2017年10月31日火曜日

伝えたい

自分の中にあるものは取り出せない。
取り出せないから、言葉という手段を用いて外に出してみる。
当初10年ぐらい使う予定で買った今の日記帳。
この1ヶ月でなんとそのうちの半分近くを使い果たした。
やたらとペンのインクが未だかつてないハイペースでなくなると思えば、なるほど納得した。
替え芯はすでに数本の域に達している。


昨日の車の中で、この夏友達3人と交わした楽しい東京神楽坂で開催した女子会の会話を思い出した。
はっとした。
その時の会話の内容の1つは1年前の秋にさかのぼる。
1年前のある秋の日、私は目的地近くにいながら道に迷っていた。
開始の時間近いのに、目的地にも近いのに、迷っていたその時。
私はなんと今働いている職場の目の前にいた。
そんなことすっかり忘れていた。
昨日の昨日までそんなこと忘れていた。


今の職場の目の前の道にたどり着いたのはその時が人生で初めてだった。
本当にそこに用事がなければ絶対に通らない道ゆえ、なぜ1年前の秋にたまたまと言えどもそこを通過したのかなんて、すごい確率だった。
しかも私は自分の意思でそこに行ったわけじゃなかった。
当時仲良くなった女の子に誘われて出かけた先が、迷子になって未来の職場の前を通過するというすごい偶然を生み出していた。


そこから芋づる式で色んな過去の通過点がよみがえってきた。


どういうわけか、私はそこから半径数キロのところに何だかんだと行く用事が重なった。
それもすごいマニアックな用事ばかりだった。
当時にしてみれば、もっと便の良いところにその用事先の場所があればいいのに…と思いながら、本当にその時々の用事だけを足しに足を運んでいた。
しかも1つを除いては、すべて自分以外の誰かから誘われてとか教えてもらって出かけた用事ばかりだった。
自分の行動範囲には全く該当しないその街へ、何かしらのお誘いで足を運ぶ、それが去年の夏から今年の春にかけてのことだった。


アメリカに住んでいた頃。
私はやたらと「ドミニカ人」と呼ばれる人たち、ドミニカ出身の人たちと出会っていた。
しかも色濃く記憶に残るような、そういう関係となった家族だった。
その人たちが交わすスペイン語は何一つ知らず、これから先の未来には何も関係ないと思ってスルーしていた。
そうしたらまさかその数年後、私はドミニカ共和国に住むことになるなんて、そしてスペイン語を1から学ぶことになるなんて思ってもみなかった。


人生において大切な何かと出会う時というのは、そうやって前もってお知らせ的なものがくるんじゃないかと昨日車の中で思った。
当然その時はスルーする。
興味もなければ何の意味も成さない出来事や偶然で、すぐに記憶の彼方へ葬られる。
だけど、ある日1つの事実に気付くと、まるで何か1点に向かって人生が流れ込んでいるような、そういう偶然が過去に点在していたことに驚く。
私は昨日の車の中でその偶然に気付いた時、十分暖まった車内の中で鳥肌が立った。
鳥肌が立つくらいの驚きと感動みたいなものが沸いた。


こういうよくまとまらない記憶が行き来する。
記憶に残したくて記録する。
自分の中でも言葉にできないものをひたすら日記に綴る。
何か思い出せば、近くにある適当な紙に、携帯のメモに、残す。
人生の中で何かが幕開ける感じがひしひしとしている。
何かに向かって点と点が繋がりだしてる。
それが何かなんて今はまだわからない。
だけど、確実に何かが動き出してる、そんな風に感じてる。


~relative story~
1ヶ月

1ヶ月


昨日10月27日でちょうど1ヶ月だなぁなんて思いながら昨日や今日を迎えた。

1ヶ月と2、3週間前に時計の針を戻す。

これからやってくることが確定した出来事に対し、私は並々ならぬ心の準備を始めた。

どう考えてもきついのはわかっていた。

何事もなく通過できるなんていう予想は一切立てられなかった。

だから、私は10月に向けて自分の中の楽しみを計画した。

少しの楽しみを用意して、あとはもうなるようにしかならないと最後は開き直った。

楽しみの1つに今のこの時間がある。

1ヶ月後の10月27日ないし28日にひとり反省会をやろうと決めていた。

その時は美味しいケーキを用意して(←本当に用意した)、美味しい珈琲でも飲んで優雅にひとり反省会!と思った。

ケーキは用意したけれど、私は今アルコールを摂取しながら片手に期間限定の北海道美瑛産のポテトチップス、一生のうちいつかは訪れたい町からやってきたじゃがいもを口にしながらこれを書いている。

