2019年3月31日日曜日

奇跡の果実▷ウラ話⦅20⦆巡り合わせとご縁









「……1……」

思った以上に長い。

もう1回。

「……1……、……2……、……3……」

長すぎる。

多分それ以下だ。

もう1回。

「……1……、……2……、……3……」



iPhoneの時計の中に入っているストップウォッチを作動させた。

4歳か5歳だった自分が誘拐されかけた時のことが思い起こされて、ふと「これって、もしかして1分ではなくて1秒のタッチ差で私は助かったんじゃ?」と思って、それで時間を計ってみた。

ゼロコンマ数秒でさえ長くて、やっと1、◯◯秒になった。

3秒は長すぎて、多分3秒もあの時はかかっていない。

たった1秒だったんだと思う、私が助かる助からないを分けた瞬間は。

その瞬間はこうだった。

父とその友達は家で飲んでいた。

私は近所の和菓子屋さんに用事で出かけた母を迎えに行くと一言言って家を出た。

出て隣りの家を過ぎて、そのまた隣りの木工屋さんの前の方には行かずその手前の小さな小路に入って3軒目ぐらいのところが和菓子屋さんだった。

私は小路の方にまではたどり着けず、本当にその小さな1メートル2メートルぐらいのところで若い男の人に捕まった。

その人は私に近づいてきて犬を見に行こうと言った。

私は嫌だと言うと、有無を言わさず抱きかかえられて連れて行かれてしまった。

私が声を出さないように口は手で塞がれた。

そこから直線距離なら家3軒分、でも大回りすると数分の距離になるその数分側の方の道をその人は私を抱えたまま歩き続けた。

そして、例の1秒のスポットに着いた。

町の小さな書店のおばちゃんで、ちょうど店じまいするのに外に出てきた。

そこでおばちゃんと私を抱きかかえた男の人が遭遇して、「何やってんのよー!」と猛剣幕で男の人をおばちゃんが怒ったことで、男の人もビックリして、私をすぐに下ろしてそれで走って逃げ去った。

うちのご近所さんということもあったし、両親が本なんかを取り寄せてもらう店でもあったし、父親は時々私たちを連れ立って本を買いに行っていたから、よく知っていた。

私が武士俣さんちのふみこちゃんということも知ってくれていたから、だからあの時ものすごいタイミングで私は事無きを得た。

何せ町の書店だから、例えば8時閉店でも8時ピッタリではなく、なんとなくその日の感じで8時過ぎる日もあれば8時少し前から店じまいを始める日もあったと思う。

そして、大回りしてくれた数分のおかげで、おばちゃんと鉢合わせすることになったけれど、直線距離の方なら書店の前を通ってもおばちゃんはまだ店の中だっただろうから、私はそのままどうなったかはわからない。

そうやって助けられた時のことを突然思い出して、それでストップウォッチで時間を計ってみた。

1秒でさえ長く感じた。

そしてあの店の前なら1秒で通り過ぎる。

3秒もかからないだろうなぁと思った。

私の命は、1秒というすごい確率をくぐり抜けて助けてもらったんだと知った。

後年、その書店のご夫妻は首吊り自殺をして亡くなられた。

私の命の恩人のおばちゃんは、そんな風にして最期の時を迎えた。

もちろん残念ではあったけれども、私はそれ以上にそのおばちゃんの笑顔や助けてくれた時のやさしい感じを真っ先に思い出した。

記憶が曖昧だけど、そのすぐ近くだったのかもう少し経った時かに職場の宿泊旅行があった。

そこで男の子と女の子の木の人形があって、私はそれを買って帰った。

本当は墓参りに行きたかったけれども、両親に聞いてもうちは親戚でもないから墓の場所などわからず、それで私はその人形を2人に見立てて目のつくところに置くようになった。

名古屋の時も、いつも出かける前に目につく玄関の棚に置いて飾っていた。

いつも家を出る前は、そちらに目を向けて心の中で「いってきます」と言っていた。

今も部屋のすみに飾ってある。

残念な終わり方ではあったけれども、そのおばちゃんの人命救助の事実は変わらないし、私の中に一生刻まれている。

今この人形は、姪っ子が来ると毎回おもちゃのターゲットにされている。

私に片方の人形を手渡してきて(私は男の子の方)、メイはもう片方を持って、私に言う。

「どんき・ほーていきましょ!
トコトコトコ、トコトコトコ」

人形を手に持って本当に畳の上を人形が歩いてるかのように動かす。

私もメイに倣って人形を歩かす( ̄∀ ̄;)。

じっとしていると、2歳児(今は3歳児)から「ふみこも!」って指導が入るから、やらざるを得ない。

何ともシュールな遊びが毎回繰り広げられる。

メイの家の近くにドン・キホーテがあるから、それでメイの頭の中はそこに買物に行くことになっている。

30年以上前、メイより少しだけ年上の子どもの私が心ある大人に命を助けられて、その10数年後その命の恩人のご夫妻に見立てた人形を私が手にして、今度は平成も終わる頃、次の世代の新しい命の手の中でその人形は遊ばれている。

命のバトンを回してるみたいだなと思う。



ある夏の終わりのシーンが出てきた。

私の当時の日課はせんべいをチェックすることだった。

朝昼晩と何度となく遠目にチェックした。

せんべいをチェックすることになるなんて、当初予定になかった。

すぐに食べることはなくても1日2日では机からなくなる予定だった、私の頭の中では。

なのに、いつまで経ってもせんべいはそのままどころか、気付けば隣りの人の席との境界線あたりに移動するというすごい事態になっていた。

私は青ざめた。

せんべいはただのせんべいじゃなかった。

後ろに仕掛けがあった。

仕掛けはいつからか爆弾状態になった。

その机はいつでもなだれの起きそうな状態で、そこに置かれたせんべいの袋はプラスチックですべすべしていた。

うっかり間違えてせんべいが滑って、隣りの席にダイブしたらどうするの???と思った。

多分仕掛けに気付いてないから、そんな訳の分からないすごい危険地帯に置けるんだと予想した。

仕掛けに気付いているなら、そんな危なすぎるスポットに99.9%の人は置かない。

気付いてないと私は踏んだ。

せんべいチェック数日目、私は意を決して本人に問いただすことにした。

バカみたいな質問だったけれども、背に腹は代えられない。

なだれが起きたら、悲劇は私に降りかかる。

それを避けるためなら、聞いて確認する他なかった。

私はせんべいに気付いたかだの、仕掛けに気付いたかだの、本当にこんな質問一生のうちで最初で最後だわと思いながら聞いた。

いきなり話しかけてきたと思ったら、せんべいの質問。

心の中は「はぁー?」とか思ったかもしれない。

(  ̄Д ̄;)とかΣ(゚д゚lll)とか(・Д・)とか( ̄◇ ̄;)とか。

でも、その人は嫌な顔1つせずどころか、微笑むような表情さえ浮かべて、普通におかしなせんべい質問に答えてくれた。

それが最後に見た、私に向けられたその人の笑顔だった。



ここ数日、神戸の友達とメールでやり取りをしていた。

返答にだいぶ困る内容のものが来た。

得意の沈黙を通すことを最初は考えた。

でもそうしたら、友達の方が察してくれて新たにメールをくれた。

沈黙を通そうと思った私の浅はかさを反省し、友達のおかげできちんと伝えようと気持ちが切り替わった。

「和解」が訪れた。

12年前の春になるんだ…、と今何年のことだったかを数えたらそうなってた。

その友達は、協力隊の訓練の時に、同じ生活班で部屋が隣りの隣りぐらいだった。

2ヶ月ほどしか近くにいた時間はなかった。

なのに、すごく仲良くなった。

今でも覚えてる。

何かの用事で彼女の部屋に一度おじゃましたことがある。

部屋はみんな一緒の造りになっていて、6畳ほどの部屋だったと思う。

彼女の部屋のセンスの良さに目を見張った。

訓練は、集団生活だしやることは満載だしで、私は日々その流れについていくのに精一杯だった。

部屋を何とかするなんて発想は皆無だった。

その中で彼女は、日々の生活空間を彩ることがとても上手かった。

本当に素敵な空間になっていて、入るだけで居心地が良くて、同じ部屋が与えられてるとはとても思えなかった。

彼女は何年か前からカフェを営んでいるけれども、そこに一度遊びに行った時も彼女のそのセンス溢れる空間に感動した。

そうしたセンスに触れる、彼女にしか出せないセンスに人生の中で巡り合わせてもらえる、それってどんな確率だろう…って昼寝する直前のまどろみの中で思った。



3年前の春にSさんと囲んだ食事。

下に敷いたテーブルクロス調の布は、浜松の伝統工芸の機織りで、モダンな感じのデザインが気に入って買った。

在庫一掃と言わんばかりの食事たち。

・きゅうりともやしのサラダ
・身欠きニシンと車麩の煮物(←新潟の郷土料理なのかもしれない)
・ひじきの煮物
・ぎょうざ
を私が大量に用意して(ひじきなんか誰がそんなに食べるの?という感じ)、Sさんが家から2つ素敵なもの作って持ってきてくれたのが、
・たけのことワラビの煮付け
・たけのこご飯

この食卓は一期一会だったんだなぁと今になって思う。

当時はしょっちゅう行き来していたから、その貴重さが今ほどにはわかっていなかった。

Sさんは本当に料理上手で、数々の美味しい手料理を私にたくさん食べさせてくれた。

私のはザ・適当な有り物で作る料理ばかりだったけれども、どんな時もSさんは喜んでおいしいおいしいと言って食べてくれた。

いつかは実家から送られてきたふきのとうに飽きて、「ふきのとうのグラタン」とかいう怪しげな料理を実験のように作ってみた。

それにも箸をたくさん伸ばしてくれて、ありがたいばかりだった。

冒頭の1枚目のカラーの花の写真は、Sさんが3年前の私の誕生日の日にプレゼントしてくれたもの。

無罪なのに罪を問われ、警察に事情聴取に呼ばれた日が私の誕生日で、Sさんはその帰りに真っ直ぐうちに来てくれた。

カラーの花と前日に焼いてくれた手作りのケーキと美味しい大福を持って。

ただの花ではなかった。

その時の強烈な体験の中で、Sさんが私を想って色々用意してくれたんだと思ったら、私は今でも胸がいっぱいになる。

一生忘れることのない花の贈り物になった。

そして、モーニングの写真は、うちの近所にあった行きつけの喫茶店のもの。

そこは手作りのパンとサンドイッチ、そして新鮮なフルーツ盛り合わせを、コーヒーとか飲み物を頼むといつも写真のように付けてくれるお店だった。←無料!

