急遽、本編は先送りにしてこちらの記事を先に書いてアップしようと思う。
というのも、ここ最近、私の周りの人たちはけっこうみんな精神的にしんどかったり、嫌でも自分と向き合わなきゃいけない状況になっている人が多い。
もちろん私も。
当然色々ネガティブなものたちが遠慮なく出てくるから、私なんかは自分が楽になるために調べる、調べる_φ( ̄ー ̄ )。
調べ物から得たメッセージと、おじいちゃんの霊魂が私の前に現れて教えてもらったこととを組み合わせて、「今これ大事!」と思うメッセージを今日はいくつか紹介したい。
ちなみにおじいちゃんからのメッセージは言葉で来たものは本当に少なくて、おじいちゃんとのやりとりが終わった後私が個人で「これ超大事☆☆☆」と気付いたものが中心になる。
ルノルマンカードが到着した時に、私の第一印象は「きつね」と出て、きつねらしく、自分の知性生かして(←( ̄∀ ̄))良いと思って集めた情報を公開!
メッセージたちを公開する前に一言。
『読んだ瞬間に自分の中に思い浮かんだメッセージを何よりも大切にしてください』
後から私の解釈も付け足しますが、そんなのはついでの情報で、何よりも自分の中にパッと出てきたものこそが、これを読んでくれてる1人1人の人たちが自分に向けて送っている大切なメッセージです!
そちらを何よりも大切にしてもらえたら、これ以上ないぐらいに嬉しいです。
あまりドヤ顔しないように、鼻がピノキオみたいに伸びないように、気をつけて話します( ̄∀ ̄)。
〜Messages for You〜
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
*待つこと、動かないことも行動の1つ
*「解決」は何をもって解決なのか
*すべてに白黒つけられるものじゃない
(=結果にこだわらない)
*傷が自分を形作る
*自分のためにひたすら選んであげること
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
【*待つこと、動かないことも行動の1つ】
「行動しましょう」という言葉があちらこちらで散見される。
調子の良い時は、もちろんその調子に合わせてどんどん動いていったらいい。
でも、今ひとつ気が乗らないとか、だるくて動けないとか、今なぜかわからないけど動きたくないとか。
そうした時こそ、私は大切だと思う。
私が数回のニートをして、まぁ今もそれに変わりないところはあって、その中で感じたのは「動けない時の過ごし方」だった。
日本人は「勤勉」と言われるだけあって、とにかく動くことを美徳としている。
反対にじっとしていることが悪いとは言わなくても、動かないことに罪悪感を感じやすい世の中の風潮や文化が根強くある。
動くことを推奨する人たちもたくさんいるし、「働かざる者食うべからず」なんて言葉があるぐらいに「行動第一!」という考え方が世の中に深く浸透している。
これは私は実体験を持って言えることだけれど、行動にも2パターンあると思う。
「動」の行動と「静」の行動。
「動」は文字通り動く。
それは世の中全体で認識されてるものだと思うから、ここでは割愛。
「静」の行動の方はわかりにくい。
一見、動いていないように見える。
「休息する」「タイミングを静かに待つ」「自分の心をのぞいてみる」「ボーッとする」
代表的なものをいくつか挙げてみたけれども、それらも「行動」の1つに数えあげられる。
私が『奇跡の果実』シリーズを書き始めた1月23日から今日2月27日に至るまで、私が外に出た回数は週1としても5回あるかないかで、そのうちの1回は10日ぶりぐらいに出たから、本当に5回も出てないかもしれない。
家にこもって人ともほとんど会わず、だけど情報はいくらでも来るからそれをひたすら書いている。
別に家でじっとしていても事件は起こる( ̄∀ ̄)!
