2019年5月31日金曜日

令和初デート【前編】






[写真たち]
令和初デートのカフェ
コースターがCDで、ふと見たら
「WHAT NOW MY LOVE」
だった件(o´艸`)



「ぶしまたさん、今度東京に来る時お茶しませんか?」

その一言で実現した令和初デート。

日が暮れる前から銀座の一画にあるカフェに行った。

私はその時適当に場所を決めるのだとばかり思っていたら、Kさんから
「僕行きたいお店があるんです。そこでもいいですか?」
私は2つ返事で「はい」と答えた。

Kさんのこだわりで、Kさんはオシャレなガラケーを使っている。

ぱっと見ガラケーと言うよりも、PHSみたいな大きさの元気なきみどり色のビタミンカラーの携帯電話。

ネットで必要な情報は、自宅でパソコンやiPadで用を足しているとのことだった。

今回行きたいお店は、「アナログなんだけど写真撮ってきたんだよね」と言いながら、リュックの中からデジカメを取り出して、地図を見せてくれた。

「画像が粗くて見えにくいね」と言っていたけれども、私と会う前に下調べをしてくれていたことと、場所を特定するために地図をデジカメに収めて来てくれたこと、それが本当に嬉しくて、それだけで今日のお誘いは心満たされたようなものだった。

そんなのはまだまだ序の口で、分かれる直前までKさんの心からのおもてなしは凄かった。

一時期「干物女」などという言葉が流行ったけれど、干物女の心の栄養にはこれ以上ないぐらいの憎い演出だった。

デジカメの中の地図は見にくいから、私のiPhoneで地図を出してそれを見て行った。

地図が読めないからKさんにiPhoneを渡すと「僕も地図読み込むの苦手なんだよね」と苦笑いしながら言ってた。

Kさんは自分を盛らずにそのまま自分を見せることができる人だった。

それだけで居心地の良い空気が流れて、ただ目的地に向かって地図の読めない2人が歩くだけでも特別な時間のようになった。

「一度だけ行ったことがあって、そこ雰囲気がすごく良くてまた行きたいなぁと思った場所なんだよね」

Kさんはそう教えてくれた。

古い建物で、階段もかなり急で、そしてエレベーターはなくひたすら階段で最上階の5階に上がった。

着いてビックリした。

天空の庭園的な感じで、店内の半分は吹き抜けで空が見えていて、その箱の大きさに見合った鉢植えの本物の木がとても良い感じだった。

銀座ではなく、どこか別の空間に移動したみたいだった。

席は8時から予約が入っているから、7時半までならいいという条件で、その緑のある庭園側の席に案内してもらった。

店自体はコンビニの半分くらいしかなくて、庭園側は3つの丸テーブルに8人が座ったらいっぱいになるぐらいだった。

料理もフランスの家庭料理的な煮込みやクラムチャウダーとにゅうめんを合わせるという多国籍な感じのもので、とてもおいしそうだった。

気になったけれども、直前までアプリコットのタルトのケーキセットを食べた私は飲み物だけにした。

「Kさん、私は新潟に着いたら車運転しなきゃだから飲めないけれど、Kさんは飲みたかったら飲んでね」

Kさんはありがとうと言いながらも、Kさんも頼んだのはノンアルのトマトジュースだった。

私に合わせてくれたのか、それとも単にトマトジュースが飲みたかったのかはわからないけれど、あえてノンアルで乾杯できることが嬉しかった。

お酒の力抜きで、しらふで色んな話ができることへの期待感みたいなのが高まった。

注文したそれぞれの飲み物が運ばれて来た時、コースターがCDでこれまたとてもオシャレだった。

2人きりで会うのは初めてだったけれども、話題は探さなくてもいくらでも出てきた。

しかも、話の途中でペンジュラムも登場させて、「合ってるかどうかはわからないけれど、私それ多分ペンジュラムで答え出せるよ」と言って、私はKさんの長いこと知れなかったことに対して、ペンジュラムを使ってそのことを特定した。

Kさんは喜んでその答えを受け取って、ノートを出してささっとメモをした。

家に帰って調べてみる!本当に楽しみ!とルンルンに喜んでいた。

私がペンジュラムを使うことも、それが何だということも全く気にならないどころか、興味さえ持ってくれて、それもまた気持ちが安らぐポイントだった。

「そうだ、大事なのを忘れてた!」

そう言って、Kさんはリュックをガサゴソとして1枚の絵を見せてくれた。

その絵は、Kさんが私のブログのある記事を読んで、それで自分の中から出てきたものを表現したものだった。

その話を聞いて、私が現物を見たいと言ったら、わざわざ持ってきてくれたものだった。

画像で見ると実物とだいぶ違うという前評判通り、実物は全く違うものだった。

どの話とリンクしている絵なのかを知っているから、その話とKさんの絵との間の繋がりを感じた。

言葉にはできない感動があった。

私のところに集まったストーリーを私は言葉に起こしたに過ぎなかった。

創作したものではなく、本当に淡々とドキュメンタリーのごとく、あったことを書き連ねた文章だった。

それを読んで何か心の中に沸き起こるものをKさんは絵で表してくれた。

そしてその絵が今私の目の前に登場した。

それぞれ時差があるのに、見えないところで繋がっていて、その見えないものたちからもきちんと自分たちが生きている世界に存在してるんだよ、とアピールされてるみたいで、何とも言えない気持ちになった。

途中から雨が降って、頭上は空の私たちの席はどうなるのかと思ったら、イケメンな店員さんが手動でテントのような屋根をグルグルと回して出してくれた。

突然屋根が出てきてビックリして振り返ったら、イケメンなお兄さんの笑顔とかち合って、雨のおかげですごい得した気分になった。

色んな話をして時間がまだまだ足りなくて、でもお店の人からそろそろお時間ですと言われて、とりあえず会計して出ることにした。

会計が終わると「ちょっとトイレ行ってくるから」とKさんは言って、私がその場に立っていると、「あ、座って待ってて」と言う。

こういうさりげない一言をさらりと言えるKさんの気遣いが光ってた。

気付かなければそのままなのに、そういう細かいことにさっと気付けるその感性にほれぼれとした。

Kさんが戻ってきて店を出る時、出口が狭い場所で2人同時に出ることができなくて、その時も「どうぞ」と先に私を通してくれた。

こういう気遣いをさりげなくできる人っていいなぁといつも思う。

外に出ると、ポツポツと雨が当たった。

「雨降ってきちゃったね。傘とかある?」

私は折りたたみ持っているから大丈夫と答えた。

Kさんはフード付きのデザイントレーナーを着て、自分の頭にフードをかぶせた。

私はKさんならわかってくれそうな気がする、と思って正直に言った。

「私普段から少しぐらいの雨なら傘ささないんだよね」

Kさんは、そうなんだと返事して、それを特別視することも蔑視することもなく、もちろん「風邪引くよ」みたいな注意をすることもなく、その話に2つ3つ言葉を付け足してくれた。

私のままでいいんだなぁというのがとても居心地良かった。

私にとって、雨に濡れるより濡れた折りたたみ傘を扱うことの方がストレスで、少しぐらいなら濡れたって構わない。

そこまでは説明しなかったけれど、色んな考え方や価値観がある、ということをとても素直に受け入れるKさんは本当に凄かった。

歩きながら次の適当な店を探したけれど、雨脚はどんどん強くなっていった。

さすがにずぶ濡れになるとわかって、私は折りたたみ傘を渋々出した。

「もっと濡れそうだから傘差すことにした」と言うと、Kさんも「そうだよね、このぐらいになったら差した方がいいよね」と返してくれた。

あ、うんの呼吸が気持ち良い人だと感じた。

「Kさんは大丈夫?」と聞くと、「2人で傘入っちゃったら2人とももっと濡れちゃうから大丈夫だよ」と返ってきた。

Kさんとの細かなやりとりの1つ1つが私の中ではツボだった。

傘ではないけれど、何か他の場面でも私はこういう変更がよくある。

要はストレスの方向性が一方からもう一方に比重が変わることで、自分の行動も変わってくる。

そういうことがわからない人たちがたまにいるけれど、その変わったことに対して、揶揄したり面白おかしくからかってくる人というのがいる。

愛あるからかいなら全然受け止められるし一緒に笑うけれど、そうじゃない、明らかに悪意みたいなのしかない人たちももちろんいる。

そうして言葉にわざわざするようなことではないけれど、けっこう自分にとっては大事な感覚の部分、それを言葉にしなくてもさらっと受け止めてもらったり、それ自分もわかるかもと言ってもらったりする、その安心感はとても大きい。

そういうところが似ていたりわかる感じだったりすると、長く付き合える気がする。

パートナーシップということだけじゃなくて、友達や他の近しい関係にしても。

しばらく雨の銀座の街を歩いたけれど、適当なカフェや喫茶店が見つからなかった。

そこでiPhoneのマップで探すことにした。

ごく近くにドトールがあるとわかって、そこに行くことにした。

2人でまた読めない地図を見ながら、実は30メートルもしないぐらいの近場にドトールがあると気付いた。

店構えを見て「銀座だとドトールさえも違うんだね」などと言いながら中に入った。

(ちなみに値段も銀座価格( ̄∀ ̄))

そこではさらに加熱して深い話を色々とした。

Kさんがここ最近出くわした、「今すぐここから帰りたくてたまらなくなった」という会合の話をしてくれた。

別メンバーで2回あって、どちらも共通していたのは、せっかく集っているのに話すことは「どこのお店がおいしかった」だのということや、同業種としての仕事の話や、共通の知り合いの話で、「本当につまらなくて、そこにいることさえ苦痛になった」と言った。

人と深くなれるかどうかって「履歴」じゃないんだよね、何回会っても全然深まらない人もいれば、たった一度きりの出会いなのに一生忘れないぐらいの時間になる人もいる。

そんな風にKさんは言葉を続けた。

私はその話がよーくわかった。

私は流行には疎いし、世の中の流行り物にも興味がない。

今日はすごい素敵な庭園カフェでお茶できたのは本当に嬉しかったけれども、それよりも私には色んな話をKさんとできたことの方が大事だった。

どこで食べるとかどこで会うとかは私にとっては何でも良くて、それよりも目の前の人とどんな時間を共有できたとか、どんな話ができたとか、どういう空気感だったとか、そういうことの方が大事だと言った。

Kさんは「それ、すっごいわかる!」と言って、KさんもKさんが普段大事にしている人との時間における重要ポイントを教えてくれた。

Kさんはなるべく人と会う時は、表面的な話ではなくて、少しでも深い領域に潜るような話ができるといいなぁと思って、それを試みてると言っていた。

手応えを感じないこともあるけれど、それがうまくいく時は本当に嬉しいと言っていた。

Kさんも私も話はコロコロ変わる。

先に私の方から、私の話はコロコロ変わりやすいから大丈夫かどうかを聞いた。

Kさんは「僕もそうだから大丈夫!」と笑顔で返してくれ、さらには「こういうこと言われると本当に嫌だよね!」という言葉を一言言った。

具体的な言葉を忘れたけれども、もうその言葉を聞いた瞬間「私もそれすごいわかる!」と即答した。

自分も言われて毎回嫌な言葉で(なのにここですぐには出てこない私の記憶力よ…)、Kさんも私もその時その時に出てきたことを口にして語るのが好きで、だから話がコロコロ変わろうが思いっきり話題が飛ぼうが全く気にならなかった。

時間が終盤に差し掛かる頃、そうだ!と思い出して、Kさんにやりたいことがあると言って1つ提案した。

私が最近見つけたペンジュラムと占星術を組み合わせてヒントを得るやり方で、それを試させて欲しいと言った。
(この話は長くなるから、今回は割愛。【後編】を書く予定でいるからそっちに書こうと思う)

「僕も1つあるんだよね」と言って、リュックから白とショッキングピンクまでいかなくてもかなり濃い艶やかなピンク色の2色で作られた帽子みたいなのを出してきた。

見たこともない代物で、何が出てくるのかワクワクした。

Kさんは「この中にカードがあって、それで色んなことをカードのキーワードから読み解くんだよね」と言って、中から白と濃い艶やかなピンクのカードを取り出した。

前はカードを出して引いていたけれども、それだと決まりきったスタイルでいまいち面白みがないから、こういう袋に入れておみくじスタイルで引く方が面白いかなと思って…と説明してくれた。

見本を見せてくれた。

「例えば、今日の状態を見てみようか…」と言いながら2枚引いたら、
・セックス
・安全
と出た。

私は吹き出しながら、「これって“安全なセックス”ってこと?」と聞いた。

Kさんはどう読み解くかは本当に自由なんだけどね、と前置きした上で、こんな風にKさんの読み解きを教えてくれた。

「まさに今2人でしてることを象徴していると思うんだよね。
セックスってさ要は自分をさらけ出すことでしょう。それも裸の自分を。そしてセックスってコミュニケーションだよね。セックスって蠍座的で、相手と一体化する、融合する、そういうイメージだよね。
今、お互いに安心して自分たちをさらけ出してる、安全だと感じながら自分たちを見せ合ってる、大切なものを交わしてる。
まさにこの時間そのものだよね」

深い話だなぁとしみじみしながらKさんの話を聞いた。

耳じゃなくて心で聞いてた。

私もカードを引かせてもらって、そこはさすがに「セックス」は出てこず、「平和・安全・忠誠」の3枚が出た。

この話も長くなるから後編へ。

最後の方、自分のリュックの中から何かを出そうとした時、家からわざわざ持ってきたドイツ製の鉛筆1ダースが入った箱が目に入った。

それを見て突然思い出した。

「Kさん、鉛筆使います?」

「いっぱいは使わないけれど、少しは使うよ」

「これ、私3年前にあるエッセイコンテストで賞をもらって、その時の景品としてもらったもので。で、今回たまたまそれを見つけて、そうだ、Kさんにあげようと思って持ってきたもので、良かったらもらってください」

そう言って3本出して手渡した。

するとKさんも自分のリュックを開けて、庭園カフェで見せてくれた絵を出した。

「これ、ぶしまたさんにあげる」

「えっ、いいの?」

「うん。
これは本来の持ち主のところにいるべき絵だと思うから、ぶしまたさんのところにいるのが正解だと思う」

そう言って、2枚の絵をプレゼントしてくれた。

予想もしていなかったことではあったけれど、とても嬉しかった。

しかももっと言うと、iPhoneの画面越しに初めて絵の写真を見た時から、その絵が欲しいとひっそりと思っていた。

でも大事な作品だから、その思いはそっと自分の中だけにしまっておいた。

まさか本当に自分のものになるなんて思ってもいなくて、夢みたいだった。

Kさんに「サインして欲しい」とお願いした。

さっき渡したばかりの鉛筆はすでに削られていて、その鉛筆でKさんは可愛らしいサインをしてくれた。

さらにタイトルも付けてくれた。

タイトルに、私のブログの中で使ったタイトルをそのまま付けてくれた。

その絵を一生大事にする、すぐに心に決めた。

あっという間に時間になって、私は帰りのバスのバス乗り場に向かわないといけなくなった。

Kさんの家は東京駅とは真逆の方向だから、そこで分かれるつもりでいた。

ところが外に出ると「僕も東京駅まで一緒に行って、東京駅から帰るよ」と言って、一緒に歩いてくれることになった。

場所が変わっても2人の話に話題が尽きることはなかった。

途中で、道が怪しいと思ってiPhoneのマップを開いた。

もれなく読めなくて、同じく苦手と言っていたKさんに読んでもらって、方向を特定した。

出発時間15分前を切っていて、Kさんに早歩きしてもらってもいいですか?と聞いて、もちろん!と返事をもらって、それで2人で早歩きしながらバス乗り場に向かった。

何とか無事に着いて、Kさんに東京駅の行き方を教えて、角の交差点で分かれた。

2人で、本当に楽しかったー!ありがとうー!と言いながら、ブンブンお互いに激しく手を振って分かれた。



ーーー【後編】に続く〜

後編では、Kさんとやりとりしたペンジュラムやカードの話、そして私から見たKさんと私の本当の関係について触れる予定。

2019年5月30日木曜日

迷子の理由



お昼前まで東京駅近くの丸善でたっぷりと本読みをしていた。

占星術の本がとても充実していて、時間は全く足りなかった。

ある時調べ物をして知った、昔むかしに刊行された本があった。

その本がたまたま置かれていて、それをむさぼるように読んだ。

定価を見たら五千円札を出してお釣りがくるぐらいで、絶対に買わないとわかって、それにたまたま立ち合えて良かったと大満足した。

内容が良ければ買いたいけれど、全部読むほどに価値は感じられなかったから、必要なところだけ読めたのはとても良かった。

店を出て次の目的地へと向かった。

こんなことも予想して、事前にお昼は用意しておいた。

どこか適当な公園とか、他の人たちも食べてるスポットがあるのはなんとなく目に入って知っていたから、それで自分もそうするつもりでいた。

東京駅の近くにそういう場所があったけれども、ペンジュラムがここじゃないと言うから、もっと良い場所があるんだろうと思って通り過ぎた。

次なる目的地は、銀座のItoyaと呼ばれるビル一棟丸ごと文房具屋になっているところだった。

人に贈り物をするにあたって必要なペーパーとシールを探すために行った。

今回で8回目となる銀座での占星術の講座。

iPhoneのマップだと迷子になる率が高いから、ある時からペンジュラムをポケットに忍ばせておいて、ペンジュラムにナビをしてもらっている。

講座前に立ち寄る場所が毎回違うから、当然そこから講座の会場に向かう道も違う。

東京駅周辺から銀座まで大してごちゃごちゃしていないはずなのに、私の迷子率は毎回ほぼ100%を誇る有り様だった。

そして、ある時にペンジュラムの方が私の地図読解力よりもうんと優れているとわかって、それからはペンジュラムを頼りに出かけている。

Itoyaとお昼食べる場所の2つを探しながら銀座へと向かった。

ペンジュラムいわく、Itoyaが先とのことで、Itoyaにまずは向かった。

ある大通りの手前まで来た時、私の中で「万が一間違えていたらやばいからiPhoneで確認しよう」と思った。

なんか越えてはいけない道路のような気がしたのと、いつかも迷子になって確認した場所と同じところに辿り着いたから、確認した方がいいなと思った。

ちょうど名古屋に本店がある味噌カツの店『矢場とん』があるところで、矢場とんの特徴的な看板を見た時に「ヤバイかも」と思った。

ちなみに、東京になるとiPhoneでの地図が読めなくなる明確な理由がある。

例えば『矢場とん』が入っている建物も、地図に表示されるのは、ビル名だったりする。

1階部分の店舗名がそのまま地図に出るわけじゃないから、本当に方角が全くわからなくなる。

で、今回も遠くまで見渡して目印になりそうな建物名やこの近くで見たものを頭に入れて地図を見たら、Itoyaは通り過ぎてた。

えっΣ(꒪◊꒪; )))) !!

