2019年2月28日木曜日

奇跡の果実* Lesson3『自分を大切にするレッスン』


急遽、本編は先送りにしてこちらの記事を先に書いてアップしようと思う。

というのも、ここ最近、私の周りの人たちはけっこうみんな精神的にしんどかったり、嫌でも自分と向き合わなきゃいけない状況になっている人が多い。

もちろん私も。

当然色々ネガティブなものたちが遠慮なく出てくるから、私なんかは自分が楽になるために調べる、調べる_φ( ̄ー ̄ )。

調べ物から得たメッセージと、おじいちゃんの霊魂が私の前に現れて教えてもらったこととを組み合わせて、「今これ大事!」と思うメッセージを今日はいくつか紹介したい。

ちなみにおじいちゃんからのメッセージは言葉で来たものは本当に少なくて、おじいちゃんとのやりとりが終わった後私が個人で「これ超大事☆☆☆」と気付いたものが中心になる。

ルノルマンカードが到着した時に、私の第一印象は「きつね」と出て、きつねらしく、自分の知性生かして(←( ̄∀ ̄))良いと思って集めた情報を公開!

メッセージたちを公開する前に一言。



『読んだ瞬間に自分の中に思い浮かんだメッセージを何よりも大切にしてください』



後から私の解釈も付け足しますが、そんなのはついでの情報で、何よりも自分の中にパッと出てきたものこそが、これを読んでくれてる1人1人の人たちが自分に向けて送っている大切なメッセージです!

そちらを何よりも大切にしてもらえたら、これ以上ないぐらいに嬉しいです。

あまりドヤ顔しないように、鼻がピノキオみたいに伸びないように、気をつけて話します( ̄∀ ̄)。



〜Messages for You〜
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


*待つこと、動かないことも行動の1つ


*「解決」は何をもって解決なのか


*すべてに白黒つけられるものじゃない
(=結果にこだわらない)


*傷が自分を形作る


*自分のためにひたすら選んであげること


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



【*待つこと、動かないことも行動の1つ】

「行動しましょう」という言葉があちらこちらで散見される。

調子の良い時は、もちろんその調子に合わせてどんどん動いていったらいい。

でも、今ひとつ気が乗らないとか、だるくて動けないとか、今なぜかわからないけど動きたくないとか。

そうした時こそ、私は大切だと思う。

私が数回のニートをして、まぁ今もそれに変わりないところはあって、その中で感じたのは「動けない時の過ごし方」だった。

日本人は「勤勉」と言われるだけあって、とにかく動くことを美徳としている。

反対にじっとしていることが悪いとは言わなくても、動かないことに罪悪感を感じやすい世の中の風潮や文化が根強くある。

動くことを推奨する人たちもたくさんいるし、「働かざる者食うべからず」なんて言葉があるぐらいに「行動第一!」という考え方が世の中に深く浸透している。

これは私は実体験を持って言えることだけれど、行動にも2パターンあると思う。

「動」の行動と「静」の行動。

「動」は文字通り動く。

それは世の中全体で認識されてるものだと思うから、ここでは割愛。

「静」の行動の方はわかりにくい。

一見、動いていないように見える。

「休息する」「タイミングを静かに待つ」「自分の心をのぞいてみる」「ボーッとする」

代表的なものをいくつか挙げてみたけれども、それらも「行動」の1つに数えあげられる。

私が『奇跡の果実』シリーズを書き始めた1月23日から今日2月27日に至るまで、私が外に出た回数は週1としても5回あるかないかで、そのうちの1回は10日ぶりぐらいに出たから、本当に5回も出てないかもしれない。

家にこもって人ともほとんど会わず、だけど情報はいくらでも来るからそれをひたすら書いている。

別に家でじっとしていても事件は起こる( ̄∀ ̄)!

例えば、「書く」ことが「動」の行動だとするなら、起こったことをじっと眺めることは「静」の行動になる。

当たり前だけど、この『奇跡の果実』シリーズは黙って物事を眺めることが絶対的に必要な話ばかりで構成されている。

だから私は置き物のようにじっとしているし、頭に何か浮かんだらノートにメモだけ書いてまたじっとボケーっと過ごしている。

静と動が組み合わさって初めて1つの物語を作る。

この世に存在するすべてのものは必要があって存在している。

片方(動く)だけが良くて、片方(動かない)だけが悪いなんてことはない。

動く時には動く時にしか見えない景色が、動かない時には動かない時にしか見えない景色がある。

それぞれ大切なパーツを担っている。

どちらが優秀でどちらがダメなんてことはない。

両方、動く時も・動かないように見える静かな動きの時も、必要があってそうなっている。

「静」の部分の行動は、今後ますます見直されると思うし、大切にされていくと思う。



具体的に、体とか気持ちとかがついていかなくて動けない時について言及したい。

これは多くの場合、動いてはいけない時にそうなってる場合が多いと思う。

例えば昨日(2/26)の私は、1日の大半を布団の中で過ごした。

体が本当にしんどくて起き上がれなかった。

それがあったからこそ、今この文章を書いているのもある。

もしシャキシャキと動けていたとするなら、私は自分の「静」の行動を無視したかもわからない。

具合が悪くなったりする時や気乗りしない時なんてのは、ある意味「静」の行動への衝動だとさえ思う。

そこまでして止めなきゃいけない時にその力は働くと思う。

だから、心や体が発信している「休みたい」とか「動きたくない」とか「気怠い」とかそういうものを、できる限り聞こうと寄り添おうと思っている。

ちなみに「休むことが苦手な人」「休むことに罪悪感を覚える人」「体は休んでいても気が休まらない人」用に、私がしていることを紹介。

私は3つとももろに当てはまる人( ̄∀ ̄;)!

