2018年3月29日木曜日

命という奇跡

命が誕生する。

毎日可も不可もなく生きていると、その日々が当たり前に見えて、命の重さや尊さなんて簡単に忘れる。

毎日の生活は色んなことに忙しくて、生きてることの奇跡に目を向ける余裕がなくなる。

でも本当はそうじゃないんだって、自分だけを見てると忘れるけど、愛おしい人を思い浮かべると、それがどれだけの奇跡の上で成り立っているのか、その凄さがわかる。

12月に友達主催の命の授業的なイベントの中で、受精卵誕生までの動画を解説付きで見た。

見る前の私は、正直興味は一ミリも湧かなかった。

小中学校で見る性教育のビデオみたいなのを想像して、全然そそられなかった。

だけど解説者本人はそれにすごく感銘を受けて、毎日でもその動画を見ていたいと言う。

子どもを2人も産んだ女性が言う言葉だとは到底思えなかった。

だけど、実際に見てみたら、本当にその意味がわかった。

学校で見たようなものとは全く違っていて、本当に生命誕生の瞬間に至るまでを克明に描いていて、そしてそれはもう神秘なんてレベルのものではなかった。

記憶力の足りない私の頭が唯一覚えていること。

何億とある精子の中でたった1つの精子だけが勝ち残って卵子に到達するというやつ。

あれは実は他の精子たちが負けるのではなくて、たった1つの精子を卵子にまで運ぶために、他の精子たちは精子たちでそのための道を作る役割を果たしている。

だから何1つ無駄なものなんていうのはなくて、そして勝った負けたではなくて、たった1つの命を誕生させるために、そこに存在するすべての精子が共同作業で動いている。

それを初めて知って、命の神秘さは言葉なんかでは計り知れないものがあった。

話は少し変わるけれど、妊娠した女性の流産率は2人か3人に1人ぐらいの確率で起こる(何人に1人かは忘れた)。

確かに大人になってから私はかなりな人数の人から実は流産してね…という話を聞いている。

しかも妊娠できる可能性は単純計算で年に12回。

そしてその受精卵の一連の流れとか、流産せずに無事にお腹にとどまって生まれてくるとか、そもそもその子どものお父さんとお母さんが出逢うとか、そんなことをいちいち全部並べてたら、今ある命がどれだけの奇跡の連続の先に生まれてきたものかがわかる。

望まれた命、望まれてない命、色んな命があると思う。

それでも命が育まれてこの世に誕生した、それだけで奇跡だ。

2歳3ヶ月の姪っ子を見ていて思う。

本当に存在しているだけでそれだけでいいんだということ。

そこに1つの命があるだけで、周りはニコニコ笑顔になって、愛をばらまきたくなって、その存在の愛おしさに胸をいっぱいにする。

大人になればなるほどそんなこと忘れちゃうけれど、本当はみんながそうだった。

命があるだけで、ただただ目の前で生きてくれてるだけで、それで十分価値がある。

何もなくてもその命が存在しているだけで素晴らしい。

何もしてなくても、何1つ社会に価値を提供してなくても、ただ命があるというだけで本当はすごく価値のあることなんだと思う。

自分の命をそんな風に思うのは難しかったりする。

だけど、大切な人の命は、その命があるだけですごいと思える。

そしてその命があって、自分の命もあって、その命同士が同じ時代に生まれてどこかでかち合うなんてさらなる奇跡だと思う。

地球に今現在生きている全員とはかち合わないわけで、そう考えるとますます出逢えることが本当にすごい確率の元で起こっていることがわかる。

例えば今日、もう日付変更線を越えたから3月29日に誕生した命がたくさんある。

この瞬間の真新しい命もあれば、100年前に誕生した命もある。

そうした命と出逢って、そしてその人が自分の人生にひょっこりと現れて、そしてその人と何かを交わす。

もう奇跡の最大級だ。

そしてその命が自分にとって特別であれば、さらに奇跡の意味合いが濃くなる。

私はそんな命に出逢わせてもらえた。

特別な命に引き合わせてもらった。

その人の誕生日を祝えるのなら直接言いたい。

誕生日おめでとうって。

生まれてきてくれて、今生きていてくれて、ありがとうって。

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