2019年10月29日火曜日

蠍座新月のつれづれ記

久しぶりの墓参り






蠍座(さそり)新月の今日の徒然。
(2019/10/28)



☆洋書の注文

「洋書」って言うだけで賢く見えるv( ̄∀ ̄)v

新月の日に洋書注文なんて、超いけてる!!!

とうとう、一線を踏み越えた。

占星術の中のサビアンシンボルの和訳を始めたことで、ちょっと気になる占星術用語を英語で調べた。

日本語だとあまり情報がなくて、英語の方がきちんとした情報がありそう!と思って調べたらビンゴで、その流れの中でとある1冊の占星術本の見本サンプルに行き着いた。

情報についてはこの後触れたいけれど、その行き着いた1冊が本当にすごく良い本だった。

前々から占星術の総合一般書みたいなのが1冊欲しいと思っていた。

それに超相応しい内容で、しかもサンプル部分だけでもありえないぐらい深い内容に触れていた。

占星術の新しい切り口(少なくとも日本語でその方法論を謳っているサイトも本も見たことがない)を教えてくれて、それが超使える良いものだった。

「残り1冊」のフレーズにやられて(笑)、初めての「海外から発送」と出た商品をこの度ポチった!

コンビニで支払う前に支払い番号がメールにくるからYahooメールを開くと、他の受信メールによって今日が蠍座新月と気付いた。

新月に洋書の占星学本を頼むなんて、超カッコいい!!!、ともはや視点がおかしなことになっていたけれど、ルンルンしながらレジに支払いに行った。




☆本物志向

ここではサラリと触れるぐらいにするけれど。

その英語で、とある占星術用語を調べたら、日本では誤ったというか、日本の文化や風潮に合わせて情報が超歪められた状態で伝わっていることが判明した。

いくつか訳して、占星術クラスメイトだったノムにもそれを送りつけて(私の和訳の方)、どう思うかを聞こうと思った。

2人とも同じ感想を抱くんだけど、「しっくりきた!」。

これまで情報があまりに少なくて、その少ない中でもなんかしっくりくる解釈がなかった。

私たちの先生は下調べとか超する研究肌の人だから、基本的にいい加減な情報は絶対に渡してこない。

もしその用語を先生が講座でカバーしてくれていたのなら私は調べなかったけれど、先生は触れなかったから、それで私は調べるようになった。

サビアンシンボルを英語で初めて調べた時に、日本に出回ってる解釈と随分違っていて驚いた。

今回の用語もそんな予感があって調べたらビンゴだった。

日本語で調べていた時には出てこなかった情報が最初の20件くらいのサイトの中にきちんとあった。

そしてどこまでもきちんとした解釈で感動した。

ノムもしっくりきた、と感想として第一声にそう言ったから、余計とこの情報で当たりだったんだと確信がより一層持てた。

食べ物は食べれるならいい、服も着れるならいい、化粧水は自分に合ってるならいい、などと普段の生活は超適当だけど、私は自分の興味ある分野の情報に関しては絶対にきちんとしていないと嫌だと感じるところが強い。

唯一本物かどうかにこだわるポイントかもしれないくらい、超こだわる。

星も心も、そうした目に見えないものたちこそ、本気でいい加減な情報が大嫌いなんだとわかる。

唯一の本物だけにこだわるところが蠍座っぽくて(蠍座は「これ!」と思ったものをとにかく超大事にする)、今日の新月に相応しいなぁなんて思った。




☆お風呂で読書

風呂の中で読む本がどれもしっくりこなくて、「新月」ならより一層しっくりくる本がないかとしばらく本やノートたちを手に取っては開いて見て「これじゃない」となって戻して、また次のを…なんていう風にしていた。

過去の自分が書いたもの、それも心理ワークとかではない日記の方がいいと思って、前々代の日記帳(2005〜2014年)を出してきた。

その中からいくつかを紹介。




☆ピラミッド

ーー2009.1.9
Chichen Itzá (チチェン・イツァ)
人生初のピラミッド。
(しばらくピラミッドの感想が数行続く)
何千年ていう歴史を積み重ねたものの前に自分が立ったら何か目の前が拓けるかもしれないと思ったけれど、混乱は相変わらず混乱のままだった。



日本帰国まで半年切ったのに、先のことなんか何にも決められないわ、やりたいことないわ、超絶受け入れられない現実(30歳独身1から人生やり直し)はあるわで、私はピラミッドを見たら何かひらめくかなぁと相変わらずのんきな発想をしていた。

だから現実の何千年級の歴史建造物を見ても、自分の心の中に何も芽生えないのは相変わらずなんだと知って愕然とした瞬間があった。

幸い旅行中でそんなのはまたすぐに忘れるんだけれど、10年後の2019年にこれを読んでも、「相変わらずだなぁ…」と思った。

少し違うのは、そういう外側のすごいものに触れたからと言って私は自分が変わるようなことはほぼない頑固さを持ち合わせていることを今は知った。

それを知っただけでも大きな成長だと思う( ̄∀ ̄;)。

ちなみにさらにどうでもいい情報だけど、私はメキシコ国内のいくつかのピラミッドを見に行って、実際登れるものは階段を登って上に上がったりもしたけれど、自分はそもそもピラミッドなんかに興味がないということも知った。
(エジプトのピラミッドとは形が違う)

ピラミッドファンならもう至福の悶絶級の時間だと思うけれど、私は途中から飽きた。

そして、極め付けは別の日に最後に立ち寄ったピラミッドで、そもそもバス降り場を間違えて、まずは歩いてその距離を戻って、そして中に入ったら超広大な敷地で、ピラミッドに行くまでも、そしてまた入口に戻るにも30分以上かかった記憶があるけれど、その移動時間だけで超グッタリした。

何千年の歴史的価値よりも、今目の前の体力問題の方が私には重大だったことだけが延々と綴られていた( ̄∀ ̄;)。




☆結婚に対する予言

ーー2008.8.6
未だかつてない位、結婚したい病にかられている。某コンクールイベントで使う飾り付け、ちょうや花、それをひたすら一人で黙々とやって、自嘲的に何やってんだ私!?って思った。悲観は全くしていないけれど、何だかなーと物思いにふけってしまった。何したいって結婚したい。20代、十分突っ走ってきたから、次はゆっくりのんびり家庭生活営みたい。
(中略)
何だか未来が遠い。また一人でがんばってそう。そして何やってんだ私?って思ってそう…そんな人生イヤ!



何この恐ろしい予言…Σ(꒪◊꒪; )))) !

29歳の私の心のボヤキがまるでその後の私を物語っていて、一人でがんばってそうだとか、何やってんだ私?って思ってそう…とか。

当時はあくまでボヤキだったはずが、11年後もしっかりその内容が引き継がれているという驚愕の事実。

家で内職みたいなことしていたんだろうなぁということも今は思い出せないけれど、手を動かしながら私は未来に想いを馳せて、希望とは別のそんな風にはなって欲しくないことも想像していて、まさかまさかその想像側が現実になるなんて。

ちなみにこれは引き寄せとかではなく!!!、もうどうにもできない宿命的な流れだったんだろうと今は思っている。




☆居心地がいい理由

ーー2009.1.22
〜サン・ミゲール・デ・アジェンデ、メキシコ〜
(San Miguel de Allende)

今気付いた、この街がどうして居心地がいいのか。一人で気軽にレストランに入れて、一人でいる人もいて、そして一人でいることをあまりジロジロ人に見られないからだ。みんなそれぞれ自分の時間を大切にして、自分のしたいことをしている。誰にも何にもしばられずに。

さっき男の人に”Buen aproveche”と言われた。笑顔付きで。それがまた素敵で、いいなー、こういう自然で力の入っていたい雰囲気と思った。

(Buen aproveche=美味しいごはん(時間)を!)



この街のことはかなりよく憶えている。

とにかく雰囲気が良くて、朝も夜も出かけることができた街だった。

東洋人の女が1人でウロウロするのは、街によっては目立って仕方なかった。

だけど、その街はそんなこと全くなくて、みんながみんな思い思いに過ごしていて、人のことよりもみんな自分の今のこの瞬間が大事!と言わんばかりに、目の前の1人の時間や誰か大切な人との時間を、これ以上ない全力で自然体で過ごすのが当たり前だった。

それがみんなの当たり前だったから、私も1人で過ごしていても浮いてはいなかった。

到着したその日が街の生誕祭で、生演奏に合わせた打ち上げ花火があった。

それにも私は1人で出かけた。

終わった後、冷えた体を温めるために、どこかのカフェみたいなところに寄って、ホットチョコレートを買って宿に持って行ったと記されていた。

1日目の夜はパエリアを、2日目の夜は生のジャズ演奏を聴きながらステーキを食べた。

もちろん1人で。

さすがに夜は1人というのが多少気にならなかったわけではなかったけれど、それでも平気だった。

読み返しながら、この頃から無意識に「1人でいても居心地が良いかどうか」を自分の肌と心とで確認するクセがあったんだなぁと思った。

無意識に「1人の人生」を静かに想像していたんだと思う。

1人でも楽しめるのか、1人でも居心地よくいられるのか、そんなことを30歳目前の私はしていた。




☆誕生日直前の夜明け飲み

ーー2013.3.11
AM3:00。ムクっと起きて、簡単おつまみを作ってお酒タイム。若干の罪悪感はあるものの、粋で楽しい。まだ生まれてない34年前の私に、34歳のド出発にお酒を飲むことも組みこまれていたんだろうか(笑)。ちなみにメニューは、きゅうりと大豆の酒かすドレッシング和え、こんにゃくのてり焼き、きのこのソテー(これは作り置き)。お酒はレモンじゃなくて、グレープフルーツ味のチューハイ(Alc.9%)。
なんとなく、布団の中で起きようかそれとも寝ようかと迷ってるよりずっと健全な気がした。そして、ウインナーをメニューから外したことで、これもまた良かった(笑)。おなか空いた!と思った時に、コンビニに行くんじゃなくて、あえて作って食べる自分、しかもさっと作る為の材料があるのはありがたい。
ふと必要なものは全て揃っていることに気が付く。



誕生日を迎える直前の真夜中の3時につまみを作って飲んだらしい。

つまみをさっと作る元気まであったようだ。

色々ツッコミどころ満載だったけれど、日記の中の私はとても楽しそうだった。

今回は書かないけれど、他にも私は、クリスマスイブの日に高級ホテルラウンジに行ってケーキセットを1人で食べて、どれだけ孤独に感じるかや、どれだけ世の中にカップルがいて自分はお一人様加減なのかを見に行くという、すごい実験をしていた(うっすらとしか記憶がない( ̄∀ ̄;))。

ちなみにその実験も楽しんでいた!

ここまでくると、お一人様の楽しみ方の達人だなと思う(笑)。

クリスマスイブの1人でホテルケーキセットも、誕生日直前の真夜中に1人家飲みも、私は全然平気だった。

私は1人の孤独は耐えられるけれど、目の前に誰かがいるのに心が通っていないことの孤独の方が耐えられないから、そしてその手の孤独は様々な場面で体験を重ねまくったから(もちろん自ら体験したいわけもなく、そういう状況が自動的にもたらされた)、そういう意味で、1人ステーキも1人クリスマスイブも1人誕生日家飲みも楽しむことができた。

この孤独について、いつかブログに書けたらいいなぁなんて思った。



「酒かすドレッシング」はクックパッドで検索したもので、実際のレシピとは少し違う。

毎年のように、農家に婿入りしたおじが酒蔵を持っている義理の親族から酒かすを大量にもらうようで、それが母からの荷物で私にもお裾分けがあってやってきたものだった。

あまりに大量すぎてどう使っていいかわからなかった私は、クックパッドである時検索して見つけたレシピだった。

ちょっとブルーチーズまでいかないけれど、チーズ系のドレッシングみたいでおいしい。

材料は、
・酒かす(レンジで20秒チン)
・味噌
・酢
・ヨーグルト
ヨーグルト大さじ3に対して他は大さじ1。

それらを混ぜておしまい。

ディップにしてもおいしい。




☆しりとり

もうすぐ4歳になる姪っ子と電話越しにしりとりをした。

本人の中で大ブームらしい。

そしてお盆から2ヶ月の間で、めきめきと力をつけて、きちんとしりとりができるようになっていた。

ちなみに家では、疲れ切ったお父さん(義弟)とやると、「パン!『ん』がついたからおしまい!」と速攻で終わるらしい( ̄∀ ̄;)。

私の番になった。

2回目か3回目の「ち」だった。

うーん、思いつかない、とか言っていたら、電話の向こうで
「ヒントあげるね!たべもののなまえです」
とさやが言い出した。

「えー、思いつかない!」

「ちー」

「あ、チーズ!」

「せいかい♪(๑ᴖ◡ᴖ๑)♪」

いつのまにか、ヒントを出す腕前になっていた!

今度はさやが「ず」から始まるものに当たった。

少し沈黙の後、
「ずにか」
と言った。

「うん?ずにか?ずにかって何?」

「たべもののなまえだよ!みんなたべたことないたべもののなまえ!」

Σ(꒪◊꒪ )))) !?

「じゃあ、ふみこは今度『か』で始めたらいいの?」

「うん、そうだよ!」

3歳児凄すぎる( ̄∀ ̄;)。

さらにその後、電話を切るために「メロン。あ、『ん』が付いたから終わりだね!」と言ったら、「うんうん、じゃあこんどさやがはじめるね、めーだーか!」となんと自分の番にして再スタートするという荒技を普通にやり出した。

最後は、電話を自分も切らない、おかあさんとふみこも切っちゃダメ!となって、電話を終わりにすることをものすごい渋った。

ここは最終手段で、米を送る送らないとか言っていた母が、さやにプリキュアの髪飾りを買って一緒に送ろうとしたのは知っていた。

さやに
「師匠がさやにかわいいの買ってたよ。電話切ろうって言われた時に切れるいい子には行くけれど、そうじゃないと行かないみたいよ…」と言っているうちに切れたΣ(꒪◊꒪; )))) 。

直後に妹からLINEが来た。

「お楽しみの物の話を聞いた瞬間、ボタン押した💧」

恐るべし3歳児!

己の欲望にどこまでも忠実な生き方のお手本のようだった。




☆退会

先日から狙っていたLINEのグループ退会を決行した。

かれこれ2年近く、ものすごく不定期に発動するLINEグループではあったけれど、その内容が本当に毎回疲れるものばかりで、いつか退会しようと思っていた。

どんなに多くても1ヶ月に一度、ない時は2ヶ月3ヶ月間が空いている気がする。

だけど、ある時からそのグループLINEは、常に愚痴で始まり、その愚痴が毎回毎回私の神経に触って仕方なかった。

とにかく愚痴を言うためにその中の1人が何かしら送ってくる。

疲れてるのは仕方ないし、それを責めるつもりもない。

だけど、毎回それで、毎回見るだけで疲れて、私はある時から何も返信しないやり方にした。

やっといて良かったことは、その他の人たちには、具体的に何が嫌でそれを理由にいつかグループLINEは退会するかもしれないと言っておいたことだった。

最後にきた時、これはもう本当に退会しようと思った。

別に何がどうというはっきりしたことではなく、その毎回不快なり不愉快なりになるやりとりを目にするのは金輪際辞めたい、それだけだった。

その場ですぐにやると面倒だと思って、みんながそのLINEのやりとりを忘れて落ち着いた頃にやろうと思っていた。

そして突如思いついて、退会した。

退会はあっという間に終わった。

これごときの、1分もかからない手続きのためにこれだけの心労を払った自分に、よく耐えたなと思った。

たった1分であっという間に終わることに私の心は侵食されていた。

2年近くウダウダと来てしまったけれど、これで永遠にそのグループからは解放されたかと思うと超スッキリした。




☆告白

ノムとスピリチュアル業界のとあるテーマについて話そうと約束してから何だかんだと時間が経って、ようやく新月の今日話すことができた。

本当は翌日だったけれども今日と明日が入れ替わったことで、急遽今日になった。

実はすごい緊張していた。

自分のその秘密とは言わないけれど、自分の評価が99%はおかしな方にいく内容だから、言いたいことでは決してなかった。

でもそのスピリチュアル業界の話とリンクするものがあって、それはすなわち今後も出てくる可能性のあるものだから、もう言ってしまおうと思った。

告白は呆気なく終わり、ノムはまるで他の話と変わらないままで、なんなら自分も同じだからと自らの告白も始めて、2人で「な〜んだ」となって話は続いた。

まるで星の話や心の話をするように、それは終わった。

終わってみたら、そんな奇跡みたいなこともあるんだと知った。

そして、秘密ではないけれど、それをお互いに伝えたことでもっと仲良くなれることもあるんだと知った。

超マイナスなことで、私はそれによって相手の中にある自分の印象や今ある人間関係が良からぬ方にいってもおかしくないと思っていることが、逆に強力なボンドになるなんて思ってもいなかった。

私の人生にはまだ奇跡が起こるんだなぁ、ありえもしないことが有り得てしまう、そんなこともあるんだなぁとなんだか嬉しくなった。

それが新月の日に、それも12星座中一番浄化の作用の強い蠍座の新月の日にそうなったことが、ことさら嬉しかった。




1日明けてノムからメールで聞かれた。

「ぶっしーにとって、よろこびってなに? なにがたのしい?」

色々考えてみて、今書いてて気付いた。

「小さな奇跡をたくさん目撃すること。
小さな奇跡にたくさん触れること。」

ここに書いたことは、みんな今振り返ると、「小さな奇跡」の連続だった。

少し前に読んだ吉本ばななさんのエッセイ『イヤシノウタ』より。

【なんてことないように思えることが、あとですごくだいじになるよ】

今ならわかる。

本当になんてことないことたちが、時間の経過と共に、その時にしか存在しなかったことだと知る。

そして、その時にしか見えなかった景色や気持ちが、後になってから永遠のものだと気付く。

たくさんの思い出を、それが自分一人でも思い出を作ることが、後からうんとたくさんの何かをもたらす。

それは他の何にも代えられない宝物のようになるんだなと、これを書いてて改めて感じた。

ピラミッドも1人ステーキもLINEのグループ退会もノムへの自分のことの告白も、すべてその時にしかなくてでも自分を作る大切な何かなんだと思い知らされる。

小さな奇跡を大事にできる自分であり続けたい。

そっと自分に誓った。

2019年10月26日土曜日

癒しの言葉【バイロン・ケイティ】


ベンチの隙間から顔をのぞかせていた
一輪のコスモスの花
今回の「癒しの言葉」みたいに
そっと心にビタミンをくれるような花だった。

ベンチのあったイングリッシュガーデン



Life is simple.
Everything happens for you, not to you.
Everything happens at exactly the right moment, neither too soon nor too late.
You don’t have to like it, it’s just easier if you do.
- Byron Katie 

(日本語訳)
人生はシンプル。
すべてのことは、あなたに起こっているのではなく、あなたのために起こっている。
すべてのことは、早すぎず遅すぎず、これ以上ない正確な瞬間に起こっている。
あなたはそのことを好きになる必要はないけれど、好きになった方が生きやすくなるわよ。
ーバイロン・ケイティ(アメリカのスピリチュアル系自分質問メソッドの実践者・著者)

(和訳:私)