長年のクセはなかなか抜けないから、そんなにすぐのすぐには良くならないけれども、ある程度長く続けることで効果的と思った方法。


[その1]休んだことで「得したこと」を後から必ず1つは出す。


ちなみに体調不良で家でじっとしてた日に、会社から離職票が届いたことがあった。

自己都合退職だからダメ元でハローワークに次の日行ったら、なんと私は待機期間無しで即雇用保険が下りることになった!

あの日、私は体調良ければ普通に仕事探しどころか話を進めただろうから、あの体調不良にはめちゃくちゃ感謝した。


[その2]休んだことで本当に困ったことが起きたのかを検証する。


これはほぼゼロで、困ったことが起きてないんだから、もっと堂々と休めば良かった!といつも後から反省した。


[その3]気が休まらない休み方をした時。体を休めていた時に「動かなきゃ」とか「やらなきゃ」と思ったことで自分が何か得をしたのか、反対に損をしたのかを見る。
(思うだけでいつも結局何もしない)


大体いつも「きちんと休めば良かった!」となるから、「とにかく心も体も休める」方法を意図的に取るようにしている。

前に比べたら、私は自分比で相当上手く休めるようになってきたと思う。

すぐには100%改善はしなくても、自分が意識することで休み方が上手くなってくる。

休むのが苦手な人は、そういう苦手な自分を労わる方法、やさしく取り扱う自分なりの方法を見つけるといいと思う。



【*「解決」は何をもって解決なのか】

山で行方不明になったおじいちゃんのことをペンジュラムで探して欲しいと11月に頼まれてから今に至るまで、何1つおじいちゃんのことに関しては現実的に解決していない。

むしろ、そのことで現実対応することでの問題が増えたと言ってもいいぐらい。

そうした時に、それぞれどの価値基準で『解決』とするのか、色んな視点が考えられる。

ここには書けないけれども、おじいちゃんの想いを霊視を担当するOさん経由で聞いた時に、体さえ見つかればいいということでもないんだなとわかった。

体が見つかった!はい解決!、とはいかない他のテーマが含まれている。

それはご家族だけではなく、もっと大きな単位の人に向けて発信されてるものだから、それの解決となるともう生きている間にその流れを見れたらいいなというレベル。

それだけのでかいテーマが実は背景にはあるから、単に体が見つかって終わりではないんだろうなぁ…微妙だな…、と思う私がいる。

じゃあ「解決」って何だろう?と思う。

現実的に考えたら、おじいちゃんの体を無事見つけて供養することがご家族もおじいちゃん自身も望んでいる1つの解決になる。

これはOさんともかなり話し合ったことだったけれども、じゃあそれが全ての解決になるかと言うと、背景を知ってしまった以上そうじゃなさそうな雰囲気が漂っている。

それは私にも向けられているメッセージでもあるから、私は私にできることをするしかない。

例えば、私を例に取るとわかる。

「ペンジュラムでおじいちゃんの体を見つけられなかった。はい、以上終わり」
という風に私が結論付けてそのままにしたとするなら、これは絶対に解決にならない。

私のペンジュラムの結果に関しては真摯に受け止めなければいけないけれども、そこで私が全てから撤退したら私がこの件に関わっている意味がない。

次の話にも繋がってくるけれども、白黒付けて終わりにしてしまったとするなら、それはとんだ勘違いだと思う。

私が今延々と『奇跡の果実』シリーズを書いているのは、それこそが今私が考えられる、この件との私なりの関わり合い方で、且つそれが私の中の1つの解決に繋がる行為だと思っているから。

この件は、見えない役割分担がそれぞれの人にある。

表面上は、私はペンジュラム係とOさんをご家族に紹介する係…、そんな風になる。

ところが、真の係は、もしかしたらこの『奇跡の果実』を通してひたすら学んだこと・知り得たことを不特定多数の人たちに向けて発信することなのかもしれない。

人間界の価値基準、できるできない、勝つ負ける、みたいな2つに1つという答えや評価だけを追い求めたら、この全てにおける「解決」には絶対に辿り着けない。

これは仮説の域だけど、私がここに関わることになったのも、そういう意味合いがあったからじゃないかと思っている。

細かく細部まで見て、そこに宿っているストーリーをひたすら書いて発信する、それは現実的な解決とは全く異なる位置のものだけど、現に私はそれをしている。

時々すごく不思議な気持ちになる、「何で私これを書いてるんだろう?」と。

頼まれてないし、好きで書き続けてるのとも少し違う。

好きで書くには、もうその領域を超えた量や情報なわけで、好きだけでは書けない感じがする。

「解決」という視点からするとこのブログは無用の長物になってしまう。

けれども、何かしらの力が働いて書くことにはなっている。

情報の集まり方とか気付き方が尋常じゃないのは気付いてる。

とてもおかしな表現だけど、最初は「書きたい」「伝えたい」から始まった『奇跡の果実』シリーズも、今は「伝えなきゃ」という気持ちの方が強い。

そして、この発信こそが何か未来の解決の糸口になるような、そんな気がしている。



【*すべてに白黒つけられるものじゃない】
(=結果にこだわらない)

