2018年3月31日土曜日

100日目 2018年3月30日

12月21日に始めた記録。

これから3月末まで100日近くあるなら、その100日先にはどんな風景が見えるのかそれを知りたかった。

何となく過ごすんじゃなくて、100日という数字を意識しながら日々過ごしたらどうなるのか、そこを知りたかった。

80日前後、誕生日前あたりからいよいよ色んなことが押し寄せて忙しくなって、気付いたらおとといぐらいに数えたら今日が100日目に当たると知った。

私は自分が何にそんなに忙しいのかよくわからないけれど←今振り返ったら何してたか記憶がかなりなくなってる、本当に内容の濃い毎日だった。

100日目の今日(3/30)、仕事の最終日だった。

意図したわけじゃない。

気付いたらそうなってた。

100日目、私は自分とした約束を1つ思い出した。

今回辞めるにあたって、私はそこにいる全員の人に手紙を書いた。

名刺サイズの紙に2枚程度の人から、長い人は何枚書いたかわからないけれど、ルーズリーフびっちりと書いて2枚ぐらいにはなるんじゃないかという長さの人もいた。

当初全員に書く予定ではなかった。

でも、ふと、こんな風に手紙を書けるのは一生に一度で、そしてその一度で伝えられるのは今しかないんだとわかって、それならせっかくだから書こうと思った。

当初書こうとしてた人たちはさておいて、そうではなかった人たちには何を書こうか迷った。

ありきたりの「お世話になりました。ありがとうございました。」は面白くない。

もちろん書くにしても、そんなのだけを書くためなら書かなくてもいいんじゃないかと思う。

そこで当初書く予定の人たちに書くことを参考までに思い浮かべて、「私から見たそれぞれの人の強みや良さ」をそれぞれの人に書こうと決めた。

それなら仕事の絡みのない人たちにも書ける。

何百人という人たちの強みを見て伝えることをしてきただけあって、それは私にとって簡単で確実にできることだった。

しかも書くのに仕事で絡まなくてもいい。

見て感じたままを伝えればいいだけだから。

そしておごがましさ全開で言うと、ザ・男の職場だけあって、多分他人から自分の良さや強みを直接言葉で伝えてもらうなんていう機会はそうそうないんじゃないかと思った。

であれば、余計とこのたった一度のチャンスをきちんと生かそうと思った。

だから私は見たまま感じたままをそれぞれの人に書いた。

事務所内でその人の良い評価を聞いた人たちに関しては、それもしっかり告げ口しておいた。

それって、知らないより知った方が本人も嬉しいはずだから。

そしてあわよくばそれがその人のモチベーションアップにも繋がったりするから。

作戦は大成功だったと思う。

1人の人しか手紙を読んだ後の反応は見れなかったけれど、その1人で十分だった。

一番仕事で絡みのない、何なら絡みはゼロの男性から手紙のお礼を言われた。

その時その人の目がキラッキラしてて、本当に嬉しかったんだろうなというのが伝わってきた。

私はおおよそその方に何を書いたか覚えてる。

仕事の姿勢について書いた。

それしか知らないから、それしか書きようがない。

そして言葉を盛ったりせずに、見たまま感じたままを書く。

だから私が書いてるのはその人そのものなんだけれど、多分自分が周りからどんな風に映ってるかは普通本人は知らない。

そして大体本人は実際よりも過小評価する傾向が強いから、自分のしていることのすごさがよくわかっていない場合が多い。

その方の場合も、基本的に静かに黙々と取り組まれていて、私だけではなく他の人たちともたくさん絡みまくるわけではないから、余計と自分のしていることのすごさはわからないと思う。

だからその人の強みを書いた。

結果その人はこれまで見たことのないすごい笑顔を見せてくれた。

そしてそれを見て、伝えて本気で良かったと思った。

帰りの車の中で私は思い出したことがあった。

自分と約束したこと。

その約束をいつ結んだのか覚えていないけれど、でも確実に自分の中で決めたこと。

それは、相手の良いところや強みを見つけたら直接相手に伝えること。

相手が受け取るかどうかはどっちでも良くて(しかもそれは私が決められる範疇にない)、とにかく伝えること。

大体そういう機会は一度訪れるかどうかだったりする。

その時を見逃さず伝える。

そう、それをやっていこうと自分でいつからか決めて、そして本当にそうしている。

自分のその約束は、最終的に相手よりも私自身が喜んでる。

その約束は普段発動しないから忘れっぱなしだし、手紙書いてる時も忘れていたけれど、今日帰りの車中で思い出して、そして過不足なくその約束を決行したんだと気付いた。

そして自分がそういうことをするのが好きなことも思い出した。



仕事中、一瞬気が緩んで泣きそうになってしまった。

目に映る風景の中に数えきれないくらいの回数面影を探した毎日や、いた当時の風景もいなくなってからの風景も両方今日で見納めなんだと思ったらとても寂しくなった。

私は普段とは違う位置に座っていて、それが今日は夕日が差し込む時間帯だった。

陽の光が室内に入ってきてて男性トイレの前辺りがキラキラしてた。

そのキラキラ具合は、面影の相手の周りにあった空気と似ていた。

色は夕陽色ではなかったけれど、光る具合やそのところだけ空気の感触が変わってる様子は似ていた。

たしか私がそのまとってる空気に最初気付いた時は、その人がトイレに入ろうとしてた時だった。

イケメンはトイレに入ろうとするだけであの空気感を醸し出すんだ、すごいなオイ!、とちょっと皮肉というかそんな風に思った自分がいた。

だから私は自分の気持ちに気付くより先にその空気感に先に気付いてた。

そして私は何か視える人ではないから、視えていたものを「イケメンオーラ」の一言で片付けていた。

だから私がそれをオーラと認識できたのは何ヶ月も先だった、しかも本人がいなくなってから。

そんなことを思い出してたら、それを見たくてももう見れないし、目で場所を捉えながら回想もできないんだと知った。

私は最後の仕事だと自分で思った仕事を終えた後、もう1つ毎週金曜日恒例の仕事を追加でした。

今回の分はたまたま随分と前から契約されてるものが大半で、ファイルを開く度にその面影の人物の名前を目にするようになっていた。

ここ最近は新しいものが多かったから、そもそもそんなことさえも珍しかった。

最後の最後に名前を見れて、その偶然をとても嬉しく思った。

なぜなら最後と思ってしてた仕事の時には、現体制の資料のファイリングだったから、その名前はどこにもなかった。

最後の仕事なのにテンション上がんないな…なんて思ってたから余計とこの追加の仕事が嬉しかった。


いた人全員にお菓子やら何やら配って、そして最後の追加の仕事を終えていつもより40分ほど時間がずれて退社した。

駐車場に着くと「武士俣さーん!」と呼ぶ声がした。

建物を見ると2階の窓からサノさんが顔を出してた。

私のことを見送ってくれると言う。

その瞬間すごく嬉しかった。

サノさんに了解を取って、写真を撮らせてもらった。

一生の思い出に残ると思った。

1年半ほど前、この目の前の場所に迷い込んで辿り着いた時、まさかそこが未来の職場だとは思わなかった。

面影の人物の最終日、いつもと変わらない駐車場を見て、これが最後の日なんだと思ったら、駐車場を見るだけで泣けてきた。

いなくなった翌週、私は朝着いてすぐに建物の特定の場所を写真に撮った。

撮った時に、もうこの風景もすぐに変わるんだろうなと思った。

私の読みは大当たりで、その2、3時間後には変わって、その日帰る時には今のスタイルになった。

その時は切なさや寂しさばかりを引き連れてきて、そしてその後もずっと何ヶ月にも渡りもう変わってしまった色んなことを、変わる前の風景と置き換えて見てしまう変な癖がついてしまった。

普通に駐車場なのに、私には毎日のように色んな気持ちを回想するのがセットであったから、そこはちょっとだけ切なさを伴うスポットだった。

それが最終日の今日、サノさんが最後に新しい思い出をそこに追加してくれた。

切なさだけじゃない、心をふわっと包んでもらうようなそういう色が加わった。

本当にサヨナラだなと思いつつも、その全ての瞬間が愛おしいものだったんだと気付いた。

車に乗っていつもの道を進む。

橋を渡って坂道下りてコンビニの前の赤信号で止まった。

私はあまりの偶然に息を呑んだ。

反対車線をその人の名字がそっくりそのまま入ってる洋菓子屋さんの車が通り過ぎてった。

私が勝手にラッキーアイテムと決定した世界に1台しかない車。

職場を出て3分ほどだと思う。

まさかこんなタイミングで会えるだなんて思っていなかった。

その人が私におつかれさまと言ってるわけでは全くないけれど、そのたまたまにしては出来過ぎてる偶然を見て、おつかれさまと言われてるみたいだなと思った。

そうして私の100日目は仕事の最終日を伴って幕を閉じた。

明日1日置いて、4月からまた次の100日を設定しよう。


机の中に忍ばせておいたお守りこと名刺は持ち帰ってきた。

初めて家に持ち帰ってきて、これまで公用の顔だったものが、スーツを脱いで私服に着替えるみたいなリラックスした顔になったように見える。

もう誰に気兼ねする必要もないから、自分の目のつくところに置いている。

寝る時はペンジュラムやオルゴナイトを枕元にいつも置いているけれど、その近くに置いた。

これからは普通に日々の個人用のお守りのようにしようかと思ってる。

お守りというか、好きな絵や物を見るように好きなタイミングで好きなように見る。

好きなものを見るとそれだけでパワーがもらえるから、そういう部分はこれからも引き続きお願いしようと思ってる。

2018年3月29日木曜日

机の中のお守りの今、そして最後

「1分だけ普通にふるまえるパワーをください」
その人がいなくなる前の日に真剣に願ったことだった。

日記に本当にそう書いた。

1分だけ普通に何事もなかったかのように挨拶できたらもう御の字だと私は思った。

たくさんシミュレーションもした。

まさか泣くわけにいかないから、そうならないように笑える場面をいくつか心の中に用意した。

泣きそうになったら、その場面を思い出して笑う方に自分を仕向けようと考えた。

私は今でも用意した場面を覚えているけれど、もうその場面を思い出しても笑えなくなった。

そのために用意した場面は涙を誘うものに代わってしまった。

1分だけ普通にふるまえるパワーは、本当に願った通りになった。

本当にその時だけマックス理性を持って何とかやりきれた。

挨拶さえも避けられそうになりながらも、自分の中に一瞬にして相手の冷たい空気が伝わってそれに屈しそうになりながらも、それでもやりきった。

だからその日の夜、私は自分がこの1ヶ月ほど本当にがんばったと思っていた。

苦い思い出になるのかとばかり思っていたけれど、実際はそうでもなかった。

苦いこともかなりな位置を占めてはいたけれど、私はその日の最後に「80才位のおばあちゃんになったら、今のことを面白おかしく武勇伝のように失敗したけどすんごく楽しい恋だったわよ!的な感じで話せたらいいって思ったんだった」と日記に書いている。

苦いこともたくさんあったけれど、それと同等に喜びもたくさん感じたから。

本当に誰かに会えるだけであんなにも心が躍るなんて、そうそう体験できるものじゃない。

私はその人を通じて、人生の喜怒哀楽をたくさん味わうことになった。

その2日前の夜、人生で初めてしたネイルを落としに行った(あの流行りのネイルたちは爪への負担が大きくて素人が自分で落とせるものじゃないことをその時初めて知り、プロにお願いした)。

その時に、今回人生で一番長く爪を伸ばしたけれど(普段は少しでも長いとすぐに切る)、長いと不便なのかと思ったら意外に大丈夫だったと話したら
「一気に長くなるのは慣れないですけど、爪が徐々に伸びるのと一緒にその長さにも徐々に慣れていったから思ったより大丈夫だったと思いますよ」と教えてもらった。

それを聞いて、私の現実もそうなって欲しいと願った。

たった1枚のジャケットが目の前からなくなっただけですごく寂しくなった私は、これが人間1人がいなくなったらどれだけの衝撃だろうかと、想像しただけで頭がクラクラした。

目に映る風景は翌日から大きな違和感を持って私の前に現れた。

違和感だらけの風景の中に唯一変わらずにあったのが、机の引き出しの中の名刺だった。

それはもっともっと前から置いておいたから、そこだけは変わらずそのままだった。

そしてそれはその先数ヶ月に渡り仕事の最後の最後まで活躍してくれて、私に日々癒しと元気をくれた。

私は名刺には何の価値も見出せないタイプで、名古屋にいた時、本当に大切な繋がりや思い出の人2、3枚以外は全て破棄した。

だから、そのたった1枚の小さな紙は、私が人生で最も価値を感じて大切に保管した名刺だった。


ーすごいシンクロ。

2018/03/28 12:33 お昼休み

川の方を向いて車の中で休憩。

この文章の下書きをしていてずっと下を向いていたけれど、一瞬顔を上げてバックミラーを見たら、名刺の名前と同じ名字の美味しい洋菓子屋さんの車が通った。
(世界に1台しかない車)

どうやら仕出しのためにすぐ近くの道の駅に来たらしい。

運転席から後ろを振り返ってその名前入りの車を見ようとしたら、その人と同じ車種の同じ白い車が2台通った。

このブログを再開した半年ほど前の日とほぼ同じ状況が再現されてビックリした。ー


昨日の昼休みは、20年越しに歌詞が届けられた。

当時アメリカではback street boysが大ブレークしてた。

ラジオからは毎日のように彼らの歌が流れた。

この間図書館でそのアルバムを見つけて借りてきて、それを車の運転中に聞いている。

ちなみにアメリカに4年も住んだのに歌の歌詞だけはいつまで経っても聞き取れなかったし、そこから意味を理解するなんてことはさらに難しくできないままだった。

英語の歌は日本語の歌以上に、歌詞を聞き取ってその詩的な意味を理解するのが難しい。

それで当時大流行したI Want It That Wayの歌詞をこの度初めて読んだ。

そこに
No matter the distance
I want you to know that
Deep inside of me
と出てくる。

Deep inside of meは確かに「(私の)心の奥底では」とか「本音は」なんていう意味になる。

だから意味がわからなくてネットで歌詞の和訳を調べたら「君に僕の心の奥底のことを知っていて欲しい」という感じでどの人も訳していたけれど、歌詞全体を読むとそれだとおかしな感じがする。

