2019年7月30日火曜日

迷惑メールより回想記

2019/07/24

一度だけ足を運んだH氏のセミナーがある。

自分がお世話になった方がH氏と組んで仕事をすることになって、それでそのセミナーに行った。

お世話になった方のことは大好きだったけれど、H氏は私的に「人間的に無理」な人だった。

生理的に合わないとかいうことよりも、人間的に無理な方が、もうどうやっても無理という感じで言葉を使っている。

H氏というのは、多分業界ではそこそこの有名人で、業績なんかは数多く残しているし、その業績でH氏を頼る人もあとを絶たない。

ちなみに人間的に無理だったのは、1つは人を大切にできない人が人を癒す仕事をしていたこと。

H氏は、きらびやかな経歴や業績が大好きなようで、そういう人たちと組むのが得意技だった。

そういうのは得意でも、個人の人を大事にすることはできてないというのは、一度しか会ってない私にもすぐにわかった。

人間心理を扱うのに、とにかく人を大事にできない。

今でもはっきりと覚えている。

そのセミナーの日、私は1つ質問をした。

成功法を数多く知ってる人だからと思ってした質問だった。

H氏は人間は大まかに2つのタイプに分かれるみたいな話をしていたと思う。

AタイプはAタイプの成功法、BタイプはBタイプの成功法をそれぞれ説明してくれたかと思う。

私はAでもBでもない自分を見て、「じゃあ私みたいな人はどうしたらいいのか」というのがそもそも質問をするきっかけだった。

そこで「AでもBでもない人はどうしたらいいのか」と聞いた。

H氏の答えは忘れたけれど、どちらでもない人間はまるでろくでなしぐらいな言われようだった。

そのろくでなし人間のような説明の後、逆に聞かれた。

「それは、クライアントさんですか?」と。

私ははっきりと「それ、私のことです」と答えた。

当たり前だけど、H氏の顔は青ざめて、その後フォローするような言葉を並べられたけれど、すべては後の祭りだった。

説明の途中でもいくつか質問されて、それももろに自分のことだからそのままを答えたけれど、私はH氏の予想をはるかに上回ることばかりを言うから、H氏の答えは支離滅裂だった。

こんな人が人の心理を扱うのかと思ったらゾッとした。

何か間違えてると思った。

根本が間違えていて、すべておかしいと思った。

そこから今度はそのH氏主催の長期講座の説明会とやらに行った。

H氏はいなくて、私のお世話になった方が司会進行と質疑応答の代理人的なことをしていた。

私ははっきりと「これは金を巻き上げる講座」だというのがわかって、お世話になった人にはきちんと挨拶したけれど、あとはさっさと帰ってきた。

帰る前にトイレに寄った。

そこでその日初めて会った私と同じくらいの年の女の人に声をかけられた。

見知った顔ではないから、今回が本当に初めての説明会参加の人だろうことはなんとなく予想がついた。

「ちょっと聞きたいことがあるんですが…」と声をかけられた。

私は「この人、多分あの説明会に不安を抱いたんだろうなぁ…」と思って、その手の質問なら私は正直な気持ちを話そうと決めた。

ところが、その彼女は突然私の方を真っ直ぐ向いて
「私の目、変じゃないですか?」
と聞いてきた。

メガネをかけていて、ゴミでも入ったんだろうか…と思った。

「目、大丈夫ですか?何か違和感でもありますか?」とかそんなことを聞いたと思う。

「今日マツエクしてまつげを増やしたんですけど、すごく変な気がして…」

想定外の質問すぎて、私は一瞬頭の中がパニックになった。

それで本当のことをそのまま言った。

「普段がどんな感じなのかわからないので普段と比べてどうとかは言えないですけれど、今パッと見て変だとかは思わなかったですよ」

本気でずっこけるかと思った。

そのまま説明会の話を聞かれたのかは忘れたけれど、マツエクで自分の目が変に感じると言った彼女は、高額なお金を払って講座に参加すると言った。

マツエクの一件で私はその人のことが「変な人」にしか映らず、私は多分出ないと思いますとだけ言って帰ってきた。

まつげが増えて自分の顔が変かも…とか心配する人が人の心理を扱うんだ……。

何とも言えない気持ちになった。

私だったら、絶対にそんな人に自分の何かを話したくないし、その人が私の何かを癒すヒントを持っているとは到底思えなかった。




それから季節が変わったぐらいの時期に、その長期講座に参加した人の1人が私の心理セラピーのモニターの手伝いをしてくれるということでうちに来てもらった。

長期講座は賛否両論あって、上手くいった人は数百万の売上から一番の人は億の売上を叩き出したということで、超話題にはなった。

これ絶対に裏があると思ってはいたけれど、それを教えてくれる人は誰もいなくて、煙に巻かれたままだった。

それが、その中の1人が元々コーチングのスクールで仲良くなった人で、その関係でモニターをしてくれるとなって、それで色々聞くことができた。

H氏による講座は、本当に聞くに耐えない酷い内容だった。

実際にしていることも目の前で実演して見せてもらったけれど、それは洗脳みたいな風にしか私には見えなかった。

北朝鮮の軍隊じゃないけれど、あの異常な心理状態で人間として大事な部分を支配されてしまうんじゃないかと危惧されるようなものだった。

教えてくれた人もその異様さを色々教えてくれ、売上を上げてる人たちは皆それをしているとのことだった。

そのことで金銭被害に遭った人の話も直接聞いていたから、それについても「噂で聞いたんだけど」と言って、突っ込んで聞いてみた。

法律的にOKなのかどうかわからない話で、触法してるかもな…という感じだった。

その人は必要な情報だけもらって、あとは何もしてないと言った。

H氏のしていることは、魂を売り渡すこと、人間として大事な尊厳とか心の部分を売ってそれで人を欺き騙してお金にすることだと私は思った。





そんなことはもう何年も忘れていた。

たまたま迷惑メールの中にH氏と同じ苗字の人からのものがあって、あれ?この人こんな名前だっけ?と思って調べた。

この数年で何回かH氏やその運営する団体からメールが来ていたから、最初それかと思った。

その差出人の名前で検索したけれど全然ヒットしなくて、検索ワードを変えた。

変えたら、H氏は40代半ばで病気で亡くなったことを知った。

いつ亡くなったのかは知らないけれど、去年はまだ生きていたようだった。

すごいおかしな感想だし、人としてもどうなのかと思うことだけど、本当に率直に思ったことを書きたい。

本人が書いたブログの中に、家族の写真があった。

子どものこともあれこれ書いていた。

子どもはめちゃくちゃ優秀なようだった。

写真見ても多分大丈夫。
(私が大丈夫とか判断するのもおかしいけれど、時々立派な職業の方たちの子どもたちの表情が超絶ヤバイものとかを見かける。)

だけど、たった1つだけ気になった。

この子は自分の弱いところ、自分で自分がダメだと思うところを出す場所があるのかな…と。

正義感も強くて文武両道タイプで人からの人望も厚くて、申し分ない良い子だった。(ブログにそのようなことが書かれていた)

良い子じゃなくていいから、その良い子じゃないところをそっと見せれる、お母さんでも他の誰かでも見せれるといいなぁと思った。

もう1つ思ったのは、その人は亡くなって自分は今生きているということ。

どう考えても、その人の方がもっと長く生きたかっただろうし、やりたいこともたくさんあったと思う。

「生きたい」気持ちは、その人の方が圧倒的に強かったと思う。

病気療養中でさえも、次から次へとビジネスプランを立てるぐらいの精神力の持ち主で、私からすると、皮肉とかではなく、本気で凄いと思った。

今年2019年や来年2020年、それ以降も含めて、その人はその時代を生きない人生設定になっていた。

私だって誰だって明日の命はわからないけれど、このままいくと私は2019年の今年も2020年の来年もそれ以降もしばらくは生きている気がする。

私の中の「生きたい」気持ちの薄さとは反対に、体を維持する力はまだまだありそうな気がする。

関係ないけれど、最後の占星術講座の時に、常々不思議な自分の不安定さや仕事も住む場所も転々とすることとか、それが一体どこから来ているのかを先生に聞いた。
(誕生日1日違いのクラスメイトが質問して、ほとんど彼女と同じような配置の私は何が違うのか気になって聞いた。)

彼女と私が大きく違うのは約3点で(それ以外はほとんど同じ)、その中の1つが私の場合はその不安定さや転々とすることが色濃く出てしまうことがわかった。

心の不安定さやアップダウンの激しさなんかももろに天体に出ていて、「げっΣ(꒪◊꒪ )))) 」って思った。

自分では扱いづらくても、私の人生はホロスコープに表れたまんまのその通りの人生展開になっている。

ということは、今後もその落ち着かなさや不安定さは常に自分とあると考える方がいい。

「自分のホロスコープに慣れてください」と1年前の鑑定で言われたことを思い出した。

そう、もうそれが私の基本設定だから、変えるのではなく慣れていく他ない。

ちなみにそういうのは外には出さない。

1人になった時に、初めて安心してそういう自分の気持ちにそのまま同調できる。

人がいる時は、最後までよそ行きの顔をするから、基本的にそうした部分は自分1人の時にしか出さない。

そういう自分を抱えて生きていく人の人生がなぜか選ばれていて、法に触れるギリギリであったとしても社会的に有能な人の人生は選ばれなかったことに、色々感じるものがあった。

少なくとも家族もいて、子どもたちもまだ小さい。

もっと生きたい人、まだまだ大切な人を守る人生を続けたい人が病魔に襲われ、生きる気力低めで誰か大切な人を守るとかもない私が生き残る。

皮肉な話だと思ったけれど、それが定められたそれぞれの命なんだと思った。

2019年7月29日月曜日

スニーカーの風景






2019/07/09

車のルームミラーに釘付けになった。

映ったのは小学4年生ぐらいと思しき男の子。

男の子が履いているスニーカーを私はひたすら鏡越しに見ていた。

蛍光の黄色みたいな色。

記憶って凄いなと思った。

一瞬で同じ色だと判断した。

全く同じ色かもしくは限りなく記憶の中にある色と同じだと脳は即座に認識した。




今日の時々雨混じりの曇天とは違って、その夏の日は青空が広がっていた。

私の最大の注目事項は「日焼け対策」と「目指せ会話ゼロ」だった。

誰が何さんかもわからなかった当時、大勢の人たちと一緒に作業する、しかも炎天下の中で作業するなんて何かの罰ゲームかと思った。

用事さえも話さなくていいぐらいの会話ゼロを目指していた。

そんな目論見付きで黙々と作業をしていたら、さっと1人の人がやってきた。

ほんの一瞬だった。

しばらく何が起きたのかを把握するのに呆然とした気がする。

ようやく色々と飲み込めた時に、今度はその足元を探してその人の存在を確認した。

その人が履いていたスニーカーと、今日ルームミラー越しに見えた男の子が履いていたスニーカーとが同じ色だった。

鏡に映る明るい色は、大きさ的に手の指の爪ぐらいの大きさだと思う。

なのに、目に飛び込んできた瞬間から私は目が離せなくなった。

その男の子の足に目が吸い付いて、私はひたすらそのスニーカーの色を目で追った。




今日ぐらい同じ色のスニーカーを見たら、私はこの先の人生でも同じように反応すると思う。

人間の五感の中で嗅覚が一番鋭くて記憶も長期記憶になると聞いたことがあるけれど、それに近いものが今日のスニーカーの色にはあった。

私の中ではもう忘れられないんだと気付く。

車の中の私は、完全に脳内が過去に移動していた。

あの夏の日、ひたすら同じ色のスニーカーを目で追いかけた、あの私になっていた。

体はもうそこにはいないことも、もうその時には戻れないことも知りつつも、それでも私は小さな男の子の足元を目で追うことをやめられなかった。




これをアップできるのは、今から10日から2週間先になると思う。

eat LOVEシリーズの後半戦に入っている。

それは連続でアップしたいから、そちらが終わり次第になる。

今は『愛を食べる』まで書き終わってアップした。(=7/8アップの第9話)

