会的役割と心の基盤を司る子午線軸が180度ひっくり返ったみたいになって、そういう時は大概何か大きなことがあるから、今となれば「笑顔の見納め」と思えばなるほど納得。



☆異動を知らされた瞬間:
(これ、その人と私逆じゃないか?と思う結果に。だからこれだけは、まるで毎日の星占い調に書いてみた。)

心の基盤を揺るがすような便りが届く日。魂の傷、特に恋愛としての傷と、自分の中の男性的な部分と女性的な部分に表れる葛藤とに何か激しく反応が起こりやすい日。魂絡みのソウルメイトとの間に傷みを覚える大きな出来事が起こる暗示。前世でも繋がりのあったソウルメイトについての何かしら便りが届くタイミングで、それは職場など社会的な場所で提示されるだろう。この魂的な便りを機に、人生のテーマとなるものが大きく動いて発展していく流れへと入っていくだろう。

↑あくまでもこれは相手のホロスコープとその時の空模様の重なりから紐解いた内容。話は盛ってない。
知らされたのは私で、その人はその場にさえいなかったのに(同じ建物にはいたかもしれないけれど)、何?このまるで私の体験みたいなホロスコープ…と思った。

ちなみに私の方は、社会的役割を表す軸に自分の無意識を司る個人天体がのって、だから何か家ではなく社会での役割や流れに大きな変化ありと読み解ける。
本当にその通りになった。



☆倉庫で整理してるところに話に行った日:
魂的なコミュニケーションが交わされると読める天体同士の重なりと、いつも以上に攻撃的になると読める天体同士の重なりがあった。「攻撃的」という言い方は、状況を表すのに適切ではないけれど、「穏やかvs.攻撃的」のどちらかを選ぶとするなら、100%攻撃が勝利!という時間だった。

私側は魅力が増すと読み解ける天体の重なりがあったけれど、これは受け取り手の趣味もあるから、人によっては魅力になっても、また人が変わればマイナスとか拒絶反応とかなってもおかしくない気がする。天体が味方するどころかマイナスに働く…みたいな(涙)。



☆手紙の日:
双方すごいことになっている。私は、魂的なテーマがいくつも複合的に重なっていて(太陽・月・ドラゴンヘッド・ドラゴンテイル他2つ)、それだけ重なっていたら魂的な伝言をしようとしても何ら不思議じゃない。

相手もコミュニケーションが良く言えば発展するし、そうでなければ望んでないコミュニケーションが増長しやすいともとれる。

相手のホロスコープを紐解くと、膨大な量の手紙が来るとか、その天体の意味としてはピッタリすぎて、自分でホロスコープ読んでひっくり返りそうだった(爆)。



☆77777の日:
「77777」というのは私にとってとても意味のある瞬間で、そして現実的にはその人がいなくなる最終日2日前の夜だった。
その日の勤務は終わった後で、あと会えるのは指2本分の回数だけだった。
そんな折の「77777」を記録した瞬間のホロスコープ。

その人側の隠されていた愛が強い使命感を持って表にバンと鮮烈に打ち出された、と読み解ける配置。しかも使命感を表すものが地平線軸にピッタリと重なっていて、影響がとてつもなく大きいことがわかる。
空の天体3トリオとその人の生まれた時の天体3トリオが手に手を互いに取って、壮大な夢に向かって果てしなく駆け抜けていく。そこに魂の成長も含めて、壮大な夢を大きなスケールで描いている。
無意識からのメッセージがとてつもなく強いエネルギーを伴って届く。そのメッセージはその時だけのことじゃなく、未来永劫長く続く、ずっとその先も残り続ける、そういう深い意味を伴ったメッセージ。
癒す必要のある魂の傷が、1対1の重要な人間関係の中で育まれるものを軸に癒されていくプロセスのはじまりの暗示。それは、人生の目的と心の大地と自分の基礎・土台にものすごく関わるもの。

