2021年2月27日土曜日

夢の中で会いましょう




1週間前の土曜日(2/21)の明け方に見た夢だった。


すぐに書かないと忘れる!、と心配したけれど、それは杞憂に終わった。


もちろん、細かい描写は忘れたけれど、それでも夢の中で起きたことは覚えている。


普段の記憶力は全くあてにならないけれど、この夢の記憶力たるやすごい。


何で覚えているのかもわかる。


生身の自分が全神経を研ぎ澄ませて体で覚えたこととリンクするから。


細胞の記憶ってすごいなぁと改めて思った。







私は初めて見る建物の中にいた。


そこは寮とか宿泊研修所みたいなところで、数メートルの幅はありそうな廊下の両脇には個人の部屋と時々は温泉みたいな、それは見てすぐに「共有の大浴場」とわかるいでたちで、そうしたものが時々ひょっこり現れてはまた個人の部屋が続いていた。


かなり奥行きがあって、何十もの部屋といくつかの公共浴場を横目に見ながら、私の部屋はまだまだ奥なんだと思いながら歩き進めていた。


その途中のところなのか、勝手にシーンが切り替わったのかは覚えてないけれど、何年か前の職場の上司とその上司と仲良くしていたSさんがいて、なぜか3人で立ち話をしていた。


上司はそこに私がまるでいないみたいに、Sさんとばかり話していて、私は同じ空間にいるのに1人ぽつねんとしていた。


部外者然な私でたしかにその状況は全く歓迎できなかったけれども、それよりも「会えたこと」そのものが嬉しかった。


夢の中の私は、それが夢だと思わず、現実に起こっていることだと認識していた。


またしばらくすると、シーンが変わった。







上司は2泊から3泊用くらいの大きさのスーツケースをガラガラ引いて私の少し前を歩いていた。


普段から左手で引くのかどうかはわからないけれど、その時は左手で引いてた。


私は少し離れてはいたけれど、普通に細部が見えるくらいの近さではあった。


上司の左手の薬指には指輪があった。


結婚指輪だった。


あー、結婚したんだ、と思ったんだろうけれど、それよりも私の反応は「この手、上司の手じゃない」だった。


またしばらくするとシーンが変わっていて、同じ建物の中のどこか別のところにいた。


そこにはSさんはいなくて、周りに他の人たちもいるものの上司と私の2人でおしゃべりをしていた。


夢の中の2人は、普通におしゃべりできる仲になっていて、何の違和感もなく喋っていた。


「いつの間にこんな風に話せる仲になれたんだろう?」と若干私の頭は混乱しながらも、おしゃべりを続けた。


夢の中の私は、夢の中で動く自分しかいなかった。


その夢を観察者のように観察しているもう1人の自分はその時いなかった。


おしゃべりの時に私は結婚指輪のことに触れた。


本当にそれを聞けるくらいの仲で、ずいぶんとこれまでの現実とは違うなぁなんて思いながらも、そのまま上司の答えを待った。


「わざと付けてるんだよね」


上司は即答でそう答えた。


はぁー!?っと思ったけれども、そしてこれが普通に仲の良い男友達ならつっこんだけれども、私はつっこめなくて、そのまま引き下がった。


上司は結婚してないのに指輪だけ付けるという不思議なことをしていたけれど、変に女の人に近寄られても困るからそうしてるのかななんて思って終わった。







夢から目覚めた後、私の中に何よりも残ったのは、上司の手を見て上司の手じゃないと思ったことだった。


結婚指輪がはめられていたその手は少しゴツゴツとしていて武骨という言葉が合っているような手だった。


指も少しばかり短い感じがしたし、大きさはそこそこ大きいものの上司の手の大きさとは違っていた。


体や顔、背格好なんかは上司なんだけれども、手は違っていた。


そして頭が冴え渡って活動する時間帯に差しかかった時、より一層このことに対して私は驚いた。


上司の手を間近で見たのはたった一度、それも1メートルくらい離れていて、時間にして1分くらいだった。


そのたった1回のことを私は自分の細胞内に記憶するように記憶したんだと思った。


今思い出そうとしても輪郭しか思い出せないし、それよりもその時、普段1000%仕事の絡みのない上司と私とが近くになることができて、その超ラッキーな状況に喜びいさんでいた自分の心や近くになれたことの嬉しさや恥ずかしさやドキドキというようなことの方がより強く残って、だから手の細部の記憶は今はほんのりと残っている程度になった。