今の私なら、もしかしたらその人をそのまま見ることができるかもしれない。

eat LOVEに出てきたミッチーとノムのやりとりは、まさに私にとってのヒントそのものだった。

今日の昼、ノムから手紙のようなメールがきた。

私が『愛を食べる』の分だけは、ミッチーにも見せて欲しいとお願いした。

つい最近知ったことだけど、ミッチーは全く本を読まないらしい。

ただでさえ長い私のブログを読んで欲しいなんて、普段なら頼まない。

だけど、『愛を食べる』だけは読んで欲しい、あの中にあるものをミッチーとも共有したいと思った。

ノムがそのまま転送してくれたか何かで、それでミッチーも本当に読んでくれて、なんと感想まで伝えてくれたらしいことがメールに書かれてあった。

その中でノムは
【ミッチーが、こんな風に言葉にして返答するって、すごいなー、ってぼくは思った。笑】
って書いていた。

干支が一周する12年以上あの2人は一緒にいる。

多分今年14年目とかだと思う。

そんな長くいる中で、ミッチーが言葉にして返答することにノムは着目してしまうほど、珍しいんだと思う。

なんとなく想像はつく 笑。

私でさえも、いくらノム経由とはいえ、ミッチーから感想をもらえるなんて1ミリも期待していなかったから、驚いた。

私が驚くならわかるけれど、なんでノムまで私みたいに驚くというか注目するのか…。

それは、それだけ珍しいからであって、普段ならミッチーはほとんどそういうことを言葉に出さないんだと思う。

ノムの凄いところは、あの言葉が圧倒的に少ないミッチーを一切変えようとしないところ。

そして2人の歴史がそうさせているのか、今回珍しく言葉での感想を言ったミッチーを見て、それを引き出した私や状況に嫉妬するどころかむしろ「すごい」と言えるところ。

そう思えるだけの余裕をノムの中に感じた。

ノムを見ていると、そのぐらいの気持ちで当時のことも見れたら私も違ったかもしれないなぁなんて思った。

ミッチーかミッチー以上に言葉の少なかったスニーカーの人は、私にはもう理解不能すぎた。

2人とは関係が違うから同じ土俵に乗せることができないのは重々承知しているけれど、それでもノムがいつも一生懸命ミッチーを理解しようとするあの姿に私は感動を覚える。

しかもミッチーは、私みたいな外部の人に対してよりノムに対しての方が多分言葉が少ない。

その代わり、言葉の少ないそのままの自分をノムには見せれるんだと思う。

そうやって理解することが今の私ならできるのかもしれない。




鏡越しに吸い寄せられたその光景を今でも覚えている。

見た瞬間に、目の記憶もだけど、体感の記憶もよみがえってきた。

あぁとため息が出そうになった。

体中の細胞という細胞を使って、私は当時のことを見ていたんだと知った。

目で追いかけてるだけじゃなかった。

無意識に体中の細胞を総動員させてたんだ。

時空があの時、ズレたんだと思う。

太古の昔から自分の中に流れているものが甦(よみがえ)った。

字のごとく、再生されたんだと思う。

今の私にはわからなくても、細胞側というか魂側は記憶している。

この人だよと。

魂繋がりの人と、いつかどこかで死に別れた人とまた再会したよと。

通訳するとそんな感じだったんだと思う。

なぜなら、私は今日の今日まで、体感が伴う視覚の記憶なんて体験したことがなかった。

何かを見て当時を回顧することはこれまでだってたくさんあった。

なんだけど、それは、視覚+心の中の思い出・心に広がる気持ち、みたいな感じだった。

今日のは全然違っていた。

視覚+体感覚、だった。

体の感覚ごとが記憶としてフラッシュバックするなんて、初めてだった。

体感覚が残るという時、それはとても強い感情が伴うからだと私は解釈している。

トラウマなんかを例に取るとわかる。

トラウマは強烈な感情を一気に深い記憶に落とし込む。

トラウマ的なものとは全く違うけれど、感情の強度からいくとそういうものだったんだと思う。

だから、強く記憶に残った。

見ているものは別のものなのに、その先に私は強い体感覚が同時に出てくるわけだから、それはとても強い感情が一緒にセットになっている。





2019/07/29

eat LOVEシリーズを書いている傍らで、時々その時の気持ちを文章に起こしていた。

そういう記事がいくつかあって、そのうちの1つがこれになる。

他に書いたものも思い出そうとすればなんとなく覚えているけれど、私は当時から今に至るまで、この記事のことだけがずっと頭にあった。

さっきまで、他の記事は何を書いたのか思い出せなかった。

これだけが唯一、強く深く記憶に残ったものだった。

2年前のスニーカーも、つい3週間ほど前の男の子のスニーカーもとてもよく覚えている。

そして、その男の子のスニーカーを見て、目が離せなくなった自分の心の動きまでよく覚えている。

一瞬でワープした。

感情ごと心ごと過去の真夏の暑さの日にタイムトリップした。

最近特に強く思うことがある。

2年前の夏も今年の夏も私の中で望んでいることに大差はない。

ないんだけれど、2年前に起こったことは私にとって絶対に必要不可欠ではあったけれど、そこでもう役割的には終わりだったのかもしれない。

私にとっても特別だったように、そのスニーカーの人にとっても色々普段とは違ったんだと思うようになったのは、まだほんのここ数ヶ月のことだった。

ずっとあれは私だけが一方的にあれこれ感じて、相手には何もない、ごく日常の一部で記憶ごと遠くに行って忘れ去られたものだと思っていた。

それが色んなことを経て、今は違う風に感じている。

当時、私はとっても静かにしていたけれど、それでも何かその人も感じるものがあったんじゃないかな…と今は思っている。




今日の昼前、ノムの仕事のお客さんで中国人の人と英語でやりとりする関係で、私も電話待機することになった。

そして、電話する関係で、外に持ち歩くのはガラケーのノムに代わって、ミッチーのスマホと繋げて会話する段取りが昨日の夜整えられた。

色々ぶっ飛んだ話だから、またそこはいつか書くのかもしれないけれど、そんな風にして私はミッチーともLINEで繋がることになった。

ミッチーと繋がる時に、ノムがこんな風に嬉しいことを伝えてくれた。

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ふふふ。こういうことを本人にいうのもあれだけど、みっちーと、ぶっしーと会えてラッキーだねえ。って話してて。ああいう人にはなかなか会えるもんじゃないよって(もちろんミッチーはうなずくみたいな同意なんだけどもね。笑)  だからというか、みんなのぶっしー、くらいに思っているので(勝手にすみません!)、ミッチーとも自然な形でつながってほしいなって最初から思ってた。だから、なんなら、明日のことは2人をつなぐために機会? とか思ってるくらい。笑

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そもそも色々不思議すぎる流れの中で、ミッチーと私とが連絡先交換して繋がることになったわけだけど、それは必要だと神々の審議会に判断されてそのような流れになったんだと思う。

何にも無理がなくて、ビックリするぐらいスムーズに事が運んだから。

ノムであったりミッチーであったりが、どうして私の人生に現れてくれたのか、今少しずつわかり始めている。

レイさんが本当に心を分かち合う友達だとすると、2人はそのニュアンスとは少し違っている。

ノムはいつか記事に書く予定だからさっと言うと、私が自分の感覚を思い出すのに重要なポストに就いている。

ミッチーは、私が子どもの頃の自分を思い出したり、その自分の姿をミッチー越しに見るみたいな不思議な感覚になる時がある。

心通わせるとか自分の感覚を思い出すとかいうのとも違って、自分の心の中の一番柔らかくて繊細なところをミッチーを見ていると思い出せる。

そういう心の作用が私には多分必要だったんだと思う。

だから、ミッチーたちが私の人生に現れて、こんなにも自然に、流れるように繋がれた。

無理強いとかは一切ない。

なるべくしてなった、そういう感じ。

この話はまたの機会にするとして、スニーカーの人の話を。

どういうわけか全く繋がれないそのスニーカーの人を前にした時、これはもう繋がってはならない事情があるんじゃないか…と思うようになった。

スニーカーの人の意図は知らないけれど、気にかけてもらえてるのは知ってる。

それさえもありえない確率を経て起こっていることは重々承知している。

けれど、ノムやミッチーやレイさんのようには繋がっていかない。

こんなに一瞬で繋がれるツールが互いにあるのに、繋がらない。

それが相手の意志だと言われたらそれまでだけど、とにかく繋がらないし繋がれない。

そうした色んな状況を経て私は、繋がってはならない事情が水面下にあるのかもしれない…、そう思った。

これが他にも全く繋がっていなくて2年前にすべてが完了してくれていたのなら、私もそういうものだと、少なくとも今よりも納得できたと思う。

なんだけど、そうではなく、中途半端に繋がって、でも肝心要の本人とは繋がらないというおかしな状況を前にして、さらにはこの3週間ぐらいでミッチーとはこうして繋がったところを見て、私にはまたじわりじわりとボディーブローが効いたパンチが飛んで来ている。

静かに絶望している。

認めたくない状況を前に、静かにそっと「やっぱりダメなんだ…」と思っている。




eat LOVEを書いて、登場人物の3人から感想をそれぞれもらって、自分の書く文章というのは何かしら相手の心に響くと知った。

『奇跡の果実』を書いていた時も感想を色々もらえていたけれど、今回の方がより自分の自然な心の感じを書いていたから、そういう意味ですごく嬉しかった。

その作用を見た時に、もしかして相手が欲しいのはその作用であってそれ以上の何かは何も望んでいないのかもしれない、と思った。

読む分には害がないわけだし、私との面倒ともとれる何かはしなくて済む。

繋がっていく人たちとどうやっても繋がらない人の両方を見て、繋がるのは繋がるのが正解で繋がらないのは繋がらないのが正解なのかもしれない、そんな風に思っている。

繋がりたい、ただそれだけだった。

2年前も今も私が求めているのはそれで、恋人になって欲しいとかそのレベルのことは望んでないと言ったら嘘になるけれど、でもあまりの高望み具合にそれは求められなかった。

友達とまでいかなくても、ごはんを食べに行くぐらいには関係を昇格させたかった。

ミッチーと連絡先を交換できたのはめちゃくちゃ嬉しいことだった。

なんだけど、同時に繋がらない片方ももっと強調されてしまって、なんだか切なくなったのも本当だった。

eat LOVEを書きながら何度も何度も思った。

大切な人たちと囲むごはんがどれだけ幸せで、どれだけ愛に満ちていて、それがどんな奇跡で人生の贈り物なのか。

ものすごくそれを感じた。

私の誘い方がそんな軽々しいものではなく威圧的でものすごい緊張感を伴うものだったのかもしれないけれど、コーヒー1杯も飲み交わせないことが本当に悔やまれた。

スニーカーの色を見て反応するぐらいに、細胞中で当時の景色を私は記憶した。

あれこれ忘れっぽい私が、一瞬ですべて思い出すくらいの勢いで記憶した。

そういう人に人生で何人会えるかって言ったら、もしかしたらその人が最初で最後かもしれない。

ノムもミッチーもレイさんもものすごく記憶に残る人たちだったけれど、3人やこれまで出会った誰かとは全く次元の違うレベルでの圧倒さとインパクトで、細胞なんて普段意識したこともないけれど、本当に身体の中って細胞でできてるんだとわかったぐらいに全身全霊で何かを私は感じていた。

そんな人に出会えても、コーヒー1杯さえ交わせないというのは、神々の審議会が「ダメ」と判断でもしたんだろうか…と思う。

そんな人とコーヒーの1杯も許されない現実は、私には本気できつかった。

そういう人と出会えることさえすごい確率なのに、もう出会ったところで運を使い果たしたとしか思えない。

うわっ…、なんか内容が暗い。

私は素直に「お茶がしたいです」とだけ言えば良さそうなのに、ああでもないこうでもないブツブツ症候群になっている。



自分でも何を書いているのかわけがわからなくなってきた。

このままアップしよう。

こんなの勢いがないとアップできない(汗)。

スニーカー繋がりな写真たち。

きれいな色彩のスニーカーは、名古屋ニート時代に週5くらいの頻度で夕焼けを見にいつも散歩に行って、その時に撮影した1枚。

色は少し加工したけれど、すごい気に入って、LINEのアイコンにしている。

加工はしたけれど、ほぼ当時の風景に近い色にした。

本当にそういう色の夕空だった。

もう1枚は、今のiPhoneに替えたばかりの頃に撮ったもの。

自分の足にちょうどとんぼが止まって、うまくショットが撮れた。

2019年7月27日土曜日

eat LOVE ⒀ 人生の贈り物

【所要時間目安:1時間】

※ノムの個展は7月いっぱいまで開催

野村浩平 個展「 celebration!」@ plate tokyo 
(↑ノムの個展の案内文。リンク飛びます)

個展「celebration!」のお知らせ
(↑これも個展の別バージョン(?)の案内文)

(↑ノムとミッチーの日常)









〜はじめに〜

今回は各エピソードごとにとても長いから、分けてアップしようかとも思った。

なんだけど、これら全部が渾然一体となってeat LOVEの世界を作っているから、どこで分けても変な感じがした。

ここは開き直って、読みたい人だけが時間を作って読むだろうと思って、このまま掲載することに。

途中でミッチー流の長文の読み方も紹介しているから、気になる人はその方法もいいかもしれない。

ありったけの愛を込めて捧げる、eat LOVE最終章のはじまり、はじまり〜♡╰(*´︶`*)╯♡




〜『eat LOVE ⒀ 人生の贈り物』〜


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

繊細で傷つきやすい人たちだからこそ、
あの、幸福だけがある時間がつくれたのだろうね。

〜ノムのメールより〜

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


21時間、睡眠時間とか個々の時間を差し引くと本当に4人でいた時間は12時間にも満たない。

まさか私はこの時のことを13回にも分けてシリーズ化して書くなんて思ってもいなかった。

しかも、書き始める前は13回にも分けるような詳細の情報が私には見えていなかった。

なんだけど、書けば書くほどにわかった。

どこもカットできない、それぐらい大切な瞬間の集合体だった。

私は普段自分が色んなことに気付きまくるところが良いとはそんなには思っていない。

私は自分が面倒くさい人と思われるのがイヤで、普段は気付いてもすっとぼけたり、口をつぐんだり、素知らぬふりをしたりと、あれこれ工夫をして自分の細かさを隠そうとする。

しかも、私の細かさは実社会でのお役立ち度はかなり低く、これが細かな事務仕事とかで発揮できるといいけれど、そういうものになると途端に今度は大雑把さが大活躍してくれて(汗)、あの細かさはいづこへ?となる。

細かさを求められる仕事をすると、天才的なエラーや問題を次々に引き起こす名人だから、そういう職場では悪い意味で目を付けられていた(ある意味正解の対応)。

私の細かさは重箱の隅をつつくタイプのものでもあるから、人によっては非常に敬遠される。(相手の急所を突くようなものだから)

だから私は、自分の細かさがあってすっごい良かった!!!なんてのは体験として少ないから、どの程度出すかをいつも相手の動向を見て量を調整するところがあった。

反対バージョンもあって、私のこの細かさを気に入ってくれる人たちもいるけれど、気をつけないと「利用されてる」感が否めない人間関係も生じやすいから、30代以降に新しく生まれた関係はそこもけっこういつも課題だと思って気をつけるようになった。

でも今回は、自分のこの細かさが誰かの何か大切なものを運ぶ役割ができて、さらには誰かの癒しになると知って、本当に嬉しかった。

それは星トリオの3人に出会わなければ、絶対に気付けなかったことだった。

傷とまではいかないけれど、いつの間にか私の中で「細かい」イコールあまりよろしくないこと、という図式になっていたことさえ気が付かなかった。

私は自分のデコボコ具合を出すよりも、なんとなく周りに合わせてデコボコを隠したり、無理矢理変形させて周りから受け入れられる自分にしてみたり。

又は変な感じで依存とまではいかないけれど、私からすると嬉しくない頼られ方と言えばいいんだろうか、そういうことも時々起こるから、そうするとこれまた私は面倒に巻き込まれないように自分のあり方を変える。

どれも不自然な自分になるけれど、私としてもどう振る舞っていいのかがわからなくて、やむを得ずというところだった。

そうしたことが長年染み付いていて、そうやってる自分のことさえわからなくなっていた。

ところが星トリオが私の人生に現れて、そこがかなり良い風に変わっていった。

これまで隠したり変形させていた部分が、長所や魅力になると知った。

なんなら人の役にさえ立ってくれる。

しかも役に立とうとして役に立つんじゃなくて、自分をそのまま出すことで役立つわけだから、これはすっごい癒しとなった。

私が3人を癒そうなんて意図してないのと一緒で、3人もぶっしーを癒そうなんてしていない。

なんだけど、互いが互いのあるがままでいるだけで、何か別の作用を相手にもたらすなんて、スーパーミラクルだと思う。

ミラクル=奇跡☆

最終話もボリューム盛り盛りなのはわかっているから、話があちこちに飛ぶと思うけれど、それも私ということで、そのままスタートしよう。





【人生の贈り物】

最終話のタイトルは、早い時期に決まっていた。

それこそ第2話の『もなかでお茶タイム』よりも先に決まってた気がする。

サイト『eat LOVE』の中に、ノムが本『光の書』からメッセージを受け取った話が途中出てくる。

その中に【人生の贈り物】という言葉が出てくる。

いつの時か、『人生の贈り物』をeat LOVEシリーズの最終話タイトルにしよう、それ以外に考えられないと、悩むこともなくさっさと決まった。


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『eat LOVE』DAY 4 より

あたらしいことが立て続けにもたらされ始めたこのごろに、心がざわざわ落ちつかない。
心のたよりにしているオラクルブックをひく。
108番。「人生の贈り物」。

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この一文の中の「オラクルブック」の存在が気になって、それでノムに聞いたら『光の書』という本だと教えてもらった。