↑これもその人側のホロスコープとその時の空のホロスコープとを重ね合わせて読んだもの。本当にこれ私のことじゃなくて!?と思った。
当時の私が食らったのは、その人の隠された愛ではなく、その人の普段は表に出てこないこれ以上ないと言わんばかりの冷たさの方だった。



☆本人最終日の最後の瞬間:
私に来ている影響よりもその人に大きい影響が出ていて、非常に重たい天体(=テーマもその分深くて重い)が重なり合っていたり、地平線軸に人生のテーマを表すものがのっている。私なら、地平線軸に天体のったら、強烈に影響が出るやつ。
魂的な傷の痛みが、癒すための荒療治とされる形で表立って出てきやすいのかな…と。言うなれば、魂の傷がむき出しになって、めちゃくちゃ痛みを覚えることになる。

人生のテーマのところと魂の傷のところに、実は私も別の天体をピッタリと持ってきていて、傷の三重奏みたいな…。←空の天体+その人の天体+私の天体がピッタンコカンカン。
傷ならまだかわいげがあるけれど、これ別の言い方だと「不快感」とか「心の疲弊感」とかとも置き換えられる。当然、不快とか疲弊って外側からそれらがもたらされるわけで、それらを持ってくる人(=私)出現とも読み解けなくもないところが……。←全力で否定したい。



【重要な日】

☆その人にメッセージを届けるためにブログを再開した瞬間:
そのブログ再開の瞬間そのもののホロスコープがとっても意味が深いものだと知った。

これを書くつい2時間ぐらい前に、ブログを遡って見て、アップした日時を確認してホロスコープを作って見た。

特に魂側の意図にどんな想いが込められていたのかを見てみた。

何がぶったまげたかって、その瞬間のブログ全体におけるテーマと、私の喜び・愛しさ・豊かさ・開花を表すポイントと、そして今日2019年の夏至の月のポイントがみんな一緒だったこと!!!

順番としては、私の喜びポイントが今から12時間前に発覚して(調べ物の途中で見つけて、気になって調べたら出てきた!)。

朝が明けてから、ブログのホロスコープを出して、そこでブログのテーマを知った。

そして最後、今日は夏至ゆえにホロスコープ系のメルマガが届いていて、開けたら同じ内容が描かれていた。

何このシンクロ祭りと思ってビックリした!!!

3つに共通しているのは、
「大きな白い鳩、メッセージの担い手」

まさに、メッセージとして届けようとしたブログの内容に超ピッタリのもの。

他にもその時のメッセージとして含まれていたのは、
・勇気を出して自分をさらけ出す
・未来のイメージを根底から模索する
・新しい変化を引き寄せるきっかけの時期
・守るべきもののために戦うとき
というのが出てきた。

本当にピッタリな内容すぎて、度肝抜かれた。

その時のホロスコープとその人のホロスコープを重ね合わせてみたもの。

愛を伴う心の拠りどころがきちんと整備されながら発展していく。その愛付き心の拠りどころが、魂の傷の癒しと純粋な愛情を育てることにも繋がっていく。
深い意識からのメッセージ、場合によっては輪廻転生する中で受け継がれてきたメッセージが言語化されて伝わるようになるタイミングが来ている。
魂の傷と純粋な愛が互いに手と手を取り合って、互いを癒そうと強く働く。

自分の中で絶対的に守りたいもの、それを守るために知性を働かす。その知性を、これから長い時間をかけてゆっくりと1つ1つ丁寧に慈しみながら育てていく。魂が望んでいる道を極限まで突破しようという、地球の外を超えたところからの力も入り込んで、この今スタートさせたものをどんどん昇華していく流れにある。

↑まるでこれも私側の心情かと思う内容だけど、私のものと組み合わせるとこうはならない。

あと、今さらだけど、この文中にやたらと「愛」という言葉が出てくるけれど、これは単純に恋愛とかの愛もありだけど、どちらかというともっと広い意味での愛、人間愛とか自己愛とか隣人愛とか(←宗教みたい 笑)、とにかくAllジャンルの愛を指してる。