例えば、「書く」ことが「動」の行動だとするなら、起こったことをじっと眺めることは「静」の行動になる。
当たり前だけど、この『奇跡の果実』シリーズは黙って物事を眺めることが絶対的に必要な話ばかりで構成されている。
だから私は置き物のようにじっとしているし、頭に何か浮かんだらノートにメモだけ書いてまたじっとボケーっと過ごしている。
静と動が組み合わさって初めて1つの物語を作る。
この世に存在するすべてのものは必要があって存在している。
片方(動く)だけが良くて、片方(動かない)だけが悪いなんてことはない。
動く時には動く時にしか見えない景色が、動かない時には動かない時にしか見えない景色がある。
それぞれ大切なパーツを担っている。
どちらが優秀でどちらがダメなんてことはない。
両方、動く時も・動かないように見える静かな動きの時も、必要があってそうなっている。
「静」の部分の行動は、今後ますます見直されると思うし、大切にされていくと思う。
具体的に、体とか気持ちとかがついていかなくて動けない時について言及したい。
これは多くの場合、動いてはいけない時にそうなってる場合が多いと思う。
例えば昨日(2/26)の私は、1日の大半を布団の中で過ごした。
体が本当にしんどくて起き上がれなかった。
それがあったからこそ、今この文章を書いているのもある。
もしシャキシャキと動けていたとするなら、私は自分の「静」の行動を無視したかもわからない。
具合が悪くなったりする時や気乗りしない時なんてのは、ある意味「静」の行動への衝動だとさえ思う。
そこまでして止めなきゃいけない時にその力は働くと思う。
だから、心や体が発信している「休みたい」とか「動きたくない」とか「気怠い」とかそういうものを、できる限り聞こうと寄り添おうと思っている。
ちなみに「休むことが苦手な人」「休むことに罪悪感を覚える人」「体は休んでいても気が休まらない人」用に、私がしていることを紹介。
私は3つとももろに当てはまる人( ̄∀ ̄;)!
長年のクセはなかなか抜けないから、そんなにすぐのすぐには良くならないけれども、ある程度長く続けることで効果的と思った方法。
[その1]休んだことで「得したこと」を後から必ず1つは出す。
ちなみに体調不良で家でじっとしてた日に、会社から離職票が届いたことがあった。
自己都合退職だからダメ元でハローワークに次の日行ったら、なんと私は待機期間無しで即雇用保険が下りることになった!
あの日、私は体調良ければ普通に仕事探しどころか話を進めただろうから、あの体調不良にはめちゃくちゃ感謝した。
[その2]休んだことで本当に困ったことが起きたのかを検証する。
これはほぼゼロで、困ったことが起きてないんだから、もっと堂々と休めば良かった!といつも後から反省した。
[その3]気が休まらない休み方をした時。体を休めていた時に「動かなきゃ」とか「やらなきゃ」と思ったことで自分が何か得をしたのか、反対に損をしたのかを見る。
(思うだけでいつも結局何もしない)
大体いつも「きちんと休めば良かった!」となるから、「とにかく心も体も休める」方法を意図的に取るようにしている。
前に比べたら、私は自分比で相当上手く休めるようになってきたと思う。
すぐには100%改善はしなくても、自分が意識することで休み方が上手くなってくる。
休むのが苦手な人は、そういう苦手な自分を労わる方法、やさしく取り扱う自分なりの方法を見つけるといいと思う。
【*「解決」は何をもって解決なのか】
山で行方不明になったおじいちゃんのことをペンジュラムで探して欲しいと11月に頼まれてから今に至るまで、何1つおじいちゃんのことに関しては現実的に解決していない。
むしろ、そのことで現実対応することでの問題が増えたと言ってもいいぐらい。
そうした時に、それぞれどの価値基準で『解決』とするのか、色んな視点が考えられる。
ここには書けないけれども、おじいちゃんの想いを霊視を担当するOさん経由で聞いた時に、体さえ見つかればいいということでもないんだなとわかった。
体が見つかった!はい解決!、とはいかない他のテーマが含まれている。
それはご家族だけではなく、もっと大きな単位の人に向けて発信されてるものだから、それの解決となるともう生きている間にその流れを見れたらいいなというレベル。
それだけのでかいテーマが実は背景にはあるから、単に体が見つかって終わりではないんだろうなぁ…微妙だな…、と思う私がいる。
じゃあ「解決」って何だろう?と思う。
現実的に考えたら、おじいちゃんの体を無事見つけて供養することがご家族もおじいちゃん自身も望んでいる1つの解決になる。
これはOさんともかなり話し合ったことだったけれども、じゃあそれが全ての解決になるかと言うと、背景を知ってしまった以上そうじゃなさそうな雰囲気が漂っている。
