2021年8月31日火曜日

夏の終わり2021


今年の夏の花火
家の屋根にござを敷いて
そこから20分間限定の小さな花火大会を見た
例年の四分の一に縮小されたけれども
それでも開催されて花火が見れたことがうれしい
2021/08/28
8月最後の土曜日



秋の訪れを感じる。


夏の終わりじゃなくて「秋の訪れ」。


最近残業続きで夜の7時過ぎにしか外に出れない。


駐車場に向かう道すがら、外の暗さに驚く。


町中であっても、鈴虫の鳴き声が聞こえる。


8月の終わりってこんなにも日が暮れるのが早いんだとビックリしている。


そして、イケメン上司がいた夏はそんなこと気付いてなかったなと思った。


今書いてて気付いた。


当時は定時が17時30分で、だから日暮れ前に退勤していたからそれで気付かなかったんだと思った。


季節のおかげで、イケメン上司がいた風景の背景は、基本的にどれも明るい。


室内だと多少暗くはなっても、それは夏の季節の室内の暗さで、冬の室内の暗さとは違う。


さすがに9月末でいなくなった時には夕方は夕方らしく暗くなっていたけれども、それでも全体的に明るい色合いの風景ばかりが頭をかすめる。


2日か3日前、仕事にあまりにも集中できなくて、私は2017年のカレンダーをネット上で出して、当時の曜日を確認した。


そうだ!と思いついて、2017年のカレンダー1年分を印刷して、それを机の引き出しに入れた。


また見たくなったらいつでも見れるように。


当時の時間をオンタイムで追える、それは年に一度しか巡ってこないチャンスだから、そうやってカレンダーを見て時間をそしてその時にあったことを追いたいと思った。


振り返ることに何か意味とか得があるのとは違う。


振り返っても戻れないし、その時手に入っていた日々を取り戻せるわけでもない。


なんだけど、意味とか得なんか無くても、私にはその時の感じを思い出すことそのものが特別だし、そうすることで自分の中の色んな気持ちが癒される。


だからそうやって仕事中だろうがなんだろうがそんなことをする。







シーツを洗って、寝る前に洗ったシーツや枕カバーをセットした。


その後、いつものようにペンジュラムやオルゴナイト、他の天然石、そしてイケメン上司の名刺を枕の横にセットした。


名刺を改めて手に取ってじっくりと見た。


名刺の中身云々(うんぬん)じゃなくて、名刺そのものが手渡された時と今とを繋げて見た。


名刺をもらった時に私はその名刺がその後何年にも渡って自分のお守り代わりのようになるだなんて思っていなかった。


私は数年に一度、名刺に関しては大規模断捨離を決行するタイプの人間だから、その日もらった4枚の名刺もいつかはそうなるだろうとその時はそんな風にしか思っていなかった。


3枚はどこかにまとめてしまってあるはずだけど、イケメン上司の名刺だけはある時から別にした。


百均に行って透明の名刺ケースを買ってきて、いつもその中に入れてこれ以上名刺が傷まないように気をつけている。


改めて見てみて、そんな未来を私は全く予想だにしていなかったなと思った。


名刺は過去にもらった名刺たちと同じくらいにしか思わなかったし、とにかく不安しかないと言ってもいいくらいの状態で行き始めたから、そんな場所で全身全霊で自分が生まれ変わるくらいのすごいことを体験するだなんて当時は全く思わなかったから、名刺も他の資料も辞める時は全部捨てるだろうくらいに思って、全く見向きもしていなかった。


変わった仕事ばかりをたしかにしてきたけれども、基本的に私は私情と仕事とを完全に切り離す。


人間的な私情というか人情めいたものはあっても、個人的な感情を仕事に持ち込むことなんか一度もなかった。


だから名刺が後に自分のお守り的なものになるだなんて、その時は想像どころかそんな考えさえ思いつくことはなかった。


イケメン上司さえもう持っていないだろうその名刺を私だけがまだ持ち続けている。


改めて手に取ってそのことを思うと、ものすごく不思議な気分になった。


すごい関係ないけれども、金曜日に職場の男性の1人がいつのまにか結婚していたことと、もう1人別の男性に彼女ができたことを知った。


どちらもどうでもいいことだけれど、そのことを聞いたり知ったりした時に、イケメン上司もプライベートでは出会いに恵まれて何か違う風が吹いてるのかもしれない、と大真面目に思った。


