2025年1月6日月曜日

凪2024から2025にバトンタッチ

「凪」の意味
静かで波立たないというところが
自分の心と重なる
漢字を見た時に囲まれている枠の中で
止まっている、留まっているみたいな
そういう雰囲気も自分の中では感じたこと


金沢駅
2025/01/05

金沢で見た夕陽
バスの車窓より
2025/01/05

2歳の姪っ子と母が作った雪だるま
2024/12/30


2025/01/05

今さらだけど2024年の今年の1文字を。


「凪」


これは12月に入ってすぐくらいにパッと出てきて、まさにそんな1年!、と具体的な漢字の意味も知らずにすごくピッタリと感覚的に思った。


可も不可もない、ここ数年単位では一番穏やかでその時その時に流れてきたものに何となく乗っかってみて、ゆらりゆらりと過ごしたように思う。


落ち着いていたというか、天気の良い日に波がゆらゆらしているあの波の感じに自分が乗っているイメージ。


と書くととても良い風に聞こえるかもしれないけれど、たしかに悪くはないし不平不満的なものもだいぶ薄いというか、ある程度容量の決まった範囲内での対処療法で何とかなるみたいな、という感じでその何に私は不満なのかと第三者から聞かれたのならちょっと困るなというもの。


だけれど、穏やかである程度落ち着いていて、なのに私は何度かふと「このままの生き方でいいのかな?」と自分に質問していた。


真っ先に出てくるのは「これじゃない」という感触。


大きなところとしては、生き方全般。


仕事はけっこう楽なところまでやって来れた。


楽という言い方が合っているのかわからないけれど、要は1の指示に対して10動けるくらいに仕事は覚えたし知識も技術も増えたのと、他者をフォローできるくらいの余力というかそれをできるくらいの状態になりつつあるのと、そこそこ自分を自分で何とか回せるくらいのある程度安定した人間関係も作れたと思う。


だけど自分の中でもう先が見えなくなってきた。


一番は「今の仕事を極めたい」というのが全く無いから、もうそこはこれからどれだけやっても出てこない。


お金と割り切って働けるほどの心持ちも無いからいつかは決断して次へと何かしら向かうことが無意識にわかっている。


もちろん極めようとしたらいくらでも極められるしやることはてんこ盛りにある。


だけどそれは私の中で人生を懸けてやることじゃないから遅かれ早かれ立ち退きはすることになる。


そういう意味で色々終わりに近付きつつあるのだろうと思う。


仕事に対してこんな風に考えてしまうところが傲慢というか、本気でやる気がないのがわかる。


28歳で協力隊の枠が決まっていてもう数ヶ月で児童養護施設を辞めると決まっていた時、私は自分で決めたのに「本当に今のタイミングで良いのかな」と最後は辞めることを迷った時期がしばらく続いた。


協力隊はやってみたいことだったけれど、そして施設は何だかんだと5年半やってそこそこな何かしらを自分の中に積み重ねることができつつあったけれど、もっと仕事に深みが出て面白くなってもっとできることがあるんじゃないかと感じて子どもたちとの関係性も色々変わってまだまだこれからなのかもしれない、と未知の可能性を感じていた。


だから辞めることが今なのかわからない、もっとやりたい気持ちもある、という境地に私は至っていた。


それがあるからこそ、今の仕事というのが色々違うことがわかる。


無駄なことは1つとしてないし、色々最低だと思う場面は多々あれどたくさんの意志ある人たちに助けられてるのも本当で、もちろん続ければまた次の何かが見える可能性もゼロではないけれど、とにかくそれじゃないというのがはっきりとわかる。


一番わかりやすい答えとして、児童養護施設の仕事は私の中ですごい興味があって入った仕事で、今の仕事はいくら能力的に適性や知識があっても興味が1ミリもないことだということ。