それは私にも向けられているメッセージでもあるから、私は私にできることをするしかない。
例えば、私を例に取るとわかる。
「ペンジュラムでおじいちゃんの体を見つけられなかった。はい、以上終わり」
という風に私が結論付けてそのままにしたとするなら、これは絶対に解決にならない。
私のペンジュラムの結果に関しては真摯に受け止めなければいけないけれども、そこで私が全てから撤退したら私がこの件に関わっている意味がない。
次の話にも繋がってくるけれども、白黒付けて終わりにしてしまったとするなら、それはとんだ勘違いだと思う。
私が今延々と『奇跡の果実』シリーズを書いているのは、それこそが今私が考えられる、この件との私なりの関わり合い方で、且つそれが私の中の1つの解決に繋がる行為だと思っているから。
この件は、見えない役割分担がそれぞれの人にある。
表面上は、私はペンジュラム係とOさんをご家族に紹介する係…、そんな風になる。
ところが、真の係は、もしかしたらこの『奇跡の果実』を通してひたすら学んだこと・知り得たことを不特定多数の人たちに向けて発信することなのかもしれない。
人間界の価値基準、できるできない、勝つ負ける、みたいな2つに1つという答えや評価だけを追い求めたら、この全てにおける「解決」には絶対に辿り着けない。
これは仮説の域だけど、私がここに関わることになったのも、そういう意味合いがあったからじゃないかと思っている。
細かく細部まで見て、そこに宿っているストーリーをひたすら書いて発信する、それは現実的な解決とは全く異なる位置のものだけど、現に私はそれをしている。
時々すごく不思議な気持ちになる、「何で私これを書いてるんだろう?」と。
頼まれてないし、好きで書き続けてるのとも少し違う。
好きで書くには、もうその領域を超えた量や情報なわけで、好きだけでは書けない感じがする。
「解決」という視点からするとこのブログは無用の長物になってしまう。
けれども、何かしらの力が働いて書くことにはなっている。
情報の集まり方とか気付き方が尋常じゃないのは気付いてる。
とてもおかしな表現だけど、最初は「書きたい」「伝えたい」から始まった『奇跡の果実』シリーズも、今は「伝えなきゃ」という気持ちの方が強い。
そして、この発信こそが何か未来の解決の糸口になるような、そんな気がしている。
【*すべてに白黒つけられるものじゃない】
(=結果にこだわらない)
おじいちゃんの件に関しての一連の流れの中で出てきたメッセージではあったけれども、これだけは関係者のプライバシー保護を理由に公開できないから、代わりに私の個人の体験を例にとって説明したいと思う。
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「Oさんから直接〇〇さんの話聞いたら、終わりにできそうだね」
考えたこともない発想で、一瞬「???」となった。
そうか、第三者から見ると、それが1つの区切りになると思われることを初めて知った。
◎◎ちゃんは悪気は一切なく、私のその人への執着は異常だとも言った。
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これは12月ぐらいの会話だったと思う。
◎◎ちゃんとその少し前に会った時に、どうして何でもかんでも聞きたがりの私が、Oさんが職場の上司だった〇〇さんのことを突然私に言ってきたのか、その理由を何でOさんに聞かなかったのかを指摘された。
話にも出したことのない上司のことを、ある夏の日、Oさんは知り合いかのごとく、色んなことを言い当ててきた。
私はあまりにも驚きすぎてそれ以上質問するとかいう発想もなく、それで◎◎ちゃんに逆に聞かれた。
その後Oさんに質問したら、電話やLINEでの説明不可、伝えるとするなら直接会ってじゃないと伝えられないと言われた、と◎◎ちゃんに言ったら、上のような会話になった。
この話を【*すべてに白黒つけられるものじゃない】という視点で話したい。
世の中の色んなことは、何か決定的なことがあれば、たしかに表面上の白黒がついたり、結果が伴ったりする。
でも、人の心は表の結果に倣ってそちらにすぐに切り替わるとは限らない。
私の上の会話もまさにそうで、Oさんの霊視によって職場の上司だった人と私との霊的な関係性をより詳しく知ったところで、終わりにできるかと言えばそういう風には多分ならないと思っている。
Aという答えを知ったからと言って、私も「はいわかりました」と納得して全てが終わるなんて、そんな風には、自分の不器用さ加減も考えると、できないと思う。
白黒はっきりしたものがたとえ伝えられても、それはそれだし、それに伴って私の気持ちはまた変わるのかも知らないけれど、反対に何も変わらないのかもしれない。