【番外編】

・短いメール下書きの日:
このメールは届いたのかどうかも私は知らない。違う人に着いた可能性もあるから、宛先不明で戻ってはこなかったからどこかには着いたと思うけれど。
その下書きした時=書こうと思い立った時のホロスコープを出した。(←下書き完成したものが携帯メモに入っていて、その時間で出した)
それ単体でも凄かったけれど、それぞれのホロスコープと重ね合わせるとさらに凄かった。

単体で見た時、魂的なテーマを超超超徹底的に地の果てまで追求する、しかも魂絡みテーマの天体が3つも子午線軸と呼ばれる軸にのっていて、徹底ぶりがハンパないのはよくわかった。清く正しくをモットーに精査して制限をかける土星までもが一緒にジョイントして、もしこれが個人の生まれた時のホロスコープなら、私これやだなぁ…というタイプのもの。
↑見ただけで超ウルトラスーパーハード、ドラゴンボールのカメハメハ100回連続攻撃を一瞬にして受けるみたいな、超強烈な配置だった。

というものに、その人のホロスコープを重ねると、もう見たことない凄い「ホロスコープの教科書」に使われるようなものがいくつも出現してビックリ。

そもそものその魂的なテーマを超超超徹底的に追求するところに、さらに本人の深い人間関係を深めるために様々なことを強化するみたいな天体までピッタリ誤差0度でジョイント。4天体+子午線軸という、ホロスコープを知ってる人ならありえない配置になっている。
あまり言いたくはないけれど、大震災系の天災が起きた瞬間のホロスコープたちに類似した配置で、そこに破壊王冥王星もくっついているから余計と強烈。
そして、何がすごいって、六芒星出現!!!
三角形を上下2つ重ね合わせて、六角形みたいな形になるあの星。あれが出てくる。それを筆頭に他にも「教科書的」な形のものがいくつも重なっていた。
私のはそこまでじゃない。っていうか、私のものと重ね合わせても六芒星とか出てこないっ!!

ちなみに六芒星というのは、ホロスコープでは「予定調和的」に物事が運ぶとのこと。
「予定調和」というのは捉え方が2つあると思っている。
1つは、文字通り、予定通り全て滞りなくいくこと。
もう1つは、表面上は全く上手くいっている感じはしないけれど、それこそが見えない部分では調和していること。
だから、この場合に限って言えば、メールが空中迷子みたくなってる風だけど(もちろん無視の可能性も高い)、そうであることが裏事情的には必要でそうなっているということ。裏事情=魂事情と呼んでもいいかもしれない。

メールの行方はさておいても、ホロスコープだけ見ると「何か起こりましたか?」みたいなすごい様相で、もちろんそんなのが形成されるなんて知らなくて私は動いていたわけで…。言葉がない。

しかも、その人のは時間と生まれた町がわからないから、それが特定できないとわからないものは全部省いて見ていて、確実に今日だろうが明日だろうが変わらない天体と日々1度ずつ動く太陽だけで見てそれだから、もう尋常じゃないエネルギーが発されていたことがわかる。



【超スペシャル編】

ここにペンジュラムとその人との関係を書いて一緒にアップする予定でいたけれど、ものすごく長くなりそうだから別記事にしようと決めた。

そこにも今書いたけれど、今回その人のホロスコープを知ることで何が一番嬉しかったかと言えば、ペンジュラムとその人の関係を知れたことだった。

ペンジュラムにはその人に出逢う1年以上前に出逢って一緒にいる。

ペンジュラムに出逢った時、その人はまだ私の人生に登場していなかった。

そして、その人が登場してからも、その人にペンジュラムを見せたこともないし、使ってることも言ったことがなかった。

そもそもそんな超個人的なことを話せる仲でもなかったから、絶対に言うことはできなかった。

むしろそんなことは一生隠すぐらいの気でいたし、私はその人と自分のペンジュラムを繋げて初めて考えたのは、その人がいなくなって半年までいかなくても少なくとも季節はとっくに変わるぐらいに経ってからのことだった。