この差はお金とかで埋まるものじゃない。


私はまさか人生でこんなにも適性があってでも自分のやる気は地の底まで無いという仕事をするなんて思ってもいなかった。


児童養護施設の仕事は適性があったかどうかは知らない。


だけれどやる気だけはすごくあった。


塾の仕事がそういう意味では比較対象としてわかりやすいかもしれない。


今の仕事の方が適性はあるように感じる。


塾は適性もなければ色々会社の在り方や働き方が嫌すぎたしストレスもすごかったけれども、あの仕事の方が自分の中の何かやっている感覚やあの中にしかない面白さも味わっていた。


そういう諸々の根幹的なところが欠落している今のライスワークは今後も欠落したままだし、これは自分の生き方をこのまま続けると大変大きな後悔が出てくるとわかる。


だから落ち着いてはいても色々よろしくない。







45歳という年齢なのかもう色々自分の中で自分の限界を積み重ねたからなのか、私はこのまま1人で生きていくのは本当に自分の中ではそうしたいのじゃない、というのが出てきた。


嫌でもなく避けたいでもなく、何か違う。


1人でも嫌じゃないし、こんなの避けようと思って避けられるものでもないから、そのようになるのは仕方ないとどこかあきらめみたいな気持ちがある。


そして元々1人に慣れ過ぎているところがあるから、1人でも楽しく生きる力が自分にはあると自負している。


1つだけ嫌だなと思ったことがある。


これまであまりにも日常に溶け込み過ぎてて習慣化していたけれども、いつからか少なくともこの冬の寒さを肌で感じる頃から、私はまた次の1年を「イケメン上司から連絡がくるかもしれない」とか「連絡が欲しい」とだけ思い続ける時間を過ごすのは嫌だなと思った。


多分自分の中で馬鹿馬鹿しく感じたりそれを許すことを自分が許したくないみたいな、全然悪くないし困ってないし平穏は保たれるけれども、人生を全体で捉えて俯瞰して見た時に「それは自分が望んでいることじゃない」というのが出てきた。


自分の中の正解じゃないというか、この先もこれまでの7年と同じ時間を過ごすのは単純に嫌だなと思った。


新しい生き方を模索してもいいのかなと思う。


誰かと出会いたいとか(そんな素敵なことはオールウェイズウェルカムだけど)、婚活しようとか、そういうのじゃないけれど、ただただ同じように次の7年も過ごすのは嫌だなと。


勝手な自分への願いだけど、何でもいいから何かに夢中になっている自分でありたいと思う。


365日毎日傾倒してなくても何かこれは夢中になったよ的なものを今の自分は欲してるように思う。

2024年12月30日月曜日

届かない、叶わない、だけど謎の距離感

良いお年を☆

日帰り温泉に行く前に立ち寄ったカフェ
そこでちょっとだけ今年の振り返り
2024/12/28

大きな鳥居をくぐって日帰り温泉へ

帰り道のイルミネーション
このもう少し先のところで7年前私がブログを
再開するきっかけとなった
イケメン上司の苗字が入ったケーキ屋さんの
世界に1台しかない車と遭遇した
@見附
2024/12/28



2024/12/14

届かない、叶わない、だけど謎の距離感


タイトルだけポンと先に2、3日前に出てきて、何書くかは中心は定まっているけれど実際に書き出したら何書くかわからないからあとはいつものお任せスタイルで。


届かない、叶わないというのは私から見た景色、私の主観。


届いて欲しいことや叶って欲しいことはいつの時も忖度や温情など抜きでどストレートに届かない現実と叶わない現実をこれでもかというほどにセットにぎゅうぎゅう詰めにして私の現実に届けられる。


