2014年9月30日火曜日

終わってから見えること

1ヶ月前に終了した派遣先の人たちと今日会ってきた。

わたしの他にもう一人この夏の繁忙期対応で派遣の子がいて、

今日その子が仕事最終日だったから、みんなでおつかれさん会をした。

行ってみて感じたのは、良い人たちに恵まれたなぁということだった。

圧倒的に男性の割合が多い会社で、通常1部署に女性1人という配置だけど、

わたしがいた部署だけは別で、わたし含めて女性が4人いた。

年齢も考え方も生き方もまるっきり違う4人。

共通しているのは、同性で同じ部署で働いているということだけ。

もちろん100%すべてがぴったり合っていたかと言えば、そうではない。

表に出して衝突することはなかったけど、う~んそうじゃないんだけどな・・・と思ったことは、

恐らくお互い様だと思う。

当時は、日々の生活費が稼げたら仕事の内容は何でもいいと思っていた。

実際、仕事の内容にはまったく興味が湧かず、最後までどうやって暇な時間暇を潰すかや、

眠気とどうやって戦うかや、ほんとどうでもいいことにばかり神経を注いでいた。

でも、今日4人揃って顔を合わせた時、

この4人だから色んな珍事難事を一緒に笑い飛ばしたり、

作戦を立てて男性陣と交渉(抗議)したり、

おかしなお客さんのことをみんなで絶対に間違ってる!おかしい!と一緒に怒ったり、

そういうことができていたんだなぁと知った。

本当に人に恵まれていたんだと、今さらになって心に染み入った。

しかも、わたしがいた部署というのは、来月10月で合併により消滅することが決定したと

今日正式に聞いた。

(いた時からそういう話は噂になっていた)

そう、本当に今だから出会えた人たちで、少しでもタイミングが遅かったりしたら、

一生出会うことのない人たちだった。

働いていた時は、仕事に興味もなければ、日々の生活を営むことに精一杯だったけど、

振り返ってみると、もう二度とは戻れない、

そしてそのタイミングでしか出会えない人たちがいたんだとしみじみした。

年を重ねるに連れ、人との出会いがとても特別なものだということがわかってくる。

タイミングは一瞬。

4月、泣きながらこの夏の仕事を引き受けると決めた時。

本当に電話の向こうでやりたくなくてやりたくなくてぼろぼろ泣いていたけど、

あの時断る勇気がなくて良かった。

なんだか知らないけど、もう仕方ないと諦めて良かった。

あの時の涙も後悔も、それに勝る出会いが待っているだなんて当時は知る由もなかった。

よくわからない流れに乗ってきたこの1年余りだけど、

後悔ばかりでもなく、

行くところ行くところ、人には恵まれていた。

わたしは、この数年、少なくともこの5年の中でしてきた数々の選択について、

正直なところ良かったと素直に思えないことの方が多い。

後悔しているとか、もう一度過去に戻ってやり直したいとかではなく、

なんだろう、自分の選択が本当に自分にとってベストだったとは言い切れない。

どれもこれも全部自分で決めた。

人に決められてやったことは一つもない。

だけど、自分の辿った道に、自信がない。

色んな人に何をしていたのか、何をしているのか聞かれたけど、

この5年の間の数々の出来事は多く語らない。

言葉が詰まる。

でも、ひとつだけ絶対に誇れるものは、人に恵まれたこと。

自分がどこで何をしていても、人に恵まれた。

何か大切なものを与えてくれる人。

言葉ではなく行動で大切なことを見せてくれた人(多分、本人は教えているつもりはない)。

いざという時に力を貸してくれた人。

一緒に泣いてくれた人。

5年で、努力なしになぜか自然ともたらされた財産は「人」そのものだった。

2014年9月29日月曜日

今年の夏、一番感動したことは?