おじいちゃんの件に関しての一連の流れの中で出てきたメッセージではあったけれども、これだけは関係者のプライバシー保護を理由に公開できないから、代わりに私の個人の体験を例にとって説明したいと思う。


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「Oさんから直接〇〇さんの話聞いたら、終わりにできそうだね」

考えたこともない発想で、一瞬「???」となった。

そうか、第三者から見ると、それが1つの区切りになると思われることを初めて知った。

◎◎ちゃんは悪気は一切なく、私のその人への執着は異常だとも言った。
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これは12月ぐらいの会話だったと思う。

◎◎ちゃんとその少し前に会った時に、どうして何でもかんでも聞きたがりの私が、Oさんが職場の上司だった〇〇さんのことを突然私に言ってきたのか、その理由を何でOさんに聞かなかったのかを指摘された。

話にも出したことのない上司のことを、ある夏の日、Oさんは知り合いかのごとく、色んなことを言い当ててきた。

私はあまりにも驚きすぎてそれ以上質問するとかいう発想もなく、それで◎◎ちゃんに逆に聞かれた。

その後Oさんに質問したら、電話やLINEでの説明不可、伝えるとするなら直接会ってじゃないと伝えられないと言われた、と◎◎ちゃんに言ったら、上のような会話になった。

この話を【*すべてに白黒つけられるものじゃない】という視点で話したい。

世の中の色んなことは、何か決定的なことがあれば、たしかに表面上の白黒がついたり、結果が伴ったりする。

でも、人の心は表の結果に倣ってそちらにすぐに切り替わるとは限らない。

私の上の会話もまさにそうで、Oさんの霊視によって職場の上司だった人と私との霊的な関係性をより詳しく知ったところで、終わりにできるかと言えばそういう風には多分ならないと思っている。

Aという答えを知ったからと言って、私も「はいわかりました」と納得して全てが終わるなんて、そんな風には、自分の不器用さ加減も考えると、できないと思う。

白黒はっきりしたものがたとえ伝えられても、それはそれだし、それに伴って私の気持ちはまた変わるのかも知らないけれど、反対に何も変わらないのかもしれない。

そんな簡単に、きれいに決着がつけられない。

「白黒つけられない」なんてのは当たり前の話ではあるけれど、今回の一連の件で本当に白黒付けられない出来事がたくさん含まれていて、そこから学ぶことがとても多かった。

白黒つかない自分の心の中は仕方ない。

だけど白黒付けられない時、自分の心持ちとか自分はどうそのことと向き合いたいか、その辺りがより一層大切になってくるとわかった。



もう1つ、【結果にこだわらない】という視点での話を紹介したい。

『奇跡の果実(16)空飛ぶ種』より

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Oさんにも聞かれたけれども、Oさんがおじいちゃんの霊視の一部を失敗したにも関わらず、どうしてSさんがOさんを紹介することを了承されたのか、ここで触れておきたい。

Sさんがまず何よりも大事にしているのは、必要な人と人とを繋げることで、繋がった人にとって大切なものをきちんと体験するなり手にするなりすることだった。

Sさんがいつも大事にしているのは、「目の前の人にとっての1番」の部分になる。

だからそこに個人的な私情とか想いは一切はさまない。

目の前の人にとってのベストなら、そのベストのためにSさんは私も含めて色んな人たちのために尽力する。

今回の場合で言えば、Sさんの知人の方は、亡くなられたお父さんと繋がることを求めていた。

それはその知人の方にとったら、残りの人生において本人が絶対的に必要としていて、そのためならお金も時間もいとわないぐらいに望んでいたことだった。

Sさんは少なくとも、私のブログからOさんの霊視力は知っていたし、そもそもそれ以前にも私がOさんの話をSさんに時々していたから、Oさんの能力そのものを冷静に判断して評価していた。