私が頼んだのそれじゃないよ、と言いたいけれど、言っても変わらない現実がどーんと目の前に孤高高くそびえ立っている。


現実はかわいくないけれど、姪っ子のかわいいエピソードなど。


この間2歳になったシホにまだ1歳だった時にされた可笑しなエピソード。


妹の家で私がごはんを作っていて、シホは母と隣りの畳スペースで何か遊んでいた。


確実に遊んでいた。


距離的に3メートルは離れていた。


そんな折、ふと左横を見たらいつのまにかシホが隣りにいて、椅子を押して持ってきて(その音にも全く気付かなかった)、椅子の上に立ってお手伝いをするという。


お手伝いするとは言わないけれど、お手伝いという名の邪魔をしに来たのは一目瞭然でとりあえず向こうで遊んできたらと言ってみるものの本人は「ううん」と首を振って声も出して譲らず、本人に沸いた湯の中に野菜だったかをドボドボと入れる役をさせたら本人大喜びでやっていた。


ヘラでかき混ぜるのも喜んでやった。


いつの間にか椅子付きで隣りにいたのには度肝を抜かれたけれど、母いわくいつもごはんを作る時間になるとどこからともなくやってきてお手伝いをしたがるらしい。


こういうかわいいエピソード付きの現実はいつでもウェルカム。




2024/12/22


書こうとしていたことはしっかりと覚えているけれど、どこまで書く気力があるのか想像つかず。


それよりも下手するとこれが今年最後のブログになるかもわからず、それならこれを書いて今年の締めにした方が良いのでは?と自分のこの超のんびりブログペースを見て思ったりもしている。


ずっとずっと同じこと書いているしそんなこともう聞き飽きました、読み飽きましたと言われるようなことだけれど(そうならそうとその感想さえも喉から手が出るほどに欲しい)、実際に現実の認識可能な思考はそこにあるのだから仕方ない。


今後の生き方とか少しずつ実感している体の年齢的な不具合というかこれまでと同じではいられませんよ的なこととか、挙げたら色々あるけれども、そんなこんなのことよりも私の最大の関心事はイケメン上司と私とが今後どうにかなるのかならないのかということ。


私は今をもっても本気で信じている。


もし本当の本当に魂的なご縁の人であるなら、もう一度再会とまでいかなくても話すくらいには関われる関係になれるんじゃないかと。


LINEやメールでやりとりすることも何だかとってもハードルが高そうだし、基本的に外に向かって発する言葉数が少なさそうなイケメン上司がLINEやメールという手段になったら饒舌になるなんてことも想像がしにくいけれど、そうした諸々のことはさておいても本当に縁があるとするならそういうことも起こるだろうと大真面目に思っている。


自分の中の期待値とかいうよりも(もちろんそれもあり過ぎる)縁があるならばそういうことが起こることの方が自然な摂理に適っている、そんな風に考えることもある。


あるけれども現実はそんな風ではなく、だから届かない叶わないまるで天井人に手を伸ばそうとしている地上人みたくなっているけれど、とにかく回って欲しいように現実は回っていない。


それがまだ1年とか3年くらいなら私側ももう少し穏やかに過ぎ去った時間を、この場合の過ぎ去ったはイケメン上司がいなくなってからの時間だけを私の中ではカウントしていて、3年くらいは穏やかに多少は受け止める余裕があったものの、5年もまだいけたと思う、もう7年が去り8年目を迎えて、ということは新しい次の年もこの状態が続くとするなら8年が去り9年目を迎えて…とかなるわけで、10というけっこうな大きな塊の時間がもう目前で…となる時に今よりもさらに愕然としそうな自分の内面の焦りみたいなのを感じて今から無駄に焦っている自分がいる。


何に焦りを覚えるのかはわからない。


けれど「もう10年になるよ、わっはっはー」とはなりにくいだろうなと思う。


ブログがこれまたカオスな濃度に貢献していたりもする。


人間というか私というのは、1つ叶い出すと次も「もっともっと」と要望がむくむくと吹き出してくる。


とてもよく読まれるホロスコープ関係の記事は正直誰が見ているのかは知らないけれど(これは私の特殊すぎるホロスコープの話が織り込まれているから、その内容を知りたくて調べたらこのブログがヒットした!の人も少なからずいるかと思う)、でも明らかにイケメン上司の話でイケメン上司しか読んでも意味がわからないだろうな記事、それもつい最近とかではなく何年も前のものになると読んでるかはわからなくても少なくともその記事たちにアクセスがあったことはGoogleの機能でわかるようになっているから、これが私の中のモヤモヤをさらに加速させる。