最初は、人生で初めて受けたホロスコープ鑑定の時に、不思議な力を持っている鑑定士さんから知らされたことがきっかけだった。

鑑定士さんの話は、過去世で私がペンジュラムを使っていたことと、そしてそのすぐ近くにその人も生きていただろう過去世の情報だった。

私はそこでそんな話を聞いてくるなんて思ってもいなくて、本気で驚いた。

鑑定士さんいわく、そういう情報は見ようと思って見れるものではなく、必要があった時に初めて鑑定士さんの元にもたらされる情報とのこと。

必要性の判断は鑑定士さんではなく、その情報に関係している関係者たちの魂の判断で、その場合の時に限って言えば、私の魂よりも相手側の魂からもたらされてる情報だと思うと教えられた。

私がその話を、普通にこれだけ読んだらとても怪しい話を、最初から疑うこともなく信じられたのには理由がある。

1つは、ペンジュラムを異常なほど最初から使いこなせていて、そんなことはそれまで生きてきた中で一度もなかったから、そもそもペンジュラムだけは出どこが違うんだろう…というのは何となく思っていた。

もう1つは、そうだと聞かされて、その人に対する色んな感情や感覚に初めて説明がついたこと。

単なる出会いとして片付けるには、あまりにも色んなことがありすぎて、そして感情や感覚なんてのももう説明できないぐらい色々あり過ぎた。

書き出すともっと色々あるけれど、とりあえず私は、自分の感覚ではその人と私はペンジュラムを通して何か強い縁があるだろうことは感覚としてわかった。

だけどそれは長いこと私の感覚で思っていることだけで、それを証明できる手段を何一つ持ち合わせていなかった。

そもそも証明できるなんて思ってなかったから、自分だけの感覚で満足してるからそれでいいやと思った。

そんなの証明したところでその人と会えるわけでもないし、ここにはこうして書いても、その人からしても「何言ってるんだ」状態だろうというのも思っている。

ある時から覚悟が決まって、このブログでもペンジュラムもオルゴナイトもその他色々スピリチュアルというよりオカルトな怪しい話も山ほどするようになったけれども、私が思うにその人はそういうことに馴染みのある人生を送ってきた可能性はとても低いと思っている。

私が色々書く理由の1つに、その人に私の本当の姿を知って欲しいというのがある。

その人の目の前にいた私は、単なる派遣社員で静かに事務仕事をしていただけで、まさか陰ではペンジュラムを使ったりスピリチュアルなことを色々学んだりしてるなんてのは想像さえしていなかったと思う。

私も当初は隠すというか言うなんて考えたこともなかった。

もうどうせ会わないのであれば、尚更のこと言わないでおこうと思った。

だけど2017年の12月、友達主催の大人のための命の授業的なイベントに行ってみて気持ちが変わった。

そこでは普通にはありえないようなぶっ飛んだ体験ばかりをしている人たちの生の声を聞く機会に恵まれた。

本名で堂々と自分の気持ちを自分のしていることを表現しているその人たちに心底憧れた。

そして私も強く強く思った。

自分を隠すんじゃなくて、そのままの自分を表現したいと。

そしてその自分で堂々と生きていたいと。

そこから少しずつ少しずつカミングアウトを始めた。
(最初は今みたいに何でもかんでもは書かなくて、超恐る恐る少しずつ書いていった。そして、その少し後からリアルな人間関係の場でも直接自分のことをカミングアウトするようになっていった。)

