引きこもりに徹している毎週末なこの頃。
週末が終わる前から翌週末を想像して、あれもしたいこれもしたいと想像に励み、平日は指折り数えて週末を待ち、とにかくいかに週末をダラダラゴロゴロしつつもやりたいリバティ布との触れ合いタイムを作るかという視点であれこれ計画している。
最近ブログがとんとご無沙汰なのは、6月は単純に残業が毎日3時間4時間みたいなことが続いたからだけど、それも月末には落ち着いて、その後からは時々残業する以外はリバティ関連のメルカリチェックか布触りタイムかのどちらかにいそしんでいたから(プラス単なる寝落ちエブリデーなこの頃)。
先週の週末も今週の週末もけっこうな時間を割いてチクチクと何かしらを縫ったり何かを作るのに布合わせをしたりしていた。
針と糸を持ってひたすら縫い進めることをしていると、ある種のセラピー的な感じの時の心理状態になれる。
ここにいながらにして、普段とは違う思考回路に通じる。
普段とは違うところに行くと、普段考えもしないようなことを考え出す。
先週と今週の週末に思い浮かんだことはこんな風だった。
ちなみに先週、要は1週間以上前に浮かんだことはすぐにブログに書こうとしたけれど平日は書く気になれなくてズルズルと時間だけが過ぎたけれど、時間が過ぎてもその時に思ったことは印象が強くて今も残っている。
けっこう当たりな感じのものを引き当てたのかもしれない。
当たりというのは、人生のお勉強的な意味の当たり。
*
何でそんなことを急に思ったのかはわからない。
「この会えない感じをとことん味わうのが今回の私に課せられていることなんじゃ…!?」
これはスピリチュアル関係の何かしらを聞いたか読んだかした時に数回は見聞きしたもので、その時はあまりピンときてなかったけれど先週のたしか日曜日はその考えがやたらしっくりときた瞬間があった。
過去世と呼ばれる人生の中で、自分がした側で相手がされた側の出来事がある場合、今度今世では自分がされて相手がする側にそれぞれチェンジして反対の立場を体験する、その反対の立場でしか見えない景色や気持ちを体験するというのがある。
その考えがどこまで本当なのかはわからないけれど、ふとそんなことを思い出すくらいに自分の中によぎったことが忘れられない。
針と糸を動かしながら「自分は生きているのにもう会えないってこんな感じなのかも」という言葉では言い尽くせない感覚が強く出てきた。
先に断ると、心理セラピーを受けたりとかしたわけじゃなくて、突然のようにその感覚がやってきてそこから色々自分なりに分析したことをこれから書く。
相変わらずおかしなことを書くことはあらかじめ言っておきたい( ̄∀ ̄;)。
2018年の節分か立春の2月の初めに私は人生で初めての占星術鑑定を受けた。
今から5年以上前になる。
5年も経つとより一層、当時のことが本当に大切なメッセージとか自分が人生で知るべきことがその時にもたらされたんだと思う。
その時の鑑定士さんは子どもの頃から霊媒体質で色んなメッセージをキャッチしたり予知したりそういうことができる人だった。(ということは全く知らずに受けて、受けた時に何かが視えてる風だったから聞いたらそのように教えてくれた。)
大人になった今は基本的にはキャッチしないけれど、何かしらの意図(関係者の魂の意図や願い的なもの)が働くとその方の元へメッセージとかがやってくる。
その時に私は初めて、イケメン上司と自分との関係を第三者の見知らぬ人(その日初対面)から教えられた。
一般的にそんなことがどれくらいの確率で起こるのか知らないけれど、私の場合は基本的にそういうことが多い。
それもイケメン上司限定でそういうことが起こる。
その時に言われたことの1つに、過去世の中ではイケメン上司と私とは共に暮らすか暮らすに近しいような仲で、当時の私は病弱で10歳になるかならないかくらいまでしか生きられず、イケメン上司がどのくらい生きたかは知らないけれど少なくとも私よりは長生きをして、話の流れを掴んで想像すると私の死を見届けてくれたんだと思う。
鑑定士さんの話だと、私はみなしご(孤児)状態でイケメン上司の祖父母に面倒を見てもらったようだった。
(この話、何回もブログに書いているから、またか…と思われそうでちょっと気が引けてる。けど書く( ̄∀ ̄;))
単純に想像すると、イケメン上司は私にまた会いたいと思ってももう会えない、自分が生きていてももう私に会うことは二度と叶わない、それを当時の人生で体験したのだと思う。
針を進めながらふと思った。
その会えない気持ちを私はとことん味わっていて、それが今回の自分側が体験するべきことだったりして…。
えー\( ̄д ̄;) \、それヤダ!!!とは思ったけれど、それはそれで妙にしっくりきたのも本当だった。
私はまだあきらめてはいないけれど、普通に考えて生きているうちにイケメン上司と私とがもう一度会えることはない。