本当においしくて、そしてそこのご家族みんながいつもとっても素敵な笑顔で出迎えてくれて、ものすごく居心地の良い空間だった。

私たち2人は何度そこでモーニングをしたかわからない。

写真は私が名古屋を出る日の朝、Sさんが見送りに来てくれて、そしてそれが名古屋で食べた最後の食事になった。

その後もう1軒別の喫茶店に入ったけれども、私の中に残った最後の食事風景はそっちの方だった。

忘れられない、名古屋での最後のシーンになった。

その後名駅(「めいえき」と名古屋市民は言う)こと名古屋駅に行ったはずなのに、私が覚えているのは自分の家の周りの風景とSさんとの最後の名古屋時間の風景だけになっている。



今日は日長1日寝たり起きたりを繰り返して(←時々やってくる異常に眠い日)、その起きている合間に1つ面白いネットの記事を見つけた。

「ご縁」についての記事だった。

ご縁とは一体どういうものなのかという内容で、それを透視なのか霊視なのかができる人がわかる範囲で説明しているものだった。

その方いわく、それぞれの人にはその人特有の周波数、オーラ、念とかがあって、そして「縁」が生まれる人たちというのは、その周波数同士がお互いに合うということらしい。

それ読んで納得した。

せんべいチェックの人も神戸の友達もSさんも、一対一ではなくて人数が集まった集団の中で出会っている。

そういうたくさん人がいる中で、縁のある人とない人とがいる。

いわゆる気が合う合わないということなんだとは思うけれども、その時ピッタリと重ならないと互いに反応することはできない。

冒頭の書店のおばちゃんと私があの1秒という奇跡の時間の中で重なり合えたのは、まさにそういうご縁が重なった=気持ち的なものがお互いに通じ合ったんじゃないかと感じた。

『奇跡の果実』のきっかけとなった山で行方不明になったおじいちゃんとも、多分そういう原理がお互いに働いたんだと思う。

生前に出会うことはなかったけれども、色んな概念を超えて、一瞬でパッと結びついた、そんな風に思う。

そうした巡り合わせを、他の人は【魂の記憶】が呼び起こされる感覚に基づいていると説明していた。

もう1つ頭をよぎった最近の記事。

私たちの心臓は、1日に約10万回鼓動を打つとのこと。

そしてその1回1回に、生きる意味や目的が刻まれているという。

大ざっぱに計算すると、1秒に1回心臓は鼓動を打つことになる。

今日1秒をストップウォッチで計った時、1秒の長さと重さを感じた。

その生きている中で、たった一度の鼓動が、誰かの命を救ったり、素敵な空間を見せてくれたり、食卓を囲んだり、ヘンテコ質問を前に笑顔を向けてくれたりする。

シュールなトコトコトコ遊びの時にも、鼓動は打たれている。

もうどの時も戻ってこない時なのに、記憶は私の中に永遠に残る。

そういうのが魂の記憶なんだとわかる。

そして魂の記憶を頼りに、違う体を持った者同士が引き合って出逢う。

互いにこの人だと深い部分でわかるんだと思う。

そしてご縁に繋がる。

今回特別出演のメイとも、互いに何かしら繋がっている。

忘れもしない正月のこと。

カルビーが新潟県内限定で、厚いポテトチップスを販売した。

みんなで食べてみようということになった。

メイが鍋奉行ならぬポテチ奉行をした。

みんなにまずは1枚ずつ配って、その後2枚目か3枚目を配ってる時だった。

メイはみんなに配ってるのに、私がちょうだいと言うと、
「ふみこは食べすぎだからだめー!」
と言って私にはくれなかった!(◎_◎;)

母方の実家にその前の日に行って、そこで自分より年上の子どもたちに「メイちゃんは食べすぎだからだめー!」と言われておやつをもらえなかったらしい。

その仕返しを私にするという、何これ状態だった( ̄∀ ̄;)。

こういうくだらないことも魂の記憶に残るのかは不明だけど、あまりに可笑しかったから我が家ではこの話が何度となく上っては毎回笑いを誘う。

鼓動の使い方としては、とても良い凡例だと思う( ̄∀ ̄)。

メイと共演しているぬいぐるみたちは、1996年生まれ(うさぎ)と1997年のクリスマス生まれ(クマ)。

私が一度もテディベアをもらったことがないと言ったら、クリスマスイブの翌日(=クリスマス)、ホストファミリーがわざわざ買ってきてくれたものだった。

思い出は、その約20年後に誕生した新しい命へと引き継がれていった。

巡り合わせの威力だなぁとしみじみ感じる。

本物の縁なら、どんな風でも繋がるんじゃないかと私は思っている。

出会う人みんなにみんな魂の記憶が反応するわけじゃない。

反応できるのは、本当に縁のある人たちだけなんだと思う。

今回おじいちゃんと繋がったことで、そして今日30数年前の1秒の巡り合わせに気付いたことで、余計とそう思った。

本当に縁があるとするなら、どんな風でも繋がる。

特に、1秒で明暗を分けたあの時のことを思うと、余計にそう思う。

あの時私は命を繋いでもらっただけじゃなかった。

命を繋いでもらったことで、その後出逢うべくして出逢う人たちと巡り合えるように、その流れも同時に作ってもらった。

だから、そうまでして助けられた命だからこそ、生きているうちに本当に繋がる人たちとは繋がるようになっている、心からそう思っている。

2019年3月29日金曜日

奇跡の果実▷ウラ話⦅19⦆長所をもっともっと伸ばす

10数年前の会話の一部を切り取って残した

初代言霊帳(2003〜2011)
『いちにちのごほうびにきらきらをあげる』
もし今日お誕生日の方がいたら、
きらきらをプレゼント
☆*:.。.\(*⁰▿⁰*)/.。.:*☆



短所を直すんじゃなくて
長所をもっともっと伸ばせばいい。
俺はそっちの生き方の方が好きだ。
200X年12月21日
ショウ(中2)



[才能・資質・強み]の話をする中で、ショウの話をどこかに入れる予定でいた。

でもこれは独立させて書くことにした。

この言葉がどうしてこんなにも残ったのか、今ごろになって気付いた。

上のショウの言葉には、生きることへの可能性がそこに託されていたから、生きることへのあきらめない気持ちがのっていたからだと気付いた。



ショウは父親から半端ない心理的虐待を受けた子どもだった。

完璧主義で威圧的な父親は、少しでも何か自分のやり方に合わないことをショウがすると、全部いちいち言葉にしてショウを責めて、本人を追い詰めるようなやり方をした。

それこそ、食事で使う箸の位置が茶碗1つの位置がおかしければ言うぐらいの、そういうところから始まり、性格や勉強のことなんかはもっともっと言われる。

母は他のきょうだいを連れて県外へと出て行った。

ショウからしたら、母から捨てられたも同然だと思う。

そんな状態で、ショウは本来なら反抗期の全盛期のような時期に施設に入ってきた子だった。

(注釈:当時の全国的な統計で、児童相談所に相談が寄せられて施設入所に至る子どもは10人に1人の割合だった。それは施設の定員の問題でそうなっていて、だから入所に至るケースは本当にシビアなケース=子どもにとって非常に不適切なもしくは非常に危険な養育環境と判断されないと入所できない)

入ってくる前の情報で、どれだけ難しいタイプの子どもが入ってくるのかと思ったら、拍子抜けするぐらいに明るくて、学校では周りの同級生たちとも良好な関係を築ける子だった。

そういう環境下に普段いただけあって、流すことにはものすごく長けていて、飄々としていた。

ショウなりに身につけた護身術だったと思う。

あの時は今ほど深く物事を見なかったから気付かなかったけれど、多分ショウは母親から愛情たっぷりで育てられた気がする。

根っこの部分が育っている、そんな感じが今思い出してもするから、多分そうだと思う。

ただ、本人の記憶にある家庭生活は、父親との暮らしで逐一駄目出しされる、自分が否定されるところの方が色濃いと思われる。

ある時の夜勤に入った日のショウとの会話だった。

何を話したかは忘れた。

でもショウはいつもみたいな飄々とした感じじゃなくて、私の方を向いて緩みながらも真面目に言い放った。

「短所を直すんじゃなくて
長所をもっともっと伸ばせばいい。
俺はそっちの生き方の方が好きだ」

その言葉は、ショウが生きてきた世界の中でも見失うことなくショウが静かに温め続けた想いの部分だった。

そういう父にショウは反抗もせず、黙ってその時をやり過ごしていたようだった。

ショウから一度も家族の話は聞かなかったし、本人も話したくないんだと思う、何も言ってこなかった。

私は会議で聞いた話しか記憶に残っていない。

それでもショウは小さな希望を見つけて、それを自分の道しるべにして大切に温めることのできる強さのある子だった。

ショウの言葉と次回あたりに書く予定の才能や強みの話とがリンクする。

凄まじい否定だらけの環境下に身を置きながらも、それを上回るほどの自己肯定感の高い子だったなぁと今になって思う。

しかも無理して装った強さではなくて、その極限みたいな状況下で身につけた強さのように見えて、あの飄々としていたところもそして時々真面目な顔して何かを言う時もそうした強さがいつもショウの根底を支えていたと思う。



『奇跡の果実』を連続して読んでくれてる方からすると、どうして[才能や強み、資質]を私が書くのか、又は傷を癒すだの自分を知るだのという内容を書くのか、その繋がりがよくわからないように見えるかもしれない。

これは実は全部繋がっている。

『奇跡の果実』の大元には、私のペンジュラムが関係している。

もしペンジュラムを私が持っていなければ、この話には絶対に繋がっていかない。

この話を本当にすべて体験するには、ペンジュラムを持つこととそしてそれを使いこなすことが絶対条件になる。

ここではそれを資質と呼ぼう。

私はその資質を、まずは「受け取ること」から始めている。

その次に「育てること」。

そして最後に「活かすこと」。

自分の才能を見つけよう!とかいう大々的な目標を掲げたのではなく、興味を持ってひたすらペンジュラムとやりとりしたことがこの今に繋がっている。

私がこのシリーズを通して伝えたいメッセージは、誰の身にも奇跡が起こるし、誰にもみんなユニークなその人にしかない強みや才能、資質、魅力があるということ。

今回生きる命の中で奇跡は誰の身にも起こるし、それはありえないぐらい悲惨な状況や立ち直れないぐらいの心的ダメージを受けても、それでも奇跡が起こる。

そして今回の命を生きるにあたって、みんな誰しもがその人にしかない唯一無二のものが与えられている。

本人がどんなに否定して認めなくても、全員もれなくある。

ここ最近、私が伝えたい部分はそこなんじゃないかと感じるようになった。

それを表現するために、ここに色んな話を織り込んでいる、そんな風に感じている。

自分のところに順番に来たものを書いているけれど、才能や資質についてももうずっとずっとメッセージが来ていた。

来た当初は『奇跡の果実』との関連性がいまいちわからなかったけれど、忘れないようにキーワードを書き残したら、あっという間にノート4ページになった。

キーワードが集まる=私の中のGOサインになる。

これも書くことなんだな、とわかった。

そして今はもっとはっきりとどうして書くのかがわかってきた。

これは傷を癒したり自分を知ることだったりとも全部繋がってくる。

細かいことは、次回(?)の[才能・資質・強み]の記事に書く予定。




私は人生の中で前半戦、30歳になるまでは自分もそうだったし、関わった世界もすごい特殊な世界だった。

今小学校4年生の女の子が父親から虐待されて殺されてしまったニュースが数週間に渡って報道されてる。

私が関わった世界はそういうニュースになってもおかしくない体験をする人たち、私はそこまでではなくても私自身も色んな痛みを体験することが多かった。

不可抗力だった体験もある。

でも私が思うのは、人間して何年目とか成人する前に生涯残るようなトラウマを体験した場合、強烈ではあるもののそれでも生きていかなきゃいけないからその生きていくための強さも身につけていく。