会えもしないのに何を言ってるんだという話だけど、同じ読むでも私はベールに包まれた自分ではなくありのままの自分をその人に知ってて欲しかった。

そういうことに本当に抵抗があってダメなら、私のブログは読まなくなるだろうと予想して、それで書き始めた。

とりあえず、その人は抵抗があるのかないのかは知らないけれど、読めるだけのキャパシティがあることはわかった。

書いてて話がどんどんズレてることに気付いた…。

で、何が言いたかったかと言うと、そのペンジュラムとその人との関係を、今回初めてホロスコープを見たことではっきりと知った。

これまでは、鑑定士さんに教えられてから「そうなんだろう…」という感覚だけで、勝手に繋がりを感じていた。

感覚だけは飛び抜けて別格過ぎたから(人間的な感覚で言うと「変」とも言う…苦笑)、それが魂の繋がりだったり、ペンジュラムを通して繋がりがあるんだろう…ぐらいに思っていた。

だけど、今回初めてペンジュラムが私の元に来た瞬間のホロスコープとその人の生まれた時の大体のホロスコープとを重ね合わせて見ることができて、確信した。

今みたいに確信はできないおおよそのホロスコープでも、例えば後に正確な出生時間と出生地(緯度経度)を知った後のホロスコープでも、変わらない部分がある。

その変わらない部分において、その人はペンジュラムにすごく良い、そして強力な助っ人のように影響してくれてることがはっきりとわかった。

そして、その影響の部分を私はすでに先に体験として知っていたから、だから本当に体験通りの影響をその人が持っていたということに確信が持てた。

私の気のせいではなく、本当にそもそもがそういう影響下にあって、当然そんなことを何一つ知らずにここまで来たわけだけど、今ようやく体験と知識がセットになって、その人は本当の本当にペンジュラムを通して繋がっている人なんだと知った。

いつものごとく、私の記憶システムには色々誤作動や華麗にスルーという凄ワザを搭載しているおかげで、今の今まですっかり忘れていたけれど、実はここに書いたことの途中からはその人なくしては全てが有り得ないことばかりになっていた。

そのことを突然今から数時間前に思い出した。

上のホロスコープの読み解きの中に「倉庫で整理してるところに話に行った日」の部分がある。

一応、読み解きの部分は、時系列に並べて書いている。

そこを含めてブログ再開までの部分、そこはペンジュラムにまつわるエピソードをはじめとする色んなことがもし起きなかったとするなら、現実にはその人の異動以外何一つ起こることのできないことばかりだった。

そしてそこにペンジュラムが一役どころか漢字的には一躍(いちやく)の大役を果たしてくれていて、それが今のこの瞬間に全部繋がっていた。

そんなこと、数時間前まで知らずにいた。

もうどこをどうほじくり返しても、その人のペンジュラムへの影響は無限大に大きい。

そもそもの私とペンジュラムの縁も強いけれど、実はペンジュラムと私のそもそもの相性図なるもの以外は、その人のホロスコープの方がペンジュラムとの絆というか繋がりが強い。

もっとよく見たら違うかもしれないけれど、今最低限の重なりだけを見た時点では、完全にその人のホロスコープの方がペンジュラムに与える影響は大きい。

知れば知るほど、納得感が増した。

そして、もう「私の気のせい」って疑わなくてもいいんだと思った。

ずっとずっと、何にも反応がないどころか私は嫌がられてたみたいな最期の記憶が強烈すぎて、「本当にすべてが私の気のせいかもしれない」というのが常にあった。

時間の経過や目に見えない部分の変化を経て多少薄まりはしたけれど、やっぱり疑いは晴れなかった。

でも、ホロスコープが「私の感じてた通りの影響があったんだよ」と教えてくれたから、とりあえず自分の感覚で合っていたんだという何よりもの信頼を得た。

空の星たちはみんなに等しく同じエネルギーを注いでいる。

でも、例えば晴れがずっと続いたとして、外で晴れてないとできない仕事をする人からしたらそれは有り難いことにはなるけれど、一方で貯水ダムの水が底をついて水の供給がストップしたなら、それの影響をもろに受ける人たちからしたら有難くない天気になってしまう。