ペンジュラムはまだ曲がらないと言ってたのに…と思いながら、時間も押してきているから、とりあえず元来た道を戻った。

そこはペンジュラムさえ指示してくれたなら、いくらでも曲がって入れるところにあった。

なのにペンジュラムは「まだだよ」としれっと言ってた。

「何でペンジュラム間違えた?」と思いながら、とにかく急がないと時間がないとわかって足元を早めた。

Itoyaに着いたら着いたで、探し物はまさかの7階か8階で、それも思わぬ誤算だった。

しかもお目当てのものは見つからず、何しに行ってきたのやら…と思いながらも、早く移動しないと講座に遅刻するぐらいの時間に迫っていた。

で、色んな誤算があって、「ごはんどうしよう?」と思った。

建物しかない地帯に入っているから、公園はない。

あっても探すのと移動するのとが手間になる。

そこで、「デパ地下」に注目した。

店内で買ってないものを食べる心苦しさはあったけれど、背に腹は代えられない状況で、銀座の街中で適当に食べる方が見苦しく、デパ地下なら適当に紛れてわからないだろうと踏んだ。

それで地図を見て近くに三越があるとわかって行った。

三越に着いてフラフラ、フラフラと探した。

場所は見つけられず、時間があればゆっくりとデパ地下散策もしたいところだったけれど、時間は迫ってる。

見つけられないのは仕方ないから、次に行こうと今度はエスカレーター探しをした。

その時だった。

目の前に見慣れた制服を着た男性が歩いて私のいる方に向かってきた。

「まさか」と思った。

ここ三越のデパ地下だよ、こんなところにこの制服を着た男性が今私の目の前にいるとかってある??、ありえないでしょ!と思った。

私はガン見した。

左胸のポケットの上に付いている会社のロゴマークを見た。

ビンゴだった。

あの見慣れた制服だった。

そのおじさんが何でそんなところにいたのかは知らない。

ちなみにこれはその制服を着用してる30代男性のいつかの言葉だけど。

「この格好(制服)でワタナベさん、オシャレなカフェとかに昼行こうって言うんすよね。俺はっきり言って、この格好でカフェとか行くの恥ずかしくてたまらねーんすけど」

田舎のオシャレカフェさえもハードル高い制服が、銀座三越のデパ地下に出没なんて、すごい考えにくいことだった。

現場仕事だったのかもしれないけれど、でも1人だけだったからもしかしたら何かしらデパ地下で調達しに来たのかもしれない。

理由は何にしても、こんなところですれ違うなんて考えられない制服だった。

すれ違ったのはほんの一瞬のことで、私は呆然とした。

その時に、ペンジュラムがわざと間違えたんだろうと思った。

その制服を見るためと言っては変な話だけど、制服というよりもそれ以上に私には意味のあるものだから、それを見るための色んな伏線だったのかもしれない…と思った。

とりあえず三越で場所を見つけられなかった私は、次なる場所を求めて移動した。

何に入ったのかはわからないけれど、ここならありそう!というビルの中に入った。

ビンゴで、そこは買ったものを食べれるオープンスペースのようなところがあった。

そこでささっと食べて、あとは歯磨きしたり身支度をパッと整えて行こう!と思って、トイレを探した。

高級感たっぷりなそこのデパ地下には、これまた色んなお店が入っていた。

時間ないのが悔やまれて仕方なかったけれど、もたもたもしていられなくて、とりあえずトイレ探しをした。

地下なのに天井がやたらと高い建物で看板もすごい上にあって見上げる感じだったけれど、ふとトイレの表示がある看板のすぐ横のお店の店名が目に入った。

不器用な人の下の名前がひらがなで書かれていた。

制服も驚いたけれど、この名前も驚いた。

本当は雨も上がって青空も広がりつつあったから外で食べたかった。

だけど、ペンジュラムはそこは違うと言ったり、道を誤案内したりして、さらにはお目当てのものはItoyaになくて、一体全体何なのかと思っていた。

ちなみにItoyaでは以前同じものを買ったことがあったから、今日も在庫があると思って行った。

それがまさかなくて、でも行く前もペンジュラムはItoyaは行くにYESを出し続けた。

他の行きたい場所にはNOだったのに、Itoyaは最初からYESだった。

時間が押してても、道を間違えて通り過ぎた時でさえもYESだった。

しかも今回は、どこかに入って食べるのではなく、時間が読めないからささっと食べることが最初から頭にあった。

だからそれを広げて食べる場所を探す、というこれまでとは違う動きも入った。

そうした諸々が重なったことで、制服や名前を見ることになった。

まさかの展開だったけれども、いつも使う水晶ではない、ラリマールのペンジュラムも同じように私に何かを見せるために色々時間調整や誤案内をしてくれるんだなぁとわかって嬉しかった。

条件が1つでもズレたり、時間が1秒でもズレたりしないように、絶妙なタイミングと機会を見計らって、完璧な何かを私に見せてくれる。

色々と私的には大丈夫ではないけれども、「大丈夫」と言われてるみたいだった。

私が見ている表面的なことではなく、見えないところでは色々大丈夫なんだからね、っていうメッセージのようにも思えた。

迷子になるのは全く楽しくない、むしろ手間暇が余計とかかることだけれど、迷子にならなきゃ出会うことのない景色やメッセージがある。

朝、東京駅のスタバの中で打ち込んだブログと、その後迷子になったことで見えた景色とが重なった。

もしかしたら、何でもいいから繋がりを切に望んでいる私の念が、こんな風にヘンテコな形で叶って、それにより見ることになったメッセージなのかもしれない。

実は何一つ関係なくて、偶然の産物に過ぎないのかもしれない。

でも、私には迷子になって見えたこの景色が、とても特別だった。

2年前から変わらないなぁと思った。

私はいつもどこか不安で、自分の選択にも自信がなくて、これでいいんだろうか?とか、なんか間違ってる気がするとか、まぁ年がら年中そういう思考がしょっちゅう働くけれど。

その中で、今回みたいなことだけは、もう「絶対的」と言わんばかりに1秒の狂いもないタイミングで色んなことが起こる。

どんなにありえないことでも、これだけは絶対に間違いないんだらからね!と言わんばかりに、私に「これだよ!」というものを見せてくれる。

それは2年前も今も変わらない。

絶対のタイミングは、あの当時も今も変わらない。

それを知らせてもらえた感じで、私は遅れそうになりながらも、このボタンの掛け違いのようなことの先にやってきたメッセージたちに救われてた。




写真は、銀座の素敵なカフェでのケーキセット。

私が注文したのは、アプリコットのタルト。

クリームのところの赤い点がハートになっていて可愛かった!

占星術の講座の後、いつも近くのカフェに移動して、先生を囲んだ「カフェタイム」という名の質問タイムが催される。

こんな素敵なカフェ+ケーキセットで占星術の勉強、毎回テンション上がりまくる♪٩((*⁰▿⁰*))۶♪

その時の写真。

ちなみにその時に、先生から1年前に言われた「カルマ的な膿出し」の見方を教えてもらって、それが去年1年だけではなく、これからもしばらく何年間という長期スパン(今年来年あたりはMAX( ̄ཀ ̄;;))に渡ってと知って、撃沈した。

色々具合が悪くなるのも納得。

メンタル的な落ち込み加減や謎の孤独感もそのトリガーとなる理由を色々教えてもらったから、それはまた後日アップしたいと思う。

2019年5月29日水曜日

東京の空模様

家を出た時、雨は本降り、なんなら数日続いた30数度の猛暑日が嘘のように寒い。

よりによって今どうして…?

という中での半年ぶりの東京行き。

1年前は、行く途中で野うさぎを初めて見て、それからもおしり部分がモフモフしたサギみたいな鳥とか、真夜中にゴミ拾いする人とか、とにかく普段見ることのないものを毎回見ていた。

5月から11月まで全7回、一度も裏切ることなく、メッセージ性の高いものを見ていた。

今回は何があるかな…と思って楽しみにしていたら何もなく、着いたらざあざあ降りの雨だけだった。

車を出る前に自分のブログを見た。

それを見て、何とも言えない気持ちが胸に込み上げてきた。

息が止まって、代わりに涙が出た。

今回道中で何も見なかった理由が、そこにある気がした。

それにだけ集中できるように。

2年前の仕事の時みたいだった。

当時の私は、1日ほとんど喋らないという仕事に初めて就いた。

これまで常に人相手の仕事ばかりで、喋らないなんてことはほとんどなかった。

短期のバイトとかは別にしても、ある程度長期でするものは、どんなに喋らなくても勤務時間の半分以上は喋るようになっていた。

だから朝から晩までほとんど喋らないというその仕事に最初とても戸惑った。

平気で10社以上不採用を食らう人が、その時はものすごい速さで決まった。

私の中で仕事に適性も職務歴もないのにその速さで決まるというのは、異例で異常なことだった。

直前まで、私という人間のあらゆる専門性を発揮する仕事を任されていて、そちらを強制的に終了させられても行った仕事で、「何のために行くんだろう?」とは思っていた。

いざ行くと、そこにいる理由は仕事内容ではないことがわかった。

ましてや「喋らない」という、私からすると特殊な環境に身を置く…。

最初の1ヶ月ぐらいはその環境にも慣れないし、何で私はここにいるんだろう?と来る日も来る日も疑問に思っていた。

ある時から、その理由がはっきりとわかった。

全ての情報を遮断してでも絶対に気付いてもらわなければいけない、そういうものがあった。

喋る=対人系の仕事は、全神経を目の前の人や自分たちを取り巻く状況を察知・感知するのに使われる。

そうなると、自分の心の中をありありと見つめてる場合じゃない。

自分の心の機微や心が向かうところを見るためには、とにかく自分の置かれている状況を静寂な空間にする必要があった。

それがわかってから、どうして1日中ほとんど喋らないのかを知った。

その当時のことが頭の中に浮かんで、どうして今回何も道中で見なかったのかを理解した。

サギを見た時も野うさぎを見た時も、私はバス停に着いて落ち着くと、速攻で調べ物を始めた。

サギならサギ、野うさぎなら野うさぎの特徴を調べて、そこに込められたメッセージを探るのに意欲を燃やした。

今回は何も現れなかったのではなく、心を静めることが最優先だったんだと知った。

現れないことが正解で、小さな画面の中に広がる真実をまっすぐに見ること、それを見つめることが何よりも大事なことだった。

言葉を失いそうになりながら、目の前に映るものを見た。

私が見たものは、私にしか解読できない暗号みたいなものだった。

流れた時間の長さを思った時、私同様、その人もその人でどうしていいのかわからないものをずっと抱えていたんじゃないかと思った。

私が過去に紡いだ言葉のグループにどんな意味があるのかは私しか知らない。

だけど、私はそのいくつかのまとまりの言葉たちを、ある1つの方向にだけ向けて書いた。

言葉は幾つ書いても足りないぐらいに、いくらでも出てきた。

そのまとまりは、本当の当事者でなかったら気付けない。

他の誰かが見ても、そこに繋がりがあるなんてわからない。

書き物と防寒具と背中に何の共通点があるかなんて、本人以外知りようがない。

その共通点に気付いている、しかも昨日今日のことじゃない。

長い時間が流れた。

長い時間が経過しても、今も尚そこにアクセスして目に入れる、そこから何かを感じ取る…、その姿が想像できた時、私だけじゃないことを知った。

どうしていいかわからない、消えない、言葉にできない、そういうものは私だけじゃなかった。

実際のところは知らない。

だけど、そうしてしまう、何かしらの動機や心の動きがなければ、確実にそんなことしない。

苦しかったりやり場のない気持ちを持っているのは、私1人じゃない、そう思った。

何をどう言葉にしていいのかわからないけれど、とにかく悶々としているだろう姿が見えるようだった。

私よりももっともっと不器用なのかもしれない。

たくさんの言葉だけが伝える手段じゃない。

時には沈黙が百もの情報を伝えてくる。

それは言葉を発する時よりも、もっと強い何かを伝えてくる場合もある。

言葉がないから想像力は必要だけれど、ないことになんかできないぐらいに「ある」。

東京の朝は雨空でどんよりしている。

毎回雨率の高さにはげんなりするけれど、この空の状態だって空のある1つの表情で当たり前のようにある。

私はひたすら晴れ空ばかりを求めているけれど、曇りの日も雨の日も等しく存在している。

真夜中に車の中で見たブログ画面にも、同じことが言えるのかもしれない。

晴れ空とは言えないものでも、ないわけじゃない。

むしろこのはっきりしない空模様同様、これ以上ない今の様子を表してる気がした。

その奥にあるものが何かなんてわからなくても、「ある」「気にかけてる」ことはわかる。

そこには芯がある。

ブレないもの、ずっと続いているもの、そういうものが見え隠れしている。

1人の人の中に通っている芯には、不器用という服を着ながらも、その奥には絶対に揺らぐことのない強さ、変わらない世界が存在している風に見える。

それがどれだけの支えになってくれているのか、その人は知っているんだろうか…といつも思う。

2019年5月28日火曜日

占星術中級編を前に

占星術中級講座を水曜日に控えて、今新しい境地に立っている。

数時間前まで、私は「ホロスコープ」というものを勘違いしていた。

重みがわかっていなかったというか、軽んじていたというか、とにかく自分側の覚悟みたいなのが完全に欠落していた。

数時間前、ホロスコープ用の備品を調達しに買物に出た。

間違いなく、今年の買物の中で絶対にベスト3には入る楽しい買物だった。

行き先がセリアやダイソーだろうが、楽しいは楽しい時間だった。

向かう道中の車の中だった気がする。

突然、「誰かのホロスコープを読む」という行為そのものが、私が思っていたことと全然違っていて、その奥深さにはたと気付かされた。

これから1〜2週間の間に書くと思うから今日は明言は避けるけれど、とにかくその行為の本当の意味が、突然カミナリに打たれたかのような衝撃を持って、頭の中を駆け巡った。

運転していた時間はトータルで1時間強だった。

そんな中、私は今日なんと自分の誕生日の311ナンバーの車を4台も見た。

盆と正月とクリスマスとバレンタインが一気に来たぐらいに、それもまたそれですごい衝撃だった。

そして、このブログを再開する前に、ブログを書こう!と決意するのを後押ししてくれた車も3台ないし4台見た。

これもまた珍しくて、その車は普段1時間運転して、1台見たら珍しいぐらい見ない。

しかも相当目を光らせてようやく1台見るぐらい。

なのに今日は3台4台と見て、日本三大花火大会が一斉に行われたぐらいのありえなさだった。

一度なんかは、311の車の前に、そのもう1つの幸運を示す車がいた。←右折レーンにいて、私は直進で追い越したから見えた。

そんなすごいシンクロ祭を堪能した後、さっきまでホロスコープの読み解きをしていた。

ホロスコープの神様が来たのかと思ったぐらい、これまで体験したことがないことを体験した。

占星術の人たちの中には「星が語りかけてくる」だの「星が言葉を紡ぐ」だの、それは国語で言うところの擬人法ですか?並みの表現をする方たちがいるけれど、私にはその感覚が全くわからなかった。

星は喋りもしないし(喋ったら逆に怖い)、難解な解釈たちはいつまでも難解で、私はあれに慣れることがあるんだろうか…?とずっと思っていた。

今でも難解なのは難解だし、わからないことの方が圧倒的に多いから、リサーチは欠かせない。

今日ももれなくリサーチだったわけだけど、調べてる途中で突然言葉が自分の中から出てきた。

これもまた、自分の中からなのか、相手の魂なり潜在意識からなのかはわからないけれど、突然言葉がいくつか連なって出てきた。

それはどこにも書かれていない情報だった。

キーワードだけならどこかには書いてある。

だけど、キーワード同士を繋げることが私はどうにもできなかった。

例えば今日なら、
・コミュニケーション
・知性
・自分のルーツ
・潜在意識
といったラインナップ。

中でも「自分のルーツ」は、本来の解釈の中にはない。

だけど、調べると出てくる。

同じことを調べて、いくつも「ルーツ」が出てくるから、この場合「ルーツ」は外せない。

でも、じゃあ何だ?って話で、いつもはそこで止まっていた。

ところが今日は突然言葉がスルスルと出てきた。

「自分のルーツを知るための知性」と。

スルッと出てきたはいいけれど、正直すごく戸惑った。

普通に解読したら、その言葉は出てこない。

だけど、その言葉が頭から離れない。

相手の子に確認して、私の感覚で書いてOKをもらった。

本当に理解してもらえてとても嬉しかった。

そう、初めて「星が言葉を放つ」という感覚を知った。

私の理解力が深まったというよりも、多分車を運転している時に、ホロスコープを見る際に何よりも大切なことに気付いたからこそ、星たちから見せてもらえる世界のような気がした。

ようやく私側の準備が整った…。

まだまだスタート地点だからゴールまでまだまだものすごく長いけれども、それでも少なくとも星は星の言葉で情報を届けてくれてると感じられるようになった。

誕生日ナンバーの車も幸運のシンボルの車も、どちらも「それが正解☆」と言ってくれてるみたいだった。

ということで、あと24時間したら新潟を出る。

これまでとは違う目線でホロスコープを学べるのが嬉しい。

この勢いに乗って、別件というか超本命案件もなんとか動いてはくれないだろうか…と思う( ̄∀ ̄)。

超本命案件はもうあとどのぐらいでもいいから、修行に修行を積んだ暁に叶えてもらえるなら、私はどんな修行も苦行も頑張るのに…と思っているv( ̄∀ ̄)v。

嘘じゃなく本気で。

2019年5月26日日曜日

オルゴナイトの新たな潜在能力【追記】

今朝の出来事をもう一度よく振り返った。

1つ前の記事『オルゴナイトの新たな潜在能力』の時は、実際に起こってまもなくだったから、かなりテンパりながら書いた。

木のテーブルを出そうとした時、私の不注意で手を滑らせて下に落として、その反動でテーブルがひっくり返って、そこにたまたまあったオルゴナイトが支えとなって、水晶のペンジュラムもラリマール(天然石)のペンジュラムも無事だったという話。

でもよくよく考えて、あんなに小さな高さ3センチ程のオルゴナイトに畳1畳弱の大きさの木のテーブルの全体重がのしかかったわけで、それがなかったらペンジュラムは本気で木っ端微塵になったと思う。

冷静になってみたら、考えられないことで、よくぞあの小さな体でテーブルを支えて、数ミリのところでペンジュラムたちを救出してくれたなぁと思った。

オルゴナイトが個別に意志を持ってその力を発揮したとしか思えない、摩訶不思議な感じだった。

そのオルゴナイトを持ち帰った時、まさかそんな役割を果たしてくれるなんて思ってもいなくて、っていうかそんな衝撃に耐えうるものだとも知らなかった。

そもそも今回のヒーローオルゴナイトこそが、私に初めて「モノと対話」することを教えてくれた。

さすがにモノが喋り出すなんていうファンタジーみたいなことは起きないけれど、ペンジュラムを通じてモノは自らの意志を教えてくれる。

モノたちは色んなことを教えてくれる。

例えば切り花や鉢植えの植物たちも、置かれる場所の好みがある。

たとえ同じ種類のものでも、扱われ方は人間と同じで個体差がある。

同じものでも、時と場合によって希望が違うのも人間とおんなじ。

だから私の手元にある2つのオルゴナイトは、全然違う好みを呈している。

私のオルゴナイトは基本的に「希望なし」。

私さえ大切に扱えば、置かれ方や持ち運ばれ方に関して細かな希望は一切ない。←こういうところの大雑把さは持ち主にそっくり( ̄∀ ̄;)。

今回のヒーローオルゴナイトは、信じられないくらいに細かな希望を持っている。

今も試しに色々置き場所を変えたら、ブツブツとああでもないこうでもないと、明確な意志を示していた。
(置かれ方・普段の扱われ方には、本当に細かな希望があれこれとある( ̄∀ ̄;))

