2015年11月30日月曜日

ミスの程度と対応

今の仕事、色々不満続出。

仕事内容の不満はそこまで強くない。

ちんぷんかんぷんなこと満載でも、もうそれは仕事の性質の問題だからあきらめもつく。

人間関係というよりも、諸々の対応の在り方にものすごくわたしは不満を抱いている。

例えば今日。

わたしのうっかりで、本来わたしでもやれることを「やれないこと」と勘違いし(業務が多すぎて

とてもじゃないけれど覚えられない)、違う人に引き継いだ。

そうしたらそれについてお叱りを受けた。

「あなたもやれることだから、やれることはやって下さい」

これはまだその通りだからわたしも納得。

その後に、「あなたがそれをしないことで、わたしの負担が大きくなる。その負担に答える余裕は

今後なくなる」と付け加えられた。

今こうして文章で書いてみると、これもごもっともな話だからわたしもそこでイラッとしなくても良い

ことだったんだと気付く。

それでもわたしは相手の発言を聞いてとてもイラッとした。

言い方もそうだし、自分がどれだけ大変かアピールが強くて、それに対して「じゃあお互いに気持ち

よく仕事するためにはどうする?」という部分が欠けている。

わたしの言い分も聞かず、頭ごなしに自分の窮状だけ訴え、だからあなたがもっとしっかりしたら

いいのよ、ってそれ違うでしょ?と思う。

わたしのうっかりがとんでもない大問題を引き起こしているのなら、まだわかる。

そういうレベルのものでないものも、とりあえず怒る、注意する、そしてうだうだと何か余計な言葉

を付け足して話す。

一番相手に伝わらない方法でお話されることが、不思議で仕方ない。

とりあえずガツガツと自分の言い分だけお話すれば相手に伝わると思っているのだろうか。

とにかく残念なコミュニケーションを取る人たちが多くて驚く。


今回の仕事を通じて知り得たこと。

とにかくこれまでどんな仕事でも、ものすごく人に恵まれていたこと。

わたしのうっかりややらかしは、今に始まったことじゃない。

だけど、これまでご一緒した方たちは実に寛容だったと思うし、フォローの仕方も上手だった。

基本的に「失敗から学べばいい、次に生かしたらいい」ということをとても自然に教えてくれる

人たちに囲まれていた。

やらかしても、まずは「どうしてそんなことになったのか、そのプロセスを聞く」ということをして

くれる人たちが実に多かった。

もう今のところでそういうことは求めてもいないけれど、それでもそういうフォローの在り方や、

実際にミスが生じた時の対応の仕方を見せてくれる大人たちに出逢えたのは、ものすごく幸運な

ことだったと思う。

もし今の仕事が社会人最初の職場だったら、終わっていただろうなぁと思う。

頭ごなしにがつがつ言っても、馬の耳に念仏状態になってしまう。

それよりも、何かあったらフォローしてもらえるという安心感と、その人には迷惑をかけられない

から、とにかく自分のできることは自分できっちりと責任を持って取り組もうという意欲、その2つを

とてもバランスよく与えてもらっていたと思う。

ないものねだりをしても仕方ないけれど、今はその両方が欠けていて、変なプレッシャーと緊張、

失敗してはいけないという圧迫感、何かあっても守ってもらえなさそうという不安、そんなものたち

で埋め尽くされている。

世の中にはこういう職場環境も存在するんだ、と別の意味でとっても感心している。

とにかく今は自分の精神安定のために、あれこれ気持ちを緩めることに余念がない。

2015年11月28日土曜日

1枚の重み

おとといから突然寒くなりだした。

一気に気温が下がり、そろそろ暖房器具もクローゼットから出さないといけないなぁと思う。

新潟にいた頃は、この時期暖房なんて当たり前、タイヤもスタッドレスへ交換済み、

そして早い年は11月中に雪が降る。

家から見える遠くの山には、当然のごとくてっぺんが白くなっている。

名古屋の冬はそこまで急激にやってはこないものの、この数日の冷え込みで冬を感じた。

さすがに羽毛布団1枚だけでは寝る時寒く、昨日の夜から毛布を1枚足した。

たった1枚の毛布なのにこんなにも温かさが違うとは、ものすごく新鮮だった。

眠たくて頭の中はぼけていたけれど、それでもその温かさにどれだけ救われたか。

たった1枚の毛布の威力を感じ、今日のブログのタイトルは「1枚の重み」にしようとひらめいた。


この1年は、瞬間瞬間はものすごくスローモーションのように過ぎる時もあったけれど、気付くと

1つまた1つと月が変わっていった。

気付けばもう11月が終わる。

台所で何かをしている時に、大体「あぁもう○月なんだ」と思うことが多かった。

正直、年の初めは、今の自分の姿や生活を1つも想像できなかったから、とりあえずここまで

これたことにものすごく感動している。

外は寒いし家の中も暖を取らないと寒くなってしまったけれど、この寒さに感動できるほどの復活

を遂げた気分だ。

自分の行き着く場所が全然思い浮かばなくて、考えることも考えられなくなって、次の一歩が

なかなか見出せなくて、本当に苦戦、苦戦の連続だったこの1年。

だから、ある程度何かを持って11月を迎え、さらに12月を迎えられるなんて夢のまた夢だった。

寒い冬が終わり、桜が咲く季節を迎え、梅雨、酷暑の夏、そして秋・・・といくつ季節を過ぎても

わたしは何も決められずにいた。

数年前、気に入って買った日付のスタンプの月を1つまた1つと手動で動かす度に、その月の

変更に全くついていっていない自分にものすごく焦った。

季節はめまぐるしく変化しているのに、自分は何も変化していない。

そして刻一刻と自分の決断の時が迫っているのに、何を決断して良いのかすらわからなかった。

だからこの寒い時期になった今を、とりあえず今日やること1週間後にやることがあるというのは、

この上ない喜びに満ちている。

決して好きなことばかりで全部が埋め尽くされているわけじゃない。

それでも何かしらすることがあるというのは、心強い。

とりあえずの羅針盤的なものを自分の中に持って進んでいる感じはある。

この羅針盤だって半永久的なものじゃない。

期限の付いてる羅針盤だ。

それでも羅針盤らしきものすらなかった今年の大半を思えば、それが1つあるだけでも気持ちの

持ちようが全然違う。

何に対して安心しているのか言葉ではうまく説明できないけれど、すべて未知の世界に今足を

踏み込んでいるのにも関わらず、なぜか安心感がある。

たった1枚の毛布が温かさを提供してくれるように、この羅針盤が得体の知れない安心感を

与えてくれる。

2015年11月26日木曜日

冬の空

今日は満月。

昨日から一気に冷え込み、今日はまた一段と冷え込んでいる。

さっきベランダに出て満月を探した。

東の方向に満月は浮かんでいた。

すっきりと晴れ渡っている空には、星もちらほらと見えた。

ザ・都会までいかなくても一面コンクリートのご近所で無数の星を見つけることは難しい。

でも、冬の空で空気が澄み渡っている晴れの日だと、いつもより少しだけ多く星が見える。

今日は満月の近くにうっすらと存在している星を見た。

北極星だろうか?