初めて上司の手を間近に見れて、しかも相手は資料を見ていたから私側は好きに見放題で、普段ならそんなことできないけれど、ガン見していても問題なかった。


だから私はその手を穴が開くほどに見て、この瞬間がもっともっと続いて欲しいと願ってしまったほどだった。


数ページの資料の確認なんてあっという間に終わって、上司がファイルを私に返してきて私のお楽しみ時間も終わってしまった。


そんな一瞬の出来事だったのに、その時に見た上司の手は今でもどこか深いところの記憶にきれいに残っているんだと思う。


手がそこにある、上司の手が目の前にある、というのはすごく不思議な感覚だった。


手の形は、本当に超好きなドストライクな形だったし、そしてそれよりも生きて今目の前に上司の手がある、ということの方が夢みたいで、その時の私は妙に「生きてるんだな」っていうような感覚が一番近かったと思う。


生きてるんだから当たり前のことかもしれなかったけれど、本当に命ある存在がきちんと目の前に何の疑いもなく存在してくれてることの尊さみたいなのを感じていたのかもしれない。


そんな風に、時間はずいぶんと経ったけれども、私の中ではすごく思い出深いワンシーンだったりする。


だからこそ、夢で見た結婚指輪のはまった左手を見た時に「上司の手じゃない」と思った。


それも「あれ?こんな手だっけ?」という感じではなく、「これ、絶対に上司の手じゃない!」って確信していた。


手にばかり気を取られていて、歩き方とか見ておけば良かったな〜なんて思った。


歩き方とかまとっている空気とかは、本当に全身全霊で集中して見ていたから、その素晴らしい記憶力がうまいこと作動して夢の中でも見れたように思う。


上司が歩いている時に放ってる空気が本当に素敵で、私はそれにもいつも見とれていた。


本当に透明のキラキラした空気が上司にはあって、それは私の頭の中の幻想とかではなくて、本当にそういう空気をまとっている人だった。


後にも先にもそんな人に会ったことないから、今でも上司のその空気感ははっきりと克明に覚えている。


あれこそが魂が為せる技なんじゃないかと今では思っているけれども、その上司は本当に特別で、そんな風に誰かのオーラ的なものや個人特有の空気感なんてその上司以外に見えた人なんか誰もいない。


だから私にはものすごくはっきりと見えていたけれども、他の人からも同じようにそれが見えるのかどうかは知らない。


イケメンオーラは普通に放っていたけれども(本人無自覚でも)、そういうこととは少し違っていた。


時間が経つ中で記憶は、悲しいかな、徐々に薄れていく。


徐々に薄れてしまうものもあれど、反対に時間がどんなに経っても鮮明に残るものもある。


上司の空気感はまさに後者で、あの目の中に飛び込んできた感触は今でもはっきりと覚えている。


夢は自分じゃ選べないから次いつ夢の中で会えるのかわからないけれど、次回は空気とかあのキラキラした感じとかに目を向ける余裕が欲しい。


現実はどうにもならなくても、夢の中ならなんだってありだし、なんだって許される。







この夢を見た日から6日が経過した。

(このブログは数回に分けて書いている。実際には1週間経過した。)


ずっとブログにしようと考えていたこともあってなのかもしれないけれど、私はこの夢について忘れることはなくずっと覚えていた。


この6日の間、モヤモヤすることがあって、それも4連休取って本来ならルンルンの時間なのに、その4日間さえもモヤモヤする始末なくらい、とても酷いモヤモヤ具合だった。


ちなみにモヤモヤは仕事の人間関係で、無責任な人たちがいるのはそれは個人の性格だから仕方ないことでも、その無責任な姿勢のことでその火の粉が私にもろに降りかかって、自分がどんなに正しくてやることはやっていても、それを全て「無」にしたりはたまた「(私を)責める」という凄ワザに出たりと、なんかイジメとは全く違うけれども地獄絵図みたいな様相を呈している。


まだしばらくはその地獄絵劇場に付き合うというか落とし前を付けなければいけないけれども(本当に嫌すぎるけれども、社内じゃなくて対外的なものだから放置していいものとは違う)、まぁとにかく悶々としてモヤモヤイライラ呆れあきらめと、確実に心が疲弊する事態になっている。(+体調不良も発生して、「無視してはダメ」サインも出続けている。)