イケメン上司の勤める会社と私が今行っている派遣先の会社とは、ある意味とても似ている。


とにかく男性が圧倒的に多いし、普通に仕事と家との往復だけじゃ出会いなんてまずない。


でも普通に彼女とか奥さんとかと何かしらの流れで出会うわけで、ましてや金曜日に知った2人はモテるタイプとはちょっと違うだろうけれども、しっかり誰かと出会っている(しかもコロナ禍で)。


イケメン上司も3年も4年もしたのなら何かそういう出会いに巡り合っていてもおかしくないし、そもそも出会った時でさえもデートするみたいな、デートじゃなくてもマンツーで会う女の人がいたらしいことも後になって耳にする羽目になって(自分は知りたくなくてもそういう情報は全くありがたくないし求めてもないのに、2回ももたらされることのこの悪運なのか強運なのか、自分のこの変な運の当たり具合は呪いたくなった)、何がどうなっていてもおかしくないとこれも改めてそう思った。


そんなことを色々思うと、今私のところにあるイケメン上司の当時の名刺も、そうやって出逢わせてもらえたことも、どこか夢のような出来事だったななんて思う。


一生で一度、ひと夏限定、そして私側の魂的な能力やら資質やらの引き上げのために遣わされた使者的な立ち位置の相手がイケメン上司だったのかななんて思ったりもする。


私も何かしら引き上げる役割をしたいのは山々だけれど、むしろ自ら立候補したいぐらいだけれど、当時の記録なんかを読み返すと百害あって一利なし状態の内容がオンパレードになっている。


このブログの中に何かしら癒しなりプラスとなる要素があるのなら、どうぞどうぞじゃんじゃん使ってね!絞るだけ絞ってね!と思う、本気で、真面目に。







本当は何か書こうと頭の中にあったけれど、それが何かド忘れしたからとりあえず他のことを。


録画した番組を見た。


芸能界のイケメンにおいしい焼肉を紹介して、それをイケメンが食べるという番組。


番組名を見て気になったから録画した。(食べ歩き番組や食べ物系の番組をごはんの時にダラダラと見るのが好き)


画面の向こう側にはたしかにイケメンがいた。


そしてとても上品に高級な肉を食べていた。


女性側のエスコート役の人は、「イケメンが肉をおいしそうに食べてるのを見るのは萌える」みたいなことを言っていた。


改めて思ったけれど、私は基本的に全くイケメンに興味がない。


だから画面の向こうの女性に人気だろう俳優を見ていても全く何も感じない。


これは昔からそうだけど、本当にイケメンに興味が湧かない。


たとえばイケメンとして有名な福山雅治も斎藤工も私がカッコいい!!!となるのは、それぞれの人柄を何かしらで知って、それでカッコいいとは思っても、容姿を見てどうこう思うことは基本的にない。


斎藤工に釘付けになった初めてのシーンは、お笑い芸人の誰かの技を全力で真似した時だった。


本当にその芸人の人が大好きですごくリスペクトしていることがひしひしと伝わってきた。


あんなにカッコいいのに、全身全霊で体を張って真似している時は、イケメンではもはやなくなっていたけれども、むしろ私はその時の方が好感を持った。


前置きが長くなったけれども、「イケメン上司」と勝手に名付けて相手をイケメンと呼んでいるけれど、イケメン上司は本当にイケメンだし、今回の焼肉番組で出てきた2人のイケメンを見ても何も感じなくても、その人たちを見ていたら本当にイケメン上司というのはイケメンなんだと改めて思った。


イケメンを見ても基本何も思わない私からして、イケメン上司も最初はそういう人だった。


私は今の職場で日々100人近い男の人たちと同じフロアにいることをいいことに、変な視点で人間ウォッチに励んでいる。


歩き方とか醸し出してる空気とか、そんなのを見ている。


イケメン上司くらいの背の高さの人なんかは特にガッツリと見る。


中には社内でイケメンと評されている人たちもいる。


なんだけど、イケメン上司と同じ歩き方をする人もいなければ、今となってはもしかしたら本当に私にしか見えていなかったのかもしれない、透明でキラキラした空気なんかは誰も持ち合わせていない。