月のすぐ隣りにいつも陣取っている星があったと思うけど、何星かは忘れた。

新潟の空を思い出す。

実家の近くは、今のところに比べたらうんと街灯が少ない。

その分星もよく見える。

しかも新潟の冬の寒さは半端ないから、その寒さゆえの空気の透き通り感も名古屋とは比べ物に

ならない。

新潟の冬は、ほとんど晴れの日がない。

毎日くもりか雨か雪のいずれかだ。

だからわずかばかりの晴れの日の冬の夜空はとっても貴重だ。

そんな中で見る月は格別で、そして月のすぐ近くの星も新潟で見ると大きく見える。


月を見たのには理由がある。

ちょっと勇気の要る申込をネットで丁度するところだった。

最後の「申込」ボタンを押せば、申込は完了するというところだった。

それがどんな結果となるのかは、神のみぞ知るの世界だ。

だから少しばかりの勇気が必要だった。

その勇気をもらうために、ベランダに出て月を眺めた。

寒いから1分も外に立っていられなかったけれど、それでもその月と薄らぼんやりと見える星を

見てたら、もう結果はどちらでもいいと思えた。

結果がどちらに転んでも、また満月を見てはいいなぁと思ったり、過去の良いシーンを思い出す

きっかけになるだろうということがわかったから。

もちろん良い方に転じて欲しい。

でもそれは五分五分の賭けで、うまくいかない可能性だって十二分にある。

だからこそ月を見て心を落ち着けて、そして部屋に戻って「申込」ボタンを押した。

結果を聞くのは早くて明日、遅ければ週末。

もうどちらになっても、申し込んじゃったものは仕方ないと思っている。

またこれを書き終えたらもう一度外に満月を見に行こう。

満月見たって結果が変わるわけじゃないけれど、せめて気持ちだけでも満たすもので満たして

いけたらいいなぁと思っている。

2015年11月25日水曜日

なりたくない大人

日曜日の午後、スタバに行った時のこと。

iphoneの不具合を直すためにwi-fiの環境が必要で、そのために行ったスタバだった。

思いの外、設定に時間がかかって3時間半も滞在したのに、結局は最後まで直せずに終わった。

最後席が隣りになった中年の男女の組合せの会話がひどかった。

何せスタバの席の配置だ、隣りの会話は丸聞こえとなる。

女性の方には中学生の娘がいるとわかり、年は二人とも40代に見えた。

そもそもこの二人の組合せも何なのか、最後の最後まで謎だった。

夫婦ではないのはわかった。

でもかと言って、アバンチュールな関係でもなさそう。

じゃあ友達かと言えばこれもまた違う。

きょうだいということもないだろう。

仕事繋がりでもなさそうだった。

とにかくどんな繋がりのどんな二人なのか、全然最後までわからずじまいだった。

この二人の会話がひどいと言っても、男性の方は相づち以外言葉を一切発していなかった。

だから女側の方しか実際は話をしていない。

そしてその女の話が最初から最後までひどかった。

とにかく、ずっと誰か第三者の結婚か恋愛話しかしていない。

結婚か恋愛話が悪いわけじゃない。

悪いと感じたのは、自分以外の誰かの話をずっとしていたから。

それもものすごく親密な友達の話をしているのではなく、遠からず近からずみたいな人間関係の

中の誰かのうわさ話や聞きかじった話ばかりだったから。

悩みを相談されたことをまた相談しているという風でもなく、「○○はこの人との関係どうしよう、

って話しててさぁ、わたしはさぁ××て思うんだよね。でもそういうのって本人たちの気持ちが大事

じゃない!?・・・・・・」という具合に、本当にしょうもないことを話していた。

百歩譲って本人の悩み相談ならまだわかる。

なのに、全く関係のない人の人生を勝手に覗いて、それについてああでもないこうでもないと解説

しているという風なのが延々と繰り返されていた。

そして一通り話し終えると、「じゃあそろそろ行きましょうか?」と言って二人は去って行った。

それこそ全くの他人の人生について評価を下すなんて、わたしの方こそ余計なお世話だけれど、

こんな大人にだけは絶対になりたくないと思った。

日曜日、時間もお金も使って人と会っている。

その人と家族のようにずっと一緒にいられるのであれば、そこで聞いた話もありだけど、二人が

夫婦でないことは話の内容でわかった。

女は男性に「娘に、パパとママは何で一緒に寝ないの?って聞かれたけど、もう結婚して何年も

経てばそうなってくるわよ」と言っていて、あぁ夫婦ではないんだと確信した。

せっかくせっかくお互いの時間をすり合わせて会えているのに、こんなにも身も蓋もない話を延々

としてしまうなんて、ただただ呆れるばかりだし、そしてそれしか話題がもしないのだとしたら、

何とも悲しい大人だと思う。

他にもっと語り合うことがあるだろうに。

語り合えないような関係性なら、わざわざ時間作ってまで会わなくていいだろうに。

ものすごい消化不良を起こした話の連続だった。

あそこで相づちしか打っていなかった男性に聞いてみたかった。「話、面白いですか?」って。

年を重ねれば重ねるほど思う。

話の引き出しひとつ取っても、その人の生き様が表れるって。

2015年11月24日火曜日

相手を試し中

自分でもものすごく嫌らしいと思ったけれど、どうしてもどうしても相手の深層心理を試したくて、

今相手の出方を見守っている。

これが恋愛だったら苦しい駆け引きになるけれど、仕事だからそういう苦しさはない。

代わりに、こちらの期待から大きく外れた場合、それはそれでショックだろうから許容範囲内で

相手が対応してくれるといいなぁと思っている。

元々誰かを試すようなこととか心理的駆け引きは得意じゃない。

隠し事も下手だし、嘘も上手に使える場面と嘘の一つも言えない場面とがある。

今回そもそも相手を試そうと思ったことには理由がある。

1ヶ月近く口で約束されていたことがあった。

その口約束を条件に、わたしもその仕事の契約を結んだ。

口約束の部分は、わたしにとってとっても重要なことだった。

それは相手も知っての対応をずっとしてくれていると思っていた。

ところが直前になって、その約束は180度全く別の方向に転換されることになった。

そしてその方向転換に関し、「所詮他人事ですから」と言い放った相手にわたしはものすごい

不信感を抱いた。

聞き間違いであって欲しかった。

この数回の話し合いの場は何だったのだろう?と思った。

わたしが何度も懇願していたこと、何度も口に出して言っていた希望は何だったのだろう。

方向転換された内容よりも、それに関してOKのサインをずっと出しておきながら土壇場で変更し、

さらにそれに対して他人事と言われたことにわたしはショックを受けた。

仕事云々よりも、人としての部分にわたしは大きな疑問を抱く結果となった。

そこで大きく何かが崩れてしまったことはもう仕方ない。

気持ちを切り替えようと自分でも思っている。

そこでわたしは、もう1つの賭けに出た。

賭けと言っても、自分が担当する仕事の部分の質問を投げかけて相手の返事を待っているだけ。

実はこの返事も延びている。

しばらく様子を見ていたけれど、返事が来ないからもう一度わたしは連絡をした。

その返事がどんな風にくるのか、どのタイミングでくるのかを見守っている。

これ以上がっかりするような結果を招きたくないけれど、もし招くことになったら・・・。

それはその時に考えよう。

昔からそうだけど、仕事上のミスは人の命に関わること以外は、基本仕方ないと割り切っている。

人間がすることだから、わたしもそうだし他の誰かも間違うことはある。

ただ大事なのは、その間違いやミスが起こった時に、どう向き合ってどう対応するかだと思う。

そういう時こそ人間性がものすごく問われる。

間違いが悪いのではなく、その後の対応が悪ければ仕事全体も悪い方に足を引っ張られる。

逆に間違ってもその後の対応が良ければ、その後も何だかんだと良い具合に回っていく。

もうどうかそこが外れませんように、と今は祈るばっかりだ。

大きなはずれがやってきたら、もうその時は仕方ない。

さっき書いた通り、そうなったらその時に考えよう。

