「1分だけ普通にふるまえるパワーをください」
その人がいなくなる前の日に真剣に願ったことだった。
日記に本当にそう書いた。
1分だけ普通に何事もなかったかのように挨拶できたらもう御の字だと私は思った。
たくさんシミュレーションもした。
まさか泣くわけにいかないから、そうならないように笑える場面をいくつか心の中に用意した。
泣きそうになったら、その場面を思い出して笑う方に自分を仕向けようと考えた。
私は今でも用意した場面を覚えているけれど、もうその場面を思い出しても笑えなくなった。
そのために用意した場面は涙を誘うものに代わってしまった。
1分だけ普通にふるまえるパワーは、本当に願った通りになった。
本当にその時だけマックス理性を持って何とかやりきれた。
挨拶さえも避けられそうになりながらも、自分の中に一瞬にして相手の冷たい空気が伝わってそれに屈しそうになりながらも、それでもやりきった。
だからその日の夜、私は自分がこの1ヶ月ほど本当にがんばったと思っていた。
苦い思い出になるのかとばかり思っていたけれど、実際はそうでもなかった。
苦いこともかなりな位置を占めてはいたけれど、私はその日の最後に「80才位のおばあちゃんになったら、今のことを面白おかしく武勇伝のように失敗したけどすんごく楽しい恋だったわよ!的な感じで話せたらいいって思ったんだった」と日記に書いている。
苦いこともたくさんあったけれど、それと同等に喜びもたくさん感じたから。
本当に誰かに会えるだけであんなにも心が躍るなんて、そうそう体験できるものじゃない。
私はその人を通じて、人生の喜怒哀楽をたくさん味わうことになった。
その2日前の夜、人生で初めてしたネイルを落としに行った(あの流行りのネイルたちは爪への負担が大きくて素人が自分で落とせるものじゃないことをその時初めて知り、プロにお願いした)。
その時に、今回人生で一番長く爪を伸ばしたけれど(普段は少しでも長いとすぐに切る)、長いと不便なのかと思ったら意外に大丈夫だったと話したら
「一気に長くなるのは慣れないですけど、爪が徐々に伸びるのと一緒にその長さにも徐々に慣れていったから思ったより大丈夫だったと思いますよ」と教えてもらった。
それを聞いて、私の現実もそうなって欲しいと願った。
たった1枚のジャケットが目の前からなくなっただけですごく寂しくなった私は、これが人間1人がいなくなったらどれだけの衝撃だろうかと、想像しただけで頭がクラクラした。
目に映る風景は翌日から大きな違和感を持って私の前に現れた。
違和感だらけの風景の中に唯一変わらずにあったのが、机の引き出しの中の名刺だった。
それはもっともっと前から置いておいたから、そこだけは変わらずそのままだった。
そしてそれはその先数ヶ月に渡り仕事の最後の最後まで活躍してくれて、私に日々癒しと元気をくれた。
私は名刺には何の価値も見出せないタイプで、名古屋にいた時、本当に大切な繋がりや思い出の人2、3枚以外は全て破棄した。
だから、そのたった1枚の小さな紙は、私が人生で最も価値を感じて大切に保管した名刺だった。
ーすごいシンクロ。
2018/03/28 12:33 お昼休み
川の方を向いて車の中で休憩。
この文章の下書きをしていてずっと下を向いていたけれど、一瞬顔を上げてバックミラーを見たら、名刺の名前と同じ名字の美味しい洋菓子屋さんの車が通った。
(世界に1台しかない車)
どうやら仕出しのためにすぐ近くの道の駅に来たらしい。
運転席から後ろを振り返ってその名前入りの車を見ようとしたら、その人と同じ車種の同じ白い車が2台通った。
このブログを再開した半年ほど前の日とほぼ同じ状況が再現されてビックリした。ー
昨日の昼休みは、20年越しに歌詞が届けられた。
当時アメリカではback street boysが大ブレークしてた。
ラジオからは毎日のように彼らの歌が流れた。
この間図書館でそのアルバムを見つけて借りてきて、それを車の運転中に聞いている。
ちなみにアメリカに4年も住んだのに歌の歌詞だけはいつまで経っても聞き取れなかったし、そこから意味を理解するなんてことはさらに難しくできないままだった。
英語の歌は日本語の歌以上に、歌詞を聞き取ってその詩的な意味を理解するのが難しい。
それで当時大流行したI Want It That Wayの歌詞をこの度初めて読んだ。
そこに
No matter the distance
I want you to know that
Deep inside of me
と出てくる。
Deep inside of meは確かに「(私の)心の奥底では」とか「本音は」なんていう意味になる。
だから意味がわからなくてネットで歌詞の和訳を調べたら「君に僕の心の奥底のことを知っていて欲しい」という感じでどの人も訳していたけれど、歌詞全体を読むとそれだとおかしな感じがする。
私が文法的に一番引っかかったのは、「that」をわざわざつけてるところ。
本来省略できるのにわざわざthatを置いて、そしてその後に心の奥底というのがくる。
thatを付けることで、これもしかしてthat以下の主語と動詞が省略されてる⁉︎と思った。
正しくは分からない。
だけど、そう考える方がこのthatの意味もわかるし、わざわざthatを付けたのもわかる。
多分thatの後にyou are(又はstay)が隠れてる気がする。
そして物理的な距離が生まれたからこそ、距離に関係なく心の中にいることを知ってて欲しいと言ってるんだろうなと、歌詞全体を見るとそういう心情が見えてくる。
歌詞の細かな文法はさておいても、私は今回歌詞カードを見るまでこの大ヒットした歌が何を言っているのかはずっと知らずにいた。