出かける時に持ち歩くことも、希望がある。

買った当時、普通に私は社会人をしていたけれど、職場への同行は断固じて拒否だった。

唯一最終日だけ一緒に行くことを了解してくれて、自分のズボンのポケットに忍ばせて持って行った。

それ以降は、基本どこに行く時も持ち歩かれることを希望しているからそうしている。

そんな風に、オルゴナイトもその時その時で少しずつ希望が変わる。

人間が毎日同じごはん、例えば毎日ステーキとか食べられないのと同じで、オルゴナイトにはオルゴナイト独自の希望が都度都度ある。

普段からそんな風だから、今回の独りで重たいテーブルを支えてくれたのは、そのオルゴナイト自体の意志が発動したと考える方が自然だとさえ思う。

たまたまと言えども、本当にちょうどピッタリの位置に、それもテーブルの本当に隅っこの角に当たる位置にオルゴナイトはあった。

だからあと1センチ、オルゴナイトの位置がズレていたら、テーブルを支えるものはなくて、水晶のペンジュラムはもろにテーブルの重さを受けて粉々に割れたと思う。

テーブルを最初起こした時、オルゴナイトが横に転がっていたのは見えたけれど、まさかそれがテーブルを支えていたなんて、全く思いもしなかった。

ぶつかって転がったんだなぁ、ぐらいにしか思っていなかった。

まさか私の見えないところで体張って私の大切なものたちを守ってくれてたなんて、想像さえしなかった。

しかも、何事もなかったかのようにシレッと普通に転がってた。

ある時ある人に親切にされて、その時もお礼を言ったけれど、後日改めてお礼を言ったことがあった。

なんとも素っ気ない返事が返ってきたけれども、その様子と今回の転がってたオルゴナイトの様子とが酷似している。

「俺、大したことしてないよ」と言わんばかりにオルゴナイトは普通だった。

ちなみにそんなにも忠誠心?愛すら感じる隠れヒーローキャラを秘めていて、「もしかして私のオルゴナイトになりたい?」と聞いたら、ペンジュラムは普通にクルクルクルと時計と反対回りのNOを示した。

相変わらず、持ち主への忠誠心は義理堅く、私はあくまで管理人の模様。

話が逸れたけれど、本当の本当にオルゴナイトが盾となってペンジュラムたちを守ってくれたのは大大大功績だった。

警察から感謝状贈られるレベルの人命救助ならぬペンジュラム救助だった。

その瞬間だけ、オルゴナイトに意志が宿ったかのように最強パワーを発揮した。

改めて、モノには、特に普段から大切にしているモノには意志が宿っている気がする。

ちなみに、オルゴナイトに尋ねると、あれはオルゴナイト本体の意志とは違った模様。

えっΣ(꒪◊꒪ )))) ?じゃあ誰の??何の??と思って、具体名を挙げると…。

少なくとも私ではなく(そりゃそうだ、そんな酷い状況を引き起こした張本人のわけだから…( ̄∀ ̄;))、BUSHIMATAファンみたいな……。

もちろんBUSHIMATAファンがエスパーのわけがなく、瞬時に察してオルゴナイトに魔法をかけて何とかするなんてできない。

言うなれば、例えば普段から無事を祈ってくれてるとするなら、そういう祈りが今回のような緊急事態の時に届いたみたいな感じらしい、ペンジュラムいわく。

もしそれが本当なら嬉しいなぁと思う。

いずれにしても、何のご加護があの時働いたかは知らないけれど、おかげさまでペンジュラムは2つとも無事!

盾となったオルゴナイトも無事!

テーブルは穴が開いてしまったけれど、それが勲章のようになって、それはそれでOKらしい。

改めて振り返って、やっぱり凄すぎたから思わず追加で書いてしまった_φ(*´∀`*)

オルゴナイトの新たな潜在能力







朝から超ビックリしたことΣ(꒪◊꒪ )))) !

木のテーブルを出そうと動かした時のこと。

手が滑って、木のテーブルを畳に落としたところまではまぁ仕方ないとして、その後なんと勢い余ってテーブルがさらに反対側にひっくり返ったΣ(゚д゚lll)))!

そしてひっくり返った先に、オルゴナイトにペンジュラムにオラクルカードたちがあって、そこにもろにぶつかった。

ギャーーーーーΣ∑(((゚Д゚;;;)))))//と思って、テーブルを起こして、それらの無事をすぐに確認した。

カードの箱は少し凹んだけれど、中身は全部無事。

そしてオルゴナイトやペンジュラムもぶつかったように見えたけれど、とりあえずどこも欠けてなかったし無事だった模様。

念入りにチェックしたけれど、大丈夫だった。

あぁ良かった〜☆*:.。. o(*´꒳`*)o .。.:*☆、と一息ついて、そしてテーブルをセットした。

テーブルを使おうとテーブルの近くに寄って驚いたΣ(꒪◊꒪ )))) !Σ(꒪◊꒪ )))) !!Σ(꒪◊꒪ )))) !!!

Σ(꒪◊꒪ )))) !Σ(꒪◊꒪ )))) !!Σ(꒪◊꒪ )))) !!!

穴があ、い、て、るぅーーーーーーΣ(꒪◊꒪ )))) !

Σ(꒪◊꒪; )))) !Σ(꒪◊꒪ ;)))) !Σ(꒪◊꒪ ;)))) !!!

それも、オルゴナイトが刺さったとわかるぐらいにはっきりと。

ショックを通り越して、度肝を抜かれた。

小さなオルゴナイト1つで、オルゴナイト自身はもちろん、2つのペンジュラムもカードも守られたから!!!

オルゴナイトの効能に、「物が上から落ちてきた時、周りのものを守るために体を張ります」なんてのはない( ̄∀ ̄;)。

そもそもそんなにも強い耐性があるなんて、今の今まで知らなかった( ̄∀ ̄;)。

しかも、私のオルゴナイトはのどに巻かれているから、今回本領発揮されたのは、もう1つの旅立ち待機中の方。

っていうか、木の分厚い板を貫通するくらいの硬さがあるなんて、今まで知らなかった。

本気のお守りになって、感謝してもしきれない。

テーブルに穴が開いたのは残念と言えば残念だけど、それよりもオルゴナイトの功労がすごくてそれの勲章&一生忘れない思い出になって、これはこれでありだなと思ってる。

しかも落ちた時の加減なのか、テーブルについた傷は、チューリップみたいな花模様になった。

一応すべてに確認したら、オルゴナイトもペンジュラムもテーブルでさえも「大丈夫」とのことだった。←ペンジュラムでそれぞれのものたちに具合を聞いた。

本気で驚いたけれど、こういうこともあるんだと知った。

もう二度はやらかさないようにこれからは最善の注意を図るけれど、まさかのオルゴナイトパワー炸裂で、驚きすぎて言葉が出なかった。

もしこのオルゴナイトがテーブルに刺さってくれなかったら、ペンジュラムはアウトだったと思う。

微妙な高さの差のおかげで、最初オルゴナイトに直撃して、わずか数ミリの差でペンジュラムは助かった。

写真で伝わるかわからないけれど、本当にあんな風だったんだと思う、事故現場は。

オルゴナイト様様だった(♡´艸`)♡。

オルゴナイトの新たな一面を発見。
(しかも自分のオルゴナイトじゃない方での事故で…( ̄∀ ̄;))

2019年5月25日土曜日

約束の巡り合わせ

「もしもし、ミイちゃんの魂ですか?」

「はいは〜い」

「約束の時間が来たね!準備はいい?」

「フミちゃんの魂こそ準備はいい?」

「いいよ、いいよ!」

「じゃあ頼むよ〜」

「OK!OK!」




上の話は、私が脚色したもの。

でも、本当にそういう会話が魂同士で交わされたんだと思う。

でなかったら、そんなこと起こるわけないのレベルだった。

色々ビックリしすぎて、一瞬色んなものがすべて静止した。




よく「魂は生まれる前に計画してくる」と言われる。

それは何をするとかもだけど、誰と出逢うかも決めてくる、そう思う。

特に、人生の中でも大切な絶対に外せないポイントで出逢う人は、生まれる前に互いにいつどんな風にして出逢ってどんな風にお互い関わり合うのか、大筋を決めてくるんじゃないかと思う。

ポイントが外せないと言うよりも、その人と出逢うことが人生で必要不可欠で、お互いの準備が整うとそのための舞台が用意されて出逢う、そんな気がする。

これまではそれは単なる想像にしか過ぎなくて、そうだったら素敵だな〜ぐらいの気持ちだった。

そうかもだしそうじゃないかもしれない。

魂的にとても結びつきが強いと思われる人にも出逢わせてもらえたけれど、それは私側の一方的な勘違いの可能性も秘めていて、いまいち確信が持てなかった。

私側はそうだったと思っていても、相手側から見える景色や感覚がどんななのかわからずじまいで今に至る。

その人物に関しては今もベールに包まれたままで、私側は何も知らない。

生きているうちにベールが外されて、中身を見せてもらえたら本気の御の字で、知らないまま一生を終える可能性もものすごく高い。

そこがそんな風で、他にももちろんすごく縁あって出逢えたと思える人たちもいるけれど、今回ほど「そうだよ!」というのを教えてもらえたことはなかった。

魂同士が再会する、本当にそういうことってあるんだと知った。

巡り合わせ。

多分今世だけじゃないんだと思う。

過去世でもそれが何回なのかとかお互いにどういう役でそれぞれその時に知り合ったかはわからない。

でも、確実にいつかどこかの時代でも絶対に縁があったことは間違いない。




何があったのかは今起こっていることにひと段落ついたらこのブログにアップしようと思っているけれども(ミイちゃんからも了解どころか向こうから書いてもらっていいと言ってもらえて本当にありがたかった)、ちょっとだけ小出しにすると、答えは「涙」にあった。

ミイちゃんと私とでやりとりすることになったこと、それを初めて目の当たりにした時に私は涙が出たのと鳥肌がしばらくの間止まらなかった。

いつかどこかに書いた気がしなくもないけれど、鳥肌の原理は未だに解明されてないらしい。

でも少なくとも鳥肌は「鳥肌を立てよう!」と思って出せるものじゃない。

完全なる生理反応で、心臓を勝手に動かせないのと一緒で、鳥肌も勝手には立たせられない。

これはこの1年ちょっとでわかったことだけれど、すごい大事なもの、それこそ魂レベルで大事なものに触れる時、私の体は勝手に鳥肌が立つ。

今回は今までの中で一番長い間鳥肌が立ちまくりだった。

体は単なる反応だったと思う。

すごい大切なことだとわかりやすく知らせるために、体の方は反応が現れたんだと思う。

魂の記憶が、それが何かなんてのはわからなくても、呼び覚まされた、そんな風だった。

涙の方はとても不思議だった。

涙を流すようなものじゃない。

もしかしたら生きている間、同じ状況下で涙を流すなんて、それが最初で最後だと思う。

そもそもこれまでだって見慣れたものなのに、見て涙なんて出たことが一度もない。

だけど、その状況を目の当たりにして見るものを見たら涙が勝手に出てきた。

色んなことが普通の日常レベルではなく、時空を超えて起こっている、そう思った。




ミイちゃんとやりとりして1時間ぐらい経った後だった。

自分ののどの不調(←まだ完治してない)のヒントを探した。

今回は本当に変なヒントだった。

私が最も苦手とするタイプの宇宙だの魂だのの話になった。
(その手のことは、私の中で受け入れ可能な内容と全く受け付けない内容との差がものすごく激しい)

私の手元にある、占星術の中で使うサビアンシンボルの本『未来事典』から最初ヒントを持ってきた。

ペンジュラムでページ数を特定して、そのページを開いた。

「アーダスの咲いている野原」がキーワード。

「アーダス」って何?となり、さらに説明文を読んでもさっぱりわからなかったからネットで調べた。

その先に無限過ぎる宇宙話満載で、私にはもはや受け付ける力がない内容だった。

だけどそれじゃ意味がないから、そこからまたキーワードを拾って検索を追加した。

最初の20数個のページはパッとタイトルを見てもピンとこなくて飛ばした。

これじゃ意味ないと思って、ペンジュラムにそのページにあるかないかを聞いて、それで該当するサイトを特定した。

余談だけど、私はそうやってペンジュラムで引越しの時の家電引取業者も探せば、何か特定のサービス提供者を探して、毎回良い方たちに大当たりしている。

だから自力で情報を特定できない時は、ペンジュラムで情報先を特定することがしばしばある。

ページ6とか7、もしかしたらもっといったかもしれない。

ペンジュラムが初めてYESを出した。

次に10サイトほど並んだ中のこれだというサイト、1つだけヒットした。

内容ははっきり言って全然面白くなく、私はかなり流し読みしていた。

その文章の最後にあった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

今の自分のためにゼロから始める
今生きているすべての瞬間
今目に映るすべての空間から

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

言葉を変えたけれども、上のようなメッセージが書かれていた。

そして、大ヒット映画『君の名は』のテーマソング『前前前世』がその中で触れられていた。

ミイちゃんとのやりとりとのどの不調が重なった。

ミイちゃんとやりとりしたことで、自分が色々勘違いしていたことにも気付かされた。

気付かされたことも含めて後日まとめて書いてアップする予定だけど(←ちなみにまだ何も書いてない)、ミイちゃんは私の勘違いを正してくれるために現れてくれた人だと思う。

それもとてもやさしい在り方で、私が自然に気付けるように。

ミイちゃんはそんなつもりはないと思うし、多分言ったら「そうなの?」と言いそうなぐらい意図してないと思うけれども、でも私にはこれ以上ないすごく素敵な方法で色んなことが伝えられた。




冒頭の魂同士の会話は、私が脚色しているけれど、創作したというより本当にそういうやりとりがあったとしか思えない。

絶対にお互いに計画したとしか思えないぐらい、完璧な流れになっていた。

しかもホロスコープ上にも、そういう出方が示されている。

魂的なご縁を表すドラゴンヘッドとドラゴンテイルに今すごい強い影響が出ている。

これはミイちゃんも私も双方が。

そこにプラスして、見えない部分の知性とか潜在意識、スピリチュアルなことに関しての情報と魂の傷を表すものとが今合体している。

2つを読み解くと、魂的なテーマが明るみに出てきやすい。

テーマは無くなりはしないけれども、それが見えやすい時期とそうでない時期とがある。

互いの寿命を思った時、今ほどに今あるテーマが見えやすい状況なのは、これが最初で最後だと思う。

次、そこだけを切り取って天体同士が同じ配置になるのは今から約50年後。

90歳まで生きているかどうかもわからない。

だから今なんだって思う。

お互いに約束して、今世互いに助け合おうね!と言っていたとしか思えない。

それが前世なのか前前前世なのか、はたまた数えきれないぐらい前の人生の時なのか、それは知らない。

ただ知り得たことは、本当に縁があって出逢えたということ。

しかも早すぎても遅すぎてもダメで、今でなければいけなかった。

少なくとも私側は今でなければ、約束したことはできなかった。

今ようやくできるようになってのミイちゃんとの再びの巡り合わせだった。

すごい素敵だなと思ったのが、ミイちゃんと私とは本当に縁があると双方がわかるように、絶対的なものが同じだった。

「偶然」とか「たまたま」という言葉で片付けないように、どちらもが信じられるようにわかりやすい目印があった。

魂と魂が再会しようと計画した場合、どんなこともくぐり抜けて、普通に考えたらありえないことを現実のものとする。

それを本当にわかりやすい形・多少ハードルはあっても乗り越えられる形で、その再会の機会は巡り合わせてもらえる。

それは無理がなくて、本当に泣けるぐらいに温かいものを運んできてくれる。

過去世の自分たちからの贈り物みたいだった。

ここまでよく頑張ってきたね!とお互いを労うために、そしてこれからも一緒にがんばろうね!とお互い支え合い応援し合うために。

2019年5月23日木曜日

10年後に知れた事実


<2009年8月30日のmixi日記より>

タイトル:日曜日朝6時の新宿


今朝4時に目覚ましをかけて、夜が明ける前に妹のアパートを出発。
始発5時11分の電車に乗る。

6時前に新宿到着。
目指す場所へとひたすら歩く。

こんな朝早くから、しかも日曜日に動く人がいるものかと思ったけど、
いやはやびっくり。
実に多い。

電車もほぼ座席満席。
酒臭い人が隣りに座っていた。

新宿に着いてさらにびっくり。
とにかく人がたくさんいる。
1メートル置きにカップルかグループが歩いてる。
朝6時、オールナイトなのか、みんなテンション高めで少しけだるそう。

店も開いてる。
カラオケしませんかと勧誘の人に言われた。
カラオケ24時間営業なのかな、ここは。

私が目指した場所は、とある有名な手相を見てくれる人に手相を見てもらうための整理券ゲットのため。
事前リサーチによると、とにかく並ぶらしいからということで始発で出かけた私。

行けばわかるとネット上には書いてあったけど、本当にそうでそこだけやたらと人が並んでいた。
私は本日24番目のお客さんだったらしい。
24と書かれた札をもらってそこをあとにした。

その後、前々からやってみたかった朝吉野屋。
納豆定食なるものを頼んだ。
はじめて外国人を雇っている吉野屋を見た。

来るお客さんもさまざまで、酔いつぶれて机につっぷしていた若い女の子もいた。
「やりたいです」と顔に書いてあるような若い男2人と女2人組もいた。
これから仕事なのか作業着を着ている人。
何で今ここにいるのかさっぱりわからない私くらいの年の男の人。

朝早い吉野家は、中に入ると外の喧騒や人の多さからは想像できない静けさだった。
人はいる。
でも静か。
例の男2人と女2人組が変にはしゃいでいるだけで、その声が店内にこだまするだけ。

不思議な光景だった。

ここそこに人がたくさんいたけれど、私は歩いている途中、誰も歩いていない通りを発見した。
店はすべてシャッターが下りている。
車も裕に2台は通れる道なのに、全然車もいなければ、歩く人もいない。
ただただ静かなだけだった。

たった今のその瞬間だけで、私一人が道を独り占めしているみたいでうれしかった。

新宿という町は面白い。
色んな人がいて、色んな光景があって、見ていて飽きない。

時々思う。
そういう非現実的な非日常の時間を送るの、私好きだなと。
わけもわからず、わくわくする(笑)。
そういう瞬間ってすごい頭が冴えて、第六感的なものが私の場合はものすごく強くなる。
で、そういう時、本当にはっとする発見に出会ったりする。

今日はどんな発見があるか楽しみ♪


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超今さらだけど、10年前に朝の始発電車に乗ってまで整理券をゲットして、新宿で手相を見てもらった時のことを思い出した。