その地獄絵図的な内容はこの話に全くふさわしくない、できれば抜かしたい内容ではあるけれど、私は意図的に入れている。


連休最終日、その夢を見て4日目あたりだったと思う。


地獄絵図的なものに対して、友人ノムが私に「私ができること」として、自分のオカルト体質のことを関係者にカミングアウトすることを提案してくれた。


冗談抜きで私が否が応でもそこに向き合うのは、向き合わないと自分の体の具合が本当に悪くなるからだし、会社のためでも何でもない。


地獄絵図のことと自分のオカルト体質のことを絡めて説明する、それをすることやその意味をノムはこれ以上ないくらいに丁寧に説明してくれた。


そんなこと、私の人生の中でも最初で最後の体験になると思う。


カミングアウトしないことよりも現状継続の方が明らかに超マイナスだから、私は折りを見て関係者全員にメールでカミングアウトしようと考えている。


そんなこんなの中ではたと気付いた。


精神的に負荷のかかり具合が半端ない、そういう時にその人が夢に出てきた。


夢の中の私は喜んでいて、なんなら夢から目が覚めて現実にその人は存在していない当たり前の日常に自分はいてガーン(T_T)となっていたけれども、それでもその人がそういうタイミングで夢に現れるんだと知ってジワジワと嬉しさがこみ上げてきた。


そんなの私の願望が見せた夢かもしれなくても、なんとも言えない絶妙なタイミングでそのようになっている。


そして、ここからは私が勝手に思ったことだけれども。


どうして結婚指輪だったのか。


結婚指輪の解釈を自分の頭の中で考えていた時に、1つ「約束」って出てきた。


そして今の私の現状で言えば、今あることは魂の契約で魂がこの世でこの体でこの人生でと決めてきたことの中に、自分自身との約束があるように思う。


これは完全に私個人の意見、それも何の根拠もない意見だけど、その人が夢に現れたということは「大丈夫」のサインなんだと思う。


山で行方不明になったおじいちゃんの居場所をペンジュラムで特定するなんていうすごいレベルとは違うけれども、別の意味で今の地獄絵図は身体にも心にも相当負荷がかかっている。


別の重たさを多分に含んでいて、正直本当に面倒でやりにくい。


だけど、逃げられる状況にはない。


向き合ってなんとかしない限りはどうにもならない現実になっている。


そうした時にまさかの夢へのご登壇で、なんだかんだと心の中に残っている。


私の中のお守りみたいにして残っている。


その人が私の夢に出てくるのは、その人の意志は1ミリも含まれていなくても、それでも夢に出てくるだけで価値があって尊い。


現実のその人と私とがどうこうなることはなくても、夢の中では会えて話せて、そしてささやかな幸せを感じて、力をもらえている。


力は現実の私に届けられる。


そんなことがあるのか?って話だけれど、本当にその人というのは私の中で生きて存在してくれてるだけでいい人、存在まるごとが私に多大な元気や力をくれる人になっている。


現実にもっとたくさん話せたら良かったけれども、何にも話せなくてもこれだけの影響力を数年単位で及ぼして私に力をくれてるわけだから、それこそがその人が私の人生に現れてくれた一番の理由なのかもしれない。


その人と出逢えたことを私は人生のご褒美だと思ったけれども、本当にその言葉の通りだなって今の方がより一層そう思う。


こんな風に私の中に存在まるごとあってそのことだけで癒されるなんて、そんな人他に誰もいない。


もう残りの人生でその人と同じ空間に一緒に立つことはなくても、私の中では生き続ける人なんだと思う。


ずっと存在して、今回みたいな人生の辛い時期や乗り越える課題なんかがある時に、夢の中でも他の形でもその人がひょっと出てきて力を貸してくれる、そんな風なのかもしれない。


会えないことを受け入れることはとても時間のかかる作業ではあるけれど、私は私なりに違う形で自分が受け入れられるものを工夫して今の状態になれたのかななんて思ったりもする。


人生の中で生きて会えた時間はとっても少なかったけれど、こんな風に心のお守り的な存在に生きているうちに逢えたことはとっても良かったし、人生で今のところ一番の出来事だったと感じている。


それくらいのインパクトを残した人だった。


三次元の日本という国の中では何ひとつ上手くない現実だけが私の人生には残ったけれど、そんなのは本当に自分以外の個人の選択だから仕方ないと思っている。


私は自分がこれから何歳になっても、すごいおばあちゃんになっても、夢の中にその人が現れる時はいつの時も私が会えていたその時のその人が出てくるんだと思う。


そんな風に記憶に残るのも粋なことな気がするし、それは少しだけ未来の楽しみみたいな要素もある。







すごく関係ないことだけれど、この間ちょっと思ったのと、今も思ったから、ここで書いてしまおう。


誕生日からの1年用の星読みをしたい、したいよりもなんかした方がいい、義務とかじゃなくて欲しいとか希望してるとか必要だとか、なんかそういう感じがある。


しても良ければ私は是非ともしたい。


「星読みください」とかコメントくれないかな?なんて思う。


この記事じゃなくていいから、適当な過去の記事にコメントがついたらいいのにって。


少なくとも、コメントがつくと私の方にはわかるようなシステムになっている。


ついたら星読みして、ブログにアップするのになぁって。


気が向いたらどうぞ〜(•̀-)( *ˊᵕˋ)

