2020年12月31日木曜日

ソウルジャーニー〜魂の旅路





ソウルジャーニーーsoul journey


この言葉がピッタリな気がした。


夜明け前4時台に目が覚めて、書こうと昨日から思っていたことを少しだけ書くことにした。


タイトルをどうしようかと考えていたけれど、今「ソウルジャーニー」と出てきた。


まさにソウルジャーニーな話で、これ以上ないくらいにピッタリの言葉だと感じる。


言葉の通り、魂の旅。

2020/12/25  4:49





参考知識:ノードリターンについて

(リンク先に飛びます)




先日、2年前に受けていた西洋占星術初級講座の時の先生から、個人鑑定を受けた。


それもそのうち書き終えたらブログにアップする予定でいるけれど、その時の話の中で何回も強調されたものがある。


「蝕」ー月蝕と日蝕。


細かい説明は省くけれど、そのことと「ドラゴンヘッド」と「ドラゴンテイル」が関係してくる。


誰しもが生まれた時にドラゴンヘッドとドラゴンテイルを持ち合わせて生まれてくる。


太陽と月の軌道なんかと関係してくるもので、そのヘッド側の方に約18〜19年に1回生まれた時のドラゴンヘッドに、その時の天空のドラゴンヘッドが重なる。(ちなみにヘッドとテイルは180度対極にある関係)


その重なる時のことを「ノードリターン」と呼んでいる。


そのノードリターンの時というのは、転職や引越し、結婚、離婚などなど様々な人生における大きな節目や転機に当たることが多いとされている。


そうしたことと関係させて、今回の私が受けた鑑定でもノードの話がたくさん出た。


これから2年先2022年あたりで、私は大きく天体の影響を受ける天体配置に入る。


その時に月蝕も起こる関係で、ノードや蝕に関する影響も相当出てくるという話を先生が私に説明してくれた。(これは私個人のケースで、みんなというわけではない)


その時のことを先生はこんな風に説明してくれた。


「例えば新潟市の都市部に100万人ヒトがいたとして、史子さんがそこに突然ポーンと放り込まれたとします。

そこでは踏みつけられることもあれば、反対に手を差し伸べてくれる人もいます。

2022年の蝕の時期というのは、史子さんにとってそういう時間になります。

自分は路地裏でひっそりと暮らしていたいのに、突然大都市に身をもって行かれて、そこで踏まれたりはたまた手を差し伸べてくれる人に出会ったり色々と体験します。」


とまぁそんな風に先生から説明を受けて、私は鑑定後から蝕ということもだけれど、ドラゴンヘッドが帰ってくるノードリターンのことも気になった。


その影響は、どの程度の期間個人に出るのか気になって、それでネットで調べて最初に出てきたのがリンク先の記事になる。


それを見て納得というか、そういうことだったんだろうなぁと想像した。


リンク先には、具体的なノードリターンの年齢域が紹介されている。


37.2歳。


その数字を見て息が止まるかと思ったけれど、今実際に紙に書いて計算したらもっと息が止まった。


1年は12ヶ月あるから、0.2歳が何日分に当たるのか計算した。


わかりやすく360日として10で割ると、0.1歳が36日になる。


0.2歳は72日。


人づてに教えてもらった誕生日に72日を足した。


本気で息が止まった。


その人の誕生日に72日を足すと、ピッタリ出逢ったその日になる。


その人の37.2歳頃に起こるノードリターンは、私と出会ったその日だった。


すごくどうでもいいことだけれど、自分としては気になったから書くと。


「であう」という漢字には「出会う」と「出逢う」がある。


何の後付けもないけれど、私の中でその2つは分けて使っている。


「出会う」は誰でも彼でも「であう」のならそこに含まれる。


反対に、「出逢う」は自分にとって特別な人とであったのなら使う。


私からして「出逢う」でも、その人からして「出逢う」はとっても違う気がして、それで「出会う」と書いた。


その人と私とが出会った日が単純に計算したら本人のノードリターンの日であっても、たまたまその日に登場したのが私なだけであって特別な意味なんてなければ、普通に「出会う」で合っている。