いつだったか、朝からビール飲みながら家の掃除してたところに友達が来て「ぶっしーやるね!」などと言われながら一緒に乾杯したことも思い出した。

ケーキよりもアルコールの方がひとり反省会に向いている。

 

話はだいぶ過去にさかのぼる。

29歳の私は、30歳の自分が何をしているのか皆目見当もつかなかった。

そこを皮切りに今38歳になるまで、私は毎年毎年「来年の今は何をしているんだろう?」と思って1年1年を通り過ぎてきた。

気付けば1年として同じ1年がなく、仕事も人間関係も日常の生活スタイルもとにかく変化に富んだ日々が数年間続いている。

当然不測の事態なんかは日常茶飯事で、もうちょっとやそっとのことじゃ驚かなくなった。

いちいち驚いていたら体も心ももたないから。

変に慣れたというのもあるし、自分がどこの何に向かっているのかさっぱりわからないけれど、自分でもどうにもできないような人生の流れが水面下にあるような感じの30代を通り過ぎてきて、その流れにとりあえず乗っかってみようという感じだった。

 

話は戻してこの1ヶ月のこと。

 

これまでも「strange」という意味での変なことはたくさんあったからいちいちそれらを抜粋して振り返ることはそうそうしてこなかった。

だけど、この1ヶ月は本当の本当に不思議な1ヶ月だった。

そして不思議なことがいくつか起こった時に、ふと振り返ってみたら過去の色んなことたちと今とが一気に繋がり出した。

それで人生の棚卸し的な振り返りをし始めたのがこの1週間位。

 

33歳か34歳の時に、私は人生で初めて自分の人生の棚卸しをした。

でもその時の棚卸しは、ものすごく強い意志を持って意図的に棚卸しをしていた。

過去の点という点が線となって浮かび上がってきたから、私は過去の記録という記録を出してきて、スケジュール帳も写真もあれこれ並べては点と点を結ぶ作業を延々としていた。

その時に色んなことたちが、一見全く繋がりがないように見えても実は繋がっているということを体感覚で知った、という感じだった。

 

そして今回の2017年の9月末から今の10月末に至るまでは、意図はしていないところで人生の棚卸しが始まった。

正直1ヶ月前の私はこれからやってくるだろう色んなことたちに怖れを抱いていた。

向き合いたくないものとか、蓋をしてきた過去の何かとか、そういうものが浮上してくるんじゃないかと思っていたから。

実際にそうであった部分もあったけれど、そうではなくてもっと人生そのもののヒントになるような人や出来事がこの1ヶ月でたくさん出てきた。

これは想定外だった。

もっと感情に呑まれて(実際に呑まれているけれど)意気消沈・鬱々と過ごすのかと思っていた。

だからこそ自分のために楽しみを先に計画して用意した。

だけど実際は、意気消沈する時もドンと落ちている時もあったけれど、それとは反対に自分の人生で絶対的な形で存在しているもの、そういうものを知り始めることになった。

 

例えば、この今している「書く」という作業。

私はこの1年書くことを止めた。

全く書かなかったわけじゃないけれど、これまで100やっていたとしたらこの1年は10以下しかしなかった。

それぐらいに書くことから離れていた。

そうしたら、この1ヶ月の間で私は書くことを再開した。

理由はかなり不純だけど、いやある意味とても純粋だけど、とにかく再開した。

書こうという強い意志を持って再開したんじゃない。

気付いたら再開していた。

今の私にとって「書く」という行為は手段でしかない。

でもこの手段を使ってでも成し遂げたいことがある。

その成し遂げたいことのために、気付いたら勝手に書き始めてたというのが今回の流れ。

「書く」という行為そのものはまた別の機会に綴ろうと思っているけれど、多分私にとって「書く」というのは人生そのものに関わる作業的なものだと思う。

そして20年越しに自分の名前と「書く」ということのヒントが結びついて、さらには38年前に付けられた自分の名前と今とが繋がった。

 