2021年2月23日火曜日

ネットショッピングに思うこと

とある絶版の占星術本

本の売主より届いた手書きの一筆箋

メルカリで一番感動した買物
まるでプレゼントみたいだった


メリカリを利用してからそろそろ半年になるかと思う。

私はもっぱら買う専門で売る方は何もしていない。


基本的に、占星術の絶版本や市場に出回っていない珍しい本を探しては買っている。


今自分の買物回数を見てきて、

・本13回

・オラクルカード3回(プレゼント含む)

・一点モノ小物入れ1回(妹たちとおそろい)

とわかった。


どの方も本当に気持ちの良いやりとりをさせてもらえただけじゃなく、中には何でその本を手放すことにしたのかを教えてもらえた人もいた。


引越しで断捨離をせざるを得なくてとか、洋書(占星術)で使いこなせそうにないから必要な人の元へとか、とにかく本を大切にしていた人たちから譲ってもらうのが9割占めている。


さっき、いつものように占星術の本を見てきた。


値段は1冊10万円を下回るくらいの、超高額設定にしていた。


元値は2750円。


値段をつけるのは個人の自由だし、それを私がしのごの言うのもおかしいとは思う。


なんだけど、その人にとっては、その本は「お金を運んでくれる価値」はあっても、中身に関しては価値がないんだろうと思った。


ちなみに、その本は私もずっと探している本の中の1冊で、それこそずっとチェックしているから相場がわかる。


10000円切ったら確実にポチろうの1冊になっている。


で、何が言いたいのかというと、例えばその本がその人の希望に沿った10万円みたいな値段で取引されたとして、そしてそのお金を手にして、その人は果たして本当にしあわせなんだろうか?ということ。


私は古書の世界は本当に知らないし、知っているのはヤフオクやAmazon出店の古書店の人、あとはネットで見かけて買えた個人の古書店の人たちばかりだけれど、私の元にやってきた本たちはどの本も「元の持ち主に大切にされてた」とわかるものばかりだった。


お手紙がついてきたり、丁重な薄い紙で本のカバーの大きさに合わせて紙カバーを付けられてきたり、よくよく見ると表紙が切れていてそれを全くわからない状態になるハイレベルでの修復が為されていたり。


とにかく「譲ってもらえて良かったー!」と感動盛りだくさんだったりする。


やりとり自体は、本とお金で、資本主義の原型そのものだけど、心をそこに込めてもらったことで受け取る側には温かい空気が流れてくる。


郵便物としてやってくるそれらの本には、それに触れただけで元気や心ある気持ちをもらえて、お値段以上ニトリじゃないけれどもそんな気持ちにさせてもらえる。


そのびっくらポンな値段で出品するのが悪いと言っているのじゃない。


なんだけど、人の心につけ込むようなことをして、果たしてその人はしあわせなんだろうか?というのは大きく疑問が残る。


人の価値観は人それぞれと知っていても、心がさもしいなぁと私は思ってしまう。

2021年2月19日金曜日

真夜中のボヤキタイム

と心の具合が悪くなったけれど、私の中で部長に今あるヤバい案件を伝えることにした。

密告に近い。


気になって、ヤバい案件(住所・電話番号不一致疑惑)を調べた。


絶句した。


この状態を見て、「今忙しい」とか「これをやるのは手間だから」という理由でスルーしていいこととは違った。


もはや何が合っていて何が間違えているのかは知らないけれど(本当に「全く違う」ものがいくつもあった)、とにかく絶対的にすぐに動かなければヤバい案件だというのはわかった。


もし動かないのであれば、少なくとも上層部も知っていて、その指示で「動かない」状況なら百歩譲ってありだけれど、今その状況を知っているのは私含めて表面上は3人。


私が愚痴れる子が1人いて、その子は知らないことになっている。


上層部は誰も知らない。


私以外の2人のうちの1人はこの件の第一発言者ではあるけれど、調整役や修正役ではないから、そのままでも仕方ない。


その人もまさか上に報告が上がってないなんて思ってないと思う。


愚痴った子にはその人からしれっと聞いてもらえばと言われたけれど、後々に変な傷をその人に与えることはしたくないからそこは避けたい。


内部密告みたいなものだから、そんなの他の人がリスクを取る必要はない。


最悪私は辞められるわけで、そしていつかは絶対に終わりがくるから、だからそういう後々の人間関係にもヒビを入れるようなものを他の人にお願いするのは、私個人は好きじゃない。