厳密にホロスコープを見たらその日でないかもしれないけれど、前後でノードリターンは起こっていたのは年齢的に間違いない。


実際にその後転勤が決まって引越しをしたから、ノードリターンの影響がそういう風に出たとも読める。


とにもかくにも、当時はその人にとってのノードリターンだったことが伺える。


鑑定を受けた時に蝕の話がたくさん出たこともあって、私は自分視点じゃなくて相手視点の場合を想像するようになった。


その人にとって、その年の春から秋くらいにかけてノードリターンがあって、それこそ100万人いる都市の中にポンと自分がそこに放り込まれて、踏みつける人もいれば自分に救いの手を差し伸べてくれる人もいると考えた。


先生も言っていたけれど、基本やってくる人たちは自らは選べない。


やってきた人たちの中で誰と繋がるとかは自らの意志が働いても、繋がる前の、要は「自分の人生に登場する人たち」のことは選べない。


そういう時期に私はたまたま居合わせたんだとわかった。


積極的に考えたいこととは違うけれど、単純に「踏みつけてくる人」と「手を差し伸べてくれた人」とに分けて考えたのなら、私としては後者でありたいけれど、限りなく前者に近かったのかもしれないと思った。


そしてさらに気になって、その年の蝕について調べた。


その年の8月22日に皆既日食が起きている。


その時の時間を調べてホロスコープを見てみた。


怖いもの見たさで、ちょっとだけ、本当にピンポイントで皆既日食があった地点とその人のホロスコープとを重ね合わせて見てみた。


2つ重ねると私の知識では何がなんだかわからなくなるから、それを狙って見てみた。


そもそも誕生日も人づてに教えてもらったものだし、ましてや本人からお願いされてるのとは全く違うから、その人のホロスコープを見るなんてルール違反な感じもするし、そして何よりも自分がその人のホロスコープに興味を抱いている以上、そして本当に魂的な縁がある人だと、きちんと見てしまったのなら多分色んなメッセージが私のところに流れてくる可能性大だから、それを避けるためにも見ない。

(この間、占星術のWEB講座を受けて気付いたけれど、基本的に私は第三者のホロスコープをパッと見ても何も感知しないしメッセージもキャッチしない。だけれど、何かしら伝えるメッセージがあったり、自分と縁がある人のホロスコープになると、なんだか知らないけれど、ホロスコープを見ていると色々と言葉が思い浮かぶみたいになって、次から次へとメッセージ的なものをキャッチしてしまう。それは誰の時でも起こるわけじゃなくて、やっぱり自分に近しい人とか私と縁あって知り合った人とかに限定される。)


私はその人の細かなデータは見ないようにして、ただ皆既日食が起きたポイントのところにその人も何かしらの天体とかがないかを見た。


さらにひっくり返りそうだった。


ピンポイントである。


それも、そのあるものは公転周期が遅いから1日2日ずれたところで同じ位置に鎮座しているものだから、どこをどう見ても影響が無いわけない配置だった。


そしてその重なっているものが何かと言うと、それこそ魂のテーマと直結しているものだった。


天空には360度あってその中の1度にピタリと皆既日食という滅多に起こらない太陽と月のコラボレーションが重なったところに個人のホロスコープの何がしかが重なるなんて、先生いわく「プチ宝くじが当たった感じ」というのも頷ける。


ノードリターンに加えてその年の皆既日食も大きく影響が出てきている、そういう星回りを持っていたのなら、そこで色んな転機だけではなく、新しい人たちがその人の人生に登場してきてもおかしくない。


新しく登場する人たちは、好き嫌い関係なくやってくる。


そういう意味で、100万人規模を想像したのなら、その中の1人として私がいても不思議じゃないし、本当にたまたまその人のノードリターンと魂の旅路の扉がパカっと開いて魂的な縁の強い人たちが流入してきても、なるべくしてそうなってると思う方が自然だなと思う。







順番はちゃめちゃだけど、こちらが先に来たから先に書く。


たった今、2回に分けられたホロスコープ鑑定の2回目が終わった。(12/26


その人のことは先生に言うつもりはなかった。


だけど、先生が2018年に何か出会いがあったかと聞いてきて、それなら先生から受けた占星術講座がそうだなぁと思ってそのように伝えたら、あぁそうですか、それもそうかみたいな先生のそれは嬉しいけれど予想していたのとは違うみたいなイマイチな反応を見て、私はこれは見てもらおう!と頭がカチッと切り替わって、その人と初めて出逢った日を見てもらった。