「今年の夏、一番感動したことは?」

とあるアンケートの一番最後に、上の質問があった。

それまですべての質問は、YES/NOクエスチョンだったのに、

最後だけ記述式で、しかも飛ばすことができないシステムになっていた。


質問を読んで1分後。

何も思い付かなかった。


次に、

「夏=6月・7月・8月」

という当たり前だけど、当たり前のことを確認した。


本気で、6月・7月・8月と自分は何をしていたんだろう??と振り返った。

仕事で忙しいこと以外何も頭をかすめず。

そうだそうだ、人生で初めて梅干しを漬けたんだった、と思い出す。


記述式アンケートに梅干しのことを書くのか・・・とイメージトレーニングすると、

梅干しを漬けたけど、「感動はしていない」ことに気付く。


梅干しはやめて、何か別のことを書きたいと思い始める。

思い始めても、思い付かないから、

家計簿を引っ張り出す。


今年は、年が明ける前後にスケジュール帳を使うのが面倒になって、

結局スケジュール帳はお蔵入り。

ただ、何をしたか何も残らないのは嫌だから、

せめて家計簿の右端3センチくらいの1ヶ月カレンダーに

誰かと会ったことだけは残しておこうと決めた。

だから、わたしは家計簿を出してきた。


6月と7月と8月の3ヶ月分を振り返る。

ちょびっとだけ、人の名前があり、ほっとする。

一応、誰かには会ってたんだとわかる。


6月の中頃。

妹ふたりと、下の妹の旦那(弟)の4人で会った。

多分1年ぶり以上だった、4人で会うのは。

4人で共にした、それぞれが自由気ままというより勝手な感じで、

勝手なのに妙な連帯感があって、

東京にいるのに、まったく別の空間にいるみたいで居心地が良かった。


アンケートには、その時の一番の思い出をそのまま「感動したこと」として記述した。

だけど、本当にわたしが感動した、言葉を失うくらいに「あっ!」となったのは、

3人と別れて、翌朝仕事に向かう通勤途中でのことだった。


何でだろう、あの時とつぜん、わたし含めた4人が頭上に浮かんで、

どういう順番かはわからないけど、この4人でお互いを看取ったり看取られたりするんだな・・・

人生の最期、この4人でそういうことをするんだなぁ・・・

と思ったときに、言葉を失った。


のちのち、人数が増えるかもしれない(増えていただきたい)。

増えても増えなくても、とにかくこの4人は確定している。

わたしが一番年上だけど、人の寿命はどういう順番で終わりを迎えるかはわからない。

ただ、どんな順番でも、4人で、少なくとも最初の一人のことは残りの三人で送り出せる、

そう思ったら、泣きそうになり、ただただひたすら足を前に進めるしかできなかった。


あの瞬間のこと。

通勤風景と自分が歩く感じと、そして回想していたこと。

その3つが合わさった瞬間が、今年の夏、一番感動したことだった。

失業中に嫌だったこと~親との関係

2014年9月29日

これは、いつか自分が堂々と自立した!と周りに宣言できる位に成功したら公開しようと思う。

だから、最初に日付がある。

2014年9月29日というのは、わたしが雇用保険受給の初回手続きを無事に終えた日で、

先ほど父親に年内~1月前半にかけては失業保険を受け取る、

すなわち年内は仕事を一切しないことを告げた。

現在35歳。

あと半年すると36歳になる。

結婚の予定どころか相手もいない。

この先のことは、これから自分で決めていかなければならない。

父親は、本当に困ったような声で、「これからのこと、考えないといけないな」と言った。

わたしも正直には、「考える」とは言っても、もうどうしていくのかおおよそ見当もつかない。

それについてはさておき、今回本当に嫌だったのは、

しばらく仕事をしないということを親に伝える、

さらにはその後親が確実に肩を落とし心配する、

それを間近に感じることだった。


レベルを落とせないもの~日記帳探し(続編)