だから、世間から見たら病的な環境下にあっても、その中にいる人たちは意外にも強さがあったりする。

それは色んな子どもたちや小さかった私自身が教えてくれた。

ドミニカにいた頃は、首都のスラム街に毎日通ってた。

資本主義社会でお金がないって致命傷みたいに見えると思うけれど、私はそこでも何百人の人たちとやりとりして、底抜けの明るさや人に良くしようとするお節介焼きや困った時はお互い様の精神を日々見せてもらってた。

明日のごはんのお金がないのに、今日はフミコをごはんに呼ぶって約束してたからそれを大事にしたいの、と言われた。

お金を無心されてもなければ、向こうは招待してる側だから私がみんなで食べるものを持ち込むことも快く思ってなくて、だからいつも最小限のみんなで分けるジュースを持って行った。

本当のもてなしを私は何回となく受けていた。

豪華さに欠けたとしてもその食卓にのるものは、私の中でも人生で5本の指に入るごちそうだった。

見かけ倒しの豪華さではなく、本物の豊かさを私は見せてもらっていた。

スラム街へは犯罪に巻き込まれては困るから私は毎日同じようなシャツを着て行った。

質素を公約に掲げているような出で立ちだった。

相当お金がないと思われたようで、私より断然お金をもらってない現地の同僚の人からバス代を出してもらったこともあった。

そういう親切も色々してもらっていた。

だから、世の中で報道されてることと実際の中はずいぶんと違っていた。

それは間違いなく「貧困」というくくりにはなるけれど、少なくとも私が見たものは貧困と一緒に成り立っている人間の営みだった。

そしてない中でも最高のもてなしや気配りを私は施してもらっていて、心にはとても大切なものをいつも届けてもらっていた。

何かと比べて酷いとか低いと思われる環境下は、実はそこの中に入るとそこにいる人たちも何ら変わりない人間だから、普通に人間同士の営みが存在している。

色んなマイナスとなるものを持っていると、その代わりのプラスのものもものすごくたくさん持っている。

精神性とかメンタルの強さはずば抜けてたり、生命力が逞しかったりする。

もちろん問題も色々あるけれども、何せ問題が常に横たわっているだけあって強い。

本当に強さを感じる。

時々私のことを強いと言ってくれる人たちがいるけれど、私の強さはどうにもできなかった状況を山ほど体験したことの強さで、そうした体験がもたらしてくれたものだと思っている。

そんな体験を山ほど持って、30代の10年間、私は日本の一般社会に出た。

ここから先に書くことは、完全に私の主観だし、それが合っているかどうかというのは計れない。

だけど、これが私が本当に感じたこと。

私から見て、日本国内の一般社会の方が病んでると感じた。

一般社会には、ある程度世の中でスタンダードとされる枠組みがある。

一般常識だったり普通さだったり、そういうものが当たり前にあって、その当たり前の中で生きている。

この枠組みというのは普段はボワーッとして掴みどころがないくせして、少しでもそこからはみ出すと途端に非難を浴びたり周りからつまはじきにされたり、非常に扱いづらいところがあると思う。

さらにその枠組みは窮屈さや生きづらさなんていうものも生み出すもので、感じ方は個人個人違うにしても、みんな大なり小なり感じてはいると思う。

だから、普通になんとか収まろうとするし、とりあえず普通にしておけば可も不可もない日常は保てる。

勤勉さや正確さ、効率・能率、成果、経済的豊かさ、そうしたものが普通に日本の文化の中に横たわっている。

先人の人たちがここまでの国を作ってきたことにはもちろん敬意を持っている。

そしてそれを引き継いでさらに発展させている世の中の大勢の人たちにももちろん敬意を持っている。

だけど、そうした社会構造の中で人が病んだり気持ちが死にそうになったりしている事実も確実にある。

30歳で学習塾に勤めたことで、一般家庭の子どもたちや保護者たちに初めて接触した。

ショウみたいな家庭環境の子どもとか、貧困の中で暮らす子どもとかではなく、本当に一般家庭の子どもたちとその保護者だった。

もうその頃は中学生から携帯を持つのが当たり前になりつつあったし、物はいくらでも与えられて育った子どもたちだった。

私がそこで見ていたものは、みんなではないけれども、多くの子どもたちがやり場のない気持ちを持っていたりとか、枠からはみ出すことを悪いことのようにしつけられて苦しくなってたりとか、人との密な繋がりを求めていることだった。

オール1からオール5の小中の子どもたちを見ていたけれども、オール1に近い子どもたちの方が性格的に何とかなる感じがあった。

何とかなるというのは、大人になった時に、頭脳以外の何かでカバーできるものを持ち合わせている。

反対に一番危ない感じがしてたのはオール2からトップには届かないその下の頭の良い子たちの層だった。

いわゆる「普通」の子たち。

知能と自己肯定感は決して比例するものでもないとわかったのもその時だったし、色んな形で競争原理が働く中でそして色んな枠組みの中で、周りと歩を合わせつつも自分のことのバランスを取ることの難しさみたいなのも見え隠れしていた。

年齢的に色々悩む時期も重なっていたにしても、どこか危うさがあったり、自分というものと対友達・対社会とどう付き合うか試行錯誤していたり、それは人間の成長の上で当たり前のプロセスかもだけど、それを上手く外に出す場所がないのかな…と感じた子はけっこういた。

それまでは状況そのものが過激だったから、ある意味問題も不具合も外に見える形で出ていた。

だけど、塾に行って驚いたのは、普通枠だからこそのやり場のない想いとか気持ちとか、きちんとすることへの違和感とか、そういうのが見え隠れしていたことだった。

これが保護者懇談になるともっとその部分が露呈していた。

一般社会の中できちんとしているのに、見えないところでは大人たちも色んなことと対峙したり戦ったりしてるんだというのをひしひしと感じた。

勉強のことと子どものエピソード程度で終わる家ももちろんあったけれど、そういう家は少なくて、ビックリするようなエピソード満載の話もたくさんあった。

正解のない人生の問題集と言わんばかりのことたちが次から次へと飛び交う感じだった。

そこを見た時に、初めて「一般的な人たちの方がもしかして本人さえも気付かない形で生きづらいのかもしれないな…」と感じた。

それはその後、派遣に行ったり、コーチングのスクールに通ったり、一般人の方たちから話を聞いたりしていく中でますますそう感じた。

枠の中である特定の役割とかある特定の結果とか在り方とか、そういうものが求められる。

それは生きていたら当たり前にあるものだから、そこを否定するつもりはない。

だけど、そちらを優先するばかりに自分の中にある素直な気持ちとかひねくれた気持ちとか、もしくは外には出さない自分の顔とか、そういうものが居場所を失くすとキツイのかな…と感じる。

30歳以前の世界は、特殊な世界ゆえ「問題ありき」みたいな視点でいつもいたから、当事者たちもその認識だけはしっかりしていることが多かった。

30歳以降の一般社会は、「普通」だと思いながら日常が営まれていて、私から見ていると「実は苦しいよね?」と思ってもそれさえもこちらからは言いにくい、当事者たちも自分の苦しさやちょっとした問題は些末なことと捉えている傾向が強い感じを受けた。

普通に生活が送れているから本人たちも「大したことない」ぐらいに思っていても、実はすごい深いよね…と感じるものがある。



ここから先は少し過激な話をする。

過激に聞こえてもデマとかではないから、私が見ているもの・知っているものを少し話したい。

これから社会のシステムやこれまで当たり前とされてきた社会的な価値観は完全崩壊に向かっていく。

ホロスコープでその相ははっきりと出ている。

崩壊する理由は、崩壊して新しい時代を、もっと個人個人がそのままでいられる世界に移行していくために起きる。

それもはっきりと出ている。

でも、それはいきなり今日寝て明日起きたらそうなるわけじゃない。

そこに移行するまでは何年単位か知らないけれど相当な時間がかかるし、その移行期間、要は破壊期間は世の中は超混沌とするし混乱を極める。

これは遠い世界の話ではなくて、今もすでにその中に徐々に入っていってるし、さらに近未来ではもっと誰の目にも明らかにわかる形で起こる話で、今ギリギリ旧体質的なものが成り立つことの方が不思議なぐらいだと感じる。

良い変化もあって、今は良いこと・人のためになることは、ものすごい速さで実現する。

それこそ驚いたのが、先に書いた4年生の女の子が亡くなってしまった事件の後日談。

国の命令で全国の児童相談所を中心に、所在不明の児童とか、見守りが必要とされる児童が一斉に調べられて、そしてあっという間に全国で100人超えてたと思うけれど、施設入所になったり児童相談所一時保護になった。

厚労省と文科省がたしか協力して、児童の安全を確保する何かしらの決まりだったかガイドラインだったかを出した。

私が現場にいた10年以上前には考えられない、異例のスピードで対応が為されている。

ちなみに昨日のニュースで、女の子が父親から暴力を受けたと告白したアンケートを父親に渡してしまったとずっと問題視されてた野田市の対応に関して、野田市の管理職の人たちの降格や停職数ヶ月が決定したことが出ていた。

1人の子どもの命がこれだけの物事を動かしている。

亡くなった命はもう戻ってこないけれども、小さな女の子が命と引き換えに残したメッセージは、国をも動かす力があって、そしてその動きが他の100人以上もの子どもたちの命を救うことになった。

今の天体配置をよく表してることだと感じる。

ダメなものには容赦なくメスが入る。

だから一度は崩れる。

だけど、その後に良くするための新しいものが創成される。

この破壊と再生のプロセスは、これから益々強まるし、来年2020年は今年以上、そして2023年あたりまでは何だかんだとその傾向が続くと思う、天体配置からいくと。

これは何も国レベルだけじゃなくて、組織や個人レベルでもすでに起こっている。

友達の勤めている団体は、昭和みたいな体質のところだと常々言っているけれど、この話をした時に「それってもしかして…」と言って教えてくれたことがある。

不正行為に近いようなことがこれまで普通に横行していたけれども、それができないやり方が採用されたことと、どう漏れたのか知らないけれど監査が入って是正勧告が出たと言っていた。