そんな簡単に、きれいに決着がつけられない。
「白黒つけられない」なんてのは当たり前の話ではあるけれど、今回の一連の件で本当に白黒付けられない出来事がたくさん含まれていて、そこから学ぶことがとても多かった。
白黒つかない自分の心の中は仕方ない。
だけど白黒付けられない時、自分の心持ちとか自分はどうそのことと向き合いたいか、その辺りがより一層大切になってくるとわかった。
もう1つ、【結果にこだわらない】という視点での話を紹介したい。
『奇跡の果実(16)空飛ぶ種』より
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Oさんにも聞かれたけれども、Oさんがおじいちゃんの霊視の一部を失敗したにも関わらず、どうしてSさんがOさんを紹介することを了承されたのか、ここで触れておきたい。
Sさんがまず何よりも大事にしているのは、必要な人と人とを繋げることで、繋がった人にとって大切なものをきちんと体験するなり手にするなりすることだった。
Sさんがいつも大事にしているのは、「目の前の人にとっての1番」の部分になる。
だからそこに個人的な私情とか想いは一切はさまない。
目の前の人にとってのベストなら、そのベストのためにSさんは私も含めて色んな人たちのために尽力する。
今回の場合で言えば、Sさんの知人の方は、亡くなられたお父さんと繋がることを求めていた。
それはその知人の方にとったら、残りの人生において本人が絶対的に必要としていて、そのためならお金も時間もいとわないぐらいに望んでいたことだった。
Sさんは少なくとも、私のブログからOさんの霊視力は知っていたし、そもそもそれ以前にも私がOさんの話をSさんに時々していたから、Oさんの能力そのものを冷静に判断して評価していた。
Sさんは、ぶっしーちゃんの話はぶっしーちゃんの話だし、他の人たちの件は他の人たちの件で別物だから、ときっぱりと分けて考えてくれた。
おかげで、Oさんの力を必要としてくれる人と人とが繋がった。
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結果だけで推し測れないことがある。
たしかにOさんはおじいちゃんの霊視に関して、下ろしたある一部の情報は間違えていた。
それは内容について、合ってる合ってないだった。
ただ、Sさんの知り合いの方が求めているのは、何よりもまず亡くなられたお父さんの霊魂と繋がって、そのお父さんに本人が生前に聞きたかったことを聞くことだった。
当然そんなのは誰もができることではない。
まずはそれがきちんとできる人をその知人の方は求められていた。
だからOさんの霊視正答率というのは、詐欺みたいな状態では困るわけだけど、百点満点を求められてるのとは違う。
ある程度の高いレベルでできる人であればその方は是が非でもお父さんと繋がりたい、その気持ちが何よりもその方がOさんの力を必要とする理由だった。
結果にだけ注視して、本当の目の前の人の気持ちとか、本当にやってきているメッセージとかが見過ごされる方が問題になってしまう。
そういう意味でも、結果(正答率)だけにこだわるというのは違うんだなとわかった。
【*傷が自分を形作る】
今、自分の内面を見ることが促されるような外からの出来事だったり、外は特に何もなくても自分の内側から何かを訴えるようなものがあったりで、自分の内面をいつも以上に見つめる人が私の周りに多い。
私が知ってるだけでも4人はそうだと言っていたし、そのうちの1人の人は自分のところにそういう相談をしてくる人たちが日々入れ替わり立ち替わりやってきていると言っていた。
その人たちも数に入れたら、今の時期、私の周りでは10人弱はそういう風に自分の内面を見つめていることになる。
最初の「静なる行動」にも繋がる話だけど、今は自分の中をひたすら見つめる流れになっている。
今回これを記事にするために7人の専門家たちのブログやツイッターを確認している。
(ツイッターは私は遡っていくつも読む)
その人たちみんなが共通して言っているのが「自分の内面を見つめる」こと。
その作業がとにかく大事だと言っているし、傷や痛みに向き合うことの大切さも声高らかに謳っている。
傷の在り処さえわからない時もあると思う。
そういう時は、違和感を覚えたものにまずは気付くことだと思う。
「違和感」って本当に大事なんだなと最近は強く思う。
最初は「違和感」としてやってくる。
その時に気付いて見るならいいけれど、私は多少の違和感は適当に流してしまうことが多い。
でもそこを丁寧に拾い上げる、もしくは一度立ち止まって「自分は何に違和感を覚えているんだろう?」と見つめる作業を普段からしておくと、その違和感の正体がわかる。
正体もわかれば、違和感から傷へと昇格させなくて済む!!!