声も全くときめかない。


今の職場で誰かの声を必死で聞き取るなんてことは全くしない。


イケメン上司は、本人は自分をどう見ているのか知らないけれども、周りからすると本当にイケメンで本人のいないところでイケメンと女性陣みんなから言われていた。


外見的なスペックは本当に高くて、そして私が思うにあの空気感とか人間性とか性格も手伝って、さらにイケメン度をアップさせていると思う。


そんな感じの人ゆえに、私の最初の興味は全くと言っていいほどに意識の対象にいなかった。


無意識の領域はまた全然違っていたけれども、意識の上ではイケメン上司のイケメンスペックに私は全く反応を示していなかった。


だからイケメン上司ともし何もなければ、本当にイケメン上司は「イケメンな人だな」で終わったと思う。


本当にイケメンすぎて、私がイケメン上司と仲良くなるイメージなんか全く湧かなかったし、なんなら自らベラベラとおしゃべりするタイプではないから、そして私も人見知り発動していたから、どうやっても接点なんかなくて、本当に単なる職場の男性っていう風にしか私は見ていなかった。


もし、毎日決まった同じ仕事しかせずに当時日々過ごしていたのなら、イケメン上司と私とは永久にすれ違ったままだったと断言してもいい。


世間的なものさしだと、イケメン上司はハイスペッククラスの人になる。(こんなことズカズカと好き放題に書いて、本人マイナスな方に気にしてたら本当にごめんなさい


でも私はそういうことにほとんど興味がないし、イケメンにも興味がないから、本当にイケメン上司の人間的な部分を知るきっかけがなければ、今は全く違う現実を生きていたんだろうなと思う。


本人は自己アピールの気なんかさらさらなかったと思うけれど、本当に一瞬でイケメン上司は私の一生に残るくらいのインパクトを残した。


それは逆に言うと、イケメンだからでもないし、ハイスペック男子だからでもない。


その人がその人ゆえの理由としか言いようがない。


自然に出ているものが本当にキラリと光っていた。


存在そのものから出ているものに私は何かしらを感じ取ったんだと思う。


それって超すごいことだと私は思っている。


自分に置き換えて考えたらわかる。


だって、「あなたが武士俣史子さんだからいいんだよ」と言われてるのと一緒で、そんなこともし私が誰かに言ってもらえたのなら、私の人生は大成功だなと思う。


「生きてるだけで素晴らしい」なんて、綺麗事にしか普段は聞こえないけれども、イケメン上司を見ているといつもそういう気持ちにさせられる。


何をしていても、はたまた何もしていなくても、存在そのものがすごいってこういうことを言うんだと悟り級のところまで私は見せてもらえた。


イケメン上司は全力で否定してきそうだけど、私から見たイケメン上司はそういう人だった。







8月中にブログをアップしたいから、中途半端な感じだけど、このままアップしようと思う。


書きながらまた新たに書き残したいこともちらほらと頭をかすめた。


またのんびりと自分のペースで書き進めていく予定。


今年の夏の最後の日に、こうして書けて夏を振り返られて、とても良かった。


明日からは9月の振り返りをする予定。


色んな気持ちを味わいながら振り返るのもおつだなと思う。

2021年8月21日土曜日

ショートブログタイム




寝る前のブログタイム。

1時間くらいと時間を定めて書くから、書けたらそのままアップしようと思う。


昨日8/20金曜日の仕事中、私はあまりにもやる気が失せて(常にないけれどもその中でもさらにないワースト更新系)、ふと気になって2017年の同じ日が何曜日なのかを調べた。