どうでもいい話のアクセスなら気にならなかったかもしれない。


けれども、時々私も読み返してみると「うん、これイケメン上司の話だね」なんてのがゴロゴロあって、そうしたものをドンピシャで記事を見つけてアクセスするなんてのは超絶至難の業のはずで(書いてる本人すらアクセスがかなり難航する)、前は純粋にそのことに喜んで終わりだったのに今は「うーむ」と唸りそうな自分もいる。


ものすごい曲解だけど、特定の記事たちにアクセスがある度に「イケメン上司も何か言いたいんじゃ!?」という考えがパッと出てくる。


最初は気のせい気のせいで片付けていたし「たまたまかも」とか「誰が見てるかなんてわからない」とか色んな言い訳が成り立つようにはなっていたけれど、今年のようにブログは書かないわ、書いてもそのアップした最近のものよりももっと前にアップされたアクセス過去歴多めのものとかがピンポイントでアクセスがあるとわかるとこれはある程度意図して開かないとその記事は見れないはずで、わかんないけれど、インターネット上にたくさんのブログやらサイトやらSNSやらが溢れかえっているわけで、そんな中で私の大してひねりもない何なら結構どこにでも溢れていそうな言葉で作られたタイトルの記事を検索して一発で当てるというのは相当至難の業だと思う。


そんなのが普通にネットで検索して上位に上がってくるとは思わない。


このブログが第三者が検索して見つけた時の実際の表示はどんな風なのかは知らないけれど、少なくとも何年も前の特定の記事が最初にわかりやすく出てくるとは到底思えない。


ましてやピンポイントでイケメン上司エピソードが色んな形で語られている記事たちだけに集中してアクセスがあるというのはそこにある程度の情報というかこのブログの知識みたいなものがないとそういうアクセスにはならないと思う。


それを思うと、イケメン上司も何か私に言いたいことがあるんじゃないかと思ってしまう。


話してみたいんだけど、話したり会ったりするとデートとか気があるみたいに思われると困るし自分としては話したいだけで付き合いたいとかそういうのじゃないからそこはわかって欲しい、なんてイケメン上司が言えるとは到底思えないけれども、私はそれもウエルカムなんだけどと思っている。


暇つぶしで私のブログ眺めるほど暇なんてことはないだろうし、かと言って趣味の一環で読んでますというのとも違う気がする。


自虐じゃないけれど、趣味の一環でもし読んでるならその趣味センス悪いから他のもっと面白いとかタメになるブログ読んだらどうですか?とさえ言いたくなる。


とかそんなことの可能性よりも単純に何かしら言いたいからとか色々思っていても言葉にできないとかそう思う方が自然というか、何かコミュニケーションを取りたいのじゃないのかなと思う。




2024/12/28


9連休の初日、唯一予定など入れてみた。


日帰り温泉に行ってくる。


じゃらんサイトでポイントもらえたから、ほぼタダ同然で行けると知って予約した。


私が負担するのは100円のみ!