これは人それぞれ違うから、まず違和感が何かというのは本人が気付かない限りは永遠と気付かれず、怖いこと言うようだけど、それに気付かせるためにもっと強烈な出来事が起こったりする。
(↑何回も自爆テロに遭ってようやく気付いた人…( ̄ཀ ̄;;)( ̄ཀ ̄;;)( ̄ཀ ̄;;))
ちなみに個人的にオススメなのは、自分の気になってることや引っかかった言葉を紙やノートにひたすら書く方法。
私なんかは人への恨みを延々と綴るという悪魔のようなノートも持っている( ̄^ ̄)ゞ。
ワラ人形を打つみたいなことはしないし、書いたからと言って今すぐどうなることもないけれど、これってすごく大事な作業で、自分の中のモヤモヤ感は自分でしか拾い出せない。
他人はどうでもいいから、自分のモヤモヤを自分のために取ってあげる、取り除いてあげるという感じ。
そうすると、悪魔のノートが出来上がる(笑)。
私はそれを自分の研究材料のために取っておくけれど、そんな気持ち悪いことはできないという人は捨てていい紙に書いて即捨てたらいい。
話がだいぶ逸れた、特に悪魔のノート( ̄∀ ̄)。
ちなみに、霊視ができるOさんによると、私が「悪魔のノート」と呼ぶノートの波動が一番高くてまとってる空気が綺麗とのこと∑(゚Д゚;)!
たしかに、不純物は一切ない、私の超本音だけを拾い集めて書いているから、私自身のエネルギーはものすごく真っ直ぐ( ̄∀ ̄)。
ちなみに同じ時に持っていたノートで一番ダメ出しをくらったのは、自分がこれから提供するサービスのアイディアやひらめきなんかをあれこれ書いたもの。
今ならよくわかる。
悪魔のノートには嘘がなくて、私の純粋な気持ち(負の感情とも呼ぶ)が100%入っている。
でも、アイデアノートは、「人に良く思われよう」とか「人の役に立とう」という、一見悪くなさそうだけど、私の場合は本当の自分を変えてまで他人ウケする自分を作ろうとしていた。
だから自分をそのまま出さず、どこか遠慮しながら自分を出したり、人や社会に合わせた自分を出していた。
自分をどこか曲げていたと言ってもいいかもしれない。
そりゃ波動的に悪いと言われても仕方ない。
私ではないものになろうとしたわけだから、無理がある。
あれから多分半年ぐらい経つけれど、今は「自分の本音で生きる」ことに気持ちがどんどん傾いている。
当然逆風も吹くし嫌な思いも色々体験したりする。
痛みもあれば、古傷がうずくこともある。
だけど、私はこの1年ぐらいの中で、自分の過去の傷を労ったり大切にしたりする作業を延々と繰り返している。
傷のすごいところは、きちんと自分から歩み寄っていくと、本当は傷じゃなくてその先に本気で守りたいものが隠されている。
本気で守りたいものがあるから、それを傷付けないために自分が自分の盾のようになって傷付く。
でもそこまでしてでも守ってるものがある。
絶対に譲れないから、全力で守ろうとしている。
だから、傷となってるものは、自分を守ろうとした勲章のようでもあるし、その奥に大切なメッセージがあるから開けてね!という鍵でもあると思う。
1人1人平気なことも耐え難いほどの怒りを覚えることも違う。
そのすべてを、傷も含めたすべてを持って、初めてその人というものが完成するように思う。
【*自分のためにひたすら選んであげること】
これは全体を通して言えること。
これまでは世の中の正しさとか正義とか常識とかに合わせて何かを選ぶことが主流だった。
そのおかげで発展したことも色々あったし、良い方向に向かったものも数多くある。
だけど、今は時代が変わってきて、白黒はっきりしたものにできない、内容によってはグレーにさえできないようなことが増えてきた。
例えばこれまでは周りに合わせて動くことが美徳だったり、協調性を持ちながら周りと動いていくことがいいみたいな流れだった。
でもこれからはますます「あなたはどう思う?」とか「あなたはどうしたい?」がメインの流れになっていくと思う。