日曜日と判明。


ということは、北九州にいたんだな、まだまだ超ルンルンしていた頃だったんだなと振り返った。


その時にパッと出てきたシーンは、神社でおみくじを引いて、そのおみくじに書かれていたメッセージだった。


「神に感謝したくなるような出会い」みたいなことが書かれてあった。


他にも良きことがいくつか書いてあったと思うけれど、とにかく「まさに!」なことが言葉としてあって、気持ちはさらに加速して超級の幸福感に包まれた。


その後からどんどんドツボにハマる険しい道へと入っていくわけだけれど、その時はまだ目の前にある日々のしあわせをどこまでも味わっていた。


今だから余計とわかるけれど、当時みたいに何もしてなくても「しあわせ」だと心から感じる体験など、人生でそうそうない。


それも1日限定とかじゃなくて、何ヶ月というある程度まとまった時間、毎日継続されていたわけで、あれは本当に人生のご褒美だったなと思う。







某手帳に寄せるメッセージの原稿を担当している件で、この数日強烈な体験をした。


久しぶりにメンタルが超落ちたし、受け入れ難い色んなことと何とか折り合いをつけて最後のメッセージをしたためないといけなくて、真面目に「私が今降りたいと言ったら、どうなる?」と今回も誘ってくれたノムに聞いたくらいだった。締切4日前。


そこをなんとか持ちこたえるために、かなり必死に色々やったけれど、ちょうどそのタイミングで読まれた『星の王子さまの日』の自分が書いたブログを自分も読んでみた。


誰が読んだかなんてもちろんわからない。


わからないけれども、これイケメン上司が読んでくれてたらいいな〜くらいはもちろん思ったけれども、とにかくそんなの抜きにしても自分は読んだ。


自画自賛の何物でもないかもしれないけれど、私は自分が書いた文章もといイケメン上司がいた頃の回想や存在意義なんかを書いたそれを読んで、自分の心が癒されていく感触を相当なレベルで味わった。


自分が体験したことや感じたことを書いただけのシロモノだけど、読んでいくうちに自分が癒されていった。


その中にはやさしい空気や自分が救われた体験談があった。


イケメン上司がそれを実際に読んだ時はどんな心情になったのかは想像もつかないけれど、少なくとも私が読んだら、私はその中に書かれていたものを通して尖(とが)りまくり、やさぐれまくりだった自分の心がそっと包まれるみたいな、いきり立っていたものがなりを潜めたみたいな、そんな感じの心にやさしい変化が訪れた。


もちろん、今の自分を想定して自分を癒すために書いたのとは違う。


だけれど、結果的に自分は癒された。


そして癒された内容を自分が自分の人生で経験できて知っているんだと思ったら、とても誇らしい気持ちになった。


私はその世界を知っている。


そのことだけが自分を支えるのに十分な力を発揮してくれて、なんだかなんとかなりそうとようやく数十時間越しに思えた。


改めて感じた。


イケメン上司がもたらしたもののすごさを。


本人は全くもって無意識的だったと思うけれども、本人が無意識の中で私側に与える影響は無限大だった。


存在そのものが癒しって、本当に何か神がかった領域だなとつくづく思う。


こうしてこんなにも時間が経っているのに、今もその癒しの力を発揮するってどれだけなんだろうと思う。







さっき23時過ぎまで占星術講座をネットで受けていた。


その時にふと「時間が流れたなぁ」なんて感慨深く思った瞬間があった。


そしてすぐさま、イケメン上司と今もこうして謎の接点めいたものを持てている(私側から見て持てているだけであって、イケメン上司側の解釈は違うだろうと思う)、その現実のすごさを思った。


昨日今日近くにいた人じゃない。


4年以上経過して、さらにはその間ずっと何ひとつ個人的なやりとりはない。


私が一方的にブログを書いているだけ。


それがどういうわけか接点となってくれて、でも本当なら繋がらないのが当たり前の相手だと思う。


いつか会えるとかでもない。


ない、ない、ない、全てにおいてない条件が揃いまくりなのに、なぜかブログだけは繋がるためのものとしてこの4年以上続いたし、尚且つ途切れることなく今に至っている。


それって本気の奇跡じゃん!?と思った。


近所のスーパーの夏くじさえ何一つ当たりが出なかったのに、イケメン上司とブログを仲介点として接触じみたことが起こるだなんて、スーパーの夏くじさえ当たらない私が超特大奇跡を体験している。