要は私のすぐ上の人が本来なら報告相談を上層部にしないといけないのにそれをしない。


この人はテコでも動かないから、下手するとこのまま何事もなかったかのように放置される可能性も相当高い。


そんなのはこれまでもそうだったし、今に始まったこととは違うけれども、今回ばかりは放置して良い内容とは違う。


他にもそうした案件がある。


それらも同様の流れに入っている。


要は止まっている。


その内容が重大な故障を起こす可能性のあるものから今回みたいな会社の信用問題に関わるものまで全て止まっている。


だから、それらが止まっている証拠の記録が全部あるから、私はそれらを持ってとりあえず「報告」だけしようと思う。


その後、部長なりさらに部長級以上の人たちでどういう判断になるのかを任せたい。


せめてそこが「大変だから放置でOK」とは絶対に言わないけれども、そういう判断で止める状態にしたい。


うやむやにする、その姿勢が本当に腹が立って仕方ないし、あと動かせばいいように全ての手筈を整えても放置されてるから(愚痴った子に1つのものをまんま見せて、何で止まっているのかわからないね、あそこまで準備してもらって止める理由がわからないと言われた)、とにかくすごい嫌な手段だけど、上に上げることに決めた。


本当は英語の師匠、Mr.ダンディを頼りたかったけれども、なんなら今も頼る手段は選択肢としてきちんとあるけれども、それは今回は避けたい。


Mr.ダンディに見せたのなら、絶対にすぐに物事は動くし、今社内でMr.ダンディに正論を突きつけられてそれに対して物を申すなんていう人は誰もいないし(独裁政治ではなく、本当にきちんとした内容と裏付けと説得力とで発言されるから、そんなの誰も文句なんて言えない)、なんなら今回の会社の信用系は超絶ヤバい案件だから、こんなの放置したらさらなる圧力にさらされるだけだから、誰も放置なんてしなくなる。


書いてて思った。


上手くいかなければ、最後はMr.ダンディを頼ったらいいと。


そうしよう。


とりあえずは諸々用意して部長に言うけれど、その後上手くなければMr.ダンディを頼ろう。


ちなみに部長に言う時に、こうした膠着してしまって止まる案件について、どうしたらいいかも聞こうと思う。


本来なら、止めてる人が部長に報告義務もあるし、その人がするべきことだというのも知っているし、そこを飛び越えて私が言うのを部長がよく思わないことも知っている。


英訳が絡むものは全てMr.ダンディが間に入って交渉してくれるからいいけれど、そうでないものは基本止めてる人が動かないことにはどうにもならない。


事なかれ主義で少しでも面倒なことは徹底的に回避する、責任を取らなくて済むようにその手立ては抜かりないから、やりにくい。


人としては好きだけれども(ここが本当に救いだと私は思っている。人は本当に良い人)、仕事を一緒にする、しかも交渉系はとことんアウトだから、そこはやりにくくて仕方ない。


そして今から少しでも寝ないと、日中眠くて仕方なくなるのが目に見えてるから寝よう。


あまりにも気疲れ+放置するなよサインと言わんばかりに体も不具合が出てるから、来週月曜日は休みを取って4連休にしようと計画している。


ただのんびりと家でゆっくりしたい。

2021年2月18日木曜日

しいたけ占いとモヤモヤな自分

しいたけ占い(←リンク飛びます)





自分でもどうしたものかわからない怒りと失望とで、1日モヤっとした。

事の発端は、仕事でのとあるやりとりだった。


元々は技術者の方から依頼された文書の修正だった。


ところが、その文書が上司が開けて確認したら、今回の指摘以外にも複数訂正箇所があることが発覚して、それも直さないといけなくなった。


直すことは確定しているものの、それの手間を取る時間がないと言って、上司はそれをとりあえず回避しようとした。


私に何とかできる範囲のことであれば私も手伝うけれど、今回のことは普段私のやってる仕事の範疇を超えていて、さらには単なる直しではなくて他部署とのやりとり+抜本的な改善を伴うもので、色々重たいものがついて回る。


ちなみに大元を辿ると、これは完全に上司なりそれを管理する側の落ち度で出てきたことだから、もしその事の初動時にちょっと手間を、それも1時間程度の手間を取れば、間違いなく今回の事態は100%防げたし、今さらになってこんなにこじれた問題にはならなかった。


