2022/02/25
市内に住んでいる父の従兄弟が亡くなった。
一人暮らしで父が緊急連絡先の登録になっていて(いつからかそういうことになっていた、とこの1年くらいのいつかの入院の時に父も初めて知らされた)、警察から電話が来たようだった。
いつ亡くなったのかも、そして父は直接の血縁関係にないから本人と対面できてないらしい。
他県にいる姉たちが今日(2/26)こちらに来る予定で、そこから警察に行って色んな手続きを進める予定とのこと。
昨日(2/25)の急な残業のタイミングで知った。
26日の日曜日から火曜日にかけて、姪っ子が小学生になったら平日休むのは難しいから、金沢の妹家族のところにもう1人の妹と集まる予定になっている。
月火と休む関係で先送りできない仕事が浮上して、それで急遽残業することになった。
仲良しの子にどうも父方のおじさんが亡くなったようだと話したら(とっさのことすぎてそう説明したけれど、よく考えたらいとこだった)、仲良しの子も「実は誰にも言ってないんだけど…」と言って、今週家の方で不幸があってバタバタしていたことを教えてくれた。
そちらは本当のおじさんが亡くなったけれど、話は複雑だった。
おじさんは、内縁の妻が長いこといて、その連れ子と3人で暮らしていたらしい。
内縁の妻は先に亡くなって、今はみんなバラバラではあったけれども、その連れ子の女の子が時々おじさんの家に様子を見に来たりも含めて泊まりに来てくれてたとのこと。
今回も泊まりに行こうと思って連絡するものの全く連絡がつかなくて家の鍵も持っているから見に行ったら、すでに亡くなっていたらしい。
彼女が第一発言者になるわけだけど、何一つ法的な関係がないから何の権利もなく、警察とのやりとりやその他のことは仲良しの子の母や他のきょうだいですることになった。
若い彼女の方はせめてお花とお線香を自分のおばさんと一緒にあげに行きたいと申し出ていて、それで今小さな葬式をあげるかどうかでバタバタしているという話だった。
実はもう1軒、いつも通るうちからほど近い道の通りで誰かが亡くなったと知って、それが私の小学校のほんの少しの間だけ一緒だった同級生の親・おばさんだというのがわかった。
この話はまさかの私の子どもの頃のいじめの記憶にまで深く根付いたものがあるだなんて全く想定していなかったけれども、さらに複雑な話をうちの親から聞いた。
その亡くなった方というのは、その家に嫁いできた方で、物心ついた頃からこの土地に住んでいる父は一度も見たことがないらしい。
私はその家が商売をしていて、時々外にその方が出ていたり、小学生の孫と月を見ていたりしていた姿を何回か見ていたから、それでなんとなく姿や雰囲気を知っていた。
私はてっきりその家の跡取り娘かと思いきやそうではなく、嫁に来たけれども、跡取り息子だっただろう夫が浮気をして夜逃げをしたらしい。
細かい事情は知らないけれど、その方はそのまま残って家の商売を引き継いで、今は私とたしか同級生だったと思う息子が家業を継いでいる。
私のいじめの件は、その息子の方ではなくて、その息子からしたらいとこにあたる女の子から受けたものだった。
だからその女の子にしてみたら、今回亡くなった方はおばさんになる。
ちなみにその女の子のお母さんが父と同級生で、それでその家庭事情を私もこの年になって初めて知った。
いじめの記憶は強烈で凄まじいものがあるけれど、その家庭事情を知ったら彼女も彼女で当時かなりいっぱいいっぱいだったんだろうと想像できた。
ちょうどいじめを受けていた頃の自分の年齢に今度は姪っ子がなるわけで、姪っ子を見て姪っ子がもうそういう年齢になるんだな…なんてここ最近思っていた矢先のことで、そんなタイミングで当時のいじめと当時の色んな家庭環境が明るみとなったここ2日3日だった。
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そんな風に知らない人たちの死にごととそれにまつわる色んな現実の話を一気に知ることになったわけだけど、私個人が思ったことを今回も赤裸々に書きたいと思う。
人の死が今回は3人もあったわけで、本当に不謹慎、非常識な視点かもしれないけれど、これから書くことは私が本当に思ったことだからそのまま感じたこと思ったことを書きたい。
そして、「死」という一般的にはタブーというか決して声を大にしてベラベラとおしゃべりできる内容とは違うけれど、それをオブラートに包んだり違う言い方を遠回しにする方が余計と混乱を生みそうだから、どストレートに出てきたままの自分の気持ちを綴りたい。