別れてしまった恋人に対してまだまだ気持ちがあるという内容だというのも今回初めて知った。
そこじゃなくて、「どんなに離れていても あなたが私の中にずっといるということをあなたに知っていて欲しい」というような上の歌詞の部分に共鳴した。
それは今だから自分の中に響く。
20年越しに届けられた歌詞は、今の私の気持ちをそのまま代弁してくれてる。
私に名刺をじっくりと見るなんていう趣味はないけれど、その机の引き出しの片隅にある名刺は、私の心の風景をそっくりそのまま映し出してる。
その場所の風景は日に日に変化したし、秋のあの日と半年後の今とではずいぶんと違っている。
例えば同じ位置に同じようにジャケットがかけられている。
でもそれは以前のジャケットと全く別物だから、今それを見ても私は何とも思わない。
唯一感じるのは「違う」=「似て非なるもの」だということ。
私はもうあの澄んだ空気を見ることもないし、感じることもない。
その場にその人がいただけで放たれていたものは、当然そこにはもうない。
だけど引き出しの中の名刺を見てその名前を見ると、色んなことが思い出される。
目では見えない、でも心の目で見ると思い浮かぶもの、そうしたものが見える。
たまたま段ボールのゴミが出て、段ボールを所定の場所に捨てに行った。
そここそ風景が大きく様変わりした。
今は、倉庫とかに置くようなでかい金属製の棚がいくつも置かれている。
そこが最後に見た笑顔の場所だった。
よくよく考えたら、私はそこに朝から人がいたのはその時1回しか見ていない。
これまでだって見たことあってもおかしくないのに、よく考えたら本当に1回ポッキリだ。
その日の朝、私は自分の個人的な確認をするために、何とか2人きりになれるチャンスはないものかと前日から考えてた。
一刻も早く確認をしたくて(うっかり私の個人的なメモが他の人の目に触れたら困るから)、とにかくどんな場面でもいいからそれを確認できる状況が欲しかった。
その人の姿を数メートル先に確認すると、そうだ!今だ!ここならほんの少しなら誰も来ないかもと思って、段ボール置き場へ直行した。
世にも奇妙な質問をして(こんな質問過去にしたこともなければ今後もすることない)、私はその質問をしてることさえあまりにも変すぎて嫌だったけれど、その人はそんな私の心配をよそに普通に受け答えしてくれて、そして最後の方は微笑みながら答えてくれてた。
おかしなことを聞いて本当にごめんなさいと心の中で謝りながらも、その人の神対応に朝からすごい元気と癒しをもらった。
それが最後に見せてくれた笑顔で、その後から一気に態度が変わって、自分のやらかし具合を猛省した。
普段穏やかで温厚な雰囲気の人がガラリと変わった姿を見て、ショックはショックだったけれど、他の誰もこんな姿見たことないだろうなと思ったら、ちょっとだけ特別感を味わった。
何も知らないよりそういう表情さえもその人の一部でそんな貴重な部分を見れたのは、心の折れ具合とは別にちょっぴり嬉しくなった(のはずっとずっと後の話)。
いなくなる前日の日記より。
「◯◯◯さんの目に映ってる日々の景色とか、口の中に入る好きな食べ物の味とか、無意識にしてしまうクセとか。そういうのを知りたい自分がいる。」
私はその人を構成しているすべてのことを知りたかった。
積極的に見たいとは思わないけれど、不機嫌になったり怒ったりするとどんな風か知りたかった。
そんな風に誰かに興味を持つ自分がとても特別だった。
基本的に自分のことで忙しいから自分以外の人に興味関心を向けている場合じゃない。
だけどその人は違った。
その人のすべてを知りたい、ただただそんなことを願った日々だった。
明日30日、その風景すべてとサヨナラする。
名刺は持ち帰るつもりでいるけれど、風景は持ち帰れない。
私は今日頼まれごとと自分の用事とを兼ねて、普段行かない部屋に行った。
見納めと思って、その人の直筆のサインもついでに見てきた。
それはいなくなってわりかしすぐ位の時に、そこの整理整頓をしてたまたま見つけた。
そのファイルは普段やり取りのないその人とやり取りできた思い出のファイルだったから、それで見たに過ぎなかった。
見たらやり取りした時にはない痕跡が残されていた。
その人の直筆の文字が至る所にあった。
私は整理整頓そっちのけでいくつもファイルを開いて他にもないかチェックした。
初めて本人の書く手書きの文字を見た。
何回見ても飽きることなく、私はその日以降も用事でそこに寄る度にファイルもわざわざ開いて、その文字を見た。
ついでに、その人がどんな風に仕事をするのかも知った。
私が想像していた以上にきっちりと仕事をする人だとわかった。
私は他の何百という数のファイルも見る必要があって見るから、ファイルの中を見てすぐにわかった。
私が見てきたファイルの中で一番きちんと中身が書かれていたファイルだった。
というか本来はこう書くものなんだとその時に初めて知った。
10冊前後のファイルを見たと思う。
どれも同じように対応していた。
本当にすごい人だったんだなと私の感覚じゃなくて証拠を見て知った。
それを見納めとして見てきた。
明日私は職場に、その人専用で用意したお守りも一緒に持っていく。
これまでそのお守り自体一度として職場に行きたいとはペンジュラムを通じて言わなかったけれど、明日だけはお付き合いしてくれるらしい。
私のそこでの最後を一緒に見守ってもらおうと思ってる。
今度こそ本当のサヨナラになるから、その最後の瞬間をお守り共々見届けよう。
その人と出逢えた大切な場所だから、最後にありったけの感謝と気持ちを置いてこよう、そう思ってる。
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