先日、とうとう1年以上探しに探した、次期日記帳候補と出会った。

うちから電車で10分ほどの雑貨屋にどうやら在庫があるらしいとわかり、

それを見に行った。

表紙は申し分なし。

デザインもとっても気に入った。

中も見れるようになっていて、

100点満点とはいかなくても何とか折り合いをつけれるレベルだった。

さらに、どういうわけか、50%OFFになっていて、

もう買うしかない!と決めて買った。

今、目の前で見ていても、ステキなデザインだと思う。

シンプルで、色がきれいで。

とりあえず、日記帳に出会いました!ということで、1ページ目に日記を書いたのは数時間前。

数時間前から、一気にまた気分が急降下することになる。

今回の日記帳は、最初ネットで見つけた。

30件近いレビューの中で、たった一人だけインクのにじみ具合について残念と言っていた。

嘘か真か、真相は使ってみなきゃわからない!と腹をくくって家に持ち帰ってきた。

きたけど、残念。

そのたった一人の方のレビュー通り、インクが滲むというか、

次のページを開くと、前のページに書いてある事がすべて透けていて、

読めるくらいの感じだった。

一歩間違えたら、確実に滲む。

日記帳として使えるなら、ペンを変えてもいいと思った。

そして、今手元にあるペンを色々と試した。

残念なことに、シャーペン以外はすべて透けて見える。

筆記具を変えても解決しないとわかり、これはやはり日記帳探し続行しかないんだということに

行き着いた。



よく、生活のレベルを落とせない、と巷では言われる。

わたしの場合、色々生活上の制限があっても、とりあえず生きていけることは

実体験を通してわかった。

当然、制限が生まれるということは、生活のレベルも落とすことに繋がってくるけど、

それでもその中で楽しく生きる術はあるとわかったし、

意外にやっていける自分にもびっくりした。


でも。

今回の日記帳は、それこそレベルを落とせないものなんだと、今日よ~くわかった。

実は、この1年くらいの間だと思うけど、

もう一冊候補になった日記帳があって、実際に購入までした。

今回同様、今日出会いました!ということだけ、最初のページに書きこんだけど、

あまりの用紙の質の悪さにわたしはそのノートを結局捨てた。

どう考えても、愛着を持って数年使いこなすことはできそうになかった。

他の用法に変えたとしても、やはり使えないだろうと踏んだ。

わたしにとっての日記帳は、知らぬ間に「絶対にレベルを落とせない品質を求めている」

ということがわかった。

よく考えてみれば、わたしの鞄という鞄は、

すべて日記帳一冊がきれいにおさまることを大前提として購入されている。

どこにでも持ち歩いて書けることが、無意識のうちに大切な条件になっている。

なんだったら、停電で電気がない中、わたしはランプの明かりだけで書いたりもした。

日記を書くために、家では茶菓子や飲み物を用意し、洒落た器に入れたりもする。

それ位日記に対して、自分でもなぜかはわからないけど、熱を注いでいる。

書きたい時にしか書かないし、

回数で表すと月に1~2回位、多くても5回位でしかないけれど、

それでもなぜかとても大切な時間になってる。

書く手段はいくらでもあるけれど、

「日記帳」自体はわたしにとってとても特別な存在なんだと思う。

だからこそ、妥協も嫌だし、日記帳の質によってストレスが生まれることは絶対に避けたい。

自分でもびっくりする位に確固たるレベルがあるんだと、今回びっくりした。

2014年9月24日水曜日

日記帳を探して

1年ほど前から、次代日記帳を探し始めた。

今の日記帳も、約10年前、十数軒の文房具店を見て回ってようやく手にした一冊だった。

当時は、

色は茶色
リング不可
日付は自分で記入できるもの
罫線入り
表紙の素材は合成でもいいので皮素材に近いもの
表紙は無地

という条件をすべてクリアするものをひたすら探していた。

探すとわかるけど、本当にそんな日記帳、無いに等しかった。

新潟住まいだったわたしが、今の日記帳に出逢ったのは、新宿にある東急ハンズだった。

最初見つけた時、それは箱に入っている日記帳で、

さらに透明ケースに収められていて中身まで見れなかった。

近くに店員さんがいないのを確認すると、

悪いとは思ったけど、背に腹は代えられず、

ケースのセロハンをそっと剥がし、箱から日記帳を取り出し、中身を確認した。

上の条件をすべてクリアしていた。

最後の一冊のようで、他に在庫がないようだったから、

もう一度箱に入れて、

透明ケースのセロハンを貼り直し、

そして何事もなかったかのようにレジまで運んだ。

こだわっただけあって、約10年近く使ったこの日記帳、一度も飽きることがないどころか、

使えば使うほど愛着が湧いた。

どこに行くにも一緒で、

ひとりで旅した時も、

友達とどこか面白い土地を訪ねた時も、

その時その時に住んだ場所の家の中、職場の中でも、

どこへでも持ち歩いた。