私が文法的に一番引っかかったのは、「that」をわざわざつけてるところ。

本来省略できるのにわざわざthatを置いて、そしてその後に心の奥底というのがくる。

thatを付けることで、これもしかしてthat以下の主語と動詞が省略されてる⁉︎と思った。

正しくは分からない。

だけど、そう考える方がこのthatの意味もわかるし、わざわざthatを付けたのもわかる。

多分thatの後にyou are(又はstay)が隠れてる気がする。

そして物理的な距離が生まれたからこそ、距離に関係なく心の中にいることを知ってて欲しいと言ってるんだろうなと、歌詞全体を見るとそういう心情が見えてくる。

歌詞の細かな文法はさておいても、私は今回歌詞カードを見るまでこの大ヒットした歌が何を言っているのかはずっと知らずにいた。

別れてしまった恋人に対してまだまだ気持ちがあるという内容だというのも今回初めて知った。

そこじゃなくて、「どんなに離れていても あなたが私の中にずっといるということをあなたに知っていて欲しい」というような上の歌詞の部分に共鳴した。

それは今だから自分の中に響く。

20年越しに届けられた歌詞は、今の私の気持ちをそのまま代弁してくれてる。

私に名刺をじっくりと見るなんていう趣味はないけれど、その机の引き出しの片隅にある名刺は、私の心の風景をそっくりそのまま映し出してる。

その場所の風景は日に日に変化したし、秋のあの日と半年後の今とではずいぶんと違っている。

例えば同じ位置に同じようにジャケットがかけられている。

でもそれは以前のジャケットと全く別物だから、今それを見ても私は何とも思わない。

唯一感じるのは「違う」=「似て非なるもの」だということ。

私はもうあの澄んだ空気を見ることもないし、感じることもない。

その場にその人がいただけで放たれていたものは、当然そこにはもうない。

だけど引き出しの中の名刺を見てその名前を見ると、色んなことが思い出される。

目では見えない、でも心の目で見ると思い浮かぶもの、そうしたものが見える。

たまたま段ボールのゴミが出て、段ボールを所定の場所に捨てに行った。

そここそ風景が大きく様変わりした。

今は、倉庫とかに置くようなでかい金属製の棚がいくつも置かれている。

そこが最後に見た笑顔の場所だった。

よくよく考えたら、私はそこに朝から人がいたのはその時1回しか見ていない。

これまでだって見たことあってもおかしくないのに、よく考えたら本当に1回ポッキリだ。

その日の朝、私は自分の個人的な確認をするために、何とか2人きりになれるチャンスはないものかと前日から考えてた。

一刻も早く確認をしたくて(うっかり私の個人的なメモが他の人の目に触れたら困るから)、とにかくどんな場面でもいいからそれを確認できる状況が欲しかった。

その人の姿を数メートル先に確認すると、そうだ!今だ!ここならほんの少しなら誰も来ないかもと思って、段ボール置き場へ直行した。

世にも奇妙な質問をして(こんな質問過去にしたこともなければ今後もすることない)、私はその質問をしてることさえあまりにも変すぎて嫌だったけれど、その人はそんな私の心配をよそに普通に受け答えしてくれて、そして最後の方は微笑みながら答えてくれてた。

おかしなことを聞いて本当にごめんなさいと心の中で謝りながらも、その人の神対応に朝からすごい元気と癒しをもらった。

それが最後に見せてくれた笑顔で、その後から一気に態度が変わって、自分のやらかし具合を猛省した。

普段穏やかで温厚な雰囲気の人がガラリと変わった姿を見て、ショックはショックだったけれど、他の誰もこんな姿見たことないだろうなと思ったら、ちょっとだけ特別感を味わった。

何も知らないよりそういう表情さえもその人の一部でそんな貴重な部分を見れたのは、心の折れ具合とは別にちょっぴり嬉しくなった(のはずっとずっと後の話)。

いなくなる前日の日記より。

「◯◯◯さんの目に映ってる日々の景色とか、口の中に入る好きな食べ物の味とか、無意識にしてしまうクセとか。そういうのを知りたい自分がいる。」

私はその人を構成しているすべてのことを知りたかった。

積極的に見たいとは思わないけれど、不機嫌になったり怒ったりするとどんな風か知りたかった。

そんな風に誰かに興味を持つ自分がとても特別だった。

基本的に自分のことで忙しいから自分以外の人に興味関心を向けている場合じゃない。

だけどその人は違った。

その人のすべてを知りたい、ただただそんなことを願った日々だった。


明日30日、その風景すべてとサヨナラする。

名刺は持ち帰るつもりでいるけれど、風景は持ち帰れない。

私は今日頼まれごとと自分の用事とを兼ねて、普段行かない部屋に行った。

見納めと思って、その人の直筆のサインもついでに見てきた。

それはいなくなってわりかしすぐ位の時に、そこの整理整頓をしてたまたま見つけた。

そのファイルは普段やり取りのないその人とやり取りできた思い出のファイルだったから、それで見たに過ぎなかった。

見たらやり取りした時にはない痕跡が残されていた。

その人の直筆の文字が至る所にあった。

私は整理整頓そっちのけでいくつもファイルを開いて他にもないかチェックした。

初めて本人の書く手書きの文字を見た。

何回見ても飽きることなく、私はその日以降も用事でそこに寄る度にファイルもわざわざ開いて、その文字を見た。

ついでに、その人がどんな風に仕事をするのかも知った。

私が想像していた以上にきっちりと仕事をする人だとわかった。

私は他の何百という数のファイルも見る必要があって見るから、ファイルの中を見てすぐにわかった。

私が見てきたファイルの中で一番きちんと中身が書かれていたファイルだった。

というか本来はこう書くものなんだとその時に初めて知った。

10冊前後のファイルを見たと思う。

どれも同じように対応していた。

本当にすごい人だったんだなと私の感覚じゃなくて証拠を見て知った。

それを見納めとして見てきた。


明日私は職場に、その人専用で用意したお守りも一緒に持っていく。

これまでそのお守り自体一度として職場に行きたいとはペンジュラムを通じて言わなかったけれど、明日だけはお付き合いしてくれるらしい。

私のそこでの最後を一緒に見守ってもらおうと思ってる。

今度こそ本当のサヨナラになるから、その最後の瞬間をお守り共々見届けよう。

その人と出逢えた大切な場所だから、最後にありったけの感謝と気持ちを置いてこよう、そう思ってる。

命という奇跡

命が誕生する。

毎日可も不可もなく生きていると、その日々が当たり前に見えて、命の重さや尊さなんて簡単に忘れる。

毎日の生活は色んなことに忙しくて、生きてることの奇跡に目を向ける余裕がなくなる。

でも本当はそうじゃないんだって、自分だけを見てると忘れるけど、愛おしい人を思い浮かべると、それがどれだけの奇跡の上で成り立っているのか、その凄さがわかる。

12月に友達主催の命の授業的なイベントの中で、受精卵誕生までの動画を解説付きで見た。

見る前の私は、正直興味は一ミリも湧かなかった。

小中学校で見る性教育のビデオみたいなのを想像して、全然そそられなかった。

だけど解説者本人はそれにすごく感銘を受けて、毎日でもその動画を見ていたいと言う。

子どもを2人も産んだ女性が言う言葉だとは到底思えなかった。

だけど、実際に見てみたら、本当にその意味がわかった。

学校で見たようなものとは全く違っていて、本当に生命誕生の瞬間に至るまでを克明に描いていて、そしてそれはもう神秘なんてレベルのものではなかった。

記憶力の足りない私の頭が唯一覚えていること。

何億とある精子の中でたった1つの精子だけが勝ち残って卵子に到達するというやつ。

あれは実は他の精子たちが負けるのではなくて、たった1つの精子を卵子にまで運ぶために、他の精子たちは精子たちでそのための道を作る役割を果たしている。

だから何1つ無駄なものなんていうのはなくて、そして勝った負けたではなくて、たった1つの命を誕生させるために、そこに存在するすべての精子が共同作業で動いている。

それを初めて知って、命の神秘さは言葉なんかでは計り知れないものがあった。

話は少し変わるけれど、妊娠した女性の流産率は2人か3人に1人ぐらいの確率で起こる(何人に1人かは忘れた)。

確かに大人になってから私はかなりな人数の人から実は流産してね…という話を聞いている。

しかも妊娠できる可能性は単純計算で年に12回。

そしてその受精卵の一連の流れとか、流産せずに無事にお腹にとどまって生まれてくるとか、そもそもその子どものお父さんとお母さんが出逢うとか、そんなことをいちいち全部並べてたら、今ある命がどれだけの奇跡の連続の先に生まれてきたものかがわかる。

望まれた命、望まれてない命、色んな命があると思う。

それでも命が育まれてこの世に誕生した、それだけで奇跡だ。

2歳3ヶ月の姪っ子を見ていて思う。

本当に存在しているだけでそれだけでいいんだということ。

そこに1つの命があるだけで、周りはニコニコ笑顔になって、愛をばらまきたくなって、その存在の愛おしさに胸をいっぱいにする。

大人になればなるほどそんなこと忘れちゃうけれど、本当はみんながそうだった。

命があるだけで、ただただ目の前で生きてくれてるだけで、それで十分価値がある。

何もなくてもその命が存在しているだけで素晴らしい。

何もしてなくても、何1つ社会に価値を提供してなくても、ただ命があるというだけで本当はすごく価値のあることなんだと思う。

自分の命をそんな風に思うのは難しかったりする。

だけど、大切な人の命は、その命があるだけですごいと思える。

そしてその命があって、自分の命もあって、その命同士が同じ時代に生まれてどこかでかち合うなんてさらなる奇跡だと思う。

地球に今現在生きている全員とはかち合わないわけで、そう考えるとますます出逢えることが本当にすごい確率の元で起こっていることがわかる。

例えば今日、もう日付変更線を越えたから3月29日に誕生した命がたくさんある。

この瞬間の真新しい命もあれば、100年前に誕生した命もある。

そうした命と出逢って、そしてその人が自分の人生にひょっこりと現れて、そしてその人と何かを交わす。

もう奇跡の最大級だ。

そしてその命が自分にとって特別であれば、さらに奇跡の意味合いが濃くなる。

私はそんな命に出逢わせてもらえた。

特別な命に引き合わせてもらった。

その人の誕生日を祝えるのなら直接言いたい。

誕生日おめでとうって。

生まれてきてくれて、今生きていてくれて、ありがとうって。

2018年3月27日火曜日

机の中のお守り

仕事の机の中に「お守り」として1枚の名刺を入れている。

いつからそれを始めたかは忘れたけれど、けっこう早い段階でその名刺をいつも目にする位置&1日に最低でも2回は開ける引き出しの中に置いている。

指サックを毎日使うから、それを出し入れするところの角、引き出しを開けたら必ず目に触れる場所に置いている。

その引き出しには他にも、メモ帳・定規・付箋・仕事の大事な資料を入れているから、1日に少なくとも5回は開ける。

名刺だから名前を見るだけでしかないけれど、この名前を見るだけでも気分は全く違う。

そして唯一名刺の主からもらった形あるものだから、それはそれは大事にしている。

名刺にパワーがあるわけではないけれど、この名刺には何度も救われている。

職場の人間関係で本当に参った時は、その名前を見ていつも元気をもらってた。

用事もないのに引き出しを開けて、名前を見て(それだと怪しいから付箋とか何か適当なものを出すフリをする)、ホッと癒されて、元気もらって、それでその時をやり過ごすなんていうことをしてた。

朝仕事に就いたらまずは挨拶じゃないけれど名前を見て、1日の終わりにもまた名前を見る。

はじまりと終わりに必ず目にする。

それをこの仕事の9割近い期間そうしてた。

今となれば肩書きも所在地も変わって幻の名刺になったけれど、私にとっては唯一無二のお守りのような存在になっている。

今日6連休明けに仕事に行って、改めてずっとこの名刺にパワーもらってたなとしみじみ思いながら、いつもと同じように眺めてた。

朝車を運転しながら、仕事を辞めたら本当に消息がわからなくなるな…と思ったら寂しくなった。

大した情報じゃなくても、どうやら元気らしいことは人づてに聞いてたから、それさえももう終わりなんだなと思ったら、いつもの風景さえも愛おしくなった。

お昼休み、半年前の今日と同じ場所に出かけた。

そこは私が自分の行動を決めるのに、動くかもう一切何もしないかを決める、その賭けをした場所でもある。

半年前の今日書いた日記を読んだ。

その頃はそろそろ涼しくなってきたかなという時期で、気付けば2つの季節が終わって3つ目の季節が巡ってきた。

日記には最後の日の1日を克明に書いてあった。

読んでいて思い出した。

私は動いたことは後悔しなかったこと。

動くことはリスクを伴った。

動かなければただただときめいてドキドキさえしてたら良かった。

動かなければ最後まで爽やかで穏やかな笑顔を見れたと思う。

冷たくもされなければ、心がボキボキに折れることもなかったと思う。

でもこの半年を振り返ったら、動くことが正解だった気がする。

動くことで心が痛くなることも心へのダメージも大きかったけれど、その分自分に向き合って、向き合う中で色んな人や出来事と出逢って、そしてさらに自分を知ることになった。

それにプラスして自分の気持ちにももっと前から真っ直ぐに見て受け入れられるようになった。

もし動かなければ痛みもなかった代わりに、今知り得た色んなことも知らなかっただろうなと思う。

私はその辺りからお墓参りを毎日の日課にした。

何かにすがりたくて頼りたくて、それで調子者はこういう時だけ先祖様を頼り(といっても我が家のお墓の中には3人しかいない)そして祈る。

私は祈ることを覚えた。

最初の頃はあれこれと願ったけれど、それも落ち着いて(と言うかある意味あきらめて)、いつからか家族の名前を全員言った後、その人の名前も言って、見守ってください、とそれだけを基本的にはお願いしている。

だから名前を目で見たり耳で聞いたりすると(名刺の方じゃなくて、看板やテレビ、本、人との会話etc)、あぁ元気な証拠かなと勝手に決めてそうした偶然を嬉しく眺めてた。