最終的にアトリエで見せてもらえることになったけれど、当初は占星術講座の日、銀座まで持ってきて欲しいとお願いしていた。

それぐらい気になっていた。

今気になって、108という数字を調べた。

108って何か意味があったなぁと思って。

1…個人
0…すべての人
8…永遠
108…everything・万物

を意味するらしい。

ちなみに108の概念は、古代インドがその起源らしく、歌『ガンダーラ』には「愛の国」という言葉が出てくるらしい。

『人生の贈り物』と108という数字がきれいに繋がっている。

私の中で、【個が他の誰かと繋がることで生まれるもの】と【愛】とがイコールというイメージがあって、それこそ「人生の贈り物」に相応しいなぁと思った。

人と人とで起こす化学反応は、摩擦や傷もあるけれど、愛もある。

私がeat LOVE聖地にてeat LOVEな2人をそしてeat LOVEと繋がったレイさん含んだ星トリオを通して見てきたのは、紛れもない「愛」の方の化学反応だった。

この3人は、生き方は私に劣らないぐらい不器用な人たち、不器用な大人だと思う。

なんだけど、それ以上に3人は「愛の体現者」だと感じる。

「愛」なんていう概念めいたつかみどころのないものを、本気で手でつまんで食べれるぐらいの状態にすることのできる人たち。




このeat LOVEシリーズを書くにあたり、私は3人それぞれにメールや会話を引用することや書いて欲しいことの有無を確認した。

ノムからは、「配慮はぼく以上にぶっしーは心得ていそうだから、どうぞメールなりLINEなりの文章は自由に使ってくだされ👍👍」と言ってもらって、本当にあちこち使わせてもらっている。

レイさんからは、「基本的には誰も傷付かない内容であればブログへの転載可能ってことで」と言ってもらった。

レイさんの「誰も傷付かない内容」っていう言い方はとっても良かった。

私はこれまでもかなりな人数の人たちにブログへの使用可否を聞いてきたけれど、レイさんの「誰も傷付かない内容」って条件は初めて目にした。

その言葉だけでやさしさや愛が伝わってくる。

2人とも本当に協力してくれるだけじゃなくて快諾してくれるのがとっても嬉しい。

ミッチーにブログへの掲載に関して初めて具体的に確認したのは、第11話の『愛になる。』の下書きを書いた時だった。

私はまだその頃、ミッチーが活字苦手というのを知らなくて、ノムに下書きの3分の1程度の完成途中のものを送って、それをミッチーにも転送するなり一緒に読むなりして欲しいとお願いした。

わりかし早い段階で、すぐにノムから返事が来て驚いた。

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ミッチーにもおくって読んでもらったら、みっちーも
「違和感、感じなかったよー」って。
ぶっしーにとって(ミッチーについての)「謎のところは、謎のままでいい」って。

ミッチーは基本長文読まないタイプだから、
すぐに読んでいて、驚いたよ。笑
まあ、自分たちのことがぶっしーに書かれたのだものね、興味あるよね!

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ミッチーは私が書いたものに何を言うこともなく了解してくれて、さらには(ミッチーについての)「謎のところは、謎のままでいい」とまでしてくれて、それも嬉しかった。

私が感じたまま書いていいんだなぁと思って、それって信頼がないとやれないことだと思うから、それだけミッチーが心オープンにOKを出してくれてるのが本当の本当に嬉しかった。

ミッチーには最終話直前に、ブログについて話をするんだけど、その時超面白いことをミッチーは言い出した。

私は超爆笑したけれど、なんとミッチー、活字をたくさん読むのがそもそも苦手で、だけど読みたいから「朗読サイト」なるものを使って、私の書いたブログをシステムに朗読させてそれを聞いているらしい。

しかも2倍速で。

ミッチーいわく、2倍速の方が聞きやすくて頭に入ってくるらしい。

もっと速くてもいいとも言ってたΣ(꒪◊꒪ )))) !

最初にその事実をノムから聞いた時、ビックリした。

超シュールだなぁと思った( ̄∀ ̄)。

ある時2人で車で移動している時に、それをBGMのごとく流して、その2倍速再生で聞いたらしい。

ミッチーは寝る前とかにも聞いてくれたらしいけれど、途中で寝ちゃって…と言っていた。

私もどんな風なのか少しだけ聞かせてもらったけれど、あまりにも可笑しすぎて吹き出した。

私は内容が頭に入ってこなかったけれど、ミッチーは音の方が頭に入るらしい。

「ミッチー愛してる」なんてのも、機械的な音声(2倍速)で流れるのかと想像すると、面白すぎる。

そのミッチーからは、「ぶっしーは書きこぼさず書いてくれると思うから、特に書いて欲しい!っていうのもないし、これ書かれて納得できないとかいうのもなかったよ」と教えてもらった。

全部任せてくれるんだな、信じてもらってるんだなとわかって、ミッチーの言葉に心がメロメロになった。

ちなみに、自分の書いたブログを朗読サイトで読ませて聞いてるなんて人には初めて会ったし、ミッチーが最初で最後の人だと思う。

まだノムとしか直接やりとりしてなかった頃、私がeat LOVE聖地でのことをブログに書くと言ったら、ノムはこんな風に返してくれた。

「ブログ、たのしみにしてるね!
ぶっしーの目にどのように映ったのか、とても興味があるし、
それをみっちーやレイさんとも分かち合えることがうれしいよ」

私もだけど、ノムも最初からミッチーやレイさんとも共有する気でいた。

あの人生の贈り物的な時間の話をみんなで分かち合うことを、ノムは当たり前のことのように考えていた。

私はそのことがただただ嬉しかった。

しかもノムがそれを挨拶とか建前で言ってなくて、本気で思って本気でそうするってわかっていたから、それがめちゃくちゃ嬉しかった。





【ライトタイムライトプレイス】

ノムのメールより

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ここのところ、現実が変容している感じがすごくあって。
桐吉先生がこの間ぼくのトランジットみて言っていたけど、
地味にしんどい。笑
(注:講座の後のカフェタイムで、先生からノムは「しばらく野村さん、星回り的にしんどいと思います」と言われていた。)

けど、ぶっしーが、
とてもうれしく、励みになる言葉を
lineやらブログに綴ってくれるのを目にして、
大丈夫、合ってる、合ってる、って思える力になっているよ。

もし、泊まりじゃなくて、銀座界隈でお茶しただけだったら、
きっと、ぜんぜん違う今だったんだろうな、って思う。いや、絶対に違うよね。

だから、ほんとうに「ありがとう」なんだけど、
ぶっしーも、またぼくらとの出会いがよい変化の風になっているのだとしたら、
win winというか、おたがいにとって、
4人にとって、まったくすばらしい出会いだったのだな、と思う。

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どこかにも書いたけれど、そもそも私がeat LOVE聖地にお泊まりに行くのは、急に浮上した案だった。

実は当初の2人でお茶する予定の水曜日、ノムは空いていた。

泊まりに行った火曜日の方に、家を新築したご夫妻の家にノムとミッチーは絵を届けがてら夕ごはんを囲む予定だったらしい。

それを水曜日に変えたのはノムだった。

理由も素晴らしい。

「お酒飲んで、その体調で翌日の占星術講座を受けるのはどう考えてもキツイ」

そう考えて、お届け日(飲み)を水曜日に変更してもらって、それで私との予定は実行不能になって、でもぶっしーとも時間がどうしても欲しい、なら我が家へ招待しようとなったのが事の流れだった。

私もわかる。

私も本当はいつも講座の前に昼飲みをしたかった!

(高速バスで早朝6時前に着くと、24時間通し営業の居酒屋を見ては、「朝ビーとかしたいなぁ」と思いつつ、高速バス疲れで飲んだらその後使い物にならないと知って、毎回泣く泣く朝ビー諦め、昼飲みも諦めた。
名古屋で通ったコーチングの授業の時は、授業前にハッピーアワーに出かけたり、練習相手のクラスメイトも酒飲みで、2人で「飲みコーチングにしよう!」と言って飲んでから受けに行ってた。それでシラフと変わらぬ状態で普通に受けて実践とかもしてた。)

だけど、アルコール入ってあの講座は、いくらお酒強めの体質でもしんどいと思った。(もう脳みそ爆発するぐらいの知識量で、さっぱり付いていけてない、ノンアルでさえも)

だから泣く泣く昼飲み計画は断念してたから、ノムのスケジュール変更もものすごくよくわかった。

結果的に、この色んな条件は大正解だった。

これがノンアル人種のご夫妻なら、絵渡し会は食事会となって別に火曜日のままで良かったわけだし、もしそうなら水曜日はノムと私だけで銀座近くで適当にお茶したと思う。

どんなにがんばっても、ミッチーとレイさんも銀座に出てくるなんてことは絶対になかった。

それが色々重なってくれたおかげで、ノムは私をeat LOVE聖地へ呼び寄せることを考えてくれ、ミッチーからも了解を得て、そして私は無事行くことができた。

新潟に戻ってから気になって、ノムにミッチーは私を呼び寄せることに最初どう返事したのかを聞いた。


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みっちーに話したときの反応は、
しばらくは、スルーというか無反応って感じだったんだけど、
その”感じ”は「No」ではないということがわかるから、
折を見てもう一回ちゃんと「いい?」って聞いたら、「うん」とか、
そういう感じだったと思う。

会ったからわかると思うけど、ほんとにあの人、そういう反応するんだよねえ。笑
「大丈夫そう。オッケーそう」と思っていて、
 最終確認的に当日聞いたら「ぼくは行かない」とか言ったりもするし。

ぶっしーのことでいえば、
みっちーの仲良しに新潟出身のゴンちゃんって女の子がいるんだけど、
ぶっしーが帰った次の日だったかな?
みっちーが「イントネーションとかもあるのかもしれないけど、ちょっとゴンに似てた」
というようなことを言ってて(つまり、波長が合ったってことだよね)。
ぼくは、会う前から、みっちーと合いそうと思っていたし、
レイさんとも合いそうって思っていたからこそ4人でご飯したいと思ったのね。
だから「でしょ!言ってたじゃん!」って思ったし、口にもだした。

2人とも、すごく楽しかったって。
「また来て」って2人ともがたぶんぶっしーに直接言っていたと思うけど、
あれはまぎれもない本心だよ。まったく社交辞令とかじゃないから!!
1日で、そうなってしまったのだから、やはり、4人は会うべくして会ったのだな、と思うよ。

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ノムの“神ってる”ミッチーのノンバーバルコミュニケーションの読み解きの解説を書いて送ってくれた。
(ノンバーバル=非言語)

ミッチーが発している空気感を読み解いたり、ミッチーの感じを見て再確認とか凄すぎる。(「それはNOじゃない」ってことは、ノムが見るとわかる「NOの無言バージョン」もあるんだろうなぁと思った。)

行く前はミッチーたる人物がどんなかわからず、なんならガテン系よろしく強面だけど心は繊細シャイボーイ兄ちゃんというものを勝手にイメージしてたから、もしかしてノムは事後報告に近い形で「占星術講座のクラスメイトをうちに泊まりに来ない?って誘ったんだけど良かったかな?」的な感じじゃないといいなぁ…と、それこそノムにも失礼なことを想像した 苦笑。

もう一度、ノムにつっこんで聞いたら、ノムもノムで相当説得してくれていたことがわかった。

ノムはミッチーに、私が新潟から来ることやしばらく東京に来ることがないからそもそももうそんなに簡単には会えないこと、このタイミングを逃したくないことをかなり訴えてくれたようだった。

他はどんな風に説明してくれたのかは知らないけれど、少なくとも最後にノムとお茶をした3週間ぐらい前から泊まり案が出てくるまで、ノムはペンジュラムをはじめ私との色んなやりとりをミッチーに話してくれていたようだった。

当日になって「ぼく行かない」発言をするミッチーをよくぞここまで説得してくれたなぁと感動さえ覚えた。

私が新潟に帰った後、初めてノムからもらったメールにこんな風に書かれてきた。


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おうちは、たしかにある意味では聖域だものね。
昔は誰かれかまわずオッケーってところがあったけど、
今の家に移ってから、すこし閉じ、
年々、人を招くってことをそうしなくなった感じがする。

引っ越してきた頃は寂しかったから、来てほしかったんだけどね、
そういう寂しさをこの頃はあまり感じていないから、
それこそご縁があった人だけが来る。

あと、アトリエはけっこうオープンだけど、
自宅は、本当に人をあげていないかもしれない。
それこそ、ホロスコープをやってくれた福島の友だちと、(eat LOVE撮影の)写真家さんくらい。
ぼくはいいんだけどね、みっちーは家にはあまり人をいれたくないそうで(猫たちもいるし)
だけど、今回はすんなりOKだったから、なんかね、ぼくもすごくうれしかった。

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私はこれを聞いて、ものすごく嬉しかった。

ノムと私の占星術のクラスメイトの1人に、なんとノムと最寄駅が一緒という人がいる。

その人にノムは家まで来てもらって、2人でホロスコープ読み会を中心に楽しく過ごしたといつだったか聞いて、私は2人のその近さが超絶羨ましく、何そのズルイ設定!などと思っていた。

だから私は勝手に、アトリエもノムとミッチーの自宅であるeat LOVE邸も自由気ままに誰でもいらっしゃいなのかと思っていたから、今回の話を聞いて、アトリエはまだしも家は本気の2人の聖域なんだと初めて知った。

そんな貴重な場所へ立ち入らせてもらえたり、そこで好き放題パシャパシャと写真を撮らせてもらったり、冷蔵庫に貼られたノム宛てのミッチーのお母さんからの手紙を見たり、ミッチーが我が子のように猫ちゃんを抱っこする姿を見たり…、そういうのが何一つ当たり前ではなく、とても特殊な機会であったと聞いて、より一層ありがたかった。

そして、ノムもノムでそれを喜んでくれていると知って、それも聞いて嬉しいことだった。

ノムと後々の会話の中で出てきた話があった。

ノムが「(人間関係の中には)要らない一線と大事な一線があって、そこを踏まえて人間関係を作るのが大事だと思う」と言ったことがあった。

要らない一線はさておいても、大事な一線はどんな人間関係でも意識しておく必要があるし、そこにお互いにリスペクトがあればすごく良い方向に行けるよね、みたいな話だった。

ちなみにこの話は、この後別のところでレイさんの話とも繋がっていく。

何せ13話も書いてたら途中で新しい物語も生まれて、それらがまたきれいに織り重なって1つ1つピースだったものが絵となって誕生した。

2人の聖域が2人の聖域として守られている中に、レイさんの絶妙な気遣いが含まれている。

それこそ、レイさんが大事にしている一線がノムとミッチーにとってどれだけありがたく素晴らしいことなのかという話がこの後出てくる。

だからより一層、これが単なるノムの感想ではなく、本当に[思いやり×思いやり]の精神なくしては成り立たないすごいことなんだと知った。




サブタイトルの『ライトタイムライトプレイス』はノムが送ってくれたメッセージの中にあったもの。

私はその言葉の響きが一発で気に入って、本当はどれかのeat LOVE記事のタイトルに使いたかったけれど、使えなくてここまで来てしまった。

最終的に今ここで使えて嬉しい。

新潟に戻った日にノムから来たメッセージより。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

おはようー。本当に楽しかったねえ。誘ってよかった、来てくれてよかった‼︎  

写真もありがとう〜! 写真を見ると一瞬でそのときの空気とか思い出せるし、時空を超えてそこに戻れちゃう感じ。あらためて、ほんとに濃厚濃密な時間だったなあと思うよ。写真のこと、2人に聞いてみるね。あと、ぼくのLINEとかはそのまま載っけてオッケーだよー^ - ^

今日の東京(僕たちの町)は曇天だよ。きのうおとといと、晴れて風の吹く気持ちいい日に来てもらえてよかったな〜。ライトタイムライトプレイス!!