思い出したというよりも、今頃やっと意味がわかって、安堵の溜息をついた。

ホロスコープの調べ物をしていたら、たまたまその新宿の母と呼ばれる「栗原すみ子」さんというおばあちゃんの話が出てきた。

書いていた方も鑑定を受けたことがあるらしく、多分私もこの人のところで受けたような気がする…と思って、それで画像を見たり、当時のことを書いた気がすると思ってmixiの日記を探したりした。

名前を失念して、画像を見る限りその方だと思われる。

当時いくら払ったかは忘れたけれど、3000円前後だったと思う。

それに対して鑑定時間は5分もない感じで、「高っ!」と思った。

当時の日記についたコメントを見ると、
「手相は、びっくりするくらいいいこと言われた!!!
そして何よりも、これからのことで迷っていた自分にお導きじゃないけれど、あぁやっぱりそこにいくんだ!という仕事の面で手相に出ていることを言われたから本当によかった。
やっと吹っ切れたよ。 」
などと書いていて、何を言われてきたのか今となっては全く覚えていない。

「やっぱりそこ」の「そこ」が何を指すのかわからなくて、何ではっきりと私は書かなかったのかと思う。

唯一思い出したことは、過去と決別するための決定打を言われ、私はそれは覚えているけれど、それ以外のことはすべて忘れた。

決定打はものすごい威力で心にパンチが送られてきたから、今でもある意味忘れられない。

ただ、おばあちゃんが指摘してきたことは、本当に紛れもない事実になった。

今なら運命・宿命にはどうやったって逆らえないのはわかるけれども、当時はそんな知識1つも持ち合わせていなくて、言われたことにガーン(T_T)となりながら聞くしかなかった。

ちなみに当時は絶賛就活ノック40本打ってる途中だった。

就活で不採用通知をもらうことよりも、私は受けるところ受けるところに合わせて志望動機を考えて書くことが本当にキツかった。

ない動機を無理矢理言葉に起こすわけだから無理もなかった。

そういう時に訪れた街頭鑑定だった。

何でそこに行こうと思い立ったのかは覚えていない。

紹介だったのか、テレビで見たのか、何かの情報で目にしたのか…。

ただ、当時はいつまでも決まらない仕事にヤキモキし、決まったところでも自分の方向性が見えないからヤキモキし、何でもいいからすがりたくて仕方なかったから行ったと思う。

で、どうして今頃になって安堵したかと言うと。

当時の私もそれを読むまでの私も「鑑定時間+鑑定内容に対して金額高すぎる」と思っていて(←そう思ったことは、さっき思い出した)、自分の中では若干不満が残る感じだった。

だけど、今回見つけたホロスコープのブログの方いわく、何もない人は早く終わるけれども、何か本当にヤバい人は長いらしい。

それ見て「だから私短く済んだんだ」とわかって、ホッとした。

もっとさらにさかのぼること数年前、だから今から10数年前に出会った霊視ができる男の人を思い出した。

友達の友達で、その人はそういう仕事はしてなくてサラリーマンをしていた。

今は知らないけれど、当時はそういう仕事に就きたくないから会社勤めをしていると言っていた。

その人は遺伝的な体質で、お母さんが本気の霊能者の人だった。

だからその人のところに来る人たちで本気でヤバい人は、母親に繋げると言っていた。

自分の手には負えないというのがわかるらしい。

その話も思い出して、あの時日曜日の新宿の朝並んでまで受けた鑑定があれで大丈夫だったことを10年後の今知った。

そう、友達の友達に見てもらった時も、1つを除いて悪いことは言われなかった。

むしろそれ私だな…ということばかりだった。

友達の友達が言ってくれたことは、今でもはっきりと覚えているし、本当にその言ってもらったことが私の場合は、自分の人生の中でけっこう大切な価値観だったから、すごい納得した。

悪いことというか当時の私が絶対に受け入れたくなかった未来予想は、新宿の母からも同じことを言われた。

だから、そのことに関しては、もうどうすることもできなかったんだと思う。

どうすることもできないというのは、自力で何とかできることではなかったという意味で。

当時の私に教えてやりたい。

人生には自分のがんばりで何とかなることと、自分のがんばりではどうにもならないこと、その2つがあるということを。

ちなみにどうでもいい情報だけど、私が手相を見てもらおうと考えたことには理由がある。

ドミニカにいた2年間の大半の時間、少なくとも1年以上、私は毎日自分の手相を眺めてた。

ドミニカで知り合って仲良くなった日本人の少し年上の女性から、手相は年齢と共に変わることを教えてもらったから。

ユカさんという名前だったけれど、ユカさんは自分の手を時々コピー機に当てて印刷すると言っていた。

そうすると手相の移り変わりがわかるからと私に説明してくれた。

私はそこまでやらなかったけれども、毎日乗る朝のコミュニティバス的な公共の乗り物に乗る時、暇さえあれば手相を眺めてた。

そんな風だったから、自分の手相がたしかに変わることもわかったし、それぞれどんな意味があるのか思いを巡らすのも楽しかった。

今みたいに携帯があるわけではなかったし(連絡用の携帯しかなかった)、景色を見たりもしたけれど、他に娯楽的なものもなかったから、自分の手を眺めるのはある意味毎日楽しめる娯楽だった。

自分で書いてて変な趣味と思ったけれど、当時はそれが日常だった。

だから手相で何か判断材料となるもの、今や未来のヒントになるものを求めて、朝早く新宿の町で整理券もらうために並んだんだと思う。

あの頃からは想像もできない今になっている。

もう早朝に並んでまで手相を見てもらうことも、朝の新宿の吉野家で納豆定食を食べることもないけれど、その時の空気感はなんとなく覚えてる。

ブログという場所

ゴールデンウィーク明けてからだったと思うけれど、ブログとSNSの違いを書いている記事を読んだ。

基本的に、ブログからの情報収集が多い私にとって、一番見るサイトは圧倒的にブログで、次がホームページ系のサイト、その次に最近はツイッターとなっている。

インスタはやってないし見ることもほぼない。

フェイスブックはよほど用事がないと開かない。

ちなみにツイッターも私の使い方はかなり特殊だと思う。

私はツイッターのアカウントは持っていないし、そもそもツイッターがどういう表示をされるのか知らない。

私は特定の人物のツイッターを、特定のブログを見るようにして検索している。

だから私は、例えばAさんのツイッターならAさんのツイッターのみをずっとさかのぼって見て、BさんならこれまたBさんのものをひたすらチェックする方法を採っている。

ツイッターに関しても、ホロスコープならホロスコープの情報、ルノルマンカードならルノルマンカードの情報…という具合に調べるから、基本的に「NOW」的な、今現在の情報よりも、特定の分野における情報を調べるのに使う。

そんな風だから、ブログのヘビーユーザーの私にとって、ネット=ブログと言ってもいいぐらいにブログを使う率が圧倒的に高い。

だけど、ゴールデンウィーク明けてから目にした記事によると、今というのは種類別に言うとブログは圧倒的に使用者が少ないらしい。

他のコンテンツと比べても、書き手もだけど、読み手も少ないみたいなことが書かれていた。

YouTubeなんかの動画サイトもあるから、より一層文章を読むことがメインのブログは、時代の流れからして面倒というか手間がかかるもので、最近は下火みたいな書かれ方をしていた。

FacebookやInstagramをはじめとしたSNSがメジャーらしく、ブログはある種時代遅れのようだった。

何が言いたかったかと言うと、そんな風な時代の流れがある中で、私のブログに行き着いてくれた方たちがいるわけで、それってすごい確率なんだなと思った。

お役立ち情報でもない。

今の何かを書いているのでもない。

「無用の長物」という言葉が本当にピッタリなブログだと思うけれど、その生産性も有効性もゼロに近いこのブログをたとえ1記事でも読んでもらえるというのは奇跡に近い。

しかも、私のは長くて単なる独り言みたいな内容で、読んで爽快感とか高揚感も期待できない。

癒しでももちろんない。

定期的に読んでくれる人たちは、何が面白くて読んでくれてるんだろう…と大真面目に思う。

色んな人のブログを読むから薄々気付いているけれど、私のブログにはテーマがない。

通常ブログは、読み手やアクセス数を意識して書かれている場合が圧倒的に多くて、ホロスコープならホロスコープ、心理なら心理、料理なら料理、個人の飲み記録なら飲み記録…という具合にある1つの軸があってそれに沿って書かれる。

ホロスコープの人でも時々「こんなの食べた」とか「どこそこ行って良かった」みたいなのは書かれても、基本軸はホロスコープにきちんとある。

私のは日常のことから時間軸がない心の中のこと、出来事も書けば社会の風潮なんかも書く。

本当に一貫性もテーマもない。

強いて言うなら「一貫性がない」ことが私の軸と言ってもいいかもしれない。

そんなブログに縁あってたどり着いてくれた人たちとは、どれぐらいの確率でお互いに引き合うんだろう…と思う。

特にこのブログは、普通に発見できないのは何となく想像がつく。

このブログの大元のサイト、blogger経由で見つける人はほとんどいないと思う。

何年も使っているけれど、私はこのブログの管理ページしか知らないから、bloggerの他の方たちのブログの見方を知らない。

アメブロでも、livedoorブログでも、ハテナブログでも、他のブログでも、広告ページがあったり、オススメやよく読まれるブログの紹介がある。

bloggerはそれが一切ないから、画面がスッキリしていてとても気に入っているけれど、代わりに他のbloggerのブログをついでに見るようなこともない。

そうやって考えると、余計とこの私のブログとどういう経緯かを経て出会ってくれる人たちというのは、どんな確率なのかと思う。

ちなみに私がbloggerを使い始めた理由は、単に友達が「使いやすいよ」と教えてくれて、しかもたしかうちにわざわざ来てパソコン開いて、開設の仕方も懇切丁寧に教えてくれたからだと記憶している。

細かいことはほとんど覚えていないけれど、それまで会員制という閉ざされたmixiの中だけで日記を書いていたものが、ある時からmixiだけでずっと書いていくイメージができなくなった。

2000年代初頭からmixiを使っていた私は、mixiという守られたサイトが好きだったし、本当にネット初心者にはこれ以上ないきちんとしたマナーを守って人と繋がれるのが良かった。

だけど途中からツイッターやフェイスブックが出てきて、mixiもどんどん様変わりした。

もう古き良き時代の会員制サイトではなくなった。

その辺りから徐々に一般のサイトのブログに移行しようと考えて、それで最初に開設したのがこのブログだった。

このブログでオカルト的な体験談まで書くことになるなんて、開設当初は想像さえしていなかった 笑。

本当に単なる私の記録簿的なブログで、たまには特定の読者を想定することはあっても、基本はそれさえもない。

誰かに読んで欲しくて書いてるというのはほとんどない。

そんな風だから、本当の本当に、このブログに何らかの形で行き着いてくれた人たちというのは希少で、それだけで感動してしまう。

はっきり言って、砂漠で水の湧き出る場所を探し当てるぐらいの確率だと思う、私のブログに行き当たる確率は。

そんな風に考えると、これも縁と呼んでいいかはわからないけれど、この生きている人生の中で私と誰かが重なるって本当に凄いと感じている。

とても大げさに聞こえるかもしれないけれど、私はある時からある人がきっかけとなって、私のブログに目を通してもらうというのは、その人の命の時間をもらうことなんだと思うようになった。

どうしても欲しい時間があった。

本音はいっぱい欲しかったけれど、もうそんな量をたくさん希望できる立場にもなかったから、私はそれが1時間でもなんなら30分でも良かった。

それさえ叶わなかった時に、私の中で何か時間に対しての意味合いが変わるきっかけが訪れた。

誰かの時間の使い方は私が決められない。

私だけが欲してももたらされるものじゃない。

それが嫌と言うほどにわかって、そこから私は誰かの時間がもらえるというのは普通のことではないんだと深く胸に刻んだ。

誰かの命の時間に対して、私の書く内容は申し訳ないぐらいだけど、それでも何だか訳の分からないことが書かれているこの文章たちを読んでもらえるというのは、とても特別なことだと感じる。

私の中にしかなかったものを文章に起こして命を誕生させても、それが他の誰かの目に触れてその人の命の時間の一瞬にでもおじゃましに行くというのは、本当にすごいことだと思う。

しかも見つけてもらわないといけない。

そして読んでくれる人から、その人の大切な時間をこのブログに使ってもいいと思ってもらわないといけない。

そうした小さないくつものプロセスをくぐり抜けて、初めて誰かの命の時間とこの私のブログとが重なる。

手紙のように時差があるけれど、それでもいつかの私の時間といつかの誰かの時間が重なる。

私は多くの人に読んで欲しいというのはない。

でもこのブログを通じて、生きている一瞬の時間でも誰かと重なったら素敵だなと思っている。

これを書いている私も読んでくれている誰かもみんないつかは命の時間に幕を閉じる。

幕が開いている有限の時間に、一瞬でも重なる、何かが交わされる、それは奇跡としか呼ぶことのできないものだと思っている。

2019年5月21日火曜日

オルゴナイトの浄化力



[写真説明]
オルゴナイトの大きさ比較。
スティックのりのキャップより少し大きいくらい。
オルゴナイトが今回の話の主役!



オルゴナイトが持つ威力に関して特筆しておきたいから、今日はその話題を。

正式な定義とかはかっ飛ばして、具体的に体に効果が出たことを紹介。
(↑正式な定義を読んだところで、私も「ふーん」って頷く真似をする程度にしか理解できない)

いくつか前の記事『オルゴナイト式天然石の治療』に書いた通り、私が地面に落として傷を付けてしまった天然石を一晩オルゴナイトの横に置いておいたら、なんと翌日には傷が薄まって、さらには触感も明らかに「傷」ってわかるデコボコ感からスベスベ感へと変貌を遂げた。

それを見て、「そうだ、オルゴナイトをのどの不調にも使おう!」と思いついて、オルゴナイトをガーゼにくるんでそれをのどに巻いた。

そうしたら、一時的にのどの調子が悪化したというか、不具合が巻く前よりも目立ってきた。

これは一見悪そうに見えるけれど、天然石を回復させるような力があるから、人体にだって悪影響ではなく良くなるための力を与えてくれてる、と考える方が妥当だった。

ただ私自身がこれまでそういう使い方をしてこなかったから、無知に等しかった。

そこでオルゴナイトヘビーユーザーの友達に連絡して、私の症状をここに書いたぐらいざっくりと説明して、オルゴナイトを使うことでの好転反応的なことが起こるかどうかを聞いた。

友達が書いて送ってくれたことがものすごく良かった!!!

内容も「まさに!」というもので、そのままここに転載。


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オルゴナイトの作用なんだけど、いわゆる「好転反応」と呼ぶものかはわからないんだけど、たしかに症状が強く出ることがあったよ。

オルゴナイトは、私的には「エネルギーを循環させて場(身体)のバランスを整える」のが本領と思っているんだけど、自分の体に対して使う場合、どこか「詰まり」や「滞り」が強い部分があると、
1、オルゴナイトのエネルギーによる振動で、表面のサビ(とか、殻みたいなもの?)が剥がれ落ちる
2、固まって詰まりの原因になっている部分が振動でゆるみ、ネガティブなものが表に浮き上がる
3、咳こみ、たん、ゲップ、震え、痒み、などの症状となって排出される

とゆう感じに、体全体にエネルギーがきれいに流れるように整える働きをしてくれていると感じているんだけど、
それも1回で完了するわけじゃなくて、1番表面の部分から始まって徐々に深層部まで進んで、何段階かに分けて毒出しされるみたいでね。
人間は、体内の臓器や骨に、過去の恐怖や自罰感情なんかを記憶しているらしいんだけど、より深い部分にアプローチがかかると、排出時に体にすごく負担がかかるので、「オルゴナイトで悪化した!?」ように感じるのかも。
ぶっしーは、喉に集中的に留めていたものが(言いたいことを我慢した記憶とか)、いま急激に解消されてるのかも??

たしかにかなりしんどいんだけど、「前より悪化」とゆうよりは、「毒出しがいよいよ最終段階まで進んで、大物と格闘中」と思われるので、ある意味では順調にいってる…とも言えるかも!?
もちろん個人差があるだろうし、あくまで私の解釈になっちゃうけどね。

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友達のこの解釈は、ものすごくピンと来た。

今回の風邪みたいなのどの不調は、風邪にしてはおかしな症状をずっと呈している。

通常の風邪なら、徐々に良くなっていく。

ところが今回は良くなってきたなぁと「治りそう!」となった頃合いに、次の不調ラウンドが開始する。

ということを繰り返し、今でかれこれ4回目になっている。

少しずつ全体は良くなっていて、明らかに初回と2回目、3回目、4回目と良くなっている。

汚い話だけど、初回の時の痰は見たことないようなすごい色をしていた。

今回の不調というより、人生で溜めに溜め込んだ不調和を一気に排出したみたいな色だった。

友達が書いてくれたみたいに、回を重ねるごとに深層部にたどり着いた感じの感覚はある。

長引いてはいるけれど、やっと体内に溜まった毒素を外に吐き出す機会を得たみたいになっている。

これは私のイメージだけど、一番外側の皮が一番分厚くて、それがメリメリっと剥がれた初回が一番身体に来たんだろうなぁと思う。

久しぶりに食べれなくなったぐらいに具合が悪くなった。

私の中で「食べれない」というのは、具合が悪い中でも1番悪い状態だから、今回は相当きてるなと思った。
(基本発熱しても普通にごはん食べれる人)

3回目・4回目はオルゴナイトの力を借りてやってきたけれど、体全体は元気でのどだけ不調だから、これは奥の奥がようやく癒された合図かなぁと思って見ている。

のどのイガイガも普段と違っていて、来る前と・来てからと・ピークと・それが過ぎた時の段階がそれぞれあって、なんとなくずっとわだかまっていたものが1つ、また1つと剥がれ落ちてくれたのかな…なんて思っている。

今日調べ物をした中で、のどにあるチャクラの不調というのは、下半身から胸までにあるチャクラ(第1〜第4チャクラ)への働きかけが成功して初めてのどのチャクラ(第5チャクラ)を開くための浄化が始まるとのこと。

(チャクラ=体内に流れる超自然的なエネルギーのこと)

[参考:『チャクラヒーリング』リズ・シンプソン著]

すごく納得した。

元々のどは体調崩すと不調が出やすい部位ではあった。

だけど、今回のような不調は初めてで、要は何度も似たような症状を繰り返して徐々に良くなっていく、というのはかつて一度も体験したことがない。

しかもこれが風邪やウイルスとは違うとわかったのは、両親は私が3時間ぐらいずっと咳が止まらなくても、最初の1週間は暇さえあれば咳をしていても、移らなかったから。

これ菌なら絶対に移るのに、具合が悪いのは私だけだった。

だから、これは自分の中の毒素的な悪いものが出ている証拠だと思った。

医者にかかることも考えたけれども、本当にダメにならない限りは様子を見ることにした。

私は今回初めて「薬」について調べた。

基本的に薬は菌を殺す、増殖しないように菌を死滅させることを目的としているようだった(咳系の薬が処方された場合)。

私は医療反対派とかではなくて、今回に限っては菌を殺すのではなく、中から外に向かって吐き出すこと、体外に出してしまうことが大事な気がした。

ましてや増殖を抑えたら意味がないと思った。

とにかく出せるだけ出し切るのが、今回の場合は正解な気がした。

長年体に棲みついて、普段はその存在にさえ気付かずにいた。

ところが今回、「もう終わりにしていいよね」と、何を終わらせたいのかはわからないけれど、恐らく終わりにさせてもいいという何かしらの決断が自分の中で為されたんだと思う。