2015年11月23日月曜日

酔っぱらい奇行記

のんべえ友達と久しぶりにたくさん飲んだ。

1軒目のチョイスを誤り、そそくさと2軒目へ移動。

2軒目では1リットル入りの焼酎やかんが有名で、ぜひそこに行こうとなった。

水割りで一人5杯以上は飲んだ。

ただ閉店時間が早く、そこも中途半端すぎてもう1軒で〆ようとなり、小袋が食べれる中華料理屋

に行った。

2軒目から3軒目へ移動する時、片道3車線の大きな幹線道路を渡ることになった。

横断歩道はとりあえず100m以上先。

でもわたしたちが行きたいのは道路向こうのすぐ目の前。

日曜日の夜だから車も通っていない。

二人で「行っちゃおうか!?」と互いに言葉で確認し、わたしたちは中央分離帯の植木をまたいで

道路の向こう側を走って目指した。

中華料理屋も初めて行くところで、とりあえず「小袋があったら入る、なかったら別の店へ行こう」と

なって、小袋のあるなしを確認。

あるとのことで店内に入る。

実はこの辺りからわたしの記憶は怪しくなる。

小袋もぎょうざ一皿もビールも憶えているけれど、味なんててんで憶えていない。

おいしかったのかそうでなかったのかもわからない。

二人で何の会話を交わしたのかさえ憶えていない始末。

友達いわく、この辺りでわたしは「気持ち悪い」と言い出したらしい。

じゃあ帰ろうかとなり、まだ余裕で自分の家に帰れたのになぜか友達の家に向かった。

その辺りもどうして友達の家に泊まろうとなったのか定かではない。

たくさんの出口のある駅だったけど、一体どの出口の階段から地下鉄に下りたのかも全然記憶に

なくて、気付いたら友達の最寄り駅だった。

この辺りは、わたしはとりあえず横になれる安心感からか気持ち悪いのは収まったと思われる。

代わりに友達がものすごく具合が悪くなっていた。

トイレで吐いてくるという友達にわたしはとりあえず改札出て待ってると言った。

これは何かしら二人とも飲まないと翌日がひどくなることは、いくら酔っぱらっている頭でも十分に

理解できた。

しばらく出てきそうにない友達を置いて、すぐ近くのコンビニでヘパリーゼを2人分購入した。

店員のおばさんがわたしの横にぴったりとついてヘパリーゼを買わせてくれた。

にも関わらず、わたしはその後高級ヘパリーゼをどうしたのか憶えていない。

飲んだのかその辺に置いてきてしまったのか、でも朝起きたらコンビニの袋があったから飲んだ

ものと思われる。

改札に戻っても友達の姿はなく、駅員さんに友達がトイレで吐いていて戻らないと訴えたら、

迎えに行って下さいと言われ、わたしはもう一度改札の中に入り友達を迎えに行った。

丁度トイレから出てきた友達と、さぁ早く家に帰って寝よう!と言い、おそらくこの辺りでは2人共

無言で家路に着いたに違いない。

友達は家のトイレでも激しく吐いていたけれど、眠さと酔っぱらいの疲れとでその音さえもすぐに

耳に入らなくなり、次に起きた時は朝の4時過ぎだった。

二度寝をして、7時過ぎに目覚め、さらに三度寝をした。

気持ち悪いことが自分でもわかった。

完全なる二日酔いだった。

とりあえず荷物の確認をしようと思い、かばんの中を見てこれまたびっくりした。

何を思ったのか、かばんの中身をすべてスーパーの袋に移していた。

通常の思考回路では到底できない摩訶不思議なことを、酔っぱらいの頭は遂行していた。

一通り見て、携帯電話と別の友達からプレゼントされたタオルがないことに気付いた。

携帯電話がないことに青ざめ、かばんの隅から隅まで、そして例のスーパーの袋を透明にも

関わらずもう一度中身を取り出して見たけれどない。

携帯がないことに冷や汗をかいたけれど、立ち上がってみるとなんとちゃっかり友達の家の電気を

借りて充電していた。

しかも100%充電となっていて、一体いつ充電をしたのかさえ憶えていない。

結局友達からもらったタオルはどこかに置き忘れたのだろう。

プレゼントしてくれた友達にタオルを失くしたと連絡したら「飲んで楽しかったらいいじゃないの~」

と明るい返事が返ってきた。

わたしより重度の二日酔いになった友達は、ベッドで布団かぶりながら「ぶっしーまたね」と挨拶

するのが精一杯だった。

1日静養コースの二日酔いの様子だった。

二人で飲み過ぎたねと言いながらも、またいつかの時はこうして飲み過ぎるんだろうなぁと思い

ながらわたしは朝の電車に揺られて自分の家を目指した。


大人になればなるほどわかる。

ここで言う「大人になる」というのは、単純に年齢を重ねるという意味での大人になるということ。

年甲斐もなくがしがしと飲んで食べてしっぽりと人生の話をして、そして二人でもれなく二日酔いを

経験して、中央分離帯の植木をまたいだり、げえげえ吐いてみたり、そういうことができる友達を

持てること、そういう友達と時を共有すること、それがどれだけすごいことなのか。

7年8年の付き合いの友達になるけれど、上っ面の人間関係ではなくてお互いに格好悪いところも

至らないところもそのまま突き出してがはがはと笑い合えるというのはすごいことだと思う。

タオルをプレゼントしてくれた友達は二人の共通の友達だけど、その友達も二人だったら絶対に

楽しく飲むというのを知ってくれているから、良かったじゃないと言ってくれる。

もちろん3人で飲み交わしたこともたくさんある。

多くを語らなくても、たった一言「二人で飲んだ」と言えば伝わる。

逆に、その友達と二日酔いの友達が二人で飲んでも、わたしは同じように二人のお酒を楽しむ

姿をとても簡単に想像できる。

今窮屈な人間関係に身を置いていることもあって、余計とこの解放感たっぷりの人間関係に

ものすごく助けられている。

窮屈な方ではわたしは自分のことを1つとして語らない。

聞かれたことは最低限答えるけれど、それ以上は何も言わない。

言ったところで伝わらないだろうというのもある。

でもこの飲み友達と言い、そう頻繁には会えなくてももう何年にも渡って仲良くしている友達とは

自分の人生や自分の今のことを話せる。

安心して話せる。

すごい失敗をしても、それすらも一緒にがははと笑い合える、または一緒に泣ける。

二日酔いは最低だったけれど、二日酔いになった故気付けた人間関係のありがたさもあったから

総じてとても良かったと思っている。

2015年11月22日日曜日

小さな花壇の物語

うちから2ブロックほど北上したところのお宅に小さな花壇がある。

幅は50cm程度で長さが3mほどだろうか。

家のすぐ脇にその花壇はあり、そして花壇の脇は公道だから、家と公道の間の小さなすき間が

花壇になっている。

本当に小さな小さな花壇ではあるけれど、この花壇が実に素晴らしい景観を伴っている。

どうやらそのお宅は2世帯住宅で、下に老夫婦、上に子ども夫婦という風で、下の老夫婦がその

花壇をいつも丁寧に世話している。

そちらの方角はスーパーに行かない限り通らない場所で、だからそもそも月に3~4回程度しか

通らないけれど、それでも月に一度は老夫婦が二人で花壇の世話をしている姿を見かける。

その二人の掛け合いも面白くて、綾小路きみまろが喜んでネタにしそうな掛け合いだ。

じいさんもばあさんも、都合が悪くなると互いに「おまえが悪い」と言い合っている。

それでも何だかんだ言いながらも、二人の協力の手は止まず、最後にはきれいに整えている。

春には桜、夏から秋にかけてはバラ、そしてそれ以外にもホームセンターで買ったと思しき花たち

が彩りを添えている。

本当に手を掛けられた花壇だというのが通っただけでわかるから、いつもそこをチェックするのが

わたしにとっては楽しみの1つでもある。


さかのぼること3年前の春。

知り合って半年ほどのとても気の合う年上の女性を我が家に招待した。

うちから一番近い大きな駐車場があるスーパーに車を止めてもらい、うちまで一緒に肩を並べて

歩いた。

途中でそのお宅の花壇の横を通りすぎた。

その時に、「わぁ~きれいね~、この桜」と二人でその年初めての桜を一緒に見て感動した。

小さな花壇だから桜も小ぶりだけど、その年初めての桜をものすごい至近距離で見ることが

できたわたしたち二人は感嘆の吐息をもらした。