Sさんは、ぶっしーちゃんの話はぶっしーちゃんの話だし、他の人たちの件は他の人たちの件で別物だから、ときっぱりと分けて考えてくれた。

おかげで、Oさんの力を必要としてくれる人と人とが繋がった。

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結果だけで推し測れないことがある。

たしかにOさんはおじいちゃんの霊視に関して、下ろしたある一部の情報は間違えていた。

それは内容について、合ってる合ってないだった。

ただ、Sさんの知り合いの方が求めているのは、何よりもまず亡くなられたお父さんの霊魂と繋がって、そのお父さんに本人が生前に聞きたかったことを聞くことだった。

当然そんなのは誰もができることではない。

まずはそれがきちんとできる人をその知人の方は求められていた。

だからOさんの霊視正答率というのは、詐欺みたいな状態では困るわけだけど、百点満点を求められてるのとは違う。

ある程度の高いレベルでできる人であればその方は是が非でもお父さんと繋がりたい、その気持ちが何よりもその方がOさんの力を必要とする理由だった。

結果にだけ注視して、本当の目の前の人の気持ちとか、本当にやってきているメッセージとかが見過ごされる方が問題になってしまう。

そういう意味でも、結果(正答率)だけにこだわるというのは違うんだなとわかった。



【*傷が自分を形作る】

今、自分の内面を見ることが促されるような外からの出来事だったり、外は特に何もなくても自分の内側から何かを訴えるようなものがあったりで、自分の内面をいつも以上に見つめる人が私の周りに多い。

私が知ってるだけでも4人はそうだと言っていたし、そのうちの1人の人は自分のところにそういう相談をしてくる人たちが日々入れ替わり立ち替わりやってきていると言っていた。

その人たちも数に入れたら、今の時期、私の周りでは10人弱はそういう風に自分の内面を見つめていることになる。

最初の「静なる行動」にも繋がる話だけど、今は自分の中をひたすら見つめる流れになっている。

今回これを記事にするために7人の専門家たちのブログやツイッターを確認している。
(ツイッターは私は遡っていくつも読む)

その人たちみんなが共通して言っているのが「自分の内面を見つめる」こと。

その作業がとにかく大事だと言っているし、傷や痛みに向き合うことの大切さも声高らかに謳っている。

傷の在り処さえわからない時もあると思う。

そういう時は、違和感を覚えたものにまずは気付くことだと思う。

「違和感」って本当に大事なんだなと最近は強く思う。

最初は「違和感」としてやってくる。

その時に気付いて見るならいいけれど、私は多少の違和感は適当に流してしまうことが多い。

でもそこを丁寧に拾い上げる、もしくは一度立ち止まって「自分は何に違和感を覚えているんだろう?」と見つめる作業を普段からしておくと、その違和感の正体がわかる。

正体もわかれば、違和感から傷へと昇格させなくて済む!!!

これは人それぞれ違うから、まず違和感が何かというのは本人が気付かない限りは永遠と気付かれず、怖いこと言うようだけど、それに気付かせるためにもっと強烈な出来事が起こったりする。
(↑何回も自爆テロに遭ってようやく気付いた人…( ̄ཀ ̄;;)( ̄ཀ ̄;;)( ̄ཀ ̄;;))

ちなみに個人的にオススメなのは、自分の気になってることや引っかかった言葉を紙やノートにひたすら書く方法。

私なんかは人への恨みを延々と綴るという悪魔のようなノートも持っている( ̄^ ̄)ゞ。

ワラ人形を打つみたいなことはしないし、書いたからと言って今すぐどうなることもないけれど、これってすごく大事な作業で、自分の中のモヤモヤ感は自分でしか拾い出せない。

他人はどうでもいいから、自分のモヤモヤを自分のために取ってあげる、取り除いてあげるという感じ。

そうすると、悪魔のノートが出来上がる(笑)。

私はそれを自分の研究材料のために取っておくけれど、そんな気持ち悪いことはできないという人は捨てていい紙に書いて即捨てたらいい。

話がだいぶ逸れた、特に悪魔のノート( ̄∀ ̄)。

ちなみに、霊視ができるOさんによると、私が「悪魔のノート」と呼ぶノートの波動が一番高くてまとってる空気が綺麗とのこと∑(゚Д゚;)!

たしかに、不純物は一切ない、私の超本音だけを拾い集めて書いているから、私自身のエネルギーはものすごく真っ直ぐ( ̄∀ ̄)。

ちなみに同じ時に持っていたノートで一番ダメ出しをくらったのは、自分がこれから提供するサービスのアイディアやひらめきなんかをあれこれ書いたもの。

今ならよくわかる。

悪魔のノートには嘘がなくて、私の純粋な気持ち(負の感情とも呼ぶ)が100%入っている。

でも、アイデアノートは、「人に良く思われよう」とか「人の役に立とう」という、一見悪くなさそうだけど、私の場合は本当の自分を変えてまで他人ウケする自分を作ろうとしていた。