そうしたことには関係ない、例えば室内の仕事の人からしたら、晴天が続くのは可も不可もない。(←あくまでたとえ話)

同じ太陽でも、影響は各自によって全く違う。

空の星たちと各自が生まれ持った星にも同じことが言えると思う。

同じ場所で同じ時間一緒にいても、影響のある人とない人とがいる。

もちろん、縁の濃い薄い、縁の有る無しも、個々人によって違う。

その人と私は職場が一緒だったわけで、当然他の人たちもいた。

客観的に見て、その中で一番縁の薄い関係の人だった。

縁がないと言い切ってもいいぐらい、重なりなんて何もなかった。

当時を振り返ってみても、その人と私は見事に1つも仕事での接点がなかった。

席も一番離れてた。

双方にとって、本当の本当に接点は皆無で、普通ならいてもいなくてもわからないぐらいの存在感になると思う。

実際に、本当に喋る機会もなければ、何か一緒にすることもなかった。

挨拶でさえ、現場に出ていて普段顔を合わせない静かにしている人よりも、現場の人よりも明らかに事務所滞在時間が多いその人と交わす挨拶の回数の方が少ないぐらいだったように思う。

現場の人も接点のなさはその人と並ぶぐらいなかったけれど、挨拶だけはなぜか普通によく交わした人で、女性陣から不人気のその人は私は苦手ではなかった。

事務所には黙って入ってくる人なのに、入口とか廊下ですれ違うと向こうから挨拶してくれる時もあったぐらいで、だからその現場の人の方がむしろ個人的な近さはあった感じはする。

その現場の人の上をさらにいく遠さを、ペンジュラム繋がりのその人には感じていた。

なのに、なんだか知らないけれど、ボタンのかけ違いがたくさんでもないけれど深く印象に残るぐらいは起こって、それでその人とは不思議な接点を時々持てることになった。

そのかけ違いは、その人が転勤になって次の人に交代になったら、全く起こらなくなった。

それは必要ないからだと思う。

次の人との方が個人的な話もできたけれども、その人の時のような印象や影響は一切なかった。

言うなれば、一般的な職場の上司や同僚とやりとりするみたいな感じにとどまった。

だから、本当に改めてその人というのは、信じられない形で色んな影響を私に与えてくれた人だった。

この間、当時一緒に働いていたSさんにも聞いた。

16年勤めたSさんに確認をした。

Sさんが言うなら絶対だと思ったから。

その人の存在が私にわかるように明らかになった、超イレギュラーな仕事が当時1つあった。

それはその時一度だけしかなかったし、一緒にその仕事を担当した人に、その仕事は毎年とか毎月とかやる仕事なのかを聞いた。

聞いた人は「私の記憶にある限り初めて」と言った。

別に疑ってはいなかったけれど、やっぱり気になって、この間Sさんにも同じ質問をした。

Sさんも同じことを言った。

16年いて、最初で最後だったと思うと、ゆっくり振り返りながらそう言った。

さらに「あの時、順番が逆になったこともよく覚えてます」と言われた。

私は前半後半関係なく嫌は嫌だったから、順番なんて何でも良かった。

だけどそれさえも大切なことで、本当になるべくしてそうなったとしか言いようのないことが起こった。

順番が逆なら、その人と私は永遠に接点を持つことはなかったと思う。

その時を境に、その人は私の世界にきちんと私がわかるように存在するようになった。

同じエネルギーがその瞬間瞬間にみんなに等しく降り注いでいたわけだけど、縁がないと繋がることはできない。

その瞬間に繋がったのは偶然でもまぐれでもなかった。

私から見て、必然だった。

私が私の人生に向き合って、自分の人生を生きる覚悟を持って残りの人生を生きる、その細かな要素の1つ1つを見えないところでこれ以上ないぐらいに補完して助けてくれてたのがその人だった。