あれ以降も何度もうちに寄ってもらっているけれど、その花壇の脇を通る度に二人でその花壇に

目をやり、その時々の花のきれいさに心を奪われている。

もちろんその花の姿の裏には、例の漫才のような老夫婦の手が加わっているからこその美しさ

であることは間違いない。

どうしてだろう、わたしはその老夫婦の姿を見ているからわかるけれど、年上の女性はおそらく

一度も見てなくてもそのきれいさがまっすぐに伝わる。

花が大好きな方で、そのお宅の花壇だけは唯一足を止めて何かしらの感想を述べている。

他にも立派な庭のおうちもあるのに、その家の小さな花壇だけがなぜかいつもその女性の心を

奪っている。

今は冬に向けて枯れ木や枯れ草は取り除かれ、バラ用の手作りの支柱とこれからどんどん葉っぱ

を落とす小さな桜の木だけが取り残されている。

少し寂しくなった花壇の脇を通り過ぎ、今日は彼女とのやりとりを思い出していた。

花壇からは華やかさが失くなっているけれど、心の中は温かい思い出でいっぱいになっている。

2015年11月21日土曜日

好きな音

先日初対面に近い方々に普段どんな番組を見ているかだったか、そのような質問をされた。

テレビを持っていないと正直に答えた。

テレビなし生活ももう6年は過ぎたかと思う。

実家に帰ればテレビがあるから暇さえあればずっとテレビを見ている。

テレビが嫌いなわけでは全くない。

むしろ好きな方だ。

だけど、なければないで生活できるもので、なくても全く気にならなくなった。

続いて「家に帰ったら、無音ですか?」と聞かれ、そうですと答える。

わたしも子どもの頃、家にテレビを置いていないという噂の先輩の家を思っては、一体全体

どのようにして日々を送っているのか不思議でたまらなかった。

面白いアニメやドキュメンタリーやドラマ、あれらを見ずにどんな風に家の中の生活が回るのか

テレビっ子のわたしには全くと言っていいほど理解できなかった。

だから、テレビがないと言うと、9割の人には驚かれるのはいつも想定内だ。

ちなみにテレビなしの生活は始めてみるとすごく快適で、わたしが自分一人だけで暮らす間は

これからもテレビを買うつもりはない。

冷蔵庫並みにないと困るのであれば買うけれど、今のわたしにとってテレビはなくても困らない

ものになっている。

くだんの質問の「無音ですか?」で思い出したことがひとつある。

わたしは生活の中に存在する音がすごく好きだ。

例えば今なら、一文字一文字ノートパソコンのキーを打ち出す音が好きだし、パソコン内部から

発している「働いていますよ」的アピールの音は好きではないけれど生活の一部になっているし、

朝なら鳥の鳴き声、風や雨の音も好きだし、料理の時に生まれる音も好きだ。

亡くなった祖母が使っていた小さな目覚まし時計の秒針の音も時々耳に届く。

お湯を沸かす時の音や、ホーロー鍋からカップへお湯を注ぐ音も好きだ。

シャワーの音も好きだし、寝返り打つ時の布団がぱさぱさ言う音も好きだ。

さすがにそんなことは説明しなかったけれど、気付くと日々の生活の中にたくさんの好きな音が

溢れている。

たしかにテレビはないけれど、完全な無音ということはありえない。

何かしらの音が必ず耳に毎瞬毎瞬届いている。

そしてそれら生活の中から生まれる音は、子どもの頃からずっとなじみがあっていつもほっとして

心を和ませてくれる。

2015年11月20日金曜日

生きていることにむしょうに感謝したくなる日

everydayレベルで色々と嫌なことや厄介なことがある。

どうも頭がパンクしているようで、すぐに寝落ちするけれどきちんと眠れた感じがないまま、5時間も

すると目覚めることが増えてきた。

そんなこんなの日々を1ヶ月半ほど過ごしてみて、たまにむしょうに生きているだけで何だか

ものすごくありがたくて泣きたくなってしまう程に感動して感謝したくなる瞬間がある。

とにかく1日が無事に終わってくれたこと、色々あってもとりあえず何とかなってくれたこと、そういう

ことにただただ感動して、泣きたくなってしまう。

いつからここまで感動できる自分になれたのだろう?と思う位に、普段の自分からは考えられない

位に謙虚でものすごく静かに自分の命や今あるすべてのことを感じている。

そういうことを感じだすのが先なのか、摩訶不思議なことが起こる方が先なのかわからない。

だけど、最近摩訶不思議なことがたくさんある。

例えば今日も、夜も8時を回り、近所のスーパーの半額を狙って店に向かう途中、なんと真っ暗な

空のところに白い数羽の鳥が飛んで過ぎ去っていった。

夜行性の鳥なのかもしれないけれど、まずその夜の8時台の暗さの下で、白く見える鳥数羽が

飛び去るなんて初めて見た。

今日のお昼には、物乞いのおじさんに会った。

人生で初めて物乞いの人に500円玉を渡した。

それはわたしにとって、本当に色んなことを教えてくれた出来事だった。

そのおじさんの登場によって、わたしが自分の中で色々考えたことの深みは他に類を見ない。

500円を払って、人生において大切なことをわたしが学ばせてもらったと言っても過言ではない。

物事の善悪なんかを通り越したさらに先のことをわたしは知る結果となった。

こういう摩訶不思議なことがぽつりぽつりと人生の中に現れてくるようになった。

もちろんこれまでだってそういうことは沢山あった。

だけどそれらの1つ1つが生きているからこそ経験できることだというのは、最近感じ始めたこと。

だから、別に何がなくても、むしろ何かよろしくないこと不都合なことがたくさん起こって、それでも

人生が回って自分もなんとなく生きていることに感動するのかもしれない。

2015年11月18日水曜日

過去と今と未来と

ある方にメールで資料を送るついでに、以前見てみたいと言われたメキシコの遺跡の写真も送ろう

と昔の写真のデータを引っ張り出してきた。

他にもすることが控えていて、のんびり悠長に写真を眺める時間はなかったけれど、20~30枚

程度は探すついでにぱらぱらと眺めた。

今となってはどこがどれで、それが何の食べ物なのか、思い出せないものもたくさんあった。

一応後で見返した時にわかるように、場所別に写真をまとめるようにはしておいた。

それでも、こんな所も行ったんだ、と自分が行ったくせに初めて訪れる場所のごとく写真を見て

感じたところもあった。

その写真の中には当時の自分がいる。

充実度で言ったら、当時の方が断然上だ。

人も仕事も本当に恵まれていたと思う。

それに比べると、今は人はもう史上最悪と言わんばかりだし、仕事も自分が好きでやっていること

は問題ないけれどそうではない部分はこれまた史上最悪な感じだ。

色んな意味でうーんと唸りたくなるような状況に今身を置いているけれど、不思議と当時にもう一度

戻りたいとだけは一度も思わなかった。

当時は当時で大変だったことも当然あったからそれが嫌とかそういうことではない。

でも何でだろう、もう一度あの頃に戻りたいとだけは全然思わない自分がいる。

今が充実しているからということではなくても、何となく戻らなくてもいいと思う自分がいる。

昨日新しく嫌なことというか困ったことが起こった。

久しぶりに誰かに対して怒りを感じ、そして良い人と思っていた分だけ失望もした。

わたしに人を見る目がないのだろうか?と思う位に、失望するような発言が飛んできた。

このことにはもうしばらく自分の中で悶々とすることだとは思うけれど、だからと言って、その昔の

良き時代良き場所に戻りたいとは思わない。

今だっていつかは過去になるし、いつかはこのことも笑い話に自分はするような気もしている。

どんなに悪い日でも、いつかはすべて終わってしまうということが感覚の中に生まれてからは、

なぜだろう、過去に戻りたいとも早く未来に向かいたいとも思うことが一切なくなった。

それがすなわち「今を生きる」ということなのかはわからない。

正直それもどこか違うように感じる瞬間の方が多い。

時々自分がどこにいるのかわからなくなる時がある。

いつも目にしている風景であっても、ふと自分がなぜ今ここにいてこんなことしているんだろう?