だから自分をそのまま出さず、どこか遠慮しながら自分を出したり、人や社会に合わせた自分を出していた。

自分をどこか曲げていたと言ってもいいかもしれない。

そりゃ波動的に悪いと言われても仕方ない。

私ではないものになろうとしたわけだから、無理がある。

あれから多分半年ぐらい経つけれど、今は「自分の本音で生きる」ことに気持ちがどんどん傾いている。

当然逆風も吹くし嫌な思いも色々体験したりする。

痛みもあれば、古傷がうずくこともある。

だけど、私はこの1年ぐらいの中で、自分の過去の傷を労ったり大切にしたりする作業を延々と繰り返している。

傷のすごいところは、きちんと自分から歩み寄っていくと、本当は傷じゃなくてその先に本気で守りたいものが隠されている。

本気で守りたいものがあるから、それを傷付けないために自分が自分の盾のようになって傷付く。

でもそこまでしてでも守ってるものがある。

絶対に譲れないから、全力で守ろうとしている。

だから、傷となってるものは、自分を守ろうとした勲章のようでもあるし、その奥に大切なメッセージがあるから開けてね!という鍵でもあると思う。

1人1人平気なことも耐え難いほどの怒りを覚えることも違う。

そのすべてを、傷も含めたすべてを持って、初めてその人というものが完成するように思う。



【*自分のためにひたすら選んであげること】

これは全体を通して言えること。

これまでは世の中の正しさとか正義とか常識とかに合わせて何かを選ぶことが主流だった。

そのおかげで発展したことも色々あったし、良い方向に向かったものも数多くある。

だけど、今は時代が変わってきて、白黒はっきりしたものにできない、内容によってはグレーにさえできないようなことが増えてきた。

例えばこれまでは周りに合わせて動くことが美徳だったり、協調性を持ちながら周りと動いていくことがいいみたいな流れだった。

でもこれからはますます「あなたはどう思う?」とか「あなたはどうしたい?」がメインの流れになっていくと思う。

イメージ的には、これまでは集団の中にいて自分がどういう立ち位置なら自分がそこに役立つことができるのか、そういう視点での協調性だった。

これからは、それぞれの人が自分というものをそのまま表現して、その自分のままで周りの人たちと繋がっていく、その繋がった形が集団を形成していく、そんな風になっていく気がする。
(説明は割愛するけれど、占星術的にはそのような天体配置に入っていく)

これまでは集団という枠が先に作られていてその中の個人だったけれども、今後は個人個人というピースが、その自分のボコボコしたユニークな形のままでそのピースときれいにピタッと重なる人たちと集団を形成していく、集団の最終形がどうなるかは作ってみなきゃわからない、そんな風になる気がする。

概略を説明するのは上手くないから、自分のことを例にして「自分のために選ぶこと」を説明したい。



さっきの職場の上司のことが【自分のために選ぶこと】のわかりやすい例だから、それを出そうと思う。

結論から言うと、私はOさんからその上司との霊的な関係性については聞かない方向で今現在気持ちが固まりつつある。

そちらはしないけれども、名古屋のSさんが前世療法の手法を本当に習うのなら、その時にモニターをさせてもらえそうならそれでその人と私とが何なのかを見てこようと思っている。

Sさんの前世療法は前向きに受けたいと思っている。

Oさんがいつだったかポロッとその人と私の関係性に関しては「霊的に道理が通っている」みたいな言い方をしていたし、武士俣さんはきちんと聞いて受け止めた方がいいと思うということも言われた。

だけど、色々時間をかけて自分の心の声を聴くようにしたら、変わってきた。

多分Oさんから霊視して下ろしてもらう方が情報の信憑性は高いだろうし、前世療法は私の主観で勝手に物語をでっち上げたらどうしようかという懸念もかなりある( ̄∀ ̄)。
(ガイドするSさんのことはめちゃくちゃ信用しているけれど、そもそもの自分が信用ならない(T_T))

だけど、私個人は情報の信憑性や整合性を求めているのじゃない。

正直、そういう解説的なものは何でもいいと思っている。

霊的に強い結びつきがあろうが、反対に全く関係なんかなくて武士俣さんの勘違いと言われようが、本当にどちらでもいい。

前者を聞けば「やっぱり!」となるだけだし、後者なら「じゃあこの異常な偶然たちは何だ?」とかそういう疑問が湧いて釈然としないままだと思う。

ただどちらの場合も、「私が欲しいものじゃない」とわかった。

専門的な説明が欲しいのでもないし、さらなるモヤモヤ感が欲しいのでもない。

私が本当に欲しいのは、その人とのことに関しては「私が大事にしている気持ちを大事にしたい」、そこだとわかった。

だから、専門的な情報を得ることが【私にとっての大事】とはならない。

今回は違う。

私が本当の本当に大切にしているものだから、それを私が「この方法なら大切にできそう」という感覚で受け入れられるのがいいと思った。

さらに言うと、Sさんが何よりも私のことや私の気持ちを普段から大事にしてくれてる。

もしSさんが「前世療法受けたら終わりにできそうだね」なんて言う人だったら私は絶対に受けない。

Sさんもそれを受けたからと言って何がどうなるとかいうことは一切言わない。

だけど、そこから大切なメッセージを受け取る可能性に賭けてることと、それが今世この世に命を受けたこの人生に対しての大切なヒントになるのかもしれないこと、そこをとっても大切にされてるのが話を聞いていてわかる。

さらに言うと、Sさんは私でさえもその上司に対しての気持ちは「異常」だと感じることに対して、一度も否定しないどころか「楽しみだね」と本気で言ってくれる。

そして私が名古屋から新潟に戻ることになった時も「誰かに出逢うために新潟に戻るんだね、ぶっしーちゃん」と言ってくれたぐらいに、一ミリも明るい展望など抱けなかった時でさえもSさんはすでにすごいことをさらりと予言するかのように言っていた。

