来る日も来る日もタロットカードの何かしらを調べたり書いたりしている。
人生の中でこんなにも楽しんで何かを自主的に学んだことはない。
連日雪でその分朝早く家を出る関係で当然起きる時間も動き始める時間も早くなっているのに、なんと朝からタロットカードを少し触ってから1日を始めている。
朝のルーティンとして、ペンジュラムを使ってペンジュラムボードもといサーフィンボードに何かしら聞いてそれを日記帳みたいなノートに記す事をしているけれど(そろそろ満4ヶ月そんなことをしている)、それと同時にタロットカード1枚引き的なことをして、そこから1日の予想をしたり何かしら今の自分と重ね合わせてメッセージを書いたりしている。
さらには夜も夜でその日のカードを振り返って、どうしてそのカードだったのかや、そのカードを通じてその日1日を振り返って感じたメッセージを追加でメモ書きしている。
カードを引くと言っても、まだカードそのものをシャッフルしてそこから1枚引くのではなくて、サーフィンボードにペンジュラムをかざして、何ページかを探った後、カードに付属で付いてきた英語の小さなガイドブックの出てきたページ数を見ている。
つい最近、タロットカードを初めて買おうと思った時に「これ絵柄が怖すぎる」と思ったカードが出てきた日があったけれど、その日の自分の心情にとても近い絵柄で、逆にカードに親近感を覚えたのと、その怖い絵柄から私は「自分を労る」とか「まずは自分を癒す」というメッセージを受け取った。
カードというのが、同じカードでもその時その時によって表情も違えば感じることも違う。
そしてその違いがカードから出ているメッセージも違ってくると体感して、とても嬉しくなった。
カードに良いも悪いもないって本たちに書いてあったその言葉が本当にわかったし、そしてカードの方はいつの時も自分に寄り添ってくれるとわかった。
という感じで、とにかく日々タロット、タロット、タロットと自らを楽しませている。
*
本題に入る前に、これを書こうと思った時からタロットが占星術の学びの時とは全く違うことについて少し触れたい。
占星術の時も本を買ったし、ノートも定価千円越えする超高級ノートを買って書き込みしたし、なんなら講座まで受けて粛々とやっていた。
楽しく学べた時間もないわけではないけれど、実際に講座に通っていた時は楽しいとは全く思わなかったし、どちらかと言えばしんどい学びの側面の方が強かった。
これはタロットも占星術も共通しているけれども、とにかくどちらも無限大に解釈があるし、読み解き方や切り取り方もこれまたどこまでもたくさんある。
けれど、その2つに対して私は全く違う感情を抱いている。
占星術の方は、無限大に解釈がある中で、私には到底無理な先行きで、極めなくてもいいと思うのと、あまりにも情報が多すぎてそれをある程度網羅するのは難しすぎると既に匙を投げている。
しかも相変わらず、占星術の方は超基本的なことを聞かれたとしても、まずはそこさえも調べないと答えが見えてこない。
さらには自分のことならどこまでも興味を持って調べられるけれど、私は他の人の分は基本的に興味がないから調べる気も起きない。
さっき書いた、朝からタロットカードを1枚引きする話も占星術とは全く違っている。
講座に通っていた時に、先生から出された課題の1つとして、毎日占星術用のサイコロを振るかもしくは自前でカードみたいにしてカードを作って、それを1日朝に振るなり引くなりして、そこから1日の予想を立てて振り返るというものがあった。
その課題は本当に私には全く合わなくて、毎回嫌々やっていたのと、何が出てきてもそれが何だと言うのだろう?とひねくれていたし、ちなみに今もやったとしても当時よりかは知識があっても決して楽しくはやれないように思う。
タロットカードの1枚引きは、私は正直こんなにもルーティン化するとも思わなければ、こんなにもハマるとも思わなかった。
そもそも始めるきっかけも、カードを引く方に目的があったのじゃなくて、年末近い頃に書店でご自由にお取りくださいってなっていた、書店特製の小さな2022年版手帳をタロットカードの本を買った時にもらってきて、それの使い道を考えて始めたことだった。
その手帳が使い勝手が良さそうだったけれども、すでにおいせさん手帳を使うと決まっていたから新たな手帳は要らなかったし、毎朝のサーフィンボードとペンジュラムとの対話の記録をするノートもあって、とにかく新しい手帳は丸っと不要だった。