祖母を亡くした時も、行き帰りの飛行機の中でこの日記帳は広げられた。

そんな日記帳も、今年2014年中に日記帳が終わってしまうのは、

残りのページ数と自分の日記のペースを合わせて計算すれば、100%確実だった。

だからこの1年ほど、思い付いた時に文房具屋をのぞいたり、

楽天やアマゾンなんかの通販サイトで必死に検索したりした。

今回は、色と素材にはそこまでこだわりがなく、

とにかく10年後も飽きずに使えるデザインで罫線入りで日付無し、リング不可とあれば、

ぴんとくるものがあったら即行で購入しようと決めていた。

決めていたけど・・・

無い。無い。無い。

通販含めて、恐らく1000冊以上はチェックした。

店も、前回の十数軒よりもっと足をあちこちに運んでいる。

でも、無い。

びっくりする位に無い。

日記帳自体は売っている。

だけど、ぴんとくるものが、一冊も無い。

あまりにもなさすぎて、ノート専門店やノートを自分でデザインできる店もチェックしたけど、

なぜかこちらの望む形態のものではないノートしかデザインできない現状で、

もしくは50冊以上の注文とか、

もう全然あてにならないとわかった。

ちなみに、今の日記帳は、もう生産停止をしていて在庫がない、とメーカーに直接確認した。

これはわたしが勝手に感じたことだけど、

どの日記帳も、日記帳をデザインした人は、自分で日記を書かない人だと思う。

ブログじゃなくて、紙の日記帳というものに、書かないという意味。

わたしのように、毎日書くのではなくて、書きたい時に書く人にとっては、

日付入りも困るし、何せ1冊終わらせるのに途方もない時間がかかるわけで、

デザインは飽きないものがベストになる。

10年後、このデザイン古くさいとか、ダサい、とかでは困る。



もう残り2ページとなった今日。

またネットで日記帳探しを始めた。

さっき1冊気になるノートはあった。

今回は、日記帳ではなく、厚いノートだったけど、

デザインはOK、でもたった一言が気にかかっている。

レビューが35件もついていたから、わたしはまたこのレビューを全員分読んだ。

たった一人のレビュー。

その方のレビューがとんでもなく気になったのは、

実際に使ってみてのインクの染み具合について、とてもにじむとあったから。

その方は最初万年筆を使われたらしい。

万年筆は全部しみて、全く使い物にならなくて残念、とあった。

ボールペンならOK、でも水性だとどうかな・・・(わたしの日記専用ペンは水性)

この言葉がとてつもなく気になり、今購入するかしないか迷いどころ。



日記帳を探し続けて1年あまりが経った今。

時代は変わったんだなと思う。

この10年で、ブログ含め、色んな発信ツールが個人向けにとても発達した。

手帳も、デジタル化がだいぶ進んでいると思う。

だけれども。

アナログで書く日記帳には、そこにしかない良さがあって、

携帯電話やパソコンを持ってみても

「あぁ時代と共にわたしと歩んできたんだ」

なんて一度も思うことはないけれど、

日記帳を持つと、それは全く反対で、

本当に自分の歩んだ道と一緒に歩いてくれたパートナーなんだなぁと感じる。

ひたすら、次のパートナーに無事出逢えることを願うのみの毎日だ。

2014年9月21日日曜日

継続は力なり

1ヶ月と10日ぶりくらいにブログを書いて、びっくりしたことがある。

「書けない」ということ。

自分の思ったような文章が書けなくなっていて、本当にびっくりした。

運動選手が1日休むと、本来の力が回復するのに2日とか3日かかる・・・

というように、

書くことも書かずにいると、書き方含め脳の動かし方を忘れる。

他の人はわからないけど、わたしの場合、書く時のテンションは他の時と全く異なる。

仕事モードと休息モードが違うように、

そう、それ位の差があるように、わたしの場合は書いている時のテンションは違う。

大袈裟に言うと、瞑想に近い状態だと思う。

洗い物をしている時や、シャワーをしている時の状態を思い浮かべて欲しい。

あれに近い感覚で、わたしはひたすらキーボードを思いのまま叩いている。

文章の構成も考えなければ、何書こうかなんて悩むこともなければ、

本当にひたすらひたすら書いている。

話を戻して、さっきアップしたブログ。

あれを書いていて、とにかく驚いた。

書こうと思っていることはあるのに、文章と文章を繋げられない。

自分の中では時系列になっていても、

いざ文章に起こすと、突然違う話をしている。

自分で読み返すと、非常にわかりにくい。

おかしい。

本気でおかしい。

毎日何かしらを書いていた時は何とも思わなかったけど、

随分と書かないでいると、本当にその感覚を忘れてしまうんだということがわかった。

他人の文章を読んでいるだけではダメ。

写経のごとく、写してもダメ。

とにかく、自分の手を使って、感覚を使って、

「書く」ことそのものをしないと、感覚は忘れ去られる。


「継続は力なり」

ほんとうにそのとおり!