最初にいなくなることを知らされた日のこと、あれから考えたらこれまでの半年間、私は本当に頑張ったなと思った。

最初に知らされた日のことは今でもよく覚えている。

大きな地震を経験したことがある人ならわかると思う。

巨大地震の時の10秒はとてつもなく長い。

これが30秒とか1分になったらさらに長く感じる。

体中の感覚がその恐怖にさらされ、普段ならそんなに感情を全開にしてたら支障が出るけれど、ああいう時はもう人間の本能みたいなのが出てきて、生きるか死ぬかみたいな恐怖に似た感覚になり続ける。

だからたとえ10秒でもとてつもなく長く感じる。

それと同じような感覚だった。

とにかく1分1分が長い。

今この瞬間は2、3メートル先にいて、声も聞こえて、姿かたちも目に入って、そこにいるのに、もう少ししたらその体ごとどこかに行くんだと思ったら、寂しさと悲しさと絶望と不安と怖さと…とにかくそういうものがドッと押し寄せた。

今この瞬間が1秒後には過去に変わる、それさえも耐えられなかった。

そこから半年も過ぎて、実際はあっという間だったけれど、本当にそのところから今になるまで色んなことがあった。

ちょうど半年にあたる今日、色んなことを感じたし、それをそのまま言葉にしておきたかった。

だけど、金沢でもらってきた風邪が、今回は数日経っても良くならず、そして今随分と体が辛いこともわかった。

この続きは夜中に目が覚めたら書くか、明日とかに書きたい。

これは備忘録で書いてるんじゃない。

私の中ではきちんと意味があって書いてる。

意味というより願掛けに近い。

本当は今日初めて知った歌詞についても触れたかった。

半年前の今日に書いた日記も一部抜粋したかった。

だけど今は体の方が限界にきてる。

休もう。

そしてまたここに戻ってきて書こう。

ちなみに歌詞はこれ。

No matter the distance
I want you to know that
Deep inside of me

最初意味がわからなくてネット検索した。

ネットに出てくる和訳に違和感を覚えて私はひたすら歌詞全体を見た。

私は「どんなに離れていても、僕の心の奥底に君がいるって、君に知ってて欲しいんだよ」と訳した。

ちなみにネットだと「君に僕の心の奥底を知ってて欲しい」とかになってる。

自分の心の奥深いところを知ってて欲しいと言うよりも、自分の中にあなたがいるということを知って欲しい、そっちだと思った。

その話ももっとしたかったけれど、とりあえず後で。

まずは体治して、出直そう。

そして明日も引き出し開けて名前見て元気をもらおう。

そうしよう。

机の中のお守りは、そこに色んなストーリーがある。

歌詞の話も日記の話も実はこのお守りと関係している。

だけど今日はとにかく寝る。

ちなみに私が書くのは、伝えたい人がいるから。

2018年3月26日月曜日

だいすき♡

妹がメイに「昨日の夜、さや何て言ったんだっけ?」と聞いた。

メイは昨日の夜寝る時に
「おとうさんだいすき♡
おかあさんだいすき♡
フミコだいすき♡」
と布団の中で言ってたらしい。

妹いわく突然布団の中で寝る少し前にメイが言い出したらしい。

史子も絶対に喜ぶから明日の朝史子に教えようね!と妹とメイはピロトークをした、と妹は言った。

メイも思い出して、今度はハグ付きで「フミコだいすき♡」と言ってくれた。

わざと絵文字のハートをプラスして書いているけれど、メイの「だいすき」は本当に♡が付いてると感じるぐらいにだいすきな感じに溢れている。

朝からものすごく愛をたくさんもらった。

本当に嬉しかった。



20代の頃、福祉の国家資格の受験資格を取得するために、大学の通信教育を受けてた時期があった。

膨大なお金を費やしたけれど、私は最後にそこに全く興味がないとわかり、ドミニカに旅立つ前に退学届を出した。

在学中に受けたスクーリングの中で、賛否両論を呼ぶと有名な先生の授業に一度当たった。
(スクーリング…学校に直接行って授業を受けてくること)

細かいことは全く覚えていないけれど、何で賛否両論を呼ぶのかその理由だけは覚えている。

その初老に近い男の先生は、「すべてにおいて愛があることが前提です」と福祉の仕事に対してそう言うからだった。

何でもかんでも「愛」の一言で説明されていて、間違いなく国家資格のための試験には絶対に出ない。

宗教のようだと揶揄されてたのも耳にした。

だけど、その先生は「愛こそすべて!」とどんな説明の時も言っていて、ある意味本質をついた話で私の中ではとても優しい形で印象に残った。

私は他の細かな授業内容はすっぽり記憶がないけれど、その先生の説明には共感したんだろうなと思う。

だからその「すべては愛です」という部分だけはものすごくよく覚えている。

現場にいた頃、私は日記に「子どもたちに『大好き』と伝えよう、ありったけの想いを込めて全身全霊で伝えよう」というようなことを書いた。

大学でも通信教育の時も、数限りない福祉の理論や手法を専門的に学んだけれど、私はそんな専門的なこと全部と言えるほど忘れた。

でも、小難しいことじゃなくて、現場に立って、そして30代では福祉とは違う形で人と関わった時にも、本当に目の前の人に伝えられることはその人が大好きなことや大切であることに尽きるなと思った。

相手がどう受け取るとかはまた別の次元の話で、とりあえず自分ができることはそれが全部だと思う。

表現方法はいくらでもあるけれど、根底はそこだと思ってる。

それは今も変わらない。

そしてあの20代の頃の福祉の先生が「すべては愛です」と口にするその意味が今なら感覚的にもう少しわかる気がしている。


話は変わって、30代前半の頃。

東京の指圧系のマッサージをする方がわざわざ個人的に連絡をくれて、その方の師匠にあたるような先生が名古屋でセミナーを開くから参加しませんかというようなお誘いをもらった。

そういう売り込みを一切しない方だったから、私はとっさにそれは私にとって行った方が良いと感じて勧めてくれてるんだろうなと思ってそれで参加を決めた。

その時のセミナーは最初から最後まで凄かったし、そしてその先生のセミナーには合計3回出席した。

私の中では一生の宝に相当するような教えや考え方を習ってきたけれど、その中の1つにとても印象に残っていることがある。

質疑応答の時に「癒しとはすなわち何ですか?」と聞いた人がいた。

その先生の説明が私の中で一番しっくりきたし、本当にその通りなんだと今でも思っている。

「『癒し』の中には『癒すこと』と『癒されること』の2つがある。

『癒すこと』は愛すること。
もしくは愛を与えること。

『癒されること』は愛されること。
もしくは愛を受け取ること。」

一番わかりやすい「癒し」の説明だった。

メイが朝やってくれたのは「癒すこと」で「愛を与えること」だった。

そして「フミコだいすき♡」と言うメイから私は「癒されること」すなわち「愛されること」と「愛を受け取ること」をした。

そんなシンプルなことを2歳児はいとも簡単にやってのけて、39歳の私を小さな体全身を使ってすっぽりと愛で包んでくれた。



大人になるにつれて「だいすき♡」と誰かに言う機会は激減する。

それは言葉の重みや簡単に言えるものではないということがわかってくるからだと思う。

そしてこんなにも言うのが照れくさかったり緊張したりするものもなかなかない。

私はその言葉を誰に向けて最後言ったかはよく覚えている。

ちなみに言葉は大好きじゃなくて、さらにそれよりももっと強い意味の言葉だった。

人生の中でその言葉を使いたい人に出逢えること自体がすごいことだと思う。

使いたいと言うより、それが自分の気持ちそのもので、それが自分の中のものを動詞で表現できる唯一の言葉だった。

どんなにたくさんの回数お互いに口にしてもまだまだ足りない、表現しきれないと思った。

どう表現すると表現しきれた!と思うのかはわからなくても、そういうことは一生をかけて表現していこうと心に誓った。

だけど、他の表現を思いつく前に別れがやって来た。


その別れから立ち直るのに私にはどれだけの月日が経ったのかわからない。

少なくともアラサーだった私がアラフォーになったぐらいの時間は経過した。

もう一生そういう気持ちにはなれないと思っていた。

本気の本気でそう思っていた。

だから言う言わないは別にしても、そもそもそういう特別な言葉で表現するような気持ちを誰か別の人に対して抱いていると気付いた時、私は本当に驚いた。

言う機会もないまま今に至っているけれど、もし自分の気持ちを言葉にするなら何て言うんだろう?と、そんなことを考える人に巡り逢えるなんて思っていなかった。

そしてその気持ちは、人生で初めて体験した感情だった。

恋心と言うにはあまりにも私の知ってるものとは違いすぎた。

「大好き」とか「愛してる」とか言う方が簡単だと思ってしまうくらいに、自分でも何が何だかよくわからない気持ちが渦巻いてた。

それらの感情を表すすべての言葉をかき集めても、まだ足りない、何か欠けてる、そんな感じだった。

そういうよくわからない気持ちはどういう言葉で伝えると伝わるんだろう。

2歳児は私に見本を見せてくれた。

目の前に立って、ニコニコして、そして「(フミコ)だいすき♡」とありったけの気持ちを込めて言う、そして「ギュー」と言いながらありったけの強さで相手を抱きしめる。

こんなにもシンプルなのに、何で大人になると難しくなるんだろう。

本当は難しいことなんて何もないのかもしれない。

難しくしてるのは私本人で、もちろん色々怖いし傷付きたくないから目一杯防御をするけれど、本当にしたいことは防御じゃないはず。

状況が許されるなら伝えたかった。

相手のあることだし、相手には拒否する権利があるし、目も合わせたくなかったのかもしれない。

だけど相手を軸にするんじゃなくて自分を軸にするなら、ありのまま思ったままを伝えたかった。

過去形で書いたけれど、過去形じゃなくて今も状況さえ許されるなら…と思ってる。

私も不器用だけど相手はもっと不器用な感じがする。

何かを言ったり伝えたり、特に自分の気持ちを言葉にするなんてすっごく苦手な人だと思う。

だから私が言葉にしたところでそれを受け入れたり、受け入れる以前にそれに対して何かしら言葉で反応することさえ難しいかもしれない。

そんなタイプの人相手に自分の気持ちを言葉にするなんて、相手の反応を想像したら何も言えなくなる。

だけど、本当はメイみたいに素直に思ったまま感じたままを伝えたい。



ふと気付いたら、半年経とうとしている。

半年前、私は微かに期待を抱いた。

人間にとってすごく便利な「忘れる」という機能を。

話すことはおろか会うことさえできなくなればそのうち忘れるかもしれないって。

もうとっくに会えていた日々より会えなくなった日々の方が数を上回った。

これから先まだ何十年と生きるとしたら、それぞれの生きている世界にそれぞれがいない方が当たり前だとも思う。

そもそも交わらない人生同士が本当に一瞬交わることになって、その人の存在を知ることとなった。

そしてまた交わらない互いの人生がそれぞれ進行している。

それが頭の中にあったから、だから私は忘れると思ってた。

時間が解決してくれて、そんな不毛なところからはさっさと足を洗って抜けるんじゃないかと。

なのに自分の気持ちに任せたままにしてたら、そんな想像とは程遠いところに今いる。

忘れるどころか忘れた日なんて1日も存在しなかった。

もっと言えば、基本24時間体制で普通に私の中にいて、それが他のことをして一時的にオフになっても基本は常にいる、そんな風になってる。

オンとオフの差があるだけで、電気みたいなものだと思う。

電気はずっとそこにあるけれど、状態はその時々でオンとオフになる、みたいな。

そして近くにいた時よりも離れてからの方がその人の存在感が増すというのもさらに想定外だった。

私は自分がそんなにもアンテナを張ってるつもりはない。

だけど、本当にその名前を色んなところでよく目にする。

金沢では、妹の会話の中にその人のフルネームが出てきた時は度肝を抜かれた。

妹は何も知らない。

妹は古くからの友達で金沢にいる人のそのおばあちゃんの饅頭作りを話したに過ぎない。

どうしたらその人のフルネームをその会話で普通に言うのか、普通ならあり得ない。

バスに乗っていれば、国際都市金沢に相応しく、バス停の名前は英語でも表記される。

英語表記されたバス停にその人の名前が出てきた。

一瞬だけ止まったバス停の名前を見たら、その名前があった。

しかも私の席はちょうどそのバス停の看板がよく見える位置だった。

メイとEテレ見てたら、画面の下にその絵のコンテンツの作者の名前が出てきて、その人の下の名前と全く同じ漢字だった。

そんなにその漢字って多くの人に使われてるんだろうか?と思うくらいの偶然だった。

この数ヶ月ほど、あまりにも色んなところで耳にしたり目にしたりするから、それはその人が元気な証拠だということにしている。

話があちこち飛び火して何を言いたかったのか忘れたけれど、その人は私にとって愛なるものを伝えたい人なんだと思う。

そんな日がこの先の人生で本当にやってくるなんて全く思えないけれど、それでももしそんな機会に恵まれることがあったら、私はその時はメイにならって素直にありのままを伝えよう。