で、体の方から意図的にその終わりにするものを外に吐き出そうとがんばっている。

体の意志によってこの状態になっていると考えたら、せっかく出そうとしているものを殺したりとか死滅させたりっていうのは違う気がした。

体は「出せる」と判断したんだと思う。

だから今回だけは、自分の自然治癒力に賭けることにした。

もし悪化するならもちろん医者にかかることにして、少しずつでも快方に向かうなら、その快方に向かうプロセスを大切にしたい、そう思った。

で、まさかのオルゴナイトを使っての治療をするなんて考えてもなかったけれど、天然石の傷を治したそのプロセスを見て、「これ体もいけるでしょ!」ということで始めた。

私の動物的な勘は当たっていたと思う。

現に良くなって、そして繰り返し起こるのどの不調も回を重ねるごとに症状が軽くなっている。

今あと一息だなぁというところまで回復しつつある。

そして昨日(5/20)、週に何回かチェックする占星術のツイッターを見ていた時に、今はのどの不調や胸のつかえが起こりやすいとあった。

その人がどの部分の星を読んでそう言っているのかわからないけれど、それ見て「まさに!」と思った。

コメント書いてた人たちの具合と自分の具合が重なって、「あぁやっぱりそういう時期だったんだ」と知った。

中には私同様、2週間ほどその状態という人がいた。

私の体はこの1年ほどで随分と反応の仕方が変わった。

基本的に月にものすごく影響を受けるし、天体の動き方で特徴的なものがある時もやっぱり体に何かしら出やすい。

今回も、新月に始まり満月に向かってどんどん毒素排出してた。

表面的には不調なんだけれども、私としては「自然」と調和し始めたと思っている。

基本的に体は丈夫だし強いと思っている。

ただ、時々不調はあるし、細かい検査とかすると意外に基準値を外れていて「こういう症状出てないですか?」と聞かれることも過去にあった。

でも私にはわからなくて「大丈夫」と思っていた。

今も基本は大丈夫だけど、本当は体は小さな変化にもけっこう反応するタイプだとわかったし、それを今まではないものにしてたから、だからある意味不自然なことを自分にしていた。

今は不都合や不具合を感じたら、一旦立ち止まって見る癖を付けるようになった。

そして、その出方が月の満ち欠けや天体の動きと連動しやすいとわかって、とりあえず気をつけて見れるようにはなってきた。

そういうのを無視しない、不調は不調でもその不調な状態をきちんと見るという意味で、自分自身の状態と調和している。

そういう変化を感じるようになった。




今回、オルゴナイトパワーについて解説してくれた友達がもう1つこんなことを提案してくれた。

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ちなみに、例のオルゴナイトさ、たしか発動してなくともコミュニケーションは取れるじゃない? ぶっしーの体に直接は使えなくても、「喉の症状緩和に何が有効か教えて」とか質問したら、あとから何かメッセージとかヒントを、宇宙を介して届けてくれる、とかできないのかなぁ。これまでぶっしーが大事に持ってきたんだから、ちょっと情報降ろすくらいしてくれてもいい気がするんだけども(笑)!😁

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「例のオルゴナイト」というのは、私のではないオルゴナイト。

かれこれ1年以上私の元に滞在している。

自分のオルゴナイトよりもよほど大切に、そしてそのオルゴナイトが希望する通りに保管している。

この度の満月の夜、パワーストーンたちはみんな窓辺に置いて浄化を兼ねて月光浴させた。

私のオルゴナイトはのどの不調の手助けマンとして私の首回りにあったけれど、そのもう1つのオルゴナイトは私の首には巻けないから、私は月光浴させる気満々でいた。

ところが、そのオルゴナイトはどういうわけか月光浴はNOと出て( ̄∀ ̄;)、じゃあどうするの?と思ったら、いつものように枕元に並べるようにして欲しいと。

相変わらず自己主張強めだな…と思いながらも、希望通りにした。

代わりと言ってはなんだけど、まさかの月光浴なんか絶対に要らなさそうな、材質は紙のお守り的なものが月光浴を希望したΣ(꒪◊꒪ )))) 。

紙そのものよりも、その小さな紙に刻まれている名前の主が浄化希望なんじゃないかと思った( ̄∀ ̄)。

余談が過ぎたけれど、その月光浴をしないと希望したオルゴナイトこそ、のどの不調に働きかけたり、自己表現を促す作用の意味を持つオルゴナイト。
(初めて目が合った瞬間、「これだ!」とその持ち主の顔が思い浮かんで持ち帰りしたもので、上に書いた効能を知ったのはその数ヶ月後の話)

まさか自分のものではないオルゴナイトを、いくら効能的には合っているからと言って使えない。

友達はそのさらに上をいく提案をしてくれた。

そのオルゴナイトに聞いてみたらいいと。

で、私は現実的にヒントをもらえるようにあれこれ色んなことをした。(←得意の「モノとの対話」。詳細はまた後日アップ。)

本当にそのオルゴナイトからヒントを引き出すことに成功して、今はせっせせっせとヒント集めに精を出している。

直接の因果関係は知らないけれど、のどに巻いてるオルゴナイト+ヒント係のオルゴナイトからの知恵+そのヒントを元になされた私の行動力、その三つ巴によって、さらに体から毒素を出す症状が昨日の夜出た。

症状は控えるけれど、どう考えてもこの大浄化と関係しているとしか思えない症状で、症状が出た後はすっかり元気になった。

こんな風に、今回はかつて一度も試したことのない、オルゴナイトを使っての体のケアをしている。

オルゴナイト教のようになっているけれど、私自身の体験もだし、オルゴナイトを使ったボディーケアを1年以上している友達の体験談が凄すぎて、それで今回自分も体に使ってみて色々納得した。

友達側の体験談は、自分だけじゃなく家族にまでプラスの効果が表れて、それが何十年と変わらなかったものが大きく変化したことを友達は目撃したから、それ以降色んな使い方を独自に試して開発している。

自分も体験して、友達がどハマりする気持ちがよくわかった。



ここまでオルゴナイトを紹介しといてなんだけど、けっこう大事な気がするから、お節介ばばあ的なことを1つ付け足し。

「オルゴナイト」と検索すると、おびただしい数のサイトがヒットする。

多くは製作者の方やショップ運営のサイトで、色んなものが世の中には出回っている。

何せ私は妹の紹介で見に行ったのが人生で初めて見たオルゴナイトだったから、前知識も何もなく行った。

そして、効能なんかさっぱりわからず、半信半疑で買った。

しかもそこは委託販売で売られていて、元は健康食品の小さなお店だった。

それ以降、私は他の方たちが作ったオルゴナイトというものを見たことがない。

だけど人に教えられてネットで調べて見た時に、初めてオルゴナイトがどちらかと言えば商用に作られて販売されていることを知った。

純粋に作られている方もいると思うけれども、多分オルゴナイト業界全体ではとても少ないと思う。

やたらとデザインに凝っているものを見ると「それ効果あるのかな…」と、余計なことを思ってしまう。

さらに、これは私が買ったオルゴナイトの作家さんご本人から直接聞いてきたことだけれど、世の中に出回ってるオルゴナイトの中には、そもそもの作り方を間違えているものも多いとのことだった。

見てすぐにわかるらしい。

そして元々繊細なエネルギーのオルゴナイトは、その作り方1つ間違うと効力が全くないらしい。

作り方も聞いた時に、本当にオルゴナイトだけに集中して、細心の注意を払って作られたことはわかった。

そして、この作家さんに関しては、「持ち主の元へ着いたら、オルゴナイトがその人のために働き始める」ことを設定して作られている。

だから、手元にある一時預かり的なオルゴナイトは、私のためには一切働かない。

持ち主が私じゃないことをオルゴナイトは知っているから、だから私のために効力を発揮することはない。

だからオルゴナイトだったら何でもいいということはなく、本当にきちんと基本を守って作られたものでないと効能がないとのことだった。

あと、販売サイトや宣伝サイトは多数あるけれど、効能を私の友達が書いてくれたみたいに書いてるものも1つとしてなかった。

1人だけもっとアバウトに書いている人はいたけれども、友達ほど懇切丁寧に1つ1つのプロセスを自分の体験談として書いている人はいない。

私も自信を持って紹介できる情報だし、そして何よりも友達が実体験を交えて数々のエピソードをこれまで教えてくれていたから、間違いない!と断言できる。

何が言いたかったかと言うと、「ニセモノ注意!」みたいな…( ̄∀ ̄;)。




最後に。

今の不調を繰り返し、ネガティブ感情や思考もバンバン出てきて(←これ全部自分の中にあると思うと怖ろしい量と質)、はっきり言って一刻も早くすべて終わってもらいたい…という私の気持ちとは裏腹に、ペンジュラムによって伝えられたこと。

【今が今のベスト】

どういうことかと言うと。

私の中では猛烈に否定したくなるような状況・状態でも、今ある状況、今ある自分自身の状態が、自分にとってのベストだということ。

見たくない自分も、逃げたい現実も、決められないあれこれも、全部さじを投げてしまいたい。

でも、そういう自分も自分だから見てあげてね、かわいがってあげてね、と言われてる感じ。

どうにもならない自分の中の自分を全力で受け止めてね、そのための今だからねと言われてる気がする。

近日中に今回(月光浴を拒んだ方の)オルゴナイトを使って出てきたヒントやメッセージを紹介しようと思うけれども、その中の1つに「仮面をかぶった自分の痛み」というのがある。

今仮面が外れて痛みがもろに出てきてしまっている状態だと思う。

でも、それというのは、もうその仮面を外しても大丈夫、痛みを外に出しても大丈夫、それを見てケアできるぐらいの自分になったから大丈夫…っていうことじゃないかなと思っている。

自分側に準備のできたものしかそうした痛みは見せてもらえない。

すごい嫌な体験だけど、もう終わりにする段階、手放しても大丈夫な段階になったからこそ体験していることなのかな…と超絶前向きに解釈している。

ココロ模様ー令和元年東京





心の中に浮かんだまま書いてみようと思う。

来週の水曜日、占星術講座中級編を受けに東京に行く。

「中級」という響きが、「私そこまでレベルアップしました!」と言えるみたいで鼻高々な気持ち。

実際は今頃になってようやく基礎をしっかり作ろうと、もう一度学び直してる最中ではあるけれど 苦笑。

講座もクラスメイトや先生に再会するのも楽しみだし、束の間の東京探訪も楽しみだけど、それとは別に自分でもどう持っていたらいいのかわからない気持ちも一緒にもれなく付いてくる。

1ヶ月以上前、私はとうとう最後の手段を使った。

最後の切り札は、最後なだけあって、二度も三度もは使えない。

生涯を通じて一度しか使うことのできない切り札だった。

覚悟はしていた。

どんな結果になろうとそれを受け入れるつもりで使った。

終わったことは仕方ない。

どうすることもできない。

残ったのは、手段を完全に失ったという現実と、それに追っつかない自分の気持ちだった。

その気持ちは日々微妙に形を変えつつも、原形はその姿かたちをとどめたままになっている。

生きているのに手段がないとは本当に酷なもので、私はまだそのこととの折り合いをつけられない。

折り合いの付け方を知らないと言った方が近い。

その折り合いも付かないまま、来週の水曜日には私の体は東京へと運ばれていく。

1年前の丁度今頃、占星術講座の席が取れて東京行きが確定した。

狂喜乱舞したのは、何も席が取れたからだけじゃなかった。

物理的に近くなるということが私の心をものすごく高揚させた。

今回はその高揚感はなくて、代わりに手にすることのない世界を前に絶望している自分がどうしてもチラついてしまう。

東京はいつのまにか「哀しみよこんにちは」の場所になってしまった。

「哀しみよこんにちは」の部分も楽しめるぐらいになったら上出来だし、その時はもっともっと東京を楽しめると思うけれど、今はまだそういう気持ちからはずい分と遠くにいる。

最後の切り札を使ったくせして、あれは幻だったんじゃないかと思うことが時々ある。

でもそれはやっぱり幻じゃなくて現実で、雑踏の中に入っていく自分の気持ちと自分の中にある孤独感とが重なる。

さっきこれを書き出す前に思い出した名古屋駅での光景があった。

まだ名古屋に移って数週間みたいな頃だった。

日曜日の夕方、私は駅建物内にある高島屋の入口前にいた。

そこは「金の時計」と呼ばれるものが近くにあって、駅前での待ち合わせ場所によく使われるところだった。

私はそこにしばらく佇んで、道行く人たちをずっと眺めていた。

色んな人たちが行き交う。

待ち合わせの人も仕事帰りやショッピング帰りの人も旅行者も地元の人も、とにかくあらゆるタイプの老若男女が通り過ぎていった。

それを見ていて私は猛烈な孤独に襲われた。

とにかく目まぐるしく景色も人も入れ替わる。

1秒として同じ風景がないぐらいに、色んな人たちが行き交っている。

そんなにもたくさんの人たちが目の前を通過していくのに、私はその中のただの1人も知り合いがいなかった。

その頃は会社と家の往復で、休みの日に会える友達と呼べる人はまだ誰もいなかった。

こんなにたくさんの人が目の前にいるのに、その中の誰一人私を知る人も、私が知っている人もいない、というのは想像以上に孤独だった。

人は数え切れないほどいるのに誰とも繋がっていないのが本当に寂しすぎた。

あの時の気持ちと今現在の気持ちとが重なる。

東京に行けば、人はたくさんいる。

日本の首都らしく、人は絶え間なく行き交う。

なのにそこには私が会いたい人がいない。

東京に入ると、その事実がより一層際立つ。

新潟にいる時にはそこまで感じなくて済んでいるけれど、東京入りしたら無視もできなくなる。

そういう気持ちと共に東京に行くんだな…とかなりどんよりした気持ちが沸き起こる。

もちろん今回だって色々お楽しみポイントはある。

行ったら行ったでそのお楽しみポイントを楽しむ自分も想像できる。

だけど、それとは別次元のところに、どうやったって埋まらない穴がある。

しかもその穴の存在感たるや威風堂々とし過ぎている。

何かに取って代わることもない。

穴は穴のまま、ずっと君臨し続ける。

穴の存在を忘れさせないためと言わんばかりに、ずっと私の中に存在し続ける。

そうとわかって行く東京。

残された道は、ひたすらその穴とその孤独とその現実を自分の中に受け入れること。



[写真たち]
最後に東京に行った去年の11月の思い出ショット。

自分で撮った、朝もやの東京駅近くの道の写真が個人的にとても好き。

食卓に華を添えてくれる食器たちに出会って、いつか手にしたいなぁと思って作家さんの名前と作品を写真に収めてきた。

2019年5月20日月曜日

おじさん会議







ひょんなことからおじさん会議を横目で直接見聞きする機会に恵まれた。


A社…今回単発のお仕事を依頼した会社。

B社…A社から備品をレンタルしている。

C社…A社がB社にレンタル契約している備品の日常的な維持管理を担当している。

D社…A社とC社、それぞれの商品に必要不可欠な備品を取り扱う会社。

E社…B社と契約があって、B社製品を卸している。そのB社の製品を購入した一般のお客さんからクレームが入ったことで、B社にそのクレームが報告された。


色々ややこしい話だけど、E社からクレームが方々の会社に入ったことで、東京からA社の人が2名現場に入ることになって、その仕事の補助を一緒にするために私は仕事に行ってきた。

で、C社に行った際、私が作業している横で、『おじさん会議』が繰り広げられていた、という構図。

当初A社の人たちもまさかC社の重役がお出ましになるとは聞いてなかったようで、2人も若干腰を抜かしていた。

当初は課長レベルの人がちょっと対応して、あとは現場での単調作業をするだけの予定でいたのが、大幅に狂った。

で、その狂ったスケジュールにより、私もおじさん会議ならぬ重役会議を始終耳ダンボにして手を動かすという、面白い体験をそばでしていた。

私は完全に風景と化しているから、超観察し放題だった。

何よりも強く感じたのは「日本、もう限界まで来てしまったんだな」ということだった。

B社・C社は今回回ったところだから、社内の中もけっこう見えた。

ほんの一部だけでも、よその会社を見るなんてそうそうないから、私は興味津々で現場を見ていた。

なんならB社に至っては、私の好きな番組、NHKの『サラメシ』で出てきた某企業の仕事の中身と全く同じ仕事をリアルにしていて、私は暇さえあればその様子をガン見していた。

B社もC社も全く業態の違う企業ではあったけれど、1つだけ言えるのは日本経済の根底を支える会社の1つだということ。

そしてそうした人たちの影での努力なくしては、今ある便利さを私たちは1つとして手にできない。

それを超リアルに見てきたから、余計と感動もひとしおだった。

本当に超徹底した仕事ぶりだった。

B社に至っては、来客である私たちにも健康チェックはじめ内部に入室するための身支度にまで規定があって、手抜きなんか許されないぐらい色んなことが徹底されていた。

ちなみにE社というのはお店で、その手のお店なら全国どこにでもある。

日本の人口の9割以上は人生で一度は利用したことがあるはずなぐらい、私たちの生活にものすごく密着している業種。

だからE社に来たお客さんクレームは、完全に個人のお客さんだというのは想定できる。

1つだけ願わずにはいられなかったのは、E社にクレームを入れたお客さんの話が本当の話で、A社なりB社又はC社のいずれかに落ち度が本当にあったものだといいなぁということ。

落ち度を本気で望むなんておかしな発想だけど、それを願わずにはいられないぐらいにたった1人のお客さんの声が協賛数社を巻き込む大騒動になっていたから。

エンドユーザーのお客さんの話というかクレーム内容は現物を見てのことならわかるけれど、現物がないと「そんなこと本当にあるの?」と疑いたくなる話だった。

でもクレームが入った以上、放置もできないから、関係各社が双方やりとりする他なくなった。

それで私が個人的に感じたのは、D社だけは話の中にしか出てこなかったから内実はわからないけれど、他に関しては「もう色々と限界だよね」だった。

限界というのは、本当に頭が上がらないぐらいに世の中の人たちの生活を大真面目に支えるために尽力している企業たちだから、これ以上求めてどうするの?という意味合いでの限界を感じた。