日帰り温泉はさておき、もう1つの目的は2017年の今くらいの時期の再現に近しいことをして今の自分の気持ちの着地点を知りたいというのがある。


2017年の年末休みに入る直前、イケメン上司と仲良しなSさんからイケメン上司の年末年始の過ごし方をなぜか教えてもらえることになり←私から聞いてもないのにもたらされた爆弾情報(T ^ T)、その年は本当はどうだったのかは知らないけれど、それより前の年は女の子と音楽イベントに繰り出すというものだった。


その爆弾情報の私への破壊力と言ったら測定不能なほどに強烈で、心は一度死亡しました級の衝撃だった。


その粉々に砕けた心のケアと1年の垢落としで温泉に行くといいと聞いて、いても立ってもいられず日帰り温泉に行った。


イケメン上司のことをソウルメイトだと言い続けたペンジュラムにも過去最大の疑いの目を向けていたら、なんとその帰り道、あまりにもはちゃめちゃな道案内をペンジュラムがして迷子になったかと思いきや自分が行きたかった道に出てくれただけじゃなく肉まんが食べたくてこのコンビニのあたりに出るといいなと思った国道に繋がる交差点にさんざん民家や細い道をペンジュラムが言うままに行って突き進んだらドンピシャで辿り着いて本当にびっくりして、イケメン上司との本当の関係はさておきペンジュラムは嘘じゃないと言わんばかりのすごいパフォーマンスを見せてくれて度肝を抜かれた、そんな一幕もあった。


ちなみに今の2024年の気持ちとしては、仮にその女の子でも他の女性でもいて年末年始を共にできる人がいるなら、それはそれで良いんじゃないかと思う。


何様発言かのような言い方だけど、イケメン上司が心を許せる誰かがいても不思議じゃ全くないし、むしろ色々難ありな私がイケメン上司から選ばれることの方が無理難題すぎるわけで、実はもう結婚していましたと言われても、心が痛まないひるまないとは言わないけれどまあそんなことも普通にあっておかしくないよねと思う。


大らかな気持ちというわけでもないけれど、イケメン上司が誰かと親密な関係にあっても驚かないというか、この7年なり私のように何事もなくだったら単に嬉しいけれど(←おいっ!)何かあってもとても自然なことと感じる。


そんな今の自分が今はどんなことを感じるのか少し楽しみだなと思う。


9月の終わりに友人ノムと立ち寄ったイケメン上司と私が仕事していた事務所は他の会社が入っていると知ってそれを書いて、書いたブログはアップしたのかそれともまだ下書き保存しただけなのかわからないけれども、そこも立ち寄ってから日帰り温泉に行こうと思っている。


ちょっとしたツアーの気分(笑)。







ツアーの前にスーパーに寄ったりして意識はあちこちに飛んだまま、例の事務所の前に立ち寄った。


休みかと思いきやなんと今日も営業してるらしく駐車場は満車だった。


通常営業風な感じが「もうここはその場所ではありません」という雰囲気を醸し出していて、建物自体はそのままだけど中身は全く別物という感じだった。


私がいつも停めていた駐車場には数台の車があって、当たり前だけどどれも知らない車ばかりだった。


イケメン上司が毎月のように段ボールの収集のために開けただろう正面玄関側横の倉庫的な入口は今も何かしら使っているらしく「搬入口」とでかく看板が出ていた。


従業員用の入口側には当時を彷彿させるハイエース的なバンが停まっていて、そこで働いているだろう人たちは私が行っていた時同様そちらを使っているのかなと思った。


もっと感傷に浸るかと思いきや妙にスッキリというか「もうそれだけ時間が過ぎたんだな」と冷静に受け止めてる自分がいて、その自分を見て自分でなんだかびっくりしてしまった。




2024/12/29


本当にこのブログが間違いなく今年最後のブログになる。


金沢の妹家族が帰ってくるとしても大晦日じゃないかと予想していたら明日30日朝8時着予定と連絡が来てひっくり返りそうだった。


妹夫婦は絶対に朝から晩までパチンコ間違いなしで、ということは3年生の姪っ子と2歳になったばかりの姪っ子はこちらでお留守番、イコール10時間目までありそうな遊びの日程が瞬時に浮かび末恐ろしくなっている(꒪ꇴ꒪〣)。