2018年3月25日日曜日

ファイルと車とシールの奇跡

明け方、夢の中だったのかまどろみの中なのか、過去のある場面がパッと出てきた。

寝ている時の夢みたいに、私はその場面を見ていた。

私ももちろんそこにいるけれど、実際の現実と少し違っていて、私自身はその場面を別の視点から振り返っている、そんな風だった。

茶色の作業机に私は座っていた。

机の向こう側では探し物をしている人がいた。

全部のキャビネットを開けても探し物はなかったようで、私はそこで「何か探してますか?」と声をかけた。

その場面が出てきた。

実際の場面そのままだったけれど、明け方の私は「何で目の前の人がそこにいて、私もそこにいるんだろう?」って思っていた。

景色は見慣れていても、その状況がとてつもなく不思議に思えた。

そもそも何で私はここにいるんだろう?って。

そしてその人も何で作業机3つ分先の距離にいるんだろう?って。

一瞬にして、すべてが有り得ないことだらけで成り立っているのがわかった。

当時の記憶はかなり曖昧だけど、私はその机に1日中ずっといるわけじゃなかった。

他の仕事の時は本来の席か、はたまた私の席から真逆の位置に当たる空席を使っての仕事の時もあるから、ずっとずっとそこに張り付いてるわけじゃなかった。

今現在の話をすれば、私はそこにほとんどいない。

当時は確かにその机の上が一番広く使えて色んな道具が揃っていて、そしてその広さと道具を使わないとできない仕事がたくさんあったから、そこにいることが多かった。

だけど今はそこでする仕事が少なくて、1週間のうち全部足しても数時間しかいない。

全くいないわけじゃないけれど、1日中そこにいるとか、1日の大半をそこで過ごすようなことは皆無に等しい。

当たり前だけれど、当時の仕事の内容は私が決められるわけじゃなくて、東京にある本社から不定期に送られてくる資料に基づいて私の仕事は始動する。

何百とある個別の資料だって、私が流れを管理できるものなんて1つもなくて、その送られてくる順番だって何基準かも知らない。

私は来たものを来た順にコピーを作ってひたすらファイリングするだけだった、当時は。

その日もその仕事をしていたのか、他の作業をしていたのかは憶えていない。

だけど丁度その席に座っていて、そして机の向こう側では探し物をしている人がいた。

探し物の人物だって、滅多にそこで探し物はしていなかった。

必要なものは時々取りには来ていたけれど、横一列に並んでいるキャビネットを全部開けてまで探し物をしてたのは、少なくとも私が見ていた限りその時1回だけだった。

キャビネットの中も私は自分がよく使うから他の人たちよりかは熟知していたけれど、でも自分から積極的に「何を探してますか?」なんて声をかけることはほとんどしなかった。

基本的に相当困ってるという雰囲気を察しない限り声はかけないし、この数ヶ月でかけた人は片手で数えるぐらい、回数も片手で数えられるぐらいだと思う。

だから、そもそもその状況自体がとても稀なことだった。

私が夢なのかまどろみなのかわからない中で「何でここにいるんだろう?」って思ったのは、自分の人生においてどうしてそこに居合わせたんだろうという意味でだった。

私はほとんど仕事の内容を知らずに、ましてや会社の概要も雰囲気も何なら何人ぐらい働いてるのかさえも、本当に知らずに今の仕事には就いた。

私はもしそれらを詳しく知ってたとするなら、絶対に選ばなかった。

そもそもこれまで四六時中喋るような仕事を10数年もしてた人が、いきなり1日の大半を口を閉じて黙々と仕事をするなんて本当に有り得ないことだった。

そしてどの仕事1つ取っても、私の采配で決められるものは皆無に等しい。

私が決められることは、与えられた仕事たちの中でどれをその日に優先的にするかと、あとはする時のペースくらいなものだった。

仕事の段取りはしても、仕事全体の流れはそもそも私の意思は何1つ働かないところで勝手に決められていて、それにただただ従って動くというスタイルでここまで来ている。

ちなみにこういうスタイルでの仕事さえも初めての経験に等しかった。

私のこれまでしてきた仕事は、瞬時に自分で判断を下したり、全体の流れを知った上で自分で采配を振るったりする、そういうことが圧倒的に多かった。

大枠は上の人たちが決めるにしても、実際の動きとなると私個人の判断ややり方でやれるようになっていた。

だからこんなにも自分の意思が働かない流れで動くこと自体が私の人生では異例なことだった。

だからあの日のあの場面は、今の仕事だけを見たら普段の流れの一部みたいだけど、本当は私の意思もコントロールも及ばないようなことの連続で成り立っていたのが今となってはよくわかるから、だから何でそこにいるんだろう?って寝ぼけた頭の中で思ったのも無理はない。

しかもあんなにタイミング良く探し物をしてた人だって、普段1人で探し出せるのにあの時だけは探し出せなかった。

それもそのはずで、キャビネットの中にはなくて、全然別の場所に保管されていた。

今でこそそのスタイルが定着しているから誰しもがキャビネットになければ私の作業机の脇を見るようになったけれど、当時はまだまだ全てが定まっていなかったからそういう発想にならないのが当たり前だった。

私はここですよと教えながら、その一瞬一瞬が本当に臨場感を持って迫ってくることにものすごくドギマギしていた。

私は自分の心臓の脈打つ音が外に聞こえるんじゃないかと思ったぐらいで、でも同時に探し物の人物の動きもそれと同じぐらいに不自然で、普段すごくスマートに動く人なのにやたらとぎこちなくて何だろうと思った。

その人のぎこちなさは、私が変なことを口走ったのかと疑ったほどだった。

その瞬間、何でその人はその人の人生の中でそこにいて、そして私は私の人生の中でそこにいたんだろう、それってどれぐらいの確率で起こることなんだろうって思った。

偶然のような出来事でありながら、あれはもうそのように仕組まれていた瞬間だったんじゃないかと思った。

相手や私が仕組んだのじゃなくて、お互いのコントロールも及ばないようなところでそれが場面設定されてたんじゃないかと、そう思った。

この場面には続きがある。

これも細かいことは忘れたけれど、私はある1つの資料だけずっと作らずに先延ばしにしていた。

何を面倒だと思ったのか、とにかく遅れて到着したその資料だけはすぐに着手せずにそのまま放ったらかしていた。

他の資料たちは普通に作るくせして、それだけはなぜか先延ばしにした。

まさかそれがその探し物の資料たちと同じ種類のものだとはどんな偶然だろう。

先に言ったように、資料が本社から送られてくる順番なんて私にはさっぱりわからないから、そもそもそれ1つだけが後から来た理由は知らない。

そして私が何を思って先延ばしにしたのかも。

憶えてることは面倒くさがって先延ばしにしたことだけ。

私は面倒くさがった自分に心から感謝した。

私は速攻その時にしてた作業を中断して、そちらの先延ばしにしてた資料のファイル作りを始めた。

私は頼まれない限り、1冊だけ資料のファイルを作ることはその時1回しかしていない。

流れ作業的な仕事だから、1冊だけ作るのはかえって手間だし面倒だから、毎回まとめて10数冊作ってしまう。

だけどその時はその1冊のためだけに他の作業を中断してでもファイルを作って、そして渡しに行った。

不必要ならいいけれど、必要だと相手も困るだろうと思ってそうした。

ファイルを渡してから戻されるまで、2〜3分程度だったと思う。

私にはその瞬間のこともよく記憶に残っている。

どう考えても当時は資料のファイル作りが山積みだったから、その資料だけいつまでも面倒だと感じて作らなかった理由がよくわからない。

他のファイルを作る時に作ってしまえばいいのに、どうしてかそうしなかった。

よくよく考えたらそんな特殊な先延ばしは、その時しかしていない。

今は資料の数が激減したから、ある程度数がまとまるまで待つことはするけれど、1つだけを単独で先延ばし、しかも単に面倒くさいという理由で先延ばしなんてまずやらない。

それもおかしかったし、そしてそもそもそれらの場面が人生の中の本当にたったの数分だけ突然現れるのもおかしな話だった。

そしてそのたった数分の中に私もその人もいるなんていうのはもっとおかしかった。

もう同じ場面は二度と訪れない。

人生でたった一度きりの、最初で最後のワンシーンだった。

だから夢なのかまどろみの中なのか、私はその瞬間にお互いが居合わせる、人生でお互いに少し前までは全く接点のなかった者同士が、そんなに近くにいてある瞬間を共有する、そんなすごいことが普通の顔して起こっていたことにただただ驚いていた。

たった数メートルしか間のない距離に何かの偶然で運ばれて、よくわからない鍵の掛け違いみたいなのがいくつも重なって、そして実際のやり取りが生まれる。

もう二度とはないその場面を、私は上から見下ろすように見ていた。

私の意思も意図も感情や気持ちも何も
影響を及ぼせないようなところでそれは起こっていた。

引き合わせてもらえたんだなとわかった。



2018/03/24  金沢市内

2歳の姪っ子メイが私の隣りで昼寝から起きた。

メイのお母さんである私の妹は体調不良で寝室で寝てた。

メイとエンドレスアイスクリーム屋ごっことかする元気はなかった。

メイと近くを散歩しよう!となった時、メイが「シール!」と言った。

前の日、今回の訪問に合わせてメイに買った月刊誌を2人で見て、その時付録であったシール遊びをして、それをメイがとても気に入った。

メイがあまりにも気に入ったから、「明日シール買いに行こうね!」と口約束をした。

メイはしっかり覚えていて、「シール!」と言ったのだった。

全く土地勘もなく、何なら出かけてもないから近くの地理さえわからない。

iPhoneで地図を見て、妹が言うように歩いて10分程度のところに1つ大きなスーパーがあるのがわかった。

メイと一緒にそこにシールを買いに行こう!と言って2人で出た。

ひたすらまっすぐに歩き、スーパーのすぐ手前の大きな交差点で信号待ちをしていた。

ふと目を向けると、私とメイはある車のメーカーのショールームの前にいた。

大きなショールームを持つ販売店で、少なくとも3台は店内に車が展示されていたと思う。

メイと私のすぐ近く、ほんの2メートルほど先のところにあった展示車を見て私は驚いた。

世の中にはたくさんの車がある。

なのに何でその車が展示されていたんだろうと思う。

国内有数のメーカーだから、まさかその展示車3台のみしか生産されてないなんてことはない(全貌は見てないから、店内にはもっとたくさんの車が展示されてたかもしれない)。

しかも私とメイはショールームの前は歩かず、あくまでショールームの角にあたる交差点で信号待ちしてるにしか過ぎなかった。

さらに言えば、妹が体調不良でなければ私はメイと外に2人きりで出ることなんて考えなかった。

しかも土地勘のない町で。

メイがシール貼りを好むのも、今回月刊誌を持って行って一緒に見なければ私には知らないことだった。

妹も買ってきたシールを見て「それ、メイ好きだと思う!」と言うぐらいだったから、妹も私にはメイがシール貼りが好きなんてこと事前に一切教えていなかった。

ショールームの車に驚いたのは無理もない。

その車は、私がこのブログを再開するきっかけになった車だから。

そして、どういうタイミングなのか、今朝だったか昨日の朝だったかに、先に書いた仕事の実際にあったワンシーンを思い出して、それともこの車は繋がっている。

金沢なんて、今回妹家族が仕事の関係で住まなければ、縁もゆかりもない土地だった。

1つ1つのことは全く何の接点もない風に普段は見えるけれど、全然関係のないこと同士がある1つのストーリーの中では全て結びついていく。

何なら、妹の旦那の金沢転勤だって旦那が決められたことではないし、そしてそもそもメイ自体は妹夫婦にとって待望の我が子だった。

不妊治療を止めたらやってきた命だった。

だから妹の旦那である義理の弟はもう16年も知ってるけれど、メイはまだこの世に生まれて2年3ヶ月でしかなく、付き合いスタートしてからの日が浅い。

こんな言い方はおかしいけれど、メイがいなければ私はスーパーに行くなんて思い付きもしなかった。

さらに言えば、今回のように6連休も取れて、メイも妹も基本的に毎日家にいられる時に訪ねるなんて、これが最初で最後じゃないかと思う。

メイは4月から保育園に通うし、妹もそれに合わせて働き始める。

今みたいにこんなに自由に数日間一緒に過ごせるなんて、もう二度とはないかもしれない。

今は「フミコ」「ヒュミコ」と言いながらメイは私を四六時中慕ってくれるけれど、年齢が上がれば一緒にいたいのはおばじゃなくて友達だったり彼氏だったりする。

本当に人生の中のほんの一瞬しか存在しない時間をメイたちからもらっている。

これらを奇跡と呼ばず、他に何と呼ぶんだろう。

人生はすべてが奇跡で成り立っている、そう言えるぐらいに、そしてそれがわかればわかるほど泣けるぐらいに、奇跡の中で毎日生きている。

すべてが見えないところで色々繋がっていて、そして私に壮大な物語を見せてくれている。

「奇跡」という名の物語を見せてくれている。

2018年3月24日土曜日

次に試したいこと

ペンジュラムが私の元へ来てから1年10ヶ月。

今さらペンジュラムの動画を初めて見た。

普段見たいとは思わないけど、ふと余裕があって見てみたくなった。

怪しげな風貌のおじさんが画面の向こうにいて、私に言われたくないとは思うけれど、本当に「怪しい」と真っ先に思った。

人は悪くなさそうだけど怪しい、この一言に尽きた。

それ見て、自分自身も同じくらい第三者から見て怪しい人に映るのでは…と思った。

ぱっと見だけでも怪しくならないように服装や身に付けるものには気をつけようと誓った。

怪しい風貌でも紹介されてる内容はきちんとしていた。

そして何の解説もなかったけれど、人体の各パーツを区分けした図表のようなものの上でペンジュラムを回してる場面があった。

それは一瞬でまたすぐに場面は変わったけれど、その様子は即座にひらめきをもたらしてくれた。

今金沢の妹のところに遊びに来ているけれど、来る前日の夜に1冊の本が届いた。

「チャクラ」と呼ばれる体と心の両面から自分自身を見ていくためのオールカラーの図解入り解説書。

その本とペンジュラムを組み合わせて、自分自身の体と心のチェックをすることを思い付いた。

この1ヶ月くらいの間で私は体のマッサージと心のマッサージ的なものを合計3回受けた。

3回ともに共通してたのは、とにかく体と心がものすごく密着してお互いに影響し合ってることだった。

心と体は連動しているというのはよく言われるけれど、実のところ私は体の感覚について言えばかなり鈍感な方だと思う。

のどが痛いとかお腹の調子が悪いとかそういうことは気付けても、日常的にさして困ってない無自覚のものは全くわからない。

なんなら、指摘されても無自覚過ぎてわからない始末。

私は正直、困ってないし痛くもかゆくもないことに関しては特別にケアが必要だなんて思ってなかった。

それが今回体のエキスパートと心のエキスパートのそれぞれのプロの方から施術してもらって、その無意識の部分がいかに自分の性格や思考パターンにまで影響を及ぼしているかを知ることとなった。