私はこれまで自分の名前の意味なんて深く考えたことがなかった。

ぶっちゃけ、私の名前は両親の漢字を一字ずつ組み合わせて成り立っている。

だから、人に説明する時もそう説明しているし、それは日本語のみならず英語やスペイン語で説明する時も同じようにそう説明してきた。

だから私は自分の「史子」という名前に対してどんな意味があるのかなんてつい最近まで知らずに生きてきた。

両親でさえも私の名前の漢字にどんな意味があるのかなんて多分知らないだろう。

だけど不思議なもので、まるで名前に託されたかのように、このタイミングで書くことを再開して、自分の名前と書くことの繋がりを発見して、さらに先に先に進もうとしている。

進む…というのは少し違う気がする。

成し遂げるとか何かに向かってがんばるというのではない。

何かもう、どんなに自分がそこから逃げ出しても逃げ出せない、そういうものに向き合い始めた感じとでも言えばいいんだろうか。

気付けば、読み書きすら満足にできなかった小学校低学年の頃から私の生活の中には「書く」ことが含まれていた。

それは自分でも意図したわけじゃなく、とにかく「書く」という行為から絶対に逃れられないと言ってもいいぐらいに、常に書くことがついて回ってきていた。

 

話が飛躍したから少しまた戻そうと思う。

この1ヶ月で起こったこと見てきたこと聞いたことは、実は大元をたどれば1人の人との出逢いに起因している。

この出逢いは私に史上最高に色んなものたちをもたらした。

予定もしていなかったこの出逢いは、今もってどうして出逢ったのだろうかと思っている。

あまりにも予定外だったし、今の現状を見たら悲しい結末を迎えて終わっていることにはとりあえずなっているし、純粋に「しあわせになりたい」と思えばもっと他の出逢いを自ら求めた方が心が満たされるだろうとさえ思う。

本当に何でこのタイミングで?と思うようなタイミングで出逢って、そして当初は私の惹かれるポイントやタイプからことごとく真逆にいたその人に対しては、意識としては一切の興味関心がないことになっていた。

ノーマークだったその存在がある時からどれだけ私の中の意識内に入り込んだことか、ある種異常と言えば異常だった。

その異常さを私は勘違いとか思い違いとして長いこと放っておいた。

かなりの時間が経過してからようやく自分の中にあるものを認められた時、今度は物理的に会えないことが確定した。

当初はこの流れをものすごく恨んだ。

何だこれ?と思った。

何にも知らなかった頃には当然戻れない、かと言って先があるわけじゃない、こんな中途半端な状態で突然の断絶を迎えても私の気持ちは追いつかなかった。

「異常」という表現は字のごとくで「常と異なる」ことがすべてだった。

いくら数年に渡って意味不明なことがたくさん起こってきても、その中でも群を抜いての「常と異なる」状態が出てきたわけだから、混乱や不安は当然のこと、一体全体自分の人生がどんなことになってるんだろう??と思った。

 

ちょうど1ヶ月前、物理的に会えない状況がスタートして、私は私で自分の日常に戻っていくんだろう、最初は色々気持ちが入り乱れてもそのうち落ち着くだろう…なんていう風に思っていた。

たしかに表面上の日常は形として元通りと言えば元通りにはなった。

だけど、この1ヶ月で私の日常のリズムは大きく変動したし、自分がそもそも生きていることに対して2人の人からとてもはっきりと自分の存在価値や生きる理由みたいなものを伝えてもらい、そして1週間前の伯父の死を見て生きていることの凄さを改めて思い知った。

1ヶ月前には想像もしていなかったことが次々と起こり出した。

起こってくる出来事と日常のリズムの変化を見て、ふと自分の人生を遠くから眺める風にしての棚卸しを始めた。

 

私の人生にひょっこりと突然現れた人は、その人が具体的に何をしたということではないけれど、多分人生においてキーパーソン的な人なんだろうと思う。

「バタフライ効果」という言葉を知ったのは何年前だったんだろう。

ブラジルで蝶々が1羽飛ぶその微細な振動が遠く離れたアメリカで竜巻を起こす一因となる、そんな風な喩えだったと思う。

気象学だか何学かはわからないけれど、現実的にそういう理論が提唱されてるというようなことが書いてあったと思う。

あまりにかけ離れた発想のようだけれど、私はその考えが妙に心に残った。

(当時読んだ本は『バタフライ・エフェクト 世界を変える力』だと思う、表紙を見る限り)