ご自由にお取りくださいの手帳は、手帳のデザインがとにかく素敵で、中も一言何かを記すにはちょうど良いスペースで、それでいいなと思って持ち帰ってきた。
でも使い道が決まらない。
どうしようかなと思っていた。
それである時に「毎日タロットカードの1枚引きをしよう、そしてその結果をこの小さな手帳に書こう」と考えた。
占星術の時のことがあったから続くと最初から思わなくて、三日坊主になったら御の字だし、1日だけやって飽きる可能性もものすごく高かった。
どうせ長続きはしないだろうけれど、やるだけやってみよう、そのくらいの感覚で始めたものだった。
とかいうものにとってもハマって、毎日誰かから言われても頼まれてもないのに、せっせせっせとやっている。
占星術の時とは明らかに違う理由もわかる。
例えば、「魚座」「太陽」「1ハウス」などと出られても、私は毎回ぽっかーんだった。
今も書いてて、うーん、どう解釈するんだろう?という気持ちになるし、解釈できないわけではないけれど、何もひらめいたり思いついたり、そうした感覚がとにかくない。
反対にタロットカードは違う。
出てきたカードもだし、英語のガイドブックもだけど、それらを見たり読んだりすることで、何かしら気付いたり発見したりする。
それは瞬時に起こることが多いし、その時すぐにはわからなくても何かしらわかるだろうと余裕を持って待てる自分側の心構えもなぜかある。
占星術もやって本当に良かったし、これからもなんだかんだとお世話になるものだろうけれど、タロットみたいな楽しさは今後もあまりないんじゃないかなと思う。
とにかく、カードを見るのも楽しいし、自分の中で色々湧いてくる様を観察するのも楽しい。
そういう意味でタロットの学びは元々私にとても合っているものなんだと感じている。
*
タロットは当初から(当初と言っても年明けに初めて注文してカードを受け取ったのは成人の日のあたりの三連休だったはず)、2つの異なるタロットカードと当初は5冊の解説本でスタートさせた。
1月の終わりになろうという今は、しばらくは日本語の本は買わないだろうと思われる最後の1冊が届いて手元には8冊の本がある。
プラスして、カードに付いてきた英語のガイドブック、1冊は本当に本、もう1冊は小さな冊子とがある。
それら全部を組み合わせてタロットを読み解いている。
で、何でそんな風に2つのタロットカードに複数の本を同時に持って学びをスタートするスタイルだったのか、今なら本当にその理由がよくわかる。
始める前からペンジュラムに色々聞いていく中で、「その組み合わせでしか見えてこない世界観や視点がある」ことは知っていた。
今となってはそれもどうしてそんな風に最初から思えたのか忘れたけれども、そのことを実際にタロットカードと本たちとから体験する機会に恵まれて、そういうことか!と理解することができた。
細かな説明は省くけれども、冒頭に載せたタロットカードの写真は『節制』(英語はTemperance)というカードになる。
これは最初から全く意味のわからないカードで、『節制』という言葉と絵とが全く結び付かなくて、さらには「節制」という言葉自体も普段から使わないし、英語については馴染みさえ無い単語という状況で、どこをどう切り取っても私には理解不能なものだった。
こういう時は辞書が役立つと思って、国語辞典も英英辞典も両方を使って意味を調べた。
どちらもアルコールなんかを例にして、何かに則ってあるものを規制したり控えたりするみたいな、そういう意味でしかなかった。
ますますわからなくなった。
それでとりあえず、英語のガイドブックの方を読んだら、「節制」という言葉からは想像もつかない説明が書かれていた。
英語のTemperanceの語源についてまずは説明されていて、そこからさらなる発展的なでもきちんと基本を守った内容の説明があった。
一言で言うと、自分の中の色んなものや自分の周りに存在するあらゆる異なるものを組み合わせてハーモニーを作って、そこから自分だけの創造性へと繋げていくみたいな内容で、言うなれば「創造性」が言葉としては一番近いように思う。
(どハマり中のAmazonでの英語のタロット本の試し読みで見つけた内容によると、「錬金術」と副題に付けていた本を見つけた。「節制」よりも「錬金術」の方がしっくりとくる。」)