私からすると、今回の企業数社にこれ以上を求めるなんて、「求めすぎ」としか思えなかった。

色々と感じたことがあるから、【】でその内容を囲って、補足であれこれ書いてみたい。




【日本経済の限界】
今回たまたま3つの会社を一度で見れるなんていうおいしい役目が回ってきたけれど、とにかく3つとも超超超がんばってる。

すごい少ない時間しか見ていなくても、そうした企業なしでは今の日本の便利さも超高水準な生活環境も経済も、何一つ私たちが享受できないのは本当によくわかった。

私はまさかの気持ちでその様子を見ていた。

例えば、スーパーでもコンビニでもドラッグストアでも何でもいい。

何かひとつ買うとする。

ペットボトル1つ、おにぎりひとつ、精肉1パック、お菓子1袋、何でもいい。

まさかそのたった1つのものが商品として店頭に並ぶまでに10数社・10数種の企業なり個人労働者が関わって初めて商品化されるなんて、誰も思わないと思う。

それは店頭で陳列棚に並ぶ以前の状態で、そこまでの企業数が関わっている。

私も今回超マニアックな部分の作業を手伝ってみて、まさかそれが店頭に並ぶ商品と紐付いていて、そして店頭に並ぶ商品には全く関係のないものがクレーム内容と関連しているなんて、どんな確率の話ですか?と思った。

だから私が言った、個人のクレームを入れたお客さんが本当にその話の通りの不具合を買った商品の中に見つけたことを願わずにはいられなかった、というのはその工程を見たら多くの人は思うことなんじゃないかと思った。

百円玉1つで色んなものが買える。

まさかそのそれにどれだけの人件費に含まれる色んな人たちの労働力が組み込まれているのかなんて、本気で私は今回の仕事に行くまで考えたこともなかった。

もしこれがいたずらなら、私が今回体験したことを1日するだけでいい、してみたらわかる。

どんなに馬鹿なことをやらかしたのか、そして消費者としてどれだけ色んな人たちの労働力によって生活が支えられているのか、見たらいい。

絶対にいたずらでクレームなんてもう入れられないよと思う。

話は戻して、そうした企業努力を見て感じたこと。

徹底したマニュアルに徹底した安全管理・品質管理、そうした中でもやっぱり数千分の1、数万分の1の確率で何かしらの形で不具合が起きてももはや仕方ないと思う。

これが人命に関わるレベルならわかる。

でも今回のクレームは、人命には関わらない。

本当にあった不具合なら、そのすごい確率をくぐり抜けてのことで、残念だったねとしか言えない。

でもそのたった1つの不具合のためにこれだけの人たちが動いていて改善するなんて、もう神レベルではなく、そのさらに上を行くレベルだった。

これ以上の完璧度を企業に求めたら、日本沈没するよのレベルだった。

技術的なカバーや人的なミスを無くすための新たなチェック体制の導入は可能だけど、それをしたらそこに関わる人たちのメンタルがやられる。

その構図が一瞬で浮かぶぐらいに、本当に徹底されてた。

限界過ぎて、もう発展とかやめようよとさえ言いたくなる、そういうレベルだった。



【人手不足の本当の理由】
仕事はたくさんあるのに、どうして人手不足なのか。

単純に、やりたい人が少ないからだと思う。

B社の仕事に近い仕事を一度だけ20代の時にしたことがある。

3日ないし4日の仕事でしかなかったけれど、私はもう二度とやりたくないと思ったぐらいに苦手でやりたくない仕事だった。

細かいことはわからないけれど、不規則勤務の人が大半だろうし(いわゆる24時間オペレーション系の仕事)、そして作業は単調でもやることや気をつけることは盛りだくさん、これは普通にはできない。

やり手が少ないのは一目瞭然だった。

C社のお偉いさんが嘆いていた。

自社のサービス商品を各契約先とやりとりするためにドライバーは欠かせないけれど、ドライバーがとにかく集まらない。

どんなにお金を上げて雇用しても、この半年だか1年で3人辞めたらしい。

それはもしかしたらC社の在り方に問題があるのかもしれないけれど、お偉いさんいわく、その仕事自体がやっぱりすごいヘビーであること、続けてくれる人がそもそも少ないことを言っていた。

だから万年人不足みたいな中で、ギリギリ回してるようだった。

わかる気がした。

あれだけ色んなことを個人単位の労働者が求められたのなら、強靭なメンタルでもないと普通は具合が悪くなる。

政府は外国人材受け入れとか言っているけど、厳しいでしょ?と思う。

なぜ自国民ですらやりたがらない仕事を、外国人にさせるのか、やりたい人ならわかるけれど、そもそもどうして国民の多くがその仕事をやりたがらないのか、それを無視して対処療法的なことをしたって解決にならないと私は思う。

そもそもが高水準過ぎることに対して、それをきっちりとその通りにしてくれる働き手の人たちの影での努力は半端ない。

そういった、この上はもうないという水準のあり方をそもそも見直さないと、多分多くの人がやれないよと思う。

これ以上の技術やサービスでカバーするんじゃなくて、もっと根本的なところをなんとかしないといけないと思う。

言うなら、足し算じゃなく引き算のやり方を取り入れないと、誰もそれやりたくないよね?と思ってしまう。

例えば今、コンビニの24時間営業そのものの見直しがされるようになった。

今必要なのは、そういう抜本的な改革だと感じる。

これ以上の技術やサービスを売りにしても、それについてこれる人たちが極端に少ない。

単純な労働人口の減少もあるけれど、本当のところは人手不足なんじゃなくて、そもそも仕事に求められる内容を前に、それを担える人・担いたい人が少ないんだと感じた。



【AIではできない仕事】
私が今回した仕事は、これからどんなにロボット開発が進んで普通にAIが働くことになっても、人の手でなければできない仕事なんだとわかった。

本来課長級の方がする仕事ではない。
(役職は知らないけれど、もしかしたら部長クラスの人かもしれなかった、会議の様子を見ていると)

いきなり入った私がやれるぐらいすぐにできる仕事だから、特別な技術はいらない。

でも、特定の状態を探し出すのは、将来ロボットにできないとは思わないけれど、コストかかりすぎと思う。

ロボット1台いくらするのか知らないけれど、数万円台で買うぐらいの値段にまで下がらないと、人件費よりロボット代の方が高くつく。

年に1回どころか初めてのケースなら、人的対応の方が安く上がる。

超イレギュラーな仕事だったから、A社においても、基本的に「ない」仕事らしい。

今回クレームだの何だのとあって初めて発生した仕事だった。

人の手は必ずいる。

だけど、難しい内容ではない上にすごくイレギュラー、発生頻度はかなり低い。

そういうものは、最後まで人の手の仕事として残ってしまうものなのかなと思う。(費用対効果の観点から)



【おじさん会議】
おじさん会議は別の意味ですごかった。

おじさんと言ったけれど、そのうちの2人は30代で今が働き盛りの人たち。

入社10数年目ぐらいな感じ。

他は、課長級ないしは部長級ポストの人が2人、そして役員級のお偉いさんが1人という会議だった。

D社を最初の説明に入れたのには訳がある。

A社とC社それぞれは仕事の業種が似ている。

言うなれば、建設業と土木業が似ている感じ(実際違うものにしても。建設業と介護業は異ジャンルなら、その2つが似ているのはわかる)

その似ている部分に関して、同じ道具が必要で、その道具をメーカーD社製を使っているようだった。

そして、このD社分のものが今回のクレームの対象商品だった。

話の感じからして、D社はその商品における超老舗メーカーで、最終的にみんながみんなD社製を使うぐらいのマーケットを持っているようだった。

で、おじさんたちが今回の件を受けて、当然互いの会社をしのごの言うことはできない。

だけど何かしらは言わないといけない。

そこで言えない分を、なんと「D社製製品」に関しての意見交換という名の批判をして、とりあえずその場をしのいでいる場面があった。

本音をお互いに言うと、多分ビジネスが決裂する。

だから、それを湾曲的にその場にはいないメーカーの話をして、避けようとしていた。

誰しもが本音を言えない、そういう会議がしばらく続いた。

その流れを変えたのは、役員的なお偉いさんだった。

お偉いさんは最初不在で、途中から参加した。

あまり好きなタイプのおじさんではないけれど、ただ「本音をズバッと言う」という意味では本当に男気溢れる人だった。

一言はっきりとA社に対して「◯◯を検討して欲しい」と言った。

長く付き合いたい、これで取引をやめたいというのでもない、ただ現状では今の状況でうち(=C社)は厳しいと。

だから、今すぐこの場でどうこう決定して欲しいというのではなく、なんとか現状に見合った条件の変更を依頼していた。

A社の課長的な方が「自分もペーペーでこの場で返事をするのは難しいですが、社に戻って前向きに検討させていただきます」と言われていた。

そして、私は当初業界ルールを知らないからお世辞で言ってるのかと思ったけれど、C社というのはA社がこれまで全国で回った同業他社の中で断トツで維持管理体制が徹底しているようだった。

C社の工程の一部が見え隠れしていて、A社の2人の方は感嘆のため息をついて「さすがだわ」と感心していたから、本当にきちんとしていたんだと思う。

さらにC社の凄さをその会議中に知ることになった。

E社にお客さんからクレームが入ったことで、E社の店舗なのか本社の母体から、誓約書を取り付けられた。

それはA社、B社、C社に当てられたもので、要は被害が出た場合責任を負うことに対しての誓約書のようだった。

これはあくまでも私の予想でしかないけれど、もしかしてこれは本当に個人のお客さんのいたずらなのか?と思ってしまった。

というのも、その件に関してB社はとても冷めた感じで騒いでいなかったし、A社の人もB社から直接のクレームではなく、C社経由で話が来て、それでB社C社に赴くことになったと話していた。

内容は伏せるけれど、何をどうしたらそれが起こるのか、どんなに可能性を考えてもありえない内容だった。

B社のあの徹底ぶりから考えて、その内容が起こるというのは、私からすると宝くじ1等前後賞が当たるぐらいの確率なんじゃないかと思った。

しかもB社的な仕事に短期でちょっと行ったことがあるからわかる。

そのクレームが起こる可能性はどれだけの確率なの?と思う。

だから、B社はE社に対して陳謝はしたと思うけれども、正直いたずらを想定したのかもしれないなぁと思った。

C社が黙っていられなかったのは、自分たちも徹底しているものを、そんな1個人客のクレームにより、企業対企業で賠償責任なんかの締結まで迫られたことだと思う。

もう、本気でそれ現物あるんですよね?って聞きたい内容だった。

A社の人たちも、寝耳に水というか絵空事のようにしか見えない風だった。

だけど、取引先との関係のためにそんな呑気なことも言ってられないから、役職級の人たちを2人も地方に派遣して、作業的に手が足りない分現地では単発で手伝ってくれる人を雇ってまで何とかしないといけない重大案件に変わっていたようだった。

どうやらA社に落ち度があるらしい。

A社に落ち度というより、クレームの対象となったものの大元の管轄メーカーがA社だった。
(そのクレームの備品の仕入れ先がD社)

お偉いさんがすごいなぁと思ったのは、E社から半強制的に渡された誓約書に関して、本当ならお偉いさんたちC社の立場からだってA社に同じものを求められるところ、それはしていないことだった。

E社の在り方に納得はいっていない様子ではあったけれど、それを自分たちも真似して他社(A社)に損害賠償を目的とした署名を求めるとかは一切していないことだった。

そうしたやり取りを横目で見ながら、日本の責任転嫁主義の最も悪いところが出ている場面を見た。

自社の利益を守るためなら手段は選ばないみたいな、そしてそれがいかに信用問題を余計にこじらせるものなのか、それも考えずに出しているE社の在り方に疑問を抱かずにはいられなかった。

E社は、日経新聞読めない女でさえ知ってる有名企業ゆえ、この1年ぐらいで見た色んなニュースとその紙切れ1枚の存在がどこかで重なるようだった。

ちなみに、E社のような知名度は全くない地元の大企業C社の寛大な対応には感動した。

紙切れではなく、きちんと企業対企業で互いに利益となるような方向を打ち出そうとしていた。



【男の人たち】
おじさん会議を眺めながら、その人たちの私生活を想像した。

C社で最初に対応してくれた30代の男性は、指輪をしていたから既婚者とわかる。

私でも名前ぐらいは知っている地元優良企業での中堅役。

マイホーム建てて、妻と子と住んでいるんだろうか…と想像した。

でも、表情に生気がなかった。

お偉いさんは超絶癖のありそうな人ではあったけれども、少なくとも会社のためにひと肌脱ごうというのだけは伝わってきた。

「午前中、別の企業さんに行ってて、帰り道高速が事故でストップしてたんですよ。普段なら私それだけでもう『今日は会社に戻らない』で終わりですよ。でも今日はA社さんが来ると聞いていたから、何が何でも帰ろうと思ったんですわ。
◯◯からこの現状を何とかテコ入れして欲しいとお願いされて、だから動いてるに過ぎないですよ、私は」
と言っていた。

◯◯が誰なのか知らないけれど、お偉いさんはその人の頼みならやるぞという気負いだけはものすごく感じられた。

しいては、従業員たちを守るために出てきたのもわかった。

それに比して、30代の男性は、丁寧だしきちんとしているけれど、覇気がない印象を受けた。

仕事だから対応しているだけで、何かや誰かのために動いているという感じは全くと言っていいほど感じられなかった。

家族のために働いているんだろうことは予想できても、それさえも仕事への動機にはなれないぐらい、魂が抜け落ちたみたいな、スマートなビジネスフェイスのお面をかぶったような雰囲気なのがどうしても見えてしまった。

人様のことを想像するのもどうかと思ったけれども、多分外側がある程度満たされてはいても心の中は真っ暗なのかな…という感じはした。

もっとはっきり言うと、定年を迎えるもしくは本人が自主退職しない限りその仕事というよりその地方ではズバ抜けて条件が良いだろう職場に縛られるのが見えているから、それが好きならいいけれど好きではないのは一目瞭然だったから、その葛藤が本人も気付かぬうちに出ている感じはした。

私の偏見だけど、その仕事に関しては「やりたい!」と言って就くタイプの仕事じゃない。

だけど、企業の基盤がでかいから、そして客層のニーズがどんなに社会が発展しても絶対的にあるものだから、よほどのことがなければ倒産しない。

ロボット産業が主力に代わる時代になったって、絶対に生き残れるタイプの仕事だから、倒産は本当に考えられない。

だから、安定という意味では◎(二重丸)企業でも、心の中で切り捨てるもの・あきらめるものの方が大きかったのかな…なんて思った。

色んな男性たちを見てきた中で、かなり病的な危うさを感じた人だった。

(書いてて思ったけれども、どれも私の主観の話だからどこまでがそうなのかは知らないけれど、なんかそういう見えない部分のエネルギーだけはやたらと感じてしまうのは、そもそもの自分の癖や体質なんだと気付いた。)

それがさらに麻痺しただろう人がその上司と思しき男性で、ザ・事なかれ主義の人だった。

波風を立てたくないのはすぐにわかった。

絶対に本音は言わないし、うまい具合に話を避けてる。

司会進行役?と私なんかは勘違いしたぐらいだった。

でも、名刺交換の前に課長とか呼ばれていたから、役職の付いた人なのは間違いなかった。

どうでもいいことだけど、そういう場面の時に挨拶の仕方を見ているとよくわかる。

役職ありだから挨拶して、ない人には何も挨拶しない人は、多分仕事もあまり上手じゃない。

その人はA社の2人にだけ挨拶をして、私ともう1人には目もくれなかった。

会釈の1つもできないのかと唖然とした。

私にきちんとしてくれというよりも、細かいことに気付けるかどうか、人を人として見れるかどうかの部分だから、そこがおかしい人は大概何かしらおかしいと私なんかは感じる。

明らかに服装が私ともう1人は違っていたから部外者なのはわかるけれども、もしかしたら取引先の関係者かもしれないわけで、普通に挨拶しとけよ!と思う。

30代男性も課長風の人も、心の中は色々烈(はげ)しい風が吹きまくりなのかと感じた。

お偉いさんは、孫がいそうな感じがした。

「じじ」とか呼ばれたら、デレデレして財布の紐が緩みまくりな人って感じだった。

どういう理由かは知らないけれど、その年齢の新潟県男性には珍しく、結婚指輪をしていた。

本当に珍しいから、家族第一なのか家族から疎まれても本人は家族ラブなのか、まぁそんなこんなは予想できた。

孫なんて来た日には、それがたとえ孫は金目当てでも目尻をどこまでも下げていそうなおじさんの姿が目に浮かんだ。

A社の2人の方は、2日間ご一緒させてもらって、本当に面白い人たちだった。

特に課長的な年上の方は、出張をどこまでも楽しんでいた。

初日、思いの外早く仕事が上がると、一目散に個人的趣味に基づいた小さな旅を決行しに行かれた。

行き先に営業時間や、営業時間までに間に合わなかった場合の商品の後日郵送可否やらを電話で尋ねるぐらいの徹底ぶりだった。

初対面だから待ち合わせ場所で最初に会った瞬間は見たままの情報しかない。

それでも、C社の面々の方々を見た時のような病的な危うさは感じなかった。

むしろ、感じ良さそうな方たちで本当に良かったと思った。

久しぶりに、本当に「人」に会ったって感じだった。

中身は仕事なんだけど、仕事人の前に「人」を感じられる人たちで、私の中では超ポイントが高かった。



【心をさらけ出せる場所】
またまた独断と偏見の話ではあるけれど、おじさんたち五人衆を見て、「心をさらけ出せる場所」というのがキーワードとして出てきた。

B社の社内で仕事をしていた時、その場所というのが従業員の方たちが行き来したり立ち寄る場所で、色んな方たちを見た。

現場の入口手前で壁や扉なんかの仕切りもあるから、声は現場には漏れない。

現場担当のおじさんも何人か見て、その方たちと女性たちとのやりとりがすごく良かった。

互いに愚痴を吐き出しつつ、自分いない時にそこは頼むよってお願いし合える仲のようで、そういう会話を何人か耳にした。

現場には現場の不満があるのは話ですぐわかった。

それを共有できて互いに応援を頼めるというのは、とても心強い。

だから、そういう人たちが私がいた場所に備品返却や備品引取りに来ると、感じの良さが空気だけで伝わってきた。

マニュアルの細かさで言ったら、私が見た数々の企業でもトップ3に入ると思う。

完璧が当たり前の出来だとされる職種・企業において、少しでも気を緩める場所があるのは絶対に心強い。

C社の役職のおじさんたちに会った時、それが本当になくて、多分仕事も1人で抱え込むものが多いだろうことと、あの感じだと家でもどうかな…なんて思った。

心をさらけ出すのが得意な人不得意な人がいるし、それを絶対の解決策とは言わないけれど、それがあるとないとでは人生における心の健康の質がかなり違うだろうと予想できる。

心に風通しの良い何かがあれば、それだけで心の健やかさはかなり上がったりする。

職場内でなくても、家でも友達でもはたまた趣味の場でもなんなら自然と戯れるでも、自分が自分のままでいられて、心をそのままさらけ出せることがあることは、私の場合、人生で一番重要だと言ってもいいかもしれない。

だから、C社の人たちを見てその出ている空気感が気になったのは、そこだったのかもしれない。

抱えきれない何かをどこにも出せずにいる風に見えたから(実際は知らないけれど、多分私の感覚で言うと9割は私の読みで当たっていると思う)、見ている側も何となく息苦しいみたいなのを感じた。