そこをケアしたり強化したりしたら、私の中で好ましくない思考パターンも変化するかもしれないと思った。

個人的に思考パターンや性格を変えたいと思ったら、一番手っ取り早い方法はそういう自分を受け入れることだと思ってる。

手っ取り早いけれども実際には一番難しいのもそこだと私は自分で色んなことをしてきて思う。

それとは別に、そうした体の側面から働きかけるのも面白そうだなとそのペンジュラムの動画を見ていて思った。

心のケアはそれなりにして来たからわかっても体のケアや体と心をセットにしてのケアはほとんどしていない。

私の場合、体は痛みや違和感が出るまで基本的に放置する。

その無自覚の部分は、今いきなり自覚しろと言われても難しい。

痛くもかゆくもないものはやっぱりわかりにくい。

そこでそのチャクラや人体の図解表を使って、ペンジュラムでそれぞれのチャクラや臓器の状態を聞いていくというのをやったら面白いなと思った。

本はパラパラっとしか見てないけれど、確か各部位に対する日常的なケアの方法も書かれていたと記憶している。

わからないことは、せっかくペンジュラムがあるからペンジュラムに聞きながら体の声は聞いていったらいい。

その先の具体的なケアは本やネットで調べていったらいい。

そういうことをこれからもっともっと知っていく勉強する実践する、それに興味がある。

ちなみに今、姪っ子メイの鼻風邪がなぜかのどの風邪菌として私にもたらされ、ここ何年も縁のなかったのどの強烈な痛みに襲われている。

昨日すぐに異変に気付いて(あまりに痛いから)、得意ののどに塩を巻いて、そして今回はそこにプラスして、オルゴナイトも一緒にのどに巻いてる。

医学的に根拠はないとはっきりと看護師の友達から指摘を受けたけれど、現実的にここ15年近く私はのどの痛みは塩を巻いて治してる。

嘘みたいな話だけど、本当に重症化せずに塩で炎症を抑えてもらってる。

洗濯洗剤のスプーン1杯くらいの塩、カレー用の大きいスプーンなら2杯強、大さじだと3〜4杯ぐらいの塩をティッシュでくるんで、そのティッシュを手ぬぐいとかハンカチで包んでそれをのどに巻く。

のどの辺りに丁度塩が当たるようにする。

やることはそれだけだけど、どういうわけか私はそれでのどの炎症が治まる。

昨日はお茶を飲むだけでのどが痛かったから、ふとオルゴナイトものどに当てたらもっといいかもと思って、実験的に試してる。

一夜明けて、少なくとも昨日よりはのどの痛みが引いた。

龍角散の飴も舐めたけれど、実際に何が功をそうしてるのか不明だけど、とにかく塩を巻くのは私的に超オススメ!

とにかくこれからは体のケア&体と心の両面のケアというものを始めていく。

2018年3月23日金曜日

男性のお守り、オルゴナイトより

どこの誰かも知らない方たち6人分含めた9個のオルゴナイトが旅立って数日。

どうなったのか都度都度連絡をもらってる。

昨日はそのうちの57歳男性の話。

この方の分は、元々友達の友達にあたるその方の奥様からのオーダーだった。

奥様に関しても全く知らない方で、だから私はペンジュラムを使って選んでいくしかなく、実際に目の前でペンジュラムが反応しても私には何のことかさっぱりで、まぁペンジュラムがそう言うからこの方にはこれ!みたいな、実に軽い選び方だった。

もちろん真剣に取り組むけど、私には本当に何もわからないから、そしてそんなわからないことをペンジュラムはまたどこからキャッチしてるんだ?と疑問に思いつつ、ひたすら9人分を選んでいた。

しかも一気に9人分だったから、私は予め付箋を用意していった。

一人一人の名前と年齢も伝えられた人の分は年齢も書いて、それを9枚用意した。

付箋の名前を見ながら、ペンジュラムに「佐藤太郎(仮名)さんの分はどれですか?」と聞くだけだった。

その57歳男性の分は、やたらと活力みなぎる意味合いのものが行った。

自己実現や目標達成を強力にサポートするもので、私の先入観は「57歳の人は、年齢から見て定年間近で、そんなに何か強めのサポートがいるんだろうか?」と実に失礼なことを思った。

私の思考なんてそういう意味でろくなものじゃないから、それに一切惑わされずきちんと選定してるペンジュラムの凄さと言ったらない。

これは着いた後か発送中の時に間に入ってたSさんから教えてもらった話。

その男性は日本中誰もが知ってるような大企業の理事の方だった。

1、2年前に会社を早期退職?して、そのまま理事に就任。

その中で、今企業が全く新しい分野の部門を設立していて、その採用に携わってるとのこと。

そこに精力的に関わってる最中で、だから自己実現や目標達成なんていうのは本当に本人にピッタリのものが行ってたことが判明した。

で、肩書云々がすごいのはさておき、奥様はうちの主人必ずそれを持ち歩くと思うのと言われたらしい。

元々神棚を家に作ろうかとも言ってたようで、そのタイミングでオルゴナイトのことを聞いて、それで神棚はやめてオルゴナイトにしたようだった。

そこまで聞いていて、そして昨日春分の日に入って来た新たな情報。

「◯◯さんご主人ね
手紙も一緒に鞄に入れてった!と連絡ありましたよ!」

それ聞いてビックリした。

本人の元へ着いてすぐも「じっくりお手紙を読まれていたようですよ」と教えてもらっていた。

ちなみにそれ聞いた時も、もっと丁寧に心込めて書けば良かったと猛烈に後悔した。

何せ9人分、しかも知らない人たちのものは特に効能を書いていてもさっぱりテンションは上がらず、しかも郵便局がしまるギリギリのたしか最後の9人目として書いた分だったから字も乱れ始めていた。

大変申し訳ない形で用意されたもので、まさかそんな紙が持ち歩かれるなんて思ってもいなかった。

便箋は100均で買ったんじゃないかなと思うもので、1枚あたり1円か2円のもの。

お店で見てきた情報とあとはネットで調べた情報だけを書いた、本当に便箋1枚にも満たないメモ書き。

まさかそれを通勤カバンに入れて持ち歩くとは。

ふと、3年前の派遣会社の男性担当者を思い出した。

私は最初その方がどんな立場の方か知らずにいて、単なる平社員の1人だと思ってた。

ちなみにその方が最終責任を取るような責任者的立場だと知ったのは、後日派遣会社からの書面連絡が来た時だった。

実際にお会いした時にやたらと良いスーツを着てたのは見てすぐにわかったけど、名古屋だとそういう人はけっこうな人数でいたから、まぁそういう人の1人なのかと思ってた。

そんな責任者の方が出てこなきゃいけないような求人とは知らずに、私は職場見学だけでいいから行って欲しいとお願いされた。

その職場は前に行ったことがあるところで、雰囲気がとても嫌いで絶対に嫌ですと断り続けてた。

全く別の部署だからとにかく見てから判断して欲しい、武士俣さんが嫌なのはよくわかったし武士俣さんが引き受けないのは99%わかってます、残りの1%にかけてるので見学に行ってください、お願いしますと言われた。

だから私は見学だけのつもりで行った。

実際に見学に行って、その後その場で引き受けるかどうかを決めてくださいと言われて、本当に迷った。

人は良かったし内容も面白かったけど、前回の他部署の変な雰囲気の印象が拭い去れず、迷いに迷った。

部署が違っても会社の基本的体質は同じな気がすると、どうしてもそこが引っかかった。

そこで私はどうしたかと言うと、当時はまってたネットのカード占いで決めることにした。

担当者に今すぐ決めるのでそのために1、2分携帯を少し触っていいですか?と聞いて、了解を得てその方の目の前で触った。

その見学の話が浮上してからそのカード占いは1日に数回やっていた。

「罠」だとか「危ない選択」だとかそんな意味合いのものばかりが出ていた。

やっぱりねと思ってた。

だからその時も私の中では引き受けない方向で考えていた。

だけど迷いもあったから、そこで断る方に背中を押してもらいたくて、カードを引いた。

その時ばかりはなぜか「全てうまくいきます」と出て、本当に何十回と引いてもダメなものが最後の最後でひっくり返ってビックリして、それで引き受けようと決めた。

話が脇道にそれたけれど、私が行くと返事した時に担当者の男性から
「武士俣さん、どうして行くことに決めたんですか?」
と聞かれた。

私は正直にどうやって決めたのか携帯の画面も見せてそしてそこに至るまでの経緯も明かした。

そうしたらその担当者の男性は内ポケットから手のひらサイズの巾着袋を出してきた。

それ何ですか?と聞くと、中から数珠を出してきた。

「僕も何か大切なことを決める時にはこの数珠を手に持ってそれで決めてます。だから武士俣さんがカードを使って決めたその気持ちわかります」

そんな話からつい最近九死に一生を得るような大病をしてこんなことを思ったという話を聞いた。

「医者からこのまま行くと本当に死ぬと宣告されてそれでようやく僕は休んだんです。
実際に休んで治療を始めたら、あまりにも体がボロボロで何も考えられなくなりました。
体がしんどくてしんどくて、その痛みに耐えるのに精一杯で、だから何も考えられなかったです。
峠を越えた時、『悩めるって贅沢なことなんだ』と気付きました。
まず悩むための何かがなければ悩めないし、そして悩みたくても体がその状態にないと悩むことさえできないって、その時初めて知りました」

その方いわく、当時は私が最終的に行った会社の中の大規模事業を派遣会社として委託され、その責任者として出向してたとのこと。

そこで数億円の売上を叩き出したけど、それだけ大きな利潤を生むから当然仕事量も半端じゃなく、休むに休めなかったと信じてた模様。

学生の頃より父親が株のトレーダーで生活してるのを見てるから、実際に仕事を辞めても株で食ってく自信があります、だけどそれは面白くないからやりませんと言っていた。

卒業した時も他にもっと大きな会社の内定ももらったけど、その仕事に就いたら40歳前後で金に物言わせてつまらない大人になってる自分が見えるような気がした、そこじゃなくて人と人とを繋いで新しいものを生み出して行く今の会社に面白さを感じたから、だからこちらにしたと。

実際に派遣会社の中でも他に類を見ない事業展開をしている会社で、私もその話を聞くまではそんなこと全く知らなかった。

そして自分は同期の中でも真っ先に辞めると思われていたけれど、何だかんだと今も残っていて周りはみんな驚いてるとも言ってた。

そんな話をしてくれた方が内ポケットから数珠を見せてくれ、本当に大事な場面では思考じゃないこと、そうではない部分を大切にしていると私に話してくれた。

57歳の理事の男性が通勤カバンにオルゴナイトを入れて持って行った話とその派遣会社の私より1つ年下とは思えないすごいやり手の男性の姿とが重なった。

男性の方が実は信じる力や何かに守られたいというような気持ちが強いんじゃないかと思った。

話があちこちに飛ぶけれど、名古屋にいた時、私は色んな人から話を聞くことを自らお願いをして時間を作ってもらっていた。

20数名の色んな職業の色んな立場の20〜50代の男性からも話を聞いたけれど、女の人より男の人の方が大変だなと思った。

男の人たちは、普段外に見せてる顔じゃなくて、何の利害関係もない私には本音を話してたと思うけれど、基本的にどの方も見えない敵や見えない底知れぬ不安みたいなのと戦っている、そんな風だった。

妊娠出産なんていうものがないから、男の人たちは基本的には働き続ける。

自分の生き方も在り方も常に社会の中で表現されることが含まれる。

そこに守るべき家族なんかがいると、それが力にもなれば反対にもうそこから逃げられないそういう恐怖のようなものも話す人もいた。

一概にそうだとは言えないけれど、男の人の方が本当に純粋だし、そして本当は弱音も不安も全部ひっくるめてものすごくそのままを抱え込んでしまってる、そんな風に私の目には映った。

2〜18歳の子どもが生活する施設で5年半働いた時、いつも感じてた。

小学校に入る前までは、どの男の子もとにかくすぐに泣く。

体に痛みが伴うものは敏感に反応するし、対人関係で嫌な思いをすればすぐに言う。

女の子たちはもうその頃から強さとしたたかさを持っていて、女の方がえげつないといつも思って見てた。

泣き方も早くも本気泣きと気を引くための泣きとを使い分ける、とても自然に。

男の子でも頭の回転の速い子は演技しないわけでもなかったけれど、女の子のような器用さはなくて、やっぱりすぐにバレる。

基本的に泣き方ひとつ取っても真っ直ぐに表現するのは圧倒的に男の子たちだった。

それが小学校に入り、どんどん泣くのが恥ずかしいみたいなことを覚えてくると泣くのを我慢することや気持ちを押し殺すことも覚える。

それは圧倒的に男の子の方が顕著だったから、きちんと涙を流せる場所・自分の気持ちを吐き出せる場所、そういうものを自分では意識的か無意識的かわからないけれど、かなり気をつけていつでもそれが可能なように雰囲気作りだけは心掛けてた。

だから大人になった男性陣がポロポロと自分の中にある繊細な部分を話してくれる時、私は妙に感動する。

そしてその純真さを見ると、子どもの頃のその人の姿は想像できなくても、子どもの頃より持っていたものなんだろうなぁと想像できる。

そしてそういうのいいなって思う。

決して失われないその人だけの良さみたいに目に映る。

だからオルゴナイトを大切に持ち歩く還暦間近のおじさんの姿も、数珠を常に内ポケットに入れて持ち歩く超やり手の現役バリバリの男性の姿も、私にはどちらもとても親しみ深い感じを受ける。



ついでに言うと。

その派遣の仕事は実際に行くことになって、私は人生で初めて人間関係を理由に仕事を辞めた(上の人ではなく、担当する下っ端の社員たちがあまりに人として社会人として最低すぎた)。

その見学に一緒に行った男性のものすごい配慮で派遣としては特例の待遇をしてもらっていたけれど、もうそんなことより人的環境が悪すぎて続ける方が危険と判断し、契約更新せずに辞めた。

最低限この長さの期間だけは行ってください、その後合わなければ辞めても僕は構いませんと言ってもらったその期間だけ行った。

だから辞めた時もその方には連絡して、そして相手の方からの希望でまたお会いして人と人として色んな話もした。

「全てうまくいきます」の意味はその仕事の時には一度もそうは思えなかったけれど、2017年に入ってから色々なことを経て、初めてその意味がわかった。

その仕事を辞めた後の方がさらに人生が崩れて人生崩壊と言わんばかりの流れに突入したけれど、結果的にそれが新潟に戻るきっかけとなって、そして2017年の色んなことに繋がっていく最初の地ならし的な出来事でもあった。