この説明をしだしたらとてつもなく時間がかかるからここで止めるけれど、この時に初めて本当に全ての材料が揃わないと今のような解釈には絶対にたどり着けないことがわかった。
何冊もの本たちはそんな風に同じカードの説明でも違う情報をそれぞれが持っているから、それら全てを見比べて初めて知り得る事実や知識がある。
そしてそういうことこそが、私にとって必要なステップ、必要な視点だったことを日々体感している。
*
とは言え、何冊もの本を広げてタロットの勉強をしているのは、ずいぶんと浮いている気もある時ふとした。
悪くはないし何にも実らなくても、すでに十分すぎるほどに必要な情報も学ぶ快感も得ているからいいっちゃいいけれども、それにしてもなんか変だと突然思った日があった。
そこでペンジュラムに聞いた。
タロットは、私は自分のためにだけするものなのかということを。
ペンジュラムは何の迷いもなく、すぐにNOを出した。
そして今度は質問を変えてもう一度聞いた。
自分以外の人たちにもタロットをする?と。
これに対してもペンジュラムは即答でYESを示した。
すごく納得したし、そしてペンジュラムの答えを聞いて私の中から自然に湧き上がる気持ちがあった。
そもそもおびただしい数の本たちを広げて、さらにはタロットカードも最初から2種類でスタートするなんて、「大アルカナ」という言葉を「だいアルカナ」なのか「おおアルカナ」なのかそれさえも知らないど素人がそんな風に学ぶなんて、ある種とっても変わっている。(ちなみに正解は「だい」の方。)
色んなタロットカードや解説本があるけれど、私のような初心者向けのカードと本とがセットになったものも普通に市販で出回っているから、それで自分のためだけなら十分事足りる。
けれど、私はそれには目もくれず、タロットカード2種類と本を数冊、それも中には上級者向けの本も買った後に学びを独学で始めた。
自分のためにそこまでするのも決して悪くはないけれども、普段の私ならもっとライトでコンパクトな感じで満足するし、タロットの専門家を目指しているわけでもないからそんなにたくさんの教材は要らない。
でも、これが自分1人のためだけじゃなく、他の人たちにも使うものとなれば、ここまでしても全くおかしくない。
むしろそのくらいした方が、より細かく物事を見れてきめ細かなメッセージが来るようにさえ感じた。
そうした一連のことを今回の私はとてもスムーズに迷うことなくやっている。
そしてとても前向きに取り組めている。
自分1人のためだけじゃなくて誰かのためにもやるとペンジュラムが示してからも、良い意味で気持ちは前向きになったけれども、変に力んだり責任を果たそうみたいな気持ちにもならず、穏やかに楽しくやっている。
単純に学ぶのがとても楽しいと感じている。
そして、その楽しい感じも学びを深めたい気持ちも、自分の内から湧いてくる感じがとても心地良い。
人生でこんなにも楽しいと思ってやりだした机に向かうタイプの勉強は初めてになる。
40歳も過ぎてこんな風に何か心から楽しんで打ち込めるものができるって、ものすごくラッキーだったなと感じている。
*
最初は5冊の本を同時に読んでスタートしたわけだけど、これが全くと言っていいほど苦にならなかった。
むしろ、「まだ物足りない」と思ってその後もさらに1冊追加する予定どころか、その追加予定のものよりも先に別のタロットガイド本の良書を見つけて、即座に買ってきた。(『タロットREADING BOOK』千田歌秋・著)→さらに追加して現状は合計8冊。
見たら今年の1月4日が初版で、これまで一度も見かけなかったことに納得した。
もし私が最初のタロット本を買った時にその本もあったのなら、そちらを買ったかもしれない。
そう思うと、最初のタロット本はやっぱりその本で正解だったと思う。(『タロット占い入門』森村あこ・著)
そんなにたくさんの本を何冊も同時進行的に読むなんて、普段の私なら絶対にしない。
けれども、タロットに関しては体の眠気が勝らない限りは全く苦じゃないし、面白いと思って読み進めている。
苦ではない理由を思った時に思い出したことがあった。
大学の時に、課題の論文やらリサーチ文書やらを書くために、毎回のごとく何冊もの資料を広げて調べて文章を書いていた。
日本の大学は知らないけれど、アメリカの大学は、その手の論文系になると100%参考文献を巻末に書いて提出しないといけない。