接点がないから、話したことがないから(←仕事で用事があれば話したけれど個人的会話はゼロ)、手が届かないから、生きる世界が違うから…、色々と言い訳を並べて否定ばかりしまくりだったけれど、本当は違う。

その人とどういう形であれ、存在を認識して繋がることは、私にとっては必要不可欠なことだった。

人間的価値観の尺度では計れない、それぐらいに深い意図があったことを私はこのホロスコープの読み解きで知った。

魂たちは多分生まれてくる前にお互いに意図している。

私側の係は不明だけど、少なくともその人の係は、ペンジュラムを含めた私の人生のターニングポイントの陰の協力者だということ。




〜さいごに〜

これから書くことは私の妄想話。

完全に妄想。

根拠は何もない。

星の情報さえ含まれていない。

本当にただ私がそう思っている、というだけの話。

でもそう思う方が色んなことが自然な感じに感じられる。

ドラゴンヘッドやテイルが絡んだものというのは、一般的に過去世絡みのご縁が多いと言われている。

あくまでもそれは占星術においての定説での部分。

ここからは私1人で思っていること。

過去世で近くにいた誰かと今世でもまた再会する時というのは、私はそれは単に「また生まれ変わっても会いたいね」というものよりも、「あの時に果たせなかったことを次こそは果たしたい」と切実な想いを抱いて再会するんじゃないかと思っている。

だって魂というのは基本「成長LOVE」みたいだから、過去世である程度完成したものなら、別に今世出会い直さなくてもいいと思うし、成長LOVEで体験(=苦行)LOVEなら、魂は安住の関係よりも未開の新規開拓に躍り出るんじゃないかと思う。

じゃあ何で過去世でも縁あった人と再会するのか。

何かの事情で、過去の人生では果たしきれない何かがあった…、だから今世もう一度仕切り直しでチャンスが欲しい…、そんな気がする。

これは私の勝手な想いでしかないけれど、私がこんなにも執着以上の何かで、ある1人の人に執着して、こんなにも調べ物をして、こんなことしたって未来の何かに繋がるとは思っていないし、それならもっと生産的な何かをした方がいいでしょう!?とも思っているけれど、それでもそうまでしてしまう…、それは何かどうしても果たしたいことがあったとしか思えない。

手が痛くなるまでペンを握ってひたすら文字を書き続けた日。

明らかに過去に一度として体験したことのない感覚だった。

手紙ならそれまでだってたくさん書いたし、その後もたくさん書いてる。

行為そのものは、私の場合、珍しいものじゃない。

けれど、何が何だかわからず、今伝えなきゃこれから先の残りの人生、死ぬほど後悔すると思って、本当に衝動だけで書き続けたあの時。

書いてる内容もなかなかなぶっ飛び具合だったけれども、中身がどうとかよりも、もう今しかないよ!!という、私明日死ぬのかと思ったぐらいの鬼気迫ったものを自分の中に感じて、その感覚でひたすら手を動かした。

この世の感覚ではないような感覚だったと今にして思う。

どこまで本当かはわからないけれど、その人と関係があったと教えられた過去の人生では、私は幼くして死んでしまったとされていて、そうだと本当にするなら、何も伝えられずに死んだんじゃないかなと思う。

伝えるための時間がなかった。

それが今世では健康体で、とりあえず書くことに抵抗がなくて、同じ母国語を話して、そしてまるで伝えるためにその状況が自動的に設定された。

それが今世の目的の1つなら、もう目的完了、ミッション完了で次に行けていいはず。

だけどそこでも不完全燃焼で、今もグダグダとこんなことになっている。

本当に私の執着だけでこうなってるのであればそれでいい。

そんなのは私の問題だから、私が何とか折り合いをつけたらいい。

でも私はうっすらと、私だけじゃなく相手も、何か今回の人生で計画してきたことを完遂してないんじゃないかと疑っている。

どうしてどうしてこんなにも長い文章たちを読み続けるのか。

しかも1回2回じゃない。

本人すら数えきれない回数、時間をかけてくれてる。

ただ読みたいというだけでは読めないと思う。

何かの行動、それが意識的でも無意識的でも、その奥には必ず動機がある。

その動機の部分が、なんとなく単なる好奇心とか遊び心みたいなのじゃなく、何かどうにもできない、それこそ私が明日死ぬのかの勢いで手を動かし続けたような、そういう突き動かされる強いものが奥の方にある気がしている。