イメージ的には、これまでは集団の中にいて自分がどういう立ち位置なら自分がそこに役立つことができるのか、そういう視点での協調性だった。
これからは、それぞれの人が自分というものをそのまま表現して、その自分のままで周りの人たちと繋がっていく、その繋がった形が集団を形成していく、そんな風になっていく気がする。
(説明は割愛するけれど、占星術的にはそのような天体配置に入っていく)
これまでは集団という枠が先に作られていてその中の個人だったけれども、今後は個人個人というピースが、その自分のボコボコしたユニークな形のままでそのピースときれいにピタッと重なる人たちと集団を形成していく、集団の最終形がどうなるかは作ってみなきゃわからない、そんな風になる気がする。
概略を説明するのは上手くないから、自分のことを例にして「自分のために選ぶこと」を説明したい。
さっきの職場の上司のことが【自分のために選ぶこと】のわかりやすい例だから、それを出そうと思う。
結論から言うと、私はOさんからその上司との霊的な関係性については聞かない方向で今現在気持ちが固まりつつある。
そちらはしないけれども、名古屋のSさんが前世療法の手法を本当に習うのなら、その時にモニターをさせてもらえそうならそれでその人と私とが何なのかを見てこようと思っている。
Sさんの前世療法は前向きに受けたいと思っている。
Oさんがいつだったかポロッとその人と私の関係性に関しては「霊的に道理が通っている」みたいな言い方をしていたし、武士俣さんはきちんと聞いて受け止めた方がいいと思うということも言われた。
だけど、色々時間をかけて自分の心の声を聴くようにしたら、変わってきた。
多分Oさんから霊視して下ろしてもらう方が情報の信憑性は高いだろうし、前世療法は私の主観で勝手に物語をでっち上げたらどうしようかという懸念もかなりある( ̄∀ ̄)。
(ガイドするSさんのことはめちゃくちゃ信用しているけれど、そもそもの自分が信用ならない(T_T))
だけど、私個人は情報の信憑性や整合性を求めているのじゃない。
正直、そういう解説的なものは何でもいいと思っている。
霊的に強い結びつきがあろうが、反対に全く関係なんかなくて武士俣さんの勘違いと言われようが、本当にどちらでもいい。
前者を聞けば「やっぱり!」となるだけだし、後者なら「じゃあこの異常な偶然たちは何だ?」とかそういう疑問が湧いて釈然としないままだと思う。
ただどちらの場合も、「私が欲しいものじゃない」とわかった。
専門的な説明が欲しいのでもないし、さらなるモヤモヤ感が欲しいのでもない。
私が本当に欲しいのは、その人とのことに関しては「私が大事にしている気持ちを大事にしたい」、そこだとわかった。
だから、専門的な情報を得ることが【私にとっての大事】とはならない。
今回は違う。
私が本当の本当に大切にしているものだから、それを私が「この方法なら大切にできそう」という感覚で受け入れられるのがいいと思った。
さらに言うと、Sさんが何よりも私のことや私の気持ちを普段から大事にしてくれてる。
もしSさんが「前世療法受けたら終わりにできそうだね」なんて言う人だったら私は絶対に受けない。
Sさんもそれを受けたからと言って何がどうなるとかいうことは一切言わない。
だけど、そこから大切なメッセージを受け取る可能性に賭けてることと、それが今世この世に命を受けたこの人生に対しての大切なヒントになるのかもしれないこと、そこをとっても大切にされてるのが話を聞いていてわかる。
さらに言うと、Sさんは私でさえもその上司に対しての気持ちは「異常」だと感じることに対して、一度も否定しないどころか「楽しみだね」と本気で言ってくれる。
そして私が名古屋から新潟に戻ることになった時も「誰かに出逢うために新潟に戻るんだね、ぶっしーちゃん」と言ってくれたぐらいに、一ミリも明るい展望など抱けなかった時でさえもSさんはすでにすごいことをさらりと予言するかのように言っていた。