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆





【繋げる係のノム】

ノムよりメール…東京から新潟に戻った翌日

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あ、そう、2人にぶっしーのブログを教えたよー。
さっそく、記事にしてくれてありがとう!
そうだ、今日レイさんに写真の確認で会ったから、
レイさんが登場するところの文章を見せたよ^ー^
なんかね、うれしそうにしてた。
で、「ぶっしーさんとは今回だけじゃない。また会う人って感じる」ってなことを言ってたよ。
「次回来たら私も一緒に母屋に泊まっていっぱい話したい!」って。
「いろんなことを教えてもらえた」って。

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ノムは私が去ってから1週間くらいすると、「レイさんは(レイさんと私が)直接やりとりする場所ができたらうれしいと思う」と言って、2人がやりとりできるように、レイさんと私とを再度繋げてくれた。

冗談抜きで東京に行く予定が当面ない私は、レイさんに次会えるのもいつかはわからない。

なんだけど、ノムから見て、レイさんと私が直接やりとりできた方がいいだろう…、そう感じてノムから提案してくれた。

何が嬉しかったって、ノムもレイさんもお互いに私とやりとりしたことを報告し合ってくれていて、繋げて終わりとか、私とやりとり開始して終わりとかにしてなかったこと。


ノムとのLINEより(七夕前)

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わ! ちょうど今レイさんからきた、ぶっしーとつないでくれてありがとう! ってメール読んでぶっしーに連絡しようと思ったとこ!

れいさん、すごくよろこんでたよ! ぼくもうれしい!

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こんな風に、ノムはレイさんと私が繋がったことを喜んでくれた。

年齢がどうだと言うのは普段好まないけれど、でも自分が40も過ぎてから自分より年上の人たちから自分と繋がったことを喜んでもらえるなんて、こんなの人生の贈り物の他の何ものでもなかった。




レイさんのメールより

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私は自分が何者であるかなんてことに向き合わず、ひたすら家族から望まれる役割を果たすことだけをやってきてしまったけど、癌になったこと、ミッチーとノムに出会ったこと、母屋の物件を再建させたことを通して、徐々に自分自身と対峙するようになった。そして今は一番家庭的には落ち着いてきているのに、ものすごく辛くしんどい感覚に陥っていることの原因が何なのか、知りたかったのかな。
その糸口をぶっし―が出生時間を見つけ出して、ホロスコープを読み解き、教えてくれた。
ぶっしーが来てくれたことで、私の人生のこの先に明るい光が差し込んできた感じ。

自分が感じている親近感と同様にぶっしーが私を必要としていて、今がその出会うべきタイミングだったと言うことも出会わせてくれたノムに感謝だね。

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ノムは自分がレイさんと私を繋いだ感覚はあるにしても、それがものすごい才能だということに気付いているんだろうか 笑。

気付いてなさそうな気がする。

ノムが「なんとなく」レイさんと私を引き合わせたらいいだろう…と思ったことは、その後色んなことに繋がっていった。

レイさんのホロスコープをまずはペンジュラムを使って生まれた時間から出して、その後実際のホロスコープを出して見てわかることを話すなんてのは、当初まったく予定にないことだった。

なんなら、eat  LOVE聖地の母屋のテーブルで私が新潟から持参したもなかを4人で食べている時も、ミッチーとレイさん手作りの絶品おかずで夕ごはんを食べている時も、そんな計画は1ミリもなかった。

それがそんな展開に突然なるわけだから、人生はいつもワンダフル(「ワンダー=奇跡」+「フル=いっぱい」→奇跡がいっぱい)だと思う。

これは後から気付いたことでeat LOVEシリーズが終わったら詳しく書きたいことでもあるけれど、ホロスコープはホロスコープでも私に何か語りかけてくるホロスコープというのが存在する。

月末締切の講座の宿題のホロスコープなんかは、見てもさっぱり何も言ってこないし頭にさえ入ってこない。

なんだけど、レイさんのものもミッチーのものも、「ここが大事」みたいなのが視覚的にわかって、そしてわかったものがなぜか言葉としてやってくる。

レイさんのものは見ただけの情報で、きちんと詳しく調べての話をしていない。

話も2回に分けて合わせて30分程度でしかなくて、情報量としてはものすごく少ない。

なんだけど、レイさんには何か響くものがあって、上のメールを新潟に戻ってから最初ぐらいにもらった。

本当に嬉しかった。




一番最近レイさんからもらったメールは、こんな風に始まっていた。

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Dear ぶっしー

と、学生時代によく使ったDear、私は英語が得意ではなかったので、正しい使い方なのか一抹の不安があるけど、「親愛なる」と言いたいから。

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「親愛なる」って言葉がくすぐったくもあり、だけどただの「Dear」ではなく、本当に気持ちを込めてのDearで、それはレイさんが一言書き足してくれたからものすごくよく伝わってきた。

ちょっとの手間でいい。

たった一言あるだけで、それが単なる言葉ではなくその奥にある気持ちとか物語を見せてくれる。

言ってもいいし言わなくてもいいことだけど、有ると無いとではこんなにも見えている世界が違う。

レイさんのDearは「親愛なるぶっしーへ」という気持ちがすごく伝わってくる。

たった1つの言葉がたくさんの愛を運んでくる。

レイさんは同じメールの中で、私を泊めようと思った時の心境についても触れていた。

そもそもレイさんが母屋に誰かを泊めることをどの程度しているのかは知らない。

普通のことなのかイレギュラーなことなのかも知らない。

だけど、それをごちゃごちゃ聞かず「いいよー」って即答してくれていたことは、レイさんからの話で初めて知った。

そして、それをレイさんはとても素敵な言葉で締めくくってくれていた。

本当に本当に嬉しかった。

「嬉しかった」の連発で他に言葉を知らないのかと思うけれど、本当に「嬉しい」が一番ピッタリの気持ちで、その嬉しい気持ちをレイさんもノムもミッチーもたくさんプレゼントしてくれてる。

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見た目はファンキーでもないけど、やっていることはかなりぶっ飛んでいると最近思う。否定しない。特にミッチーとノムに出会ってからは、自分でも予想しなかったことやってると思うけど、それが一番自分のやりたかったことなんだと思っている。
だから、ぶっしーが泊りに来る話をノムから聞いた時でも、「ノムが泊めたいって言うのなら、いいよー。」って感じ。

結果として、ノムは私に『人生で大切な友人』を授けてくれたし。
結果オーライ!

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【一緒にいる感覚】

eat LOVE最終回のところで使う写真が決まった。

ノムとミッチーとレイさんの3人の日常を写した写真。

見ての通り、私はそこには写っていないし、4人で一緒に撮った写真もない。

でも、私はその自分が写っていない写真を何度も見たし、見るたびに自分がそこにいたことを思い出す。

カメラ(iPhone)は、私の目の代わりを務めてくれて、私の目で捉えた3人を切り取ってくれる。

ここでは明確な役割がある。

写される3人と写している私。

でも、私はその役割的な差さえ大切に思っている自分に気付いている。

私は写っていなくても、私もそこに一緒にいる感覚はある。

写される3人と写している私がいて、4人でそこにいる感覚がある。

もちろん細かなところに目を向けたら、ノムとミッチーは干支一回り以上の付き合いの恋人同士だとか、ノムとミッチーとレイさんは数年の付き合いだとか、そういう年月の差はどうしてもある。

なんだけど、私はあそこにいて、一度も年月の差も疎外感も感じずに、なんなら自分もその3人と一体化できていると本気の本気で感じられるぐらいに、私には一緒にいる感覚があった。

これは私の人生において史上初じゃないかと思う。




過去に4人で旅行に行った時のことを思い出した。

男2人女2人、4人とも友達という関係だった。

ごく稀に、そういう中で男の方が仲良しということがある。

私ともう1人の女は、変だけど、男2人側とそれぞれ仲良くしていて、だから女同士である私たちは連絡を一切取り合わない、そういう仲だった。

彼女も私も、男2人側とは個人対個人で連絡するものの、なんなら私は対個人だけにとどまらず男2人と私とでグループLINEするぐらいだったけれども(なぜなら3人で時々会っていたから、同時に連絡できる方が互いに都合が良かった)、女2人はとにかく個人的接点がなかった。

という4人で出かけた時のこと。

もう1人の女から私は何度もカメラを渡されて、写真撮ってと言われた。

私は3人の写真を撮る。

でも彼女は毎回スリーショットで終わり。

だから3人だけの写真が増え、私はまるでそこにいないみたいだった。

これが男は違っていて、交代をしながら撮る。

「僕も写真欲しいから誰か代わって!」という感じ。

その時は私かもう1人の男が代わって撮った。

写真に写りたいとかいうことではなく(むしろあまり写真は好きじゃない)、体は一緒にいるのに心は一緒にいない感覚が私はすごく嫌だった。

私が一番苦手なのが、このタイプの孤独。

基本的に私は1人でも平気なのは、1人の時は自分しかいないから、孤独というのからは実は離れられている。

時々異常に人恋しくなったり、自分は誰とも繋がれていないみたいな気になって孤独をビンビンと感じまくる時もあるけれど、これは私の中でまだ耐えられる。

私が本気で耐えられない孤独は、体は誰かといるのに一緒にいない感覚、もしくは私はそこにいるのに私はいないみたいに振る舞われてしまうのが本気で苦手で仕方ない。

子どもの頃は本当に酷かったし、大人になってからも時々そういう状況は予期せぬ形でやってくることがある。

「15の春」じゃないけれど、そのぐらいの年齢まで9割方の時間、私は居場所のなさをずっと感じ続けていた。

常に存在していても無視される、まるで私はいないみたいな扱い、又はいる時は腫れ物・汚いものに触るようにされる、自分がこの世にいてはいけないんじゃないかと、そういう想いをたくさん感じまくった子ども時代だった。(←被害妄想であって欲しいけれど、残念ながら実体験)

大人になって良いことは、そういう関係なら自分から離れられるところ。

だから、男2人とはその後も時々会ったし、今は互いに何百キロと離れているから会えないけれど、今も時々互いにやりとりしている。

でも女の方は会わなくて済んでいるから、もうそのままになっている。

これがパートナー的な存在でもそうで、それを感じた相手とはきちんと別れることになった(爆)。

自分でこのブログを書けば書くほど思うけれども、私は本当に日々細かいことが、とにかく瞬時にわかってしまう・感じてしまう。

これが人も入った状況下だと、より一層情報過多になるし、そして私はそうした目には見えない部分にやたらと敏感なのもわかる。

これは体質もあるし、過去(子ども時代)からの積み重ねで後天的に身につけたものもあるから、そこは自分なりに上手く付き合う方法を体得するしかない。

これは良い意味でのあきらめで、別に日常に差し支えるようなことは基本ない。

色んな種類の人間関係に身を置いてきただけあって、対人系のコミュ力みたいなのはかなり鍛えられた。

だから基本そんなに困ることはない。

ただ、安らぎだの安心感だの一体感だのは、相当ストライクゾーンが狭すぎるから、そこを感じるのは難しい。

だけどそれも、「難しいものなんだ」と思っているから、それに対して疑問に思うことさえなかった。

という私が、eat LOVE聖地では【一緒にいる感覚】を覚えたなんていうのは、天変地異並みのすごい画期的な出来事だった。

しかもうち2人は初対面なのに、一緒にいる感覚とはどういうことかと思う。

本当に普通にはありえないことがその時はありえて、とにかく驚いた。

だから、3人の写真しかなくても、私はそれを見ても孤独や疎外感とかいうような感情は一切沸かない。

それを見ると逆に「私もそこにいたよね」ととても明るい気持ちになれる。

そこでの私は、何も役割を持たず、何かすることも求められず、ただただ私でいれば良かった。

関係性に名前もないから余計なことも心配せずに済んだし、どういう状態でも過去の基準がないから、出てきたものがすべてだった。

こんなこと言ったらミッチーは気を悪くするだろうか…。

でも、私は行く前は、ミッチーはもしかしたらごはんは一緒に食べてくれても、それ以外の時間は「ちょっとこの空気無理」となればどこかに行ってしまうかな…なんて思っていた。