その人の誕生日もその人と仲良くしていたSさんから聞いた誕生日を伝えて、それで見てもらった。


全て星に出ていた。


出会った日もそう。


魂のホロスコープと呼ばれるところにもそう。


人生の性質や目的を見るための特定のホロスコープもそう。


特に現世のホロスコープよりも、魂やら人生の目的、過去世を診断するホロスコープの方にとても強く出ていると先生は言った。


出逢った日なんかは、先生が何を出図しているのか知らないけれども、読み解き下手な私が見ても、「!」ってなる配置が双方にあった。


それ見て縁がないなんて言う占星術家は誰もいないというくらいに色々強く出ていた。


縁は縁でもそのまま「良縁」とは限らなくても、強い縁だったということがわかった。


星の配置を見て何千と見ているだろう先生がそう言っていたから、それは本当にそうなんだと私は確信できた。


先生いわく、その人というのは私の能力を引き上げてくれる人、私の内面の脆さや弱さを受け止めてくれる人、そういう立ち位置の人だと説明された。


私の気のせいとかではなく、本当の本当にご縁があって引き合わせてもらえたと知って、ものすごく良かった。


出逢いに関しては、いつもどこか懐疑的なところを持ち合わせていた。


99%は絶対に普通ではないと確信していても、残りの1%はいつの時も自信がなかった。


色々気のせいなのかもしれないし、私が過剰に反応しているだけかもしれないし、一度そのモードになったら全てが架空や妄想の物語だったんじゃないかとさえ思っていたりした。


本当に自信がなかった。


この後書く予定でいるけれど、相手のノードリターンと知ってからはさらに気落ちしたところもあった。


誰が自分の人生に新規参入してくるかなんて選択肢がないノードリターンの時に、よりにもよって相手が私で、好みではない異性くらいならまだしも、近付いて欲しくないのに近付いてくるとか、踏んでくる存在だとか、その人にとっては踏んだり蹴ったりだったんじゃないかと思い始めていた。


さらにはいくらノードリターンと言えども、相手の人生に私が巻き込まれたというよりも(通常のノードはそう)、私の強烈な人生の毛色にその人が巻き込まれた、事故みたいなものだったんじゃないかとも思っていた。


そんな風に思っていたから、先生がいくつかのホロスコープを出図しながら、私もiPhone越しに突然見せられても何の図が出ているのか知らなかったけれども、とにかく私が見ても「これはすごく強い縁がある」とわかるくらいのものがいくつも提示されて、それでその人と出逢えたのは本当に深い意味を伴っているとようやく疑うことなく受け止められた。


話の流れが前後するけれど、先生から、私というのは鋭い観察力や洞察力があると言われた。


それはホロスコープにはっきりと出ていて、そのはっきりと出ているものが深い洞察力をもたらして、さらにそれは相当マニアックで、そんなマニアックなものを私は3つ持っていて、それは先生いわく珍しいとのことだった。


今の昭和体育会系みたいなザ・男社会の組織にいて感じることを先生に言った。


男の人たちの心の傷や「あ、今傷ついたよね?でもなかったことにしたよね?」みたいなものが見えると言うと変だけれど、そういうのがわかってしまうという話をした。


先生いわく、本人さえも無自覚のものに私は気付いてしまうこと、それが普通の人はわからなくても私にはわかってしまうくらいに洞察力に優れていることなんかを説明された。


そんな私がその人との出逢いに尋常ではないものを感じたわけで、先生から「史子さんがそう感じるということはそこには絶対に何かあるはず」だと言ってくれたことは嬉しかった。


先生から録画してもらったビデオを見て先生が伝えてくれたことを全部拾ってきたから、それをこの下に箇条書きで書こうと思う。


完全に私がそうしたいからそうするだけで、その人の目にも触れることがあれば知ってて欲しい、そういう気持ちで書く。



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・現世の出生図(ホロスコープ)同士の繋がりももちろんあるんだけれど、それよりも魂のホロスコープの方に(繋がりが)よく出ている。