私は「強制終了」という言葉が本当にピッタリだと思っているけれど、人生にはどうにもできない、個人の力の及ばないことがあるというのは30歳ぐらいから徐々に気付き始めた。

そして強制終了というのは、渦中は最低だけど、それは必要があって起こっていると知るのはもっと後だったりする。

私の場合、この派遣の仕事に就かなければ、ペンジュラムともオルゴナイトとも出逢わなければ、2017年に引き合わせてもらったとしか言いようのない人との出逢いにも絶対に繋がらなかった。

だから「全てうまくいきます」のメッセージは、本当にその通りだった。

未来に到達しないとその完成図を見ることはできなかったけれど、本当にそのようになっていた。

2018年3月21日水曜日

告白 2

サノさんとの楽しい宴は楽しい余韻をその後もプレゼントしてくれた。

サノさんのイケメン長男(スーパー礼儀正しい)+個性的な長女が迎えに来てくれて、サノさんファミリーにもお会いできた。

初めて会うのに、サノさんからたくさん話を聞いてたから、初めて会う気がしなかった。

話通りの素敵な若者たちで、「今の若い子は…」なんてよく言われる言葉が全く似合わない子どもたちで、サノさんの素敵な子育てが垣間見えるようだった。

昨日の告白はもう2ヶ月ぐらい前から計画が浮上してたから、私は並々ならぬ緊張をしていた。

ペンジュラムのことは、実は一度バレてる。

仕事中にクリップを4つほど繋げてそれをペンジュラム代わりに使うことは日常茶飯事だけど(←昨日は久しぶりに1日に片手で数えるぐらいしか回さなくて、普段は暇さえあれば色々聞いたりその日のクリップペンジュラムの様子を観察してる)、ある日サノさんにその現場をちょうど見られて
「ダウジングしてるんですか?」
と聞かれた。

私は「違います」と否定したけど、隠し通すのは厳しいなと思った。

話が飛ぶけれど、私はペンジュラムを使ってその人が欲しい情報を聞いて伝えるのが好きだ。

特に相手にとって大切な情報なら尚のこと。

3日前くらいだと思う。

サノさんは今日プロレスの試合を見に行く。

3日前、そのうちの1人が仕事でどうしても行けないことになった。

行く人もすごくすごく楽しみにしてて、なのに会社の都合で長期の東京出張が重なり、どうしても帰ってこれなくなったとのこと。

仕事中、サノさんと私はそのチケットをどう次の人に繋げるかという話をした。

サノさんの知り合いは全滅で、でも前売完売なら欲しい人が絶対にいるから、売れないわけないということになった。

当日券求めてる人のところに行ったら絶対に1人はいるはず!ということで当日券売場に早めに行くことにすると言ってた。

結局サノさんは普段したことのないツイッターでつぶやいて購入希望の人を募ったら1人の方と繋がったとのこと。

昨日の夜、その話になった時、でも本当に大丈夫かな?直前でボイコットとかないかな…と不安がってた。

そこでペンジュラムに聞いたら綺麗にグルグルと勢いよく回り、仮にその人がボイコットしたとしても必ずそのチケットは次の誰かに繋がるにも勢いよくYESの時計回りをしたから、サノさんもそれ見て「絶対に大丈夫!って自信持てました!」と言ってくれた。

サノさんには実演したから、その勢いの良さが尋常じゃないのは伝わってたし、それはサノさんが実際にペンジュラムを持って勝手にユラユラしてたのを見て、それが自分以外のところからの何かしらの動きだというのもわかっていたから、だからそれ見てすごく自信が持てたとすんなりと言ってくれてた。

それもまた1つ嬉しかった。

本当に勢いが良かったから、相当面白い体験が控えてるんだろうなぁと思った。

それは余計な私の個人の解釈だからそこまでは言わず、サノさんにはどうなったかまた教えてください!超楽しみにしてます!とだけ伝えて終わった。

そういうことにも使えるペンジュラムだから、本当に伝えて良かったなと思った。

サノさんの趣味つながりの友達のことは、知ってて欲しいという気持ちはむしろなくて、反対に今まで騙してたみたいな感じが嫌で、それで伝えた。

サノさんは何も知らずに色んなことを話の流れで教えてくれたけど、私はそれがなんとなく申し訳なかった。

サノさんにはいくつか質問したこともあって、それも本当の意図をやっと口にできた。

いつだったかは「イケメンオーラ」が出ていたかどうかを聞くということがあったけれど、それは本当はそういう意味ではなかったこともきちんと話せた。

まさかその話が尾を引いて、その後2週間近く「イケメンオーラの出ている人・芸能人」なんて話題に行くとは思わず、それは楽しかったから良かったけど、色々本当のことを言わなくて騙してるみたいで嫌だなと思ってた。

サノさんには事の真意を伝えた。

それもおかしな話だったけど、サノさんは驚きもせず普通に聞いてるから、そっちの方が逆にビックリした。

当の本人がいなくなって何ヶ月もしてからふと、私が見えていたあのオーラみたいなのはみんなも見えてたんだろうか?と初めて疑問を抱いた。

私もイケメンゆえに放ってるオーラで当時は片付けていたけれど、よくよく考えたら私はそんなのこれまで一度だって他の人の時に見たことがないから、それにやっと気付いて調べたら、あれはイケメンオーラではなくその人自身が纏ってるもので、そしてどういうわけか見えたんだろうなということがわかった。

しかも無色透明だったから余計とわかりにくくて、でも確実にその人の周りだけ空気感が違うから、私はイケメンオーラか色恋沙汰ボケか本当のボケか、そのどれかだと信じ切ってた。

私は今でもその空気感は鮮明に覚えているし、そして私の気持ちを知って以降私が話しかける少ない回数の時は、それが完全に消されていて寄せつけない冷たい空気を醸し出してたから、それもまた目の当たりにする度に心はボキッと折れまくっていた。

なんならサノさんの前で実際にどんな風なふるまいだったのか実演までした(脳裏に嫌でも焼きついてるからいくらでも実演できる)。

サノさんはそれを聞いてこんな風に言い出した。

「わかんないよね。本当に何考えてる人なのかただでさえわかりにくい人だから余計とわかんないよね。
でも、もしかしたら、武士俣さんが言うみたいに嫌で無視したとかではないのかもしれないって私は思ったかな…。
本当はもっと別の何かがあってもそれをうまく出せなくて、もしくは本人も混乱してて、そうなってたのかもしれないね」

サノさんにはこれまでの人生で感じたことのない感覚だったから、私はとにかくものすごく混乱したことは言った。

しかもタイプの人を挙げるなら絶対に100%選ばない人であることも言った。

タイプではないし、まともに話したこともないからどんな人かも知らないのに、異常なほどのドキドキ感がどこからやってきてるのかさっぱりわからなかった。

サノさんにいつからいいと思ってたんですか?と聞かれたけれど、私は「よくわからない」としか言えなかった。

最初の時からもしかしたらいいと思ってたのかもしれないし、実際にその人の小さな声を拾うのに私は全身全霊で耳を澄ましてたし、それもとても無意識に。

でも慣れない仕事を覚えるのに頭は必死だったから、他のことに目を向ける余裕がなくて、耳を澄ましてたことや最初に会った日のこともうんと後になってから気付いたと言った。

きっかけとなった外掃除の時はあくまでもきっかけであって、その後も私は「ありえない」と自分の中から勝手に湧いてくる感覚を全力で否定してたから、本当によくわからないですと説明した。

サノさんは私が発するどんな言葉もそれはそれは丁寧に聞き取ってくれて、そして1つとして否定しなかった。

なんなら内側から突き動かされるように書いた15枚越えの手紙を書いて渡したという話もしたら、サノさんはこう呟いた。

「その手紙読んで本当はどう思ったんだろうね。どう思ったか聞きたかったね、本人に聞きたかったね」

そのサノさんの言葉の温かさと言ったらなかった。

私は泣きそうだった。

長すぎるとか重すぎるとかそんなこと絶対に言わなくて、本当にサノさんが思ったことを口にしてくれた。

私も自分が書いてる理由を知るのは何ヶ月も経ってからで、それだってホロスコープ鑑定を受けた時の鑑定士さんが見たものを伝えてもらっただけで、その確証も証拠も1つもなかった。

過去世の中でお互いに近くにいた間柄で、魂的な縁がとても強い人だと言われて、だからこそ「出逢えてうれしい、毎日お互いに命があって元気で会えて嬉しい」というかなりすっ飛んだ感覚も納得できたと説明した。

ただ私が一番しっくりきた説明だったから信じたに過ぎない。

鑑定士さんからのメールにその人の特徴が書かれていた文章を見せたら
「これ(本人の)まんまじゃないですか 笑!
何ですか、この鑑定士さん!
何が見えてるんですか?笑」
とサノさんも笑った。

画面に映し出されたメールの先には、私が物書きだった過去世も書かれていて、
「これ武士俣さん、今の武士俣さんのまんまですね!
ホロスコープとかわかんないけど、すごいですね、こんなことまでわかるなんて!」
と言ってくれたのが嬉しかった。

サノさんは私が昼休みにしょっちゅうノートを広げては何か書いてる姿を見てたから、だからメールの中の過去の誰かと今の私とが重なると言った。

そんな話、これまで聞いたことないけれど、すごく面白いし、そしてそういうことが本当にあるんだということが、武士俣さんの他のことも含めて信じられると言ってもらえた。

本当に嬉しかった。

だからサノさんはその後だったかに

「私、プロレス熱が再発したのとか、なんでプロレスがこんなに好きなのかって思うことが時々あるんですよね。
今日の話でもしかして、なんて思いました。」

サノさんは30年以上のブランクを空けてプロレス熱が再発した。

時々どうして…と思ったらしい。

サノさんは続けて言った。
「私、仲介役の役目があったんですかね?そう考える方が(なぜプロレス熱が再発したのか)自然な気がします」と。

そしていつかサノさんが渡されたポイントカードの話もした。

サノさんの手元にやってきたポイントカードの話を聞いた翌日か翌々日ぐらいに一体何が起こって、それが結局私が表現することに戻るというか始めるきっかけに繋がっていく、本当に起こったままを話した。

運転中その人の名前が入ってるお店の車の真後ろにたまたま辿り着いて、そこで買物しようと車に付いて行ったらそのポイントカードの店で止まって、それだけでも驚きだったのに、その後私は自分の向かう場所へ行こうと通りに出たら本人の乗ってる車と同じ車が目の前で右折待ちしてたという話。

あれも絶妙すぎる話で、まさかサノさんもそのポイントカードがその裏で違うストーリーを紡いでいたなんて昨日の昨日まで一切知らなかった。

サノさんもそのカードを通じて一連の流れに関与していて、だからこそ「仲介役」という風に言ってた。

本気で鳥肌立ちました!とその日何回目かの鳥肌を立たせて腕をまたサノさんはさすった。

前の記事に書いた街バルの話なんて、さすがの私も度肝を抜かれた。

私の記憶にある限り、多分その時は新潟に2016年の6月に戻って以降、初めて外で飲んだ時だと思う。

飲むのは大好きだけど、普段車があるから、この2年弱の間も片手で数えるぐらいしか外で飲んでない。

移動が大変だから、本当にそれ行きたい!というのでなければ行かないし、その時も一緒に行った女の子が早い時間からスタートするからぶっしーもそれならゆっくり飲めるよね⁉︎と言って誘ってくれたから行けた。

私は世の中のイベントには疎いからそんなことがあったことも知らなければ、自ら企画して誘うなんてことまずしないから、本当に異例中の異例の出来事だった。

そんな千載一遇のチャンスみたいな出来事にそれぞれの人たちがそこにいたなんて、本当にどんな確率の話ですか?っていう話だった。

本当にどこまでも不思議なことばかりだけど、全体を通じてとても温かい空気が流れてた。

自分をありのまま出すことはずっと怖いことだと思ってたけど、サノさんはそうじゃないことを私に体現して見せてくれた。

それは世界は優しいことも伝えてくれた。

思い通りではないことも悲しかったり苦しかったりすることもたくさんあるけれど、それでも世界は人は優しいってことを見せてもらってる。

本当に凄すぎな宴だった。

余韻もさることながら、渦中の空気が今もはっきりと記憶にある。

食べるの大好きな2人が美味しいものをゆっくり味わう間も無く、とにかくあの空気を体中で吸い込んでた。

優しくて温かくて、涙が出そうだった。

告白

告白

年明けあたりから計画していた飲み会が今日の夜決行された。

私の地元の美味しいイタリアンに行きたいというサノさんの声で始まった計画。

雪が解けて春が見えてきた今日の夜、サノさんの家に車で迎えに行って、うちからは歩いて行った。

この飲み会が決まった時点で私はサノさんに2つのことを話そうと決めていた。

1つはペンジュラムのこと。

もう1つはサノさんの趣味つながりの友達のこと。

サノさんがどう思うかはわからない。

だけど、隠したままこれからも繋がるんじゃなくて、繋がるなら知ってもらいたい、知ってて欲しい、そう思った。

家を出発してすぐに私は携帯がないことに気付いた。

立ち止まって見てもやっぱりない。

家のすぐ近くだったから、サノさんにお願いして家に引き返した。

携帯もすぐには見つからず、車の中で充電してたことを思い出してそれでようやく見つけた。

あたふたしながら再出発をした。

5分弱歩いたところで「今日はサノさんに話そうと決めたことが2つある」と言いながら、ふとペンジュラムがないことに気付いた。

メインなのにないってどういうこと⁉︎と思いながら、明るい外灯のあるお宅の前で携帯の懐中電灯機能を使いながら、カバンの中を確認した。

どこをどう見てもない。

他のものならあきらめるけど、ペンジュラムは今日の話のメインなのにないのは困る。

そこでサノさんに今日のメインで見せるつもりでいたから取りに帰ってもいいかと聞いた。

サノさんはふたつ返事で了解してくれ、また元来た道を戻った。

サノさんはそんな私を見てとても驚いていた。

仕事の時とはまるっと別人だと言う。

私は説明した。

仕事は仕事ゆえ真面目にそしてかなり気をつけてしてるけど、本来の私は今みたいに物を忘れたりして取りに戻ったりあたふたしてるのが普通だってこと。

仕事中きっちりしようと奮闘してる自分よりも今みたいにあたふたしてる自分の方が馴染みがあるぐらい、それぐらい普段は色々やらかしてると伝えた。

サノさんにはペンジュラムのことも、趣味つながりの友達の存在のことも話した。

隠さずにありのままを伝えた。

目の前で「これほんとだよね⁇夢じゃないよね⁇」と言いながらほっぺたをつねった人を初めて見た 笑。

私も思わずつられて自分のほっぺたをつねった。

サノさんは基本的に見えないものや神頼み的なものを信じない。

ましてや私のペンジュラムの話なんて、普段なら信じない。

そうだと本人が公言してるのを知ってるから、だからサノさんに告白するのは相当な勇気がいった。

サノさんの反応はある意味想定内で、ある意味想定外だった。

やっぱり基本は信じないけど、でも自分の好きな人たちが信じてるものなら私はそれは受け入れられる、サノさんはそう言った。

ましてや私の体験談はもうあまりにもぶっ飛び過ぎてて、サノさんは何度も「鳥肌が立つ」と言って腕をさすっていた。

実際にサノさんに私のペンジュラムを渡して持ってもらった。

勝手にユラユラするペンジュラムを見て「これ私じゃねぇですね!完全に私の力以外の何かで動いてますね!武士俣さんの言うことがわかりました!」ととても嬉しいことを言ってくれた。