レイさんは絶対に時間が許す限りいてくれるだろうとは思ったけれども、ミッチーは未知数すぎて、だから途中退室も頭の中にあった。

ところがミッチーは、最初に着いて、もなかでのお茶タイムの後、ノムと2人きりの時間以外は、ずっといてくれた。

もしかしたらそれもノムと私に配慮してそうした時間を持たせてくれたのかもしれない。

だって実際にアトリエに行った時、ミッチーもそこにいたけれど、ミッチーは自分の作業をしていて、ノムと私だけにさせてくれていたから。

だけど、その時以外は、ミッチーはとにかくフル参加だった。

私は勝手に「ミッチーは少なくともここで過ごす時間に対して好意的に思ってくれている」と解釈した。

そして、それはとっても嬉しいことだった。

ミッチーはノムやレイさんと違って、私を呼ぶこともなかったし、ミッチーから話しかけてくることもなかった。

だけど、そこに私がいることをきちんとわかってるよ、という無言の【一緒にいる感】はものすごく感じられた。

これって言葉じゃないんだとわかる。

ノムとレイさんが言葉+一緒にいる感をわかりやすく出すタイプだとするなら、ミッチーは一緒にいる感を静かにしていながらも出すタイプだった。

それは3人ともそうだったけれども、他の人たちに接する感じと私に接する感じに差がなかった。

唯一差を挙げるとするなら、ノムがミッチーに対して何かを言う時ぐらいなものだった。

当たり前だけど、2人は恋人なんだなぁと思った。

2人きりの時は知らないけれど、少なくとも第三者がいる時は、ミッチーはノムだからと言って特別な感じはなかった。

ある意味、誰よりも平等だった。

それが逆に、「同じにしてくれてる」感じがして、疎外感とか孤独なんて言葉はちっとも思い浮かばなかった。

だから、3人には3人にしかわからない歴史や空気があっても、私は全く気にならなかった。

むしろ、新参者の私をここまで温かく迎えてくれてありがとう!の気持ちでいっぱいだった。





【愛=否定がないこと】


ノムの思考メモより
(eat LOVE邸を去って2週間ほど経った頃にもらったもの)

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愛とは深い絶対的な安心
否定がない状態

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ノムとミッチーとレイさんの3人組『星トリオ』(命名:ノム)がどうしてこんなにも居心地の良い空気を生み出していたのか。

どこかにちょっと書いた気もするけれど、ここではもっとガッツリと書きたい。

ノムとミッチーとレイさんの3人は、どこまでも本人のキャラクターがそのまま保たれていて、その保たれている状態で三者三様の人間関係が作られていた。

3人が口にしていた言葉(ミッチーは口にしてなくてノムが私に教えたかもしれない)で共通していたのは
【否定がない】
だった。

これって本当にすごいことで、私はそこにこそ3人の強みが表れていると思った。

わかりやすくするために書くと。

私はそうは思わないけれど、社会的な尺度に合わせてそれぞれの特徴をかいつまんで、社会で言われそうな言葉を言うと。

いつも人と人との間の調整や根回しをしているノムは、もっと相手なんか無視して自分の意見を言えばいいのに…になる。

言葉少ないミッチーは、もっと自分のことを話したらいいのに…になる。

人への気遣いが半端ないレイさんは、もっと人に甘えたらいいのに…になる。

「もっと〇〇したらいいのに」

社会はそんなもので溢れかえっている。

だけど私からすると「もっと〇〇したらいいのに」は、これ以上ない「否定」の言葉だと思っていて、言い方や内容によっては本気の凶器になる。

人をどこまでも追い詰める凶器と化す。

もちろんそんなことは教わらないし、多分今もって教育や子育ての場で「NGワード」は、「死ね」「殺す」「バカ」とかそんな言葉ばかりだと信じられてる気がしている。

なぜなら、多くの大人たちが本当に考えたことあんのか?と怒鳴りたくなるぐらいに、普通に「もっと〇〇したらいいのに」と言って、目の前の相手を、それは子どもに限らず、友達でも同僚でも後輩や部下でも平気で言って、相手のありのままの姿を否定している。

「もっと〇〇したらいいのに」の裏側では【〇〇していない今のあなたはダメだからね】の無言の否定が含まれているって、どうしてみんな気付かないんだろう。

私が今アホみたいに自分に向き合いまくって自分を見まくってどこまでも自分自分なのは、「この自分でいいんだよ」と自分に言うために、本気で言えるようになるためにやっている。

色々デコボコしている自分は、極端なところになればなるほど、言葉の攻撃を山ほど受けてきていて、ちなみに親に限らず近しい人たちからだってやってくる、この攻撃を私はいちいち全部これまで真に受けていた。

相手が良かれと思って言ってくれてるのはわかる。

だけど自分でもどうにもならない、自分自身だって何とかしたいのにどうにもならないからどうしよう…ってなっているのに、「それじゃあダメだから、もっとこうしたらいいのに」を言う人たちの多さと言ったら半端ない。

私がしたいのは、どうにもなっていない自分をどうにかすることじゃないんだと気付いた。

そのどうにもならない自分はそれが自分だから、その自分でいいと自分にOKを出すことなんだとわかった。

そこは人に求めても仕方ないから、自分でやるしかない。

周りが何と言おうと、デコボコな自分を本気で最後まで身を張って守れるのは自分しかいない。

それを孤軍奮闘状態でやりだして、そんなこんなを経た時にそれを自分だけじゃなく自分以外の人にもやっている人たちに出会った。

それがノムとミッチーとレイさんの星トリオの3人組だった。





〜『第2話:もなかでお茶タイム』より〜

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3人が出している空気は「そのまま」にしておくことだった。

どの状態も良い悪いとかで区別せず、そのままであることをそのままにしておける、私は今まで一度も見たことのない状態だった。

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3人といて真っ先に感じたのは、それぞれどちらかと言えば静かな人たちだけれど、それぞれの個性がとても際立っていたこと。

私は喋りすぎじゃないかと思ったぐらいで、ノムはバランスを見て喋って、レイさんはさらにさらにバランスを見て喋って、ミッチーに至ってはもなかでお茶タイムの時は何か自ら喋ったかな…と思うぐらいだった。

だから間が空くと、一瞬「間」という無音が聞こえてきそうなぐらい、静かで落ち着いたコミュニケーションだったけれど、それさえも心地良い空気を醸し出していた。

全体的に静かなコミュニケーションではあったけれど、「和」がとれてる。

調和していて、なのにそれぞれがそれぞれの普段のスタイルの自己主張もきちんとあって、それぞれの人がどんな人なのかというのが伝わってくる。

これってすっごい珍しい光景だった。

もしかしたら、人生初かもしれない。

たしかにすごい特殊な場面設定ではあった。

だって、言葉にすると、「ゲイカップルの家の大家さんの母屋に、ゲイカップルの1人の趣味の講座のクラスメイトが新潟から泊まりを兼ねて訪ねてきたシーン。そしてその4人で、訪ねてきたクラスメイトの昔からのなじみの和菓子屋さんのもなかをいただく」になる。

お酒の席ならまだしも、ノンアルコールで、時間も真っ昼間で、4人とも超シラフ。

これが社会的シーンなら、係長・課長補佐・課長・部長の大御所会合でもおかしくない。

一番年下のミッチーでさえも37歳、もう少しで38歳になるわけで、本当に良い年した大人たちになる。

なのに、そんなこと全部忘れて、お互いがお互いのままでいるという、大人社会では見られないことが普通にレイさんの母屋では起こっていた。

ノムの周りをよく見て調整や根回しの力がなければ、そもそも実現しない会合だった。

言葉少ないミッチーは、逆に何も言わなくても「ぼくもきちんとここにいるよ」というオーラが力強く伝わってきた。

人への気遣いが半端ないレイさんが母屋を開放してくれたからこその時間で、そして4人のはじめましてから始まる微妙な空気感を、程良く気遣って会話を広げてくれたのもレイさんだった。

それぞれのありのままが心地良い空気感を生む一助になっていた。

誰も他の誰かを否定しない。

ノムはノム、ミッチーはミッチー、レイさんはレイさん、私は私で良かった。

自分を良く見せよう、場を和ませよう、楽しい時間にしよう…、そういう力みや目標が一切なかった。

ないのに、自分でいられて、場は勝手に和んでいて、楽しいなんて言葉にしなくてもとっても楽しい時間なのはすぐに感じられた。

ノムの思考メモにあった通り、「愛とは深い絶対的な安心」「(愛とは)否定がない状態」をガチで感じられた瞬間だった。





【クロワッサン】

どのタイミングだったか、ミッチーのご両親が去年何百キロと離れた地から訪ねてきた時の話になった。

レイさんもその時、ご両親・ミッチー・ノムと共に一緒に時間を過ごしたようだった。

ご両親は途中のパーキングエリアか何かでクロワッサンを買ってきたらしく、そのクロワッサンを置いていったみたいで、レイさんはその景色について口にした。

レイさんはクロワッサンのことを口にした時言った。

「私、こういうのはすごくよく覚えているの。そのシーンごと記憶に残っている」

おおよそそんな風に、その時のことをレイさんは話してた。

それは一瞬の会話で、レイさんの言葉から連想されるものは一瞬の出来事・一瞬の風景でしかなかったと思う。

なんだけど、そこが色濃くレイさんに残ったのは、クロワッサンの先にはミッチーのご両親がいて、そしてそこで5人での時間があったから、単なるクロワッサンではなく思い出の片隅にちょこんと登場するクロワッサンになったんだろうなぁと思った。

レイさんはそういう思い出のあるものは忘れないみたいな言い方をしていた。

ミッチーのご両親がくるなんてのは非日常的な出来事だったと思うけれど、それを脳内で記憶することとそれを思い出して「そういえば…」と3人でシェアしている姿は、私の目には特別なものとして映った。

それだけじゃなく、レイさんが語るミッチーとの思い出やノムとの思い出は、どれも良い空気に包まれていた。

3人は3人の世界があるところに、自分が4人目の新参者として登場する時は、どうしても3人にしか知り得ない歴史や歩みがある。

通常なら、それが自分が3人目だろうが4人目だろうが、新参者の立場でそうした話を聞く時、疎外感とかそこに入れない壁みたいなのを感じる。

特に私はそういうのを素早くキャッチする癖があるから、余計と「あー、なんか入れないわ」的な感覚を即座に強める(←ほぼ自動反応)。

なんだけど、レイさんの話の時も、ノムやミッチーが3人にしかわからない話をする時も、私は一度も疎外感とか入れない感を感じなかった。

むしろ面白かったり、話がまとってる空気に何とも言えない良さがあって、もっと話を聞いていたいほどだった。

3人は私に変に気使ってる風でもないし、他の話と対等な感じでそれぞれの口から語られるから、疎外感とかいうのとは無縁な話だった。

3人の思い出の話は、「僕がぶっしーのブログを読んで、その中に出てくるもなかをリクエストしたんだよ」というノムの話と何ら変わりなかった。

もなかの話は、ノムと私しか知らなくても、そのもなかを4人で囲めばあっという間に4人のもなかになるように、3人の過去の思い出話は3人のものでもなぜかそれを聞く私もそこに一気に吸い込まれるみたいな感じだった。




上のところまで書き切った状態で、ノムから電話が来た。

最後の方はミッチーも参加して電話した時のこと。

私が最終話にこの話を入れることを言って、でもそもそも何でクロワッサンの話になんかなったのか忘れたと言った。

そうしたらノムが覚えていて、こんな風に教えてくれた。

「ぶっしーが普段から3人で朝ごはんというか昼ごはんも食べるのかを聞いたんだよ。それはないって話になって。
その時にレイさんが、ミッチーの両親が来た時に僕たちは両親とは朝ごはんを一緒に食べてなくて、でも2人が道中で買ってきてくれたクロワッサンがあって、その置いて行ったクロワッサンを母屋で3人で食べたよね〜なんて話をして、そんな風に出てきた話だったよ」

私の記憶も徐々に取り戻されてきた。

話のついでに出てきた話がある。

ノムはご両親が来る前の日に、珍しく友達の家に泊まりに行っていたとのこと。

ご両親が来るのはわかっていたけれども、友達の家での時間もとても楽しく、どうしたものかと思ったらしい。

色々考えて、ノムは慌てて帰るのではなく、楽しむだけ楽しんでから帰る、いつもの自分をそのままミッチーのご両親に見てもらう方が良いんじゃないかと考えた、そこでミッチーに連絡を入れて事の次第を伝えて、それで本当にそちらの時間を堪能した後に家に帰ったようだった。

だから、肝心のノムが一番後に家に到着したとのことだった。

その時にレイさんが、ノムはミッチーのご両親に会うのが怖いのかと思って「ご両親怖くないよ」とわざわざ連絡をくれた話も教えてくれた。

コメディみたいで面白すぎたけれど、すごい決断や流れだったなぁと感じながら話を聞いていた。

世間的な常識では、ノムがご両親到着前に帰るのが筋でしょ!ってなりやすい。

ノムだってそれをもちろん考えたのは、話を聞いていてわかった。

だけど、ノムはここで取り繕うのではなく、そのままのいつもの自分を見せることを決断した。

そして、ミッチーもどう返事したのか知らないけれど、それに反対はしなかったようだった。

きちんとすることだけが正しいわけではないし、リスクのある方を選ぶというのは、そこにもっと色んな要素がないと成立しないのもわかった。

そして、良く見せるのではなく、ありのままを見せる勇気に感服した。

そして、レイさんがそうした意図を知らずにノムにご両親の様子を伝えるのも良かった。

それを伝えることは、してもいいししなくてもいいこと。

ただ、するとするなら、気持ちがないとできないこと。

相手に対する気持ちがなければ、そもそもそうしようなんていう発想にさえならないから。




このクロワッサンの話がとても良かったのは、三人三様の物語が同時にあって、そしてそれぞれの想いがそれぞれ出てきたままに今も残っていること。

ミッチーには聞いていないけれど、これを読んだミッチーの中にも何かが絶対に去来するだろうし、もしかしたらそこからまたノムと2人、もしくはレイさんと3人で別の話が未来に語られるかもしれない。

思い出ってそういうものだと思う。

それぞれの人が何を見ていたってもいい。

同じ空間にいて同じ空気を吸って、それぞれ色んなことを考えて感じて、1人1人は別々なのにどこかで交差して重なる。

それがどれだけの奇跡なのかって大人になればなるほどわかるようになった。

思い出を共有するって普通のことじゃない、特別なことなんだと知るようになった。





【ミッチーの心のこもった挨拶】

ノムと私はミッチーが運転する車で駅まで送ってもらった。

10分か15分程度だったと思う。

来た時と多分同じ道で駅へと向かう。

運転するミッチーに言った。

本当に楽しかったから、またノムとミッチーとレイさんのところを訪ねるよ、ミッチーが仮に迷惑に感じてても私行っちゃうよ、と言った。

後部座席からはミッチーの横顔しか見えなかったけれど、ミッチーははにかみながら「いいよ、また来てね」と言ってくれた。

ノムとレイさんに比べたら、ミッチーは圧倒的に言葉数が少ない。

なんだけど、一言一言に心がものすごくこもっている感じがする。
(ノムとレイさんもそうだけど、ミッチーはとりわけその気が強い。)

初日に見た無人の野菜販売の場所を通過して、大きな通りに出て、今度は道幅の狭い商店街的なところに入って、あぁ駅が近いんだな…寂しいな…と思った。

駅前に着いて、ノムがミッチーの体のどこかをポンポンとして「行ってくるね」と言って、甘い空気が一瞬だけ流れた。

ミッチーは反応したかもしれないけれど、私には反応具合が全くわからなかった。

そこは安定のいつものミッチーだった。

ミッチーの難易度高めのコミュニケーションはノム担当だから、それはそれでいい 笑。

ミッチーは車を止めると、体の向きを変えて私の方を振り返って、楽しかった、また来てね、ありがとう、とかそんなあたりの言葉をかけてくれた、笑顔付きで!!!