こんなこと初めてだと話してた。

個人レベルだと、合わないものはとことんそぎ落としされるし、本当に必要なものしか残らないようにますますなっていく。

そんな風にして、全く新しい時代に移行しようとしている今、色んなことは目まぐるしく変わるし、破壊と再生のプロセスは継続して徹底的に働く。



これだけ情報が蔓延している世の中で、情報が信用できないということが世の中に広く知れ渡る時が来るのも近いと思う。

冬のある日、ニュースの中で2日後に東京で雪が降るかどうかが取り上げられていた。

ワイドショーとニュースがセットになってるような番組だった。

司会の人が気象予報士の人に「これは『降る』ってはっきり言えないんですか?みんなが知りたいのはそこだと思うんです」と問いかけていた。

記憶が曖昧だけど、その前に東京で雪がそこそこ降った時に、JRはじめ私鉄が電車をある時間以降全て運休して大混乱を招いたから、それに備えるためにも降る降らないを予測できないのかと言っていた。

気象予報士の人は「できない」と答えていた。

私が驚いたのは、こんなに技術が発達して、システムとかで色んなシミュレーションを行えて、人間以上に計算や予測の速いテクノロジーを駆使して色んな方向から予測を立てても、2日後とかの雪は予想できないんだということ。

自然には勝てないなとも思ったけれど、それ以上にこのニュースが伝えてくれてるメッセージはもっと大きいものだった。

【外からの情報ではなくて、自分で判断する力、自分で感じて考える力をつけなさい】

そういうメッセージが向けられてると私は思った。

色々便利になるのは良いけれど、あれは人間本来の力を同時に奪うものでもあると思う。

考えなくてもワンタッチで情報が入る今の時代は、情報との付き合い方が本当に大切だと思う。

だけどそんなことは普通に教えられる教科ではないし、みんな各自が自分の感覚でするものになっている。

雪程度なんて言ったら怒られるかもしれないけれど、雪が降る降らないはその時だけで終わってくれる。

だけど、社会システムが崩壊する時はその時だけのことじゃない。

ずっとしばらくは続く。

その時は、もう情報はあてにならない。

もちろん私が今ここに書いていることだって、「情報」でそれが絶対なんてことはない。

少なくとも私は天体の運行状況を見て話しているけれども、そして自分だけでは心もとないから占術家たちのブログなんかも読むけれども、とにかくもう「個の時代」に入るのは天体がそうだから確定している。

その混沌としたこれからの何年かは、信じられるのはもしくは大切なのは自分の感覚なんだ、という考え方が台頭してくる、と私は思っている。

そうしたことと、この『奇跡の果実』シリーズは不思議な感じだけど、私からすると連動している。

特に2月の終わりぐらいから、このシリーズの書く内容の方向性が変わってきたのは感じている。

今ごろ本当はシリーズは終わっている予定だった。

本当はギフテッドのAくんとお母さんである長年お世話になっているSさんの話を書いた後は、おじいちゃんとやりとりしたことで受け取ったメッセージを紹介することと、2月の初めにアップした『⑧覚醒』を拡散して集まった色んな人たちの人生の物語を紹介して終わりにする予定でいた。

そのようにノートにも書いているし、それ以外の予定なんて頭になかった。

だけど、3月は本来の目的からは大幅に外れていることばかりが情報や体験として来た。

実は私は自分の個人的な話を『奇跡の果実』に含んでいいのかわからなかったから、最低でも3月に入ってからアップした分は全部ペンジュラムに『奇跡の果実』に含むかどうかを聞いてからアップしていた。

しかも、傷を癒すとか自分を知るとか、そんなのどう関係するの?と思っていた。

でも今終わりに近づいてきてわかってきた。

1月におじいちゃんの霊魂が出てきた時に、家族向けに1つ本当に託されたメッセージが出てきた。

それは、家族だけというよりも、今生きているみんなに向けられたようなメッセージだった。

たださすがにそれはご家族向けのメッセージだから、公表はできない。

だけど、私はそこで聞いたことをこのシリーズの最後にそのメッセージの意図をのせて書く予定でいる。

それができるのは私しかいないのもわかっているし、それがおじいちゃんが伝えてくれた現実に生きる私たちへのメッセージだと思うから。

しかももっとわかりやすい形で話が私のところに集まったから、私はそれをただ書けばいいだけになっている。
(ただ書けばいいだけだけど、情報量が膨大だから数日かかるとは思う)

これは時代の流れも汲んだ話だし、その時代の移り変わりを思う時に特に3月に集中的にアップした私個人の話や見解は、その次の時代に繋がる大切な部分だと私は思っている。

このシリーズを書き始める前に、『メッセージは詳細に宿っている』みたいなガイダンスをカードから受け取った。

だからここまで細分化して書いたわけだけど、今終わりが見えてきて、これは2018年に始まったことだけではなく、これから先の未来に通ずるメッセージが含まれていたんだと今は感じる。

単なる出来事ではなくて、その奥にもしくは全体にある普遍的なメッセージ、そこに辿り着いて発信することが求められていたのかな…なんて思う。

そして私はメッセージのターゲットは、私が30歳以前に関わっていたような特殊な世界ではなくて、世の中の大半の人たちが属する一般社会なんだと思う。

そこが多分一番これからの時代の変遷の影響を受ける層だとも思う。

これは私が感じたことだけど、普通に社会生活を送っている人たちの中でも敏感な人たちはすでに色んなことを感じている。

この1ヶ月〜1ヶ月半くらいの中で8人の人から質問を受けた。

個人的な質問だけど、みんな共通しているのは、自分の生き方だったり自分の感じ方に関する質問だった。

本当に天体の流れと連動している。

気付きの内容に関しては人それぞれだけど、みんなそれぞれ今までの在り方に違和感を感じていたり、自分の感じ方で合っているかどうかの確認みたいなことだったりする。

こんなことは未だかつて私には起こらなかったことだった。

ということはそれだけ目には見えないけれども確実にある部分を感じる人たちが増えてきたということでもあると思う。

つい昨日、朝の5時に目が覚めて、寝ぼけたまま携帯メモに打ち込んだのがこれ↓。

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人には言えない見せられない自分
そういう部分と向き合う
だから、人の生と死というのは、もしかしたらそういう意味かもしれない。
普段は死んだようにひっそりとしている本当の自分、そこの再生を図る時に、人は必ず誰かの後押しとか賛同がいるんだと思う。なぜなら1人じゃ心細いから。そんな自分を出して大丈夫?ってなるから。それはこれまで出したことのない自分で、その自分が受け入れられた体験を一度として持ってないことが多いから、余計と怖い。
その時に、そこに私は居合わせるんだと思う。おそらくそれが自分の星回り的なものなんだと思ってる。(←鑑定の先生と講座の先生の両名から言われた)
私ができることは、その時にその話をただただ、うん、うんと聞くことだと思っている。そのままのその人をそれで大丈夫と言葉でも言葉でない何かでも伝える努力をするだけと思う。

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そして、ちょうどこのタイミングで今年の占星術講座のお知らせが来た。

去年みたいに7回もなくて2回だけの講座になる。

習うのは、過去から未来にまたがる天体の読み解き方。

特に未来の読み解き方は、これまでの我流ではなくきちんとした読み解き方を習ってくるから、それがこれから必要なんだと思う。

最終回の時に先生が、次は何にしようかな…とぼやいていたことを覚えている。

ちなみに、過去から未来にまたがる天体の読み解き方は、記憶が違わなければ、先生はあまり乗り気じゃなかった。

情報が膨大過ぎるから、それを講座でするのは大変だと言われてた気がする。

だから他のテーマで講座を組むような、そんなお話をされてた。

だけど、それが来た。

しかも、今回の講座は去年の初級講座を受講した人たち限定で案内が出されているから、もし私が去年受けなければ機会さえもらえなかった。

1時間おきぐらいにキャンセルが出ないかと携帯を睨んでいた時間が懐かしい。

そう、私は本当は満員御礼で申込できなかったのに、奇跡的にキャンセルが出て、それで受けられるようになった。

私に必要なものだったから、空きが出たと私は思っている。

そして今年は過去から未来にまたがる天体の読み解き方がテーマ。

2018年ではなく2019年の今年だから、それがすごく時代の流れとマッチしてるにおいがプンプンする。

「今」知る必要があって、やってきた機会だと感じる。



私の中でもまだ色んなことが混沌としているけれども、少しずつ自分のすることに輪郭が出てきた。

私が担当するのは、陰陽の陰の部分だと思っている。

みんな誰もがそういうものを持っている。

でも普段はそんなの外に出すことはない。

その陰の部分に対して、私はそれをただそうであることを真っ直ぐに受け止めるだけの器を自分で作ったと思っている。

そして、陰から大切なメッセージに気付くこともできるようになった。

そうやって自分を癒し続けて、それでやっとその器が完成したように思う。

目の前の人が語る話は、もしかしたらその人は1人で死ぬまで抱えていくものだったのかもしれない。

もしくは、自分だけが感じているものだと勘違いして隠し通そうとしたものかもしれない。

そういうものを聞く、聞いて大丈夫だよと伝える、それなんだと思う。

そして、心や自分と向き合うことをひたすら追い求めて早20年近くになったけれど、私は1つだけ法則を見つけた。

冒頭のショウの言葉は、今から15年以上前の言葉になる。

色んなことが目まぐるしく変わって、心理や精神世界の方にも新しい手法や新しい考え方がどんどん入ってきている。

その中でも、心の深いところに響くものは、時代の流れや世の中の発展具合とは関係なしにずっと残り続けている。

そして絶対に古くならない。

いつの時もその言葉は力をくれるし、そして時間や経験を重ねることで、また違った側面も見せてくれる、そういうものなんだと知った。

ゴッホは「100年後の人たちが見た時に、絵の中の人がそこにいるような肖像画を描きたい」そう言い残した、とゴッホ展に行った時に流れていた映像で知った。

私が色々集めまくっている言葉たちもそれに近い想いがある。

どんなに時間が経っても人の心に響いて、力だったり勇気だったりやさしさだったり感動だったり、そういうものを感じる言葉を集めて綴りたいと思っている。

ショウの放った言葉は、100年後の人たちの心にも勇気や希望を与えてくれるものだと思う。

未来永劫、人から人に引き継がれていく言葉として生き続けるだろうと思う。






2019年3月28日木曜日

奇跡の果実* Lesson9『自分の資質や強みに気付く前の特徴』

3月24日 雪

3月25日 快晴

魔法をかけてもらったノート

「才能や資質」について、私はその特徴や見つけ方を書く予定でいた。

次回そちらを書く予定。

その前に私が自分の才能や資質に気付く前の話も先にしようと思う。

なぜならそちらの方は本当につい最近までの私でとても馴染み深く、そしてその状態こそ多くの人たちが間違いなく経験するプロセスだから、わかりやすいと思う。

それが間違っていたことに今ははっきりと気付いているけれども、それはあまりに当たり前すぎてそれが間違っていたなんてつい最近まではそれさえも知らずにいた。

気付かないとそこから抜けるのも難しいのかな…と私は自分で思う。

だから、あえて資質だの強みだのの本筋を書く前に、まずは世の中に蔓延していて当たり前だと思われているところから話を始めたい。

この話をしてからの方が「資質・強み・才能」の特徴や見つけ方、育て方を説明しやすいし、理解もしやすいと思う。

併せて、私が1人1人強み・才能があると言い切れる理由にも触れたい。



先に、1人1人、強み・資質・才能があると言い切れる理由から話したい。

私みたいに何百人という子どもの強みを見つけて話を保護者にするなんていう体験をみんながするわけないし、そしてそれをしていた当時も今も私のその発見の仕方は非常に個人的な手法に基づいているから、他の人たちにはわかりにくい。