よほどその場を設定しないとそれは自然には起こってくれない。
自然には起こらないとなると双方の意志がとても重要になってくるけれど、私側がいくら望んでもイケメン上司が望まなければ現実にそんなことは起こらない。
イケメン上司からして、私のブログをチェックするのはOKでも私と連絡するとか会うとかいうのは全くOKじゃないんだと思う。
それはそうと、生きている間に会えないって強烈だなとその時はものすごく強く感じた。
生きているのに会えない。
イケメン上司は今も生きているとは思うけれど、過去世の自分たちに置き換えると、(イケメン上司側は)生きていてももう二度と会えない、その感覚を一生抱き続けて自分の生を全うしたかと想像するとそれは生き苦しいし息苦しい。
私は残りの人生でそれをずっと味わい続けるのは正直な気持ちとっても嫌で、そんなことは極力避けたいけれど、過去世のイケメン上司側の気持ちや生き様を体験するにはとても出来たシナリオだと思う。
*
1週間経った今回の週末もまたその続きのようなことを思った。
今現在、日々の生活は落ち着いている。
仕事はすったもんだしていてもそれで自分の心身がやられるようなことはないし、リバティと戯れる時間もあるし、とりあえずある程度平穏さが日々の中にある。
でも最近は特に思う。
このまま生き続けるとして、私は何に向かって生きているんだろう?と。
私は今色んな役割から解放されている。
自分がしたかった「妻」とか「母親」とかいう役割は残念ながら手にできず、かと言って仕事も役員級な重たいものがじゃんじゃん来ても所詮派遣でしかないから責任を取る立場には当然なく役割はない。
両親も健在で介護はないし、自分も健康でとりあえず生活することだけが今の日々のことになっている。
ある意味で過去一番落ち着いている状態にある。
これがずっと続くとは思っていないけれど、とにかく怖いくらいに落ち着いている。
そんな今、かなりな頻度で思う、「自分はどこに向かっているんだろう?」と。
残りの人生でどんなことを体験するかはわからない。
それはわからないけれど、生き続けていく中でイケメン上司には生きていても会えないという状態と感覚を残りの人生でずっとずっと味わい続けるのは本当に嫌っ!とそれだけは強く思った。
話がずいぶんと変わるけれど、この1週間はイケメンズ週間と言わんばかりにイケメンたちと共に仕事をしたり話したりすることが続いた。
朝から2時間ほどずっとイケメンとマンツーマンで一緒に動くとか、今の仕事をしていても初めての場面に遭遇した。
さらにはその日、別のイケメン2人ともそれぞれ深い話や心を許し合わないとできないタイプの愚痴を言ったりして、すごいイケメン色な1日と相なった。
その時に思った。
確実にその日のイケメンズたちとはイケメン上司以上に濃いそして長い接触を持てたわけだけど、しかもその時だけ一緒に仕事をしたのじゃなく過去にも何回かガッツリと関わっているから互いに知り合っていてのその時で、それだけ関わっていても基本的に私もイケメンズたちも双方が自分たちの私生活を知ることはないし共に暮らすこともない。
彼らとそんな風なのに、どうしたらさらに接触のないイケメン上司と互いを知り合ったり互いの生活の中に自分がいられるだなんて、普通に考えてありえなさすぎでしょ、と思った。
*
言葉にすると一瞬でその言葉が表すインパクトは私には体感としてあっても読み手の側からすると「今日は梅雨らしい雨だね」と大差ない体感ゼロに近い話なんじゃないかと思う。
会いたくても会えない、それは宝くじを買ったけれど当たらないとか、そのレベルくらいもしくはそれ以上に現実に起こりそうにもないレベルのことでガッカリ過ぎる、エブリデーエブリタイム。(今回やたらとカタカナでの「エブリデー」がしっくりと言葉としてやってくる。)
何回かブログに書いたしまた書くのかよ!?という話ではあるけれど、そういうことが自分の中にずっとある以上書いてしまう。
本当に色んなことが変わった中で唯一変わらなかったのはイケメン上司のことだけだった。
イケメン上司が私の人生に登場してくれた2017年を起点にすると、そこから色んなことが目まぐるしく変わってきた中で唯一イケメン上司の存在だけは何も変わらず、そしてある日突然思いついて始めたブログにイケメン上司もたどり着くという超レアな奇跡が起こってくれた。
その奇跡はとてもありがたいけれど、欲望は天井知らずで私はもっと違うものを欲しいと思っている。
ブログで一方的に発信してイケメン上司も自分のタイミングで見て…という相互コミニュケーションとは言えない状態ではなく、おしゃべりするように同時進行的なコミュニケーションが取れるようになりたい。
今頃になって七夕当日に何も願い事をしてなかったことに気付いた。
今年はコミュニケーションを取れるようになることを願い事、個人的には実現可能な目標に仕立てたいところ。