実際に頭の中お花畑人生絶好調と言わんばかりの2017年のお盆休みに、当時は三重の方にいた妹家族を訪ねた時に、名古屋でSさんとも再会できた。
Sさんは会った瞬間に私の変化に気付いて、本当にそういう素敵な人と出逢えたことを心から喜んでくれた。
素敵な人に出逢えたというのは、私の一方的なもので、付き合えるようになったとかそういうことじゃない。
それでもSさんは私自身の変化を心から祝福してくれた。
だから、Sさんがガイドしてくれるものなら私が安心して受けられるから、それを通じて自分の前世を見たいと思っている。
「私にとっての大事な方法」は、Oさんから論理的に説明を受けることではなく、たとえ私の勘違いやでっち上げが暴走したものになったとしても、Sさんガイドの上で受ける前世療法で、そしてそこでもし私の知りたいことを知れたとするならいいなぁと思っている。
両方受けることも可能だけど、私はもう自分の中ではっきりと「説明は要らない」という結論が出ている。
そして◎◎ちゃんが言ったみたいに、終わりにするとかそんなのも考えていない。
私が選んだのは、あくまでも自分が大切にしたい方法でその人とのことを自分の中でもっと深く理解できたらいい、そこに尽きる。
私は前世療法で何も出てこなかったとしても、それでもいいと思っている。
出てこない=私が知る必要がない、そう解釈している。
それよりも、私は自分が全力で守りたいもの、それぐらい大切なものだから、そこを基準にして物事を選んでいる。
こうした心の声は、丁寧に丁寧に自分に聞いていくしかない。
他の人はわからないけれど、「私はどうしたいの?」と聞いても基本私の心の声は何も聞こえてこない( ̄ཀ ̄;;)。
じゃあどうしてるのかと言うと。
それは普段からその時その時の「感情」や「気分」を見ること。
OさんとSさんと、それぞれ別々のタイミングで話が出てきた。
Oさんは直接その人について霊視で色々感じたことを伝えてくれたし、Sさんはその人のことは何も言わず単に前世療法の話だけをしてくれた。
だから、Sさんからはその人を前世療法で見てきたら?とか勧められたことは一度もない。
Sさんは抜群の直観力がある人だけれど、霊視とか霊能力は一切ない。
だからOさんから聞く方がよほど情報としての精度は高いのはわかる。
だけど、Oさんから説明を受けた時、その時は知りたいなとは思ったけれども、日を追うごとに「知るのが怖い」というのが出てきた。
内容を知るのが怖いのではなく、Oさんが霊視で得た情報をどのように伝えてくるのか、そこに私が疑問を持つようなやりとりがあったから、それで気が進まなくなってしまった。
順位を付けるのもおかしな話だけど、私はその人とのことに関しては今の自分の人生の中で一番大切にしているものだと思う。
誰に何と言われようと死守したいぐらいに大切にしている。
それぐらいのものだから、私は他の事柄と違って、適当にやりとりすることができない。
その人のことだけではなく、他のことたちのやりとりの時にも私は違和感を覚えた。
スッキリしないものがある以上、私はそんな気持ちで話を聞くことがすごく嫌なんだとわかった。
だから情報の精度はわかっていても、それを聞くことで自分が気持ち良くいられるかと想像すると、YESかもしれない一方でNOの可能性も半々であるから、私はやっぱり聞きたい!とはならなかった。
NOの可能性がある以上、この件に関しては私の中の地雷が多すぎて、しかも自分でも気付かない地雷があまりに多くて、「危険」と判断した。
こういう目に見えない内容を取り扱う時、何よりも大切なのは「安心感」と「信頼」だと思う。
ただでさえ見えないもののわけだから、それに臨む自分がまずは安心できることが絶対に大事。
