2016年8月29日月曜日

夏の終わり

夏の終わり

昨日の夜、地元の花火大会を数年振りに見た。

今、朝の強烈な太陽の光と鈴虫の鳴き声とのコラボの下書いている。

太陽は夏の太陽だけど、もう蝉は姿を消し鈴虫が台頭している。

体感温度は夏でも、そうした自然の変化を見て、季節の移り変わりを肌で感じる。

月初めは全国的に有名と謳われる花火大会も同じく数年振りに見た。

月初めの花火がこの数年で大きく発展していたのを見て、もしかしたら地元の花火も発展したかと思いきや、地元の花火は昔子供の頃に見てるのと何ら変わりはなかった。

最後のスターマインだけが気持ち豪華さを増したように思う。

スターマインを見て、夏が終わることの合図みたいに感じた。


その前の夜、母方の実家に叔母と行ってきた。

別の遠方に住む叔母といとことその小さな2人の娘も来るということで、誘われて行ってきた。

祖母がまだ生きていた頃には存在すらしていなかった小さな2人の命と共に、お墓参りをした。

いとこの教育の賜物で、3歳と1歳の2人は、ナムナムナムと言いながら墓の前で手を合わせていた。

夜は一緒に訪ねた叔母と布団を並べて寝た。

眠たかったはずなのに、友達とのお泊まり会のように会話は絶えなかった。

大した話じゃない。

でも気付けば、生まれてこの方叔母と布団を並べて寝たことがない。

何がどうということもなかったけれど、子供の頃に母の実家を訪ねていた頃のような楽しさがあった。

世代も交代し、そしてまた新たな世代も誕生してさらなる世代交代を目前にしている。

昔の大家族のような面影は失われている。

田舎の大きな屋敷は近代的にリフォームされ、随分と便利な家に生まれ変わった。

だけど、叔母達やいとこといると、どこか昔の空気を携えたまま、体も心もすっかり大人になった私も昔のどこかにタイムスリップしたような気持ちになる。

その大きな屋敷には、他にも何人かの大人がいた。

でも大人になった今も子供の時みたいに話のできる、または沈黙してることさえも忘れられる間柄は、やっぱり子供の頃に積み重ねたものが土台になっている。


今年の夏も終わる。

大人になり自分の生き方そのものが言葉では説明しにくいものになってからというもの、昔気質の大人に会うことに心の中で強く抵抗を覚えるようになった。

色々聞かれたりしても、相手の期待するような返事などまずできない。

適当に誤魔化すけれど、いつも後味が悪い。

でも、叔母達もいとこもそうではなかった。

本当に久しぶりに、私が私であることだけで関係が成立するという場に居合わせた。

背伸びも言い訳も取り繕いも不要で、聞かれたら聞かれたまま答えれば良かった。

それにストレートに突っ込まれても不快感はゼロで、むしろ居心地の良ささえあった。

叔母達といとことの時間は、夏の終わりにやってきた飛びっきりのプレゼントみたいだった。

また今日からそれぞれの日常に戻るけれど、大切な何かを満たしてもらったような感覚だけが週末前とは異なっている。