って不思議な気持ちに突然なることがある。

その感覚がある以上は、どこかに戻りたいとは思わないようになっているのかもしれない。

自分の居場所がわからなくなる感覚と過去に戻りたいと思わない感覚のどこに共通点があるのか

説明なんてできないけれど、その2つが1つのセットのように自分の中に存在している。

2015年11月15日日曜日

世の中でたった1人しか呼ばない愛称

17時半と言えば真っ暗に近い夜空に、黄金色の三日月が浮かんでいた。

その三日月を見て、別のブログで小学生の男の子と一緒に見た三日月の話を書こうと決めた。

その男の子の名前をどんな仮名にしようか考えて、「フウ」にすることに決めた。

「フウ」とカタカナで出てきたから最初はぴんとこなかったけれど、「フウ」を「ふぅ」とその韻を頭の中

で反芻したら「あ!」と初めて気付いた。

世の中でたった一人だけわたしを「ふぅ」と呼ぶ人がいる。

母の妹であるおばさんの一人だ。

おばさんは、わたしは「ふぅ」、妹は「ゆぅ」、いとこの一人は「みぃ」と呼ぶ。

他の甥っ子姪っ子はそのまま呼び捨てだったり、「ちゃん」をつけたりする。

わたしたち3人だけがなぜか名前の頭文字を伸ばした形で呼ばれる。

妹の「ゆぅ」は、父もそう呼ぶことがあるから特別珍しくはない。

いとこの「みぃ」も他にそう呼ぶ人はいる。

だけどわたしだけは、そのおばさん以外に「ふぅ」と呼ばれることはない。

これまで出逢った人の数が一体どのくらいかなんて想像もつかないけれど、その中でもわたしを

「ふぅ」と呼ぶのはおばさんだけだ。

突然、「ふぅ」という韻がとても特別な響きに聞こえ、そして泣ける位に心いっぱいに広がった。

自分が生まれた時からそうやって呼ばれてきたんだと思う。

気付けばいつもそう呼ばれる。

大人になった今ももちろん同じ呼び方で呼ばれる。

「愛されている」なんて普段考えもしないけれど、「愛されている」自分の存在をものすごく強く

感じた。

2015年11月14日土曜日

個性光る表現

毎週チェックしている占いがある。

多分その文章を書いている占い師さんは男性だと思う。

切り口がすぱっとしているのにどこか柔らかさがあり、その文章にいつもぐいぐいと惹きこまれる。

毎週月曜日の更新が楽しみで、チェックを欠かさない。

何週間か前の文章に、すごく素敵な表現があった。

「ゆずを食べて体を温めよう」みたいなフレーズだった。

体を温める食材は他にもたくさんある。

たくさんあるけれど、その中で「ゆずを食べて温める」と提唱した人には初めて出逢った気がする。

「体を温める」みたいにありきたりなことを言う時、ものすごくその個人の人のセンスが表れる。

そこにあえて「ゆず」を選ぶあたりが、個人的にものすごくツボだった。

この表現いいなぁと思った。



話は変わって、このブログ、本日5つ目の文章になる。

さすがに5つも、それも朝からずっとに近いから4時間程書き続けることはあまり楽しくない。

何事も多くやればいいというわけではなくて、適量があると思う。

今の頭の回転では、「ゆずを食べて体を温めよう」なんていう素敵な発想はできそうにもない。

それよりも少し自分を休めて、全然別のことをした方がまた書く気力もひらめきも湧くだろう。

自分のこういうパターンを見ながら、今徐々に自分なりの戦略を立てている。

どうすると書きやすくて、ひらめきも出てきて、気持ち良く書けるのか。

反対にどういう条件が重なると、書くことが嫌になってくるのかも。

こういう見極めの作業は意外に楽しい。

何をしているわけでもないけれど、1つまた1つと何か知っていく、自分のことを今よりも理解して

いく、そういうプロセスは相変わらず好きだなぁと思う。

2015年11月13日金曜日

小さなはじまり

今、写経もどきにはまり出した時がいつだったのかを調べた。

2年前、2013年の夏の日付のスタンプが押されていた。

当時していた仕事の帰りに、時々少しだけ遠回りをして大きな図書館に寄っていた。

すごい蔵書の数だけど、意外にもあまり「これだ!」という本には出逢わない場所でもあった。

だけどそこで夕暮れを見ながら一人で気に入ったフレーズをひたすらノートに書き写す作業は

何だか粋で楽しかった。

あの辺りから異常なほど写経もどきにはまり出して、おそらく1000枚近い紙にひたすら写した。

普段あまり見返すこともないけれど、当時のことはとてもよく憶えている。

こんなことにはまって何になるんだろう?とだけはずっと思っていた。

やっていることは好きだし、無駄という風にはさすがに思わなかったけれど、かと言って何になるの

だろうか?なんて考えだすと、どうも何にもならなさそうという答え以外見当もつかなかった。

自分が喜びそうな答えは見つからないままだったけれど、それでも気に入った言葉を書き写す

のは好きでその後もそして今も続けている。

今は当時に比べたらかなりスローペースになった。

それでもやはり好きは好きだから続けている。


あれから2年経って、まさか本当に書くことを始めるとは思ってもみなかった。

その書くことだっていつまでやり続けたいかなんてわからないし、わたしのことだからある日突然

飽きてもう何も書かないということだって十分ありうる。

それでも、今度は誰かの言葉を書き写すのではなく、自分で自分の言葉を紡ぎ出すようになる

とは本当に驚きの展開だ。

あの写経もどきが今に繋がっているのか、もっと別の何かに繋がっているのかはわからない。

だけど、あの日々の積み重ねがやがて別の形に今なったことは紛れもない事実。

人生どこで何がどう転ぶかなんてわからないなぁと、これまた何度人生でそう思ったことかもう

わからない位の回数思ったことを今日も思う。


いつだってはじまりは小さなはじまりだ。

それも、ふと思い浮かんだことをちょっとやってみた、程度の小さなはじまり。