そうではない、「絶対」と言い切れる理由を書きたい。

これはホロスコープ(西洋占星術)を学んだことが大きい。

ホロスコープには少なくともその人その人が持って生まれたものが、1人の例外もなく刻まれている。

ホロスコープは、生まれた日にちと時間、そして生まれた町の緯度経度から算出されるもので、それによって1人1人全く異なるホロスコープを持つことになる。

自分と全く同じ配置のホロスコープを持つには、2万6千年の時を経ないと再形成されないと言われるぐらいに、1人1人のホロスコープは唯一無二の形になっている。

双子でさえも違う。

1分違うと微妙に変わる。

仮に同じ病院内で別々の分娩室で全く同じ時間に生まれたら、同じホロスコープを持つことにはなると思うけれども、代わりに今度は家族が違うわけだからそれがどう発展していくのかはそこで差が出ると思う。

そこから、その人の魂の計画書と言わんばかりに、強みも弱みも、仕事、パートナーシップ、家族、親子、お金、人生の課題、魂のテーマ、輪廻を繰り返す中で引き継いでいる魂の傷、とにかく色んなものがわかるようになっている。

それぐらい1人1人違うから、当然強みも資質も才能も1人1人全く違う。

ホロスコープは自分の設定を知る最強のツールだと私は思うけれども、ただホロスコープにも限界がある。

方向性まではホロスコープで出せるけれど、超具体的な資質や才能は、冗談抜きで本人にしかわからない。

それは、どんなに優れた占術家でも、透視できる人でも、本当のところに気付けるのは本人だけ。

だからそうしたことに関して、そうした能力を持つ第三者が「あなたはこれこれこういう能力があるからこうしなさい」なんて決めつけたことを言う人がいたとするなら、絶対に気をつけた方が良い。

例えば私は[スピリチュアル的な力を継承][言葉が降ってきやすい]、[文才がある]とホロスコープの鑑定士さんからも占星術講座の先生からも去年の夏に教えてもらったけれども、それ以上の内容は言われていない。

なぜなら、それ以上のことはホロスコープではどんなに頑張っても読み解けないから。

鑑定士さんから言われたことは、「スピリチュアル的な力」に関しては、「大繁盛している鰻屋の秘伝のタレみたいなもの」と言われた。

要は世代とか遺伝的に継承しているというよりも、特定の資質・力があって、それを私が継承しているという方がよりホロスコープの相からは読み取れると言われた。

その時はよくわからなかったけれど、今はわかる。

うちは両親や家系の中に霊能者や祈祷師みたいな人は私が知る限りいないし、いたとも聞いたことがない。

例えば、[スピリチュアル的な力を継承]は私の場合、今わかっているのは「人が自分の状況を私に話してくる(メールなどの文面含む)だけで、その人の潜在意識や魂からヒントをキャッチすること」が挙げられる。

そうした具体的なものに関しては自分で気付くしかない。

ホロスコープはその具体的な内容まではさすがに書いていない。

そういう意味も含まれるのかな…と思ったのは、ホロスコープの講座の時に先生から「武士俣さんの場合、人からも自分の領域に侵入されやすいし、自分も相手の領域に侵入しやすい」と言われたこと。

相互に侵入しやすいこととスピリチュアル的な力の継承を足せば、たしかに私が書いたような「相手の潜在意識や魂からヒントをキャッチする」ことはなんとなくイメージできる。

どういう仕組みかは私も知らないけれども、少なくとも双方合意の上で相手の方からも私のところに情報がくるし、私も私で見えない境界線を越えて情報を受け取っている。

でもこれは後日談であって、言われた当初はその意味をどう解釈したらいいか、もしくは私のどの部分を指してそういう性質になるのかはわからなかった。

「文才=文章を書く力」とするなら、これについても今わかっているのは、こうして実体験と教えを組み合わせて書くこととか、この内容なら書いても疲れないこととか、その程度でしかない。

当然どういう分野の文章に書く力があるのかなんていうのはわからない。

実は数年前、セールスライティングという類いの手法の名前を教えてもらったことがある。

いわゆるキャッチフレーズの文章バージョンで、それが書けたら億のお金も手にできるものだと私は説明を受けた。

冗談抜きでやろうと思った 笑。

ところが、私はそれができない人だった。

やってみてわかったけれども、すでに「お金が欲しい」でスタートしてるから、意図を間違えてる。

さらにそれありきだと、本当に書き方全般に関して制約も多い感じが私にはしたし(実際にそれでやっている人たちもいるから、それは才能の差だと今ならわかる)、そして私は制約があると突然書けなくなる。

子どもが作文用紙を前に何を書いていいのかわからなくて一行も書けない、あの状態に似ている。

その辺りのことも、今ならそのカラクリがわかるけれども、そこを話し出すと今回の話から本当に逸れるからやめとく。

一言で言うと、「資本経済による洗脳」だと思う。

【売れることが良い、売れないことが駄目】という世の中の鉄板的な考えに全てを当てはめては、個人個人の資質や強みなんて見つかるわけない。

そしてそれありきで組み立てられた文章や強みと勘違いして訓練されたものには限界がある。

例えばその手の文章が書ける人というのは、本当にその道の人か、もしくはお金に対する恐怖とか自分の世間的な肩書きに固執していたりするかのどちらかだと思う。

超余談だけど、私の知ってる人の元奥さんで、お金の恐怖が強烈に強くて月収数百万円を普通に稼ぐと言っていた。

その人いわく「本当に恐怖心が強い人って、別の意味でお金稼げるから凄いよ」と言っていた。(続けて、それを近くでずっと見ていて、自分はそれは余計苦しいだけだからしたくないとも言っていた。ちなみに、「苦しい」というのは、「苦しいことにさえ本人が気付いてないから余計と苦しい」と説明してくれた。)

今はまだ洗脳最前線な世の中だからそれがまかり通っているけれど、私個人としてはもうそれがこれからの早ければ何年間で崩壊していくと思っている。

どんなに時間がかかっても、自分がばあさんになる頃までには崩壊、そしてその古くさい体質から脱却した新しいあり方が生まれると思う。(←ちなみに天体たちはこのあり方をどんどん刷新する配置になっているし、これから何十年はその流れがますます加速するのは明らか)

これまでの日本みたいに、みんなが同じもの、同じ方向性に進むなんていうのは、ホロスコープから見る時代の流れからすると進化とは真逆の方向に動いていたことがよくわかる。

犬がぞうになろうとしたり、もみじがさくらになろうとしたり、たんぽぽがバラになろうとしたり、そういうことは普通に考えたらありえないけれども、でもそういう教育を受けて大人になる人たちが大半だし、そして世の中や親や先生からの教えもそうした無理なことを普通だと捉えて、誰も疑うことなくそうなっている場合が今はまだほとんどそうだと思う。

この1年、とにかく自分のホロスコープが読めるようになりたくてホロスコープ関連のブログを読み漁ったけれど、それらに共通することを見つけた。

とにかく占星術は、【1人1人が全く違う設定】だということが大前提にあるから、決して画一的な成功法とか克服法を書いていない。

お金稼げます的なことも書いてないし、愛される人になるとか仕事ができる人になるとか、そういう世の中に溢れたキャッチコピーも基本ない。

あるのはひたすら、「それぞれの設定をどう生かすか、どう生きるか」に集約されている。

これは心理や自己啓発、ビジネス系のブログではほぼない、あってもすごく少ないものだった。

だから、生まれた瞬間から、誰しもが唯一無二のものを持って生まれてくる。

ちなみに、これは占星術の講座の先生から口を酸っぱくして言われたけれど、「このホロスコープだから良いとか悪いということは絶対にありません」と。

たまに占星術のブログで、「こういう配置だから悪い」と結論付けるすごい偏った見方の人たちがいるけれど、私はそれは違うと思う。

たしかに扱いづらい部類のホロスコープ、例えば私みたいなホロスコープは間違いなく扱いにくいと思う。

これは1万件以上のホロスコープを見た鑑定士の先生からも、占星術の先生からも言われたこと。

ただ2人ともすごく温かい方たちで、負の要素満載すぎる私のホロスコープに対してこんな風に言ってくれた。

鑑定士の先生からは
「自分の才能や自分が持って生まれたもの、自分からは逃げられない。
だから、いかに自分の星を好きになって手慣れていくかということが大事」
と教えてもらった。

講座の先生からは講座を申し込んだ際のメールの返信で、
「確かに武士俣さんはYODやブーメラン、アルプス型という複雑なアスペクトをお持ちで、ご幼少の頃から内的な葛藤や強迫観念といったものが非常に強い方なのではないかと思われます。
しかし逆に言えば、武士俣さんが『使命』を見つけられたとき、生きづらさでしかなかったYODが輝きを見せてくれるようになります。
頂いたご返信から、武士俣さんの占星術への熱い思いを強く感じました。きっと占星術は今後、武士俣さんを輝かせてくれるツールになってくれると思いますよ」
こんな風に言葉をいただいた。

文中にある『YODやブーメラン、アルプス型』を全部持ち合わせているホロスコープを、私は自分の以外で見たことがない。

普通はYODが1つでもあれば、うぇー( ̄ཀ ̄;;)ってなる。

それを複合的に持ち合わせている。

YODに関しては3つも!←名誉ではない。

どれも強烈だけれども、先生が言ってくれたみたいに生きづらさでしかなかったものが自分の強みに変わってくれると思っている。

私の場合、自分の人生の設定を知ることが自分をものすごく楽にすることができたのと、ホロスコープは自分の訳の分からない人生の流れを何よりもそれで合ってると肯定してくれたツールで、そしてそれを本当にきちんと解説して教えてくれた先生たちにはめちゃくちゃ感謝している。

今がちょうどその生きづらさから強みに変わる変遷期にあたる。

だから、そういう強烈な配置の人でさえも資質や才能が与えられているし、それは他の人たちにも全員もれなく与えられている。

これは障害のあるなしも関係ない。

鑑定士の先生に私が鑑定を受けようと思った理由は、もちろん博識であったこともあるけれど、それ以上に先生の人柄が伺えるエピソードがブログの中にあったから。

まだ先生が駆け出しの頃、あるお母さんから自分の息子のホロスコープを見て欲しいと依頼を受けた。

私の講座の先生が書いてくれたように、YODを持っているから生きづらさもあるとは思うけれども何か大きなお役目があるんだと思います的な感じで結んだようだった。

そうしたらその依頼者のお母さんから、息子は成人になるならないぐらいの年齢の時に事故に遭って半身不随になって、そこから色んな戦いが始まったけれども、それに関してそのような言葉をいただいて本当に救われたとお礼を言われたとのこと。