今人生の棚卸し的な振り返りをしていると、全く関係のないことたち、それこそ蝶々と竜巻ぐらいの別物たちが、同一線上に浮かび上がってきている。

そしてそのキーパーソンがそこにどんな形かは今はまだ全容を知らないけれど、それこそ竜巻級の変化を私の人生にもたらしたのは本当だった。

 

さかのぼること5ヶ月前。

今の仕事の採用が確定した時、そして実際に行き始めてからも「何で私ここにいるんだろう?」とずっと思っていた。

そこにいる理由が私の中で1つもなかったから。

でも5ヶ月経ってわかった。

私はやっぱりそこに行く必要があったこと。

そしてこれまで「話す」ことを軸として仕事をしてきた私にとって、1日に数分しか口を開かない、しかもその口を開くことも最小限のみという状況も異様だった。

だけど、これも実によくできた環境設定だと思う。

黙ると色んなことが見えてくる。

黙っていなければ自分の内面で起こっていることや外で起こっていることを静かに見つめることができなかっただろう。

幸いにして、手をたくさん動かす仕事ではあるけれど、頭はさほど使わなくていいというのが、自分に集中できる状況をさらに加速度的に作り出している。

その自分に集中する状況があったからこそ、色々気付けるようになっていた。

これがそれまでの仕事スタイルであれば、自分じゃなくて目の前の誰かに集中していなければ仕事として成立しなかったから、今気付いていることに気付くことはなかったと思う。

 

この1ヶ月の振り返りはすごく面白く、また来月もしようと決めた。


上の文章の「ノーマーク」からのくだりは翌日29日日曜日に書いた。

そこから上は梅酒→スパークリング系→白ワイン→発泡酒という順で飲みながら書いた。

途中でケーキも食べた。

飲みながら書いたからどんな変なことを書いたかと思えば、けっこうまともだったからそのまま残すことに決めた。

日曜日の朝は、優雅に珈琲を淹れてケーキと一緒に買ってきたアップルパイを口にして、反省会ならぬ書き物をひたすら進めた。

この先の1ヶ月、すでに3つ予定が決定している。

なんとひょんなことから、過去に戻って謝りたいと思っていた人とも10年ぶりに再会できることがつい昨日確定した。

しかも私が設定したんじゃなく、共通の知人がみんなに連絡を取ってくれてその機会が設けられることになった。

必要があれば再会できるんだというお手本のような機会になる気がしている。

そしてキーパーソンが私の中でどんな風に変わっていくのかも、別の意味で楽しみだったりする。

ちなみにこの1ヶ月は、半分は想定内、半分は想定外だった。

 

これにてひとり反省会終了。2017年10月29日 雨の日曜日


~伯父の最後~



新しい靴

10月の最後の土曜日、新しい靴を1足おろした。

買ったのは真夏の東京でだった。

その靴は願掛けのような意味合いも含まれていた。

買った時に、その靴を最初に履くシーンを決めていた。

そのシーンが本当に現実のものとなるかは当時は不明だった。

でも現実に起こって欲しかったから、私は願掛けでその靴を買った。

 

結局願掛け通りに現実は動かず、ずっとクローゼットの中で靴は出番を待っていた。

このままいくと、冬を越えて春になってしまうことは目に見えていた。

願掛けしたことが叶うまでさらにずっとクローゼットの中…というのも何だか嫌だった。

そんなこと言い出したら永久にその時はやってこないんじゃないかという懸念まで出てきた。

せっかく自分のところにやってきた靴なんだから、今日履いて行こう!と決めて昨日おろした。

 

どこに履いて出かけたかと言えば、お墓だった。

 

1ヶ月半くらい欠かさず毎日お墓参りをしている。

お墓参りの効果がどれほどかは知らないけれど、色々と助けられていると思う出来事にこの1ヶ月半たくさん遭遇してきた。

何でお墓参りにその靴だったかと言えば、お墓参りで祈ることとその靴に当初願掛けしたことに共通点があったから。

願掛けは一方通行で終わってしまったけれど、それらすべてを陰で支えてくれてたと思しきお墓や3人のご先祖に対し敬意を払う意味も込めて、それで昨日その靴を履いてお墓参りに行ってきた。