・彼は史子さんの苦しみを癒していく人


・(ホロスコープを見て)彼も意識してないレベルだったと思うけれど、愛とか愛情の繋がりもあったのかなと読める。


・史子さんのキリキリと自分に厳しいところとかを彼はやさしく包み込んでくれるような人。

でもそれは意識レベルに出ないような無意識的なもので。

「彼が守ってくれる」ということを史子さんが感じ取っていたんじゃないかな。


・2人は前世のご縁。

夫婦だった感じもある。


・彼と出会うことによって史子さんの霊的な感覚が発達した。

そうするためにやっぱり彼は来た人。


・史子さんの霊的な洞察力を強める配置の一角に彼の人生の目的を表す太陽がある。

(注釈:こういう配置が2人の個人間であると、双方がそれぞれ存在してお互いに補完し合って初めて1つの目的が為されるみたいな意味になる。)


・(別の図を見て)さっき言った夫婦だったかもというのはちょっと置いといてください。

彼が史子さんの先生とかマスターだったんじゃないかと思います。

そして今世ではそれを目覚めさせてくれる、そんな感じが出ています。


・史子さんのスピリチュアル的な能力の能力開発に彼が今世関わると読める配置がある。


・今生すごい強烈なご縁があるけれど、他の(相性を見る部分の)ところが弱い。

ても魂のホロスコープはすごく強く出ている。


・前世では彼が史子さんのことを好きだったのかもしれない。


・史子さんの今生の人生に何かしら爪痕を残していく人。


・それに気付ける史子さんもすごい。

彼と出会ってから自分の知覚が上がっていったって、特殊な関係性。導かれてる感じがする。(実際にそうだと言える配置が2人のホロスコープを重ね合わせると出てくる)


・(彼のノードリターンを指して)「ご縁の扉」というのは過去世との出会いでもある。

彼の見えないご縁との扉の1人が史子さんだったんでしょうね。


・色んなタイプの魂のホロスコープの中で、かなり接点がお互いにある。


・彼のノードリターンの時に彼に流れ込んできてた影響を史子さんが受け取っていたのかもしれない。


・(色々感じたり洞察力が鋭い)史子さんがビビビとくるだけあって、それは何か理由があるからで、占星術はそれに対して答えを出してくれる。


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1回目の鑑定(12/12)を受けた後しばらく考えたことを書きたい。


人間関係には、大まかに分けて、心地よい関係と今すぐにでも断ち切りたいもしくは関わり合いになりたくない関係がある。


その人のノードリターンの時に私がご縁の扉を抜けてその人の人生に登場したのは、事実として紛れもない。


なんなら当時の彼の星回りにおいて私がご縁の扉の向こうの中で先陣だった可能性さえある。


だけど、先生から繰り返し言われた「来る人たちは選べない」説において、来る人はたしかに選べないけれど、その後誰と繋がるかは選べる。


心にグサっときた。


その人からして、私はある時から突然のように仕事にやってきた人だし、仕事中は接点ゼロだから同じ空間にいると言えども存在感もあるんだかないんだかの相手だっただろうし、そんな相手からある時突然ごはんに誘われたり明らかにおかしな厚さを見て取れる手紙を渡されたり、心の状態を乱す人であってもしあわせをもたらすような人からは程遠かった。


「踏みつける人」という言葉を1回目の鑑定のノードや蝕の話の時に聞いて(その時はその人の話は一切出してない)、冷や汗が流れるかと思ったくらいに自分がそちら側だと思った。


ブログを読んでもらえてること自体が超が付く異例なことだと改めて感じたし、その事実を前にしても私と繋がりたいという気持ちからブログを見ているのとは違うように感じた。


むしろ、本当にそろそろブログさえも見てもらえない時期がやってきて、その人の人生から武士俣史子という存在が跡形も無く消え去る時期がすぐそこまで来ているようにも感じている。


特殊な感じだったかもしれない存在でも、特別でもなければ繋がりたい相手でもなかった、そういうことを急にものすごく強く感じて、否定したいけれど否定できる材料もなければどんどん離れて繋がらないところだけが強調されるものに対して私はあまりにも不可抗力過ぎた。