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父の従兄弟の死と職場の仲良しの子のおじさんの死とを立て続けに聞いた後、真っ先に私の目が向いたことは、一人暮らしでの死となると変死扱いに一度はなって、亡くなった本人と血縁関係のある人が身元確認をしなくてはいけない法律なのか決まりなのかがあって、そうなると生前の関係の近さや親しさは全く何の意味も成さないことだった。
仲良しの子のおじさんのケースは本当にその最たる内容だった。
仲良しの子いわく、おじさんとの交流はおじさんの兄弟である彼女の母たちも含めてほぼほぼなくて、今回警察から連絡が来て初めて色々と知ったらしい。
片や内縁の妻の連れ子だった女の子は、母亡き後もおじさんと交流が続いていて、合鍵まで持つ関係で、さらには連絡がつかなくておかしいと思って見に行って、本当の意味で故人と密に繋がりがあったとわかる。
だけど法の下では、「血縁」が優先されて、内実の濃い関係は全く何の意味も力も持たない。
ものすごく短い時間の中で、そして残業中は日本語の原稿を見ながら自分の英訳が正しいかどうかのチェックをやりながら、そんな最中に色んなことが頭の中を駆け巡って、そして私が何よりも一番自然に想像したことは、イケメン上司が死んだとするなら…というものだった。
想像したというよりも、ものすごく自然にイケメン上司のことがスッと自分の中に浮上した。
そんな内容だから書こうか書かまいかものすごく迷ったけれど、そのことがずっと頭の中から離れないから、今回書こうと決めた。
第三者から「貴方が死んだら…」などと想像されることはどう本人に映るのかわからない。
不気味に思われたり不快になることも十二分に考えられる。
この時点で無理ならここで読みやめてくれるだろうと相手の自由意志を想像しつつ、多分読んでくれるという(多大な)希望を抱きつつ、書き進めたい。
私の遠慮のなさには辟易してるかもわからないけれど、これが私だからと開き直っている…。
その2人の男性の死にまつわることを聞いて、もしイケメン上司が私より先に亡くなったとしても私は一生知ることさえないんだな…と当たり前の事実を頭で確認しながら、寂しいんだか悲しいんだか落胆しているんだか、なんだかよくわからない感覚と共に冷静に淡々とそんなことを思った。
話が少し逸れるけれど、魂だの何だのと学ぶようになって、私の死のイメージというのがだいぶ変わった。
自分以外の第三者の死というのはそんな風に考えないけれど、自分の死というのは今とはまた別の体験をしにいく、今は地球で武士俣史子という名前と今の肉体とを持って生きているけれど、死んだらとりあえず武士俣史子の名前と人生と体とはお別れして、次なる魂の旅に旅立つ、最近ではそんな風に思っている。
そして魂だけが最後残る時、今度はこれまで会えた人たちと魂同士で再会したりするのではないかと想像している。
何でこんな話をしたのかというと、今現在のイケメン上司と私との関係はさておいて、2人ともそれぞれの今生の肉体で死を迎えた後は、必ず魂同士は再会すると思っている。
魂だけになれば、今みたいな余計な制約も苦手感も無くなって、もっと自由にお互いにやりとりや意思疎通ができるんじゃないかと想像している。
魂に性別もあるんだかないんだか、少なくとも社会的な立場や年齢や住む地域や関係性は全部死と同時にリセットされてなくなるだろうと思う。
それだけ自由度が高まると思えば、イケメン上司の魂と再会するのはとても簡単になるだろうし、変なわだかまりや抵抗も少なくコミュニケーションも取れるように思っている。
だから死後のことは私は何にも心配していない。
話を戻して、今現在から死のその時までのところに再び注目する。
本当に赤の他人の私は、絶対的な100%の確率でイケメン上司の死を知らされることはない。
それはどうやったって覆(くつがえ)らない。
その事実を頭ではものすごくよく理解しているし、仕方ないとさえ思わないくらいにそれが現実のことだというのもわかっている。
なんだけれども、気持ちというか心はもっと別の感じで、そういう未来を私は望んでいるのかというとそうじゃない。
知りたいのか知らされたいのかはたまた法的に認められた関係でありたいのか、そういうのは深く考えてはないけれど、「はい、わかりました」という気持ちにはなっていない。
そして死んだ後のことはさっき書いた風にやすやすと想像できるくせして、そのくらい気持ちが割り切れているのかと言えば、そこは全く違う。