ネットで見つけた文章。

本当に読むだけで癒されて、私の和訳がどの程度原文の良さを伝えられているかはさておき、本当に良い文章だったから紹介。

朝から気分がちょっぴりザワザワする日。

そのうち怠く(だるく)なって、異常な眠気に襲われて、起きてることさえしんどくなって、ウトウトしながら毛布と羽毛布団かぶって眠りに落ちた。

こんなことものすごく簡単に想像できていたから、今の家が2年前に建て直される時、和室・洋室の部屋の二択があったけれど、迷わず「畳を敷いて欲しい!」と言った。

妹たちもこれには賛成で、最初から誰もフローリングで寝ることは考えなかった。

今日はすぐに起き上がるつもりで畳に横になったけれど、全く起き上がれなくて、それで気付けば3時間はウトウトと寝ては起き、寝ては起きを繰り返した。

「起き」というのは「起き上がる」んじゃなくて、「目が覚める」ということ。

目は一瞬開けるけれど、またすぐにパタっと眠りの世界へと戻って行った。

なんだか憂うつな感じで、夕方5時過ぎに目が覚めて起き上がっても、イマイチ元気が出なかった。

気分はまだ低空飛行している。

何せ低空飛行マイスターのようなところが私はあるから、低空飛行は低空飛行でも超ド級・上級・中級・初級・入門くらいの差があることにある時から気付いた。

今日は初級〜中級ぐらいの低空飛行。

超ド級の時は完全なる戦意喪失だから、唯一の避難場所「布団」を自分のためにさっと敷いて寝る。

入門は低空飛行ザワザワするなぁ程度で、基本は動ける。

だから、初級〜中級になると、自分を元気づけるための何かはできるかも…ぐらいの余力がある。

今日はそのタイプだったから、そうだ、今やっている占星術のサビアンシンボルの英語を1つ訳して、そこから元気をもらうことにした。

360回全部であるうちの今40個以上はすでに手をつけていて、だから差し引いて約320個の選択肢がある。

そもそも本気モードではないからちょっと気楽に訳せるのがいいと思って、魂チャートと私が呼んでいる方のもので、心の拠りどころを表すサビアンシンボルを訳すことに決めた。

私の魂は何をもって安心感を感じたりするのか、それが今この私の低空飛行のヒントになってくれたらいいなぁ…、そう思って訳し始めた。

珍しく難しい単語がほぼない。

ほぼないけれど、「卒業する」という意味の英単語がその文章全体の動詞になっていて、それがこれ以上ない迷宮入りへようこそ!の混乱をもたらした。

単語は全部揃ったけれど、明らかにおかしい。

「階段に並んで卒業した」って何?みたいな。

しかもこの階段がこれまたお城とかにあるような広い階段で手すりも踊り場もあるみたいな、映画『タイタニック』に出てきた、主人公の2人が木製の階段を降りてダンスパーティーに参加するシーンがあるけれど、その手の重厚な階段を指す。

シンデレラ城とかみたいな中にありそうな、舞踏会の時にメインのプリンスとプリンセスとが手を取り合って階下の参加者たちの前に現れるみたいな。

その手の階段と「卒業する」の単語がどうにも結びつかなくて、卒業証書授与式みたいなのとも違って、「これはどんな状況を表しているんだろう?」と思った。

マニアックな話だけど、私が持っている日本語のサビアンシンボルの本も、日本人の方々が発信されているサビアンシンボルの解説サイトも全くこういう時は役に立たない。

想像して情報を発信されるのは全然いいけれど、私が今欲しいのは、原文を正しく理解することだから、そういう想像とかは要らない。

これは英語の原文を英語ネイティブの占星術家が解説してくれてる文章を探す方が早いから、それで英語での検索を始めた。
(↑低空飛行とは思えないパワー( ̄∀ ̄;))

そうして見つけたのが、冒頭のバイロン・ケイティさんという御年76歳の女性の言葉だった。

読んだ瞬間、ふわーっと包まれるような、「これでいいんだよ」って言ってもらえたみたいな安心感が言葉の向こうにあった。

低空飛行マイスターのようになっても、やっぱり低空飛行はいつの時もキツいし、できるだけ気分は明るい方が自分とも付き合いやすいし、それだけ健やかでいられる。

前に比べて、低空飛行の時間や低空飛行の自分とはものすごく付き合い方が上手になったけれど、それでも決して「カモーン!低空飛行!」とは絶対にならない。

サクッと調べたら、バイロンさんは30代か40代の頃、重度のうつになっている。

3人の子どもを抱えて夫婦関係崩壊に近い状況だったらしい。

アルコール依存症も薬物依存症、過食症もやっている。

そういう体験をした人が言っている。

「すべてのこと」というのは文字通りすべてで、良いことも悪いことも指す。

都合の悪いことや災難みたいなのも指す。

今日みたいな低空飛行の瞬間やそうなっている自分のことも含まれる。

それらすべてが、自分に降りかかっているのではなく、自分のために起こっていると言っている。

それは今ここまで来たから、2〜3年前よりも数段意味がわかる。

色々降りかかってきたとしか思えない受難の数々は、後にそれ無くしては本命のものに辿り着かないとわかった。

例えば今日だって、こんな風に低空飛行にならなければ、上の文章に辿り着くことは無かった。

すべては偶然ではなく必然だと思えるようになってきたから、そして今日みたいな低空飛行だって必然などと積極的に思いたいわけではないけれど、でも必要は必要だったんだと思う。

ちなみに、私の場合は体調不良や心の低空飛行のおかげで、難を避けられたことが過去に色々あるから、渦中は「何で今日具合悪い(涙)?」なんて思っても、後々にそれで助けられたと知ったりするから、そういうことも大切なんだとわかるようになってきた。

【すべてのことは、早すぎず遅すぎず、これ以上ない正確な瞬間に起こっている。】

これも本当にそうだなぁって。

寸分違わず、本当に絶妙なタイミングですべては起こっている。

全部が全部そう思えなくても、いつかどうしてそうだったのかわかる時がくる。

特に超絶納得いかないことは、いつまでも自分の中で激しくくすぶっているから、どうしても「だからか…」とわかるまで超苦悶する。

苦しい。

先が見えなくて不安になりまくる。

本当に今この瞬間が大丈夫なんて1ミリも思えない。

それでもすべては必要なことがこの上ないタイミングで起きている。

40年ぐらい時間を重ねると、そういうことが少しばかりわかるようになった。

日本語だとそれっぽちなんだけど、英語だと言葉がより強く感じられる。

exactly the right moment
exactlyってだけで、ドンピシャそれだけですって言ってる。

それって1ミリとか1秒とかのズレもない完璧さを私は言葉から感じる。

日本語と違って、英語の言い切りは本当にスーパー言い切り100%だから、そして100%でない時はそうではない言い方を基本的にするから、だからこれが超ピッタシそれですよ!って物語ってる。

ただでさえ言い切っているものに対して、さらにexactlyって付けてるから、本当に100%YESのものにもう100%YESをくっつけているぐらいの強さがある。

the right momentの「right」も、たくさんある中の唯一正しいもの、っていう感じになる。

だから、the right momentはある一瞬の時を指して「その時」になる。

そして、それをさらにゴリ押しするように、
neither too soon nor too late
とこの後続く。

neitherとnorの否定が入ると、100個選択肢があるなら100個すべてNO、1000個選択肢があるなら1000個すべてNOを指す。

1つとしてYESを許さないから、超言葉が強くなる。

だから、「すべてのことは、早すぎず遅すぎず、これ以上ない正確な瞬間に起こっている」というのは、本当にそれ以外の選択肢はなくて、その瞬間に起きたことはその瞬間にしか起きることが絶対にできなかったとわかる。

【あなたはそのことを好きになる必要はないけれど、好きになった方が生きやすくなるわよ。】

語り口調のように訳したこれ。

もう、読んだ瞬間、一番のポイントを突かれた気分だった。

低空飛行はじめ、災難系、受難系、苦悶式、超絶納得いかない案件などなど、1ミリも喜びの要素がないものも、当然人生には起こってくる。

のし付けて返したいぐらいのものは、もう数かぞえられないぐらいにたくさんあった。

だけど、そうしたものたちを好きになるのは難しすぎるし不可能に近いものさえ感じるけれど、代わりに邪険にしないぐらいにはしたいなぁとここ1〜2年で思うようになった。

邪険にすればするほど、自分の人生そのものがますます大変になると知って、とりあえず邪険にしないで受け入れることをすると、摩擦が少なくなって大変さも下方修正される。

だからその言葉が身に染みてわかる。

easierになる、って言ってるその言葉の意味がよーくわかる。

好きにならなくてもいいけれど、好きになった方が、好きになれないならせめて邪険に扱わない方が、物事は簡単だよ、やさしくなってくれるよって、ホントその通り!




最後に、そうだ!今だ!と思った3歳の姪っ子の言葉を紹介。

夏のお盆帰省の時に、私に突然さやが言ってきた。

さやと私とで何かしらごっこ遊びをしていた時だったと思う。



「かみさまってしってる?
かみさまってみんなをまもるためのかみさまなんだよ」



小さなかみさまは私にそう言った。

私はごっこ遊びも忘れて、一瞬泣いてしまいそうだった。



夏のショットなど。

左:名言を言った3歳児
右:しゃぼん玉本気でやってる40歳(和訳担当者)


2019年10月24日木曜日

沈没船みたいな現場のたわごと

あるルポルタージュと言えばいいんだろうか?調査をしてその調査結果に基づいて書かれる文章の類いがある。

たまたま読んだのが、某物流センターでの死亡事故で、それ読んだ時に「人1人死んでても不思議じゃない」と妙に納得してしまった。

その倉庫は東京ドーム4個分の大きさがあるようで、その中で作業していた人が倒れて、倒れた後も社内の上→上→上…という具合に、救急車を呼ぶまでにも何人もの人を通して、呼んだ後到着後も広すぎる倉庫内で15〜20分かかって(警備担当も内部の倉庫がどこにあるのか定かではなかった模様)、救急隊員からその時間があれば助かる命があるから緊急時の経路の確認と確保を相当強く注意を受けたようだった。

実際にそこで倒れた方は亡くなられた。

でもそれを倉庫内のミーティングで共有されることはなかった。




そんな内容だった。

私はその倉庫は知らないけれど、倉庫の親会社は仕事で関わったことがあるから知っている。

仕事で関わった時も一事が万事そんな調子だった。

当時私は、クレジットカードの不正利用対応の部署に派遣で行っていた。

お客さんと不正利用が行われた店舗やサービスの間に立って、双方とやりとりする仕事だった。

その時にその倉庫の親会社、日本全国誰でも知っているような業界最大手みたいな会社ともやりとりをした。

とにかく毎回毎回、びっくり仰天なイレギュラー案件がその会社相手のものは起こっていた。

私は5ヶ月しかその仕事はしなかったけれど、イレギュラーな回数は群を抜いてすごかったし、正直なところ、イレギュラーなことがその会社に限っては起こって当たり前だなぁと感じた。

本当に大きい会社な上、そもそもの抱える仕事件数の母数が多いだろうことと、そしてその母数に合わせての就労者の数も莫大だと思われた。

毎回違う人が担当だったから、それだけ人数がいなければそんなことはありえないから、もしくは人の入れ替わりが激しいかだと思うから、とにかく毎度毎度違う担当者相手に私も私の担当分をやっていた。

それだけの人が関わるから、常に責任者不在なのか、とにかく血の通った対応が為されなくて本当にビックリした。

まるで物を扱うように人間や人間が関わる何かにも関わっていて、私もその会社のサービスを時々利用するからしのごの言えないけれど、便利さの裏側は強烈極まりないといつも感じていた。

真面目に、人が1人死んでる方がその会社に関しては普通のように感じる。




話は変わって、ついでに別のことを思い出した。

私はそことは別部署にも勤務したことがあった。

同じフロアにいて各デスクに電話があるにも関わらず、そこは即の連絡もショートメールみたいなのを送信する仕様になっていた。

内線ではないのが不思議で(内線機能もある)、内線が繋がらない時の第二の手段ではなく、なぜか第一の手段がそれだった。

便利なのか不便なのかさっぱりわからない手段だった。

その死亡事故の記事を読んだ時に、上に上に上にと何人もの上の人を通さないと救急車1台すら呼べない、そんなアホなことがあるのか!?と普通は思うけれど、私はあるだろうと思った。

その部署にいた時に実に不思議なことがあったことを思い出した。

その部署は主にローン申込に関する問い合わせの部署だった。

個人ではなく、主に法人相手の問合せ電話だった。

法人の実店舗では個人のお客さんも法人のお客さんもいるけれど、申込全般はその実店舗である法人の営業さんから連絡が入ることになっているシステムだった。

その時のこと。

私は一度その問合せの時に誤案内をして、それが大クレームとなって、そのことで個別の研修と反省会を私よりも何個も年下の正社員の女の子とやりとりしたことがあった。

誤案内は、システム入力での申込時に、法人申込専用システムと個人申込専用システムとがあって、細かくは忘れたけれど、申し込みたい方とは反対のシステムを案内してしまった。

本当に小さな差しかなくて、唯一違うのは生年月日の入力の有る無しだけみたいな風で、私もきちんと確認をせずに入力方法を案内して、それで実際に申し込んだらシステムが違ってたということで営業さん側がやり直しになって、それで大クレームになった。

で、そのクレームは私ではなく、40代の男性社員が電話を取ることになって、そのクレームを延々と1時間も聞かされたらしい。

その翌日仕事に行くと、一斉メールにて、その事案を書かれて注意喚起が出されていた。

基本よほどのことがなければ、注意喚起メールは出されない。

名前は伏せられていたけれど、これ私対応したやつじゃないかな…と読んでてなんとなく思った。

案の定そうで、それで呼び出しくらって、同じフロアのみんなの目につかない別場所でその年下の女の子から私は研修と指導と色々受けた。

私はまず最初に、担当した男性に謝りたいと言ったら「いや、そういうのはしなくていいと思います」と返ってきて、心底驚いた。

クレーム入れた人は超モンスタークレーマーで有名人で、少しでも何かあると、それが自分の非でも、延々と1時間は電話してくる人で有名な人のようだった。

そもそも私がいけないにしても、そのとばっちりを受けた対応社員の人には何の非もないわけで、だからその人に謝りたいと言っても「しなくていい」という返事が、私からするとぽっかーんだった。

研修もなんだかよくわからなくて、彼女は当事者でもなければ、リスク管理なんかも全然知りません状態で、ただその日そのポジションの配置でいたから私に話してるに過ぎなくて、彼女自身もいきなり何の資料も何のプロセスも知らない役割をすることになって、ぽっかーんだった。

とりあえず形だけやりますみたいなのが見え見えで、これは何のための誰のための何なんだろう?と思った。

私は自分の方が気持ち悪くて、最後終わってからその男性社員の席に行って謝りに行った。

本当に申し訳なかったし、いくらタチの悪い相手と言えども、私が誤案内したことで起こってしまったことに変わりないから、とにかく自分の非で申し訳ないとひたすら謝った。

その人は穏やかな感じでその場は普通に終わった。

ちなみにその件とは違うけれど、後日その男性社員が超要注意人物だということを知った。

その人は自分に非がないようにするために、あらゆる手段を使ってとにかく自分は間違ってませんアピールをする。

他の人たちから教えてもらって(こういう時の女子の社内連絡網的なのは超ありがたいのと同時に超怖い)、その後私も他のことで被害に遭った。

お客さんとのやりとりをシステム入力して残すようになっているところで、私は名指し状態で、上の案内(=私の案内)があったからこれこれこんな風に自分の方は困った、みたいなことを平気で書く人だった。

ちなみに私だけじゃなく、他の女性陣も多数それで被害に遭っていた。

ちなみに被害に遭う人たちは決まっていて、その人は自分と同じ立場やそれ以上の人には、どんなにその人たちが間違っていても指摘しなくて、自分より下の人たちや契約や派遣に対してだけ刃を向ける、ある意味人としてすっごくかっこ悪い人だった。

だから私の誤案内が注意喚起メールが出されるほどの事態になったのは、単にその人が自分のせいじゃないと言うためにそうなったのかな…と今これを書いていて思った。




話が長いけれど、もう1つその職場に行っていた時のエピソードを。

ある時、私はそれこそ大クレームになって当たり前の電話を受けた。

他部署で誤案内をされてその誤案内のまま申し込んだら私のいた部署で受付不可となって、さらには営業さんの先にいる個人客に大きな金銭的損害が発生することが確実となって、それで営業さんが慌てて電話をかけてきた。

これは聞いただけで超まずいとわかって、それこそ私はすぐに上に報告を上げたし、どう対応したらいいのかそれも聞きに行った。

いくら誤案内をしたのが他部署でも、営業さんはその通りの手順をきちんと踏んで、お客さんもそれに倣ってその通りの書類やら何やらを全て用意して、あとはそれが滞りなく進んで結果を待つだけで良かった。

しかもそれというのが、超がつく上顧客専用の申込で、まず100%絶対に審査の通るものだった。

そしてかなり特殊なもの故、申込方法も私がいた方の会社の取り決めに従ってしてもらうようになっていて、営業の人もその個人のお客さんもその通りにきちんとやった。

なのに、他部署で誤案内があって、その誤案内の通りに申し込んだら、受付不可だけではなく、なんと数十万〜100万越えの損害が申込本人に出るような、バカみたいな事態になっていた。

誰がどう見ても、私のいた会社の方が悪いわけで(なぜなら営業さんたちは、こちらの内部事情を知らないから、言われた通りのことだけをやるしかない)、私は平身低頭でひたすら謝り、上に確認しますと言って対応を聞きに行った。

ところがどっこい。

私の直の上の人、これまたいくつか年下の女の子の社員は、それは決まりでうちは悪くない、もうそれで行く他ないと言った。

私はバカかと思ってあれこれ説明しても、全然わかってなくて、ひたすらうちの誤りを棚に上げて、そのように申し込んだ客の方が悪いから今回はあきらめてくれみたいな超塩対応を私に説明しろと迫った。

営業さんにひたすら申し訳なくそのように説明し、全力で謝りながらも何もできなくて申し訳ないと伝えて、でももう何もできないですと伝える他なかった。

また少しして電話がきて、私は何とかなりませんか?と聞かれた。

そりゃそうだ。

私はまた聞きに行くも同じ答えで、それで営業さんには私にできることはせいぜいその上の上に繋げることぐらいで、この案件に関して本来あるべき形での対応に変える力は私個人にはなくて本当に申し訳ないとひたすら謝った。

営業さん、電話の向こうで本気で泣いてたと思う。

どうにもならないと知って、営業さんはガックシしたまま電話を最後終わりにした。

私は絶対におかしいと思ったから、電話の後も再度報告に行った。

電話はとりあえず終わったけれど、そもそもうちら側が間違えているにも関わらず、お客さん側に非があるみたいに今はなっていて、こんなのでいいんですか?みたいな、とにかくおかしいことを訴えたけれど、全く相手にされず、とりあえず私も仕事に戻らないとだから戻った。

事態はその後急変した。

とうとう営業さんの会社の理事のような立場のお偉いさんから電話がかかってきた。

私は電話を受けてないけれど、その案件は速攻で超上の大御所案件になって、その部署の一番上がそれこそ平身低頭で謝罪して、直ちにお客様と担当の法人様に迷惑がかからないように、こちらの誤りを訂正して対応致しますとなった。

何でこの話をしたかというと(過去のブログを探せばどこかにも同じ内容を書いたと思う)、この超やばい、何なら間違えてそのままにしていたら何も悪くない顧客に損害が出て、さらには大口顧客の法人から取引やめますと言われてもおかしくないレベルの案件だったにも関わらず、このことは曖昧にされた。

私のシステムの誤案内で、営業の人の時間をロスさせても金銭的な実被害を出すものではない時には、一斉メールで注意喚起を出されて、反対に企業自体の取引が危うくなるほどの大問題、はたまた全く悪くない個人に対して金銭的損害を生み出すほどの大失態はうやむやにされて、何なのかと思った。