実際に頭の中お花畑人生絶好調と言わんばかりの2017年のお盆休みに、当時は三重の方にいた妹家族を訪ねた時に、名古屋でSさんとも再会できた。

Sさんは会った瞬間に私の変化に気付いて、本当にそういう素敵な人と出逢えたことを心から喜んでくれた。

素敵な人に出逢えたというのは、私の一方的なもので、付き合えるようになったとかそういうことじゃない。

それでもSさんは私自身の変化を心から祝福してくれた。

だから、Sさんがガイドしてくれるものなら私が安心して受けられるから、それを通じて自分の前世を見たいと思っている。

「私にとっての大事な方法」は、Oさんから論理的に説明を受けることではなく、たとえ私の勘違いやでっち上げが暴走したものになったとしても、Sさんガイドの上で受ける前世療法で、そしてそこでもし私の知りたいことを知れたとするならいいなぁと思っている。

両方受けることも可能だけど、私はもう自分の中ではっきりと「説明は要らない」という結論が出ている。

そして◎◎ちゃんが言ったみたいに、終わりにするとかそんなのも考えていない。

私が選んだのは、あくまでも自分が大切にしたい方法でその人とのことを自分の中でもっと深く理解できたらいい、そこに尽きる。

私は前世療法で何も出てこなかったとしても、それでもいいと思っている。

出てこない=私が知る必要がない、そう解釈している。

それよりも、私は自分が全力で守りたいもの、それぐらい大切なものだから、そこを基準にして物事を選んでいる。



こうした心の声は、丁寧に丁寧に自分に聞いていくしかない。

他の人はわからないけれど、「私はどうしたいの?」と聞いても基本私の心の声は何も聞こえてこない( ̄ཀ ̄;;)。

じゃあどうしてるのかと言うと。

それは普段からその時その時の「感情」や「気分」を見ること。

OさんとSさんと、それぞれ別々のタイミングで話が出てきた。

Oさんは直接その人について霊視で色々感じたことを伝えてくれたし、Sさんはその人のことは何も言わず単に前世療法の話だけをしてくれた。

だから、Sさんからはその人を前世療法で見てきたら?とか勧められたことは一度もない。

Sさんは抜群の直観力がある人だけれど、霊視とか霊能力は一切ない。

だからOさんから聞く方がよほど情報としての精度は高いのはわかる。

だけど、Oさんから説明を受けた時、その時は知りたいなとは思ったけれども、日を追うごとに「知るのが怖い」というのが出てきた。

内容を知るのが怖いのではなく、Oさんが霊視で得た情報をどのように伝えてくるのか、そこに私が疑問を持つようなやりとりがあったから、それで気が進まなくなってしまった。

順位を付けるのもおかしな話だけど、私はその人とのことに関しては今の自分の人生の中で一番大切にしているものだと思う。

誰に何と言われようと死守したいぐらいに大切にしている。

それぐらいのものだから、私は他の事柄と違って、適当にやりとりすることができない。

その人のことだけではなく、他のことたちのやりとりの時にも私は違和感を覚えた。

スッキリしないものがある以上、私はそんな気持ちで話を聞くことがすごく嫌なんだとわかった。

だから情報の精度はわかっていても、それを聞くことで自分が気持ち良くいられるかと想像すると、YESかもしれない一方でNOの可能性も半々であるから、私はやっぱり聞きたい!とはならなかった。