そしてこれもおかしな想像ではあるけれど、仮に私が先に死ぬことになっても、それをイケメン上司が知ることのない現実については特別な感情は湧かない。
むしろ、生涯独り身の自分が死ぬ時は、絶対的に誰かしらに後始末的なことをしてもらわないといけないわけで、そういう準備もしておかないといけないんだなと思ったら、誰に知らせるだのというのは全く興味が湧かず、むしろどういう手段なら一番他人の手を煩わせずにいられるか、そういうことは調べないといけないなと思った。
余談だけれど、今回の父の従兄弟の件は、高齢の姉たちと父が諸々手続きやら何やらを担当しているけれど、私の中で自分が仮に姉妹の中で一番先に死んでもそして姪っ子がいても、気持ちとして頼めないし本当に余計な負担だけは避けたいと思っている。
そんな風だから、私がイケメン上司より先に死ぬことになっても、それこそ知らせる手段もないし誰かの手を煩わせることの方がうんと嫌だから、私の死に関してはもはや思考の土俵に一瞬だけ出てきてもどうしたいとか何にも思うことなく終わった。
イケメン上司の命について知りたいと思うその自分の気持ちの根底はなんだろう?って考えた。
山で行方不明になったおじいちゃんとの魂?とやりとりしたことで、どうも死んだ後は本当に自由に色んなところに行き来できると知って、それを体験しているからこそ死んだ後の方が実に自由にやりたい放題やれるようなイメージがある。
でも私は死後にイケメン上司とどうこうしたいというのはこのテーマとは違う立ち位置にある。
そうではなくて、イケメン上司が今のイケメン上司で、私が武士俣史子の名前と体と人生である状態で、その状態で知りたいことで、そこにこだわっていると言うのとも違うけれど、上手く言えないけれど知りたいは知りたい、そのように思っている。
イケメン上司側にそんな義務も義理もないのは百も承知だし、こんなこと書いててもだからと言って何とかしてくださいっていうのとも違う。
だけど、自分の中でこんなに気になってしまう人の最期を知ることも知らされることもないって、どうにもできないと知っていてもとても寂しいことだなというのは素直に感じている。
職場の仲良しの子のおじさんのケースを聞いて、本当に法の下では生前の親密度や関係性なんて全部ぶっ飛ぶんだなとわかる。
件の女の子は本人の意向でなんとかお花とお線香をあげるところまで行き着けるかと思うけれど、そこにいくまでも相当な難所がたくさんあるだろうことは想像にかたくない。
そこまでの関係があってもそんな風なのに、イケメン上司と私とじゃ、イケメン上司に何があっても絶対に私が知らされることなんかないわけで、引越しさえ知らされない関係の人がさらにその遙か上をいく死を知らせてもらえるわけがない。
だけど私の中に「わかったよ」とならないものが確実にある。
「イケメン上司の命について知りたいと思うその自分の気持ちの根底はなんだろう?」のところに戻って考えても、正直なところよくわからない。
非常に勝手な話だけれど、可能であるなら私はイケメン上司にもう一度会って本当に色んなことを話してみたいとそれだけは真剣に思っている。
イケメン上司側はそんなことしたくないだろうとか考え出すと話がややこしくなるから、自分の気持ちや希望にだけ焦点を当てて言うと、本当に色々話をしてみたい。
私のことはここにたくさん書いているからそんなに目新しい情報などないけれども、イケメン上司側のことは私は何にも知らないわけで、イケメン上司側には私とのそもそもの出会いがどんな風に映っていて、どんな感じだったのかを聞いてみたい。
私にとってペンジュラムだのタロットだの亡くなった方の霊とコミュニケーションを取るだの、色々とオカルト的な要素が人生の中にガンガンと入ってくるのは仕方ないにしてもそれでもやっぱり色々驚きもあるわけで、私でさえそんな風なのに、イケメン上司からして、私から見ると超きちんとお勤めされて理系の白黒はっきりした又は数字とか世界共通言語で判断するようなものを主たる取扱いの世界の中にいる人から見て、私が関わる色んなことはSF映画ですか?みたいな、わかんないけれども、これが私の普通の日常でも他の人からしたら絶対に「普通枠」には見えないだろうから、そんな私がなぜか人生のある時にイケメン上司の前に登場してくるわけで、何でもいいからどんな風に私がいたあの時間や空間を感じたり見えていたりしたのかをイケメン上司の口から直接聞いてみたい。
ガンガン近付かれて恐怖だったでも、色々ウザかったでも、もはや内容は何でもいい。
本当にどんな風に感じていたのかを知りたい。