今も書きながら顔がニタついて怪しい人になっているけれど、ミッチーとのその小さなやりとりは、eat LOVE聖地訪問の最後を締めくくるに相応しいものだった。

車を出てからもミッチーはノムと私が去るのを見送ってくれて、笑顔で手を振ってくれてた。

気持ちを伝える方法は無限大にある。

ミッチーは言葉がどんなに少なくても、言葉以外の部分で伝えてくれる方法に関しては、他の人たちよりもうんとうんと種類豊富でそして卓越したものを持っていた。

ミッチーも私と同じくらい楽しんでくれたことも、また会おうねという気持ちも、ありがとうだらけの時間だったねということも、全部同じだと思った。

「この人無理に合わせてる」とかいうのも私はわかってしまうタイプだけれど、反対に「本当にピッタンコカンカンだね」というのもわかる。

ミッチーは100%後者だった。





【思いやり】

「ねぇミッチー、今回のことで何が一番嫌だった?」

「嫌だった」ではなく「引っかかった」かもしれない、聞いた言葉は。

いずれにしても、何かしらそのようなニュアンスのことを言って、ミッチーが食べられなくなったり眠れなくなったりした理由を聞いた。(7月のあたまぐらいの話だったと思う。)

しばらく電話の向こうでは沈黙が続いた。

ミッチーの感動するところの1つは、こういうところ。

何でもかんでもさっと即答することが良いみたいに社会的には思われがちだけど、大切なことにはきちんと時間を取って、自分の中に思い浮かぶことを見つけて、そしてそれが何ていう言葉で表現されるのが近しいのか見極める、そういう手間暇を惜しまない。

沈黙の後、ミッチーはゆっくりとポツリと言った。

「思いやりかな…」

少し間が空いて、もう少し付け足すようにミッチーは言った。

「思いやりを感じられなかったことかな…」




何個か前の記事の中で、私の食い意地質問によって、ミッチーが食欲不振と不眠の症状を口にしたことを書いた。

そんな風になってしまうぐらい、ミッチーは大きなダメージを心に抱え込んでいた。

当時はそのことでいっぱいいっぱいだったから聞かなかったけれど、もうキャロットケーキを作ったり枝豆ごはんを炊くためにサヤから豆を1つ1つ取り出すだけの元気があるから、聞いてもいいかなと思って聞いてみた。

その少し前、ノムと話した時に、ノムが同じ話のノム視点で、「ドタキャン」が続いたりコミュニケーションのすれ違いが起きたりして、自分的にはそれが地味に心にマイナスに響いてしんどかったことを口にしていた。

ノムがされて悲しかったドタキャン話は、何年も前、私も全く同じ状況を体験していた。

私は本人にメールで直接要望を出したらそれっきりの人間関係になってしまったけれど、ノムが受けたドタキャンは私の経緯と全く一緒だった。

本来感動するべきことではないけれど、同じことを体験して同じように嫌な気持ちになる人が他にもいるという事に私は感動を覚えた。

相手の子は当時、午前に1件、午後に1件、その合間に私との約束を入れた。

午前の用事が延びて、午後の用事は相手のあることで尚且つオフィシャルなことだったからずらせず、間に入っていたプライベートな私がキャンセルとなった。

私はその時まで自分がそんな隙間のところに予定を入れられていたとも知らなくて、すごくショックだった。

久しぶりに会うというのにそんな風で、自分はその子にとって何なんだろう…と思った。

私は基本的に人と会う時、よほどのことがなければ、その後にどうなってもいいように時間を空けておく。

相手の都合で早々と切り上げるのは構わないけれど、私の都合で相手は時間たっぷりと用意してくれていたのにそれを断ることをしたくない。

時間を共にしたい相手なら尚さらで、わざとそのあと用事を入れることはしない。

逆にわざと入れるとするなら、本気で時間を区切りたい相手…となるけれど、そんなことまずほとんどない。

そもそもそういう相手と私は会わない。

その辺りの考え方や価値観が似ていることに私は感動した。

ミッチーが口にした「思いやり」もそれに通ずるものがあったと思う。

今なら伝えるチャンスだと思って、私はeat LOVE聖地2日目の朝にあったレイさんと私の会話を2人に伝えた。

当初それは私の胸にだけそっとしまっておくつもりだった。

だけど、今の状況なら伝えることが正解というか、2人に思いやり的なものを渡せる気がして、言ってもいいかなと思った。

ここ最近、ノムもミッチーもうんとうんと悩んだその根本には、自分たちが作り上げたeat LOVEの世界が別のものに変えられようと外部から圧がかかっていて、自分たちの生き方そのものが脅かされるような事態になりかかっていた経過があった。

それが目に見えて危険とわかる形ではなく、本当に小さな違和感でしか表面上には現れないけれど、なんなら外部側の人も傷付ける意図なんか全くなかったと思うけれど、事態はものすごく深刻なものになっていた。

今はそこから自分たちのあり方を見直して立ち直りつつあるけれど、そんな風だったからミッチーは「思いやり」がなかったことを今回のことで一番気にしていた。

私は2人に言った。

2日目の朝、ノムと携帯で連絡を、徒歩10歩の距離感で取り合いながら(2人はeat LOVE邸、私は母屋)、支度が終わったらeat LOVE邸を案内してもらう予定でいた。

ところが、私がもたもたしているうちに、レイさんが30分かけて車で来てくれて、母屋に「おはよう〜」と爽やかにやってきた。

その時に、3人の普段のやりとりを知らなかった私がレイさんに、今2人の家の方に行こうとしてたこと、レイさんも一緒にどうかと声をかけた場面があった。

そうしたらレイさんは、自分は行かないと言った。

いくらごはんを一緒に食べたりする仲と言えども、もし大家である自分が2人の生活の場所に乗り込んだら、それは2人は嫌だろうなぁと、あの2人のことだからそうは絶対に言わなくても2人だけの大事なスペースのところに私がズカズカ入るのはどうかと思うから、だから行かないようにしてるの、行ったのは水回りの工事をする時に立ち会った時一度きりで、その時も台所とか水回り系の場所にしか入っていないの、と教えてくれた。

ということを、私は今さらのように2人に伝えた。

なぜなら、それだけレイさんも2人のことを、2人の生活(=eat LOVE)を大事にしている何よりもの証拠だと思って、私はあえて言った。

今回他の人との間に起こってしまったことは、私からすると2人の生活に対してリスペクトがない、感じられないということも言った。

だから、2人が心身の具合が悪くなるまで変になるのは当たり前で、でも逆にそれだけ大事なものだと私も思っているし、そして私がレイさんと2人を見ていて感じることの1つが、お互いを大事にしていること、お互いを思いやることだというのも口にした。

レイさんが2人ともっと関係を深めていきたいという気持ちもありつつ、それとは別に常に2人の生活や2人の関係に対して敬意を最大限払っている風に見える、そうやって接する人もきちんといることを伝えたくて、それであえて口にした。

ノムは即座に反応した。

「すごい嬉しい!ミッチー、それってすごい嬉しいことだよね!」

ミッチーも即答で「うん」とはっきりと答えていたのが聞こえた。

レイさんの気持ちやそんな超繊細案件をレイさんが2人に直接言うとは思えなかったから、そして今回はその2人が大事にしているものが危険にさらされたこともあったから、あえて口にした。

なんとなく良い形で伝わる気がしたから。

伝えて正解で、2人は本当にレイさんがとっさに私に伝えたことをとても喜んで聞いていた。

私もこんな形で言うなんて予定にもなかったけれど、なんとなく「今言った方がいい気がする」と思って、余計な脚色はせずに、ただあったことをあったまま説明した。

星トリオの3人はいつもお互いに思いやりを持って関わっている。

もしかしたらその思いやりが思っているのと違っていたり、誤解もゼロではないかもしれない。

そこはわからないけれど、100点満点とはさすがに人間同士のことだから私はそんな風には捉えていない。

だけど、「お互いを思いやる」ところだけを切り取ったら「100点満点」だと思う。

気持ちや相手を思いやろうというのが、3人それぞれのやり方や想いで伝わってくる。



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[文末のある日のeat LOVE写真説明]

・枝豆ごはんとカレー&サラダ

「サラダは小葱切干紫キャベツとトウガラシとナンプラーとごま油と炒りごまと黒ごま。だってー。おいしかったよ!  
(カレーは)タマネギ、ひじき、鶏肉、ゴーヤ、じゃがいも、あとはスパイス各種。だそうだよ!」(説明:ノム)



枝豆は、ノムが開催中の個展でお客さんからもらったものらしい。
個展、港区西麻布とかいう田舎者でも知っている名前のハイソな街での開催じゃなかったの?と思って聞いたら、お客さんも貰い物らしいけれど枝豆持ってきてくれたとのこと。
その枝豆を1つ1つさやから剥いて、それで豆ごはんをミッチーは炊いた。
ノムがミッチーに「今日のごはん何?」って聞いて、ミッチーが「カレーにしようかな…」と言ったら、「えー!?枝豆ごはんにカレーって何か合わなくない?枝豆ごはん、せっかくおいしそうなのに、カレーかけたら味がわからなくなりそう」と意見を言ってた。
その2人の会話が可笑しすぎて、私はノムにちょっと意地悪な質問をした。
「え、じゃあさ、ノムだったら、枝豆ごはんはもう決定だから、おかず何にする?」
「えっΣ(꒪◊꒪; )))) ?(←って顔になってたと思う)」その後「なんか献立って難しいね〜」みたいなことを言って、そしてもう全てはミッチーに一任したようだった。
電話の後しばらくして、その写真が送られてきて、最終的にカレーライスとアジアンちっくなサラダになったことを知った。
サラダはとっても美味しかったようで、ノムは自分も作ってみたいとあった。「初めて食べる味だった。切干大根がきいてたよ!」とのこと。

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【家族の形・魂の家族】

「自分の家族を作ってみたけれど、自分の思ってたものと違ってた」

夕ごはんの後、私が泊めてもらった仏間にみんなで移動して、そこで4人で話していた時のことだった。

レイさんがポツリポツリと自分の話を始めた。

レイさんは長いこと就いている仕事がある。

専門職で、これからAIの時代が訪れても決してなくならない仕事。

世間一般からは、辞めると言ったらもったいないと言われるようなタイプの仕事だと思う。

レイさんの中に色んな想いがあって、最終的に秋になったら辞める予定に今はなったけれど、それを辞める辞めないの決断の時、家族に相談したら「いいんじゃない」という実にあっさりとした返事だったらしい。

レイさんにとっては人生の中の一大事で本当に悩んでどうしたものかと思っているのに、家族はそうとは捉えず、そこに温度差を感じたようだった。

そんな時に、ノムとミッチーがいて、ノムとミッチーがレイさんの話を聞いてくれたり思ったことを伝えてくれたりしたようだった。

2人のことだから、何か言うにしてもアドバイスとかではなく、話を聞いて本当に感じたことをレイさんに言ったんじゃないかな…なんて予想している。

母屋再建の時もそうで、手放す方向で物事を進めようとした時、それを思いとどまって再建させると決めて実行するには、2人の協力が必要不可欠のようだった。

2人に協力を求めたと言うよりも、結果的に2人が色々手伝ってくれたようで、特にミッチーがその色んな手伝いをかなり買って出てくれたようで、すごく助かったとレイさんは言っていた。

今思い出したから言うと、私が第8話『星トリオと織りなす占星術』の中で「雪と一緒にないソリ」の話をしたら、レイさんからその内実を教えてもらった。


‪【昨晩のブログに出ていた、「雪と一緒にないそり」(ごめん、ちょっと言葉違う?)あれね、私の実家の縁の下にずっとあった物なの。たぶんものすごく年季物。しかもなぜかメルセデスベンツのマークがついていて(現代だったら、ゼッタイまずいことだと思うんだけど)10年前くらいに自宅に持って来て、大雪の時に雪を道路や駐車場から搔き出す時に運搬用に使っていたの。‬
‪その後、母屋の庭掃除する時に重い瓦とか石を運ぶために持って行って活躍した「ベンツのそり」なの。‬
‪それがぶっしーのサビアンシンボルだったとはね…。】‬


‪そう、あのソリは私からしたら自分のホロスコープに刻まれたシンボルだったけれど、実は色々と実用的に使うもので、さらには今ある母屋を整える時に色々活躍したものだと知った。‬

そんな風に1つのものが、それぞれの個人にとって意味あるものとして活躍することがなんだか嬉しかった。

レイさんは自分の家族を作ってみた。

子どもたちも1人は成人したし、もう1人もあと少しで成人する年になった。

何が何だか全くわからない年頃の子どもとは違って、大人の世界も知りつつある年齢に差しかかった。

旦那さんとも話をするし、仲が悪いとかそういうことではないと思う。

私がそのレイさんの話を聞いた時に真っ先に思ったことは、家族に相談しようという気持ちがレイさんにあったことと、相談したけれど思うような結果が得られなかったのをきちんと受け止めていることだった。

レイさんは最初から家族をあきらめたのではなく、やるだけやって、家族からはそれぞれの反応が返ってきて、それでも自分の中で消化しきれないものが残って、そして今なんだとわかった。

良い意味での「あきらめ」という感じがした。

変に家族にこだわり続けるよりも、それはそれ、これはこれとどこかで線引きすることも時には大事だと、この年齢になって私も思うようになった。

後日、私がアップしたブログを読んで、レイさんからは
「色々感じたこと、書いてくれて、嬉しいし楽しい。
すごくいい人みたいになってるけど、まあ家族にはウソついたりしてるから、根っからの善人ではないよ〰️😅」
と返ってきた。

家族にウソついたりしてるとペロッと言うレイさんが私はすごく好きだった。

レイさんは最初からあきらめたり、最初から家族に話さないなんていうのとは違う。

レイさんはレイさんで色々試して、それでも思い通りではなく、そしてそうとまでは言っていなかったけれど、仕事のことにせよ母屋のことにせよ、自分が望んでいることが家族との間で成立せず絶望に近い気持ちになったんじゃないかな…なんて思う。