普通逆じゃない?と思った。

だから冒頭の話に戻るけれど、人が多くなればなるほど企業の母体がでかい時、その危機管理を普段から個人レベルでしていないと、そりゃ人1人も死ぬわと思う。

目の前でとんでもないことになっているのに、それに対しての危機意識は皆無で、派遣のたわごとだと思ったのか何なのかは知らないけれど、本気でやばいよ、会社レベルでやばいよという声が届かないというのは、私には理解不能すぎる。




なんてことを久しぶりに思い出した。

時々そうした業界の裏側を暴露するような記事が出るけれども、あれは本当に実際に起こったことだと感じる。

迅速なサービスもいいけれど、効率化能率化を図るのもいいけれど、それ故にもう限界に限界を重ねていて、私なんかは時々日本は沈没船に乗っているみたいと思うことがある。

2019年10月23日水曜日

夢の中で心理療法

マンガ『きのう何食べた?』より



私は夢の中にいた。

見たことのない事務所にいたけれど、私は過去に勤めた、とある職場にはいた。

これも実際の仕事にはなかったけれど、いかにも当時の仕事の延長のような仕事だった。

監査が入ることになって、私は印鑑漏れがないかどうかを全てチェックして、それを担当者たちに引き継いだ。

担当者は2人いて、1人は当時の新卒の子、Yくんだった。

Yくんにいつまでが締切で、そのためにどこのページを確認するのか、確認後の押印なんかを説明して、ドサっとファイルを渡した。

そうこうしているうちに、トップも事務所に戻ってきた。

夢の中では、時間の設定は「今」だった。

今というのは、紛れもなく2019年の10月。

トップの人と私とがやりとりするのは、夢の中でも最後に顔を合わせた2年ぶりということになっていた。

なんとなく気まずさもあったけれど、もう2年も経ったからいいだろうと思った。

自分の机の中なのかキャビネットの中なのかも大幅に片付けて、使えるものも一通り集めておいた。

トップのその人のところに行って、Yくんに監査のためのファイルを渡してあること、それとは別の押印用ファイルがあってその人の最終チェックと押印が必要なことなんかを伝えながら、該当ファイルを手渡した。

使えるオフィス用品も手渡した。

私は普段通り話をして、いつが締切だからその前に私ももう一度抜けがないか確認したいからいつ締切を設定するか話し合った。

話し合いながら、私はまたその1週間くらい先の日にその人とやりとりできるんだなぁ、嬉しいなぁなどと思って、その人の返事を聞いていた。

オフィス用品を手渡したりする時、二度ほど指先が触れた。

ドキドキしながら、ラッキー♪と1人でルンルンした。

その人もその人で時間薬のおかげなのか、私の目を見て話して確認して、なんなら笑顔まで向けてくれていた。




その辺りで目が覚めた。

それが夢だとわかっても、私はしばらく夢心地でその夢を目を閉じながら反芻した。

なんだか癒された。

過去を癒す時の手法の1つに、過去に実際にあったことに対して、本当はこうあって欲しかったことを記憶と入れ替えるみたいな方法がある。

夢の中の出来事はあくまでも夢だし、それで過去が帳消しになることは絶対にない。

だけど、目が覚めてすぐの私は、最後にその人とやりとりした時には絶対になかったことが夢の中では起きてくれて、その夢の中で起きてくれたことに癒された。

夢の中の出来事でも、初めて私は癒された。

それは私にとって、もう死ぬまで自分の中にしまっておく記憶だと覚悟していたことだったから、まさかの夢の中で心理療法よろしくみたいなことが起こるだなんて、想像したことさえなかった。

現実は何も変わらないし、起こったことは起こったことだし、夢でいくら癒されてもそれが予知夢となって未来に似たようなことが、少なくともその人が私の人生にもう一度現れることもないと思う。

今年の年初めに、山で行方不明になったおじいちゃんの霊魂が私の部屋にいると知らされた時、霊魂が来ても生身の今も生きている人間で会いたい人に会うことの方が私の人生には起こらないことを嘆いた。

霊魂に必要とされても、その人には半永久に必要ともされず会うこともないと思った時の絶望感は相変わらず凄かった。

見えない世界のことは猛烈な勢いで色んなことが起こるけれど、その人のことは癒されることもなければ音沙汰一つなく、淡々と無情に時間が過ぎるばかりだった。

夢の中であろうとも、私はその夢の中で笑ってた。

この2年以上が経過した中で、そのことで私が笑ったのは初めてだった。

極限に達すると、色んなことはどうでもよくなる。

現実に笑えなければ、夢で笑うでも私の場合はOKなんだと知った。

夢の記憶はまた時間と共に薄らいでいって、現実の痛烈な瞬間だけが色濃く残るなんてことはあっても、一瞬でも笑って、そして私の妄想が炸裂したような夢の中ではその人も笑って、それでいいような気さえした。

現実と夢は全然違うし、現実はどこまでも私に冷酷なものを突き付けてくるけれど、ほんの一瞬、時間にしたら1分程度のことでも、私はその夢の中で癒されて笑っていた。

そういう癒しもありだと思った。

そのことに関して、私は残りの人生で自分が昨日よりも今日、1年前より今癒されてたらいいなぁと思うようになったから、そのための手段は正直何でもいいと思っている。

どんなに時間がかかってもいいから、私は自分を癒していきたいと思っているし、本当に最近だと思う、次に進みたいんだろうなぁとチラチラっと一瞬だけ思うみたいなことが出てきた。

その人が他の人と違うのは、これは時間が過ぎてみなきゃわからないけれど、なんとなくその人というのは私のオカルトワールド系のことに関しては今後も大きな役目を担っていく可能性が高い。

この1年半で私が気付いたのは、大事なこと、人生で外してはならないこと、失敗の許されないオカルト的な出来事、そうした時にその人の名前を中心にその人にまつわる何かしらのサインがくる。

これ私にとっては超大事なことで、自分でもよくわからない中で全力でいかなきゃいけない時はあるわけで、でもそれが果たして本当に良いのかどうかというのはわからない。

想像してみて欲しい。

山で行方不明になった人を、自分の持っている道具と知識を使って探して欲しいと依頼される場面を。

そういう頭の隅から隅まで知恵を振り絞って、全身全霊で立ち向かわなきゃいけないようなことが私の人生には時々あるわけで、そんな時は本当の本当に毎度毎度超ウルトラスーパー心細い。

そういう時に、百発百中その人にまつわる何かが来る。

だから、その人というのは、本当に冗談抜きで魂の繋がりの強い人なんだと思う。

ちなみに過去をさかのぼって、その人と出逢う前、その人が私の人生に登場する前でさえも、大事な場面や大事な記憶の中にその人の名前と同じ誰かが関わっていたりする。

私がガチのソウルメイト的なものはいらないと思うのは、こういう時。

サインは超絶ありがたいし(多分本人は無関係)、ただでさえオカルト系のことは自信がないからそういう時にサインが来るのは本当の本当に助けられるのだけど、私はそれよりも普通にごはん食べに行くだの、メールやLINEで元気?と気安く連絡するだの、そういうのが欲しかったわけで、ガチの繋がりというのは何かが違うんだなぁと思っている。

心のお守りじゃないけれど、その人と出逢った一番の大きなところはそういうことなのかもしれないなぁ、と最近特にそう思うようになった。

だからそちらの方が満たされていれば、人間の私には不服でも、魂側の私の人生からしたら御の字なのかなと思う。

ただ、私は普通に生身の人間なわけで、仮にそうだとしても「魂の繋がりだから、そういうサインが来るのね!OK、OK!」などでは済まされない。

だから、自分の生身の気持ちや心との折り合いの付け方をこの先の人生で見出せたらいいと思うようになった。

相手も相手で、私の書く文章が何かしらプラスのものをもたらすなら、どうぞご利用下さいという気持ちもある。

自分もそういう役割なのであればお互い様で、魂の繋がりというのは魂的に相互扶助みたいなことはしても、人間的な付き合いの中での相互扶助はしないのかもしれない。

ちなみに人間的な関わり合いの方は、私が一番欲しくない結果になったわけで、もうこれはどうすることもできない。

やるだけやっての結果ゆえ仕方ない。

冒頭にこの間美容院で読んだ『きのう何食べた?』の中のケンジの一節の言葉を写メしたものを載せたけれど、たしかにやるだけやったから後悔はしていない。

あとはこの自分の中の折り合いの付け方、若干通常とは色々違う要素満載だけど、とにかく折り合いの付け方を獲得していったらいい。

そんな中、今朝の夢のような夢があったわけで、そして夢にまで見たような光景、少なくとも本物の最後は「拒絶」と言わんばかりの表情や態度だったわけで、そんな中、夢の中はとても穏やかで笑顔まで出てきたわけだから、これはこれで一緒に記憶の中に入れといたらいい。

私が少しでも生きやすいように、このことで少しでも息がしやすいように、そのためなら夢でも何でも私は活用する。

もう変えられないものはどうやったって変えられないから、せめてせめてこういう棚ぼた的なことが起こった時は私はそれの良いところだけいくらでも切り取って、自分の心のキズ薬にしようと思う。

2019年10月21日月曜日

米の仕事③ヨシダさんの話 “ザ・本質&本物”

『米の仕事②ヨシダさん』の続き
(↑リンク飛びます)




左奥にいる小川ブラック

見にくいけれど、左奥の黒いのが
「小川ブラック」という名のめだか



お昼ぐらいだからゆっくり支度したらいいやと思って布団でゴロゴロしていた私は、ヨシダさんからの電話に普通に出た。

「今から出る」ではなく、「家出た」に始まり、今どの辺?と聞くと「イママチ」と返ってきた。

ひっくり返るかと思った。

イママチからうちだとどんなにかかっても25分。

早ければ20分もあれば着いてしまう。

待ち合わせ難しいなぁと思ったらヨシダさんから、「カミキタダニの方から行けばいいんだか?」と聞かれたから、「そうそう!カミキタダニの近くにきたらまた電話入れて!そうしたら私も家出て途中落ち合うようにするから!」と言って切った。

ヤバイ!と思って大慌てで支度して、電話こないからいつでも出れるように車に乗ろう!と思ったまさにその時電話が来た。

「ヨシダさん今どこ?」と聞いたら、「なんか知らねーけどやぁ、トンネルあってそこくぐって…あっ、Kの看板見えたな!」と返ってきた。

カミキタダニなどとうに過ぎて、なんならうちから徒歩5分の場所にいる。

「ヨシダさん、Kに行ってて!私も今から家出るから、多分3〜4分で着くから!」

そう言って、ホームセンターKに行った。

Kに着くと、ヨシダさんは園芸コーナーを見ていた。

駐車場から声を張り上げてヨシダさんを呼び、約1ヶ月ぶりにヨシダさんに会った。

どっちが車を出すか聞いたら「俺が運転する」とヨシダさんが言ってくれたから、乗り込んだ。

「いやぁ、まさか若(わけ)えの(わけえの=若い者)この車に乗せるなんて、人生何があるかわからねぇのー」

私は今日案内する予定のものを伝えた。

「まずはコケだかを見に道の駅行って、なんならその近くに言ってた日帰り温泉あるから場所教えて、その後ヨシダさんめだか飼ってる言ってたからめだかの店行って、あと酒飲んで油揚げ食べれる店紹介するから」

異論なしということでまずは道の駅に行った。

「ヨシダさん、コケは盆栽に使うの?」

「えっ!?盆栽?盆栽じゃねぇよ、食べるコケだよ、コケ!」

「えっ?コケって食べれるの?」

「今の時期食べれるねっかやー」

「そうなんだ!コケって食べれるんだね!
ところでコケってどうやって食べんの?」

「コケはコケだろう、何言ってるがだ!?味噌汁入れたり、炒めもんにしたり」

「何?あの緑のコケ食べるわけ?」

「緑!?」

「だって緑でしょ?」

ヨシダさんはその後、コケの種類の名前をいくつも言った。

コケってたくさん種類があるんだなぁと思っていたら、「マイタケ」だったと思うけれど、えっΣ(꒪◊꒪; )))) 、もしかして…と思って聞いた。

「もしかして、コケってさキノコのこと言ってんの?」

「おーそうだそうだ!キノコだ!キノコって言えば良かったんだな」

そこでようやく話が通じた。

ヨシダさんいわく、今の時期なら、野生のキノコが山間部の道の駅なら出ているとのことで、私の住む町の道の駅ならあるだろうと目星をつけて来たらしい。

私はそもそも道の駅なんかにほとんど行かないから、キノコがあるのかどうかは知らないと言った。

とりあえず見に行ってみると、野菜直売所の建物の中にはなくて、なら外の通路で売ってるかもということで見に行くと本当に売ってた!

キノコが売られてるのは初めて見た。

80近いおじいさんが売り子していて、ヨシダさんは具体的なキノコの名前を言ってそれはないのかを聞いた。

今年はまだ採りに行ってないからない、とおじいさんは返していた。

天然の舞茸をヨシダさんは買うと、すぐ近くの町の名産の某ファストフード的なものの屋台に目を向けた。

「ここで揚げたてが食べれるんだなぁ」

どうかヨシダさんが食べたいなどと言いませんように…と心から願った。

食べたいと言い出したら、別の店を案内するつもりでいた。

何が気まずいって、その屋台担当の男性は、2年前?3年前?に妹と私とでお見合い的な席で会った人だった。

男性の義理のお姉さんが妹の友達のお姉さんで、お姉さんから紹介を頼まれた妹の友達が妹と私とを紹介して、個人宅のホームパーティー的な場へと出向いて行った時に会った。

めちゃくちゃ良い人だったけれど、ちなみに条件だけ並べたら何一つ申し分ない、むしろ結婚相談所に登録したらスーパー優良会員、性格も温厚、外見もよろしい、本当に私なんかは自分からお願いしたって紹介してもらえないぐらいに素晴らしい人だった。

でもこういうのって本当に何かが違うとダメなのはわかる。

ご縁なくその場限りで終わって、そして忘れかけた時にこうして道の駅で見かけるという。

ヨシダさんは食にこだわりがないだけあって、目をやるだけやると、次行こう!となった。

次は別の小さな農村地区の直売所を案内した。

ヨシダさんの解説によって初めて知ったけれど、その直売所兼農村レストラン的なところは「6次産業」と呼ぶらしい。

地産地消で、地元で採れた食材での直売所兼食べさせる食い処みたいなのを兼任させてオープンさせる場合、国からその事業立ち上げに際して6割補助金が出るらしい。

そうすると、地域の農業法人的な団体同士できちんと回せるように協力体制ができるから、何かアピールするものがある地域ならそうやって農村・農業存続の道ができてくるらしい。

ヨシダさんもこの辺りでは初めて見たのかえらく感動していて、私にあれこれ近くの建物の説明までしてくれた。

俺ももう少し若かったらここに移住したかったとまで言い出すぐらいに、その地域を気に入ってた。

続いては、めだかの店を案内した。

ヨシダさんには言った。

「めだか」と書かれたのぼりが出ているけれど、実際は入ったことないから私は知らないこと。

そもそもめだか屋なんてのは、何なのか全く知識もないこと。

だからやってるやってないも知らないと前置きした上でめだかの店を案内した。

ちなみに場所も突如現れるから、行き過ぎた場合、多少道をバックすることがあることも伝えた。

たしかこの辺りなんだけど…と言いながら、突如のぼりが何本か立っているところが現れた。

ゆっくり近付くとそこで、なんと数台の車が止まっていた!

めだか屋に数台!

ビニールハウスとトタンの掘っ建て小屋の合いの子みたいな建物だった。

ヨシダさんに付いて中に入ると(正しくは中という名の屋外に壁や天井がついたもの)、たくさんの大きな水槽と小さな水槽とがあった。

「めだか」は本当で、めだかがいくつも売られていた。

中には、同世代と思しき夫婦と小学校4年生くらいの目がクリクリしたかわいい坊やとがいた。

あー、どうしたらこの構図の中に自分がいられないのか、毎度毎度悩ましい思考が働く(苦笑)。

それはさておき、初めてのめだか屋さんは見るものすべてが新鮮だった。

ヨシダさんが繁殖させるとか言っていたから、こんなみんな同じに見えるのにオスメスの判断はできるものなのかを聞いたら、「俺はできてるかな…とは思うけれど、基本オスメスの判別は相当難しい」と返ってきた。

ヨシダさんいわく、ヒレの形でオスメスがわかるらしい。

そんな話をしていた矢先、かわいい坊やが2匹選んで、店主の男性がオスメスの判別をお願いされてて始めた。

豆乳のパックぐらいの大きさの透明な水槽にめだかたちを入れ直して、そして自分の目の高さに持ってきて判断していた。

「これとこれは大丈夫」

「これはオスだけだから変えるね」

そんなことを何個か言って、最終的に買うものが決まったようだった。

後からヨシダさんが「ああやってきちんとオスメスを判断していたから、すごいなあの人」と言ってた。

めだかの話はこの後また続くからこの程度にして、次なるめだか屋に向かった。

ところが店じまいしたのか、なくなっていた。

今度はヨシダさんにビールが飲める特産品を扱う店を紹介した。

そこに行きたがるかと思えば、場所がわかったからいいと返ってきた。

じゃあ持ち帰り用におぼろ豆腐のすごいおいしい店があるから!と言って、俺は豆腐を食べないと言ったヨシダさんを次の店に連れ出した。

奥さんに食べさせてあげたらいい、本当においしいから!と言って連れ出し、あまり乗り気じゃないのかと思いきや、張り切って2つずつおぼろ豆腐や他の商品を手にしている。

おぼろ豆腐に関しては、大と小とサイズがあって、万が一奥さん1人で食べるなら小の方が量的にどう考えても良いと思うと先に言ったけれど、ヨシダさんは大を2つ手にした。

どこかに配るだろうことも伺えた。

気前が良いというか、何かをして人を喜ばせることが多分自然に好きなんだろうなぁと感じた。

ヨシダさんから昼めしをどこかで食べようと提案された。

食堂がパッと浮かんで、一応ヨシダさんに「食堂と思っているけれど、イタリアンもあるけれど、ヨシダさんイタリアンって気分じゃないでしょ?」と問いかけた。

案の定、「俺は、イタリアンって気分じゃねぇな」と来たから、一者択一、食堂に決定した。

食堂に着くと「俺、ここで飲んだことあるなぁ。この駐車場止めて、藤(の花)見て思い出した」と言った。

藤の時期ではないのに、藤の枯れ葉たちを見てそう言った。

さすが目のつけどころが違うなぁと思った。

食堂でしばらく色んな話をしたけれど、そこは長居しておしゃべりして良い場所とは違ったから、ヨシダさんに時間あるなら場所移ろう!と提案した。

ヨシダさんは「おー、そうか!じゃあそうしよう!」と言って、歩いてもいけるショッピングセンターに移った。

土曜の昼間とは思えない空いた小さなフードコートでお茶をした。

前置きが長くなったけれど、ここから先はヨシダさんの話で印象に残ったことをテーマ別に紹介。



*めだか

*中国

*飛行機間違えた

*元旦マラソンと花火大会

*施設慰問

*孫育て

*母子家庭作文

*誕生日知らない

*農協パソコン送信

*農家あっての農協

*カントリー稼働率と無事故

*カントリー除湿乾燥、最初の十年は寝ずの番

*誰も怒らない、変な顔をしていない

*農家に渡したい資料



話を忘れたり、これをすぐに公開せずに日を置いてうっかり違うことを記事に書いたりすると間違いなく記憶から消えるから、それで備忘録のために今箇条書きしたらこんなにもあるΣ(꒪◊꒪; )))) !