 

いつもは朝仕事に行く前に慌ただしく手を合わせてくるから、何も予定のなかった昨日(2017/10/28)はいつもより長くお墓の前に手を合わせてあれこれ思い付く限りのお礼を心の中で唱えた。

そしてしっかりと願いも託した。

 

それこそ毎日お墓参りに行ったことで1つ気付いたことがある。

祈りを唱えている時や唱え終わる時、「きちんと届いてますよ」という意味なのかと勝手に解釈しているけれど、風が吹いたりその時だけぱっと太陽の光が雲の合間から出てきたり、時にはその時にしかない音が風と共に運ばれてきたりする。

お墓を離れるとそれらはぴたりと止む。

毎日ではないけれど、そういう日の方が圧倒的に多い。

毎回不思議だなぁと思いながら車に戻る。

自分の中ではちょっとしたパワースポット化しているお墓に行くために新しい靴をおろすというのもありだなぁと思ったから、昨日迷わずそうした。

 

その新しい靴は、おしゃれ靴だから次履く時がいつかは今はまだ知らない。

だけど、買った最初の時に願掛けしたそのことが、いつかの未来に本当に起こってくれたらいいなぁと今も同じように願っている。

生きているうちに出会うということ

1週間前の土曜日(2017.10.21)、母の兄である伯父が急死した。

 

その2日後の月曜日、台風がもろ直撃してるだろう道を車で辿りながら100キロほど離れた火葬場へ行った。

 

母の兄と言えども、男性優位と言わんばかりの母の実家では伯父に近寄ることは子どもの頃からなかった。

だから亡くなったと聞いても、どこか他人事のような、たしかに血のつながりがあるけれどどこか遠くのニュースを聞いているみたいな気分だった。

 

そして火葬場へ親族一番乗りで到着した私は手持ち無沙汰で、満員御礼の火葬場の他のご遺族たちの様子を横目で伺ったり、外の台風の様子を見たり、または東京と金沢からそれぞれ駆け付けている妹たちとラインをしながら過ごしていた。

 

悲しみもなく、それよりも我が親族が火葬場に遅刻している事実を知り、何ともいたたまれない気持ちに包まれていた。

 

伯父の死を悼むなんていう感触は一切なかった。

 

ようやく親族一同と伯父の遺体が火葬場へ到着した。

 

棺が火葬扉の目の前に運び込まれ、そこでようやく私は死んだ伯父と対面した。

 

自分でも何をどう感じ取ったのか言葉にはできないけれど、伯父を見た直後、ぼろぼろぼろっと涙が何粒かこぼれた。

 

私は頭の方から伯父を眺めたけれど、亡くなったばばちゃん(伯父や母の母、私の祖母)にそっくりだと思って見ていた。

 

伯父もばばちゃんから生まれた人なんだと、伯父を見ているのかばばちゃんを見ているのかわからなくなった位だった。

 

涙は悲しみなのか他の何かなのか最後までわからなかったけれど、単純に人の死はどこか悲しいものだと感じながら伯父を見送った。

 

火葬場でおにぎりやお茶、鳥の唐揚げにいかゲソの揚げ物を1つずつ口に入れて、2時間ほど控室で親族たちと待機した。

 

係の人が呼びに来て、火葬扉の前に再度集合した。

 

当たり前と言えども、扉が開いて骨と灰だけになった伯父の姿を見てあっけないと感じた。

 

2時間前にはたしかに存在していた肉体が、跡形もなく無くなっていた。

 

残ったのは、どこをどう見たら伯父だと判別したらいいのかわからない骨と灰だけだった。

 

肉体はこの世で生きていく時にお借りする乗り物のようなもの、ということを過去に何回か聞いたことがある。

 

本当にその通りなんだと、伯父の骨と灰を見て思った。

 

これが人生で30年ぶり二度目の火葬場体験だった。

 

30年前の小学校1年生の私が人間の死をそんな風に見つめることなんかできなかったから、実質人間の肉体が最後無くなる瞬間に立ち合うのは、今回が初めてと言ってもいいぐらいだった。

 

 

 

伯父の死から1週間経ち、また日常に戻ったには戻った。

 