どういう言葉が適切なのかはわからない。

自分が何を言いたいのかもよくわかっていない。

でも、もし、何かその人の中で表現したいものがあれば、その時は私は黙って聞こうと思っている。

私は自分の方がよほど色々とおかしいと思っているから、その人がどうであっても、多少驚くかもしれないけれど、否定はしないように努めようと思っている。

私側が消化不良を起こすような話でもそれはそれだし、色々と何がどうであってもその流れこそが必要なんだろうと思っている。

さんざん検証したおかげで、魂が絡むと人間の頭では考えもよらないことが起こるとわかったから、そういう意味での覚悟はある。

とりあえずどんなことにも心を開けるのは、私の特技と言ってもいい。

これは率直な私の感想。

正しいとか間違っているなんてのはわからない。

だけどこれが私の感想。

何日かのホロスコープを出して、それとその人の完全ではない一部情報が欠如した状態でのホロスコープを重ねて見て思ったこと。

私への影響よりも、その人への影響の方が遥かに大きい。

特に、出逢いと別れの日が対照的で、出逢いの方は私のホロスコープの方に大きく影響している一方で、別れの日はその人のホロスコープの方に大きく影響している。

ブログをはじめとするメッセージ系のホロスコープは、私じゃなくてその人への影響がとても強い。

それが1つだけならわかるけれど、いくつもそういう結果が出てきた。

星の操作はできないから、本当に出てきたものをそのまま読むしかない。

転勤だって、その人は一刻も早く居心地の悪い場所を離れたかったんじゃないかなと思った。

そもそも、ど田舎の新潟の町への転勤を希望して来たわけではなさそうだった。

Sさんから、転勤希望出してたみたいという話を、いつだったか聞いたことがあった。

だから、私がいるいないに関係なく、この土地を離れたいというのはあったと思う。

そこに今度は私という、その人の日常を脅かすようなものを投げかけてくる人が出てきた。

逃げたいとか避けたいと思われても仕方のないことを私は自分がしたんだろうと今でもそれは思っている。

私はもうずっと会えなくなるんだと思ったら、泣くぐらいに嫌だった。

だから、そのお知らせは私の方にしんどいものが来てその人の方に軽やかなものが出てもおかしくはなかった。

その不快になる状況はとりあえず終わりにできるよ、おめでとう!ばりな流れがあってもいいと思った。

だけど実際は違った。

それがその人の心の中ならいいなぁなんて不謹慎なことを思ったけれども、それぐらいにその人のホロスコープと重ねると重苦しいものがいくつもいくつも出ていた。

そうしたものたちをいくつも目の当たりにして、もしかしてその人も何か持っている、ずっと言い出せなくてここまでズルズルと来たものがあるのかもしれない…と思った。

それは愛の告白とかそういう意味じゃなくて、本当に何か言いたいことや伝えたいことがあったんじゃないかなと。

だから、もし未来のいつか、その人が口を開きたくなった時が来るとするなら、私は静かにその話を聞きたいと思っている。

私も色々とおかしいと思って、ものすごくたくさん葛藤した。

今も葛藤することはよくある。

もし仮にその人も同じようにおかしいと思って葛藤してきたとするなら、それはもうものすごいがんばり続けたことで、さぞかし苦しかったんじゃないかと予想している。

だから、もしもしそんな機会が巡ってきたら、私は静かに耳を傾けたいと思っている。