とりあえず順にしたためようかと…(汗)。

ちなみに時間にすると、5時間弱いて、昼ごはんからお茶のくだりは多分3時間半。

一生忘れられないくらいの話をたくさん聞かせてもらった。




*めだか

ヨシダさんは、単なる趣味でめだかを飼っているのかと思っていた。

500リットルの水槽たるもの、全くイメージが湧かなかったけれど、今日めだか屋でそこそこの大きさのものを指差して容量を聞いたら80ぐらいとのことで、だから私の中では畳1畳くらいの水槽を想像した。

それを6台持っていて、さらに話の流れで池も所有していることがわかった。

ヨシダ家どんだけの豪邸なのかと思うけれども、とにかく敷地が広いだろうことは予想がついた。

ヨシダさんが言うには、めだかというのは本当に高いものだと1匹300万とかもっとするものも普通にあるらしいΣ(꒪◊꒪; )))) !

めだか飼ったら一大産業だなぁと思った。

でもヨシダさんはめだかで商売を一切しないし、「趣味」だと当初からずっと言い切ってた。

今日のごはんの時に、ヨシダさんがめだかを飼う理由を教えてくれた。

ヨシダさんの子どもがまだ小学生だった頃。

私とそんなに変わらないはずだから今から30年くらい前の話だと思う。

子どもがめだかを飼いたいから買ってと言ってきたらしい。

ヨシダさんは「めだかぐれぇ(ぐらい)田んぼにいるろー?」と返したら、子どもは田んぼにいないと言う。

ヨシダさんはおかしいと思って田んぼに実際に見に行ったら、本当にめだかが1匹としていなかった。

ヨシダさんはそうは言わなかったけれども、それが環境汚染とも関係しているリアルな現実でもあったと思う。

そこでヨシダさんは、魚沼産コシヒカリで有名な八海山(お酒の名前だけではなく、本当に地域の名前)の近くまで行って、当時もおそらく絶滅危惧種に近かった「日本めだか」を獲りに行った。

ヨシダさんの住んでる町からは軽く80キロはあると思う。

そうやって最初は数匹のめだかからスタートして、その後も少しずつ増やして、今じゃあ何百匹どころか4桁の数はいるだろうと思われるめだかを飼っている。

そのめだかたちをヨシダさんは田んぼにもきちんと戻して、自然に派生するようにそうした取り組みもしている。

観賞用もあるし田んぼ用も繁殖用も色々あると言っていた。

まさかそんな気持ちから始めたものだとは、全く知らなかった。

ヨシダさんいわく、この辺りじゃ、(絶滅危惧種の)日本めだかはヨシダさんのところと海側にある某水族館ぐらいにしかいないんじゃないかと言っていた。

今の野生のめだかは、どうやら多くが外来種らしい。

そんなものを育てていることもすごいけれど、それを手にするために探しに行くのもすごいなぁと思った。




さらにそれだけにとどまらない。

ヨシダさんは自宅の池を今も子どもたちに開放している。

子どもが遊べるようにしている。

そのことでヨシダさんがものすごい今どきなエピソードを教えてくれた。

自分と同じ地区の子どもの親たちはヨシダさんのこともめだかのことも知っているから(地区で飲み会があるような場所)、それに対して何か言うことはないとのこと。

それが子ども同士が他の地区の子たちを誘ってやってきたある日のこと。

当然池の中に入るわけだから汚くなる。

泥というのは、しつこくて落ちにくい汚れになっていると思う。

その中の親の1人なのか何人なのかは知らないけれど、「洗濯が大変だ」ということをクレームで言ったらしい。

ヨシダさんは、それを実際に言われて「俺は何も言えんかった。俺がおかしいのかも知らんしな。世の中がおかしいのか俺がおかしいのか、わからん。だけど、それ言われて俺は何も言えんかったんや」とこぼした。

絶滅危惧種のめだかや他にも自然に触れる機会、生き物に触れる機会を、今じゃあ学校でも教えられないような体験をヨシダさんは普通に提供していて、それも完全無料開放で、子どもやめだかが危なくない範疇なら好き勝手させていると思う。

そんな機会って、いくら田舎でももう今の時代、天然記念物並みにないことなのに、それを洗濯が大変だとクレームを言う大人がいるというのが、私には呆れと少しばかりのショックと怒りと信じられない気持ちが沸き起こった。

ちなみにそんな親に限って、ものが本物とわかると、手のひらをコロっと返したように態度を変える。

ヨシダさんはこれからも開放し続ける気持ちでいるようだけれど、その良さがわからない、そしてそんな貴重な機会を大人の都合で踏みにじることの代償の大きさを思った。




*中国

これは何年か前にヨシダさんが中国のとある田園地帯に行政経由で仕事に入った時のこと。

日本米の米作の技術向上とそれに伴う収入向上が主たる依頼のようだった。

それで実際に現地に行くのだけど、そこで目の当たりにしたのは、雇われ農家の人たちの厳しい現実だった。

ヨシダさんは、農家の人たちの生活向上を謳った仕事の方針だったからこそ引き受けたにも関わらず、その地域では金持ちが土地を買ってでも自分たちでは農作をしない、雇われの農家たちは土地を買えるようなお金はないから雇われとなる、その雇われの人たちの年収は全く向上されず、技術伝承しても儲かるのは土地を持っている金持ち側で、実際の米作の担い手である農家には全くお金が落ちないシステムだった。

共産主義の弊害がもろに出ていたようだった。

雇われ農家の年収の2倍のお金が、ヨシダさんの1日の収入として支払われていた。

技術を伝えても、そこで労働力を提供する農家には一円も還元されない現実を前に、それではやっても意味がないとヨシダさんは判断した。

金を生んでもそれは本来行き渡るべき人たちの元へは流れない。

ヨシダさんは何ヶ月かいた後に、見切りを付けて帰った。

帰国後、この案件を引き受けた県にものすごい文句を言ったと言っていた。

聞いていた話とも違えば、さらには誰のためにもならない技術伝承で、あり方や現地の人への配慮のなさ、とにかくありのままをすべて報告に上げて、それで県と戦ったらしい。

その後どうなったのか聞き忘れたけれど(あまりにも話が満載すぎて、色々聞き忘れたことに今気付いた)、ヨシダさんは曲がったことや道理の通らないことをとことん嫌う。

そして、ヨシダさんのすごいところは、そうしたおかしなことに対して黙ったままにせず、必ず担当者、それもポストが上の責任者に必ず話を持って問題点や窮状を訴えることだった。




*飛行機間違えた

ヨシダさんは55歳で農協を早期退職して、1年遊んだ後、ツテでスリランカのエビ(ブラックタイガー)の養殖の設備を直しに出向いた。

聞いたら、バクテリア研究専門の大学の先生が持ってきた話で、ヨシダさんもバクテリアに詳しいらしく(めだかなのか田んぼなのか農協の仕事関連なのか、もはや何で詳しいのかは知らない)、それで声がかかったとのこと。

ヨシダさんと会話してわかってきたことだけど、ヨシダさんが自ら「知ってる」と言う時の知識は、はっきり言ってその分野の大学教授並みに知っていると思う。

バクテリアもエクステリアも何がどう違うのかわからないような私(カタカナ用語は超苦手)相手に、最低限の情報だけをサラリと言う。

無駄がない。

スリランカのエビの設備が終わった後、飛行機が間違えてタイ?だったかに降り立ったらしい。

一度降り立ち、そこで通訳をしてくれた人がたまたまエビの養殖の投資で被害を受けた人だったとのこと。

それでヨシダさんはそこでも設備直しをしてくるのだけど、それをするにあたり、大使館と日本の国管轄の事業所に出向いたらしいけれど、その時にエビの養殖設備が被害に遭ってるとか壊れたという報告を一切受けていないと言い切られた模様。

ヨシダさんはおかしいと思って、実際の話をしても、全く聞く耳を持たず、話のくだりは忘れたけれど、それとお金の横領がどこかで絡んでいたことが後から発覚したようだった。

ヨシダさんはとりあえず修繕だけして帰ってきたみたいな話だった。

何がすごいって、飛行機が間違えられたのもだけど、その先で出会った人がたまたままた同じような被害に遭われた方で、それでヨシダさんはそこでも自分のできることをして帰ってきている。

退職金は4ヶ国の養殖エビの設備修繕にまつわる費用に消えたみたいな言い方をしていて、本当に人のためにお金を使うことがより一層わかった。

突っ込んで聞いてはないけれど、家のお金には一切手を付けていないと言っていて、どうやら家は家で何かしら収入がきちんと入る手段を持っているようで、奥さん(専業主婦)がどう思っているのかは知らないけれど、そちらは奥さんだけが家計全体を見て好きに使える様子が伺えた。




*元旦マラソンと花火大会

ヨシダさんの住む町(市区町村レベル)には元旦マラソンと花火大会が何十回と続いていて、今現在も受け継がれた町の一大行事としてある。

元旦マラソンに至っては、除雪を行ってまでやるらしい。

ヨシダさんに出会うまでそんなこと思いも及んだことがなかったけれど、目の前のヨシダさんこそ、その元旦マラソンと花火大会の初代発起人で、ヨシダさん個人の想いから最終的に町の行政も巻き込んでの結実となって今日に至っているとのこと。

ヨシダさんいわく、最初は町の活性化やみんなで楽しめるものとしてそういう企画を出したけれど、当時の町役場、町長は大反対したらしい。

だから町は抜きで完全に協賛各社や個人と共同開催する気でいたらしいけれど、知り合いが教育委員会の教育長で、その話を聞いて自分は大賛成だから、大反対1本の町長を説き伏せると言って、その方が間に入って町長の了解も最終的に得て、町の行事として根付いたようだった。

ここまで書いてて思ったけれど、いちいちスケールも大きければ、やることなすことすごい事業で、言うなら「事業家」という感じがする。

その町の農家一軒一軒を全部訪ねて、地区ごとの農業組合を作ったのもヨシダさんで(昭和64年開始)、ちなみにヨシダさんはそのことで勤め先の農協からも異端児扱い、何度も触発して、3回は辞表出すほどの騒ぎに発展したようだった。

だけど、この後に続く話もすべてそうだけど、自分が「これだ!」と思ったものはすべてやってきて、そしてヨシダさんは「不思議と俺の始めたことは何だかんだで形になって定着する」と言っていたけれど、そりゃそうだわ!と思う。

本質的に必要なニーズや時代の先読み的なことを常にしていたわけで、ヨシダさんは先行型ゆえに最初は周りからは猛反対や総スカンを喰らうけれど、最終的に形にするし、形になっていく。

ヨシダさんのアイデア力や発信力、実行力は群を抜いてすごいけれど、それらが本当にすごいのは、きちんと周りの人たちのしあわせや心とか生活を満たす何かを軸にして必ず組み立ててやっていること。

独りよがりな考え方じゃなくて、よく話を聞いたり観察したりしている。

もうひとつすごいのは、ヨシダさんは基本的に自分の名前を残さない。

どうしても出さなければいけない時は出すけれど、そうでない場合は出さない。

だからこうした偉業の諸々も本人が語ってくれたから知ったけれども、そうでなければ知らないし、ましてや表には一切名前を出さない、まさに足ながおじさん状態になっている。

ヨシダさんには名をとどろかせたいとか、自分の肩書をアピールしたいとかいう気持ちが一切ない。

でも、人のためとなれば、どんなことでもやる人だと感じる。




*施設慰問

これは私も施設で働いていたからよくわかる。

色んな団体や企業が福祉系の施設に何か提供しようと申し出てくれる。

現場としては、ありがたい団体もあれば、本気で相手方の人間性を問いたいというような団体まで様々だった。

ちなみに当時毎年失礼この上ない寄贈は、寺から来るお米だった。

檀家から新米を献上してもらうのだと思うけれど、新米の時期になるとお米を持って行きたいと連絡がくる。

ここまでならわかる。

だけど、それというのが、新米ではなく古米、そしておそらく状態から見て古米ではなく古々米。

調理師泣かせの、様々な工夫をこらしてもおいしくないお米。

おいしくないと言うより、何かの罰ゲームかと思うようなまずさで、私は自分が過去に食べた米の中でもトップ3に、もしかしたら堂々の1位に輝くまずさだったりする。

それが1回じゃない、2週間か3週間ほど、もしかしたら1ヶ月くらいだったかもしれない、それが続く。

1回あたり2升(=20合)以上炊いていた記憶があるけれど、それでもそんなに長く食べなければいけないほどの量の米で、人生の中で食べた米でも忘れられないまずさを誇っていた。

それで自分たちはおいしい新米を普通に食べてるのかと思ったら、それもお寺という一応説法など説くような立場のところから来ていたから、本気で何なのかと思っていた。

そんな話もヨシダさんとしたら、「それは絶対にいかんやつだなぁ」と言っていた。

ヨシダさんたちの慰問は本当に聞いてて凄かった。

まずは有志を募るけれど、融資は募らない。

お金をかけてやればいい、強いてはお金で全部が解決するなんて思っているのはダメで、「自分たちの今持っている持ち寄りのものでする」というスタンスでやっていた。

持っているものは、当然人に渡すものだから、野菜なり米なりは新鮮なものを提供していたとのこと。

餅つき大会的な慰問も長いことしていたらしいけれど、そういう施設で食べ物を提供するというのは保健衛生上のルールが厳しいのと多いのとで大変なんだけど、それも県とかに全部申請書類を提出して、そうまでしてやったとのことだった。

施設で朝ごはん作りの担当の時、まずは消毒と10個以上はあったと思われる冷蔵冷凍庫たちの温度確認からスタートだった。

これだけでゆうに5分はかかる作業で、毎回めんどくさいと思って私なんかはやっていた。

普段の調理でさえその面倒な作業満載なわけで、だからヨシダさんのその施設慰問などは、本当に難儀をしたことが伺える。

さらにすごいのは、最初の準備の段階でまずは映画上映会をして、その間準備を整えて、それが終わる頃に一緒に餅つきなり他の食べ物系の作業に入ったとのこと。

子どもたちが毎回本当に喜んでくれて、あれ見てるとやって良かったなぁといつも思ったと話していた。

私は何がすごいと思ったって、段取りややり方もだけど、ヨシダさんのその差別のない、そして純粋に人を人として大事にする姿勢の方だった。

ヨシダさんたちが慰問したのは、知的障害児・者の施設で、入所者はそこで寝泊まり含め生活している。

ヨシダさんが口にした施設名の1つは私が福祉の現場実習でお世話になった施設で内情を知っている。

そこは重度または最重度の知的障害の人たちが入所するところで、多くの人たちはIQは測定不可だったり、測定できても10〜20台とか普通だったように記憶している。

実年齢は何歳でも、知的年齢は1歳ないし2歳程度、高い人で3歳児ぐらい。

言葉が出ていても意味不明な言葉や同じ言葉の繰り返しとか、意思疎通も図れないわけではないものの素人には相当難しいコミュニケーションだと感じる。

色々独特だから、そして私なんかはそうした福祉の世界に入るまで障害への理解など皆無で、なんなら突然やってきていきなり訳の分からないことを言われたり触られたりして怖いとさえ思っていたタイプだから、そういう人たちに対して「本当にかわいいんだ」とか「いつも喜んでくれてる」とか、本気のコミュニケーションした人でなければ発想さえないような言葉をヨシダさんはポンポンと言った。

偏見の目がないどころか、1人1人を本当に大切にして顔をよく見ていることが話ぶりからよく伝わってきた。




*孫育て

ヨシダさんには今小学校2年生の男の子の孫がいる。

細かい事情は知らないけれど、ヨシダさんご夫婦の方が育てている。

一度職場に遊びに来たことがあるから、私も知っている。

その子だけは俺は生まれた時から育てていると言っていた。

800g台の早産で生まれてきたとのこと。

保育器に入れられてる頃から育てたと言っていた。

遊びに来た日、普通の小学生の男の子という感じだったから、それを聞いてものすごく驚いた。

肺?呼吸器?は定期検診を今も受けているらしいけれど、至って元気いっぱいの男の子に育っている。

ヨシダさんは自分の子どもたちのことはほとんど奥さんに任せっきりだったと思う。

そんなようなことも言っていた。

だけど、このお孫さんについては「この子だけは育てなきゃいけない」そう言っていた。




*母子家庭作文

ヨシダさんの子どもたちが小学生だった頃、そのうちの1人が作文に、うちは父ちゃんいるけれど母子家庭のようだと書いて、ヨシダさんは学校から呼び出しを食らったらしい。

当時というのは、朝は子どもたちが学校に出てから起きて、帰ってくるのは子どもたちが寝静まった真夜中だったそう。

子どもとごはん囲んだのなんか、年に3回程度だったと思うと言っていた。

その辺り超不器用な人なんだろうなぁと思った。

仕事中、私はヨシダさんにバインダーに付いている紐の結び方を褒められたことがある。

ちなみにその時の言葉は
「上の方で結ぶんだなぁ」
だった。

私は何か間違えたのかと思って「上過ぎってこと?」とヨシダさんに聞いた。

そうしたらヨシダさんが「上手に結ぶなぁと言ったんだ」と返してきたから、ヨシダさんに「それは褒め方を間違えてる!素直にストレートに『上手』だと言えばいい」と、偉そうにアドバイスした(笑)。←笑いながら言った。

いつかも、私が着ていたTシャツのデザインについて何か言ってきたことがあって、ヨシダさんには「ヨシダさん、そういう時は一言『かわいい』って言っておけばいいんだわ!そして、奥さんに普段そんなこと言わんでしょ?私で練習して、死ぬまでに一度は奥さんに『かわいい』と言ったらいい!」と半分冗談で言った。

そうしたらヨシダさん本気でむせ返って、ゴホゴホしながら「俺の辞書に『かわいい』なんて言葉なんざねぇー!」と言ったら、近くにいたヨシダさんを慕ってる男の人から大笑いされてた。




ちなみにヨシダさんの家の考え方というのは、今も斬新で、とても田舎の農村地帯ではありえないような考え方を代々しているお宅だった。

ヨシダさんの家では、跡取り息子が嫁をもらったら、若い者に家督を譲ることと年寄りは一切口出しをしないことという決まりになっていた。

嫁と息子は家系を引き継いでくれる人なわけで、そこをお願いしている以上は若い者のすることには口を一切出さないというルールらしかった。

ヨシダさんは典型的な男は外で稼いで家族を養い、女は家で家を守って子どもを育てるという考え方の人で、だから奥さんに不自由させるようなことは絶対にしてなかっただろうし、奥さんのすることに口出しも一切しなかったんじゃないかな…と思った。

「嫁」という字は「女に家だろ、女にしか家は付かないんだ!女が家を守るんだ!」と言っていた。

それは責任転嫁とかではなく、本当に女の人に家を任せられること、家を任せられるから自分が外でしっかり稼いで来れることを言っていたんじゃないかなと感じた。

実際に、子どもにうちは父ちゃんはいても母子家庭のようだと書かれた時、ヨシダさんが何してたかって、今後後継者がいなくなって農業が衰退すると先読みしたヨシダさんは、それを何とか食い止めるために各地区ごとの農業法人を立ち上げることを提唱して、そのために農家を一軒一軒仕事が終わってから訪ね歩いていた頃だったと思われる。