子どもの体力、特に我が姪っ子たちの並々ならぬ体力には毎度度肝を抜かれて(なんなら体力も精神力も諸々抜かれる)のんびりブログを綴っている場合じゃなくなる。


合間合間にはご飯や風呂、洗濯や洗い物もあるわけで、非常に忙しい。


ということで急ピッチで書く残りのブログ。







例の事務所を後にしてから車内で何で自分が平気なのかを色々分析してみた。


最初にパッと出てきたのは、イケメン上司が新潟から去って7年という時間を私はとことん自分に向き合って自分の中の感情や気持ちや色んなものたちと付き合って逃げたりしながらもとりあえず対峙してということをとことんやり続けてきたからだと思った。


これもまたすごいたられば過ぎて現実にありもしない妄想も甚しい(はなはだしい)けれど、イケメン上司が実は結婚していたとか誰かいるとかいういつもの定番想像以外にも、仮にイケメン上司と私とが実は当時意気投合して結婚しようとなって子どもも授かって家族になれたとしてそして年を重ねて孫までいて…なんていう現実があったとしても、私はそれでもこの7年何も後悔していないと言い切れることに気付いた。


子どもが欲しいならそのように動くことも選択肢としてなかったわけじゃなく、他の誰かと生きる道を模索する、具体的に婚活に励む、そういうこともできたわけででもどれもしてこなかったわけで、そして私の知らないところでイケメン上司が他の誰かと幸せになってますとなったとしても、私はこの7年の自分のこの生き方で良かったとは言える自信がないけれど、なんだろう、後悔みたいな気持ちはない。


生き方が不器用なのはずっとずっとそうかもだけど、自分に嘘はなかったように思うし、この不器用な生き方含めて自分なんだと妙に達観できたところもあるし、なんかもうなるようにしかならない、その在り方を本当にやり抜いた7年なんだと思う。


事務所が無くなって(会社自体はあるけれど編成が変わって新潟事務所が無くなったらしい)、いつの間にか別の見知らぬ企業がそこには入っていて、もう私の記憶の中にしか残らない事務所で、イケメン上司の記憶からも抜けてしまっている可能性も否めなくて、自分は何をどうしてそこまで執着してしまうのだろう?と思わないわけでもないけれどもうこうなったのは仕方ないよねと諦めモードで、時の移り変わりに対してついていけてない自分がしっかりいて、でも何も後悔ない、もう戻れない当時に対して私はやれる限りのことを自分のためにやりきった、そう今は思えているのと、結果は全くよろしくなくてもそれはそれだし、だからといって自分にダメ出しする必要はないわけで、せめて自分くらいは自分のことをやさしく受け止めるくらいの器量を持ち合わせていたいとさえ思っている。


イケメン上司を想う時間たちは自分のことを想う時間でもあったんだなと思った。


そしてこんな風に自分を見ることができたのはやっぱりイケメン上司の存在抜きには無理だったと思うし、それが魂と魂が生まれ変わって再会する理由だったとするならもう今生一緒になれないのは仕方ないよねと思うようにもなった。


要はもう目的がある種果たされたから、イケメン上司は私の目の前にいる必要がないから、今もこれからももう会えなくてもそれは仕方のないことだと思う。


そういうことは人間である自分がとっても微力というか自分の意志でどうこうできることじゃないというのは自分のオカルト体質のおかげで嫌というほどにわかるから、本当にそういう領域のことなんだと思う。


(私と出会ったことで)イケメン上司側に何か良いことがあったのかは恐ろしくて想像することさえ私はしないけれども、このブログが何か1つでもいいからプラスに作用してくれたとするなら御の字だと思う。