クラスによっては、参考文献は最低何冊と具体的に課すものもあったように記憶している。
しかも、タイトル、著者名だけじゃなくて、発行年も書いていた記憶があるし、他にも必要に応じて書いて、とにかくごまかしは絶対に許されないような書き方をとにかく徹底されていた。
ネットでさえも、そのページのアドレスとタイトルと著者・団体を明記しないといけなかった。
もし直接本文を引用したのなら、引用したとわかるようにカギ括弧(””)で括って、そのすぐ後ろに引用元のタイトルと著者を書く徹底ぶりだった。
ちなみにそれを怠ってそれが直接引用とバレた先には、盗作だけじゃなく立派な犯罪となって一発アウト、退学処分になる。
ということを毎回どのクラスでも最初の授業の時に耳にタコができるくらい口酸っぱく言われ続けてきたから、日本での小保方さんはじめ論文盗用が普通に為されていることは、私からすると信じられない事態だったりする。
しかも、私は大学の時にそうで、大学院とかはたまた立派な研究者でもなんでもないのにそれを徹底されていて、それがまさか日本では権威ある立場にあっても結構普通にあることだと聞いて本気で驚いた。
そんなこんなの苦行のようなリサーチを若かりし頃にやっていたおかげで、本を何冊も広げるのは苦じゃない。
さらには、今回は興味のあることだからこそ、人生で初めて「勉強が楽しい(◔‿◔)」と思っている!!!←大快挙
そうした過去の経験が、今あれから倍以上の年齢を重ねて役に立った。
さらなる余談だけれど、英語のタロットカードの解説本を今Amazonで毎日昼休みに探している。
カードたちに元々付いてきたガイドブックを読んで、明らかに日本語のニュアンスにはない説明や視点が書かれていて、それはもうその言語特有のまたは文化特有の違いがもたらすものだと思う。
だから英語のガイドブックで私が匙を投げずに読めるものを今Amazonで探している。
↑これだけ聞くと、超勉強家(笑)。
いつの間にかAmazonの洋書のクオリティーが良くなっていて、試し読みできるものが多くなっている。
しかも最近発見した技で、英語圏の本は大体において紙(ペーパーブック)とKindleと両方揃えてる場合が多くて、その両方の試し読みを見ることでそれぞれ少しずつ掲載部分が違ったり、紙の試し読みはなくてもKindleの方は準備されてる場合もけっこうあるとわかった。
そんな風にして試し読みを読んで、著者の英語が私でも読めるかどうかを見ている。(日本語と同じで、1人1人言葉の使い方や文章の構成の仕方が違うから、読みやすい人と読みにくい人とがいる。)
それはiPhoneの画面で読むよりも仕事のパソコンの大画面で読む方が読みやすいから、最近の昼休みはひたすら調べ物&読み物の時間で終わっている。
*
タロットカードの学び、私はもう少し違う言葉がいいな〜と思って探したら「トレーニング」が一番近い意味だと感じたから自分ではタロットトレーニングと勝手に呼んでいるけれど、タロットだけは人生のこれまでの学びの中で他とはずいぶん違う。
30代になってすぐくらいから私は心理学的なものをさらに深めようと学び始めた。
最初は心理カウンセリング的なものを目指そうとしていたけれど、色んなことが重なって、最終的に私はコーチングがスタートの学びになった。
だいぶ話を端折るけれど、私を2年間個人セッションで見てくれたコーチというのがスピリチュアル的なことをものすごくよく知っている人だった。
そのコーチなくしては、私はスピチュアル的なものに入ってなどいけなかった。
ずっとずっと「危ないもの」としてしか見えてなかった私に、スピチュアル的な内容の奥深さやそうしたことを体系的に理論的に理解することで自分のメンタル面がどれだけ救われて楽になれるのか、私はコーチを通して身を持って体験した。
途中まで書いてそのままになっている下書きがあるけれど、私はそのコーチに会うまでに心理カウンセリングの臨床的なものを何回か実際に見る機会に恵まれた。
私が見たものたちは、本当に身の毛もよだつような強烈なもので、目の前で受けてる人が発狂するとか人格が変わってしまうとか、私はいきなりそんなのにばかり当たっていたから、これがスピチュアルだとか精神世界だとかUFOだとか(UFOなのは、20代の頃いつも行っていた大型の本屋さんで福祉や心理の棚のすぐ隣りがUFOなんかの超常現象のコーナーで、そこは超危ない雰囲気が漂いまくりで、自らの危険回避のために(笑)目を合わせることさえしなかった)そんなのに行ったらもっとおかしな方に行くような気がしてならず、だからずっと長いこと私はスーパーアレルギー的にそうしたものを一切受け付けなかった。