*誕生日知らない

何でそんな話になったのか忘れたけれど、なんとヨシダさん、奥さんの誕生日はおろか年も知らないと言う。

結婚して42年になるのに、どういうこと!?と私はあまりにも驚いて、本気で突っ込んでしまった。

ケーキとか食べないわけ?と聞くと、時々ケーキを食べているけれど、それが何のケーキなのかわからん!と言っていた。

ちなみに溺愛中の孫の誕生日も子どもたちの誕生日も知らない人だった。

奥さんは自分より5個か6個年下だと言っていた。

本当に自分の配偶者の年や誕生日を知らない人に初めて会った。

今日帰ったら聞いたらいいわ!と薦めた。

ヨシダさんも「帰ったら聞いてみるわ」と言っていた。

これは何となくヨシダさんと会話して思うことだけど、ヨシダさんは何か言われることがそんなに嫌いじゃないはず。

普段なら私もその手のことはしない。

だけどヨシダさんには思ったことを思ったまま言う。

どうしてかと言うと、この後仕事の話も出てくるけれど、とにかくヨシダさんのすることは凄くて、周りは口出しなんかとてもじゃないけれどできない。

ヨシダさんに何か物申すなど、ちなみに米の仕事のトップの人ですらヒーヒー変な汗かきながら言っていた場面を私は見た(笑)。

だけど、ヨシダさんは仕事や自分が真剣にやっていることはさておき、それ以外は非常にフラットな人だと感じる。

でも表立つものが目立ちすぎて、誰も口出しできないのも本当。

だから、私は女で年も離れていて冗談のように何か言える立場を有効利用して言いたい放題言う。




*農協パソコン送信

これはヨシダさんが管理職だった頃の話。

ヨシダさんは今もガラケーを愛用しているくらい、パソコン系の機械に疎い。

いくら疎くても、農協のような大きな法人ともなれば、管理職どころか全員にパソコンを与えられるだろうと思う。

ヨシダさんの席にも飾りとなってるパソコンがあったそう。

パソコンの作業は一切できないけれど、社内メールだけは開いて見ていたとのこと。

その時は、幹部だけに宛てられた次の人事異動の内示が送られてきた。

ヨシダさんは見るだけ見て、それを閉じるつもりが、なんと誤って送信ボタンを押してしまって、全員にその内示の速報が知れ渡ってしまったのだそう。

その後実際にどうなったかも聞いた。

ヨシダさんの誤送信により次の人事異動を知った人たちから、続々と退職願が提出されたとのこと。

希望してないどころか全然畑違いみたいな部署異動で、多くの人たちは本気で辞めることを考えた。

その数があまりにも尋常じゃなくて、最終的にその異動は全て見送りになって、退職願を出した人たちもそのまま残れることになった。

ちなみにその誤送信がヨシダさんによるものとバレた時、ヨシダさんはしゃあしゃあと「俺の机の上にそんなの置くのが悪いんだ」と本当に言って開き直り、最後はヨシダさんの希望通り、パソコンごと撤去されたようだった。




ヨシダさんはその人事異動についてもこんな風に話していた。

「普通、人事異動っていうのは、適性見て、適性のある仕事に配属するのが本当の形なんだ。
3年、4年したからそろそろ異動だなんていうのは、とんでもなくバカらしい。そして、それを内情を何も知らない人事の事務方がすることでもなければ、現場を知らない社長がするのもおかしい。
やるんだったら、きちんと1人1人から話を聞いて、その上で人事担当が動かすか、さもなければ各部署の上のもん(者)がきちんと1人1人の聞き取りをして他の上のもんと集まってどうするか話すのが人事ってものの筋だろう。
みんな人事の意味を履き違えてる」

ヨシダさんの考え方は本当にその通りで、実際にヨシダさんはそのこともさらに上の役職者たちに申したらしい、どストレートに。

俺はそういうのまどろっこしく言えねぇんだ、そのまま何でもストレートに言ってしまうんだ、まぁある種の変わりもんだな(笑)、と何度か自分のことを言っていた。

ヨシダさんと話していると、ヨシダさんが変わり者と言うよりも、世の中の構図の方がよほどいびつで不自然な気がした。




*農家あっての農協

これはヨシダさんの早期退職とも関わっているらしい。

ヨシダさんは元より、
「農家あっての農協、農協あっての農家じゃねぇんだ」
とずっと信念として持ち、そしてそれを実際に口にも出して言っていた人だった。

今もその想いは変わらない。

ヨシダさんは今の農協のあり方はおかしいと言った。

農家があって初めて成り立つ団体なんだ、それが今じゃ農協があってその下に農家がいるみたいになっている。

農協たるものが何なのかわからずに入ってくる若い者が多いし、それならそうと余計な教育なんかいいから農協の成り立ちや歴史、目的、会員(農家)の仕事、そういうのをしっかり教えたらいいのにそうしない、そして農協側が偉そうになっている、丸っきり今は反対なんだよ。

ヨシダさんはその辺りのことも最後辞める時のトップに掛け合ったけれど、全くわかってもらえず平行線で、それもあって辞めたのもあったようだった。

実際に私が行っていた時も、農協の支店の内勤の方たちが順番に手伝いで来ていて、何人かの人たちと話したことがあった。

若い世代になればなるほど、本当に割り当て当番で来ているだけで、実際は何をしているのかよく流れもわからなければ、手伝いに当たらなければこうした施設の存在も知らなかったと話していた。

ヨシダさんの凄いところは、賛同者のいるいないではなく、いなくても、そんなことを自分1人でもこれが大事だと思うことを信じ続けること、その価値観を本当に大事にすることだった。

さぞかし敵も多かったと思うけれど、私は話を聞いてて一つも違和感を覚えなかった。

むしろ、そういう話を姿を見せてもらえたことは、本当にものすごく貴重な機会だった。




*カントリー稼働率と無事故

私が米の仕事に行っていた施設の名称は「カントリーエレベーター」というものだった。

穀物の貯蔵や乾燥などをする大型の機械を搭載した大型の建物。

「カントリーエレベーター」と検索すると、Wikipediaはじめ農林水産省や他にも色んなサイトで紹介されている。

私はこの度初めてカントリーエレベーターなるものを知ったから、稼働率だの全体の効率だのはど素人ゆえよくはわからなかったけれど、とにかく本当に無駄のない超テキパキとした職場なのはよくわかった。

本当に全てがスムーズで、それぞれの人たちがさっとそしてキッチリと自分の持ち場をやっていて、それは見ていても圧巻だった。

ヨシダさんには、私は本当にあの職場に行けて良かったと感想を言ったら、「俺もあそこはすごい勉強になると思うよ」と言った。

実は私が言っていたところは、全国でも方々から見学者が来るぐらいの有名なカントリーエレベーターで、稼働率は120%超え、多分日本一の稼働率だろうと言っていた。

たしかに、稲刈りの受付が始まる前、まだ機械が本格稼働してない頃、何人かのスーツ着た人たちが見学に来ていた。

そういえば!と思い出してヨシダさんに言った。

私が受付した農家さんじゃなかったけれど、誰か別の人が受付した農家さんで、ここはものすごく速くていい、もう1つのところはものすごい遅くて行くと半日かかると言っていたことをヨシダさんに喋ってみた。

「そりゃそうだろう。うちは何てたって速い。本当に速い。そしてここに来ている連中は、みんなどうやって動いたら一番効率良く動けるかを知っているから、みんなそれをしている」

他だと半日かかるところ、私が行っていたところは、混んでないなら5分もあれば受付からコンテナの上げ下ろしは終わるし、激混みで大行列の日でも、多分最長で並んだ人も到着してから1時間半〜2時間で終わる。

農家さんたちは刈った米穀をコンテナに入れて持ってきて、それを下ろしてもらうと、また空のコンテナを持ち帰る。

受付は1分もあれば終わるし、その間に中身の入ったコンテナを1人のフォークリフトが下ろして、別のリフトの人が新しい空のコンテナを今度は軽トラの荷台に置く、それらは全部で2〜4分もあれば終わっていた。
(以後、フォークリフト=「リフト」と略す)

その合間合間にリフトのおじさんたち(ヨシダさんたち)と農家の人たちとが喋っても、次、また次とものすごい速さで終わった。

リフトも7台〜8台稼働していて、それぞれのリフトの人は昼休憩で人手が足りない時間以外は決まりきった部分だけを担当するようになっていた。

ちなみにヨシダさんは、農家の人が持ってくる米穀入りのコンテナを軽トラの荷台から下ろしてそのまま次の工程場所へ運ぶことをひたすらしていた。

それで常に受付のところにいたから、それで仲良く話をする機会に恵まれた。
(暇になってきても農家の人たちが来る限り待機してないといけなかったから、その待機時間にみんなで喋りながら待っていた。)

いくら広い敷地と言えども、本当に混んでくると隙間もないぐらいに軽トラ、2トントラック、14トントラック、リフトと何十台という車輌で本当にものすごい混雑して、どこで事故が起こってもおかしくないような状況になる。

上の人も「焦って急いでしんでいっけん(=しなくていいから)、とにかく無事故で!」と毎日口を酸っぱくして言っていた。

それで実際に無事故で無事に終わったわけだけど、ヨシダさんいわく、「事故が無い方が珍しい」と言っていた。

毎年どこかのカントリーでコンテナの上げ下ろしの時にリフトの先が軽トラにぶつかるとか、車輌同士の接触事故とか、何かしらあるらしい。

それがずっと無事故で来ているのは、少なくともヨシダさんが関わるようになったこの10年ほどはずっと無事故だなって言ってた。

それは他に類を見ないらしく、本当にきちんとしていると言っていた。

さらには、全体の流れに関しても、来ている人たちはみんな兼業農家だったりするから、どう動くと一番速くできて、当然速ければ農家の人たちのことも待たせずに済むわけで、その分農家の人たちも刈った稲をより多くより速く持ってこれる。

近場の農家の人だと15分おきぐらいに来ていたから、1時間で単純計算すれば4回、1日だと30回以上来るみたいなことも普通に可能だった。

そうなってくると、半日かかるカントリーだと、1日せいぜい2回しか運んで来れないわけで、そこでも大差が生まれる。

ヨシダさんは「自分で言うのもおかしいけど、あそこに来ていた奴らは本当によく一連の流れを熟知してるもんばっかりで、だからあそこまでスムーズだったんだ!今度代替わりした時は、わからんな、どうなんのかは」と言っていた。

私ぐらいの世代の人たちはもう完全に兼業の人たちばかりで、土日とか、稲刈りの繁忙期だけちょっと来るぐらいだった。

色んな事情があるのだろうけれど、ちなみにヨシダさんいわく今はこの辺りは農業1本では食べていけないと言っていたから、本当に農家の人たちが生き残っていく、事業を継続していくなんてのは、今後ますます難しいんだろうなぁと感じた。

余談だけど、ヨシダさんはこれから2〜3年の間で農業に関する法律が大幅に変わるだろうと言っていた。

詳しくは知らないけれど、今は農地法?農業の法律で、大資本の企業が土地なのか経営なのかを買収して農業をするのができないらしい。

だけどもう個人や地区の農業組合だけで存続するのも相当厳しいところまで来ているようで、今後は法律が変わって資本の大きい企業が参入できるようなやり方に変わっていくだろうと言っていた。

但し、それは参入すればいいということではなく、自然の流れのあるものだから、それをきちんとわきまえて踏まえてやらないと本末転倒になっておかしなことになると危惧していた。

私は農業のことも政治のこともわからないけれど、普段の色んな法案可決を見て、少なくともヨシダさんが喋ってくれたような「本物」の物事の進め方とは程遠いんだろうなぁと感じる。

ヨシダさんたちが作り上げたものというのは、あくまでも農家の人含め現場の関わる人たちがいかに一番良い形で動けるか、農作物を守れるか、そうした中でどうすると効率が上がるのか、そういうことを本当にきちんと考えて試行錯誤もしながらの今なんだと感じた。

逆だなぁと思った。

私が行っていた塾の仕事でも派遣で数字が関わる仕事でも、まずは目標があって(上の者たちが勝手に設定)、その目標に沿った効率化が図られる、そしてその効率化に合わせて人間が働く、トップダウンの方式で、当然現場はてんてこまいだった。

現場が動く中でどうしたら一番良いかなのではなく、上が決めた利益を出す為にどうしたらそれが達成できるのか、人間を馬鹿にしていると私は常々感じていた。

だから、ヨシダさんが大きい資本が入ることで心配しているのは、おそらくそういうことなんだと思う。

だけど、農業こそ本気の自然とマンパワーで支えられてる分野だから、トップダウンでは絶対にやっていけなくなる時期が来てしまうと思う。

ヨシダさんが、農家あっての農協だろうと声高らかに訴えていたその気持ちがわかるような気がした。




*カントリー除湿乾燥、最初の十年は寝ずの番 

ヨシダさんに、どうして他のカントリーは遅くて、うちらの所は速かったのか、何が違ってそうなっているのかを聞いた。

「うちは火を使ってない」

はじめ何を言っているのかさっぱりわからなくて、それはどういう意味なのかを聞いた。

他のカントリーというのは、火力で米穀を乾かす。

あの巨大施設の中では米の乾燥も工程の中に含まれている。

ところがその火力乾燥だとものすごい時間がかかるらしい。

農家の人が半日待ちだというのも仕方なくて、どうやったって速くはやれないとのこと。

私が行っていたところは、建設の段階で除湿乾燥を取り入れることにした。

あまりにも情報が多すぎて突っ込んで聞いてくるのを忘れたけれど、それを言ってオーダーしたの、多分ヨシダさんだと思う。

なぜなら、機械の方の設計・建設は農協ではなく農機具の有名メーカーで、そこに対して「除湿乾燥」のやり方を導入した機械なら確実に時間短縮できると訴えたのはヨシダさんで、最初は「無理だ」と言われたらしいけれど、そこをゴリ押ししてできるからそうしてくれ!と訴え続け、それで開発者たちがうんうん頭を悩ませてそれでついに完成したのが今のカントリーだった。

今は知らないけれど、建設当時、全国初ぐらいの試みで、それで本当に時間短縮含め一気に能率がアップした。

それで噂を聞きつけた色んな団体が全国方々から駆けつけて、こぞって見学にくるようになったと言っていた。

この辺りでも除湿乾燥はそこだけらしい。

他はみんな火力乾燥で、半日待ちが当たり前だから稼働率も上がらないし、他だと数をさばけないから、他所(よそ)から14トントラックとかで多数の中身が入っているコンテナが運ばれてくるのはそれだった。

他所でできない分を代わりに機械にかけて回していた。

だから稼働率120%なんていう訳の分からない凄い数字だったんだなぁと納得した。




そんな特殊な機械ゆえ、最初は使いこなせず、ヨシダさんは最初の10年は寝ずの番でカントリーに張り付いて機械操作を担当したようだった。

今でこそ他の人たちも動かせるようになったけれど、当初は何もかも初めてで、ヨシダさん以外は使いこなせずずっと機械に張り付いていたと言っていた。

たしかに、室内の制御盤というのか、機械のスイッチの部分は、映画に出てくるような宇宙船の機械室みたいな感じで、無数のボタンと電光板とがあって、あのスイッチ1つで何かが変わるのかと思うと不思議な感じがした。

当時は農業の職員もしていたわけだから、二足のわらじじゃないけれど、カントリーの機械の部分を連日連夜ずっと見て管理していたんだろうなぁということが話からわかった。




*誰も怒らない、変な顔をしていない

このテーマに行く前に、ヨシダさんのおさらいをしたい。

ヨシダさんは25〜30年ほど農協職員をした。

主に担当は農機具部門。

その傍らで、昭和64年から、だから今から30年以上前に、まだまだ世の中は第二次ベビーブームの名残で3人兄弟当たり前みたいな頃、このまま行くと後継者がいなくなると言って、当時の市区町村レベルの中で全部の地区ごとに農業組合を作ろうと全部の農家を一軒一軒渡り歩いて、それで全部で32の組合を地区ごとに作るのに貢献した人。

最初は大反対を全員から受け、農協からも逆風吹きまくりみたくなり、完全に異端児、四面楚歌状態からこの取り組みを1から始めた人。

他にも農業関係や町のことであれこれするけれども、とにかく地区の農業組合の設立をする為に農家を一軒一軒渡り歩いただけあって、ヨシダさんが知らない農家はいないし、農家の方もヨシダさんを知らない人はいない。

農家の人たちが刈った米穀をコンテナに入れて、私が行っていた所にみんな持ってきていたわけだけど、来る人来る人にヨシダさんは必ず声をかけていた。

稲の具合がどうだとか、どこまで刈り終わったかとか、今日はどの田んぼしてるとか、とにかく色んなことを聞きまくっていた。

早く刈れだの、何で遅いだの、ズケズケと言っている場面もたくさんあったけれど、誰も嫌そうにはしていなかった。

今にして思えば、農家の人たちからしたら、ヨシダさんは農家の救世主みたいな人だったんだろうなぁと思う。

ヨシダさんが30年以上も前に組合を作ろうと訴えなければ、農業が主な町の収入みたいな町で農家は生き残れなかったと思う。

誰もその当時後継者がいなくなるなんて、どこ吹く風状態だったと思うけれども、ヨシダさんの訴えは現実のものとなって、今でもその町の農業がここまで発展しているのは、地区ごとの農業組合があるからだった。

もし組合がなくて、個人だけで農業継続しようとしてたなら、今その町の農業も農業人口も壊滅状態だったと思う。

ヨシダさんを改めて見て、ヨシダさんというのは感情に任せて何か言うことは基本なくて、筋の通ったことだけを言う。

それも相手の過失云々を責めたりせず、あくまでもその人ではなく何かやり方が違えばそこだけをこうしろああしろと言うだけにとどめている。

怒り方というか伝え方というかが本当に上手いなぁと思うし、ヨシダさんの言うことというのはその何かに対してより良くなるための指南であって、そうでなければ基本余計なことは一切言わない。

その線引きがきっちりしているのと、そして本気の有言実行の人だから、周りも何も言えないんだと思う。

ヨシダさんが「不思議と、俺が何か言っても誰も怒らねえし変な顔をしてねえな」と言っていた。

それは私も見ていてそう思った。

そしてヨシダさんもヨシダさんで来る農家の人たちの顔をよく見ていた。

性分と言えばそれまでだけど、黙って淡々とコンテナを運ぶんじゃなくて、声をかけることを自然といつもしていた。

さっきみたいに人によっては日に30回とか来るわけで、そうでなくても1日コースの人たちは10数回は来るわけで、そんな時も毎度毎度声をかけてた。

変な顔をしないのは、それだけ普段の小さなやりとりをヨシダさんが自ら率先してやって大事にしているからだと思う。




*農家に渡したい資料

「いやぁ、俺の人生話いっぺえ(いっぱい)してしまったなぁ。こんな風になるなんて思ってもねかったなぁ」

ヨシダさんはそんな風に何回か言った。

本当に面白い話が満載だった。

ヨシダさんまだまだいけるから、もう少し何かしないの?と聞いた。

私が聞いたからなのか、そうではなく話の最後の方でヨシダさんの口から出てきたかは忘れたけれど、ヨシダさんはポツリと言った。

「あとやりてぇことは、9割は完成しているものを農家に伝えることだな」

話はこうだった。

ヨシダさんが中国に行った時なのか、他の国に行った時なのか、とにかくそこにいて一緒にやった人と見つけたある法則的なものがあるらしい。

それは農作物が本当に良く育つもので、米でも野菜でも何でもいけると言っていた。

その相方がもし活用していたとするなら、それは今茨城県で運用されてるかもしれないけれど、そうでなければそれはヨシダさんたちの中にとどまったままらしい。

ヨシダさんは、例の人事異動の内示を間違えて送信ボタンを押してみんなに出回らせてしまって以降、パソコンは触ってない。

それで嫌になって全然触ってないらしい。

で、その究極の方法とやらを紙にまとめて農家の人たちに配りたいのだそう。

話の感じからすると、それは未来永劫、長く受け継がれるような良質のそして本質的なものなんだろうと感じた。

あのヨシダさんが「ものすごく良い」と言う時のものは、普通じゃなく、本気の良いだし、それは誰でも活用できる素晴らしい可能性に満ちたものだと思う。

ヨシダさんは、現場ももちろん知っているけれど、その他にもバクテリアの研究だの農機具だのめだかだの何だのとやたらと目利き腕利きが半端ない。

農機具会社の社長と親交が長く続いたのも、男同士農機具のマニアックな話をしてたのではないかなと思う。(男同士のマニアックな機械だの車だのバイクだの特定の分野の何かの話は、私なんかは寝落ちしそうなくらいに子守唄にしか聞こえないけれど、マニアたちは目をキラキラさせて喋ってるのはこれまでもたくさん見てきたから、なんとなく想像がつく。)