1週間もあればまた色んなことを思ったり考えたりするわけだったけれど、自分が今の体と心を持って生きて、そして同じように私とは別の体と心を持って生きる他の誰かと出会うってすごいことなんだと思った。

 

それがこの1週間で何度も何度も響いたことだった。

 

葬式が明けてすぐの日だったと思う、仕事で1人の人が異動になって最終日を迎えたかと思う。

 

「思う」と言ったのは、その日はそもそも頭がぼーっとしていたのもあるけれど、当の本人がそこにいなかったから、結局その人がいつのタイミングでいなくなったのか、またいつその人に最後会ったのかわからないまま終わった。

 

片や姿かたちが無くなった人間一人に対して涙を流したかと思えば、いてもいなくても何も変わらなくて何も感じずに終わる人もいる。

 

反対に生きたまま離れる人も当然人生の中には登場してくる。

 

その生きたまま離れる人、これまでも色んな人が人生に出入りしたけれど、その離れてしまう人の中でも特別な存在の人というのがいる。

 

伯父の死を通して痛烈に感じたのは、そういう特別な存在の人たちとお互い生きているうちに出会えることのすごさだった。

 

名古屋に住んでいた頃のこと。

 

最初の半年は、仕事で顔を合わせる人以外で知り合いなど1人もおらず、とにかく「1人」ということを嫌という程感じた時間を過ごしていた。

 

ある週末、名古屋駅内の待ち合わせ場所としてよく使われる金の時計の近くを通った。

 

すぐ近くには高島屋もあるから、高島屋の客に待ち合わせの人たちにJR利用する人たちと、とにかく異常な程の人・人・人で溢れ返っていた。

 

どれぐらいの数の人たちとすれ違ったのかはわからない。

 

だけど、どんなにたくさんの人とすれ違っても、その中に「1人として自分の知っている人がいない」という事実を前に私は愕然とした。

 

下手したら寂しくて涙の1つも流したかもしれない。

 

こんなに世の中には人がたくさんいるのに、その中に1人として知ってる人がいないって、それは人がいても孤独そのもので1人の自分というのを嫌でも意識せざるを得なかった。

 

私はそういう「1人」で存在している自分というのを子どもの頃から実にたくさん経験している。

 

集団になじめなかった自分もそうだし、いじめられた時もそうだったし、外国で現地人たちと馴染めなかった時もそう。

 

日本にいても、共通言語を持ち合わせているのに誰とも言葉を交わさず1人でいるという時間をたくさん通過してきた。

 

だからこそと言ってもいいかもしれない。

肉体を持って、この自分でこの自分の姿かたちでこの声でこの心で他の誰かと出逢う、そしてその相手が自分にとってとても特別だったりするとさらに「これって奇跡だ」って思うのは…。

 

血のつながりがあっても遠くに感じる伯父みたいな人もいる。

 

反対に血のつながりがなくても、そして人生全体から見て会えている時間がものすごく少なくても、その人との出逢いがとてつもない大きな力で自分の人生に入りこんでくることもある。

 

それってどれぐらいの確率で起こることなんだろう…って、骨と灰だけになってしまった伯父を見た後この1週間位でよく考えたことだった。

 

 

目を閉じて両頬を両手で包みこみながらしばらくぼーっとしていた。

 

梅酒が効いているのか、手はかなり熱く、その手に触れたほっぺたも熱くなった。

 

肌と肌を合わせれば温かくなるのは当たり前の原理かもしれない。

 

だけど、もう肉体を持たない伯父はそういうことを経験することはできない。

 

そしていつかの私もそういうことから全て卒業することになる。

 

その時までに私はあと何人の人と肉体を持って出逢い、そして何か特別なものを感じ取ることができるだろう。


~伯父が亡くなった日の記録~

しあわせな最後

2017年10月21日

 

母方の伯父が亡くなった電話がきたのは5時間ほど前。

 

何ヶ月振りかに父母私の3人で出かけ、父は先に帰り私と母は母の買物の途中だった。

 

第一報は、今朝までピンピンしていたのに昼間いっこうに戻らず、叔父の奥さんであるおばさんが見に行ったら倒れていた、そしてそのまま帰らぬ人となったということだった。

 

母は帰りの車の中で

「早すぎる死だ。あと10年は生きると思っていたのに」

と何度もため息交じりに言っていた。

 

たしかに伯父は2年前がんを患い手術をしている。

 