と思った出来事だった。

断捨離=過去との決別

しばらく時間ができたことで、やりたいこと・気になっていたものをリストにした。

その中にいくつか「整理」という言葉が出てきた。

靴箱の整理
服の整理
紙の整理


最近、父親から譲り受けた1~2泊用のキャリーバッグがクローゼットに仲間入りした。

元々スペースがないに等しいクローゼットにそのキャリーバッグを収めることになり、

ということは、キャリーバッグと引き換えに何かを処分する他ないわけで、

ここ数日、のらりくらりと断捨離も兼ね、片付けにいそしんでいる。

まだ、途中経過だけれど、今回思いきり大きなものを処分した。

正しくは、サイズは小さいけど、処分するのにものすごい勇気を要すという意味で、

「大きなもの」たちだ。

いくつかあるけれど、代表的な物は2つ。

自分の名刺。
単価が一番高かったセミナーの資料。



自分の名刺・・・。

過去に100枚単位で作った名刺。

ネットサーフィンして、自分が本当に気に入ったところへ作成をお願いした。

デザインは、今でもすごく好きだし、気に入っている。

申し分ない。

でも、そこに記載されている自分の肩書(職業名)が嫌だ。

自分で付けた肩書(職業名)だったけど、自分でぴんときていなかった。

その肩書(職業名)が自分を表すものだとは到底思えなかった。

でも、何かしら名乗らなければ何をしている人かわからないから、

何かしらは名乗る必要がある、と当時は思い込んでいた。

それは今でも思っているけれど、でもわたし自身が納得できないものを名乗っても仕方ない。

代わりの名も思い付かずに今に至るけど、

もうこの名刺を誰にも渡したくない、とはっきりと思った今回。

捨てることに決めた。

今手元にある名刺は、全部ゴミ袋に入れた。



もう一つの、単価が最も高かったセミナーの資料。

これは、単純に「いらない」と思った。

多分3年ほど手元に置いてあると思うけど、

これまで一度たりとも見直したことがない。

当時の自分のメモがちょこちょこ書いてあるけど、

それを見直そう、という気分にもいまいちならない(よって、見直していない)。

ふと。

自分がいきなり明日ぽっくりいきました、なんてことになったら、

これらぜ~んぶ「ゴミ」になるんだ・・・

どんなに高価だろうが、そこにどんな思い入れがあろうが、

わたし以外の人から見たら「ゴミ」以外の何物でもない。

ぽっくりだとあまりにもスケールがでかすぎるけど、

これが引っ越しだったらどうだろう。

引っ越しだとしても、やはり次の場所へ持ち込むものではないんだ、とはっきり悟った。


もっと安いセミナーの資料の方がむしろ捨てれずにまだ手元にある。

大量の資料は、今回断捨離にかけるべくリストにアップされている。

これからまた気が向いた日に手元に残すもの、残さないものを分別する。

なんで安い資料を残して、高い資料を捨てたのか。

その差を知りたくて、今明後日のゴミ出しにスタンバイしている高い資料を

袋から取り出してめくって見た。

なぜかわかった。

ひとつは、きれいごとを並べている自分が嫌だから。

当時の思いや考えがメモされているけれど、

どうも周りの目を気にした自分や

セミナーそのものの雰囲気にのまれた自分というものになっている。

「本音」「心からの叫び」という感じではなかった。

もうひとつは、単価は高くても、高い=自分にとって有益な情報ではなく、

値段に関係なく、自分にとって有益がどうかというのは、わたしにしかわからない。

その資料について言えば、3年近く見直さない位に有益ではなかったということ。

それが瞬時にわかったから、すぐにゴミ袋へ入れられたんだと納得した。


名刺も、資料も、どちらも共通しているのは、過去のものだということ。

過去の自分を否定するでも打ち消すでもなく、

過去に体験したことは体験したことのまま、

でももう今の自分には必要でないから、不要な「物」は処分する。

そういう割り切りが今できている。

あさってのゴミ出しの日に、多少は後ろ髪引かれる思いが湧き上がるかもしれないけど、

やっぱり手放したい気持ちが大きいから手放す。