ヨシダさんがまとめようとしている手法は、ヨシダさんのこれまでやってきたことの集大成で、そしてそれを地域の農家の人たちに還元したいことは話を聞いててよくわかった。

そのための資料を作りたいけれど、自分はパソコン触らないからそのままになってると言っていた。

私はヨシダさんに言った。

「ヨシダさんさ、それ良かったら私するよ、資料さえもらってきちんと説明してくれれば、私がそれパソコンで打ってまとめて、形になるようにするよ」

テーブルの上にあったメニューを手に取って、私は読み上げた。

「ラーメン650円、とんこつラーメン700円、フランクフルト250円…、要は内容を(メニューをテーブルの上に戻して)こんな風に見えるように、見てわかるようにするんでしょ?中身はヨシダさん持ってるわけだから、あとは形にするだけなんだよね?」

「そうだ!やってくれるか?」

「やるよ、ヨシダさんが本気でやりたいなら私がその部分はやるよ」

家に資料があるから、もう一度見て整理するとヨシダさんは言った。

農業のことはさっぱりだし、話を聞いたところで私にはちんぷんかんぷんなのは確定だけど、言葉をタイピングして紙に起こせと言われたらそれはできる。

あの時、「やらなきゃいけないこと」のように感じた。

なぜならヨシダさんの持ってるもので今ヨシダさんの頭の中なり家にある資料なりにあるものは、ヨシダさんのところでストップしてはいけないものなんだと思う。

しかもヨシダさんが絶賛するぐらいのものだから、超良いものなのはわかる。

しかも、ヨシダさんが見据えているのは、農業の発展と農家の人たちの技術向上で、己の利益など何にも考えていない。

70歳のヨシダさんには、これからもしかしたらもう30年ぐらい生きるかもわからないけれど、少なくとも死に近づいているのもわかっている。

元気に動けてそのものを次世代に繋げられるのも今はできても、この先は不透明であることもわかって、だからこのことを「やり残したことでやりたいこと」と言ったんだと思う。

そういうのが瞬時に話の節々から伝わってきたから、だからヨシダさんに私がするよと申し出た。

ヨシダさんのことだから、これを気安く人に頼めないのはなんとなく想像がつく。

私であれば、農業ど素人のおかげで、わからないことは何でも「これどういう意味なの?」と聞ける。

ヨシダさんも、その方が噛み砕いて説明してくれるだろうし、私なら言いやすいだろうこともなんとなく想像がつく。

だから最後別れた時も、「ヨシダさん、あの資料の話、本当に必要だったらまた連絡してね!」と言った。

ヨシダさんの乗り気具合はわからないけれど、少なくとも家に帰った後、資料は出してきて見たような気がする。




私もこんな風に自ら手伝いを申し出るなんて、しかも資料作りなんて普段なら面倒だから絶対にやるとは言わないけれど、今回ばかりは黙っていたらいいものではない気がした。

ヨシダさんの話から学んだことはたくさんあるけれど、その中でも何を軸にするのかということを本当によく聞かせてもらえた。

ヨシダさんは己の利益ではなく、周りの人たちや自然に対して一番良いものをもたらそう、循環してみんなが良くなるものを追求しようという気持ちだけで基本動いている。

口では良いことを言っておきながら中身は全然違ってたり、実は周りを動かして自分だけが良い思いをするような仕組みとか、そういうものも私は山ほど見てきた。

中には素晴らしいものを提供している人や組織もあったけれど、そういうのは本当に少ない。

そんな中、ヨシダさんのそれはもうこれまでとは桁違いなのと、本気で本人が「後悔は何一つない」と言い切れるほどのことをやり続けているから、だから伝わってくる。

本当にすごい人に引き合わせてもらえたなぁと感じている。

私の人生の混沌ぶりや迷走っぷりはひどいものだけど、ヨシダさんの話を聞いていたら、何が大事なのか、その根幹部分を指し示してもらえたように感じている。

ヨシダさんが何十年も前からやっていたことは、今の私が聞いても古くさくないどころか、本質をついたものだから逆にはっとさせられて、そして胸の深いところに残る。

まだまだ私は色々迷ったり決められたりしないことだらけだけど、何を軸にしたらいいのかはヨシダさんが教えてくれた。

上手く言葉にはできないけれど、ここに書いたことの中に大事なことがたくさん詰まっている。

ヨシダさんのことで何か進展があればまたブログに書きたいなぁと思う。

2019年10月19日土曜日

米の仕事②ヨシダさん

2019/09/22〜米の仕事ラスト数日

ヨシダさんは、最初から並々ならぬ存在感があって、一体何をしていた人なのか気になる風だった。

F-1のサーキット(当時は富士)で自動車の整備士をした後、農協の農機具担当課に入って、定年後ミャンマー・ベトナム・中国・スリランカでタイガーエビの養殖の機械?修理を請け負って海外赴任、今は農家をしながら季節雇用でリフトをものすごく上手に使いこなしている。

リフト運転・操作しながら、タバコ吸ったり、電話出たりしてる人を初めて見た。

そして来る農家来る農家、ほぼ全員と話をして、早く刈れだのもっと全力でやれだの、とにかくケツを叩きまくっている。

刈った米穀を見て、それで品種が違うことを一発で見破った。

品種ごとに伝票の色が違っていて、伝票が間違えている!とすぐに言った。(正しくは、「これ伝票がちげぇねか!」[ちげぇねか!=違うね])

これは後日ヨシダさん本人に聞いて、「長年の経験で見たらわかる」とのこと。

ちなみに素人には、刈られたモミを見たところで、みんな同じにしか見えない。

ヨシダさんに相当突っ込んで聞いたら、それは本当に長年やってたらわかるけれど、少し農業かじったばっかりじゃわからないことだと説明を受けた。

とにかく発言の1つ1つや行動のテキパキした感じと自由な感じが、タダ者じゃないことを彷彿させた。

ある時ヨシダさんが「組合を作った」みたいなことをぽろっともらしたことがあった。

普通にサラリと言ってその時は突っ込まなかったけれど、私は後々考えてその小さな話がものすごく気になった。

絶対に次に話す機会があれば聞こう!と思って、今日話す機会をゲットした時に聞いた。

ヨシダさんは、昭和64年に当時の市町村の町レベルで全農家を訪ねて、各地区ごとに組合を作ろうと掛け合って、それで最初はほぼ全員から総スカンを食うものの、それでも粘り強く交渉して、最終的に町内で32の自治区で農業組合を作った。

今でこそ、近隣の人たちと農業組合を作って、組合ごとに米を作るとか農作物を作るとかは当たり前でも、当時はそんな発想自体がまだ全国的にもほとんどなくて、本当の先駆け的な取り組みとしてヨシダさんは全農家を渡り歩いた人だった。

私が小学校4年生ぐらいの当時、同級生は3人きょうだいが当たり前で、ひとりっ子なんてのは140人ぐらいいた学年の中で1人ないし2人みたいな時代だった。

そして、農家たるもの、長男が引き継いで、もしくは女姉妹だけなら婿を取って家族で受け継いでいくのがまだまだ当たり前みたいな頃だった。

なんて頃にヨシダさんは、「今後後継者が確実にいなくなるから、そうすると農業が途絶えてしまうから、各地区ごとに組合を作ろう」と必死でみんなにアピールした。

逆風だらけで最初は本当に賛同が得られなかったようだけど、最終的にヨシダさんの活動は実を結んで、今現在に至る。

ヨシダさんはそれを農協職員のかたわらでしていた。

所内でも全く賛同が得られず、ほうぼうに喧嘩を売りまくりだったなんて言っていたけれど、今日(こんにち)ここまでその地区の農業が発展できたのは、ヨシダさんの30年以上も前の取り組みのおかげと言っても過言じゃない。

実際に受付をしてみて真っ先に感じたのは、就農者の方たちの高齢化だった。

私どころか50近い年齢の人でさえ若く見える現場だった。

ヨシダさんは、30年以上も前にこういう状況を予測していた。

このままいったら、間違いなく地域の農業は衰退する。

それを見越して、誰もまだそんなことを思っていなかった時に、ヨシダさんはただ1人声を上げてみんなに掛け合った。

多分今の私の年齢ぐらいの時に。





そのヨシダさんから、この仕事が終わったら次の派遣は決まってるのか?と聞かれた。

ヨシダさんには、私は婚歴のない子無しの独身であることは言った(聞かれた)。

だから、普通に考えて仕事を次何かしらするのが当たり前になる。

私は「他にしていることがある」と最初言った。

何してるんだ?という話になった。

なんとなくヨシダさんには言えるし、わかってもらえなくても否定はされないだろうと思った。

私はこんな風に説明した。

「私のは、山で人が行方不明になったら探して欲しいとか、人の人生の分岐点のような時にその人に必要なメッセージをキャッチして伝えるとか、そういう変わった仕事で、やりたいからやるとか、好きだからやるとかいうのではなくて、そういうのが来てしまう」

ヨシダさんは
「おー、そうか。それはそういうもんだろ」
とだけ言った。

あまりにあっさりしているし、何にもしのごのと言わないのがヨシダさん風と言えばそれまでだけど、私は「えっ?これでいいの?」と反対に驚いてビクビクしてしまった。

しばらくしてから、ヨシダさんに聞いた。

ヨシダさんはあの私の話を聞いても何とも思わなかったのかを。

「それはそういうもんだろ、そういうことだってあんだろ」と笑いながらヨシダさんは言った。

私は、これまで色んな人たちにカミングアウトしてきたからこそ、ヨシダさんの返しが普通ではないことがわかった。

ヨシダさんは、私の言っている「やりたいからやるのでも好きだからやるのでもなく、来てしまうもの」という言葉の意味を本当にきちんと理解した人だった。

ちなみにヨシダさんは、やくざから農機の全国的有名な某メーカーの会社の社長から、色んなジャンルの大学教授の人たちまで、とにかく交友関係が幅広い。

どうしたら片田舎に住む定年後のおじさんが海外にいきなり職違いのものに頼まれて行くのか、皆目見当もつかなかったから聞いた。

最初は「ツテで」と一言で終わらせようとして、私は得意のツッコミで「ヤクザ経由?」と聞いたら、「ちげぇよ。知り合いから来た」と返ってきた。

さらに超つっこんで聞いたら、こういうことだった。

ミャンマーみたいな名前の全国でも有名な農機具の会社の社長が新潟のとある営業所勤務だった時代に仲良くなって(当時は社長ではない)、その人繋がりで東京に遊びに行くと、その面々とやらが様々な大学の教授たちとのこと。

その繋がりで、海外の仕事を頼まれたようだった。

だから、終身雇用制度が当たり前だった当時、ヨシダさんは異色すぎる経歴と人脈の持ち主だった。

でも話してたらわかる。

片田舎のおじさんと言うよりも、本気で何かを全力で成し遂げた男の人だということ。

私は言った。

この手の話は怪しいし、私も私で言う言わないは相当人を選ぶこと、言う時も言っても大丈夫そうだと感じなければ言わないことを言った。

例えば今一緒にいる年配の女性たちには間違っても言わない、言ったところで誤解やらを生んで終わるからと説明した。

ヨシダさんは「そうだな…」と失笑みたいな感じで笑いながら答えた。

さらに付け加えた。

ヨシダさんが大丈夫と思えたのは、そもそもの生き方や考え方もだし、例えば組合を作るのに全農家を回って全員からノーを食らうぐらいの体験、100人いたら90人からのノーではなく場合によっては100人全員からノーを突きつけられるぐらいの体験をしただろうから言えたと言った。

その体験がある人なら、私みたいなわけのわからないものを持っている人のこともわかるんじゃないかと思った、それも言った。

ヨシダさんは「そうだな、百人百色だかんな」とこれもうっすらと笑いながら言った。




2019/10/15

昼12時きっかりぐらいに、見知らぬ携帯の電話番号から電話が来た。

そんなこと滅多にない。

しかも、今気付いたけれど、普段ならその時間はお昼ごはんの用意してるから携帯は近くにない。

今日は若干の体調不良で昼ごはんパスだったから、それでちょうど携帯を手に持って何かしていた。

だからすぐに出ることができた。

電話に出ると、向こうもすぐには声がしなかった。

ちょっと間があってから声が聞こえた。

「ヨシダです」

あの米の仕事のヨシダさんだった。

今日から枝豆部門の仕事が始まったようで、それで私からのお菓子とメッセージを手にしたとのこと。

東京に行った翌日、何も知らずに仕事に行ったら、その日が男性陣の最後の日だと伝えられた。

まともな挨拶もできないまま、ヨシダさんとはそれっきりになってしまった。

東京で人数分のお菓子(おみやげ)を買ってあって、私はその日仕事を終えてから大急ぎでそのおみやげを渡す予定の人全員に小さなメッセージを書いた。

ヨシダさんだけは他の人たちとは違った。

きちんとお礼を言いたかった。

ヨシダさんとの会話の中で、私は何度ヨシダさんから心を救ってもらったかわからない。

それをきちんと伝えたかった。

そして、できるならもう一度ヨシダさんには会いたかった。

だから私はヨシダさんのメッセージの中に、自分の電話番号とメールアドレスを書いた。

私の家の近くに来ることがあったら電話くださいと書いた。

俺はメールなんぞしねぇ!とか言いそうだけど、一応書いとくね!と言って、メールアドレスも書いた。

翌日お菓子とメッセージのセットを職場に持ち込んで、手渡しできる人の分は手渡しして、会えない人の分は責任者に預けて、その人たちが次に枝豆の仕事で出てくる時に渡して欲しいとお願いしてきた。

それが今日ヨシダさんたちに無事渡ったようで、そのお礼の電話をヨシダさんはかけてくれた。

「お菓子ありがとう」とヨシダさんは3回か4回くらい言ってくれた。

ヨシダさんにはいくらでも好き放題に言葉を言えるから、「ラブレターも付いてたでしょ!」と言った。

ヨシダさんは相変わらずむせながら、電話の向こうで笑ってた。

「仕事始まったんか?」と聞かれて「まだ何もしてない」と答えると「そうかぁ」で終わって、すぐ次の言葉に移った。

「仕事どうした?」系の質問は山ほど浴びているけれど、ヨシダさんのそれはちっとも嫌じゃなくて、普通に「元気してたか?」並みに聞いてきて、何もしてないと言っても「そうかぁ」で気にかけてるのと、それはそれで有りだなみたいな感じと、とにかく否定せずに言葉を返してくれる。

冗談抜きでヨシダさんは、私の家から徒歩圏内の店に飲みにきたことが何回かあった人だから、本当に飲む機会があれば連絡くれたら飛んでいくよー!と言った。
(ヨシダさんの住んでるところは、市町村単位の隣りの隣りの町)

笑いながら、またな!と本当に菓子ありがとうと最後もありがとうとはっきりと言って電話を締めていた。

相変わらず男気のある人だなぁと感じた。




2019/10/18

昨日ヨシダさんから電話きて、明日デートすることになった。

デートは嘘で、コケ(苔)を探しているとかで、私の住む町の道の駅に行こうとしていて、私がその案内役をすることになった。

ヨシダさんは今日行こうとしていたけれど、明日なら私いるから案内できるよと言ったら、日にちを変えて一緒にコケ探しをすることになった。

地域の名産も食べれる店あるから、そこも連れてくよ!と伝えた。

他にもメダカを飼ってるとかで、メダカのお店にも連れて行こうと思っている。

私はもちろん入ったことないけれど、のぼりが出ていたから、場所だけでも教えようかと。

イマイチ大きさがわからないけれど、ヨシダさんのここ最近の趣味はメダカで、数匹飼い始めたところから、今は500リットルの水槽6個分を所有するほどのメダカを飼っているらしい。

メダカというのは1匹10数万円で売れたりもするらしく、私が売ったらどうかと返したら、「俺は売ろうとは考えねぇわ」と言った。

そういうつもりで飼ってるのとは違うらしく、多分だけど命に値段をつける趣味のない人なんだと思う。

趣味じゃないと言うよりもできない感じがする。

若い頃からとにかく色々やっていて、お茶も三味線も師範級ぐらいまでやったみたいだし、日本舞踊もやったと言っていた。

仕事もだし趣味もだし遊びもだけど、本当にあれこれやりたいことは全部やる主義の人だから、「俺の人生に悔いなし」と言い切っていた。

カッコつけたとかじゃなくて、本当にそう思っているのが伝わってきた。

遊びに関して言えば、「ヨシダさん、若い頃(女遊びの方)遊んでたでしょ?」と言ったら、「遊んでねえって言ったら嘘になるな」と笑って言ってた。





ヨシダさんとのやりとりはたくさんあるけれど、最初にした個人的なやりとりはよく覚えている。

私の名札を見て「それ何て読むんだ?」と聞かれた。

「ぶしまたです。カッコイイ名前でしょ?」

ヨシダさんはふと笑って「変わった名字だな」と言った。

少し話は違うけれど、私は生まれてこの方、自分の名字をカッコイイなんて思ったこともなければ、今でこそ「ぶっしー」という老若男女問わず愛称で呼ばれるからいいけれど、子どもの頃というのはこの名字が原因であまたのいじめと嫌な思いをした。

4年生の時、アメリカではブッシュ大統領が大統領になった。

子どもからして、大統領も天皇も一般市民もみんな同じみたいな頃に「ブッシュ大統領」などとからかわれて、私はものすごく嫌だった。

5年生の時、6年生の仲良くしていた女の子たちから「武士のおこり」という言葉を言われて毎回笑われていた。

歴史の中で「武士のおこり」というのが出てきて、私は毎回怒っていて、そのおこりと怒りを掛け合わされてさらに笑われて、本当に嫌だった。

中学の頃、心理的ないじめと仲間外れととにかく酷い状態に日々あって、男子たちからバイキン扱いされて私の近くを通るだけでやいのやいの本当にあることないこと言われ続けていた。

私の机に誤って触れただけで、その手を他の男子に「バイキンタッチ!」などとやられていたような時の話。

「ぶしまた」は「ぶすまた」と呼ばれた。

ただでさえ容姿コンプレックスが半端なかったのに、私はブスの称号を与えられ、本当に嫌だった。

これは本当のことだけど、うちは三姉妹の中で私1人だけ違う顔をしていて、妹たちは子どもの頃〜思春期にかけて「可愛い」と言われ続けていた。

今でも2人は小綺麗にしているけれど、年齢相応だから、今は普通の30代女性って感じ。

それはそうと、そのことも相当子どもの頃は、なんなら高校に上がってからも言い続けるタチの悪い同級生もいたぐらいにして、ブス、ブス、ブスと呼ばれた。

妹たちに聞いたことないからわからないけれど、「ぶすまた」と呼ばれたのは姉妹の中でも私1人だけだと思う。

だから長いこと、「武士俣」姓に関しては良い思い出などなく、大人になってから老若男女問わず「ぶっしー」とか「ぶしちゃん」とか「ブーちゃん(←これは愛称だと空気でわかる、音はさておいても)」とか、本当に可愛がって呼んでもらっていて、ようやく嫌ではなくなったぐらい。

だから私は自ら「カッコイイ名前でしょ?」なんて言ったのは、ヨシダさんが人生で初めてだった。

そう思って言ったのと違って、ヨシダさんなら私が嫌じゃない、なんなら何が返ってきても気持ち良い返しをくれると感覚でわかっていて言ったに過ぎない。

変わってる名前だと返した言葉も全然嫌な感じはなく、むしろきちんと聞いて覚えようとしてくれてるとわかって嬉しかった。

私のことを呼ぶこともなかったけれど、一度だけ仕事中に「ぶーちゃん」と呼びかけられたことがあった。

自分はリフトから降りられないから、代わりにお気に入りのぶどうジュースを自販機で買ってくれと頼まれた。

大したことないやりとりではあったけれど、何せ忌まわしい過去のいじめの痛みと名前とが心の奥深いところでリンクしてたりもするわけで、そうやって本人が呼びやすい私の呼び方で呼んで、私を選んで小さなやりとりをしてくれることは思っていた以上に嬉しいことだった。




とりあえずヨシダさんに会う前にアップしたいから、途中だけどこのままアップ。
(今電話きた!もう家出たと!)