話がとてつもなく変わってしまうけれど、そしてきちんと詳細に説明する体力が今ないからざっくりとしか書けないけれど。


数ヶ月前、とある場所で私は自分の身に危険が及ぶと勘違いした瞬間があった。


実際には無事だったし、傷ひとつ付かなかったし、何事も本当に無かったのだけれど、その瞬間は自分の身が危ないと瞬時に思った。


それは真夜中に近い時間で、助けを呼ぶとかそういう状況にはない状態だった(何度も言うけれど、無事だった)。


意識も朦朧としていたその時、私の脳裏にはパッとイケメン上司に電話することが出てきた。


もちろん電話なんかしていないしそんな時間にすることでもないしましてやそんな関係にない。


身の危険と勘違いした私の脳内は完全にバグっていて、その時に何も考えずに出てきたのがイケメン上司に電話だった。


電話したいとかじゃなくて、例えば地震とか本気の身の危険が来る時にパッと無意識に出てきてしまう本能的な心の動きというか何かにすがりたくなるその先の「何か」というか、そういうのが出てきたのに似ていて、それがイケメン上司に電話だった。


ああいうものは自分じゃコントロールできない。


何事もなかったし冷静になってからは、そのイケメン上司が出てきたところだけが何だか不思議というかある意味自然に出てきたことがとても不自然みたいな、言葉にするのがとても難しい感覚だけれどとにかくイケメン上司が出てきたということがあった。


それってある意味とても良くイケメン上司に向かう自分の感覚を表しているなと思う。


いざという時に無意識に頼ろうとしてしまう相手というか(関係性はもちろん度外視)、なんかこういうのって魂的な繋がりの強さを見せられてるようだなと思っている。


電話なんてもちろんしないけれども、されたとてイケメン上司も困惑やら困り事にしかならないだろうし、というか仮に電話なんて架けられて間違って出てしまって私だとわかったのなら速攻切られそうだわと思う。


しかも名刺に書かれてある番号しか知らないからそれが今も使われてるかどうかも知らない。


私が「届かない、叶わない、だけど謎の距離感」と言ったのはこういうことで、手の届かない、思いや想いが叶わない、そういう相手にも関わらず、いざ身の危険を感じたらなぜか真っ先にそして唯一思い浮かんだ相手なわけで、この距離感たるや謎すぎるしおかしいとしか言いようがない。


こんなこと読まされるイケメン上司を思うと、「なんだかすみません」と言いたくなるくらいに色々おかしいと思っている。


だけどそれが本当にあったことだから、そしてそんな風に思っても何とかなるわけじゃないというのも当然のようにわかるから、だからこそ新しい企業が入っていても意外に平気だったのはそういう心の中と現実との大きなギャップのおかげもあるかもしれない。


心の反応はどうにもならなくても、そんなこととは関係なしに現実は回って時代が変わって物事は色々変遷していくのは当たり前のことのようにも思ったりする。


何が書きたいのか自分でもわからないけれど、そんなこんなのことがこの2024年にあったよという記録。


そうそうもう1つ。


謎の距離感というのは、全然会えないしコミュニケーションも取れないし全てにおいて「ないない」だらけなのに、いつの時もずっと心の中にイケメン上司がいて、何もしないし話しかけるとかもないし、なんだけどいつもいるからとてつもなく近いし7年過ぎてもそんなに過ぎた感じがしない。


冒頭のシホの話に似ている。


料理をしていた私はシホに背中を向けていたわけだけどシホが同じ空間にいたことは知っていたし、いきなり隣りにやってきた時は度肝を抜かれたけれど、あれって普段のイケメン上司の存在のあり方に似ている。


常にいるというのは肌感覚で知っていて、そしてふとクローズアップされることが毎日毎日あって、そのクローズアップの具合の強度は日によって違うけれどとにかくそれがない日は一度もなかった。


だから時間も経過して色々生活そのものも変化したけれども、イケメン上司の存在だけは何にも変化していない。


そういうのが謎の距離感だなと何を今さらな話だけどそんな風に思ったんだった。


これからギャングたち襲来に向けて本気で部屋を片付けないといけないからこれにておしまい。


良いお年を*¨*•.¸¸☆*・*¨*•.¸¸☆*・゚