何十キロと離れた町で迷子になった私を家まで導いてくれたり、セールと知らずにタイムセールで70%オフになることを教えてもらったり、この間の誤案内しまくりの末、25年来の友達と偶然オルゴナイトの店で遭遇させてもらったり。

そういう具体的なエピソードを伝えて、そういうことが私の日常であることも説明した。

ドン引きされるどころかサノさんは興味津々で話を聞いてくれた。

そして確証はないけれど、オルゴナイトから職場内で助けられたと思われるエピソードも話した。

サノさんは私の今回の退職の流れが良い意味で未だかつて見たことのない展開なのは見てて感じてたから、オルゴナイトについても逆に興味を持ってもらった。

本当に話して良かったと思った。

趣味つながりの友達のことは…

今書きながら寝落ちしそうに何度もなってる。

彼女はいないと思うけど大切に思ってる人はいるようだった。

それを応援したいというような気持ちには一ミリもならなかったけれど、今の人生で出逢わせてもらえたことが何よりものことなら、もうそれ以上は私はそっとするしかない、色々納得できなくてももうそれがすべてでそれが定められてることならどうすることもできない、そう思った。

それについても裏側でどれだけの摩訶不思議なことが起こっていたのかを説明したら、サノさんは言葉を失いつつもそれが本当すぎて切ない顔をしていた。

驚いたのは私の方だった。

これまでの癖で「ドン引きするでしょう?」と私は前置きしてから実際にあったことを言った。

サノさんは一切引かなかった。

代わりに静かにありのままを「そうだったんだね」と受け入れてくれた。

私はもうそれだけで泣きそうだった。

本当に変なことだらけだった。

そんなことあるわけない、ということばかりが起こっていた。

だけどそれが私の現実だったから、私はそれをストレートに誰かに説明してそんなことあるわけないと否定されるぐらいなら「いい人いたけど誘ったけどダメだった」と説明して突っ込まれないようにする方が楽だった。

だけど、サノさんは真っ直ぐに話を聞いてくれた。

本当にただただ真っ直ぐ、聞いてくれた。

その話とペンジュラムがどう繋がるかも話した。

何の確証もない、だけど私には今あるすべての情報がすべてで、そしてそれで本当に納得できたから、なぜ出逢ったのか、なぜ惹かれてしかたなかったのか、なぜその人が年を取るのを隣りで見たいと思ったのか、私が納得できた理由をひたすら話した。

そうしたらサノさんは突然言い出した。

「私、プロレス熱が再発したのとか、なんでプロレスがこんなに好きなのかって思うことが時々あるんですよね。
今日の話でもしかして、なんて思いました。」

サノさんは30年以上のブランクを空けてプロレス熱が再発した。

時々どうして…と思ったらしい。

サノさんは続けて言った。
「私、仲介役の役目があったんですかね?そう考える方が(なぜプロレス熱が再発したのか)自然な気がします」と。

さらに2人で「まさかこういう展開で仲良くなるとは思わなかったですね」と振り返った。

そもそも私がサノさんの隣りの席でサノさんの仕事を手伝う予定は当初全くなかった。

それが一時期とても暇になって手伝ったのが最初で、そしてそれはサノさんと仲良くなるきっかけももちろんだったけれど、現実の業務としてみんなの役に立つようになっていた。

何の話のついでか忘れたけれど、なんとサノさんもサノさんの趣味つながりの友達も私も全く別のルートで同じイベントに参加してたことが判明した。

それは地域の町おこし的な感じの街バルで、まさか同じイベントにそれぞれが参加してたなんて、今日サノさんが言ってくれなかったら知らなかった。

2016年の秋、まだ私がサノさん含め2017年に出逢う人たちと出逢う前に同じイベントに行ってた。

私の場合は当時仲良くしてた女の子に誘われて行って、サノさんは旦那さんと、そして趣味の友達はまた異色のメンバーで行ったらしい。

今年も誘われたけど断ったし、そういうイベントには誘われなければ行かなかった。

そもそもあることさえ私は知らずにいた。

そんな風にして見えないところで繋がってたんだと知った。

そこまでの繋がりがあっても繋がらない現実が今後も続くのであれば、もう私にはどうこうできる範疇の話じゃない、そう思った。

そしてどんなに叶わない現実も、それがそうと決まっていて、そしてそれが相手にも私にもベストならもうどうにもできない。

色々書きたいことがある。

感じたこともたくさんある。

だけど眠くて限界。

12時間後には2歳の怪獣さんと再会してエンドレスごっこ遊びや何かをさせられる。

この続きはまた書こう。

瞼がしっかり開いてる日に書こう。

2018年3月19日月曜日

38歳の決断

2018年3月10日

木のテーブルにて

 

38歳の1年をかけて、そして38年間という時間を経て1つ決断したこと。

武士俣史子の本名のままで、これからはすべて表現していくこと。

それはすなわち、「武士俣史子」として生きていくこと。

そして武士俣史子という名前を持って生きていく覚悟を持つこと。

 

 

2018年3月18日

ようやく「38歳の決断」が書ける。

ずっとずっと書こうと思っていてここまで延びてしまった。

春分の日から金沢の妹のところに行くから、また書けなくなる。

もうどうでもこの週末に書こうと決めていた。

 

「武士俣史子」の本名のままでこれからはすべて表現していく。

これは私にとって38歳の1年で一番大きな決断だった。

これを読んでくれている人は薄々気付いていると思うけれど、私の今の人生のベースにはスピリチュアルなことがものすごくたくさん入っている。

ペンジュラムとかオルゴナイトとかもそうだし、具体的な物じゃなくても考え方とかにはスピリチュアル的な学びから得たものが多い。

そもそも『名古屋シリーズ』をこのブログ内で公表しようと思ったのも、スピリチュアルな世界に入っていくそのプロセスをきちんと書きたいと思ったから。

先に言うと、私は31歳になるまでスピリチュアルなこととは無縁な世界で生きていた。

気を起こすことができる友達(『カメハメハの夜』)や霊視できる友達の友達と会うこと(『イシダくんの予言』)はあっても、単に興味本位で見聞きしただけで、自分がそういう世界に行くなんて1ミリたりとも思っていなかった。

しかも20代の頃は、福祉や心理の本を見に行くといつも必ず隣りは精神世界の本のコーナーで、それを見ては「あそこはやばいコーナー、やばい・頭のいかれた人たちが読む本のコーナー」と位置づけ、絶対に近寄らなかった。

手をほんの少し伸ばせばそのコーナーの本は簡単に取れたけれど、私の心の中では地球を1周するぐらいの距離があって、そこは存在していないも同然だった。

31歳に何があったかは名古屋シリーズに詳しく書くにして、とりあえず人生が自分の力ではどうにもこうにもできないぐらいに崩れて、そしてそのまま年を重ねることにすごい恐怖を抱いた私は、ひょんなことからコーチングと出逢った。

自分の人生の立て直しを図らないと、これから何十年と生きていける気がしないと切実に感じていた。

コーチングが何かも知らずに体験説明会に行って、そこで出逢ったのが私のコーチのまんちゃんだった。

私は他の人からはコーチングを受けてないから詳しくは知らないけれど、多分世の中で認識されているコーチングとまんちゃんがするコーチングは随分と違う。

まんちゃんはスピリチュアルなことをすごく勉強していてそういう知り合いも多くて、そして本人も特異体質で感性が鋭いから、普通の目標設定のようなコーチングとは似ても似つかないセッションをする。

まんちゃんがスピリチュアルなことを全く知らない私に1から色んなことをさりげなく教えてくれた。

そもそもそういうものが何かも知らぬまま、だけどまんちゃんのセッションを受けると必ず気持ちが楽になってそしてどんどん状況も好転していったから、それが何なのかその秘密を知りたかった。

そんなこんなでスピリチュアルなことをどんどん知っていって、そして自分自身でも本やセミナーで勉強するようになった。

私は何年か前からアメブロを開設して、そちらにはそうした学びと自分の体験を組み合わせて知り得たことを情報発信していた(今は2年近く休止中)。

だけどその時も、ものすごい細心の注意を払って、スピリチュアルな用語も使わなければそういうにおいも出さないように表現していた。

そういう自分を隠したいと思っていたから。

私が31歳でそういう世界に触れるまで一切受け付けられなかったように、普通の人も受け付けられないだろうと思って、だからそういうことは言わないか、もしくはオブラートに包んで表現するかの二択だった。

これは当時も今も変わらないけれど、私は本名で書いていくことにものすごくこだわった。

それは本名で書く以上は変なことは書けないから、そういう意味で自分への戒めになると思った。

そしてそれはこういう選択肢も同時に生んだ。


 ①偽名を使ってスピリチュアルなことを発信していく
 ②本名で書く代わりにスピリチュアルなことは伏せる

私の中で①は絶対に有り得なかったから、おのずと②になった。

そして今ある③の選択「本名でスピリチュアルなことも公表していく」というのはここ最近まで全く選択肢の中にさえなかったことだった。

最近まではそんな危険を冒せないと思った。

周りの人たちから変な人と思われるのももちろん嫌だった。

そして公表しなくてもさして困ることがなかったからそれで良かった。

ところがこの数ヶ月でどんどんそうも言っていられなくなってきた。

1つはペンジュラムの存在が大きい。

アメブロを休止したタイミングは、丁度手元にペンジュラムがきたタイミングでもあった。

アメブロ休止は別にペンジュラムとは一切関係がなくて、単にネット環境がなくなってブログをパソコンからアップできないからという理由で書かなくなり、そして気付けば2年近く経過したというにしか過ぎない。

(これは休止して今となっては正解だと思ってる。遅くともこの39歳の1年の中でそちらはリニューアルオープンしようと企んでる)

この2年の間で私の人生は激変した。

まさか興味を持って買ったペンジュラムがこんなにも色んなことを教えてくれ、さらにはペンジュラムの研究じゃないけれど、そこから出てくるメッセージの読み解きにこんなにもはまるとは思わなかった。

今年に入ってからやってきたオルゴナイトに関しては、これからもますます面白い展開を見せてくれると思って今も絶賛観察中。

そしてもう止まらないぐらいにそういう類いの世界のことがどんどん情報として入ってきていて、当然自分自身も色んな体験を同時進行でしていくわけで、そんな中隠し通す方が難しくなってきた。

過去のブログを見ると多分出てくると思うけれど、私がまだペンジュラムをペンジュラムと紹介できなかった時は「ある物」という言い方をブログの中ではしていた。

そういう風に書く時はいつも面倒だと思っていたし、こんなにも役立つものをそのまま紹介できないもどかしさも感じていた。

でもまだ自分の中では「隠してる方が得策」みたいな考えがあったから、隠していた。

それが2017年の12月にあったイベント「命の授業」で一気にその想いが覆された。

本名をそのまま出してそれでスピリチュアルな情報を発信している、けれど一般ピープル的な感じで普段生活しているだろう人たちに出逢った。

これまでも出逢っていたけれど、何て言うのか、雲の上の存在じゃないけれど、レベルが自分と違い過ぎて目指すにも目指したいとさえ思わないぐらいにすごい人たちだった。

到底その域にいない自分が本名で何かを発信するなんてありえなかった。

それがこの度、なんかそんなにもこだわらなくてもいいのかもと思える人たちに出逢わせてもらえた。

しかも私は友達の計らいで、イベント後の飲み会にも参加して、そこで彼女たちと話して彼女たちがとても普通の感覚で日々生きていることも知ったし、近寄りがたいなんていうことは全くなくむしろフレンドリーで親しみやすくって、その感じもとっても良かった。