人間には自己防衛本能が備わっているから、少しでも危険を察知するとアウトになる。
ましてやそうした見えない世界や自分の心の中のこと、「危険」と潜在意識の中にインプットされたら、二度とそこには向き合えないぐらいのダメージを残す。
そして、絶対の信頼を私が相手に持っていないと、そこにそもそも集中して向き合えない。
特にこの件は私がすごい厳しい基準を持っていることが自分でもわかる。
Sさんの前世療法の行方が今後どうなるかはわからないけれども、少なくとも本当に機会が巡ってきたら、私はSさんを信頼して安心してそれを受けることができる。
それはSさんと話している時の自分の感覚でわかる。
私は自分の話をする時は、相当人を選ぶ。
Sさんに関しては、私はSさんの反応を気にせず本当に心穏やかに色んな話ができる。
もう結果は一目瞭然だった。
安心感や信頼感というのは、普段の感じから判断することができる。
それがないと私はその人との魂的な繋がりを見に行けない。
本気の覚悟がいるから、私が全身全霊でそれをするには、絶対の安心感と信頼感が要る。
そして、Sさんがこの件に関しては私が心から一任してガイドをお願いできる人なんだとはっきりと今回わかった。
それはSさんの普段のあり方を見て、私が何を感じているか、リラックスしているのか、気楽に話せるのか、安心しているのか等々、そうしたことで私は判断している。
外に結果を求めてもダメで、こうした自分だけの選択って自分しか答えを持っていない。
自分で自分の気持ちに耳を傾ける、それしかない。
たとえ世間的にはおかしな選択に見えても、自分のために自分が良いものを選ぶ、自分が安心できるものを選ぶ、そういうことが大事なんだろうなぁと思う。
どうしたら自分が後悔しないか、自分の人生なんだからやっぱりそこが大事なんだと改めて思う。
そして、その後悔のない選択のために、他の人ではなく自分を優先していいこと、それがようやく最近、腑に落ち始めた。
【写真】
2月の中旬ぐらいから毎朝カードを引いて、その日のメッセージを受け取るのとカードの読み解きの練習をしている。
今朝2/28出たカードたち。
いつも左の大きいカードを引いてから右の小さなカード(ルノルマンカード)を引いている。
左側のカード「あなたは何を望んでいる?」
モヤモヤしてること数日、そうだよね、そう、まさに私の心の中じゃん!と思って、ヒントがルノルマンから来るんだね♪٩(๑ᴖ◡ᴖ๑)۶♪、ヘビとかムチとかやめてよ!と思って小さい方をめくったら…。
「『男』って…( ̄ཀ ̄;;)?」
【何が欲しい?ーーー男】
朝からドッと疲れが出た。
いつもならその後カードを眺めてガイドブックも開いて細かくメッセージを読み解くけれども、戦意消失してそれ以上は読み解かなかった。
これまでただの一度も出たことがない紳士のカード、しかも王子様カードがなぜ今出てくる?と思った。
本当はカードがわざわざ私の深層心理を代弁してくれてるのだから向き合うのが良いんだけれども、今日は「このすごい内容にどう向き合えと言うのだろう?」と悪態つきまくりだったから、やめた。
大きいカードは44枚、小さいカードは36の絵柄。
どういう確率でこんな組み合わせが出て来るんだろう…!(◎_◎;)!
しかも大きいカードは、他は単語なのに、これだけが唯一の疑問形になっている。
知ってる。
向き合うべきテーマはわかってる( ̄∀ ̄;)。
ヒントがこういう形で出てきたけれど、私は今日の自分の心の具合を見て、あえて「向き合わない」選択をした。
夜になって元気になってきたから、これから読み解きと自己対話をしようかと思う( ̄∀ ̄)。
引きこもりみたいな生活をしている私にとって、「紳士」だの「王子様」だのに当たる人物は1人しか思い当たらない。
私が何を望むか?という質問ではなく、私には「すべてを受け入れる覚悟を決めなさい」というメッセージに見えて仕方ないヽ( ̄∀ ̄;)ノ=3=3=3