術後良好で、再発もなくここまできていたとのこと。

 

それがまさかの急死で、母はじめ伯父のきょうだいたちはみんなびっくりしただろう。

 

父と母は母の実家である伯父の家へ夜7時をまわってから出発した。

 

先ほど母より電話が来て、事の真相を知った。

 

伯父の娘の1人、私にしたらいとこは今日仕事で、伯父夫婦+1時間ほど離れたところに住む母の妹(叔母)に自分の子ども2人を実家に預けた。

 

子どもは4歳と2歳だったかと思う。

 

伯父にしてみたら可愛い可愛い孫娘の2人だ。

 

その孫たちに柿を食べたいかと聞き、本人たちが食べたいと言ったから、家の畑にある柿の木に柿をもぎに行ったらしい。

 

そうしたら、柿を採っている最中に柿の枝が肺にあたる部分に刺さり、それで息が出来なくなってそのまま帰らぬ人となった、というのが事の真相らしい。

 

家での突然死だから警察が駆けつけ、検死をしたところそういう所見が出たらしい。

 

あまりにも急だし、ある意味とても不運としか言いようがない命の最後だったかもしれないけれど、私はそれを聞いて「あぁ良い死に方だなぁ」と率直に思った。

 

命の最後の瞬間、大好きな孫のために今が旬のおいしい柿を食べさせようと思って柿を採りに行って、そこで不慮の事故で亡くなった。

 

自分にとってかけがえのない誰かのために何かをしてあげたくて、それを実際に行動に移している間にボタンの掛け違いみたいなことが起きてで命が尽きてしまった。

 

人の死に対して「憧れる」なんて言ったら怒られそうだけど、すごく良い人生の締め方だなぁと思う。

 

そしてそんな風に自分も最後の瞬間、大切な誰かのために何かをしていたら亡くなったなんていう終わり方ができたら最高だろうなぁと思う。

 

そして、その話を聞いて、私はその伯父がとても好きになった。

 

死んでから好きになるというのもおかしな話だけれど、本当に好きになった。

 

 

時間を3時間前に戻すとこうだ。

 

当初私はこの伯父の死をもっと別の形の文章として残そうと思った。

 

はっきり言えば、この伯父と私は半永久的に交わらないんじゃないかというぐらいに遠い存在だった。

 

母の実家は、昔の男尊女卑が今でも根強く残っているような家系で、家長を立てるとか男を立てるとか、女はその後ろで男たちを見守り支えるのが当たり前とか、そんな風な流れが今でも普通にある。

 

だから母方の祖父はじめその跡を継いだ伯父もそんな風だったから、子どもの頃より近寄りがたく言葉なんてほとんど交わしたことがなかった。

 

時代の流れと共に随分と柔らかくはなってきたけれど、もう長年そういう状態だったから、とにかく大人になった今もどう会話を交わしていいのか皆目見当のつかない相手だった。

 

ましてや子どもの頃は年に2回会うか会わないか、大人になってからは2~3年に一度の顔合わせで、さらには会えばその微妙な距離感が常にあり、だから血縁関係があるにも関わらず、ものすごく遠くの親戚みたいな感じだった。

 

遠くと言うのは地理的距離だけじゃなく、心理的距離も含めてものすごく遠い存在だった。

 

だからその伯父と何か自分の話などお互いにしたことが一度もない。

 

私は伯父の生き様も価値観も好物や苦手なものも、何一つ知らない。

 

ぶっちゃけ、亡くなったと聞いても悲しみとか喪失感みたいなのも湧かず、葬式に形だけ参列するのかと思うと、何だか味気ないなぁと思っていた。

 

ところがここにきて、伯父の最後の終わり方を聞いて、伯父のことが一気に好きになった。

 

あんなに堅苦しい家で育った伯父も、最後の最後は人の子だったというのがよく知れた。

 

そして言葉数も少ない上仏頂面とは言わなくても表情もいつも硬い感じだった伯父が、実は孫を前にすると別人のような優しさを発揮していたんだと知れて、本当に良かった。

 

だから今、3時間前に想像していた文章とは全く別の視点からこの文章を書いている。

 

あさってとその次の日が葬式とかそれに付随するやりとりになるけれど、本当に心から伯父を偲んでその場にいられると思うと、そういう風になれて良かったと心底思う。