それと一緒にすごい大金を渡されたらしいけれども、あるがままの内容を伝えただけなのでと先生は丁重にお断りした経過も書かれていた。

背景は知らずにホロスコープを読んだに過ぎなくても、そういう人生ドラマが相手の人生では展開していることや、それに対して自分がどこまで真摯に向き合えるのかや、それに関して自分がどう関われるのかや、色んな想いを書かれていた。

そういう先生だったから、鑑定をお願いした。

話が飛躍し過ぎたけれども、先生はホロスコープから読み解ける私の強みを余すことなく伝えてくれた。

負の要素満載でも、必ず明るい側面もある。

私は自分がそうだから余計とそう感じる。

だから、とにかくこの世にいる人全員、それが犯罪者であっても全員強みや資質を持って生まれて来ている。

そう思うじゃなくて、私ははっきりと「そうだ」と言い切れる。

それはホロスコープだけじゃなくて、実際の人との関わり合いの中でもたくさん見せてもらったから、それが絶対だとわかる。



話を今度は強みや資質に気付く前の自分について書きたい。

まずは、これは一番はじめに断言したいこと。


【人の価値というのは、何かによって変わるものではない】
ということ。

大事だからもう一度復唱。

【人の価値というのは、何かによって変わるものではない】


私はこの結論に至るまで、39年かかっている。

しかも一気にそれが腑に落ちるのではなく、そこに気付きはじめたところから本当にそうだと今ぐらいに言い切れるまで、3年ないし4年かかっている。

途中のプロセスの話をする方が私も話しやすいから、いくつか決定的になったエピソードを紹介したい。



【幼少期〜30歳になるまで】

私はオール1の状態で小学校をスタートした。

3年生でそろばんを習うまで数字の概念が本当に理解できなかったことは今でも覚えている。

馴染みのない外国の文字を見た時にそれが何を意味するか私たちはわからない。

私はあの感覚からすべての勉強をスタートしているから、子どもの頃はとにかく何事もできなさすぎて大変だった。

当然、できて当たり前のレベルに到達するために相当練習や反復的なことをさせられていた。

もちろんそこを徹底してくれた親をはじめ周りの大人たちに感謝しているけれども、私はその時からすでに自分が
・落ちこぼれ
・人よりできない
・のろま
・グズ
・人並みにできない自分は世の中で価値がない
・世間からは認められない
ということをとても深く潜在意識に刻んだ。

だから、努力することやがんばることは私の中で当たり前のことで、人よりも何倍もやらないと本気で普通と言われるレベルに行くことができなかった。

そして、それが「自分」なんだといつからか思い込むようになった。



学力は後年何でかは知らないけれども、ある程度まで伸びた。

母いわく、先生との出会いに恵まれたとは言われた。

大学は本気で勉強したおかげで、英語だけはびっくりするぐらいに伸びた。

でもこれは元々の才があったのではなくて、超努力を重ねた結果として伸びた。

なぜなら、努力する前の私はまともに英語の長文読解はほとんどできなかったから。

中学の教科書レベルでも私は習ってない文章はさっぱり訳せなかったから、だからそこに自分が才能がないのは知ってる。



30歳になるまで私は「資格」が大事だと言われ続けたし、そのために福祉と保育士の国家資格を取るために試験を受けたり、通信の大学にも通った。

だけど、全く勉強に興味がなかったから、私は全然と言ってもいいぐらいに勉強をしなかった。

超必要に迫られたらしていたけれど、そうではない限り、学校から送られてくる分厚いテキストが何冊も積み重なったままだった。

資格はないし、手に職もない私はけっこう焦っていた。

そういう私が、リーマンショックの翌年2009年に就職活動をして、それで40社以上受けた中で名古屋の会社のみが内定、それで名古屋での生活が始まった。

私は30歳だった。

まだその時も、自分の才能とか価値なんていうものには全く向き合っていなかった。

名古屋に行って以降今に至るまでの間にあったことは、各エピソードとしてこの後紹介。



【表彰されて絶望した時間】

名古屋での仕事は学習塾の仕事だった。

その会社が学習塾も運営しているのは知っていた。

だけど、私は学習塾勤務希望で受けたのとは違う。

会社の募集要項にはもっと違う名前で募集がかかっていて、でも実際に行ったら学習塾勤務に配属されて私は本当に嫌でたまらなかった。

夏期講習や春期講習なんていう類いの講習会がある。

私が勤めていた会社は、塾生は自動的に受講するようにはなっていなくて、なんと保護者1人1人と懇談して口頭で契約前提でのやりとりをまず行って、後日案内を子どもを通じて渡して、そしてその後現金と共に申し込んでもらうというスタイルになっていた。

春・夏・冬とあって、本当に毎回嫌で嫌でたまらなかった。

だから、売上も契約率も完全に各担当者の力量にかかっていた。

そんな中、私は数字を上げた。

誰が担当しても数字の上がらない地域が私の担当だった。

そこは担当云々の前に地域的に本当に難しいと言われていた。

そういう地域で、それまでは契約率に関して60%超えたらいいと言われていた。

記憶が曖昧だけど、過去のデータが教室の中にあって、たしか30〜50%あたりをウロウロしていたと思う。

そんな地域で私は契約率をまず80%超えで数字を出した。

その後も80〜90%台をずっと維持し続けた。

ちなみに契約率が上がった理由は、お母さんたちに言わせると「きちんとうちの子を見てくれてる」というところだったと思う。

私は講習会の話を保護者にするのが本当に嫌で、私はなんと懇談の時に講習会の説明は完全に省いて、最後帰り際に一言「今度また講習会の時期になります。教室で案内を配布して近いうちにお渡ししますので、よろしくお願いします」と言うやり方に変えた。

そうしてからの方が数字も売上も伸びた。

そりゃそうだと思う。

一言以外の時間はひたすら子どもの話や保護者の誰にも言えなかった話をひたすら聞くわけだから、そりゃ伸びるよと思う。

どうでもいい営業トークをするぐらいなら、子どもの話とその他の個人的な話を目一杯時間を使ってする方が有意義だから、それが私のやり方だった。

で、会社から何回か表彰された。

誰も出せなかった数字(契約率)をその地域で出したという理由での表彰だった。

表彰はたしかにその時はいいんだけど、その後私は毎回気分が落ちてた。

今ここではさらっと書いているけれども、当時は毎回数字のプレッシャーも会社からのプレッシャーも凄かった。

気は休まらないし、限られた時間で終わりのないやることリスト、細かなクレーム対応、日々の多忙極まりない業務、私は常にパンク状態だった。

この評価を受けるために、そうした犠牲を毎回自分が払うのは全く良くなかった。

生き地獄だと真面目に思った。

そして、『数字が上がる=良い、数字が下がる・出ない=悪い』という世界観では自分が完全に潰れてしまいそうだった。

だから、評価されても私は安心感もなければ、常に何かに追われていることに自分の心の余裕が完全に失われた。



これは私のことではなく、その後ぐらいに色んな人たちから話をインタビュー形式で聞くみたいなことをしていた時に、とても印象に残ったこと。

記憶にある限り、2人の男性がそう言ったと思う。

2人とも、仕事も順調、奥さんとも子どもとも良好な関係にあって、家も建てて、趣味もあって、お金もあった。

だけど、2人とも同じように、自分の中の満たされない想いをとうとうと私の前で語り出した。

そのうちの1人は、「自分が欲しいと思ったものを全部手にした時、そこには絶望しかなかった」と言った。

もちろん欲しいものではあったけれども、それで自分が満たされるわけではなかった、そんな風に言っていた。

そして、本人の力が認められて出世したけれども、その人はその後降格人事を会社に願い出た。

それが叶った時に、「自分がどういうスタイルだといいのか、どうだと自分が気分良くいられるのか、そういうことを大事にしたいから、それを理解してその通りにさせてくれた奥さんと会社には本気で感謝している」と後日談で教えてくれた。

この話はとても私の中に強く残った。

目に見える豊かさを手にしたのに、その人たちが悩んだことはもっと別のことだった。

そして、この話が自分にとっても何かのヒントになると思った。



【習得しなければいけないと思っていた頃】

塾はいずれ辞めるにしても、資格もない+年齢がどんどん上がる私は、何か手に職ではないけれど、専門的な技術や知識が必要だと考えた。

元々心理系のスクールに通おうと思っていたのと、塾の仕事で10回近く退職願を出しても受理されなかった私は自分の人生に危機感を覚えて、コーチングの個人セッションを受けてこれは凄い!と思って学びたくなったのとで、実際にコーチングとNLPをスクールに通って学んだ。
(NLP=『神経言語プログラミング』と呼ばれる心理療法的なもの)

2年は確実に通った。

その2つは本当に学んでものすごく良かったし、今の私の思考パターンや感情の傾向なんかを理論的に分解して見たりするのに大活躍している。

けれど、当時私が思ったことは「もっと学ばないといけない」ということだった。

上には上がもちろんいるし、センスの良い人たちというのがもちろんいて、私は全然そのレベルにないことも肌で感じていた。

カウセリングでもコーチングでもその方面で開業するなら、もっと何かを身につけないといけないと思った。

だから足りない何かを外からもっとあれもこれもと足して、その足したものを組み合わせて自分だけの唯一無二のメソッドみたいなのを確立するしかないと思い込んでいた。

実際に私は当時、時間とお金の両方をかけて、本当に色んな講座やセミナー、ワークショップに通いまくった。

年間50本くらい行ったような記憶がある。
(一度数えたけれど、数は忘れた)

とにかく【自分は何かが足りてない】思考が止まらなかった。

それは子どもの頃からの自己価値も影響していたし、そして周りが凄すぎたのもあった。

これだけは私は自信を持って言えるけれども、色んな講座とかに通う中、私はほぼ9割は本物の力を持った人たちのところにばかり縁があって行っていた。

一瞬で目の前の人の体を治すヒーラーさんとか、霊界との通訳をして今生きる私たちに必要なヒントを下ろすお役目の人とか、何種類ものカードを魔法のように扱ってそこからヒントを即座に口頭で伝えてくれる占い師さんとか。

とにかく凄かった。

あと、そういうものを上手に利用してビジネス的に成功している人たちもけっこうな数で見ていた。
(↑今はこういうやり方は、長い目で見た時に絶対に通用しないと思って見ている)

私はますます自分の自信がなくなった。

特殊な能力もない。

ビジネスセンスもない。

自分の【ない】【持ってない】部分にだけスポットが当たって、かなり迷走した。

余談だけど、この体験たちもめちゃくちゃ必要なことだった。

多分だけど、私の場合はこの体験をすることがまずは必要で、そこととことん向き合うこと、向き合って違うと思ったらそれを破壊してこれまでとは違う視点を取り入れること、その違う視点から今度は景色を見ること、そこから新たな価値観を得ること、そして多分というか今この段階なんだと思うけれど、こうやって色んな人たちにそのプロセスを伝えていくこと、そこが私の1つ役割みたいなものだと思う。