小さく始めたことは無理がないから、気付くとけっこうな大がかりなものに仕上がったりする。

大きく始めたことは全然長続きしなかったわたしだけど、意外にいつ始めたんだっけ?と

振り返らなければいけないようなものは、淡々と続いている。

無理するつもりもないし、気が向いた時だけする程度だから良いのかもしれない。

2015年11月11日水曜日

楽しみが1つ失くなった

いつもより2時間ほど遅れて、夜の最寄り駅に降り立った。

一緒にスタートした人と肩並べて愚痴り合い、その後ぷらぷらとウインドーショッピングを楽しみ、

電車に揺られそしていつも見慣れた最寄り駅に降り立った。

いつもと同じ光景が目の前に広がるはずだった。

もう何年もこの時期には変わらないものがあるはずだった。

少なくとも昨日の夜はあった。

今日の昼間のいつかの時間に切られたのだろう、これから一番きれいな時期を迎えるはずだった

イチョウ並木のイチョウの木がすべて丸裸にされていた。

本当にこれから12月の頭にかけてが一番きれいなイチョウ並木になる道だ。

最寄り駅を出てすぐの大通りは、道路と大きな建物か店しかなく、コンクリート一辺倒だ。

そのコンクリート一辺倒のところを毎年鮮やかにするのが、そのイチョウ並木だった。

たしかに、毎年おおよその葉っぱが落ちると枝を切る作業はしていた。

だけどそれは本当に木が半分以上裸んぼになってからのこと。

これから一番の最盛期を迎えるというこの時期に、イチョウの枝がすべて切り落とされるのは

前代未聞だ。

誰の決定なのだろう。

どこの誰の決定かもわからないけれど、このイチョウ並木の良さを全く知らない誰かが、その姿を

一度も拝むことなく、今日作業日にしようと勝手に決めたのだとしか思えない。

これがかの有名な河村市長なら、そんな全国に名を馳せる前に街の景観を残すための配慮を

先にして欲しかった。

それにしても、一体どんな理由で今年はこんなに早くイチョウの枝を落とすことになったのだろう。

わたしは自分の住んでいる地域のことなど何一つ誇るものがないけれど、このイチョウ並木だけ

は他の何にも代え難いぐらいに素晴らしいものだと思っている。

どんどん寒くなって息も白くなって・・・という頃、冬の澄み切った空気の中に黄色が鮮やかに映る

あの光景がたまらなく好きだった。

青い空の中に生える黄色も、夜のスポットライトに照らされた黄色も、どちらもとても素敵で、毎年

毎年それはそれは楽しみにしていたことだった。

毎年この時期だけは、日々その通りを歩きながら眺めるのが好きで、疲れて家に帰ろうとする日

でも、そのイチョウ並木を見るだけでなんだか心が洗われるような気がしていた。

ほんと誰の決定なのだろう。

誰かは知らなくても、この良さを知っている人ではないことは一目瞭然。

知っている人なら、絶対にこんなに早い時期に切り落とす決断などできなかっただろう。

まして雪が降るわけでもないのに、なぜこれから!というこの直前の時期に切り落とすのか。

人間って勝手だなぁと思う。

特別何も施さなくても、葉っぱは勝手に時期が来たら落ちる。

木は勝手に丸裸になる。

何でその自然の摂理を守れなかったんだろう。

誰に迷惑をかけているわけでもないこのイチョウたちを切り落とす意味なんてあったのだろうか。

失われた楽しみ。

また生えてくるけれど、今年もたっぷりと堪能したかったイチョウ並木だけあって、何とも言えず

切なさが込み上げる。

2015年11月10日火曜日

ばばちゃんの命日 2015

2007年11月10日 21:27 祖母ばばちゃん永眠。

今日は2015年の11月10日だ。もう8年も過ぎた。

ばばちゃんと会えない時間が8年分積み重なったと言うのに、そんな気は全然しない。

時々思い出すからかもしれないけれど、元々一緒に住んでいたわけじゃないし会えても年に数日

だけだったから、8年も会えてないという感覚がないまま8年も過ぎ去った。

この日は毎年色んなことを思い出すけれど、今年はやたらと最初のお墓参りの場面を思い出す。

あれが一体何の行事なのかは今もわからない。

というのも、ばばちゃんの住んでいたど田舎のその集落では、葬式にかけるエネルギーも半端なく

何日にも渡って色んな式を行うのが定例のようだった。

だからそのお墓参りの場面も、一体何でそんなことをしたのかはさっぱり思い出せない。

しかも通夜から初七日に至る1週間の間の出来事だったから、まだばばちゃんの遺骨は墓には

入れない。

だけどあの11月の冷たい雨の降る日、たしかにみんなでお墓参りをしたのだった。

その場面で鮮明に憶えているのは、3人のおばあちゃんだった。

近所と言うには遠すぎる近所に住んでいるおばあちゃんたちなのだろう。

隣りの家まで50メートルは裕にある土地柄故、近所と言っても数分なら「近く」て、歩いて10分

以上かかったとしても不思議ではない。

何せ隣りの家もそんなに離れているから、私はばばちゃんの家の近所さん達を見たことがない。

ばばちゃん一家はそれはそれは横の繋がりが強いだろうけれど、わたしのように年に1度ないし

2度しか訪ねないような外孫には近所の相関図など知る由もない。

だからあの日の3人のおばあちゃんたちもどこからやってきてくれたのかはわからない。

3人ともそれぞれ1輪ずつ花を持っていた。

その花だって葬儀屋さんが渡してくれた花じゃない。

各自が家から持参した花だ。

片手には傘、もう片手にはお墓に添える1輪の花を持って3人とも横並びに立っていた。

寒い中、親族一同がぞろぞろと墓場にやってくる前から待ち構えていたような気がする。

わたしもそのおばあちゃんたちと二言三言言葉を交わしたような記憶がある。

それよりも3人が1輪だけ花を持って立って待ってくれていた様子の方が強烈に記憶に残り、