〜ここから下は、上のものを書いてから数日後に書き足した〜5/20


【おじさんたちの痛み】
いつもの癖で「どうしてこのシーンを目撃することになったんだろう?」と疑問に思っていた。

私の中での重要度は低くても、一生に一度あるかないかのイレギュラーな出来事には違いないから、気になった。

【起こることすべて必要があって起こる】という信念を心のポケットに持っているから、だからこのことが妙に印象に残る理由が当初わからなかった。

(「心のポケット」って言葉が今出てきて、それ使えて大満足(o´艸`))

あれから数日経って、オルゴナイトを使ってののどの不調治療中、不調第4ラウンドに突入した今、私は身体ではなく心の方からの癒しのプロセスに切り替えつつある。

その辺りはまた後日ブログに書こうと思っているけれども、そののどの不調和に対してのケアと男性性の癒しとがリンクして、それでハッとなった。
(わかりにくい説明だけど、色々なプロセスを経て「男性性を癒す」というヒントが出てきたから、今「男性性」について調べている)

おじさん会議で私が見ていたのは、「痛み」それも「心の痛み」だったんだと気付いた。

当初高みの見物状態だったけれど、今はそこで見て取れた痛みが自分の痛みとリンクしている。

しいては5月5日スタートののどの痛みとも繋がっているらしい。

ここからまた独断と偏見の私の分析を書くけれど。

あそこにいたおじさんたちは、全員多分「限界」を目の前で日々見ていて気付いていると思う。

これまでのやり方が通用しないことも、紙切れで誓約書なんか交わしたところで根本的な解決になっていないことも、全部全部わかっていたと思う。

だけど、そうしたことに真っ向から向き合って、さらにはこれまで成功したやり方を脇に置いて新しいやり方、しかも足し算ではなく引き算をする、そういうタイプのことをしていないから、当然恐怖も不安も半端ない。

しかも成功事例というか実施実績がないから、先の見通しが効かない。

そんなものを提案するなんていうのは、まだまだその前にたくさんの準備と分析がいるだろうことは予測がついた。

これまでの功績を脇に置くなんてのは、ものすごい勇気がいることだし、さらにそこには大なり小なり痛みのようなものも発生しやすい。

ある意味向き合わない方が楽だったりする。

「降参です」とは言えない維持やプライドもあるだろうし、日々一生懸命やっている自分が報われない怖さもあるような気がする。

互いに取引先との会議ゆえ、目の前の数字、目の前の案件に目を向けて話し合いが持たれるのは当然のことだし、それが正しい在り方だと思う。

だけど、あの時間が妙に印象に残ったのは、おじさんたち1人1人の外に出せないもの、心の痛みが見え隠れしていて、私はそれを自分に重ね合わせて見ていたのかな…と思った。

その時は興味津々で見ていたけれど、自分の今とおじさん会議で見てきたものがリンクし始めた。

これは私の場合だけど、自分の中の痛みをいきなり見るのはハードルがとても高いから、自分のものを見る前に他人のものを見て感じる場面が与えられることが往々にしてある。

そういうものは長く印象に残って、あとから「これのことだ!」という何かが自分の中から出てくる。

今回なら「自分の痛みに気付いてね」ってことだったんだと思う。

その痛みと向き合っての今(身体的な痛みが今回は先で心の痛みは後から徐々に気付いている)、新たに見えてきたことはまたおいおい書いていこうと思っている。



[写真たち]
おじさん会議の日に集合場所に行く道中で見つけたものたち。

色とりどりの花に癒された♡

セロリや水ナスの苗なんて本当に小さくて、そんな小さな芽があんなにデカイものに成長するのかと思ったら、驚きと感動で心の中がいっぱいになった。

2019年5月19日日曜日

初めての1人前世療法




今日は過去最高のオカルト話。

私も半信半疑だけど、こんなの書き残さないと忘れるし、ある意味面白い体験ではあったから残そうと思って書く。

今日の今日こそ、頭のぶっ飛んだ人みたいな話だから、苦手な方はどうぞ引き返して下さい。
(前回の『オルゴナイト式天然石の治療』なんて、全然内容としてかわいいし、あれはリアルな体験談&私以外の人も見て触って確認できる話だから、信じる信じないは個人の自由でも、話すことに関しては抵抗がない。
今日これから書くことの方がうんと抵抗がある。)



私が数時間前に体験したのは、なんちゃって過去世へのトリップ。

かーなーりー、現状行き詰まり過ぎて、その行き詰まり解消のために、「1人でできる前世療法」なるものをやってみた。

そもそもの発端は、前世療法じゃない。

ホロスコープの調べ物をしている中で(何を検索していたのかもすっかり忘れた)、これまたたまたま行き当たったサイトで、非常に不思議な内容だった。

最初はホロスコープの専門知識をひたすら辿っていたのは覚えてる。

ところが途中から過去世の話がバンバン出てきて、そしてその書いている人というのが自分の過去世をいくつか見たことがあって、さらにはそういう体験を持っている人たちから色々話を聞いて、そうした内容とホロスコープを組み合わせて検証しているという、未だかつて見たことのない新ジャンルの人だった。

先に専門用語を織り交ぜると、過去世や輪廻転生のテーマにまつわる感受点として、「ドラゴンヘッド」と「ドラゴンテイル」と呼ばれるものがある。

通常、ヘッドが今世の課題で、テイルが過去世から持ち越して今世では手放すもの(もしくは有効活用するもの)として説明されている。

そのテーマから私も最初読み始めて(←調べた内容はそこじゃなかったけれど、面白いタイトルに惹かれて読んだに過ぎなかった)、読み進めるうちにその人が自分の過去世をいくつか見たことのある体験者だと知った。

で、その体験者である筆者いわく、ヘッドとテイルの解釈が本当は真逆だと、本人の体験談と共に書いていた。

ちなみに筆者の方は、ホロスコープは自分を知るためだけに使っていて商用には使っていない。

本当の研究者肌の人で、コアなファンはついても絶対に一般受けしないのはわかる。

本人もそれ狙いだから、そして変に夢を見ず超現実重視の人だから、より一層言葉にしても内容にしてもキッチリとしている。

占星術が経済や宗教と結びつくとどういうバイアスがかかるかまで書いていて、読んでいて痛快だった。

で、ドラゴンヘッドやテイルの解釈だけではなく他の解釈に関しても、私が最近「これまさに自分じゃん!」と思ったこととその根底になった私の仮説と見事に一致して、それでその人の記事をいくつもいくつも読んだら前世療法の内容に及んでいった。

ちなみに私の「これまさに自分」話はまた書き終えたらアップする予定だけど、私もたまたま行き着いた内容で、1年もホロスコープ調べをしながらこれまでほとんどかすりもしない情報だった。

かすりもしないということは、言い換えると、それを丁寧に解説してくれてる人が圧倒的に少なくて、だから行き着かないのも無理もなかった。

その圧倒的に少ない情報についてもその人は細かく触れていて、だからこそその人が本当に調べ上げたことがそれでわかった。

で、そんな方が簡易版の1人でできる前世療法のやり方をアップしてくれていて、私もやってみたい!と思った。

ちなみにその方は前世療法に関しても、過去世を見る必要のある人は見るだろうし、見る必要のない人は見ないだろうこと、見たからと言ってそれで今世の課題が一気に解決するとかではなくそこで得たことを今度はどう日々に活かすかが大事、そう謳っていたから、より一層信頼できる内容の人だった。

やり方を読みながら、少なくとも過去に退行していくやり方や催眠をかけるやり方は知っているのと、もちろん何度も過去にやって実践してるから感覚もわかるのと、細かな注意点も読んで理解できたから、大丈夫、できる!となった。

万が一憑依されたら…や、きちんと戻ってくるための方法も書いてくれてて、それはすべて準備もできれば自分でも確認する方法も書かれていたから、自分でやれるとわかって、それでようやく決行した。

今振り返って思ったけれど、過去世に飛ぶ際に通過するプロセスの特徴はさすがに読んでも未体験ゾーンでわからなかったけれど、それ以外の部分は私はすべて方法も理論も読んですぐにわかった。

そう、やっても大丈夫なぐらいに自分が知恵だの知識だのが付いたんだと気付いた。



もう1つ、今回そこまで徹底して1人前世療法をやりたかった理由がある。

私は5月5日からずっと喉の風邪のような症状が続いている。

これが不思議で、とにかく良くなってきたと思うとぶり返しみたくなって、そして今は第3ラウンドと言わんばかりに3回目の不調を追体験している。

3回目の不調がちょっとこれまでと違っていて、今回ガーゼにオルゴナイトを包んでそれを喉に当てたらひどくなった。

前回の記事で、地面に落としたペンジュラムに傷がついて、何をしても傷が消えなかったのに、一晩オルゴナイトの隣りに置いたら傷がものすごく薄くなった話をした。

それ見て、何で今までオルゴナイトをのどに当てなかったんだろう…と思って、それでオルゴナイトをのどに当て始めた。

そうしたらまた具合が悪化して、これはいよいよ普通ののど風邪ではなく、もう溜まりに溜まった潜在意識や魂レベルの意識からの不調なんじゃないかと思った。

明日5/19はさそり座の満月で浄化作用が強く働くのはわかっていたから、死と再生をかけての大浄化が今行われているんじゃないかと疑っている。

で、そうとなると、私が本当の本当に最後まで頑なに握りしめている価値観が何なんだ?という話で、それは私が動かない理由とも超リンクしているだろうし、その理由は頭で考えられるような理由ではないだろうことも感覚的に感じているから、そこでこのタイミングで出てきた「1人前世療法」の情報で、それで試してみての記録。

もしかして、1人前世療法した先には、私の欲しい答えやヒントがあるんじゃないかと思った。

だからやってみた。

そうだそうだ、今回私は1人前世療法を始める前に、1つだけ意図したことがあった。

始める前に「今の行き詰まっている現状に関してのヒントとなる過去世を見せてください」とお願いしてから始めた。

逆に言うと、私は本当に生きているうちに見たい過去世には触れたくなかった。

それはペンジュラムが登場する過去世だけど、それだけは絶対に正式に適切な方法で見たいから、お願いだからペンジュラムの過去世は避けて欲しいと思った。

だから、今の現状に対してヒントになりそうな過去世を私は見るものとしてオーダーした。

ちなみに、先に言うと、やってみた後「だからなに?」という感じだったのと、言うなればパズルのピースを何個かもらってきたみたいな感じで、私が(超)期待したほどの産物はなかった。←期待値でか目なのは相変わらず 笑。

ただ、不思議な体験には変わりないから、備忘録として残しておきたい。

そんなの日記帳に書けよ!って話だけど、私の癖で、ブログに書く方がこういう場合は誰かが読むと思うと丁寧に詳細に書こうとするからここの方がいい。

だから日記帳ではなくブログに残すことにした。

日記帳なら
・前世療法試した
・胎児の時
・魔女
・カード
とかそんなぐらいで終わるのが目に見えてる
( ̄∀ ̄;)。

そして、そんなのは後からもれなく忘れる、マッハのスピードで( ̄∀ ̄;)。

ブログなら文章にして書くから、だから今回はこうしてこの場を使っている。

【追記:実はこの後の文章を書いていく中で、今回の前世療法体験に超大事なヒントが含まれていたことに私は気付いていく。
だから、1人前世療法の備忘録として書き始めたものが、最後は全く別の話に変わっている。】




3つの印象的な場面があった。

1つは今の体に自分の魂が入っていくシーン、1つは前世的なシーン、最後の1つは寝落ちしていたから実際のところ夢なのか前世療法の何かしらの名残りなのかはわからなかった。

最後は現代風な景色だったから違うかもしれない。

しかも、普段の寝ている時に見ている夢よりも色や形が超リアルで、はじめ自分の脳がでっち上げた物語なのかとも思ったけれど、それともちょっと違うようだった。

何せ断片的にしか見えず、意味も分からなくて、その割に鮮明に記憶に残るという不思議な感覚だから、忘れないうちに書いてしまおうと思う。



1つ目のシーンは、過去に退行して、幼児年齢まで行った後しばらく、「で、ここからどうなるわけ?」と思ってぼーっとしてたら、胎児みたいな体が出てきてそこに自分が入っていくシーンだった。

紛れもなく私はこの今の体を選んでいた。

おかしな言い方だけど、その体の中に自分を宿そうというはっきりとした意志があった。

気付いたら前世療法中の自分が泣いていてビックリした。

泣いてることさえ気付かなかったぐらいにそのシーンに私は集中していた。

何で泣いてるのかわからなかったけれど、静かに涙を流していた。

なんとなく感動してる風だった。

「自分が選んだ」というそのことに感動しているみたいだった。



泣いてることに気付いたことで少し意識の状態も変わったことに気付いた。

「これもっと見れるんじゃ?」と闘志を燃やして 笑、さらなるものを求め始めた。

説明に、今世の状態から過去世に飛ぶまで、暗いカーテンみたいなのや暗闇が続くというのがあった。

読んでる時は「なにそれ?」と思ったけれども、胎児のシーンが落ち着くとたしかに暗いところで「無」になった。

自分は確実にいるけれど、とにかく暗い。

どこにいるとかなんてわからなくて、言うなれば海底の深くて暗いところに行こうとしてるみたいな感覚だった。

境界線を持たない闇の中にポツンと自分がいて、実際体があるのかはわからなくて、でも意識体は確実にあった。

「これいつまで続くんだ?」と思ったり、「こんなんで過去世に本当に飛んでけるの?」と、いかにも俗世まみれな思考を働かせながらしばらくそのままでいた。

途中何がどうなったのかさっぱりわからなかったけれど、突然真っ暗だったところから徐々に明るい部分が目の前に広がり始めた。

弁当を入れる巾着袋があったとして、それを開ける時に真ん中から外側に向かって巾着の中が見えるみたいな、ああいうタイプの視覚の広がり方で。

そして真っ暗から明るくなるのは、洞窟にいて洞窟から外に繋がるスポットを見つけた時、いきなり周りが明るくなる、あの感じに似ていた。

そんな風にして、私は目の前の風景に目をこらした。

明らかに今いる自分の部屋ではないどこかだった。

何でそんなことがわかったのかはわからないけれど、女の人で体は今よりもかなり細くて、背の高さはあまり今と変わらない風だった。

線が細い感じで、30代から40代ぐらいの女の人なのはわかった。

小さなほとんど何もない部屋にいて、部屋も多分3畳とか4畳ぐらい、窓があるみたいで外の太陽や空の明るさが入って、薄暗い部屋も多少は明るくなっていた。

窓の近くに立って、左半身木漏れ日的な光を当てて、体に熱を感じた。

不思議だったけれど、私の今の体も左半身だけ熱を感じてる風で、何だこれ?と不思議な気持ちでいた。

私の意識は確実にその体の中に入っているけれど、その様子を客観視している今の自分とその誰かも知らない自分を比べてる時がかなりあった。

次に見えたのが私はその小さな部屋の小さなテーブルみたいな台の前に座っていて(座っているのは椅子みたいだった)、目の前にはトランプみたいなカードを横一列に並べていたのと、その周りにあるホコリを小さな筆みたいなもので祓(はら)っているのか、ホコリ占いでもしているのか、何かしら祓っていて、「何してるんだこれ?」と思いながらしばらくその様子を自分で見ていた。

冒頭のカードを横に並べた写真は、そのシーンの様子を再現したもの。

デザインは無地みたいだったし、もっと薄暗い感じのところではあったけれど、雰囲気はかなり似ている。

1人女性が私の目の前にいた瞬間があったけれど、それが誰かは顔を見てもわからなかった。

その姿を見ていたほとんどの時間、カードと小さなほうきとそれらを載せる台と窓しか見えなかったけれど、とにかくここではないどこかにいた。

さらに私は感覚的に「魔女みたいな全身を覆うような服を着ていて、顔と手以外は肌が出ていない」ということに気付いた。

もっとリアルに感じたくて、近くに用意していた羽毛布団を引っ張ってきて、顔と手以外を布団で覆った。

より一層雰囲気が出て、そして私はいつのまにか寝落ちしていた。



次のシーンは、多分今現在の日本のどこかの自然豊かな町だった。

なぜか私は自分の好きな料理ブロガーの人の家にいた。

ちなみに家はリビングとキッチン以外写真で見たことがない。

なぜか私は娘家族のベッドルームに案内された。(娘家族は実際に同居はしていない。)

大きなベットが隙間なく3つぐらい並べられていて、真っ白なシーツたちに刺繍が施されたもので全て統一されていた。

部屋の窓のすぐ外は小高い丘になっていて、そこに野生の鹿が私の方を見てじっとしていた。

その風景に癒されながら、次の瞬間は地域の祭みたいなシーンと場所になっていた。

水神様を祀(まつ)るみこしみたいなのを男の人たちが担いで町を行脚していた。

水害が起きないようにの願いを込めての儀式のようだった。

そこで私は目が覚めた。

前世的な魔女風の自分から今現在の日本のどこかの町に移り変わるそのタイミングは、寝てしまってわからなかった。




[振り返り後記]
魔女っぽい姿は、最初この1ヶ月2ヶ月で聞いた友達2人の話を自分の中ででっち上げてるのかと思った。

全然接点のない2人の人が、それぞれ魔女だった頃の自分の過去世の話を私にしてくれた。

孤独なところはそっくりで、だから2人の話の合いの子みたいなことを私の頭がでっち上げてるのかと疑った。

だけど、私がその時したのは「自分がどこにいるのか」の確認だった。

すごい変な言い方だけど、魔女みたいな女の人の中に自分の感覚や意識はあって、小さな筆でささっと何かを祓(はら)うのか、ホコリ占いでもしているのかのその筆の動きが私の手の感覚だった。

温かさや光を感じてるのも私だった。

五感の受信者が丸ごと自分そのもので、その自分が魔女みたいな人の全身と一体化していた。

だから、これ私なんだとわかった。

とてもおかしな言い方だけど、そのシーンと次の日本のシーンに出てくる私は、明らかに今布団の上で横たわって1人前世療法している私とは別人格で、体の感覚は完全に布団の上の私にはなくて、見ている方の人物たちの中に感覚があった。

冒頭の写真は、そこで見てきた風景を忘れないために(一晩寝て起きても意外にもしっかりと覚えてる!)、再現したものたち。

筆みたいなのは実物と少し違っていて、木の棒なのはそうだけど、太さは上から下まで均一だったのと、あと普通に普段使いしているのか使いこなれた感があって、写真みたいに新しくなかった。

[『エコショップ節水村』の楽天サイトより、スクリーショットを撮らせてもらった。]