どこまでそんな幸運的なことがこれから先の未来にも続くかなんてわからない。


いつかは幸運もパタリと止まる可能性は十二分にある。


それでもここまで何だかんだと続いて、なんなら今年はあれから5回目の夏でもういい加減何も残らなくても不思議じゃないのに、こうして細ーく続いている。


そのことも私を大いに励ましてくれた。


色々ダメダメすぎたここ数日だったけれども、確実に私は救われている。


イケメン上司の存在に救われている。

2021年8月12日木曜日

名前ジンクス

7月最後の土曜日に出かけた美術館

北欧の布展
写真撮影OKの展示だった

クマのおなかの中のりんごがかわいらしい

実は一頭一頭手描きのデザイン

雲がほとんどない真っ青な夏空の日だった



2021/08/09(昼休み

ブログをアップしなかった3週間弱の時間、おきまりのように「名前ジンクス」が発生していた。


「名前ジンクス」なんていうダサめのネーミングは私。


何かというと、毎日のようにイケメン上司の苗字なり名前なりをあちらこちらで見ることになる。


探してはない。


なんだけど、パッと付けたテレビの向こうや新聞や広告、とにかく色んなところに出てくる。


名前は漢字になると、どちらかというとふみこが「文子」ではなく「史子」という若干珍しめの漢字になるように、イケメン上司の漢字もそんな風になる。


名前の音自体は珍しいものではないけれども、漢字は珍しい組み合わせだと思う。


そんなレア風吹かした感じの名前の漢字をここ何回か見た。


流行りの名前という感じでもない。


理由なんてわからないけれども、とにかくオリンピックが始まる前あたりからちょいちょい見かけることが増えた。


苗字は全国的に多い苗字だとは思うけれども、それでもそんなに頻繁に出てくるものじゃない。


なんならこの間、少し遠出をするのに食べる店を探していたら、「ここ良い!行ってみたい!」となった店の名前に、その苗字がドンと入っていた。


そこには行かなかったけれども、いつかは行ってみたい、そう思っている。


私の好きな激レアメニューを提供している、新潟県内ではおそらく2軒あるうちの1軒だから、そこはいつかタイミングを見て行こうと思う。


とにかくそんな風にして、イケメン上司の名前とやたら遭遇する日々が続いている。





2021/08/10(夜寝る前の布団の中


今日という日は、時々起こる、怒涛の納期襲来デー。


そして、未だかつて経験したことのない右脇腹から背中にかけての激痛で、鎮痛剤を2回飲んで何とか仕事をやり切ったという。


内臓から来るものなのか、筋とかを痛めて来ているものなのか、それさえもわからない痛みで、真面目にあまりにも最初は痛すぎて早退しようかと思った。


仕事は、痛みのおかげでそこまで怒りの沸点に達することがなくて済んだけれども、きちんとやらない誰かが確実にいて、その尻拭いが回ってきただけじゃなく、私のところはもう延期ができなくて、通常1日かけてやる仕事を私が終わり次第業者に依頼する案件ゆえに2時間半でやりきるという、冗談抜きで酷すぎる有り様だった。


絶え間ない痛みと意味不明のドタバタ劇とで、本当にグッタリとした。


体と心が悲鳴を上げてる時間を通り過ぎた後、帰りの車の中でしばらくボーッとしながら走り始めた。


もう外は真っ暗で、夏というよりも秋の訪れという感じだった。


またその話か、と思われそうだけど、本当のことだから続けて書く。


忘れてしまったけれども、とっさに頭の中では昼間の時間帯になっていて、そこでイケメン上司の働いている姿が思い起こされた。


その時は超具体的だったのに、今は何の動きをしていたのかさっぱり思い出せない。


でもたしかに、よく見ていた姿がふわーっと出てきた。


その中の1つ、大雨の日、雨合羽着て何かしらの作業をしていた時があって、もっともっとよく見ておきたかったな、と思った気持ちと、きちんと見れてなかったわりにはかなりハッキリとした輪郭で記憶に残っていることを思い出した。


遠いけれど、パッと思いつくまでの時間が計測不能なくらいに短くて、だから遠いんだか近いんだかわからなくなる。


(ここからは8/11、休みの日の朝)