何せ私はひたすら体験を数多く積んでいるから、テキストとかがいらない。

カンペなしでベラベラ喋れるし、説明もいくらでもできる。

霊能者とかの人たちの中には、遺伝的に家系的に引き継いでいる人たちも多くて、そういう人たちは幼少の頃もしくは若かりし頃からそういう世界に入っている。

私の場合は40も近くになってようやくそういう性質を帯びた自分に気付いたわけで、スタートが遅いこともずっとコンプレックスだったし、何せスタートが遅いから私はそういう見えない世界に携わらない人だとも思っていた。

そうであればそれ相応の経験をすると言われていて、私は視えたりもしなければ何か特殊な力もなかった(気付いてなかった)から、私はそもそもそういう世界から呼ばれていないと思っていた。

もしかして私は、そうした人の深いところに関わってはいけないんじゃないかと思ったことも、もう数えられないぐらい、何なら毎日のように思ってた、つい数ヶ月前まで。

だから何年と私は自分は生きる道が違うのかな?、ここではない何かを見つけないといけないのかな?、とかいうことをしょっちゅう思っていた。



【サービスの紹介でつまずく】

30代の途中からコーチングやNLPの手法を織り交ぜた個人セッションを単発で時々提供するようになった。

当時世の中で主流だったのは、プログラムがある程度決められているものだった。
(多分今もそのスタイルの提供者が多いと思う)

ここで困ったことが出てきた。

私は自分がそれぞれの人たちに何を提供しているのかはわかる。

だけど、私の場合、完全に相手の人を見てからどういう方法でアプローチするかを決めていたから、人によってやり方が全く違っていた。

ひたすら相手の話すことをメモしてそこからポイントを絞る時もあれば、催眠誘導して無意識の領域にアクセスして心理療法をすることもあれば、質問をいくつも重ねて深い意識のところにある思いを引き出すこともあった。

しかも、相手の人たちの持ってくるテーマも実に多種多様で一貫性は全くなかった。

自分の専門性とか方法論に関して、どう表現していいのかわからなかった。

そうした時に、マーケティングだの集客だのと色々情報を渡り歩いた。

何人か相談にも乗ってもらった。

専門家になればなるほど、言葉で表すことを課され、私は本当に困った。

そして、色々と駄目出しをくらった。

今ならわかる。

私の最大の強みは、相手に合わせて七変化できること。

1人1人に合わせるということは、逆に言うと相手の状態を第一にできること。

私のやり方ではなく、相手の性格や思考パターン、感情の具合なんかを見て、それに合わせたやり方になっている。

でも、先述の専門の人たちは、今思えば私ではなくその人たちが知っている成功法又は正攻法に私を当てはめようとしていたから無理があった。

今ならそれがわかるけれども、当時の私はこんな風に思っていた。

「相手はそのやり方で世の中的に仕事的に成功している。片や私はやり方が違うのかそもそも道が違うのか、全然思う通りに動いていない。だから、そういう上手くいった人たちの専門知識に沿って動く方がいいのかも」

その頃の私はまだ「社会的に受け入れられる成功・仕事こそが王道」だと思っていた。

私みたいな新参者は経験も知識も足りないわけだから、王道とは別のやり方を求めることがそもそも間違っているのかもしれない、と。



数年後にあたる去年2018年のこと。

そこが私の大きな転機になるけれど、占星術をされる方たちはほぼ皆口を揃えて言う。

生まれた時の星の配置が違う、ということは、強みや持って生まれた資質、人生のテーマも異なるわけで、その異なる部分をどう活かすかも1人1人方法が違う、ということ。

ホロスコープ業界では、自分の星をどう活かすかなんていうセミナーやワークショップはあっても、ある特定の方法があってそれを自分の人生にも取り入れて成功しよう、しあわせになろう的なものはない。

もうひとつ。

これは私が去年の夏に人生2回目のホロスコープ鑑定を受けた時に言われたこと。

どう見てもおかしな星の配置がある、と素人の私は自分で読み解いて1ヶ月ほどで気付いたけれど、とにかく稀すぎて本もネットも極端に情報量が少なくて、自分でも読み解き方がさっぱりわからなかった。

だからそのタイプのケースも何十件と見ただろう鑑定士さんを見つけて、それで私は申し込んで見てもらった。(さっきの話の先生と同じ先生)

本人は何人鑑定したか数えてないからわからないと言っていたけれど、聞いててざっと1万人以上の件数は鑑定されてることを知った。

その先生に言われたこと。

私の場合は特に、その見たことのない配置の部分に関して、誰も手本となる人がいない、だけど何かの専門には特化していかないといけないわけで(やりたいやりたくないなんて関係なくて『やらなきゃいけないこと』と説明された)、それは自分で自分オリジナルのメソッドとかを組み合わせてやっていくものだと言われた。

大抵の人は「自分が星を使う」やり方だけど、私の場合は「星にどうぞ私をお使いください」という、自分でどうこうできるものとは違うことも教えてもらった。

だから世間一般でもてはやされてるようなやり方や成功法では通用しないことも一緒に言われた。

私はこれに救われた。

なぜなら、今ならわかるから。

私は正攻法で進めたものはことごとくダメだけれども、本当に必要なことに関しては信じられない形で何かが実現していく。

私ももちろん何かはするけれども、想像もしていなかった形で色んなことがもたらされる。

自分のそういうものを見ても、私のはたしかに出方が極端かもしれないけれど、本来は決まったやり方に自分の生き方やあり方を当てはめるんじゃなくて、1人1人その人に合った方法がきちんとあって、それに合わせていくのが一番スムーズなんだろうなぁと。



【ひきこもり】

自分がそうなってみてわかったけれど、ひきこもりというのは「ひきこもろう!」と決めてなるよりも、気付けばそうなってたという感じだった。

しかもどういう状態をひきこもりと定義するのかは知らないけれど、例えば当時の私みたいに毎日のように散歩していてもひきこもりなんだろうか?と思った。

前回2014年9月から2015年の9月の間に社会参加せずに引きこもっていた頃のことを書きたい。

(この1年[2018.4〜2019.3]は本当に最小限の接触しか社会と持たなかったけれども、今回は色々意図があったり、そして私の力に及ばない部分でも相当色んなことが働きまくっていたから、この1年の話はこの場には含まない)

ちなみに当時何がきつかったかと言えば、働ける盛りで働ける体も能力もあるのに働かないもんだから、家族はじめ何人かの人たちからも非難された。

働いていることが善で、働いていないことが悪みたいな、そういう価値観で判断されてしまうことが私にはもう限界だった。

年齢は当時35歳。

私はたしかに色んなことをそこの年齢に至るまで成したけれども、私は完全に疲れ切っていた。

何かをしている自分には価値があって、何もしていない自分には価値がない。

そこに行き当たって私はパンクした。

人が見てないところで1人でよく大泣きしたし、それも何度も何度も、そして何もしていない自分が価値がないというところにどうしても納得がいかなかった。

何もしていない自分が価値がないなら、私は価値があることだけをひたすら提供する余生をこれから先も送るのかと思ったら、まっぴらごめんだった。

何もしていない自分ではダメなのかと本気で考えた。

ちなみにその時が大きな転換期の第1回目になった。

私はそこで人から何かを満たしてもらうことを切り捨てた。

これは相手はいくら待ってもそうしてくれるとは限らないことと、そういう私をOKにしてくれる人もいてもそういう人たちと出会うまで待ち続けるのもじゃあ出会えなかったらどうする?的な話で、単純に不毛すぎると感じた。

代わりに私が「絶対的に残りの人生でやろう」と決めたのは、【自分がどういう状況であれ自分だけは自分の味方になる】ことだった。

これは周りは関係ないし、そして最大の利点は周りに振り回されなくてよくなる。

さらに言うと、自分も「自分は何かしてないと価値がない」と捉えると、単純に自分が苦しいだけとわかった。

だから、私は自分を少しでも楽にするために、情けなくて社会に不参加で大概の人たちから駄目出しをくらう自分をとことん受け止めようと思った。

そういう自分も生きてていいこと、存在していいこと、それをとにかく徹底した。



【ノートの波動】

これは去年の夏もしくは秋のいつかの時だった。

ヒーラーのOさんから直接色々教えてもらった時に、武士俣さんの普段使われているノートを持ってきて下さい、と事前に言われた。

ある実験をしたいからと言われて、私は数冊東京まで持ち運んだ。

その時にOさんは中身を全く知らない状態で、冒頭の写真のノートについて、エネルギーの状態が一番重たい(≒悪い)というようなことを言われた。

ちなみに一番状態が良かったのは、私が『悪魔のノート』とこの奇跡の果実シリーズのどこかでも書いたノートだった。

私は「えっ?(; ̄O ̄)」ってなった。

羊のショーンのノートは、2014年の4月から使っている、アイデア帖だった。

そして悪魔のノートは、私の色んな負の感情、言えない人への不平不満、恨み節なんかが遠慮なく書かれている。

どう考えても前者がピュアで後者が悪魔でしょ?バイキンマン的なものは後者でしょ?と思うのに、Oさんはそうじゃないと言う。

私が中身を説明したら、こんな風に言われた。

「武士俣さん、『足りない』って思っているでしょう?」

「“足りない”って何?」と思った。

Oさんはわかるように説明してくれた。

「そのアイデア帖、武士俣さん自分では良いと思ってるかもしれないけれど、それって別の言い方をすると、『そのままの自分では価値がない・足りないので、その部分を補います』っていうことで自分以外の人の考えをそこにくっつけている。
本当は武士俣さんのままでいいのに、その自分ではダメだと思って、そしてダメだという自分を良くするために別のところからアイデアを引っ張ってきて足している。
それが重たくなる原理だと思います」

Oさんはそう説明してくれた後、その場でノートにヒーリングを施して、なんとノートの色を変えた!(◎_◎;)

経年劣化によって、色はくすんだピンクだったものが、きれいなピンクに一瞬で変わってビックリした。

Oさんに保管方法も聞いた。

「なるべく見えるところに普通に置いてあげてください」

家に戻ってから、なるべく目につくところに置くようになった。

あれから数ヶ月経過して、今はまた気持ちがずいぶんと変化した。

何かに気に入られようとやっていた自分もいて良かったし、その体験もしてきて良かった、どういう自分の体験もそれで良かったんだと思えるようになった。

そういう自分を本当に自分で受け止められるようになった。

当時はそこまではわからなかったけれども、今はこのノートにまつわる一連の流れがものすごくよくわかる。

そう、私はそのノートの中では、どこかしら人に気に入られようとか社会で受け入れられる形にしようとしていた。

本当はそんなことしなくてもいいのに。

まだその頃の私は、そのままの自分の価値を受け取る器が自分の中になかった。

まだまだ何かが足りないと感じてる自分が無意識の中で優位にあって、そしてそれとは別に自分が持っている才能や強みと言われることにも向き合えなかった。



【逃げている】

去年の10月の最後の日に、Oさんから私の魂から来ているメッセージを書き下ろしてもらった。

そこにこんな文がある。


「あなたの中から湧き上がる全てを認め、愛しなさい。
それがあなたに与える全てだ。
あなたはまだ認めていない。
これからもっと認めなくてはいけない。
それなのにあなたは逃げる。
まだ逃げても良いと思っている。」