2019年10月18日金曜日

最後の読書とNO後悔

髪の毛を切りに行く前日。

それにまつわる書物を風呂の中で読みたいと思った。

かなりな長さを切るから、その長さの歴史の分を振り返るものが良かった。

茶封筒を出してきた。

その中に下書きが入っている。

これお金なら、何万円分の厚さになるんだろう?なんておバカな発想をしつつ、それを久しぶりに読んだ。

最初から最後まで飛ばすことなく、全て読んだ。

過去最高に恥ずかしさを感じたけれど、なんならよくぞこんなの渡しておいて普通にしれっと振るまえたなぁと心から感心しつつ、当時の自分を思い返した。

下書きの私は、とにかく一生懸命だった。

命を、一生分の命をその中で懸けていた。

それは全く実を結ばないただの紙束と化したけれど、私は後悔してないって改めて思った。

もうそんな風には書けないし、書いたとしてもそれを渡すとかできない。

あの時だけ与えてもらえた千載一遇のチャンスだった。

人生って一度きりのことって案外と多いけれど、それはその最たるものだった。

もう二度と戻ってこない、二度と与えてもらえない、そういう機会だった。

シュレッダーにかけられたり、燃えるゴミになったりしたかもしれない。

それでもいいから、あの時、ただ一度きりのあの時に、自分の意のままに動いて良かった。

髪の毛を切ったところで何か変わるわけではないけれど、何かその結実しなかったことに対しても吹っ切れるかもしれない。

風呂の中で読むと、長くもなく短くもなく、ちょうど良い塩梅(あんばい)だった。

自分で読んでて、こんなの渡されたらドン引きもするだろうし、無視もしたくなるわと思った。

あの時はそれどころじゃなかったからわからなかったけれど、無視というのは案外と妥当な振る舞いだったのかもしれない。

今ごろになって、普通にしれっと装っていた私の方が普通じゃなかったのかもしれない、と初めて思った。

その紙の中でも、私は普通に振るまえると書いていた。

心の中は北極で暴風雪と雷と竜巻とが同時に来たぐらいになっていたけれど、そんなの隠し通した。

瀕死の心は外側にはさいわいにして見えないから、何とか隠し通すことができた。

そんなことも含めて、後悔してなかった。

髪を切ることと何の関係もないけれど、なんか切る前に読めて良かった。

読めたこともだし、後悔してないって自分で自分のことを知れたのが良かった。

2019年10月17日木曜日

ペンジュラムと私

ペンジュラムを入れる巾着袋

寝る時のペンジュラムの様子
枕カバーは私の手作り(о´∀`о)

ペンジュラムが教えてくれた両面テープ
売り出し文句通り、超強力でピッタリだった!

ペンジュラムのおかげで手にした戦利品



足のクリームさえ選んでしまえば、あとは家に帰ってお昼だー!!と思いながら、ペンジュラムを小さな巾着袋から出そうとした。

かれこれ多分15年ほど前にもらった、友達のお母さん手作りの和布で作られた巾着袋。

「うん?」

オルゴナイト2つと名刺が入った透明ケースとラリマールのペンジュラムはある。

だけど、どこをどう見ても水晶のペンジュムがない。

私は買い物かごを適当な邪魔にならない通路の一角に置いて、一目散に車の中へと戻った。

これまで歩いた店内の中と歩いた駐車場と自分の車の中と運転席のすぐ外の辺りをくまなく見たけれど、どこにもなかった。

大パニックだった。

さっきまでお腹空きすぎで早くごはん食べたい!なんて気持ちも一気にぶっ飛んだ。

どこにもやっぱりない。

とりあえず、ほっぽってきた(放ったらかした)買い物かごのところに戻って、他にも買う予定だったものをかごにぽいぽいと詰め込んで、レジを済ませた。

頭の中は真っ白だった。

色々買い物を済ませようと、隣りの町に繰り出していた。

その帰りの車の中で、ノム(占星術講座のクラスメイト)とのやりとりを思い出して、さらにはペンジュラムの今後を思った。

ペンジュラムとの付き合い方が変わるかもしれない…、そう思った。

この話は長くなるし別記事に書き途中だから内容はここでは割愛するけれど、これまでみたいに何でもかんでもペンジュラムに聞くようなことは、今後徐々に減っていく、そんな風に考えた矢先だった。

ペンジュラムは今後お守り的な役割を果たすだけで、日常使いは徐々にしなくなるかもしれない…、そんなことを思い始めたこのタイミングで、ペンジュラムがなくなった。

まさかそんなことを心の中深いところで思った直後に本当にペンジュラム本体がなくなるなんて、ありえない!と思った。

どんなに探してもなくて、そしてできるだけ落ち着いて考えて、ひとつ前のホームセンターに行く時までは確実に運転する私の膝上にあったことを思い出した。

じゃあホームセンターの駐車場!?もしくは店内!?と思って戻った。

ホームセンターの駐車場をウロウロし、店内も同じ場所をウロウロした。

やっぱりない。

膝ついて、車の下を見てもなかった。

落とすなら落としたでもいいから、割れた残骸が欲しかった。

姿かたちもないまま、ペンジュラムと突然のお別れ、しかも私の不注意でのお別れは嫌だった。

平日の昼間の空きすぎな駐車場をいいことに、そこでドアをよく開いてくまなく探した。

運転席側や運転席側の後ろにはなかった。

助手席側にあるわけない!と思って、助手席側のドアも開けて見たら、なんと、ドア開けてすぐのドアと助手席の隙間に落ちていた。

一体どうしてそんなところに落ちていたのかは知らない。

心底胸を撫で下ろしながら、ついでに近くの別のドラッグストアにも立ち寄った。

さっき選びそびれて買えなかった足のクリームを買おうと思った。

ペンジュラムもそこ行くよと言うから行くと、そのまま手や足のクリームのコーナーに真っ直ぐ向かった。

20〜30は種類がありそうな中、ペンジュラムは陳列棚の全部にNOと言いながらも「ある」にYESだった。

他の場所にあるということだから、さっと近くを見渡すと、奥の方に値引コーナーがあった。

このドラッグストアは、各コーナーごとに割引ワゴンを置いているから、そこにクリームがあるかもしれないと思って見に行った。

日焼け止めが主流な中、ボディクリームが半額になっていた。

蓋をそっと開けてニオイを嗅ぐと好きじゃない。

でもペンジュラムは買うにYES。

よくよく見ると2種類あった。

もうひとつを嗅ぐと、そちらはすごく好きなニオイだった。

しかも2本買うと言う。

ボディクリームを2本買ったことなんてないけれど、オススメなぐらい体に合ってるんだろうと思った。

そうやってやれやれƪ(˘⌣˘)ʃと思って、2本ともレジに持ち込んで、ようやく家路に着いた。




改めてペンジュラムのことを思った。

生まれてこの方、お守り的なものやアクセサリーをこれまで身につけたり持ち歩いたりしたことがない。

そんな中、ペンジュラムがほぼ24時間体制で肌身離さずまでいかないけれど、近くに置いている。

家にいて起き上がっている時間は、大抵木のテーブルの上に置いている。

寝る時は枕のすぐ横に置いている。

外に出る時もこれまた私は独特で、財布や携帯以外に、まずはペンジュラムをきちんと収納できるか、宿泊を伴うような時はかばんのどこに入れるかを考える。

今回探していた時も、携帯他無くなってもいいけれど、ペンジュラムだけは他に代わりがきかないとわかっていて、それだけは絶対に避けたかった。

外に出かける時、運転中はひざの上にいつも巾着袋こと置いておく。

仕事となれば、かばんに忍ばせて出勤する。

買い物時はかばんに入れるか巾着袋ごと手にして持ち運ぶかする。

今回ももれなくそうだったけれど、買い物の時がある意味一番本領発揮しているかもしれない。

買う買わないもだけど、今日のように種類がたくさんありすぎて選べない時、ペンジュラムがどれがいいかを教えてくれる。

大型の百均に行った時、本来必要なファイルを手にして後にしようとしたら、両面テープが目に入った。

ここ最近、ほぼ毎日愛用中の相棒歴25年の英和辞典の表紙が本体から完全に外れてしまって直さないといけなかった。

そうだ、両面テープが要る!と思った。

まず両面テープコーナーに行って驚いた。

パッと見ただけでも、太さも含めて30〜40は種類がある。

どれがいいのか全くわからなかった。

こういう時はまずは、「買う?」と聞く。

YESが出た。

あまりに種類が多くてパニックだったから、上から順に「この段?」っていう風に聞いていった。

下から2段目のところでYESが出た。

最初目星をつけたのが2つほどあって、でもさすがにそこは人通りが多くてペンジュラムをきちんとかざせないから、2つを手にして、少し人目につかない近くの別の列に行って聞いた。

どちらもNOで、でもペンジュラムはあるという。

そうだ!と思って、私は買い物かごの中でペンジュラムを回した。

数個目のところでペンジュラムがYESを出した。

何が他と違う風にも見えなくて、とりあえず手に取ってよく見てみた。

「布専用両面テープ」とあった。

そう、表紙の内側は、言うなれば一番近い素材が布になる。

そして、改めてコーナー全体を見ると、布専用のものはそれだけだった。

しかも下の目立たないところにあって、ペンジュラムがなければ見つけられなかった。

そんな風に使っている。

ちなみにこれには理由がある。

ペンジュラムは、私のことは何でもいいけれど、人の相談事やメッセージにも使う。

その時に間違いがないように、普段どうでもいい、間違えてもかまわないことで使って、精度の具合を確認するようにしている。

そうやって、とにかくペンジュラムをずっとずっと近くに置く生活をして早3年半。

私にとって、体の一部、本当に絶対に大事なもの、それこそ命の次ぐらいに大事なものなんだと思った。




ペンジュラムを日常使いしてる時点でも現代では変わり者かもしれないけれど、私は実はもっとおかしな想像をすることがある。

2年前の冬に初めてホロスコープ鑑定を受けた時の鑑定士さんから、私は過去世で10歳くらいまでしか生きられなかった男の子で、その時にもペンジュラムを自分の体の一部のようにして大事にしていたことを教えてもらった。

その時の意志が今の私の人生にすごく反映されていると教えてもらった。

鑑定士さんとの事前の打ち合わせのメールの中でこんな風に綴られてきたのが、初めて私がペンジュラムと自分との関係を知った時だった。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

メールを読ませていただいて感じたのですが、 間違いなく過去世でペンジュラムを使われていますね!
その時は、男の子です。祖父母にあたる方が使われていたようで、 家庭のなかに当たり前にペンジュラムがあり、 日常に当たり前に使っていたようです。 祖父母の方が使うのを幼少期からみていて、 自然に使いこなすようになり、 過去世の史子さんにとってペンジュラムは、 かけがえのない自分のお友達であり、自分の一部のような、 一体感になっていたようです。

この男の子は、 残念ながら成人までは生きていないようなんですよね。

この子の思い、志のようなものが、 今世の史子さんに強くいい意味で出ているようです。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

私はこれを車の中で読んだけれど、今でも読んだ瞬間のことを覚えている。

読みながら涙がいくつもいくつも出てきて、胸の辺りがブルブルと震えた。

文字通り、震えた。

その時以降、私はペンジュラムを時々見ては「これを持っていた男の子の自分はどんな風に生きていたんだろう…?」と想像することが時々ある。

世の中風に言えば、40未婚無職おばさんがそんなことを時折頭に思い浮かべるなんて、何とも痛々しい構図かもしれないけれど、冗談抜きでそんなことを真面目に想像する。

当時の記憶なんてちっとも思い出せないけれど、唯一ペンジュラムだけが繋がっている、私のこの異常なほどに使いこなせる能力は、間違いなくその子が授けてくれたものだと思っている。

ひとしきりそんなことを考えていたら、私は
「あーーーーーーっ!!!!!!!!」
となった。

過去のブログを探した。

出てきた。

目の前にはいない生きている人から死んでいる人、風景まで、とにかく様々なものが霊視できるヒーラーのOさんとやりとりした時のこと。

Oさんは、ペンジュラムのエネルギーを読み解いて
【この世のものではないものと繋がっている】
と私に教えてくれた。

ずっとずっと何だそりゃ?と思っていたけれど、私は今になって、その「この世のものではないもの」というのは、もしかして過去世の私なんじゃないかと思った。

私というか、その男の子というか。

そんな細かな霊界エネルギーを私は読み解けないからわからないけれど、もう今は生きていない者なら、色んなことがお見通しでもおかしくない。

しかも、Oさんは最初にペンジュラムのエネルギーを読み取った時、私にこう言った。

「アメリカ人の10歳ぐらいの金髪の男の子で…
そばかすがあって…
ペンジュラムを使ってるのかな…
使ってるというよりペンジュラムで遊んでる感じですねー、
そんなのが見えます」

この話を聞いて、私は瞬時に思った。

多分Oさんが感じた映像は、その1年前にホロスコープの鑑定士さんが感じた映像とおそらく同じだろうこと。

とにもかくにも、その男の子の意志が本当に強く出ているんだろうって思った。

ずっとおかしな妄想だと自分でも若干思わなくもなかったけれど、そしてそれが当たっているのかどうかなんて知る由もないけれど、恐る恐るな気持ちの中で妙にしっくりくるものだった。

Oさんに「この世のものじゃない」と言われた時、私はとっさに「地球外生命」などと勝手に想像したけれど、なんなら宇宙人?とか、〇〇星人とか?とどこまでも妄想だけが暴走した形の想像を一瞬したけれど、そんなのは何でもいいと思ってそのままにしていた。

でも、多分だけど、「この世のものじゃない」はその男の子なりその男の子にまつわる何かだと思う。

これは当たっても外れててもいい。

私の中で「魂が設定したもの」に近づくのに、思い込みでも何でもいいから、自分がそう思えることで楽になれたり心に力をもらえたりするなら何でもいい。

さすがにここまで来て、そしてこの4ヶ月ほどのノムとのやりとりのおかげで、私の人生は私が思っている以上におそらく色々ぶっ飛んでいて、何だか知らないけれど何かを強く願ってまたは意図して今回生まれてきているだろうことも受け入れつつある。

そんなの誰でもそうだろうけれど、私の場合、自分が望んでいるありきたりな生活、なんなら夢は専業主婦などと言う人が、それからは程遠い世界のことに関わるような人生であることを受け入れ始めてる。

その程遠い世界のことを私はまとめて「魂の設定」としている。

言葉は何でも良くて、要は私が受け入れられるかどうかが大事だったりする。

そうだとした時に、魂の設定を今を生きる私が少しでも頭で理解できた方がいいわけで、ノムの言葉を借りると「左脳で理解する」になる、そのような状態が好ましい。

その「左脳で理解する」のに、ペンジュラムを見て、過去世の男の子の存在に想いを馳せるというのは、私にとってある意味気持ちがふっとゆるんで、遠い自分と繋がるみたいな感覚がうっすらないわけでもない。

だから、そんなことをずっとしてたんだなぁ…と思った。




近いうちに書き上げてアップしたいと思っているけれど、この度ノムのおかげで、ペンジュラムなくても私はきちんと情報をキャッチできることを知った。

但し、何でもかんでもではなく、第三者からのメッセージに限る。

布用の両面テープとか、半額のボディクリームの在りかなどは到底キャッチできない( ̄∀ ̄;)。

そちらは相変わらずペンジュラム頼りだろうけれど、人からキャッチするメッセージに関しては、少しずつペンジュラム無しでキャッチしたままを伝えることをこれからはするようになると思う。

そうであっても、ペンジュラムは私にとって私の一部のような存在感には変わりないし、お守り的に持つだろうことも変わらない。

仮にこれから死ぬ時まで何十年と共にあるのなら、一番それがいいなぁと思っている。

2019年10月15日火曜日

コンビニスイーツでのお茶タイム

家でするお茶タイム
スーパーに売ってるこのロールケーキが美味!