昨日は心身共々、年間トップ5に入る限界値に達していて、色々弱りきっていた。


そして仕事から解放されてようやくひと息ついた時、記憶の行き来する先にはイケメン上司の姿があった。


思い出そうとしていたとかじゃない。


心が本当に憔悴しきっていて、不安やらやるせなさやらそんなのでいっぱいいっぱいになっていた時に、スルリと出てきたのがイケメン上司だった。


心のお守りとか心の栄養剤みたいだなといつも思う。


(ここからはお盆休み初日8/11の夜)


明日から5歳の姪っ子と両親(ジジババ)が金沢から新潟に帰ってくる。


妹夫婦は2日後に、姪っ子だけ先に帰ってくるという異例の事態。


うんち拭き係などのお願いもされたけれど(消去法で私に回ってきた)、そんなことよりも夜お母さん(妹)なしで寝れるのかしら?という疑問。


明日から怒涛の日々が始まるから、とりあえずこのブログをアップしようと思う。





2021/08/12()姪っ子との格闘前の優雅な朝


備忘録として書いておこう。


どこかの記事にもちょっと書いたけれど、今2年前に友人ノムから誘われて書いた某手帳の来年版の原稿を書いている。


どういうわけか、2年越しにその名誉ある係が回ってきた。


今回も自由にメッセージを書いている。


その中でイケメン上司にまつわる心の機微や自分の日常にあるものも言葉にした。


他の人が読んでも誰もわからないけれども、私が読むとそれが何かわかる。


唯一私しかわからない、自分の足あとをそこに残した。


イケメン上司との出逢いがなければ絶対に書けないものを書けるというのは、すごくうれしいことで、2人の関係性がどうだとかは思いっきり無視して書けるのも良かった。


書籍として出るものだから、未来永劫「形」として残る。


年齢を重ねて今とは違う人生を歩んでいても、いつかの未来にそれを読んだら今のことを思い出せる自信がある。


どんな風にこれから先の人生が進んでも、イケメン上司のことは永久保存版的な思い出になるのは確定しているから、だから認知症にでもならない限りは記憶に残ると断言できる。


メッセージは自由に書けるから何を書いても基本良い。


その中でイケメン上司にまつわるものを入れ込んだことは生涯残り続ける。


そこに託した数百字は、いつか誰かの手元にも届いて、その中の何人かはその内容に何かしらの影響を受けるだろうと予想される。


そんなことを意図してイケメン上司と出逢えたわけではないけれども、そういうものをもたらす人と出逢えたことは本当に奇跡だと私は思う。


たったひとつの出逢いがこれだけ誰かの人生に影響して、そして私の知らないまた誰かの人生にもその流れが届くってどれだけすごいんだろう。


いかにも魂案件という感じだけれど(今は書けないけれど、来年以降タイミングを見てまた手帳の裏側についてはあれこれ書きたいと思う)、魂案件だけあって物事の動き方も影響力も半端ない。


まさか片田舎で派遣している何の肩書きもない42歳独身女が書くものが全国の書店に並ぶなんて、普通に考えてありえない。


もちろん私の魂的テーマとかぶっているんだろうけれど、その中には見えないところで影響力を及ぼす人が別にいて、それらの重なりがここまでの大きなものに発展するなんて、人生どこで何があるかわからない。


会えるわけでもなく、やりとりもなく、本当にないないだらけの中で、必要なことはどんな風にも起こってくるし、見えないところでの力のもらい方は相変わらず半端ない。


とかいうことをやっている2021年の夏。


イケメン上司がいた夏を初めての夏とすると、今年が5回目の夏になる。


5回目の夏も新しい形でイケメン上司がチラホラと登場している。


ある意味とっても斬新だけれど、これもこれでありかと思ったり、いやいやそういうのじゃなくて普通にやりとりできる関係を強く希望してるんだけどなと思ったり、そのあたりは相変わらずなまま。


これからギャング襲来に備えて心身共々用意&休息をしよう。


追記:名前ジンクスは今も毎日継続中。

2021年8月7日土曜日

夏の空

2021/08/03の朝焼け


2021/08/06の夕日

2021/08/07の朝焼け



2021/08/03()