これはその時は何を言われているのか、今ほどはわからなかった。

与えられているものは、気付いてはいたけれども、それを使うことがとても嫌だった。

このブログではさらっと「相手の人の魂や潜在意識から情報が来る」とかって書いているけれど、これは生半可な気持ちでは扱えない情報だって知ってる。

そこには人の人生が大きく関わるものも含まれることも肌で感じていた。

私は人の人生に入ることもしたくないし、何を偉そうに言葉を伝えるのかと思うとゾッとした。

しかも、人の人生のターニングポイントだったり、それこそ人の生きる死ぬに直結するような命の根幹に関わってしまうことも、これはホロスコープで言われていたからわかっていた。

自分の人生振り返ったらわかる。

そういうところに自分が居合わせやすいのも、場合によっては命懸け的な踏み入り方をしていかないといけないこともわかっていた。

生きる死ぬというのは、体の生き死によりも心とか精神の部分の生き死にの方、だと私は今のところ思っている。

自分のことだってままならない人が何でそんなことするのか?と大真面目に思った。

もれなく具合が悪くなって、しばらく布団とお友達状態だった。

自分のところに来ているお役目的な役割も色々重すぎると思った。

誰かの人生を良くしたいとか変えたいなんて思ってない。

それこそそんなのおこがましいと思う。

だけど、どこまでも対等でありながら、もしくは相手が年上の場合は礼節もわきまえるようにしながらも、それでも伝えなきゃいけないことが来たらそれは伝える伝えないは私は選べない。

やるしかない。

自分の自信のなさも内容がヘビー過ぎるのも、とにかく逃げたいの一心だった。

それを自分の魂から突き付けられ、本当に心はノックアウトされてた。

それが11月の話で、そこからこの『奇跡の果実』シリーズのきっかけとなった山で遭難したおじいちゃんとその家族との縁が出てきて、その後も続けて中学生の進路の選択のタイミングに居合わせた。

ちなみに中学生の子は、その後自分の意志で一度申し込んだものを取り下げてまで進路変更をかけて、本来進む道の方と自分の気持ちをピッタリ合わせて、そして今月の半ば無事に本物の志望校に合格した。

おじいちゃんの件は、とにかく自分の人生の計画から逃げまくっていたら、とうとう出来事が先に来てしまって、逃げるなんて考えてる余裕もなくやらざるを得ないことになった。

そうした色んなことをこの3ヶ月4ヶ月で経て、やっと今自分の資質や持って生まれたもの、魂の計画に向き合えるようになった。



【おわりに】

色んなことをここに書いたけれど、私はここに書いたことを1つとして後悔していない。

回り道みたいなことも全部必要だった。

たしかに苦しい時間も自分を否定しまくった時間もたくさんあったけれど、1つ1つのことたちは本当に色んなことを教えてくれた。

次の記事までまた間が空くといけないから、先に1つだけつぶやくと。

これまでは何かにゴールを合わせてそこを目指す生き方だった。

外側にゴールを定めて、そのゴールは世の中で通用しやすい、認められやすいものだった。

そこに合わせようともがいていたのが上に書いた諸々の私。

でも、これからは逆で、自分に合わせる。

自分の輪郭がどんな風かを知りながら、自分だけの形を整えていく。

自分を軸にして、それでただただ自分でいることに専念する。

それの方が無理がない。

そして、色々受け入れ難い自分も出てくるものの、それはそのうち慣れてきたり、上手く付き合う方法が出てくる。

これまではそれを否定して、自分ではない社会や周りに受け入れられやすい自分を作ろうとしてた。

だけどそれは自分の本質だから、本当は隠しても隠しきれないし、消えることもない。

それが自分だから。

またもう少ししたら本当に社会に出て行く時期がくる。

それまでは自分に向き合うことを優先していく。

私がここまでこだわるのは、もうその自分を無視して次には進めないから。

全部を知ることは無理でも、少なくとも「この自分で大丈夫」というところまでは持っていきたい。

そしてそれに関しては私はかなりいい線まで来た。

周りから見たら何してんだ?って話だったと思うけれども、私はもう今回だけはとにかく自分と向き合わなければいけなかった。

1年前、海部舞さんという占術家の方の本の中に「自分を生きる」とあった。

今1年経って思う。

自分を生きるためには、とことん自分を知っていくこと、そこに鍵がある。

色んな情報を書きつつ、1年前に買った超高級ノート(定価1000円越え∑(゚Д゚)!)、100枚ノートがあと10ページ弱で終わる。

最初は難しい調べ物をたくさんしたけれど、今は基礎基本を中心に調べている。

1つ1つを丁寧に見ていくことの大切さがわかってきたから。

そして、私はこの1年色んな人たちのホロスコープの読み解き方を参考にしながらここまできたからわかる。

この世に自分ほど自分のホロスコープを読める人はいないということ。

どんなに知識が豊富だったり、優れた人格者みたいな占術家でも、私のホロスコープ、言い換えれば、私の魂の設定をここまで読める人は私以外にいない。

みんな忙しいから、人の分までそんなに細かく読んでられない。

この世で20年分以上さかのぼって20年分の流れを見てまで私のホロスコープを調べる人は私しかいない。

他の人がそれをやってくれるわけない。

私がそこまでした理由は、その過去を振り返ることで自分が本当に進んだ道が大正解だとわかったからだった。

挫折や失敗、否定、批判、非難、そうした色んなものもたくさんあったけれども、それでもその1つ1つの流れで間違っていなかったことがわかった。

そしてそれは、本当に不器用にしか生きられない自分にとって、1番の自信をくれた。

ホロスコープなんて何にも知らなかった時に、私はスピリチュアルな世界のドアを開いた。

忘れもしない、2010年8月8日だった。

その日はまさに私のスピリチュアルな世界や心の深い部分に関して革命の星、天王星が入った時だった。

ピッタリだった。

本当につい2、3週間前に初めて知った。

過去の特定の日の空模様と自分の生まれた時の空模様を重ねて見ると、もう言葉が出ないぐらいにピッタリのタイミングでピッタリのことを体験している。

体験は何も「学びを始めた」なんていう明るいものだけじゃなくて、うわぁこれ困った!というのもある。

他の人たちがどの程度そういう天体的な影響があるのかは知らないけれど、私の場合、もう個人のがんばりとかで通用するようなレベルではないところで物事が起こっている。

そこから私は自分をゆっくり時間をかけて知ることを始めた。

あの時はまだ上に書いた、塾の営業や数字でメンタルはマックス具合が悪かった時だった。

でも、わかる。

もしそれがなくてそこそこ穏便な生活を送れていたとするなら、私はこの世界には入ることがなかった。

本当に嫌になるぐらいホロスコープはストライクな答えを見せてくるけれど、私がそうした世界をすごく毛嫌いしたり苦手意識を持つことも、そしてある一定の年齢に達した時にそちらの世界に入ることも、そして死ぬまでその世界の中で何かしら自分を使っていくことも、全部ホロスコープに出ている。

そして一見悪そうに見える、もしくは私が人生で失敗してると思っていたような時期さえも、それが正解なんだと教えてくれる。

やんややんやと言われていた時や、誰も味方がいないとすごく心細かった時さえも、その全てが必要だったんだよと言わんばかりの様相を呈している。

だから、苦しい時も本当に前を向けないぐらいに強烈だった時も、それら全部を含めて「生きる」ということで、その渦中をひたすら何だかわからずに本当に不安だらけで過ごしていた私に今は感謝しかない。

本当によく耐えてくれたなと思う。

そういう自分のこともわかってきたから、より一層自分を大事にしたいなと思うようになった。

そしてもう1つ。

何せホロスコープを読めるようになったことである程度の未来予測ができるようになった。

何が起こるかはわからなくても、とりあえず影響がどういうところに出やすいかというのはわかるようになってきた。

来年2020年は、私のホロスコープは未だかつて見たことのない様相を呈している。

こんなのは私側の都合だけど、何せ異常の中の異常だと素人が見てもわかるぐらいだから、普通には過ごせないことが予測が立つ。

たった1つ2つ空の天体と自分の天体が重なってるだけでも私なんかは人生トップ10に入るようなすごい影響が出るのに、それが10だかそれ以上か忘れたけれど、それぐらいの空の天体たちが同じ時期に同時に重なってくる。

もうどれだけすごい影響が人生に出てくるのか想像がつかない。

私は来年春分の日あたりまでに3人の人たちから自分の流れを見てもらおうと思っている。

値段まで言うのが卑しいけれど 苦笑、でも冗談抜きで私は五万円以上かけてでも自分の来年は見てもらう。

1人はホロスコープの先生から。

先生からは私に合わせた天体的な流れを読み解いてもらう。

1人は霊界と繋がって私の魂や守護霊と繋がれる人から。←これは毎年抽選だから、受付開始と同時に申し込まないといけない。必要なら抽選に当たると思う。

これは私の見えない魂やら守護団的な存在から直でメッセージを下ろしてもらう。

過去2回してもらって、本当にその通りの流れを1年を通じて体験したから、それで今年の年末になったら申し込みたいと思っている。

1人は近いうちにこのブログで紹介するカードリーディングの方から。

この方からは私の潜在意識から読み解いてもらう具体的なことをアドバイスしてもらいたい。

尋常ではない時代の流れとそこに見事マッチしている自分の人生の流れがわかっているからこそ、その中で自分が生きていくための準備だけは自分のためにしたい。

これまでは自分のために何かするという発想がなかった。

でも今は自分を中心に据えて、自分が生きやすくなるために、又は進む時に少しでも安心して進めるためにどうしたらいいのかを考えるようになった。

自分の避けては通れない宿命的なものを前に、今静かに準備している。

自分が選んで生まれてきたと言われたらそれまでだけど、そんなに私は割り切って考えられないし、やっぱり怖いものは怖い。

でも人に何と言われようと、私は私の人生を生きていかなきゃいけないから、その自分が生きていくのに本当に必要だと思うことは自分のために目一杯やりたい。



このブログのどこかに書いたかもだけど、今回の内容を書くにあたって、これも紹介したいと思った私の独り言。

日付は今年の1月30日になっていた。


【内面的な自信

X…何かを成し遂げての自信
◯…弱くなっている、何も社会に価値を提供していない自分、そういう時の自分とも一緒にいられたこと。
そうした時を何とかのりこえたり、やりすごしたことでついた自信。
→だから揺るがない。】


【◯◯さんに愛されなくても、
自分の足で立てたこと
ものすごく愛されたくて仕方なかったけれど、
それが叶わなくても、
笑ってる自分や楽しく過ごせてる自分、
他の涙も流せる自分、
そういうものに気付けて、そうした中でつけてきた自信。】