マスコミでも人を介してでも情報の真偽は当人や当事者しか知らないのだろうなぁと思った。

前々職の当時の上司が離婚したらしいとLINEが回ってきた。

理由は家にお金を入れなかったとLINEには書かれていた。

Aさん→Bさん→私たちという感じで流れていて、上司とAさんの間には何の関係もないと思われるから、その上司とAさんの間に他に何人いるのかは知らない。

しかも、当時の仕事は臨時の仕事で、上司はじめみんながそのためだけに召集されて、その後全員解散となって今はその部署もろとも存在していない。

40人近くいた派遣や契約の人たちも当然雇用終了となって、情報の大元のAさんが今その上司と日常的に職場で接触するとかは100%ない。

Aさん自体、私同様その職場をあとにしている。

だから風の噂に尾ひれがたくさん付いているだろうことは、なんとなく想像がつく。

私はその上司の肩を持つわけではないけれど、もし本当に離婚していたとしても、その理由がお金ではない気がした。

本当にお金に対してケチな人という感じがしなかった。

それは私の妄想で話してるのではなくて、当時の仕事はお金にもろに関係していたことと、その上司とたった一度だけ2人きりで過ごした時間があって、その時のエピソードを思うとケチからは程遠い人という印象が強い。

細かいことは言えないけれど、当時の仕事はある条件に合致すると対象者にお金を支給するものだった。

その上司というのが凄くて、対象者の中の0.1%に相当する人たちにも目を向けて、私はその人たちに「あなたお金もらえますから手続きしてくださいね」と、一歩間違えたら詐欺みたいに聞こえる電話をする係だった。

電話もただ電話するんじゃなくて、その前にものすごい細かな調査とそれに基づいて妥当と思われる案件かどうかを審議して、それの後にクレームにならないようにこれ以上ないくらいのトークマニュアルみたいなのも作って、そうした諸々を経て初めて電話できるようになっていた。

当たり前だけど、「あなたお金もらえますから手続きしてくださいね」とは言えないことになっていたから、そこはもうこれ以上ない、超ギリギリの表現で相手をその気にさせて、それで相手が手続きしてくれるようにまずは口頭で説明して、基本的に質問は出ないように、出ても適当にかわし、その後も絶対に手続きしてくれる秘策を練り込んで、それで最終的に対象者から動いてもらうような措置が取られていた。
  
権利ある人たちにきちんと支給したい上司の想いは物議を醸し出しまくって、私以外は誰もそのことをやりたがらなかった。

それを私はその仕事の最後の1ヶ月ほど、一手に引き受けてやっていた。




書いててもう1つ思い出したことがある。

これは上司のことではないけれど、バツイチの男友達から離婚の理由を聞いた時だった。

友達はバツイチなことは公言していたけれど、どうして離婚したのかはその時一度きりしか聞いていない。

もう1人の女友達と私とその男友達で、飲んだ日だったかに女2人は聞き出した。

すごい知りたかったから聞いたのとも違っていて、あれはノリがなければ聞けなかったし、多分だけど、男友達も吐き出したかったと思う。

基本的に口数少なく、でも誰か聞いてくれる人がいたらわりかしたくさん話すみたいな人で、その時も聞かれなければ話さなかったんじゃないかなと思う。

これまたもっと関係ないけれど、別の時にうちら2人に向かって、「もう結婚は二度としたくないと思ったけれど、2人に会ってまた結婚してもいいかもしれないと思えるようになった」と言われたことがあった。

愛の告白では全くなく、人としての告白みたいなものだった。

ちなみに離婚理由も、「だから何が理由なんだろう?」と聞いててもよくわからない話だった。

言うなれば価値観の不一致となると思うけれど、話してる本人さえもそれが理由とは確信持ってるというわけじゃなかった。

私にしては珍しくその話の内容を今も覚えているけれど、なんならここにある程度要約を書けるぐらい覚えているけれど、それでもやっぱり今も「何が」というのはよくわからないまま。

だから、上司の離婚も、仮に本当に離婚していたとしても、その理由なんて外部からはわからないんじゃないかと思う。

さらに言えば、家にお金を入れない、というのが本当だとしても、それは奥さん側が入れて欲しい形なり金額なりではなかったのかな…と思う。

なぜなら、思い出したことの1つに、その上司は間違いなく小遣いなのか何なのか、服に使えるお金がほとんどないのはわかった。

そんな話は聞いてはないけれど、過去に奥さん家計管理の上司たち何人かに、小遣い含むお金全般の愚痴を聞いたことがある。

たまたまかもだけど、服にお金はほとんど使ってもらえないだろうことと、使えるお金も限られていて、服は「最低限」っていう感じだった。

その上司ももれなくそんな印象を受けたことは覚えている。

ある程度自由になるお金はあっても、お金を超自由に独身貴族のように使える感じは一切しなかった。

だから、本当のところは知らないけれど、何か行き違いがあって離婚になったのだろうと感じた。




今回のメインの話の前に、もう一つ思い出したエピソードがあった。

この上司は、何かの折に「俺の時計は5時になってるから、今日はこれで解散です」と言っては、15分以上私たちみんなを早く帰してくれたことが何回かあった。

それでも勤務表の方は5時なら5時の時間を書いてそのお金を払うようにしてくれてた。

最後の日なんかは、今日はみんなにとって最後だからお昼休みを11時半から13時半の間までにします、と言って自由におしゃべりと昼休憩ができるようにしてくれた。

賛否両論あるだろうけれど、そんな風に本当に気前よくやってくれる人だった。

先に書いた通り、当時の仕事はもろにお金が絡む仕事だった。

調査の段階で、それは数字の羅列でしかないけれど、ある個人やある家族の生活の様子が見えるようだった。

間違いがあってはいけない仕事だったから、調査は本当に細かくて、その細かいものをどう見るかは完全に上司の判断だった。

その細かなところをその上司と何回も話していたから、その感覚からいくと、お金とか地位とか社会的ステータスとか、とにかくそういうものに一切興味がない風に感じた。

代わりに、正義感というか相手のためになることを必死でやる、どんな手段を使ったってそれを貫く強さのある人だった。

私はその分野の仕事こそ初めてだったけど、少しばかり専門知識もあったから、その上司がしていることの凄さが本当にわかった。

縦のものを横にする、普通なら絶対に骨折り損になるから誰もやりたがらないことを、その上司は自分の信念1つだけで本当に貫いていて、それがどれだけありえないことなのか私はわかっていたから、だからそれを手伝うのは何てことなかった。

私は適当にかわしたけれど、当時そのやり方はものすごい反発を受けて、上司に直接言えないものは私のところに愚痴やクレームめいたものが来た。

波風立てるのが面倒で、私は適当に笑ってごまかしたけれども、本当は心の中で「文句言うぐらいならおまえが同じ立場でやってみろ!」と思っていた。

文句言うのは簡単でも、それを本気で、しかも自分の立場を失うかもしれないことを覚悟してやるなんて、尋常な気持ちではやれない。

綺麗事では済まされない、失敗も許されない、だけどそれが相手のためとなる一番のことならしのごの言わずやる、そういう上司だった。

家族の前になると豹変するんだろうか…。

でも私じゃない、別の人が休みの日に大型のショッピングセンターでバッタリ出くわした話をしていて、家族のためにお金を本当に出さない人という感じは受けなかった。

実情は知らない。

だけど、離婚もその理由も何でもいいけれど、私が怖いと思ったのは、本人の全然知らないところでこんなにも話が色々変わった可能性のあるものが伝えられていて、そしてその内容をあたかも本当のことのように話している人が普通にいることだった。

怖すぎるΣ((((;゚Д゚)))))))と思った。




ようやく本題へ。

今回の話を聞いて真っ先に思い出したことがあった。

私はある夏の日の終わりに、仕事が終わった後、その上司を訪ねて行ったことがあった。

その時は、上司と一緒の仕事はしてなくて、私は別の職場に勤めていた。

何の連絡もせず、多分読みが違ってなければ、上司は今日も1人残って残務に追われてるだろうと思って訪ねて行った。

都会の職場と違って、セキュリティーなんかは最低限で、普通にその場所へと入って行ける。

そもそも臨時の仕事で、臨時で場所を借り上げた所だったから、私が過去に行った職場の中で一番セキュリティーの度合いが低いところだった。

電気は点いていて入り口のドアをノックして開けると、予想通り上司はいた。

広い部屋に上司だけがいた。

上司は突然の来訪にビックリしていたけれど、すぐに笑顔で出迎えてくれた。

私はわりとすぐにどうして来たのかの用件を伝えた。

私はその特殊な仕事をしていたにも関わらず、その年の5月に雇用打ち切りになった。

数名を除いて私含め30人近い人たちは5月で打ち切り、残りの数名はその後も残務処理担当みたいな感じでその後も9月の終わりまで仕事をしていた。

私が聞きたかったのは、その時雇い止めにしてもらって本当に良かったけれども、そもそも上司の中で私を5月で切る予定でいたのかどうかを聞きたかった。

その理由もきちんと説明した。

もし、あの時、私が切られずに今も尚その職場に残っていたとするなら、私は今ある職場の方で出会うべくして出会ったとしか思えない人とは出会えなかったから、だからどうでも切ってもらわないといけなかった、だから切ってもらえたことを本当に感謝しているのと、ただそれは本当に上司の心情としても切る気でいたのかどうなのか、そこを知りたいと伝えた。

これは後日談だけど、当時一緒に働いていてスピリチュアルな話ができる子にもその話をしたことがあった。

言われたのが、ぶっしーのそのしたことが信じられないという批難めいた言葉だった。

派遣で切られて何で切られたのかを派遣会社ではなくて派遣先に直で聞きに行くこともおかしいし、そんなの上の判断なんだからそれを何で?なんて問いただすのもおかしいと言われた。

私は彼女にも同じ説明をした。

私は切ってもらって本当に感謝しているのと、切られたこと云々を言ってるのではなく、あのタイミングでもし1つでも何かがズレてしまったのなら私は次の職場に行くこともなければ、そこで出会える人にも出会えなかった、だから本当にあの時切ってもらえたことはすごく良くて、でもそれはその上司の希望だったのかどうか、それを聞きたかったことを説明した。

その子には次の職場で出会った摩訶不思議な、何が何だかわからないけれどものすごい強烈な出会いについても話していたけれど、彼女にはそんなことよりも私の常軌を逸した、非常識極まりない感じの方が気になるようで全くわかってもらえなかった。

はたから見たら非常識なことを私はしに行ったわけだけど、さすがはその上司で、そんな細かいことは何も言わず、ましてや雇用が切れて3ヶ月ぐらいしてからひょっと訪ねて行ってそんな話をするためだけに来るなんて只事じゃないと感じてくれたんだと思う、細かいことは聞かずにきちんと話をしてくれた。

上司はわかったと思う。

私が派遣の細かい何だとかのクレームを言いに来てるのでもなく、当たり前だけど上司に色目使って近寄ってるのでもなく、純粋に人として本当のことを確かめたくて来ていること、それを瞬時に悟ってくれたと思う。

その時だった。

上司が「ぶっしー、せっかく来てくれたから、ちょっと待ってて!飲み物は何がいい?俺コーヒーだけど、ぶっしーも同じでいい?ちょっとコンビニで買ってくるから!」と言った。

そう言って上司は本当にコンビニに行った、何の関係もない私を1人職場に残して。

何もしなかったけれど、部外者の私を職場に1人残す方が危険なのに、上司は何も気にせずささっとコンビニへと向かった。

上司はコンビニのコーヒーとコンビニスイーツを2人分手にして戻ってきた。

2人でおいしくいただきながら、詳しい話をした。

私はとりあえず5月にここの仕事が終わりになって、今いる職場に行くことになって、そこで付き合うとかそんな風には全くなってないけれど、すごい人に出会わせてもらった、だけど5月の当時私しかしない仕事を1人でしていたわけで、元々上司の中で私を5月で切るつもりでいたのかどうかを聞かせて欲しいとお願いした。

上司は本当のことを話してくれた。

私ともう1人別の私と同じ時期に開始した2人は本当は残したかったこと。

私にはそのやっていた仕事を最後までやって欲しかったし、もう1人はものすごく働く人でできる人だったから、そして6月以降の残務の仕事の中身を彼女は完璧に覚えてくれた人だったから、それぞれそういう意味で残したかったこと。

なんだけど、誰を残して誰を終わりにするかの回答を派遣会社側に4月中にしないといけなくて、その時はまさかそのような流れになると思わず、私ともう1人は外したこと。

特に私側の仕事は、まさか最後の最後で、自分がずっとやりたいと思っていたことに賛同してくれてそれを何の抵抗もなくやってもいいという人が現れるとは思わなかった、ぶっしーだけが唯一あの仕事に対して何の抵抗も批難もせずやってくれて、さらにそれが本当に自分が想像していた以上に成果を得て、だからこそ本当は残って一緒にやって欲しかった、だけど派遣会社との契約で決定してしまった後に全て始まってしまったから、もうその時はどうすることもできなかったこと。

全体を見て、私たちより長い人たちを残さないと、多分周りが納得しないだろうことを思って、長い人たちを残すようにしたこと。

本音を言えば、残って欲しかったし、最後まで私がやっていたことを私にやって欲しかったこと。(ちなみに、私がしていたことは私が辞める頃にはNOクレームで安全だと周りもわかり始めて、その後別の人たちに引き継がれて行った。)

おおよそそんな話だった。

私は上司にお礼を言って、その話は30分ぐらいで終わりにして、残りの1時間半ぐらいは色んな話をした。

上司の人生物語みたいなことや、その時々のエピソード、エクセルを極めた話、エクセルの使える技、私がいなくなった後の職場の様子を少しと、人間対人間の話をひとしきりして、そしてその場を後にした。

上司は言った。

「自分でも残って欲しかったから残念に思っていたけれど、今日ぶっしーからぶっしーが新しい職場で良い出会いに恵まれたと聞いて、逆に良かったと思った」

そんな風に言ってくれた。

余談だけど、私は今でもその時話を聞きに行って良かったと思っている。

上司に会った1週間後ぐらいに、今度はその時の職場の人(イケメン)が月末で異動になると知らされた。

もし、上司が5月になってからでも、相当面倒な手続きを経ても私を5月以降も残そうとしたのなら、私は次の職場にも行くことがなかったし、そして次の職場のイケメン(この人も上司と言えば上司だったけれど、わかりにくいからここでは「イケメン」)にも会うことはなかった。

仮に9月末までいて10月からイケメンのいる職場に行くことになったとしても、もうその時はイケメンはその職場にはいなかった。

とにかく寸分の狂いもなく、私は上司の元を去ることになって、次の職場に行って(米の仕事の時に次ぐ速攻で決まった仕事)、そこで魂がらみと思われる人=イケメンに出逢った。

イケメン側はさておき、私側は魂のテーマ絡みだと、もう何がどうなってるのか!?と言わんばかりに超イレギュラーなことが勝手に起こって、そして怒涛のような流れの中に身を置くことになる。

ちなみに、元上司にはそんな超ぶっ飛んだ質問をするためだけに1人でこっそり訪ねることはできても、イケメンにはそんなことできなかったし、そんなこと仮にもできるシチュエーションがあってもそんなこと聞ける関係性になかったから、絶対にしなかった。

私にとってその上司は、私のわけのわからない人生の流れを客観的に事実としてあったことを伝えてくれる、大事な役目を果たしてくれた人だった。

書きながら思った。

私にそんなこと聞きに行くなんてありえないというようなことを言った子みたいな考え方をする上司なら、私も聞きに行くことさえ思いつけなかった。

何で私が聞きに行けたかと言えば、当時の私の仕事が関係していた。

本当にありえないことをしていて、そして取り扱うものがお金を通じての誰かの人生の1ページで、上司が最後どうやって電話するしないを決めたかと言えば、数字や数字にまつわる情報から伺える対象者の人たちのライフヒストリーだった。

それを見て、救済の必要あり、と判断されたら電話が行くようになっていた。

そのライフヒストリーに関して、上司とはものすごい回数の打ち合わせをした。

その打ち合わせによって、その上司がどういう考えや価値観を持っている人かを私は直に見聞きしていた。

だから、その上司なら、私がきちんと話せばきちんと答えてくれる、そう思った。

そしてその見通しは大当たりとなった。

本当に口を割って欲しかったのはイケメンの方ではあったけれど、イケメンは最後まで沈黙を通して私にはもう何が何だか今もってわからないままだから、せめてそこに直接は関与しないけれども、私の人生を本来行くべきところに行かせてくれる決断を下した上司から話を聞けたことは大きかった。

上司の元で働いていた時の流れを知っているからこそ、私は本当に抗えない魂のテーマ側の方に漂着したと思っている。

その当時の仕事の流れも本当に1日たりとも色んなことが狂ってはいけないように、色んなことが順に起こっていた。

最後の日の飲み会の時に、長い人たちの何人かに言われた。

上司が本当に長い時間かけてずっとやりたいと構想を練っていたことを、最後の最後で武士俣さんが来て、それをやってくれたんだよね、上司は本当の本当に嬉しかったと思うよ。

そんな風に言ってもらえた。

私から見て、命のプロジェクトみたいな風になっていた当時の仕事のことを思うと、ビジネス的に言えば私を残すのが一番適切だったと思う。

だけど、それさえもぶった斬って、私は運ばれる場所に運ばれて行った。

魂がらみのことであれば、そちらが最優先になる。

普通に考えて派遣先の担当者に何で私を切ったのかを聞くなんてありえないけれど、魂がらみとなれば、それさえも叶えてくれる。

叶えてくれるというのは、状況的に99%おかしいことでも、1%のそんなのありえんでしょ?的なことが何故か可能になってしまう。

私にとっては、自分の人生の流れを知るのに、その上司は必要不可欠な人だった。

その上司なくしては、私は唯一確認できる手立てを今も手にせず、超悶々としたと思う。

しかも、聞きに行ったその日はまだ何も知らずにいて頭の中お花畑状態だったところから、その後この世の終わりと言わんばかりの異動宣告と無視というダブルパンチ食らって落ちに落ちた。

その上司とのやりとりがなく今という時を迎えたとするなら……。

もっとダメージが大きかったと簡単に予想できる。

そして、もし今その上司を訪ねたくても、私は上司の居場所すら知らない。

仮の建物は今はもぬけの殻で、そして上司の異動先は数十キロに渡っていくつもの建物があるから、どこのどの部署にいるのか知らない。

だから、仮に今当時の私と同じことをしたくても、もうできない。

たった一度の上司が用意してくれたコンビニスイーツでのお茶は、生涯を通じてあの時だけだった。




そんなやりとりを思い出した私は、上司が何で離婚したのか、家にお金を本当に入れなかったのか、その辺りは回ってくるLINEを読んで不思議な気持ちで眺めていた。

外面が良くて家族にだけケチだったとして、そんな人が果たして何の得策にもならない私に、「ちょっと待ってて!」と言って、コンビニにコーヒーとスイーツを買いに行くだろうか。

私に奢っても、そんなこと周りに「上司、すっごい気が利いてたよ〜」なんて言いふらすようなこともなければ、そもそもオフレコで行っていたから誰かに言う気は一切なかった。

こんな言い方すごく嫌らしいけれど、そういう計算のできる人たちというのは、本当にしたたかだし、その辺りの性質が普段からどこかしら滲み出ている。

私は上司の私生活は一切知らないけれど、なんかそうじゃないよね…と感じずにはいられなかった。

もちろんみんながその上司を良い風には取っていなくて、悪口言う人たちも一定数いたし、その話も私は聞いてた。

色んな取り方があるとは感じたけれど、別に私はそれを聞いても私が見ている上司の姿は私の視点で見るものの方が心地良くて、悪口は適当に聞き流した。

それは酷い!と思ったことは一度あったけれど、それ一度きりだったと思う。

その酷い!も、何と言うのだろう…、コミュニケーションの行き違いみたいな感じで、これは双方もう少し気遣いができたら変わるのかもしれないというものだった。

もちろん、すべての真相は知らない。

だけど、私が見てきた上司の姿と今回の風のうわさがあまりにかけ離れ過ぎていて、違和感をものすごく感じてしまった。

そして、さらにさらに驚いたのが、それを鵜呑みにして流してきた人の方だった。

同じ上司の元で働いて、なんならここに書いた私の個人のエピソード以外は同じ場面にいて見ていたのに、そこを丸っと忘れたのか、ないことになったのか…。

私みたいに客観的に見るのも珍しいのかもしれないけれど、にわか信じがたいと一瞬でも思わないのがすごいなぁと感じた。

噂の真相も何でもいいし、そこにさらに追加の情報もあったけれど、それも何でも良かった。

私はそのどれにも返信せず、既読スルーした。

綺麗事言うみたいだけど、私はたとえ上司が家にお金を入れない人だったとしても、上司と共に仕事ができて本当に良かった。

上司が自分の信念貫いてやったことは、多分私の人生において最初で最後の体験だったと思う。

上司は本気で色んなことを失うの覚悟でやっていた。

降格人事も社内的な罰も全部受けて立つ気負いがあった。

そうまでしてでも、どこの誰かも知らない人たちに手を差し伸べることをしたかった人だった。

たった1人の人の想いのおかげで、0.1%の人たちの人生に、プラスのものがもたらされた。

それってものすごいことだと感じる。

事なかれ主義なら絶対にやれない。

本当にやるには、本人のどこまでも強い意志がなければ実現しない。

そういうものをやり抜く人の元で仕事ができたのは、本当に私にとって千載一遇のチャンスだった。

一生忘れられない。

そんな人と仕事ができて本当に良かったし、そしてその上司のおかげで、私も私で自分の人生経験を全部活かすことのできるポジションへと配置してもらい、本当に有意義な体験をさせてもらった。

私がひいき目に見ているのかもしれない。

それでもたった一度きりの上司とのコンビニスイーツでのお茶タイムは忘れられない。