NOの可能性がある以上、この件に関しては私の中の地雷が多すぎて、しかも自分でも気付かない地雷があまりに多くて、「危険」と判断した。

こういう目に見えない内容を取り扱う時、何よりも大切なのは「安心感」と「信頼」だと思う。

ただでさえ見えないもののわけだから、それに臨む自分がまずは安心できることが絶対に大事。

人間には自己防衛本能が備わっているから、少しでも危険を察知するとアウトになる。

ましてやそうした見えない世界や自分の心の中のこと、「危険」と潜在意識の中にインプットされたら、二度とそこには向き合えないぐらいのダメージを残す。

そして、絶対の信頼を私が相手に持っていないと、そこにそもそも集中して向き合えない。

特にこの件は私がすごい厳しい基準を持っていることが自分でもわかる。

Sさんの前世療法の行方が今後どうなるかはわからないけれども、少なくとも本当に機会が巡ってきたら、私はSさんを信頼して安心してそれを受けることができる。

それはSさんと話している時の自分の感覚でわかる。

私は自分の話をする時は、相当人を選ぶ。

Sさんに関しては、私はSさんの反応を気にせず本当に心穏やかに色んな話ができる。

もう結果は一目瞭然だった。

安心感や信頼感というのは、普段の感じから判断することができる。

それがないと私はその人との魂的な繋がりを見に行けない。

本気の覚悟がいるから、私が全身全霊でそれをするには、絶対の安心感と信頼感が要る。

そして、Sさんがこの件に関しては私が心から一任してガイドをお願いできる人なんだとはっきりと今回わかった。

それはSさんの普段のあり方を見て、私が何を感じているか、リラックスしているのか、気楽に話せるのか、安心しているのか等々、そうしたことで私は判断している。



外に結果を求めてもダメで、こうした自分だけの選択って自分しか答えを持っていない。

自分で自分の気持ちに耳を傾ける、それしかない。

たとえ世間的にはおかしな選択に見えても、自分のために自分が良いものを選ぶ、自分が安心できるものを選ぶ、そういうことが大事なんだろうなぁと思う。

どうしたら自分が後悔しないか、自分の人生なんだからやっぱりそこが大事なんだと改めて思う。

そして、その後悔のない選択のために、他の人ではなく自分を優先していいこと、それがようやく最近、腑に落ち始めた。



【写真】
2月の中旬ぐらいから毎朝カードを引いて、その日のメッセージを受け取るのとカードの読み解きの練習をしている。

今朝2/28出たカードたち。

いつも左の大きいカードを引いてから右の小さなカード(ルノルマンカード)を引いている。

左側のカード「あなたは何を望んでいる?」

モヤモヤしてること数日、そうだよね、そう、まさに私の心の中じゃん!と思って、ヒントがルノルマンから来るんだね♪٩(๑ᴖ◡ᴖ๑)۶♪、ヘビとかムチとかやめてよ!と思って小さい方をめくったら…。

「『男』って…( ̄ཀ ̄;;)?」

【何が欲しい?ーーー男】

朝からドッと疲れが出た。

いつもならその後カードを眺めてガイドブックも開いて細かくメッセージを読み解くけれども、戦意消失してそれ以上は読み解かなかった。

これまでただの一度も出たことがない紳士のカード、しかも王子様カードがなぜ今出てくる?と思った。

本当はカードがわざわざ私の深層心理を代弁してくれてるのだから向き合うのが良いんだけれども、今日は「このすごい内容にどう向き合えと言うのだろう?」と悪態つきまくりだったから、やめた。

大きいカードは44枚、小さいカードは36の絵柄。

どういう確率でこんな組み合わせが出て来るんだろう…!(◎_◎;)!

しかも大きいカードは、他は単語なのに、これだけが唯一の疑問形になっている。

知ってる。

向き合うべきテーマはわかってる( ̄∀ ̄;)。

ヒントがこういう形で出てきたけれど、私は今日の自分の心の具合を見て、あえて「向き合わない」選択をした。

夜になって元気になってきたから、これから読み解きと自己対話をしようかと思う( ̄∀ ̄)。

引きこもりみたいな生活をしている私にとって、「紳士」だの「王子様」だのに当たる人物は1人しか思い当たらない。

私が何を望むか?という質問ではなく、私には「すべてを受け入れる覚悟を決めなさい」というメッセージに見えて仕方ないヽ( ̄∀ ̄;)ノ=3=3=3

2019年2月26日火曜日

奇跡の果実▷ウラ話⦅13⦆大切な人たち



>>>2019/02/25

今朝方、友達から子ども同士の写真が送られてきた。

リーダーとG男のそれぞれの息子たちが布団に一緒に入っている写真だった。
(リーダーとG男は、ドミニカ時代の男友達。
参照記事:『九州男児たち』リンク飛びません
https://viva-vivir.blogspot.com/2019/01/blog-post_14.html?m=1 )

自分の小さな変化に気付いた。

そうした写真を本当に喜んで受け入れられるようになった自分に気付いた。

30代、とにかくきつかったことの1つに、「結婚してないこと」と「子どもを持っていないこと」がずっとあった。

結婚願望も強く、なんなら専業主婦への憧れはもっと強く、そして子どもを持つこともずっとずっと望んでいた。

私が結婚にも興味がなく、子どもにも興味がなければ、私の30代はものすごく恵まれた状況だったと思うけれども、私はその逆で、本当に心から願ったことが叶わないとわかった30歳からつい最近、多分2018年の終わりぐらいまでは、本当の本当に自分の中でいつまでも消化しきれない想いが山ほどあった。

そんな風だったから、周りの結婚も妊娠も不妊治療も理解を示す努力はしてきたし、その都度おめでとうと言えたし、心からおめでとうと言えたことも何人かはあった。

だけど、自分の中の叶わないことに対するどうにもできない気持ちには、どう向き合ってどう自分の中で落としどころを作るのか、ずっとずっと彷徨い続けた。

結婚がなくなって、その後ずっと誰にも心が動かなくて、傷を癒して、もういいな、先に進めるかな…と思ったタイミングだったのか、それとも出逢いが先だったのかはわからなかったけれども、ものすごく惹かれる人に出逢えたのが2017年だった。