人的ミスは仕方ない。


そんなのは誰にでもある。


だけど、そのミスを即座に直そうともしなければ、諸々の手間も嫌がり、さらに上には知らせず、そして元々最初の指摘と依頼をしてきた技術者の人に何も言わずにいようとして、それで私がそこで口を挟んだ。


すぐに直せないのは仕方ないにしても、その状況だとかある程度の見通しだとか、とにかく今時点で伝えられることがあるのに何も伝えないのはまずいこと、そして今回の件は私は本当に流れや社内プロセスを知らないから、つっこまれたところで答えられないから、2人で技術者の元を訪ねて説明しに行くことを提案した。


無視しようとするから、さすがに私はかなり厳しく「いくらなんでも、相手から依頼されていて、この件で2回3回と確認やらやりとりを私が間に入ってしていて(頼まれてやったこと)、なのに相手から聞かれたことに何も答えないというのはあまりにも不誠実すぎるから、それは何かしらきちんと言葉で伝えることが大事じゃないですか?このまま無視するわけにはいかないです」というようなことを言った。


上司も連絡だけ入れてくれることになって、そこには怪しげな口約束が書かれていて終わった。


何もしないよりはもちろんいい。


だけど、絶対におかしい。





上のところまで書いた後、寝た。


4時になる前に一度目覚めて、自分なりの気持ちの持っていき方をなんとなく選んでみた。


自分がやれることをやって、あとは状況がどう転じるかを見る。


何も転じなければ仕方ないし、これに対して不毛な怒りのエネルギーを使うのは自分が疲弊する。


気が済むまで怒るだけ怒ったら(多分まだ1人で怒る)、自分の範疇だけ心地よくなるように手入れをしようと思う。


そもそも自分のことではない、それがどうであろうと自分は困らないことに対して怒っている。


だから自分でもそんなにこだわってどうしたの?と思う。


でも、このことというよりも、一連のことで自分のために怒れるのは私しかいないから、私がひたすら自分のためにプンスカプンスカと怒るしかない(苦笑)


原因もわかる。


実はこの2ヶ月3ヶ月ほど、全部裏舞台側を整えてあとは始動させるだけのものを私の方でやって、そこから先は上司があとは発信して運用すればいいものをとことん全部止められている。


上司のところで全てストップしていて、どれもこれもストップさせてはまずいものなのに(私が言い出しっぺではなく、どれも他者から依頼のあったものたちで、実際に動かせるように整えたり準備したりしたものが)止まっている。


それがどれも本当にまずいものなのに止まっていて、それを今回はあからさまに避けようとするから、それで私は相当踏み込んでいった。


ちなみに、依頼者に提示された方法は、そのうち直すからそれ以外のところを今は見て終わりにして欲しいというものだった。


それを見て、私が思ったのは「直さないつもりじゃないかな」だった。


なぜなら、そこは普段誰もチェックしない。


依頼者は今回そこをわざわざ印刷して間違いを指摘してくれてそれで今変更しないといけない、というところまで来ているけれど、多分私の上はそこを上手にかわす気がする。


だから、私もそれに対していくつかやれることは根回し手回しはするけれど、最後はどうなるかわからない。


・感情や気持ち

・現実的な行動


この2つそれぞれを別物として私は自分のために何とかすることが大切だと今書いてて気付いた。


上司はどうにもならないから、私は自分が穏やかにいられる方法と実務的にやれるところまでやることを自分のためにやったらいい、今はそう思ってこれからもう少しだけ寝ようと思う。


ちなみに最後に今回のことが何かというと。


取説の巻末につく問合せ先一覧的なページがある。あそこの住所や電話が数ヶ所間違えていることが発覚して、それの対応を渋られている。


社内のしょうもない内部事情や個人の責任逃れしたい気持ちなんか関係なく、客先からすればそこを見て連絡する人がどれくらいいるのかはわからないけれど、連絡するイコール不具合があるわけで、ただでさえ不具合なのに問合せ先もでたらめで不具合、技術的な内容ならすぐに原因究明とはならなくても、住所とか電話とかたった1つまともに直せないというのは会社の信用問題に関わるわけで、そのままにするメリットなんか実際のところ何もない。


ただ目の前の面倒なことを超一時的に避けられるだけで、それを怠ることがものすごいデメリットを生み出すこととなるし、本当に経営に危機をもたらすだけじゃなくて、法的にも抵触してもおかしくない話だと思う。(ちなみにここまで書いて私も大丈夫かな?とは思っている。)


何で書いたかと言うと、こういうレベルのことを全てうやむやにされてることの2ヶ月3ヶ月だということ。


自分の怒りの正当性を言いたいのとは違うけれども、もはや派遣の立場でテコ入れできる範疇なんかとうに越えているし、本来なら私が口を出すのも触るのもおかしな内容満載だけど、そういうのが我が身に降りかかるというかお願いなんかしなくても勝手に持ち込まれてくるから、本当にそれらがくることは仕方ないにしてもそれらに付き合うだけの自分側の体や心を整えておかないと自分がグッタリする。


アップして寝よう。


そうしよう。


毎週月曜日にチェックする『しいたけ占い』でも怒りについて触れられていた!