何も抗えない、「繋がらない」という事実を受け止める他私にできることは残されていない、そういう気持ちをしばらくずっと自分の心の深いところに持っていた。







蝕が8月22日にあったと知って、「もしかして」と思ってノートを開いた。


その人がいた時のことすべてはノートに残さなかったけれど、いくつかの出来事や目にしたものについては、私はわざわざノートを用意して書き残しておいた。


ノートも単なるノートじゃない。


「一万年以上永久保存が利く」と謳っているツバメノートなるもの。


その人が転勤で去った後、ノートを用意して私はその人のことで憶えていることをそこに書き記した。


皆既日食の日をiPhoneのカレンダーで遡って何曜日なのかを見て、「これってもしかして私が九州に結婚式に行く直前だから、あの日のことかもしれない!」とピンと来たものがあった。


そしてその日の日付をもしかしたら私はメモしたかもしれないと予想と期待をして、ノートを取り出して見てみた。


ビンゴだった。


皆既日食だったその日に、地上の田舎町の事務所の中でも皆既日食級の珍しいこと、皆既日食どころか生涯を通じて一度しか起こり得ないことが起こっていた。


あの日だったんだなぁとしみじみとした。


お互いに皆既日食を意識したのでもなければ、そんなことを知るのはそれから3年以上経過した今なわけで、当時は何ひとつ知らずにいた。


先生の話を踏まえると、皆既日食当日はさらに一層あの世とこの世の扉だとかご縁の扉だとかが大きく開いていることになる。


そしてピンポイントで、その人の魂のテーマを表す軌道上でその日の皆既日食は起きている。


360度ある天空のたった1度のところでピッタリと重なって、只者ではないどえらい超級なエネルギーが流れ込んでいたというのは言わずもがなな状態。


そうした空の天体たちのエネルギーも関係していたのかもしれない。


地上のその人と私もいつもなら接触することがないのに、ひょんなことで接触することとなった。


それも、その時1回ぽっきりの千載一遇のチャンスによってもたらされた。


たまたまだと当時は思ったし長らくそう思っていたけれど、それはたまたまとか偶然じゃない、って今回思った。


全部必然で起きていたこと、起こることが絶対で起こらないのは無しだったんじゃないかと今は思う。


その時にその人が探していたものの名前には、「伝」「送」「去」という漢字が含まれている。


伝えるために送って、そして終わったら去る。


まさにその文字通りだと思う。


あの時、たしかに伝えられるものがあった。


それが何なのかは今もわからないけれど、少なくともその瞬間は普通ではなかった。


伝えられるというよりも伝わるものという感じだった。


その人は決して表に出すつもりなんてなかったと思う。


だけど、勝手に表に出てしまった、そんな風だった。


今回皆既日食のこととその日がリンクして、さらにはその日とその人のホロスコープ上の魂のご縁の扉とが全部繋がった。


私の気のせいとかじゃなくて、本当に何かしらはあったんだと思う。


その時の様子を当時の私は、「この時が一番素の◯◯さん」と表現している。


とにかく自分の感情を表に一切出さない人だった。


ましてや表情になんか絶対に出ないタイプで、決して無愛想とかクールとかではないけれど、かと言って顔を見たら今がどんな風かわかるなんていうわかりやすい感じは一切ない。


普通に人とやりとりする分には、穏やかな空気を漂わせているけれども、それは社会人の顔というか普段の仕事をする時の表情というかで、決して個人的感情を剥き出しにしたりなんかしない。


だけど、その日のその瞬間のその人は違っていた。


普段の鎧は脱げて、その下にある本人の素の顔が出てきて、色々なことはたまたまと言えども私はそんな風なその人とやりとりすることができた。


その日のことは、本人の中ではたくさんある業務の1つでしかないかもしれない。


でも、よくよく考えて、管理職であるその人が現場に出るなんてそもそも珍しいし、現場に行くための資料を事前に見ることになったわけだけどそれを何であのタイミングで探し始めたのかはそれこそ未知数すぎるタイミングだったし、私とてあの時はたまたま自分の席じゃなくて作業机側にいたけれど、自分の席にいたのなら背中を向けているからその人が探し物をしてることに気付けなかったし、その人もないならないで私じゃなくて私の教育係のジムさんにどこにあるかを聞いたかもしれない。