私は、自分の両親も妹2人もこれまで付き合った人たちも、悲しいぐらい一番大切なところが分かち合えないまま、今に至っている。

1人だけ例外的な人がいたけれど、今度は私の前からいなくなってしまった。

普段はあまり考えないようにしているけれど、私は本当の意味で人と心を通わせたことがないと思うし、それは身近な人たちともそうはできないことも体験として持ってしまった。

この辺りはわからない人にはどう説明してもわからないし、そもそもわかってもらいたいなんて望むことから間違えてる気がしている。

私の中の「人とは分かち合えないし分かり合えない」思考は、怖ろしいぐらいに根深く育ってしまった。

そういうことのわからない人たちと話すと、本当に怒りたくなるぐらいにすごい理想論が飛んでくるし、それができない自分は人間不信で人間失格みたいな気持ちにさえなりそうになる。

話があちこちに飛ぶけれど、そうした深い人間関係に対して絶望に近い気持ちしか持てなかった私のところに、ノムとミッチーが現れて(最初はノムとの会話の中で、その後『eat LOVE』のサイトの中で)、そしてレイさんが現れた。

まず良かったのは、ノムは絶対にミッチーのことをわかったフリをしないことだった。

ノムが絶対的に理解してるのは「ミッチーは宇宙人」てなことだけで、その宇宙人気質のところは毎回読めないから、ノムはそこを知ろうと毎回努力し続けている。

何がビックリって、私みたいに第三者から見たミッチー、私から見たミッチーの話をすると、ノムは超食いつく 笑。

そして、自分には見えなかった新たなミッチー像を知って、すごい嬉しそうにしてるのはわかる。(余談だけど、ミッチーのことを新たに知れて嬉しそうにしているノムは本当に可愛い。)

付き合いたてではなく、13年目ぐらいの付き合いに突入して、週6.75日ほど共にいるんじゃないかと思うけれど、なのに全く真新しい気持ちでミッチーの話を聞くノムには感動しかない。

本当に大好きで愛してる人なんだと思う。

ミッチーはミッチーで、自分を絶対に変えない。

ノムに合わせるとかしてまで好かれようなんてしてなくて、そのままの自分でいることを本気でやっている。

ミッチーのそれは、俺様的な感じでは一切なくて、相手に対しての最大のリスペクトと信頼がなければできないことだと私の目には映る。

人によっては「僕無理だから、ミッチーと居続けるの…」となってもおかしくないところもそのまま出して、その自分を徹底している。

相手に合わせるんじゃなくて、自分でいるままで相手ともいられる状態を目指してる感じがする。

私からすると、一番怖いことをミッチーはやっているから、本気で凄いと思う。

先日ノムが個展の在廊日にお客さんに聞かれた質問について教えてくれた。

ノムはお客さんから
「ミッチーの好きなところはどんなどころ?」
と聞かれたらしい。

ノムはそれに対して、
【自分を大事にしてるとこ】
と答えたと教えてくれた。

そして、「ミッチーがそうだから、自分も自分を大事にできた」とノムは続けた。

だから、その2人の恋人同士をeat LOVEのサイトで最初知った時、その時は今の100分の1程度しか知らない状態でも、なぜかとてつもなく惹かれた。

そして、本気で誰かを信じるとか誰かと向き合うとかいうのをとことん避けようとしまくっていた私に「希望」とか「可能性」を見せてくれた。

さらにそこにレイさんが加わって、3人になるとまた関係が変わるけれども、そこにも私は「希望」とか「可能性」を感じた。

もしかして、世の中には家族ではない形で気持ちが少しでもわかる関係が作れるんじゃないかと。

ノムとミッチーの世界には当然入っていけないにしても、気持ちをシェアしたり思ったことを思ったまま話す、そういうことができるのかもしれない…というのは、私にはすごく大きなことだった。

私の心の閉ざし方が半端ないのは自分でも気付いている。

それは、長年否定されたり理解されなかったりを数多(あまた)の数で繰り返してきて、特に深い部分になればなるほど私の場合はそこが顕著に出てくるから、色々ズレてる自分がおかしいんだとも思ったし、そこが理解されずに拗ねたり怒ったりする自分もどうかと思ったし、人といるには自分側もある程度妥協がいるんだと思った。

家族とかパートナー的な人になればなるほどおかしなことが勃発しまくりで、ちなみにこれは相当仲良くなる人たちとの間でも勃発するから、私は距離感を学んだり一線を越えないことに尽力したり関係が保てるように自分をなんとか変えたり抑えたり…。

それが人間関係の基本だとさえ思い込んでいたぐらいに、私は自分ではない自分になりすまして、誰かと関係を作ろうとしていた。

なんだけど、星トリオの3人を前にした時、これまでの自分の思い込みが覆された。

それは本気で驚いた光景だった。

3人とも基本のスタイルが「自分」で、その部分を互いに否定していない。

「ここはちょっと…」と思うことだって三人三様あると思うし、2人の時と3人の時とではまた違うだろうし、色んな側面があるとは思うけれど、それでも3人が3人で立って、そして何かをお互いに共にしている。

大家さんとゲイカップルという超異色の3人がなぜか不思議な形で成り立っている。

大家さんとかゲイカップルなんてのは抜きにしても、何で全然違う人間同士が、生まれも育ちも生きてきたプロセスも違うのに、お互いを知り合ってお互いを思いやっていられるのか、これこそ世の不思議としか言いようがない。

神々の審議会にかけられて、3人は引き合わせられて、そしてそこがある程度形になりつつあるタイミングで再度神々の審議会が開かれて、4人目の私が呼ばれたとしか思えない。

私は3人の細かいことは知らないし、その中で一番付き合いの長いノムのことさえ知らないことの方が圧倒的に多い。

でも、知らなくても通じ合えることがあるというのを教えてくれたのも3人だし、それを見せてくれたのも3人だった。




ノムがeat LOVE邸へ招待してくれる何日か前、レイさんの話を私に初めて知らせてくれた時があった。

【ぼくはカレと広い敷地の中の貸家に住んでいるんだけど、
敷地に、大家さんがときどきやってきてね、
なんというか、彼と彼女(51歳女性の大家さん)とのトリオは、
ふしぎな、血のつながりはない家族?親戚?
そういう間柄となった】

レイさんは、仏間で4人で話していた時に言った。

「自分を取り戻す場所」

レイさんは母屋や2人との時間をそう呼んだ。

レイさんとメールするようになってから2回目ないし3回目の時だった。

レイさんから呼び方に関して一言添えられていた。


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私の呼び方、最初は“さん゛付けなしで呼んで欲しいと、ミッチーに言ったんだけど、さすがに13歳も離れてて、「できない」って言われて“れいさん゛になっちゃったの。
だから、ぶっしーは“れい゛でも全然構わないからね。
言葉にして呼ぶ時には、「れー」でいいの。

3人お互い下の名前で呼ぶようになったのは、私からの提案で、それぞれが“家゛の所属ではなく、完全な“個゛の状態で付き合っていきたいと言う私の希望だったの。最初は、2人は私を“佐藤さん゛って呼んでたし。でも、そのままだと、もし私の家族が来たら、みんな「佐藤さん」だからね。

(注:「佐藤」さんは仮名)

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呼び方にそういう歴史があったことをこの時初めて知った。

私はノムから最初に「レイさん」と紹介されたから、最初からレイさんと呼んだ。

その後、ノムの時同様1週間近く時間をもらって、それで今は「れいちゃん」に落ち着いた。

「レイさん」も気に入っていたし、なんなら私の中では「さん」は敬称ではなくあだ名の一部みたいな感覚で、もしさん付けするなら「レイさんさん」って感じなのもレイさんには言ったけれど、とりあえず「れいちゃん」になった。

この話がいいなぁと思ったのは、ミッチーがさん付けなしで呼ぶのはさすがに無理だとレイさんに正直に言ったところ。

レイさんのリクエストも汲みつつ、自分の想いも大事にする、その両方をしているミッチーの姿は、自分のこともレイさんのことも大切にしているように感じた。

私は年齢とか関係なく、そもそも人の名前を呼び捨てで呼ぶことにすごい抵抗があるのと、呼ぶのは相当限られた人間だけで、だから例えば25年来の高校からの友達のことも、今でも苗字にさん付けという状態で来ている。

呼び方だけ切り取ったら、ものすごく距離のある友達みたく見える 苦笑。

呼び捨てに抵抗があって、だかられいちゃんかれいこちゃんが候補だと話したら、レイさんから
【ちなみに呼び方、「れいちゃん」は、一番長く呼ばれていた私にとってポピュラーなものです。
この歳で「ちゃん」ってどうよ?って思う一方で、うんと歳取ったら、かわいいばーちゃんになって、「れいちゃん」って呼ばれたいなと思うようになった😁】
こんな風に言われたから、「れいちゃん」に決まった。

呼び方1つ色々ある中で、こうしてそこにある想いを共有できるのっていいなぁと思った。

このブログ内では混乱を避けるために、最後までレイさんでいこうと思ってる。

基本的に、「レイさん」って呼び名も超気に入っているから、貴重な「レイさん」呼びだし 笑。

こんなこと言ったらノムとレイさんから苦情が来そうだけど、2人からぶっしーと呼ばれてもすっかり慣れて何とも思わないけれど、これがミッチーから「ぶっしー」って呼ばれると超テンションが上がる 笑。

それこそミッチーがノムのこと「こうへいさん」って呼んでいることがこの間判明したけれど(←それを聞くのも私の萌えポイント(o´艸`))、ミッチーはそもそも人をあまり呼ばないから、名前を呼んでもらうってすごい貴重なものになる。

だから、レイさんがそこにこだわった気持ちもわかるし、色々を経て今の呼び方になったのもわかったし、私もズカズカと入り込んで好き放題呼ばせてもらえるのはとっても嬉しい。

「自分を取り戻す」中に、佐藤さんとか大家さんとかお母さんとか奥さんとか職場の佐藤さんとかではなく、「れいこ」に戻ることがレイさんの場合は大事だったんじゃないかな…と思った。

しかも跡取りとして育てられ、苗字もレイさん個人ではなく家族のこだわりが含まれたもので、それさえも取り払って「個」であることをレイさんは切望したように感じる。




話を戻して、「自分を取り戻す場所」。

eat LOVE聖地の特徴の1つがそれだと思う。

3人の人間性がそこには深く関わっているけれど、本当に3人といると「自分でいること」をものすごく自然体で意識させられる。

でも、それって誰でも彼でもの前でできることじゃなく、安心してそうできる相手でないとできない。

ノムとミッチーは恋人同士どこまでもそれを極めていくと思うけれど、それを2人だけのものにせず、そこにいる人たちにもそれを提供している。

2人は与えているつもりはないと思う。

だけど、2人といると、自分のままでいていいよ、と言われてる気分になる。

そして、気付くとくつろぎながら自分でいる自分自身を見つける。

第11話『愛になる。』のところに、こんな風に書いた。

【ノムとミッチーが築いた王国は、「ホーム」とか「安心安全な場所」とか「自分が自分でいられる場所」だと思う。】

そこにレイさんがプラスされて星トリオになると、王国の形もまた変化するけれど、基本の軸は変わらない。

安心安全で、自分が自分でいられる場所には変わりない。

それは、誰かに気を使う自分も含めて、そういう自分さえも素直にそのままいられるやさしさがある。

3人を思い浮かべた時、【極上の気遣い】って言葉が出てきた。


レイさんのメールより↓↓↓

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

私は息子2人育てて、ついでにあの2人は「産んだ覚えのない大きな息子達」みたいな感じの時もあって(これは今まで何度か2人に直接言ったことあり)そっとしておく時と、「ちゃんと見守っているからね」って言う時を使い分けているつもり。


私にとって、あのカップルはとてもとても大切だから、本当は何でも話して欲しいけど、2人の生活にズカズカ土足で踏み込むようなことはしたくないからね…。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



ノムのメールより↓↓↓

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ぶっしーがお世話になった人との99%はよいけど1%が受け入れられなくて(ざっくり表現でごめん)
自分から離れた。その1%って何? みたいなことをたしかぼくは尋ねたんだけど、
ぶっしーの1%は、ぼくの中では「思いやり」っていう言葉に集約されて、届いていてね。

lineにもちょろっと書いたけど、
れいさんのことを綴ったブログの記事(第10話『ご縁を紡ぐ』)が、すごく響いてさ(ほかの記事が響いていないわけじゃないよ)。
そっかー、ってなった。

ぶっしーとれいさんは、ただ2日間の目下の顔合わせだけど、
そこには、はなから相手のそのままを受け止めて、そのままを大切にする思いやりがあって。
超重要な”1%”があるから、たった数時間だけど、お互いが深く癒されあい、
「あなたと出会えて本当に良かった!」って言い合えているんだよね。

ぶっしーがeat LOVE邸での時間を超人的に記事にしているのは、
それほどの言葉になるくらいに感じることが多かったのだろうと思うのだけど、
それは、頭ではわかっていたけれど、
タイムラグを経て、ぶっしーが何にそこまで感動したのかがようやく腑に落ちた。

あたりまえのようにやっていて、それが”ふつう”みたいになって気づけなかったけど、
星トリオは、とにかく「思いやり」あっているのだね。

ありのままでいる、ありのままを見せることが、
いちばん自分と相手を尊重することだから、と、
時には歯をくいしばるようにして、ありのままでいようとしていて。
それを、3人が、揺れながら、悩んだりしながら、
でも、その軸を見失わずに付き合っている。

そして、そのコアともいえる部分を瞬時に本能的にわかるぶっしーは、
「はじめまして」だけど、
自分もまた”ありのままトライアングル”の仲間に入ったことをわかり、
それに癒されたのかな、と思った。

なんか、さっそく何を書いているのかわからなくなってきたけど、
なんだろうな。
ぶっしーは、その時空間を、後日、丁寧に丁寧に言葉にして表現してくれた。

ぼくやぼくらはそれを読んで、客観的に自分や自分たちを知り、
もしかしたら間違ったことをしているのかもしれない、みたいな不安や、
自分たちの中だけにあるように感じていた”何か”が、
本当に、第4者の目にも「あるよ!」と見えていたことに、
すごい、すごい救いをもらったのだと思う。

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3人には血の繋がりは一切なくて、100%赤の他人。

ノムとミッチーはもちろんのこと、レイさんも、3人が繋がる唯一のものは「見えないもの」の代表【気持ち】とか【心】になる。

ノムとミッチーの間のものと、星トリオ3人の間の気持ちの種類は違う。

同じ愛でも片方は恋人同士の愛の要素も含めたすべての愛になるし、もう片方は恋人同士ではないけれど人間愛って感じになる。

だけど、種類は違えど根っこの【愛】という部分では一緒だし、【心】というところも同じになる。

それだけしか繋がるものはなくて不確かなものなのに、3人の持ってるそれは目に見えるようだったし、手でも触れられそうな勢いだった。

3人がしているのは、私から見て、歩み寄りじゃなくて、お互いがそのままでいてそれで共存できる在り方を一緒に模索・実験してる風だった。

どうしても人は相手に対して気遣いをしてしまう。

気遣いゼロの関係なんて本当にこの世にはない気がする。

当然気遣いは、第三者から見ていて「ゲー」となるものと「良いなぁ」というものとがある。

そんな中、3人がしている気遣いは、すっごいギリギリのラインのところなんだけど、それが逆に感動するぐらいに健全な形でいびつさがない。

3人共にある「この関係を大事にしたい」「大事に育てていきたい」という基本的な合意が言わなくても見える。

いつかのノムとの電話でノムはこんなことを言っていた。

「自分でいることって、結局のところ、仲良くなるのに一番早いよね。
お互い自然に居合った方が、合う合わないがわかると思うんだよね」

なるほどー!!!と深く納得した。

たしかに、自分自身でいて、自然な感じでそこにいて、それで誰かと勝手に気が合うなんてのは、スーパーミラクルだと思う。

でも、それこそがノムが言う通り「気が合う」ということだし、「ご縁がある」ということ。

これもノムが教えてくれた言葉。
(ノムの言葉集的な記事もいつか書きたいと思う!)