心のお守り的に改めて読んだ。


しいたけ占い、本気ですごいなぁといつも思う。

2021年2月16日火曜日

ふ 3-11

職場の前のわりかし大きな通りに出る手前の交差点で信号待ちをしていた時のこと。

月曜日、週初め、もちろんテンションはとっても低い、やる気なし子。

(ちなみに曜日関係なく、やる気なし子。)


目の前の車が

「3ー11」

だった。


あら!


誕生日ナンバー!


ものすごく珍しいなぁなんて思って、何せ止まっているからナンバープレートも隅々までよく見える。


「ふ 3-11」


そうか、「ふ」なんだね〜。


「ふ 3」で「ふ み」になるから、あとは「こ」があれば「ふみこ」になるのになぁ〜。


残念ながら「こ」に当たる番号なんてなくて、「こ」なら何の数字かなぁ?なんて思ったら、「ここのつ」で「9」がいいかなぁなんて思った。


ふみこー239


うん???


239……


(°°)!!(°°)!!(°°)!!


えっ!?え、えーーーっ!?


うそ!?まじめに!?


あれ?なんで?


何の話なのか他の人には全くわからない話だと思うけれど、私としては今この瞬間ひっくり返りそうなくらいビックリした。


色々共通点がある、という情報を頼りに、私は一時期名前を分解してみたり、アルファベットで書いて見てみたり、まぁとにかく色々と調べて、自分ととある人とに共通点がないかを必死で探した。


何もなくて、「ないから、特にご縁もないんだろう」と結論づけた、正しくはそんな結論嫌だったけれど、現実にそうなんだからそれを受け入れるしかないと思った当時の自分のことを思い出した。


当時唯一見つけられたのは、その人の最後の漢字一文字が、武士俣の家の父方祖母の嫁入り前の旧姓の苗字と同じ漢字が使われていることだった。


本当のことではあったけれど、こじつけ感が多少なりとも滲み出ていて、そこがちょっと無理してるみたいでさみしいなぁなんて思ったりもした。


もっとわかりやすい何かがあったらいいのに、とあるから何ということはなくても、そんな小さな希望すら叶わなくてガッカリだった。


「ないよ、ない」ということをどうやっても受け入れられなくて、ないにも関わらず悶々としていた。


時間の経過と共に、そういうことは気にならなくなった。


もしそういう共時性があったとしてもそれはそれだし、ないからと言って全てがないわけじゃなく、自分が信じたいように感じたいように思っていたらいいんだと開き直ったら、なんてことなくなった。


だから、本当に今日の朝の誕生日ナンバープレートを見るまで、全く気付かずにいた。


239もそのままじゃなくてひねりが要る。


でも、それでも、過去最高の共通点みたいなものだった。


しかも名前。


自分側は名前というのがまた嬉しかった。


ちょっと遅れてやってきたバレンタインみたいだった。


そんなことを勝手に言われて相手側からすると気持ち悪いかもしれないけれど、私側の満足度はとっても高い。


しかも、自分の名前とひねりの要る239は、どちらも自らは選べない。


私が自分の名前を決めたわけじゃないし、相手も239を自ら志願してその数字なわけじゃない。


お互いに自分の力の及ばないところに共通点がある、時空が重なる、そのことがとても特別に感じる。






かなり余談だけど、週末静かにひっかかることが出てきた。


催眠療法的なワークショップを受けた時のこと。(これも今下書きを書いていて、いつかアップする予定)