色々たくさん望むのは違うだろう関係というか関係って言葉さえもさらに違うと思うけれど、とにかく死をきちんと知らせてもらえるようなものを望もうなんて思わないけれど、せめて生きているうちに、この武士俣史子人生を生きているうちに、イケメン上司から何でもいいから直接言葉を聞きたい。
だから「死」というものがどちらかの人生で起きた時、それは生涯叶えることのできないものになる。
2人ともが死んだ後の世界では、答え合わせ的なやりとりはおそらく可能だろうけれど、そんなのは私が欲しいものとは違う。
私がこだわっているのは、生きている今の人生の中で知る機会が欲しいということ。
色んなことを体験したおかげで色んな人生があるのもわかるし、色々ぶっ飛んだことがありすぎな人生で、多少のことでは動じないくらいの強さみたいなのもある。
そういう意味で、私というのはイケメン上司の周りにはあまりいないタイプの人間なんじゃないかと思う。
目の前にいた時は単なる派遣社員でしかなかったけれど、蓋を開けてみたらこんな風で、想像以上にやばい人だったと思われてるかもわからない。
イケメン上司と私とが恋仲的なものとか男女の関係とかそういう類いのわかりやすい関係になる相手では全くないと思う。
私側はいいけれど、イケメン上司側は何が間違ってボランティアみたいなまたは罰ゲームみたいな、そんなことに巻き込まれなきゃいけないのかとさえ感じるから、そういうものを求めようなどとは思っていない。
色々気まずすぎて私にはあんまり近寄りたくないかもしれない、とずっとずっと念仏のごとくいつの時も思っている。
そういう恋仲相手は私じゃなくて他に適任者がいるだろうから、そういうことを求めるつもりはない。
だけれど、せめてこの色々意味不明すぎたことたちを、私以外の唯一の当事者であるイケメン上司から直接どんな風に感じていたのかを聞けないかなと思っている。
それだけはイケメン上司本人からしか聞けない。
だから生きているうちに真面目にその機会を叶えてもらえないだろうか…、とこだわっているのはそこなのかなと思う。
死を知らされないことは仕方ないけれども、今書いたことは仕方ないって割り切れない。
死んだ後に聞いたらいいじゃん、という風になんて絶対に割り切れない。
だから、自分の死であれイケメン上司の死であれどちらが先かはわからないけれど、どちらが先であってもそうなった時にはもう二度と今の人生でイケメン上司と人生の答え合わせができなくなる。
私にとって一生に一度しか体験し得ないことをイケメン上司の存在のおかげで体験できたわけで、そして目の前で言葉を交わせた時は絶対的な拒否と言わんばかりの状態で、どうやっても色々聞くことはできなかった。
いつか本当に私の願いが叶えられるとするなら、それが生涯で最初で最後になるだろう覚悟が自分の中にあるから、その時は本当にありのままの言葉をイケメン上司から聞いてみたい。
そしてその知れたことを冥土のお土産じゃないけれど、そういうものを残りの人生と死後の世界とで目一杯愛でたいと思う。
だから私は死を知らされる云々よりも、その機会を一生の中で手にできるかどうか、そこにこそ本当にこだわっているんじゃないのかなと思う。
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「死んだら…」仮定の話に、実名こそ出してないけれども固有名詞を出して、それがすなわち自分の死について触れられてるわけで、それが不快感や不愉快な感じを与えていないといいなと心から願っている。
もし願いとは反対の不快な方に行っていたとするなら、本当にごめんなさい。
2022/02/27
金沢行きのバスの中より
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【追記】
今ブログをアップしようとして、タイトルをどうしていいのかわからなくなってしまった。
『死ぬまでに叶えたいこと』と最初入れてみた。
だけど、「死ぬまでに叶えたいこと」というのはたしかに合っているけれども、なんだかこの内容と若干ズレてる気もする。
ここに書いたことはとても無為自然な形で湧いて出てきて、私はそこに何とタイトルを付けるがいいのかわからない。
書いたらこんな風だったわけで、しかも金曜の残業の時間からその感覚はずっとずっとあったわけで、その感覚は今も強烈に自分の中にある。
『無為自然なる気持ち』にしようかな…。
一層のこと、『勢いに任せて書いたもの』とかの方が一番しっくりな感じもする。
今決まった。
それでいこう!と決まったのが実際のタイトル。(決めるまでにかかった時間は20分。けっこうガッツリと悩んだ)