「目に見えるものの下に、目に見えないものがある」

3人が大切に育んでいるのは、目に見えないもので、それは姿かたちもないし名前も無いような何かだけど、それが3人がお互いに捧げる極上の気遣いで愛だと私は感じた。




eat LOVE聖地を去った週の終わりのノムからのメールより。

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たとえカップルでも家族でも誰もが、本当にはひとりである、孤独な存在であるということを、受け入れた上ではないと、安心して一緒にいることはできないんだって。

eat LOVEに書いた、彼と一つになりたいけどそれはムリだった。彼はぼくのものにならないし、ぼくは彼のものになれない。

ぼくが理想とするのは、だから、独立した個が、個人が独立した同士で時に支え合える関係、場なんだとわかった。それには、個々がまず自分を最優先させること。自分を大切にしまくって、自分だけで満たされるくらいになって、だけど、ときどきどうしようもない孤独や淋しさを、わかるよ、って言い合える。そういう人間関係。

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星トリオを見ていると、【魂の家族】という言葉がふと浮かぶ。

3人それぞれが自分の孤独をこれでもかというぐらいに引き受けている。

ノムはノム、ミッチーはミッチー、レイさんはレイさん、それぞれの孤独がある。

ノムとミッチーは恋人同士でも、やっぱりそれとは別の孤独があるように感じる。

それは相手の有無ではなくて、2人それぞれの孤独は人間誰しもが絶対に持っているものという感じがする。

時々どうしようもない孤独や寂しさがこみ上げるのは、よくわかる。

私なんかは30過ぎたある時に「孤独や寂しさとは一生付き合うもの」と認識して、いかにそれらと上手く付き合えるかの方法を模索し始めた。

隣りにノムがいるのに眠れなかった夜のミッチーとか、あまりに悶々としすぎて1人で川に行ってそこで何時間もボーっとして過ごしたノムとか、目の前の家族に自分の想いを伝えても伝わらないと感じて切ない想いをしただろうレイさんとか。

私の孤独は、それだけで一記事書けそうだから省略 笑。

そんな風にそれぞれがそれぞれ自分しか知らない孤独を持っていて、孤軍奮闘したりする。

自分自身を取り戻す場所、自分に帰る場所…。

そうした場所に向かう時、孤独や寂しさも一緒にある気がする。

だって孤独も寂しさも自分の一部だから。

自分に帰るということは、きれいな上澄みだけの自分だけじゃなくて、孤独を感じてどこまでも暗いトンネルに迷い込む自分とか、寂しくて発狂しそうな自分とか、そういう自分もいるんだよっていうのも連れて行くイメージがある。

自分だけの孤独や寂しさは自分で持つしかなくても、ノムが言うような「わかるよ、って言い合える。そういう人間関係」、それを星トリオと一緒だと持てる気がした。

私の孤独や寂しさを誰も代わることはできなくても、「それ、わかるよ」って言ってもらえるところがeat LOVE聖地にはあるように感じてる。

試したことないからわからないけれど、多分私は「愛してる」より「さみしい」の方が言えない。

さみしいってこれまで多分誰にも言ったことない。(←弱み見せるのがとっても苦手)

だけど、星トリオの3人となら、「孤独と寂しさをシェアする会」とかやれそう!って思った 笑。

しんみり語らうよりも、「それわかるー!」ってな具合に、又は「その寂しさってどんな感じかもっと知りたいからもう少し説明して!」とか、まるで好きなごはんを語らい合うように寂しさや孤独も語らい合えるかもしれない。

次回合宿のお題に提案してみようか。

孤独や寂しさをシェアする会なのに、想像したら俄然テンションが上がって、もはや孤独でも寂しさでもなくなってしまいそう…笑。

そんな風にして、わかるよって言い合える関係とか時間が持てそう、と自然に想像できる。

eat LOVE聖地にいる星トリオたちは、そういうことの希望も見せてくれる。

3人が見せてくれてる希望は、私はずっと叶うことのない夢だと思っていた。

なんだけど、3人となら孤独も寂しさも、お互いには代われなくても、その渦中寄り添えなくても、何ともない時にお互いにああだこうだとポツリポツリと話ができる気がする。

この可能性は、私にとって大きな希望だった。

これから先生きていくのに、「希望」を持てるって何て明るいことだろう。

実現するしないよりも、その希望を持てたことに私はものすごく救われてる。





【次回の“愛を食べる”リクエスト】

次がいつかもわからないeat LOVE聖地訪問なのに、私は早々と何を食べたいかミッチーとレイさんへのリクエストを考えた。

eat LOVE聖地を去って半日後の新潟に帰る道中あたりから考え始めた。

これならノムもしてくれそう…というものを考え抜いた。




リクエストの話の前に、何であの日コロッケをレイさんがノムの好物だからと言って用意してくれたのか、ノムがその話をもう少し詳しく教えてくれた。

【コロッケはぼくの思い出のおかずで、誕生日に母にリクエストしたりしてた。
そういうことから、レイさんがつくってくれるようになったのだよ。】

そういう流れにあったことを初めて知った。

ノムのお母さんというのは、おやつなんかも手作りしてくれたようで、本当に料理上手なお母さんというのが話を聞いていて伝わってきた。

eat LOVEに書いてあった気がするけれど、ノムのこの10数年はミッチーのごはんを日々口にしていて、味付けは母の味よりもミッチーの味の方が体に馴染んできたかも…というようなことがどこかにあった。

コロッケに関しても、この数年単位で切り取ったら、ノムはレイさんのコロッケを回数としては一番多く食べてるかもしれない。

ミッチーは家で揚げ物をほとんどしないと言っていたから、多分そんな気がする。

そうやって、思い出のごはんがリレーされて、そこにまた新しい思い出が作られる奇跡に私は胸がいっぱいになった。




『eat LOVE ⑼ 愛を食べる』をアップした後にノムから来たメール。


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あ、そう、ミッチー、ぶっしーの昨日の記事を読んだって^-^
「長いから、スクショ撮っておけばよかったけど、撮らなかったからどこって言えないけど」
という前置きがあって、
「”愛を食べる”って、そういうことだった」と立ち戻れた、というようなことを言ってた。
それから「あ、そういうことか」という気づきもあったみたい。
寝しなに聞いたからごめん、だいぶうる覚えだけど、そうしたことを言っていた。
あと、そう、「こういうことを感じてくれて嬉しかった」ってなことも言っていたと思うし、
「そうそう」と共感?納得?したりもしたと言ってた。

ミッチーが、こんな風に言葉にして返答するって、すごいなー、ってぼくは思った。笑

それには、圧倒的にまず相性というか波長が合った、ってことがあるけど、
ぶっしーのやさしさが、愛が、人柄や言葉にあるからだろうなと思う。

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ミッチーとレイさんとで愛(=ごはん)を作る。

そこにノムと私の食べる専門の人たちも加わって、4人でいただきますをする。

4人で愛を食べる。

今度は、食べた私がその時のことを描写する。

そしてその文字から今度は3人がそれぞれ何かを感じ取る。

私はそのプロセスのすべてが「愛が循環する」ことそのものだと思っている。

愛なんてのは、見えないし普通は不安定なものだと思われている。

だけど、eat LOVE聖地で循環している愛は、ご飯に化けたり気遣いに化けたり文章に化けたりする。

人間側も愛を五感、[味覚・嗅覚・視覚・聴覚・触覚]で感じられる形になる。

五感を通じて愛を表して、五感を使って愛を受け取る。

その愛はずっと好きな形で表現され続けていて、お互いの間を、しいてはその枠を飛び越えた先で循環し続ける。




『eat LOVE』冊子より

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

いったいどうしてすべては過ぎてゆくのになにかをつくるんだろうね。
食べたら消えてなくなるものを何時間もかけてつくったりさ、
たのしい会話も瞬間的にこの世の果て、宇宙の彼方に消え去っていく。
でも、だから、こんなにも愛しくかんじるんだろうな。
ぜんぶ終わっちゃう、ぜんぶ思い出になってしまう、なんてはかなく贅沢な毎日なんだろう、生きるって。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



日々のごはんは、作った後、一瞬でなくなる。

会話だって、口にした瞬間から消えてなくなる。

何もかもが儚(はかな)く消えていく。

それでも私たちは食べるし喋る。

何か目に見えないものを交わす。

思い出を作る。

いつかみんな死ぬと知っていてもそうする。

何でそうするかって、私は「愛を食べる」ことが人間の欲でそれなしでは生きられない生き物だと思うから。

世の中の犯罪の根底には、愛が欠乏した不足感が絶対にあると思う。

人と愛をお互いに交わしたら、一度でもそれを知ったら、人はその愛のために全力を尽くして生きると思う。

私は自分の生きる力が低下する度にいつも思う。

「愛が欲しいんだな」って。

何か命を懸けてまで守りたいものって私の場合そんなにたくさんはなくて、だいたい生きる気力が落ちる時は愛のない毎日になっている。

愛の循環が生まれると、私なんかはわかりやすくて「生きたい」になる。

人間の3大欲、食欲・性欲・睡眠欲もすべて愛が基本だと思う。

世の中の生き物で人間みたいなセックスをするのは、唯一人間しかいない。

他の動物は、本当に子孫繁栄のためだけにする。

それ以外の目的、愛の確認作業のようにするのは、人間しかいない。

色んな考え方があると思うけれど、基本的に性欲は愛があって初めて満たされるものだと思う。

いつだったか男友達の2人か3人が、「愛がなかったらできない」って言った。(正しくは「できなかった」と言ってた。)

それを聞くまで男の人たちというのは、本能に則って性行為をするのかと思ったら逆だった。

友達いわく愛が欠乏すると身体的に無理らしい。

愛があって初めてできる行為なんだと知った。

食欲というのは、自分の空腹を満たす。

睡眠欲は、眠ることで体力を温存する。

どちらも活力の源となるわけだけど、その活力だって出世するとか金持ちになるとか、そういうことのために貯めるわけじゃない。

活力を持って、究極のところ、思い出を作ったり愛を食べたり言葉を交わしたり…、そういうことをしたくて活力の源を貯め込むんだと思う。

そのもっと大元は「愛」だし、愛を感じないと人間死にたくなったり何で生きているのかわからなくなってしまう。

今、世の中が婚活ブームなのは、何も結婚したいからじゃない。

婚活をしてまで結婚したいその先は、「愛ある生活」を欲してるからこそ、そして愛ある生活というのは、愛することと愛されることの両方で成り立っている。

eat LOVE聖地で「愛を食べる」日常に私もおじゃまさせてもらって、ノムとミッチーみたいに恋人・パートナー的な愛ではないにしても、人間愛というタイプの愛がそこにはででん!とあった。

愛を互いに出し合って交わす、それはごはんでおしゃべりで時間だったわけだけど、それに触れて私はものすごく癒された。

普段そんなこと思いもしないけれど、「生きてて良かった」とさえ思った。

愛する・愛される、その人間の超基本的なところをeat LOVE聖地では何食わぬ顔で皆がやっている。

そこにいてその愛に触れると、「これが自分が欲しいもの」って本能的にわかる。

それは、食欲・性欲・睡眠欲さえも超えたようなところにあって、ある意味究極の愛の形みたいにさえ見えた。




ノムにだけ一足先に「次のリクエスト」を教えた。

ミッチーとレイさんは当日その場で言っても大丈夫と思ったけれど、ノムは振り返りの時間+場合によってはレシピ確認と練習が必要かもしれないと思ったから 笑。

私が次回リクエストするものの1つは、「思い出ごはん」。

それは、いつのどんな時の思い出でもいい。

自分が生きてきた中で「思い出ごはんと言えば…」と思い出したもの、それを1つみんなにリクエストする予定でいる。

そうしたら、ノムからこんな返信が返ってきた。

読んだら涙が出てきた。

私は何で「思い出ごはん」なのかは、よくわかっていなかった。

だけど、リクエストしたいのは「思い出ごはん」だった。

そうしたらそこをノムがきちんと言葉にして教えてくれた。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

思い出のごはんを食べあうとき、
自分と出会う前のその人たちともつながれる、
それこそ過去と現在と未来をいっしょに食べる会になりそうだね!

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eat LOVEーー愛を食べる。

「大切な人といっしょにご飯を食べると幸せじゃない?」(by ノム)

一生のうちであと何回愛を食べれるのかはわからない。

ましてや、自分にとって大切な人と一緒に食べるなんて、回数としてどのくらいあるのか想像すらできない。

ごはんも時間も会話もすぐに消えて無くなるし、いつかは必ず終わりが来る。

それでも私は愛を食べたくて、また今日も懲りずに生きて願って、叶わなくてへこんで、でもまたあきらめられなくて、その繰り返しの中でまた愛を食べる瞬間を夢見る。

「愛を食べる」ーこれは生きている間だけの最高で最幸のお楽しみだなと思っている。

最強の娯楽と言ってもいい。

消えてはなくなると知っていても愛を食べる、思い出を作る。

「eat  LOVE」またの名を「人生の贈り物」という。




『eat LOVE』冊子より

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愛をもって感謝の心でありがたくいただけば、
どのような成り立ちの飲食物も、きっとそれと巡り会ったその瞬間の自分の最善のものへと変容する。
存在するあらゆるものの根本には愛だけがある。
愛を食べていれば大丈夫。
ぼくはそう信じている。

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