催眠療法みたいなプロセスで、それはおそらく前世療法などと呼ばれているものにも通じるところがあるかと思うけれど、そこで私は決定的なことを1つ知ることとなった。


断定はできないけれども、多分これまでの数々の催眠療法を使った個人セッションなんかを思い出してもそうだから、多分そう。


私という人は、催眠療法的なものを受けても、基本何も見えない人だということ。


YouTubeなんかを見ると、前世療法のシーンなんかもアップされているから見るとわかるけれど、通常は何かが見えたりする模様。


自分がいる場所とか服とか人とか、そういうのが見えるようで、そのようなことを受ける側の人はセラピストに向かって「〇〇が見えます」とか言ったりする。


私はそれがない。


じゃあ何があるかというと、体の感覚のみがある。


体の感覚一本で、その時の状況や感覚を自分で知っていく。


この辺りの話はマニアックすぎるから、今はこれくらいにして、でもそのことで「あぁ……」となったことがある。


私は本気で人生のどこかのタイミングで前世療法を受けたいと思っていたし、今もその望みを継続して持ってはいる。


何で受けたいかって、私は前世療法の中でもいいから、その239の人物に会ってみたかった。


間違いなく相当強固な縁が過去の人生にはあったと思う。


現世ではもう頭のねじが1000本くらい入れ替わらないと、また再会するとかまたどこかでバッタリ会えるとかはないだろうと思う。


現世にはそんなに期待できないから、せめて前世療法ではその人と私とが何なのか見てみたい、本気でそう思っていた。


しかも、前世療法というのは自分が見たいものが見れると聞いて、ますます私はそれを受けてみたくなった。


一生に一度と思えば、それにたくさんのお金(諭吉数枚分)を出すことも全くいとわないくらいに、自分の中のタイミングを見て受けようとこれはもうかれこれ2年くらいはそんな風に思っていた。


その中では私はその人を見れる、その人に会えるんじゃないかと思っていた。


で、聞いた話では「目を見たらわかる」ということらしい。


催眠誘導のようなことをしてもらって、その先には本人がとあるシーンに行って、そこに行くと自分自身も登場人物も今とは違っているらしいけれど、少なくとも目を見たらそれが今生では自分の家族だったり縁の強い人たちが登場するらしい。


とにかく、キーポイントは「目」だった。


でもそれはすなわち「見る」「見える」ことが必要で、私にはそれができない。


そうだ!、過去に1人で前世療法もどきのことをしたことがあって、その時のブログを少し読んでみた。


見えないわけじゃないというのはわかって少しホッとしたけれど、やっぱり断トツで私の場合は「体の感覚」で何かを認知する傾向が強い。


週末に受けたワークショップの時に、主催者の方から私のその体感覚の傾向を伝えられた時に、「それはとても独特なものだから大事にした方がいい」みたいなことも言ってもらえた。


たしかに、他の受講者の方たちが何が見えたとか見えたものによる状況説明をしていた中で、私だけは体が熱いだの裸足だの寝そべっているのはおそらく砂浜の上だの、とにかく体の感覚だけを頼りにその時の状況を判断していた。


もちろん、その感覚を大事にしようと思った。


でも同時に、見れないんだなぁ、見たいなぁ……、見たい、見たい、見たいとなった。


言われてみれば、私は普段の夢の中でも誰が出てきても相手の表情や目はほとんど見えてない。


いつか姪っ子が夢に出てきた時、姪っ子の目をしっかりと見ている自分を見て、「今、すっごい目が合った」と思った。


そのシーンはもう忘れたけれど、その目が合ったということはすごく強く印象に残った。


印象に強く残ったのは、夢の中で誰かの目をじっと見るとか、目がガッツリ合うということが、私の場合は極端に少ないから、だからその姪っ子との瞬間が感覚として強く残った。


とかいうことなんかも思うと、前世療法でその人に会ってくるのは難しいかもしれないなぁと思った。


何をしたいとかもないし、前世療法を受けたからと言って何かが良くなるとかいう風にも思ってはいない。


もしくは受けたら現実も変わるなんて、1ミリも期待していない。


だから何?と聞かれたら本当に答えられない。


なんだけど、私はせめて前世療法などというイメージのような、見えない世界でその人に再会できるのなら再会したい、本当にそれだけだった。


今の日常の中でその人と私とが近くに住むとか、ごはん食べに行くとか、飲むとか、そんなのは一切ないし、個人の連絡先だって知らないから連絡の取りようもない。


現世的には何も繋がりはないし、今後もその人に何かしら地球が反対回りになるくらいの気持ちの変化とそれに伴う決断と行動力でも湧き上がらない限り、その人と私とが繋がることなんか絶対にないわけで、だからこそ私は自分が少しでも満足できるように前世療法などという何の根拠もないけれど、もしかしたらというものに賭けていた。


その前世療法も自分の体質的な傾向を知って、あまり期待できないんだなぁなんてなってガックシきてた。






というタイミングでの「ふみこ239」発見だった。


そんな風にして、シンクロする2人の間にあるものに気付いた。


現実の2人は何ひとつシンクロしていなくても、この共通項は私をとっても喜ばせた。