今日の残業中に思ったこと。


「連絡が取れたら超いいのに!!!」


最近、仕事も私生活も色々とやることがある。


仕事は相変わらず連日の残業、10時間就労当たり前なペース。もちろん、やりたくない。


私生活は「書くこと」や「家事」や「観戦(オリンピック)」に色々時間が割かれている。


ブログは今カレンダーを見たら、2週間ほどアップしていない。


それとなく気にはなっているけれども、まとまった書く時間が取れないまま、今に至っている。


「書く」という行為に限定すると、2年前の某手帳にメッセージを書いたように今年も誘ってもらって書いている。


仕事中も考えてみると、英訳というのは基本的に訳したものを「書く」。


ずっと長い間お世話になった人につい最近の週末連絡を取って、非礼を詫びると共にメールをまたあれこれ書き始めている。


そんな風にして、書いてないわけではないけれども、いや、ブログも最近のあれこれを途中まで下書きしたりもしたけれど、とにかく全部中途半端な上に最後まで書き切らないからアップもできず、そうこうしているうちに今くらい間が空いてしまった。


で、残業中に「連絡が取れたら、最近はこうだよー」とオンタイムに伝えられるのになと思った。


その1時間〜2時間後、家の台所で洗い物をしている時、「連絡取れたらいいけれど、もし本当に連絡をするとするなら、もはや家事もオリンピックも他の書くことや日常の用事も、なんなら仕事も手がつかないくらいに『何書こう』とか『何て書こう』とか思い悩まなきゃいけないから、書くことに慣れてる私でもそうなら相手なんかはさらに不慣れな感じがするから、そりゃ連絡なんか来るわけないか」と思った。


ブログは書かなかったけれども、ブログの訪問履歴なるものは毎日、1日の中で何回もチェックしていた。


ブログもままならないから、だからこそこういう時に連絡が取れてたのならお互いにいいんじゃないかとさえ思った。


思ったけれども、現実的なステップたちを考えたら、エベレスト登頂よりもさらに難易度が高いステップ目白押しすぎて、願うのは自由だけど「現実化を図る」となると心の不自由度が一気に増した。





2021/08/04()


・アイロンがけ3枚

・野菜の収穫

・花の水やり

・新聞紙まとめ(回収日)

・燃えるゴミまとめ

・オムライス弁当作り

・少量の洗い物


そこにプラスして、歯磨き洗顔、着替え、身支度、果物で朝ごはん、新聞受け取り、仏壇に水のお供えなんかを1時間でやりのける私って天才じゃないか!!!と朝から自画自賛した。


こういう慌ただしさに追われて、毎日過ぎていく。


本当は夏をもっと丁寧に振り返りたいと思っているのに、こうした日常をこなすのに精一杯になっている。





2021/08/05()


気温は毎日猛暑日的な暑さを打ち出しているのに、日が暮れる時間は早くなって秋が近いんだなと感じる。


当時の私は今くらいが一番絶好調だったと思う。


毎日楽しくて、毎日心がウキウキして、毎日生きてることや元気でいられることに感謝して、そんな風だった。


あと1ヶ月くらいすると地の底、真っ暗闇な暗黒の世界に落ちるくらいの状況になるわけだけど、そこに行くまではただただ純粋に目の前の日常にしあわせをたっぷりと感じていた。





2021/08/07()


ブログを書かない間、日常がバタバタワタワタとしていたおかげで、あまり余計なことを考えずに済んだ。


だけど時々ふとした瞬間に思いつくことは、ネガティブなことが多かった。


例えばこんな風。


「もしこのままずっとブログを書かないようになったら、今度こそ何も繋がりが無くなる」


「ブログはチェックしてくれても、こんなに(私が)沈黙を貫いても連絡が来ないわけだから、前も今も私は『何でもない人』なんだな


「街中でバッタリ会うことは今までもこれからもない、永遠に会えない人……


「私も日常に忙殺されて、このままブログを書かなくなって、いつかは全てが無くなって何事も無かったかのようになっていくのかな


自分で言うのもおかしいけれど、木曜日に1つ大きな仕事をやり終えて、自分がどれだけ気を張り詰めていたのかに初めて気付いた。


春、たしか3月くらいから抱えていた仕事で、なんだかんだと夏くらいに完成になったりして、とか笑って話していたことがあったけれど、本当にそうなった。


その後からいくつもの大型案件が重なって、超短納期且つ超重大事で、それらを一つ一つこなしながら、今回の別件の春先から抱えていた案件も常にやる時間が無さすぎて、本気で間に合うんだろうかとずっと引っかかっていた。