こういう生き方もきちんとあるんだとわかった。

そしてその辺りから自分でも気付き始めた。

昔からの友達2人とSさんに関しては、私がどうであろうとずっと仲良くしてくれてる。

私の色んなぶっ飛んだ発想やペンジュラムを使いこなしてる姿を見ても、変わらずに付き合ってくれていること。

さらには、そういう私だと知っても仲良くしてくれる人がちらほらと現れ始めた。

別にみんなにみんな受け入れて欲しいなんていうことは思わない。

だけど自分の好きな人たちから受け入れてもらえなかったらそれは悲しいしショックだろうと思う。

そういうのもあって公表を控えていたのもある。

公表さえしなければこのままでいられると思ったから。

大切なものを失わずに済む気がしたから。

でも今はもうそう思っていない。

本当に私と縁のある人たちだったら、こういう私でもそれがぶっしーだよねと受け入れてくれる気がしている。

そしてそういう人じゃないとこれから先縁は続かないようになっていると思う。

そんなのは仕方ないと割り切れるようになったのもここ最近だった。

もう等身大の自分で生きて、それで縁のある人たちとこれから先は繋がっていきたい、そういう気持ちがうんと強くなった。

自分を押し殺すんじゃなくて、自分を出していこうって。

それで相手が逃げた時は仕方ない。

だけどもう自分を隠すのはおしまいにしようって。

だって本当の本当に私はそういうスピリチュアル要素の高い教えや物にものすっごく助けられたから。

そして本当に良いものは周りの人たちにも「良いよ~」って宣伝できる。

伝えることもできる。

アメブロは特にそういうスタンスで書いていたけれど、自分が色々やってみて本当に効果を感じたことをそのまま公表している。

それは私だけが特別なんじゃなくて、誰でも、たとえスピリチュアルなことに全く興味のない人でも、何か感じるものがあればいかようにも使えるものだから。

私が目指すスピリチュアルは昔も今も変わらなくて、いかに日々の生活にそして人生そのものに活かせるかどうか。

だからぶっ飛んだことを伝えるんじゃなくて、どうやって自分の気持ちに寄り添っていくとか、どうやって自分の気持ちに気付いていくとか、そういうことが中心だったりする。

だって使えないことを書いても仕方ない。

それがある程度のトレーニングを積んだ人しか使えない方法なら、そんなのちょっと違うと思う。

私の最大の強みは、そういうことを一切知らないところから人生が大きく崩れて、そこから本当に自力で這い上がらなければいけない状況を通過していることだと思う。

だから渦中の大変さもものすごくたくさん知っているし、簡単に大丈夫だよなんて言えない。

だけど必ず道はあるし、そしてそこから色んなことが開いていく、たとえ可能性が1%もなさそうなことでも状況が変わる瞬間を何度も見てきた。

そしてそういう時に自分が自分のために何ができるかも自分でやったから知っている。

そういう体験があるから言えることがあるし、伝えることもできる。

そしてそういう情報が自分以外の誰かにも役立つんだということを周りの人たちから教えてもらえるようになったのもここ最近だったりする。

ペンジュラムについても、私の場合は丸っと自己流で、何かを見て覚えたわけじゃない。

自分でがんがん使ってそれで色んなことをそこから読み解いたり質問の仕方を学んだりしていった。

そんなのは、今の仕事でコピー機の使い方・テプラの使い方・excelの入力の仕方を学ぶのと何ら変わらない。

地道に1つ1つ積み重ねた先にわかることがあるし、それなら別に私じゃなくても誰でもできる。

そういうことをどんどん発信したいのと、そしてもう本名で発信しても大丈夫だろうなと自分で思えるようになった。

今は思う。

本名でスピリチュアルなことを発信していくのは、変なことが言えないから自分の戒めにももちろんなる。

でももう1つ、本名で言っていくことが自分を守る手段になると予想している。

私は実際に本名で活動している人と、ハンドルネームじゃないけれど違う名前を使って活動している人との両方に会っている。

違う名前を使う人たちはそれぞれ事情があるからそれをどうこう言うつもりはない。

だけど振り返ると、私が本気でこの人すごい!って惚れてその人の教えや実践してることがいいな!と思ってる人は、全員本名を名乗っている。

本名を名乗ることが大切なのは、自分自身がずれないことにあると思っている。

例えば私が「森山直太朗です」なんて違う名前を名乗ったら、私はその時は森山直太朗にならなきゃいけない。

だけどオフの時は当たり前だけど武士俣史子に戻る。

そんな器用なことは私にはできない。

もうどんなにカッコ悪い自分でもそれを出す覚悟が出てきたから、もうそのままでいいと思ってる。

いちいち他の誰かになっていては体がいくつあっても足りない。

もう無理をせず自分でいられることを一番の軸にしたい、そう思うようになったのが38歳の1年だった。

そしてそれが一番ダイレクトに出るのが「本名で」「自分の思いや体験を表現していくこと」だった。

本名を名乗り続けることも妥協したくない。

そここそ本当に絶対に妥協したくないポイント。

ぶっしーと呼ばれるとかそんなのは良くて、そうじゃない自分自身が違う名前を名乗ったら私の場合はもう終わりだと思う。

自分に対して嘘をついているのと同じぐらいのことだと思ってる。

他の人はごまかせても自分自身はごまかせない。

そしてスピリチュアルなことも含めて表現することもあきらめたくない。

むしろそういうのをこれからはもっと自由に表現したいと思っている。

悪いことをしているわけでも、人に迷惑をかけているわけでもない。

むしろ私なんかはそれに助けられたわけだから、それを本当にそのまま伝えていけたらいいなと思う。

 

38歳の最後の方で決断したこと。

これから先の人生でも大切な軸として自分の中にずっと持っていようと思ってる。

武士俣史子の本名のままで、これからはすべて表現していくこと。

それはすなわち、「武士俣史子」として生きていくこと。

そして武士俣史子という名前を持って生きていく覚悟を持つこと。 

38歳最後の日


【2017年9月30日の日記より】
「もしネットの情報が本当なら、私この人生が最後の人生になる。そう思ったら、全ては一期一会でもう次はないんだって、そうなると全てはまさに奇跡の連続で愛でもつながりでも出し惜しみしてる場合じゃないって、そう思った。」

 
私が子どもの頃大賑わいだったショッピングセンター脇の立体駐車場に来ていた。

最初その近くにいて、夕日が丁度沈む頃で、その辺りはごちゃごちゃと中途半端に高い建物たちがあってよく太陽が見えないから、それでその5~6階はある立体駐車場の一番上に上った。

今は閑散としているから屋上には私以外誰もいなかった。

夕日を見ながら色んなことを思った。

ネットの情報というのは、私は自分の身にあまりにもおかしなことがたくさん起こり出してきたから、それを調べて行くうちにそういう情報にたまたま行き着いた。

だけどそんなの確証はないし、気のせいと言われたらそうだし、すべて勘違いかもしれなかったから、まぁそんなのの真偽は正直どちらでも良かった。

でももし本当だとするなら、1つだけ納得できることがあった。

いつからか覚えてないけれど、とにかく38歳のある1人の人との出逢いの後から、目に映る景色ががらりと変わった。

色彩がとてつもなく濃い。

目に映る色んなものが「これは一生で一度の一期一会の景色です」と言わんばかりの様相を示してきた。

それは自分の年齢がそうさせてるのか、それともその人と出逢って感性が高くなったのか、はたまた別の理由かなんてわからないけれど、とにかく色んなものを見てうんと感動する。

そして何でもかんでも「これが最後かもしれない」という感覚がやたらと出てくる。

それは単調な仕事の時でさえ、もう見れるのはこの空気のこの場所にいれるのは今が最後だと思うことが本当に多かった。

その後も、私の目を見て書でメッセージを書く人に出逢ったり、名付け親のおばちゃんに再会したり、自分の名前とそこに宿っているだろう使命の関係性みたいなのを調べ始めたり、命の授業のイベントに参加したり、オルゴナイトを紹介してもらったり、ホロスコープ鑑定を受けたり、私自身の体から私の潜在意識からの声を伝えてもらったり…。

これまでの人生の中には全くない要素がどんどん人生の中に流れ込んできた。

そんなの38歳になった1年前の誕生日には全く想像も予定もしていないことばかりだった。

 
38歳最後の日の土曜日の朝、1本の電話がかかってきた。

相手はずっとずっと何年にも渡ってお世話になっている年上の女性Sさんだった。

Sさんの先に繋がっている人で、特定の使命を持って生まれてきているかどうかを調べることができる人がいる。

Sさんも最初は適当にその話を聞き流していたらしい。

だけど何回も話が出るからそれである日調べてもらったとのこと。

Sさん、Sさんの娘さん、Sさんのお孫さんの3人が該当していた。

特定の使命というのは私もよくはわからないけれど、まぁそれゆえというかとにかく波乱万丈な人生になりやすい。

色んなことが起こるし、それはのしをつけて返したいようなことばかりだけれど、それは結局使命に繋がるところにすべて通じている。

お孫さんなんてまだ2歳になったかならないかだけど、もうそういう人生を想定した人生に今後なっていくらしい。

娘さんはまだ10代だけど、私から見ても何か大きな役割を持って生まれてきている子なんだなというのはわかる。

愛情いっぱいの家族の元に生まれてきてもとてつもなく色んなことが起こっている子だから、そして普通の同世代の子たちが通過する道を歩まないようになって早数年、これは何か意味があって起こっているとしか思えない状況を私も間近で見ていた。

で、そのSさんが2月のいつだったかに「ぶっしーちゃんも多分そうだと思うの」と言ってきた。

Sさんいわく、調べて欲しいと自ら言う人たちというのはみんな違うらしい。

色んな人たちのことを頼まれた分全部調べてもらったらしいけれど、該当しなかったとのこと。

逆に「この人そうかも」とSさんがぴんときて、それで本人の了承を得て調べてもらった人は反対に該当するとのこと。

私も興味本位半分、逆に「違う」と言って欲しいの半分で調べてもらった。

「違う」と言って欲しかった理由は、そういう使命はいらないし、色々現実とすり合わせていくのも大変そうだし、そもそもそんな能力やキャパシティ私にないと思ったから。

誕生日の数日前、Sさんが23時過ぎに「今電話できる?」とラインしてきた。

私はその辺りでSさんから心理セラピーみたいなのを遠隔で受けて、それで異常な眠気に襲われていたからその日は早々と寝ていて、気付いたのは真夜中の3時過ぎとかだったと思う。

それ見て、なんとなく予想はついた。

Sさんはそんな時間に「電話できる?」なんてまず言ってこない。

そう言うってことは、電話してまで伝えること。

伝えなきゃいけないこと。

そんなの最近の中ではそれぐらいしかない…。

それで何だかんだと延びて、それで電話で話すことができたのが誕生日の前日、38歳最後の日だった。

「ぶっしーちゃん、やっぱりそうだったよ。
ぶっしーちゃんもそうで、そして娘は今月以降、私は来年の1月以降にそのタイミングが始動するって説明されたけれど、ぶっしーちゃんは『もういつでも受けれます』って言われたから、だからもうすでにその状態になってるってことだと思う」

その辺りは私も細かく突っ込んでないから未だに何も知らないけれど、だけど1つだけすごく気になることがあった。

それは調べる前から言われたこと。

仮にその使命で生きていくということを選んだ場合、この今の人生が人間としての最後の人生になること、もう輪廻転生はしないこと、それも同時に選ばないといけないということだった。

本当に何をぶっ飛んだ話かと思われるけれど、あの秋の日に「この人生が最後の人生になる」と突然思ったことと一気に繋がった。

そして当たり前だけれど、それは本人の意志に基づいて選べるから、そこに進まないというのももちろんOKだし、それも決断の上進むというのでも、本当にどちらでもいいと言われた。

ちなみにあれからそのことはそっとしてある。

積極的にぐいぐいといきたい感じではないから、何か言われない限りはしれっとしてようと思ってる。

そんなこんなの話を聞いた後、私は日帰り温泉へと出かけた。

その日もぽかぽかしていて気持ち良かった。

空は青、山の色はくっきりはっきりとしていた。

その日も片道60kmほど運転したと思うけれど、目に映る全てがあまりにもきれいで涙が出た。

その日も元気で、外に出るための車があって、そしてお願いもしていないのに天気は晴れで、目に映る色んなものが命を宿していて、とにかく見るものすべてが奇跡の集合体で、何だか意味も分からず涙が溢れ出た。

その日の最後、『人生フルーツ』という名のドキュメンタリー映画を見に行った。

いつかの喫茶店で地域情報誌にその上映会のことは掲載されていた。

誕生日の前日で、何か意味があるのかなと思った。

そのチケットを買いに行った日のこともよく憶えている。

前日の金曜日、仕事が終わってから駅の中の書店に前売り券を買いに行った。

駅前のパーキングに入る2つ前の信号あたりから満車を表す「満」という赤い文字が見えた。

直前の長い赤信号で止まっていた時も「満」のままで、そして誰も駐車場にこなければ車が出る気配もなかった。

その後友達の娘の家庭教師も控えていたから、あまりのんびりとはしていられなかった。

空くといいなぁと思いながら駐車場前に着いたまさにその時、1台の車が出ようとした。

私が駐車券の機械の前に着くのとほぼ同時に、その車は清算をしていた。

だからすぐに駐車することができた。

そして書店に向かった。

レジで前売り券が欲しい旨を言うと、「少しお待ちください。まだあったかな…」と言われていた。

そのファイルを持ってきて店員さんが「ありましたけど、後半の19時からの分で1枚しかもうないんですがそれでもいいですか?」と聞いた。

まさに私の欲しいのはそれで、自分ひとりで行くから1枚で十分だった。

それを見て、もうそこに行けってことだろうなぁと思った。

行けない時はどんなことしても行けない。

でも行く必要がある時はどんなに有り得ないことでも行けるようになっている。

そうして手にした1枚だった。

実際に見てみて、90歳と87歳の老夫婦の日常が撮影されていて、そして最後の方で実
際に90歳のだんなさんが亡くなられるけれどその後も人生は続いていった。

その夫婦のやりとりもそうだし、日常の生活も、そこに登場する色んな景色や歴史も、普段の食卓も、もう私はそのすべての虜になって見ていた。

特別なものは時々あるけれど、普段の生活は単調と言えば単調。

だけどその生活をとことん慈しんで大事にしている。

その姿が私にはツボだった。

そして途中で戦争の時に知り合った台湾人の男の子(20歳前後)が政治犯として捕まって1950年頃処刑されて死んだことを知った。

その子はそのだんなさんに手作りの印鑑をプレゼントしていて、そのご夫婦はすべての契約でも何でも数十年に渡りその印鑑1本で済ませてきたとのこと。

それを本人に返そうということで、2人でその子のお墓参りをしに行くシーンがあった。

普段おだやかなだんなさんが泣いてたのはそのシーンだけだった。

当時みんなで口ずさんだ歌を歌いながら、印鑑を埋めるために土を掘りながら、声を震わせて泣いていた。

見終わった後、不思議な気持ちに包まれていた。

朝、生きてることだけで奇跡だと思ったのと似ている感覚だった。

 
これを書いている3月18日はすでに39歳になっていて、色んなことが相変わらずではあるけれど、覚えている限りの38歳最後の日を残したくて書いた。