ちなみにコーチもいきなり私に紹介したのではなくて、私が気になってコーチの考え方やアドバイスをどうやったら身につけられるのかみたいな質問をすると、本を紹介してくれたりなんなら本をプレゼントしてくれたり、そしてもっと気心知れるようになるとそうしたセミナーやワークショップでオススメなのがあると一緒に行こうと誘ってくれたりした(コーチも受講者として参加)。
だから最初は河合隼雄さんとか日本の心理学の大御所的な人のものから始まって(しかもそれは河合隼雄さん推しではなくて、その中に書かれているアメリカの原住民の文化とぶっしーの在り方とがすごく重なるから読んでみてと言ってもらった本だった)、そのうちに『バシャール』という名の宇宙生命体(笑)と地球人のやりとりの話とか色々マニアックなものが入ってきた。
バシャールが宇宙生命体だとかいうことは正直何でも良くて、私にとって必要なことはそこに書かれているメッセージや考え方の方だった。
その辺りで深めた学び(バシャールだけじゃなくて他の色んな学びも含めて)が、人生そのものや人間としての生なんかを色んな方向から見るようになった大きな転換点になったのと、私が見る世界観の土台になってくれた。
私はバシャールの本は今でも持っているし(名古屋を引き上げる時、残しておきたい1冊としてバシャールという名の本はたしかシリーズ8冊ある中で6冊持っていて、全て持ち帰ってきた)そこを皮切りに多分300冊くらいのスピリチュアル的な本を読みまくった。
その時は完全に自分が「足りない」とか「何かが大きく欠落している」と思っていて、その不足分を補うための学びだったのは自分でも相当自覚していた。
そんな風に始まって、直近の学びを占星術と位置付けるとすると、全体を通じて「自分には何か欠如している」ということが常に根底にあって、それを埋めるために色んなことを自分に吸収させようとしていたなと感じる。
少なくとも、占星術を学んだ時もどこかしら自分に不足感を感じて、もっと知りたい、もっと自分のことを深く理解したい、とどこかしら欠乏感めいたものを持って始めていた。
だけど、タロットはこれまでとは全く違う。
それはタロットだからなのか自分が色んなことを経て今の地点に立てたからなのかそれはわからないけれど、少なくとも私は自分の何かが足りなくてタロットをやり始めたわけじゃない。
タロットをやってもやらなくても正直どちらでもいいことだと思っているし、やらなかったから自分の価値が下がるわけでもやったから自分の価値が上がるわけでもない。
タロットと自分自身の価値観は全く関係ないもので、タロットそのものは私にとって人生の楽しみや娯楽に近い。
そういう距離感や関係性で学ぶものは、タロットが初めてになる。
ペンジュラムは学びとは全く違うものだし、ペンジュラム用のボードも使いこなすのに練習は必要と思っても学びというのとは違う。
タロットはやっぱり楽しくても「学び」という位置付けが私にはピンとくる。
でもこの学びは、自分が足りないからやるものじゃない。
むしろ、自分を今よりもさらに深く知るツールや深い部分に入っていける手段、はたまた自分を助けてくれるバディー(友人)みたいな、そんな感じでタロットに触れている。
そう、私は自分のことをもう足りないと思っていない。
色々デコボコしているし、人よりも確実に劣るところは色々あるけれども、それが私だし、それでも人に迷惑をかけないものならそれで良いと本当に心から思えるようになった。
そしてスピリチュアル的な学びも占星術的な学びももういいかな…と感じるところまで自分なりにある程度極めたからこそ、それら全部を組み合わせてもしくは総動員してやるタロットというものが、自分のこれまでのがんばりの上に成り立つものだと直に感じられるから、それでより一層親近感や愛着を持てるのもあるのかもしれない。
いずれにしても、自分が足りないという理由ではなく、純粋な興味関心だけで突き進められる学びってどれだけすごいことなんだろうと思う。
そんなわけで、この1ヶ月、暇さえあればタロット、平日さえも時間をどこかで作ってタロット、毎日タロットタロット!な日々を過ごしている。