色んなことがカチッとハマらなければ、その瞬間は絶対的に起こりようがなかった。


その人が転勤でいなくなった後うんと経ってから、私はSさんにしれっとその人が女の人にあまり慣れてないのではないかと探りを入れてみたことがある。


その皆既日食の日のことがあまりにも予想できない、普段のその人らしかぬ反応だったから、それが気になってそのことは伏せたまま聞いてみた。


仲良くしているSさんは「えー、そんなことないと思うよ」と即答していた。


これまた別の時に、イケメン+高スペックなその人が何で結婚しないんだろう?女の人が苦手なの?、みたいなことを私の教育係Nさんが彼の後輩くんのTさんに突然言い出したことがあった。


今書いてて、何でそんな話が突然浮上したのか、それこそとってもおかしな状況だったんだなぁなんて思ったけれど、とにかくその時はそんな話が出てきた。


その時Tさんは、「えー、そんなこと(女の人が苦手)ないと思いますよー。だって僕、◯◯◯さんが女の人と一緒にいるとこ見たことありますし」と答えていた。


ガーン、ガーン、ガーン、ガーン、ガーン、と心の中は絶句して突然暴風雪+ハリケーン+ヒョウ+あられ+みたいな心的状態に一気になったけれど、よくよく考えて、そうだよね?あんなにイケメンなのに女の人が誰もいないなんてありえないよね!!!と思った。


私1人だけスーパー勘違いも甚だしい状態だったんだとその時は思った。


けれど、今回皆既日食の当日にこの下に書いたことが起こったと知って、勘違いではなかったと思う。


けれども、それは魂レベルでは呼応していたかもしれないけれど、現実レベルではその時はさておき、その後私が勇気を持ってごはんに誘うとか手紙を渡す(押し付ける)とかはその人にとって単なる迷惑行為の他の何物でもなかったんじゃないかと思う。


これは私の持論だけれど、魂の意図と三次元に日々生きる肉体側の自分の意図とが必ずしも一致しているとは限らなくて、多くの場合はその2つの間には大きな乖離があるように思う。


だから、皆既日食の日、魂的には御の字な瞬間だったかもしれないけれど、それが後日私がその人からして面倒なことを引き起こすトリガーになったことは全くもって御の字じゃなかったと思う。


話があちこち飛びすぎたけれど、そんな風にしてまさかの3年越しに私はあの日の風景が皆既日食当日に起こっていたことだったんだと知った。


そして私は、色々上手くはなかったけれど、あの時に自分が見たもの感じたものは自分が見たまま感じたままで実は正解なのかもしれない、とちょっぴり思えるようになった。


叶わなくても繋がらなくても、その瞬間だけは本当にそのように存在していたんだと思う。



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全部のキャビネットをあけて探していたところに何か探してますか?と声をかける。

本気で照れたようなはにかんだような、目もソワソワみたいな、そんな◯◯さんだった。


今振り返ると、この時が一番素の◯◯さんと交流できた気がする。この時の◯◯さんの反応がなければ、私は食事に誘う勇気なんて持てなかったと思う。あの時の◯◯さんを見て、もしかしてって期待した自分がいる。私ももちろんドキドキしてたけど、それと同じ位かそれ以上に◯◯さんもドキドキなのか照れたのか、本当に私までどうふるまっていいのかいっぱいいっぱいになるような反応の仕方をしてたから。あの時は単に人見知りだからと思っていたけれど、Sさん、Nさん、Tさんの話を聞く限り、いくら人見知りでも女の人には慣れてる気がする。あの反応は、私もものすごく戸惑ったけど、そんな風になってる◯◯さんに出会えて私は嬉しかった。

惹き合う力信じて

YouTubeで流れてきた歌詞。

そうあの時、惹き合うって感じに見えた、少なくとも私には。


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占星術講座クラスメイトだったノムと先生の2回目の鑑定の後に電話をした。