最初、「魔女 小さいほうき」で検索した。

使っている時に、手の動きは本当に普段使いしているのは感覚でわかったけれど、「これ何してんの?」と思った。

掃除というよりも、何か違うことをしている風なのは感じていた。

でも今現在の生活様式とはずいぶん違っていて、その行為が何なのかわからなかった。

だから私は「えっ?ホコリ占い?」なんて意味不明なことを思ったけれど、それは検索をあとからかけて知ったこと。

小さなほうきというのは、場の浄化に使うものだったらしい。

言われてみて、あぁそれが近いかもと思った。

確実に掃除とは違っていたから、でもその割に普通にやっていて、何の意味があってやってるのかがやたらと気になった。

その時は頭の理解が付いていかなかったけれど、後から調べた時に妙にしっくりくる解釈(=小さなほうきでする「場の浄化」)を得て、その理解に少し驚いた。

「何でしっくりくるの?」って。

これは想像としか言いようがないけれど、そこで見たものこそ自分だという何よりもの証拠なのかもしれない。

だって何してるのかもわかってないのに、感覚はしっかりあって、さらには「場の浄化」と聞いてしっくりくるなんて、それはもう自分だからとしか結論の出しようがない。

ちなみに「魔女」とか言っているけれど、それも正直わからない。

でも、私はその自分のことをどういうわけか「魔女だ…」と思った。

根拠なんてなくて、魔女かそれに近しい社会的立場として生きていたと感じた。



ヒントはわからなかったし、この体験そのものが何なのか掴みどころがあるようでなかったけれど、1つだけ今と同じだと思った。

魔女っぽい姿の自分も、孤独だったこと。

何となく追いやられたというより、自らその生活を選んだ風にも思えなくなかった。

もしかしたらもっと深くその自分と一体化したら、他の人たちも登場したのかもしれない。

でも、いるのは自分1人で、小さな空間の中でポツンとしていた。

その私は寂しくなかったけれども、その1人ぽつねんとしている姿とここ最近の自分の気持ちとが重なり合うところがあった。

そのシーンに辿り着いて真っ先に思ったことも筆とか魔女みたいとかではなく、「誰も周りにいない」だった。

たまたま自分1人でいたよりも、普段から基本のベースは1人でごくたまに人が来るみたいなイメージだった。



私は時々、どうにもならないぐらいに自分が孤独だと感じる時間がある。

世の中の誰とも繋がっていないような、どこまで行っても自分しかいないみたいな気持ちになる。

これだけベラベラと書いているけれど、私は自分の気持ちを素直に言うこともとても少ないし、自分の気持ちになると何重ものオブラートに包んでもはや何が原型かわからなくなるぐらいに表現を避ける。

自分が孤独なんだと堂々と誰かに言えるほど強さがない。

平気なフリが身に付いて、言葉をいつも濁すか話を変えたりする。

そしてさらに苦手なのが、表面だけ誰かがいる状態。

心は全く繋がってないのに、形だけ繋がっているみたいなのは、ない方がマシだぐらいに思っている。

自分でも面倒くさい人だと思う。

「寂しいから会いに来て!」とか「寂しいから今から行っていい?」なんて可愛く言える人たち、年齢性別問わず、本気ですごいと思う。

そう言えるのが羨ましいとさえ感じる。

よく考えたらただの一度も人前で寂しいなんて言ったことがない気がする。

小さな子どもたちと「さみしいね」って言い合った記憶はあるけれど、大人とは多分ない。

自分の性格もだし、人間関係を築くのにたくさん難しい場面を経験してきたから、誰かと本気で繋がれるなんて私からすると奇跡だと思う。

難しいこともわかっていて、だからこそ孤独なのはどこか当たり前と割り切る自分もいるのに、時々本当に止まらない孤独感に襲われる。

のどの風邪で不調に不調を重ねまくったここ2週間ほどは、何度も孤独を深めていった。

本当に今この瞬間、誰とも繋がっていないという感覚が、風邪で感覚が朦朧としているところに、さらに強く出てメンタル的にもかなり参った。

そして、もし私がこのままなら、私はもう生涯誰とも繋がらず孤独のままなのかという思考もムクムクと出てきて、それもまた絶望感をたっぷり感じていた。

生きることそのものに対する絶望みたいなものだった。

中途半端に誰かと繋がるぐらいなら1人の方が本気でマシで、だけど1人は1人で底なし沼みたいな孤独との戦いで、どうやっても心は安らがなかった。



実はこの文章、さっきから途中途中書いたり、ホロスコープの調べ物したりして書いている。

順番も書いた通りではなくて、途中まで書いても他に思いつくことが出てくると、最下部に書き足してまた元に戻るということを何回も繰り返している。

魔女的なシーンよりも、その後の孤独との戦いを先に書いたし、そして第3のシーン、日本の町の部分はまだ書いていない。

順番はちゃめちゃだけど、書き物+調べ物で「これだ!」というのが出てきたからそれらを今から書く。

魔女的なシーン、後から湧いた孤独、さらに自分のドラゴンヘッドとテイルのテーマ、それらが全部繋がって、自分が本当に求めているものが出てきた。

今日の昼間書いていた『おじさん会議』(仮題)の記事の中身ともかぶっている。←未完で、アップするのは後日。

以下、『おじさん会議』より一部抜粋。

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おじさんたち五人衆を見て、「心をさらけ出せる場所」というのがキーワードとして出てきた。

職場内でなくても、家でも友達でもはたまた趣味の場でもなんなら自然と戯れるでも、自分が自分のままでいられて、心をそのままさらけ出せることがあることは、私の場合、人生で一番重要だと言ってもいいかもしれない。

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世に出回っているドラゴンヘッドとドラゴンテイルの説明としては、テイルのテーマは何度も過去世でやって身に付いているから、今世ではそこは削ぎ落として、反対にヘッドを今生の魂の課題として掲げて取り組んでいくとなっている。

私の場合で言えば、人と大切な知恵を共有することはさんざん過去世でしてきたから、今世では自分のオカルト能力に磨きをかける、と読む。

でも、いまいちしっくりこなかった、ずっとずっと。

なぜなら、オカルト能力は、多分ここから先は興味を持っていくらでも磨けるから。

1人で前世療法の簡易版しちゃうぐらいの人だから、オカルト系はいくらでも1人で勝手に私は極めると思う。

金にならなくてもやるぐらいだから、勝手に関心持ってやると思う、これからも。

でも、人と大切なものを共有すること、もっと言うと自分が人と共に在るのは、私にとって何よりも切望してると共に何よりも怖くてたまらないものだとわかる。

私は1人が好きなんじゃない。

私が1人を選ぶのは、誰かと深く繋がった後にその人を失うことが何よりも怖いから、そしてそれを体験するぐらいなら最初から1人でいる方が安全だと本気で信じ込んでしまっているから。

だけど、本当は人ときちんと繋がりたい。

見せかけの繋がりではなくて、本当にきちんと繋がっていたい。

だから、私も逆なんだ。

ヘッドのオカルト能力は、過去世で多分何回も繰り返している。

自分でわかる。

私にとって、1人前世療法とかこの体験談を書くとか、そういうことはハードルが高くない。

だけど、人と繋がっていくこと、それも自分が全身全霊で繋がっていくこと、それの方がもう測定不能なぐらいに怖い。

だから、私のホロスコープはまさにそのことがよく表れている。

オカルト系の資質も人生のテーマにあるけれど、私の場合、オカルト資質ははっきり言って手段でしかない。

私のホロスコープに刻まれた本当の人生の目的は、人と繋がっていくこと。

それも心から繋がっていくこと。

だから私にとって苦手なテーマが山ほど入っている。

しかも苦手となるような体験も山ほどすると読み解ける星の配置もある(あるどころか、人生80年とするなら、そういう人生が前半展開した)。



紐がどんどんほどけていく。

私は自分ができることをいまいち好きになれていなかった。

それはできることに関して好き嫌いではなかった。

むしろ、自分でも気に入ってるぐらい。

自分でも人に寄り添う力とか、本気ですごいと思うことがある。

人のために使うのも嫌じゃない。

むしろその相手に私を選んでくれてありがとうとさえ思う時もある。

だけど、私は好きになれない。

やっとその差がわかった。

私の寄り添う力、それ目当てにこられるのが嫌なこと。

他の資質もだけど、英語力とか人の潜在意識をキャッチしてそこからヒントをもらうこととか、そうしたものが嫌なんじゃない。

それで来られた時に私は思ってしまう。

「それを持ってない私なら、あなた私のところに来ますか?」って。

私じゃないところに相手のニーズや欲しいものがあると、私は途端に自分の持っているものが嫌になる。

はっきり言って、それ私じゃなくていいよね?って。

相手が欲しいのは私や私との関係じゃない、というのは、私の勘違いや思い違いの可能性も否定しないけれど、それが起こる時なんか肌レベルで感じてしまう。

自分自身が求められていないこと。

相手が欲しいのは私の能力とか私を通じて出てくる答えやヒントだということ。

これは知的レベルが人並みになってから、だから大学あたりからずっと続いているテーマで、私は色んなシーン色んな人に対して数え切れないぐらいに怒りが毎回沸いてた。

その沸き方も尋常じゃなくて、多分怒りポイントとしては1位2位ぐらいに激しく出てしまうものだった。

自分が利用されてると感じるのは、多くの人にとっても面白い体験ではないと思う。

だけど私のその怒りの沸き方は、面白くないなんていうレベルではなくて、それで相手との関係を全部断ちたくなるぐらいのレベルで出てくる。

許せない、となるのもそういう時が多い。

でもようやくわかった。

私にとって、人ときちんと繋がること、損得勘定抜きで本当に純粋に繋がることは、とても大切なことで人生で得たいと強く望んで止まないことだから、だからそれが踏みにじられるようなことが起こる時、ものすごい勢いで怒りが爆発する。

全部繋がってきた。



人と心から繋がるというのは、一朝一夕にできることじゃない。

人に対しての不信感や警戒心も私は強い方だし、さらには自分をさらけ出す勇気もなければその自分を出して大丈夫?みたいな怖れもものすごく強くある。

でもそんな自分だとわかっていても、私は本当に誰かと繋がりたい願望がとても強い。

魔女のシーンが最初意味がわからなかったのと、それがヒントだなんて全く思えなかったけれど、時間の経過とその前後にきた情報とを合わせて、初めて本当に純粋なる自分の想いに気付けた。

人と繋がる…と思う時に、もしくはその反対に繋がってると思っていたのにそれが自分の望んだものとは違う風だと知る時、私の恐怖感は半端なく強い。

怒りがとめどなく出る場合も多々ある。

それはずっと子どもの頃から今に至るまでの体験でそうなってると思っていたけれども、多分転生する中でも繰り返し身に付いた恐怖感も相当強いんだと思う。

魔女的な私は今よりもさらに人から離れた生活を普通に送っている風だったけれど、それはここに書いた色んなこととリンクしていると感じる。

話はさらに飛ぶけれど、この2週間ほどの体調不良の中、そして破壊と再生をテーマにしたさそり座満月というもののエネルギー、そこから出てくるのは【本気の望み】なんだと今やっと気付く段階にきた。

具合が悪すぎて寝ていても身体が辛かった時、私が唯一強く強く感じていたのは孤独だった。

誰かに自分を気にかけて欲しいけれどその誰かがいないという理由での孤独じゃなくて、もっと根源的な孤独だった。

苦しいでも辛いでもしんどいでもいいのに、私が感じ続けたのは孤独だった。

で、今だからわかる。

その先にあるものは「人と心から繋がりたい」という強い望みが私の中にあること。

そしてそれが叶わない状態、すなわち孤独を本当に嫌になるぐらいに感じ続けていた。

そういうものが1つの線の上にすべて並んだ。



不器用な自分はまた不器用らしく色々もがきそうだけど、人と繋がることを私があきらめない限り、生きているうちに誰かしらとは繋がれる気がする。

パートナーシップが一般的だけど、私は別にそれが全部とは思っていなくて、それは相手と私とがどういう関係性でもいい。

最後のシーンもそうなると繋がってくる。

何で寝室に案内されてるんだろう?と思った。

そして超リアルな鹿。

ちなみに鹿は、夢に出てきた場合、吉兆や開運を示すらしいのと、鹿そのものは幸福や平和の象徴、神の使いを表してるらしい。

奈良の鹿たちを思うと、「神の使い」というのもわからなくもない。(その割にあそこにいる鹿たちは超野性味溢れてどう猛だけど…)

娘夫婦の寝室に案内されて私の頭の中は別の想像も働いたけれど( ̄∀ ̄;)、よくよく考えて何で寝室だったのかがわかる。

その寝室は、シーツとか超きれいに整えられていたけれど、そこがホテルじゃなくて家の中の寝る場所だというのはわかった。

1日の終わりに自分の身体を休める場所で、そして寝る時こそ寝間着以外は何も身につけていない素の自分になる。

なんなら、夫婦の営みがあれば真っ裸になるわけで、本当に身体1つだけを持って誰かと繋がることになる。

要はそれぐらい、まっさらな自分で誰かと繋がることをそこでは象徴していたんじゃないかと思う。

そしてリアルな鹿の登場で、それが可能だよとも伝えられてる風に感じた。

その後にみこしのシーンも来るけれど、魔女のシーンや胎児のシーンと違ったのは、人がたくさんいることだった。

しかも、みこしはそこにいる人たちみんなが同じ方向に向かって動いている。

動作の話じゃなくて、心を1つにしているという意味での同じ方向。

それが私の求めている答えの象徴でもあったんだと今気付いた。



孤独に向き合うのはしんどい作業だし、向き合いたくなくても自然にムクムクと沸いてしまうことも時々ある。

何かしている方が気が紛れる場合も多いし孤独を感じなくて済む。

でも、私は今回体調不良によって、そして1人前世療法を試したことで、より一層孤独感を深めたけれど、今はそこに向き合って良かったと感じている。

孤独も人と繋がる怖さも、究極のところ、誰かと本当に繋がったらなくなるわけではないと思う。

和らいだり軽減はしても、なくなりはしない…、そんな風に思っている。

だけど、孤独は色んなことに気付かせてくれるものだし、必要があって存在している。

さらにそこを丁寧に見てあげると、今回みたいに自分の本当の望みが見えたりする。

孤独であり続けるよりも、本当の望みを自分の目で心でしっかりと受け止めていく方が怖いこともあるんだと知った。

今でも1人の方が究極楽なんじゃない?と思う。

それでも今世この身体を持ってこの時代に生まれたのは、人と心から繋がる体験をしたくて来たような感じがする。

孤独感について書いたあたりは、書きながらボロボロ泣けた。

色々思い出して泣いたのではなくて、何か深いところで感じるものがあったから泣いた風だった。

孤独を知る・体感することの最大のメリットは、それがあるからこそ自分と繋がる誰かを本当に大切にできる心を育めることだと思う。

孤独は、誰かがいてくれることは当たり前じゃないことを教えてくれる。

そういう人と出逢えることが奇跡だというのも、孤独を感じるとより一層感じられる。

相手を大事にするように自分も大事にすることも絶対に必要だということも教えてくれる。



まとまりのない文章になったけれど、これが私の1人前世療法の簡易版の体験談。

やってみて面白かったから、また改めてトライしたいと思っている。

2019年5月17日金曜日

オルゴナイト式天然石の治療





オルゴナイトパワー炸裂中v( ̄∀ ̄)v。

昨日は、膝もとい太ももの上にラリマールの方のペンジュラムを置いて運転していた。

30分ぐらい運転していたらそんなことはすっかり忘れて、そのままドアを開けて降りた。

落ちた音がした。

「ギャーーーーーΣ∑(((゚Д゚;;;)))))//」

落とした、ペンジュラムを地面に落とした。

すぐに拾って割れてないことは確認できたけれど、よく見たら一箇所白い傷が付いた。

家に入って布で拭くけれど、落ちない。

ゴシゴシと何回も何回も拭いたけれど、傷は傷、やっぱり落ちない。

ショック過ぎたけれど、相変わらず続いている激しい咳のため早々と就寝した私は、とりあえずいつものようにラリマールや水晶のペンジュラムとオルゴナイトを枕元に置いて寝た。

で、朝を迎えて今さっきの話。

ラリマールのペンジュラムを再度よく見た。

一度付いた傷は消えないよね…と思いながら。

うんっ(´⊙ω⊙`)???

あれっ!\((◎_◎))/!

見間違いじゃないよね?と何度も何度も確認すると、明らかに昨日はっきりと付いた白い傷がわからないぐらいに薄くなっている。

これはどう考えてもオルゴナイト以外に理由は考えられないわけで、今早速オルゴナイトにペンジュラムを立て掛けて治療しているv( ̄∀ ̄)v。

オルゴナイトは本当に何のパワーがその中に入っているのか知らないけれど、こうした有り得ない奇跡的なことを普通に引き起こしてくれる。

パワーストーンに傷がついたら普通は傷は傷で消えることがない。

だけど、なぜか私の持っているオルゴナイトはそういうことを普通に摩訶不思議なパワーを発揮して再生してくれる。

ちなみに今回私の手落ちで傷付けてしまったラリマール、先日友達に会った時にも言われた。

「っていうか、これ(=ラリマール)、見るたびに模様が変わっていくね(◎_◎)!!毎回すごい不思議で仕方ない」

その友達にも1年以上前にオルゴナイトを1つプレゼントして、今や彼女の方がオルゴナイトフリークのようになっているけれど、その友達も度肝を抜かれたぐらいにラリマールの変容っぷりに驚いていた。

しかも、友達のオルゴナイト全種類も見せてもらって、そちらも色々模様が変化していた。

オルゴナイトの中に入っている天然石の色が変わっていた。

友達もそれは言っていて「なんか変わるんだよねー、不思議だよねー」と言っていた。

オルゴナイトの中の天然石の色が薄くなったものもあって友達は効力が落ちたのかと心配していたけれど、私のペンジュラムで聞いたらむしろ本質に近い状態になったとのことだった。

私の手元には私のものじゃないオルゴナイトがもう1つあるけれど、そちらも何もしてないのに内部が変化した。

天然石の周りは樹脂でコーティングされているのに、そんなことって普通にあるのか知らないけれど、現実的に私の目で見ても石たちの色や模様が変わった。

毎回色々不思議すぎる。

持ち主の元にさえ行っていないものが何に反応しているのか?という話だけれど、オルゴナイトにはオルゴナイトの成長のリズムが存在するらしく、静かにひとりで変容を遂げている。

相変わらず持ち主の元へ行く様子もないけれど、これいつか終活ノートとか書くぐらいになった時、どうやって最後手放すのが正解なんだろう…。

せめてオルゴナイトだけでも持ち主の元に無事旅立ってくれるといいけれど…。

オルゴナイトには何百回と聞いたけれど、持ち主の元へ旅立つ気は満々☆٩((*⁰▿⁰*))۶☆。

オルゴナイトに同調して、持ち主も同じ気持ちになってくれないだろうか…と思ってしまう( ̄∀ ̄;)。

ちなみに。

私は私の勝手で連れ帰ってきたとばかり思っていたけれど、今の今それをオルゴナイトに聞いたら「違うよ」と出た。

オルゴナイト本体と持ち主側の意志が双方働いての、持ち帰り役=私らしい!?

えっ( ̄∀ ̄;)?私の意志じゃなかったの??と思った。

当然疑って何回も何回も聞いたけれど、とにかく私は私の意志で持ち帰ってきたとずっと思っていたけれど、それはどうやら違うらしい。

生きているうちにせめてその意味を知れるといいなぁと思っている。

っていうか、本来の持ち主の元へ無事旅立ってください、と願わずにはいられない。



[写真]
オルゴナイト式治療を受けているラリマール 笑

セサミストリートのキャラクター(アーニー)の鳥が指している1〜2ミリほど上の点みたいなのが今回付いた傷。
当初は本当に見てすぐにわかるぐらいに真っ白だった。
写真じゃわからないぐらいに回復した。