実際のやりとりは大まかにしか憶えていない。

おばあちゃんたちはぽろりと涙を流したり涙目になりながら、ばばちゃんの死を偲んでいた。

年をとったから死ぬのが当たり前じゃなく、本当に一人の人の死を気持ちのままに悲しんで、

そしてその気持ちをわたしたちにも言葉で伝えてくれた。

たくさんは話していない。

だけどあの瞬間瞬間が今も、8年経った今も、ものすごく鮮明に残っている。


ふと自分がどんな風になりたいか?とこの間人に聞かれた時のことを思い出した。

わたしは有名になりたいも何かを成し遂げたいもなく、本当に何もぱっと思い浮かばずにいた。

でも例の3人のおばあちゃんの姿を鮮明に思い出した時、自分もあんな風に誰かの死を心から

悲しんだり、悲しめるだけの人間関係を誰かと築きたい、特にうんと年を取ってからそういう自分

でありたいと、それだけはものすごく強く思った。


今日は空が澄み渡っているらしく、名古屋の明るい空の下でもいくつか星が見えた。

ばばちゃんの死の後、日本からドミニカに戻る時、飛行機の中からすぐ自分の真横に見た

オリオン座を思い出した。

すんごく遠くにしか見えないオリオン座が、すぐ自分の真横にあった。

自分がいる高い位置よりももっと遠くにばばちゃんはいるのだろうけれど、あの時だけは

ばばちゃんがものすごく近くにいるように感じた。

今日見えた星も全く手に届きそうもない高さにあったものの、ものすごく久しぶりに見えた星たち

に、ばばちゃんの存在がふっと浮かび上がるようだった。

2015年11月9日月曜日

困ったiphone

子どもの頃『こまったさん』というシリーズの物語がとても好きだった。

話の内容は忘れたけれど、毎回こまったさんは何かにこまってそれを解決していく、というような

話だったと思う。

それはそうと、本当に困ったのはiphone。

今日の困ったは、携帯の画面に変な操作する画面が現れて、それが何をしても消えない。

普段は自分が撮った写真が画面の背景になっているのに、今はその意味不明な操作画面が背景

になってしまった。

自分がどんな操作をしてそのような画面背景にしたのかがわからないから困りものだ。

そもそものその画面を消す又はキャンセルする方法を知らない。


先日iphoneを修理に出してきた。

実際は、修理ではなく交換となって終わった。

ただその担当者の話の意味がさっぱりわからなかった。

担当者いわくわたしのiphoneは、iphone本体が壊れているのではなく、中のシステムが痛んで

いてそれにより不具合が出るとのこと。

ちなみに不具合の例としては、ネットが突然遮断される(←これはまだ序の口)、一番困っていた

のは、電話が突然切れてしまうことやエコーしてしまうことだった。

「もしもし」と会話が始まったかと思えば次の瞬間、

「もしもし、し、し、し、し、し、し、し、し、し、し・・・・・」

という具合に相手の声はエコーするわ、わたしの声は届かないわ、の大惨事となった。

で、それらがiphoneの本体ではなくシステムの問題だと言う。

「ウイルスに感染しているとかですか?」と聞いたら、ウイルスに感染しているのとは違う、中身の

具合がよろしくないから本体を交換してもまた再発する恐れがありますと言う。

再発したらどうしたらいいんですか?と聞けば、その時はコールセンターに電話して本体を初期化

してくださいと言われた。

もうハテナ?ハテナ?ハテナ?のオンパレードだった。

担当者の説明は悪くなかった。

難しい単語は少なかった。

だけどわたしの知識が丸っきりないところに説明されても、てんで的を射ない。

今回の一連のサービスで一番理解できたことは、もう次の春で保険が切れるからその後仮に

壊れた場合、修理に出すよりも機種交換した方が安く済むということだった。

だから後は極力長く無事でいてくれることを祈るしかない。

保険も2年間のものしかなく、買った時に店員さんに「2年後に保険の延長はできないんですか?」

と聞いたら、「その後は壊れていく確率が上がるので、最長2年なんです。そして壊れたら次の

ものに変えてもらうことを企業側は意図しています」と返ってきた。

ガラケーの時は何年も携帯電話というのは使うものだと思っていたから、当時は言われても

さっぱりぴんとこなかったけれど、今はなるほど納得している。

まさか本当にその2年以内に保険を使うようなことになるとは思ってもいなかった。

関係ないけれど、エアコン関連の仕事に就いていた時、今時の機能満載のエアコンは壊れやすい

と聞いた。

昔のようなただ冷やす、タイマーをつける程度の単純明快な装置ではなくなった今、その諸々の

便利機能のせいで壊れやすいのだと言う。

実際にお客さんからも、昔の方が10年20年、がんばれば30年使えた頃の機械の方が良かった

と聞いた時も二度三度じゃない。

中には、そういう単純機能のエアコンを復活させて欲しいとリクエストを出してきたお客さんまで

いた位。

iphoneも機能満載はいいけれど、それが故障を引き起こすのであれば、単純な作りでもいいのに

とわたしなんかは思ってしまう。


ちなみにAPPLE STOREで驚いたことの1つ。

なんとメモ用紙が用意されていない!

途中でIDの設定やパスワードの設定を余儀なくされ、当然新種のものはメモに残さなければ

100%忘れる。

手持ちの適当な紙がなく、店員さんに「メモ用紙をください」と言ったら、「メモ用紙ですか?」と

聞き返されたほど。

本当にメモ用紙なるものを用意していないらしく、何かの規約が印刷された紙を渡されて、この

裏面をご利用下さいと言われた。

何もわたしだけ特別にメモが必要ということもないと思う。

全体の1割ぐらいは、わたしみたいに超アナログ人間もいると思う。

なのになぜメモ用紙がない、APPLEよ!