その人との相性やら私のスピリチュアル的な能力アップに繋がる存在だったことなんかをあれこれ伝えた。


そうしたらノムがこんな風に伝えてくれた。


「能力がアップする、それも潜在的な能力が飛躍的にアップするって、誰かを好きだとかそういう気持ちがないと起こらないと思う。

そういう状態って、自分と相手のことを研ぎ澄まざるを得ない。

『わかりたい』『知りたい』がある。

お金のためとか能力を上げたいではできない。

好きとか惹かれるものがないとそこまで高められない。

僕は、好きとか惹かれるというもの以上に能力を引き出せるものを他に知らない」


ノムが真っ直ぐ伝えてくれたことは、聞いていてこそばゆい感じもしたけれど、本当に真実をついているように感じた。


たしかに、私みたいな人はお金にも興味がなければ、能力アップ、それも決して「スピリチュアル能力が欲しいでーす!」みたいなのもなく、もし自分から能力の種類を選べるなら今あるものは決して選ばなかったと思うけれど、それでも私の場合はペンジュラムを扱う力や精度、その他にもオカルト体質的なものがその人と出逢った後から飛躍的に伸びた。


訓練もしてないし、研鑽や努力を重ねたとかでもない。


なんだか知らないけれど、勝手に上がったという感じ。


当たり前だけど、「能力よ、アップしろー!」と願いながらその人のことを見ていたのとは絶対に違うし、まとっている空気だの声だのを一生懸命に観察していたのだっていつかのオカルト体質開花を目指したからじゃない。


しかも、当時の仕事は電話さえ取らなくていいと言われていて、1日の中で挨拶と質問以外は一切喋らない、お地蔵さん並みに口を閉じている仕事だった。


20年近い社会人人生の中で、それほどまでに喋らなかった仕事は他になくて、喋らない時間は何をしていたかと言えば、自分の心の中をずっと見ざるを得なくなった。


全然落ち着かない自分の心とは別に、表面上は静かに平静を装って、しれっとその人のことをただただ見ていた。


ガン見もできないからチラチラと誰にもバレないように見ているのが精一杯で、そんなこんなの中でまさかのスピリチュアル的な能力がアップするだなんて、想定外すぎた。


でも、ノムの言う通りなのかもしれない。


世俗的な目的で潜在能力を開こうとしても無理があるんだと思う。


だけど、純粋な気持ちになれた時、自分の心に真っ直ぐ向き合った時に、そうした奥底に眠っている自分へのギフトが目覚めるのかもしれない。


そして、私のそうしたものを目覚めさせる鍵となったのがその人だった。


それだけは自信を持って言える。







このブログを書いているわりと最初の頃、突然その人の澄んだ目を思い出した。


それは私に向けられたものではなく、多分その人と同い年の同僚Kさんと話している最中だった。


Kさんと横並びに並んで話していたその人の顔が、私の席からちょうど良い具合に見えていて、尚且つ余計なものがあれこれあるからチラチラと見ていても気付かれないところがとっても良かった。


少年や子どもの目とも違っていて、とにかく目が澄んでいた。


邪気がなくて真っ直ぐで何も曇りがない、とても良い目をしていた。


仕事中だし相手は男性だし、目がパァーッとなる理由なんて何もないのに澄んでいるから、それがその人の目のデフォルトなんだと思う。


普段オーラなんか見えない私が、その人の周りだけ無色透明のキラキラした空気が見えていたこともその澄んだ目に通ずるものだったと思う。


それを思い出した後に先生の2回目の鑑定があったわけだけど、先生の話を聞いてそんな澄んだ目をした人と過去世で繋がれていたとしたならとっても光栄なことだなと思った。


私もごはんに誘ったりとかしなければ、多分最後の日はそのきれいな澄んだ目でフィニッシュを迎えられたと思うけれど、色々嫌すぎたんだろう、最後の瞬間の目なんて全方位から爆破されるくらいに冷たいものを向けられた。


その目ではなく、そのKさんと話していた時の目を思い出して、そういう表情がパッと思い浮かぶっていいなぁと思った。


関係ないけれど、先生がその人のホロスコープを見て「彼はモテる人ではないですか?」と言った。


モテるかどうかは知らないけれど、誰しもがイケメンと言っていて、誠実で実直で細かいことによく気がつくし偉いのに偉ぶらずな人だから、普通に考えてモテると思いますと答えた。


