当時の自分にお礼を言いたい。
箇条書きであっても、当時のことを私は日付順に、要は起こった順に、何がどうなったかを書いておいた。
後でいくらでも振り返られるように、そしてその瞬間瞬間を覚えておきたくて、私はいくつかのことをメモした。
ショックなことや悲しかったことも私は目をそらさずにそのまま書いておいた。
起きたことはすべて起きたこととして記録しておきたかった。
そのメモを昨日、2ヶ月以上ぶりかと思う、改めて読んでみた。
当時の光景がよみがえる。
もう一度頭の中で再生。
いやいや、もう一回再生。
再生すればするほど、その時の光景に私は本音とは違うものを感じていた。
私の本音の方じゃなくて、私以外のところにある本音が本音とは違う、気のせいかもしれないけれど私はその時そんな風に感じていた。
2ヶ月もすれば、あったことすべてをリセットするかのように、また元の日常に戻ることになるのかと思う時もあった。
未来のことなんて当然私だって知らない。
だけど、否応なしにリセットされた環境に身を投じれば、また自分の日常もリセットされて、元の日々と変わらない日常が待っているのかもしれない、そんな風に思っていた。
もしくは、一気にリセットされなくても、日常を過ごしているうちに色んなことは忘れ去られて行く…、そうなってもおかしくないと思っていた。
だけど、2ヶ月という時間を経て今わかったことは、それらが一切色褪せることなく、むしろさらに色彩や深みを増したという事実。
リセットするどころか、ますますリセット予定のものは色濃くなっていった。
それも2ヶ月前に目の前にあった時よりも、今ない現実にいる時の方が色濃いのだから、自分でも驚いた。
日常に戻るどころか、ますます不思議なことが度重なり、不在のものは不在のくせして私はあちこちからその情報や名を耳にするという、これまた面白い日常が展開している。
目に見える現実の世界にはいないのに、名前とかのつかめない・見えない形で存在をあちこちにちりばめている。
昨日の夜、そのメモを見てそして2ヶ月を振り返って自分できっぱりと決めたこと。
「もう自分に嘘をつくことをしなくてもいいこと。
誰に遠慮することなく、自分が思いたいように思っていたらいい」
ようやく自分で自分にOKを出せた感じだった。
それはある種の爽快感を伴った。
常識で、または大人的な感覚で判断すると、今の私も2ヶ月前の私もとってもおかしい人になる。
それは否定しない。
本当におかしいと思う。
私は自分の感覚を説明できる言葉を持っていない。
どう説明して良いのかも正直わからない。
で、いい年した大人が今の自分を言葉で表現しようものなら、「もっと現実を見なよ」と言われるだろう。
私自身もおかしいと思っているから、自分の気がかなりぶれているか勘違いなのかもとそれこそ数え切れないくらい思った。
この2ヶ月もそう思わなった日がなかったわけじゃない。
なかったわけじゃなかったけれど、それ以上に目に見えない部分で自分の中を占めている、その事実の方がいつしか大きくなった。
どんなにおかしくても、実際に自分の中を占めているものがこんなにもはっきりと出てきたら、もう否定のしようがなかった。
あともうひとつ。
2ヶ月前と今とでは、私は同じところにいるけれど環境は確実に変わった。
あったものがなくなったんだから、当然変化が生じる。
目に見える景色も当然変わった。
その変化によって、私はさらに一層自分の中にあるものを確信していった。
たとえば、自分が全神経を集中して見ていたもの聞いていたものがあった。
本当にその集中力たるやすごかった。
今もその見ていたものや聞いていたものと同じような情景が目の前に広がるのは日常茶飯事だったりする。
だけど、私はもうそれらに全く見向きもせず、人や環境が変わると、たとえ同じように見えるものでも似て非なるものだということがよくわかる。
似て非なるものたちに私は一切の感情も動かなければ、何なら興味関心もないから、まるっと自分の世界に入っていて外で何が起こっているのか誰がいるのかしばし気付かないこともある。
同じような状況が復元されればされるほど、あれはあの時だけのとても特別なものであったことを実感する。
ある人が言っていた言葉がすごくぴったりな感覚だと思う。
人はドキドキしようと思ってもドキドキはできない、だけどドキドキさせられたらもうそれは自分でも止められないもの。
そんな内容だったと思う。
同じ状況でも、自分の感情が動くか動かないかは、そこにあるものが何かによって変わる。
あるものがあるのとないのとでは、こんなにも見える世界が違うのかと愕然とする。
そして、その世界にいる自分自身が、全く別人のようになっていることにも。
ないというだけで、自分の中のスイッチが完全にオフになる。
オンになった時もそれは自動でいつも勝手にオンになっていたけれど、オフも同様にまた自動的にオフになっている。
色彩が失われた世界に私は興味がなく、今は基本的にその環境下での私はオフになっている。
唯一、その情熱を傾けて見つめていたものの名残を目にする時耳にする時だけ、私のスイッチはあっという間に一瞬でオンになる。
今の私は手書きの文字1つ見るだけで狂喜乱舞する特殊体質になっている。
そこで昨日の夜、私はもう色々自分の中で否定することを止めようと決めた。
おかしいと言えばおかしいことでも、もうそれが私の中では自然なことなんだから、そのまま受け止めたらいいって。
異常なことでも、それが毎日毎分のこととなれば、もうそれは異常ではなくて自然なこととして日常に横たわっている。
別に誰に迷惑をかけるわけでもなければ、もちろん自分に迷惑をかけるわけでもない。
しかもその異常と思うような状態にある時の自分は、悲しみやショックなことも含めてしあわせそのものだと思う。
いくらお金を積んでも、または私がいくら偉くなって時の権力者になったとしても、決して手には入らないもの。
そういうものを私は手にした。
人生の中でそういうものに触れられるって、どれだけラッキーなことなんだろうと思う。
そういうものを自分自らは引き起こせない。
まして、欲しいと願ったら手に入るものでもない。
私はそんなものを、そんな瞬間瞬間を、この生きている人生の中で手にして出合えた。
その事実だけは変わらない。
そして時を経て、目の前の景色が変わっても、生き続けていくもの、そういうものと巡り合えるということに、私は自分の中の最上級の「目に見えない大切なもの」に触れ合っている、そういう生きた感覚だけはものすごく強くある。
私はこの秋、ある格闘技に嫉妬した。
「○○○○LOVE」と言ってもらえる、その格闘技に本気で嫉妬した。