時々Steve Jobsが本当に目指したものはこういうものだったのかな?と疑問に思うことがある。

わたしのような困ったさんを増やすための製品じゃなかっただろうに。

利便性とデザインを求めた先に、不自由ががっつり待ってるだなんて…。

2015年11月8日日曜日

きちんと出逢うようになっている

金曜日、今取り掛かり中のプロジェクトの担当者の方と会ってきた。

このプロジェクトも突然降って湧いたような話で、今振り返っても不思議な流れで運ばれてきたなぁ

と思う。

そもそもが不思議な流れだったことをさらに裏付けるように、担当者からこんな話があった。

「僕、今年の2月に名古屋に引っ越してきて…(別の話は続く)」

「えっ!?」と思った。

たしかに最近名古屋に越してきたことは知っていたけれど、2月とはその時初めて知った。

そしてその頃、実際にわたし自身もブログを本格的に稼働し始めた時だった。

自分でもしょっちゅう「何で今名古屋にいるんだろう?」と思うことはある。

そもそも30歳の時、唯一内定が出た会社が名古屋だったから名古屋に引っ越してきて、その後

コーチングのスクール通って、そして今は特に名古屋に居続ける理由など1つもない。

名古屋に住む理由がなくなって早3年。

何度となく引っ越しも考えたけれど、何だったら次の2016年の春にアパートの更新があるから

それに向けて名古屋去就もものすごく真剣に考えた時もあったけれど、結局何だかんだと名古屋

に居続けたこの3年。

今回のプロジェクトについて言えば、実は名古屋に住んでいることも1つの条件としてカウント

されている。

担当者いわく、東京・大阪・名古屋のいずれかに居住している人でなければいけないということ

だった。

わたしは特に理由もなく、もっと言えば今他の場所へ動く理由もなければ動く資金も厳しいという

ダブルの理由で単に名古屋にいるという何とも間抜けた理由で名古屋にいるけれど、

実はそれが大切な条件だったとは。

そして担当者も、社内の何かしらの動きに沿って名古屋の内示が出て今名古屋にいる。

予言とか占いで未来を視るとかそういうことは一切できないけれど、こうして自分の流れと自分

以外の誰かの流れを重ね合わせて見た時に、ふと大きな流れが見えることがある。

今振り返ると、すべてが予め決まっていたかのように小さな駒が1つまた1つと進められていた

ように思う。

相変わらず顕在意識の頭は、「どうして今も意味もなく名古屋にいるんだろう?」とか「どうして次に

動かないんだろう?」とか、自分に起こることの意味もわからず無駄に質問を投げかけている。

だけど、実はきちんとわかっていて(?)、今はまだ動く時ではないですよ、という意味で今ここに

居続けるための設定も自分でしていて、そしてここに居るような気もする。

真意の程はわからないけれど、いつも物事が起こり進みだすと思う。

「きちんと必要なものには出逢うようになっている」と。

贅沢言うならば、こういう人生の流れをもう少し信用できる自分になりたいと思う。

2015年11月7日土曜日

冬の料理

久しぶりにじっくりと時間をかける料理を作った。

1つは白菜とコーンを和風だしでコトコト煮たもの。

もう1つはポットロースト。

ポットローストは、肉、じゃがいも、さつまいも、りんご、玉ねぎを土鍋に入れてあとはオーブンに

入れて焼くだけ。

どちらもほとんど料理らしい料理はしていない。

少しだけ切って、あとはガスと電気に任せてコトコトするだけ。

すっごい簡単なのにすっごいおいしくなるのは、冬の料理の特徴だと思う。

今さっきポットローストの中に入れたりんごを1つ味見した。

悶絶級のおいしさでびっくらこいた。

この料理のレシピに出逢ったのは春先で、りんごの季節はとっくに終わっていた。

だから今回初めてりんごを入れての調理になった次第。

作った人たちみんながりんごを絶賛していたけれど、今食べてみてよくわかった。

アップルパイに入っている少し柔らかくなったりんご、あのりんごの味と食感になっている。

ものすごくおいしい。

これを書いたら、肉やいもたちと一緒に食べるけど、さぞかしおいしく出来上がっていることだろう。

この料理の唯一の欠点は、塊肉がなかなかお安くならないこと。

今度特売の時に塊肉を見つけたらまた買って試したいと思っている。

冬だからおいしい料理、今年もあれこれ試してみる予定。

それだけで冬が少し待ち遠しくなれるのは、食いしん坊の特権だと思う。

2015年11月2日月曜日

思い出の夜勤

もう1つのブログの方に、社会人スタートした時の上司のことを書いた。

当時の仕事は週に1回必ず夜勤があって、その上司とも一緒に夜勤に入ることが度々あった。

大学を卒業した22歳から退職する27歳の間まで、何度一緒に夜勤に入ったか忘れたけれど、

その中でも忘れられない話がある。

その上司は当時40歳前後だったと思う。

ものすごいやり手で、とにかく迷ったり困ったりした時はその人によく相談していた。

いつもヒントや助け舟をさっと差し出してくれる人で、でも決してわたしの肩代わりをすることは

なく、必ずわたしがやることを陰で見守ってくれるタイプの上司だった。

上司としても尊敬していたけれど、人としてもものすごく尊敬していた人だった。

その上司が夜勤で2人きりになると、時々話してくれたこと。

「ぶしちゃん、“何で生きるんだろう?”っていっつも思うんだよね」

ものすごく出来る人で、仕事も家庭もある程度形にしてきた人なのに、大真面目に小娘のわたしに

「何で生きるんだろう?」と疑問に思うことをそのまま口にしてくれる人だった。

「いくら生きていてもわからないんだよ。わからないし誰かに相談もできないから本に頼る。

色んな本を読んだし今も読んでいるけれど、やっぱり何で生きるのかわからないんだよね」

そういつも話していた。

わたしはその話がとても好きだったし、何度その話を聞いても一度たりとも飽きることはなかった

けれど、今の自分ほどには当時その話の真髄を理解できなかった。

そしてわたしから見て色んなことが形になっているのに、なぜそんなにも人生に生きることに迷い

のような疑問を抱くのか全然理解できなかった。

今ならわかる。

あの上司が言わんとしていたことが、今なら22歳の小娘の時よりもわかる。

そしていくつになっても、自分の人生は迷いもあるし生きることに疑問を抱くことがあるということも

わかるようになってきた。


当時は単に面白いとか興味を惹かれて程度のものだった話が、今はその話を聞くことができて

本当に良かったと思う。

今の人生の悩みを自分一人だけで抱えていたら、今のわたしは爆発していただろう。

あんなにできると思い尊敬していた上司ですら生きることにものすごく真剣に疑問を持っていた。

その姿を見せてもらえたことが、今自分が生き迷っていてもそもそも当たり前だななんて思える。

多かれ少なかれ生きていたら誰しもが抱くだろう疑問で通るだろうトンネルなんだと思う。

そう思えるだけの自分にさせてもらえたのは、その上司との出逢いが大きい。


当時は夜勤の時間が半永久的に繰り返されると思っていたから、一瞬一瞬のありがたみが全くと

言っていいほどにわからなかった。

でももう戻ることのない当時を振り返り、あの夜勤の時間が他の何物にも代えられない思い出だと

気付いたのはここ最近だ。

20代の頃、上司に出逢えて本当に良かった。

彷徨いまくる30代において、当時の上司との会話を思い出すと自分の心がふっと包まれるような

感覚になる。

2015年11月1日日曜日

優雅な湯気とブランケット

今このブログを珈琲を飲みながら書いている。

珈琲から立ち上る湯気に感動してしまう季節に突入した。

気付けば今日から11月。

昨日からぐっと冷え込んで、温かい食べ物が恋しくなり、水で手洗いするのが辛くなってきた。

食べ物から立ち上がる湯気も好きだけど、この珈琲から立ち上る湯気は食べ物の時とは違った

良さがある。

見ていて優雅な気持ちになれる。

食べ物からの湯気に食欲がそそられたり懐かしさを憶えたりすることはあっても、「優雅だなぁ」

なんて絶対に思わない。

ところが、珈琲の湯気は、それを見ているだけで何となく優雅でリッチな気分になれる。

湯気から伝わる温かさにほっこりしているのもある。

秋と冬限定の風物詩だなぁと思う。


いよいよ寒くなってきたから、膝掛けブランケットもつい先程クローゼットの天井部分から出した。

「深紅」という言葉が似合うようなワインレッドに近い赤いブランケット。

今から多分12年前に母がどこかからもらってきて、それをそのまま譲り受けた。

最初の5年半は、ずっと車の中に置かれていた。

運転用の膝掛けとして毎年大活躍してくれていた。

途中2年間は亜熱帯の地域に住み、このブランケットは実家のたんすにしまわれたままだった。

経緯は忘れたけれど、名古屋に持っていこうと自分で実家から今の場所へ持ち運んだのだろう。

今はもっぱら家専用の膝掛けブランケットとして毎年冬になると活躍している。

今年の春、衣替えの時期にこのブランケットを手放すかどうかずいぶんと迷った。

もう1枚別のチェック柄のブランケットは、たしか春先に思い切って処分したかと思う。

この深紅のブランケットは何となく手元に残そうと思って残したのだろう。

今考えると、このブランケットはこれから傷まない限りはずっと手元に置いておくような気がする。

干支が1周してもまだわたしの手元にあるという、稀少な1枚だ。

色も好きだし柄もないからデザインに飽きることなく、これからもずっと使い続けていくだろう。

毎年同じものを使い続ける、好きでそれを使い続ける、そういう楽しさを覚えたのは30代に入って

からだ。

たくさんの物に囲まれているよりも、自分の好きなものをずっとリピートして使っていくことの方が

粋だなと思うようになったのも30代に入ってからだ。

そういうことに感動出来るようになったから、先述の珈琲の湯気にも優雅な気持ちを抱くのだと

思う。

年を重ねないと絶対にわからないものというのがあって、そういうものを1つまた1つと知っていく、

このプロセスが楽しくてたまらない。