大真面目に、自分には本当にもったいないくらいの、三次元レベルだけではなく魂レベルでも不釣り合いな感じを感じるくらいに素敵な人だったなぁと思った。







このブログが記念すべき今年のおいせさん手帳以外の100記事目になる。


12月中バタバタとしながら、その人が遠くに行ってしまう気配をいつも感じていた。


頭のどこかでは、もう今度こそ本当に離れる時を迎える、そのカウントダウンが始まっていると思っていた。


それは今も思っている。


その人は私の最新のブログも見てはいるんだろうけれど、それよりも過去のピンポイントでのブログの方をこれまではよく見てくれていた。


このブログの管理ページのフォーマットが2、3ヶ月前に変わって、変わってからというもの私本人でさえも過去のブログに行き着くことができなくなっている。


そんな風になってからも、その人はピンポイントでいくつかの特定の記事を見に行ってくれてるようだった。


それが今月に入ったあたりからもしくは先月くらいから、その頻度が激減した。


今月は仕事が本当に過去最高に強烈なものがもたらされて忙しくてあまり気にせずに済んだけれども、実際はかなり気にしていた。


その人がブログを見てくれてることが、すなわち私にとってのその人の生存確認で今日も生きてるんだなと知れる唯一の手段になっている。


自分がいつか死ぬことは全く気にならないくせして、その人がこの世からいなくなることはものすごく怖い。


付き合ってもないし友人どころか知人とさえ呼べない関係だけど、それでもその人がこの世に存在してくれてることが私にとっての心の命綱的なものになっている。


いつか何も無くなってしまうのが本当に怖い。


1人で何やかんやとしながらも生きていけるだろうし、おひとり様を堪能することも難なくクリアできると思っている。


その人がいなきゃ生きていけない、なんていうのはそんなの絶対にそうならないのはわかっている。


なんだけどそういうことじゃない。


自分の芯の部分を作っているところにその人の存在が確実にある。


そこがグラグラと大きく揺れ出していて、それで怖いと感じている自分がいる。


自分の身の安全を知っていながらも、もはやそんな次元のことでは到底納得できないぐらつきを私は感じている。


今度こそ本当にサヨナラの瞬間が近付いているのかもしれない。


そんなことをかなり感じながらの12月で、もう本当にその人のことをブログに書かなくなるだろうことも感じ始めていた。


ところが、そうまでなっていたら突然の占星術情報がポンと出てきて、こうしてあれこれ書いて今に至っている。


たしかに私が先生に聞いて見てもらったんだけど、何もないというか薄い内容であればこのような大容量の話には発展できないわけで、想像を遥かに超えての大容量な情報のおかげでこれだけのことを書くことができた。


2021年はその人のいない毎日になって4年になる。


いつ潮時になってもおかしくないし、これまで潮時にならず、time is overにもならず、なんだかんだと続いたことの方がありえなかったんだと思う。


こんなにもヘビーなことを書かれて、万が一にも連絡したいと思ってくれたとしても連絡しにくいわ!と自らツッコミたくなる。


その人の人生には人生のパートナーが現れてるかもわからないし、こんなにもグダグダズルズルと引きずっているみたいなのは自分だけなんだというのも重々承知しているけれど、それこそどうにもできないことの最たるもので、私はこのどうにもできないことに自分は自分のペースで付き合っていくしかないと覚悟している。


だからこそ、魂レベルで繋がっているとホロスコープを通じて知れたのは本当に良かった。


ブログさえも繋がるための手段にはならなくなったとしたら、私はその時の自分の気持ちの分量で身悶え度が変わるにしても確実に身悶えするかと思う。


そうして完全に「無」になってしまった時、せめて実際にあったことや先生から教えてもらったホロスコープから読み解ける関係性、はたまた過去に何人かの人たちから伝えてもらったその人と私という2人の個人間にあるものは、紛れもない事実だったと受け止められる自分でありたい。


そして何よりも、我が身で感じていた全てのことは本当に「在るもの」としてあったことを素直に受け止める自分でありたい。


なんだかんだとありながらも、今年1年も私はその人の存在を心の拠りどころのようにしていた。


怒涛のような1年ではあったけれど、確実にその人の存在のおかげで心の中心を失わずに済んでいたように感じる。


「ありがとう」


いつかは消えて無くなる前に、ありがとうという気持ちだけは伝えておきたい。


もう一度。


ありがとう。


ー2020年大晦日