ずっと緊張感にさらされていて、ちなみに次もまた同様の大型案件を抱えてはいるけれども、とにかくここに来て初めて数ヶ月ぶりに気が抜けた瞬間がふとやってきた。


どんな日も気を抜けられるところがあるようで無くて、何があっても根底には締切と時間に対しての内容量の膨大さが意識の中にあって、とにかくすごい重圧感だった。


ということさえ気付かないくらいの状態にあった、と気付いたのが2日前の木曜日にようやく「終わり」と報告できた後のことだった。


(冗談抜きで「あれ?残ってるの、武士俣さんだけ?」と何人かに言われたくらい、そんなこと普段言ってこない男性社員含めて言われて、周りの正社員たちが残業してないのに私が残るというおかしなことになってる。)


とにかく普通ではない精神状態の中、どうにもならないイケメン上司のことがここそこと心の中に現れるわけだから、相変わらずな状態だった。


私から見たイケメン上司がそうであるように、イケメン上司から見た私もそうであったらいいのになぁなんて、まぁ希望や想像を持つのは自由だからね!、なんて思ったりもした。


年をとるのは怖くないけれども、何もない時間をこれからさらに重ねて、その先にはもう何も残らない、そのことはとても怖いと感じる。


先の心配なんかしたって仕方ないのは頭ではよくわかっている。


だけれども、何も繋がらない、そのうち記憶にすらのぼらない、何もかも「無」になることは本当に怖い。


ブログを例えばやめて、もうブログはアップしないんだなと思われて、そうなるともう何も今の私というのはどこにもなくて、そのうち「無いこと」が当たり前になって、その先には「無」の強化はあってももう何事も無かったかのように人生が流れていく、というのを私ではなくイケメン上司側の人生で起こることを想像した時に、それは私の中で今ある人生の地点で1番2番に怖いことなんだとわかった。


今だってどんな風なのかは正直わからない。


だけど、このブログを書かなかった間もイケメン上司がブログを見てくれていただろうことはブログの管理画面でわかって、それは私にとってとても嬉しいことだった。


と同時に、その仕事でのありえない重圧の中で、それを知れた時のふんわりとした気持ちはいつの時も格別だった。


苦しい時こそ、イケメン上司の存在もそうしたブログの足あと的なことも、癒しとなって私の中に運ばれてきた。


もちろん永遠なんてないけれども、そういうのがずっとずっと続いたらいいのにと思った。


家の日めくりカレンダーで今日が立秋と知った。


日に日に日が短くなっているのは残業していたおかげで気付いていた。


ちょうど昼と夜が切り替わるくらいにいつも外に出ていた。


それを見て私の脳裏を駆け巡るのは、イケメン上司がいた夏と秋の初めの風景だった。


当時もよく空を見ていたけれども、今特有の空の感じは当時の夏の感覚と重なる。


これが春とか冬はそうならない。


5回目の夏の今年、気付けば「夏」を感じて思い出す最初のシーンは、イケメン上司がいたものがスッと出てくる。


「夏」の代名詞的な思い出はいつの間にかイケメン上司のいた風景が定着している。


時々自分の今いる場所がわからなくなる。


日常は大きな変化もなく淡々としている。


けれども、夏の空や夏の暑さを前にしたり、はたまた何もしていなくても、時々ふっと自分の今いるところがわからなくなって、もう会えないと頭ではどんなにわかっていても、当時の日常が今この瞬間に立ち現れるんじゃないかと変な感覚になる時がある。


これからますます哀愁漂う時季に入って行くけれども、5回目の夏も自分がとことん満足するくらいに思いっきり当時の回想に浸ろう。