その時の私は、結婚云々よりもその人と一緒に過ごせるなら形は何でも良かった。

なんなら、ごはんに時々一緒に行くぐらいの仲でも良かった。

だけど、それは上手くいかなかった。

ご飯さえ行けないと言われた。

絶望的だったけれども仕方ない。

相手のあることだから、私は勝手に相手の気持ちを変えたりとか好きでもないのにご飯に無理矢理連れて行くなんてのはできない。

その人が転勤でいなくなった直後、私は薄っすらと自分の人生の流れが分かり始めていた。

何となく色んなことから避けて通れない、やらざるを得ないようなことが今後あるんだろうなぁというのは薄ぼんやりと思っていた。

↓2017年9月28日の日記より
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私はどこに行こうとしてるんだろう…。
自分の人生、その設定の仕方を恨みたくなってしまう。
もう使命とかそういうの、本気でどうでもいい。
誰かと一緒じゃなきゃ幸せになれないって思ってない。1人でも十分幸せなことたくさんあるし、そういうの見つける天才だと思う、私。どんな状況もその中で楽しんだり笑ったりする能力がものすごく高い。
でもそういうことじゃなくて、(どうして)一緒にいたいと思った人ととことんどこまでも別離を体験しなきゃいけないのかと思う。そんなハードルとか修行みたいな試練はもういらない。もう痛いのも、辛いのも、十分すぎる。
期待させるようなシンクロもサインも、それとは真逆に向かってる現実に発狂しそうになる。
人生に怒ったって仕方ないってわかってる。でも怒りたくなる位、なんでこんな強烈なことばかり起こるのかと責めたくなる。何を責めて、どこに文句を言えばいいのかわからない。
本当に限界な位、疲れた。

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その時すでに私は「使命」という言葉を日記に書いていた。

本気で要らなかった。

そんなもの要らないから、自分が大切だと思う人と一緒にいさせてください、と思った。

1回2回じゃない、何千回何万回と思った。



あれから1年半近くが経とうとしている。

想像以上にすごい展開になって、色々とわけのわからないことも日々起きている。

気付けば40歳目前になった。

何歳か年上の女友達が40歳になった時、「やっと40歳になれる!」と喜んでいた。

彼女はキャリアウーマンとなってそのうちその専門分野では知らない人がいないんじゃないかというようなところにまで今や上り詰めているけれども、本当はのんびりと専業主婦をして子育てをしたかった人。

自分の好きな人を支えてその人との子どもを産んで育てる、そうしたかったと何回かお酒を飲みながら話していた。

40歳になる時、もう周りも結婚だの子どもだのといよいよ言わなくなるからすごい楽になったと言っていた。

私も似たような気持ちがある。

あきらめたとかそういうことではなく、世間が40歳だと放っておいてくれる、そういう域に行けるのがちょっと楽な部分があるなぁと。

実際は色々頼りない怪しげな人生40年目に突入していくわけだけど、もう周りの声は適当に流して自分の声だけを聞いて動ける体制に少しずつ整い始めてるのが嬉しい。

この1年くらいのことだったと思う。

久しぶりに高校時代の同級生から連絡が来た。

子どもの報告だった。

そこまでなら私も流せたと思う。

その子は「元気?」と聞きながら、次のLINEにはすごい頼み事を私にしてきた。

Eテレの乳幼児世帯では視聴率100%に届きそうな某冠番組に我が子と参加したくて、その参加というのが抽選方式で、その抽選に自分だけで応募してもなかなか当たらないから私にも応募して欲しいというような内容だった。

私はそれ見た瞬間ブチ切れた。

この人は人のことを何だと思っているんだろう?と。

私がお気楽な独身を謳歌して、結婚もしたくないからしなくて、子どもも欲しくないから持たなくて…とでも思ってるの?と。

っていうか、もしかしたら私が不妊治療してるかもとか、そういうことは思わなかったのかなとか。

あまりのデリカシーの無さに私は既読にもせず(待受画面に出ていた3行ぐらいだけ見た)、そのまま放置した。

子育て中の妹に、そういうお願い事は子育て世代には当たり前なのかと聞いたら、妹も絶句して、私は史子たち家族でも頼まないと言っていた。

それっきり連絡も来なくてホッとしてる。

この年になるといよいよ周りも結婚していてもしていなくても子どもがいてもいなくても、色んなことが人生において出てくる。

相手の状況は聞かないし、安易に変なことも口走れない。

キョンキョンが不倫してるとスクープされた時、私は相手の男の人の会見に好感を持ったけれど、それを何も考えずに既婚者の人と喋ったら地雷を踏んだ(滝汗)。

ちなみに好感を持ったのは、不倫云々ではなく、もう自分でもどうにも止まらないぐらいにキョンキョンのことが大好きなんだろうなぁという感じの部分。

うんと後から、実は旦那さんが不倫して離婚寸前までいったと知って、ものすごく申し訳ない、配慮の足らないことを言ってしまったことに気付いた。

男の人同士はどうなのかはわからないけれど、女同士はやはりそこはかなり気を遣う。

相手の状況や背景はわからないから、口は災いの元だと常々思うから、そういう個人の話を私は振らないし自分からは聞かない。

相手が話してきた時もウンウンと聞いたり、一緒に怒ったり泣いたりするぐらいにとどめる。

そうした気遣いをいっぱいしてきた30代、そして自分も無駄にあれこれ気持ちが傷付いた30代。

40代がそういうことがなくなるということではないけれど、ピリピリした感は少しは落ち着く気がする。



ちなみに日記を書いた当時と今とで変わったのは、私の自分の人生への向き合い方だと思う。

あの時は上手くいかないあれこれを嘆いて、自分の何だかよくわからない強烈な人生の流れを心底恨んでいた。

たしかに相手は高嶺の花だったけれども、私が願ったことはそんなにもはちゃめちゃなことじゃない。

その人といる時間が欲しかった。

ただそれだけだった。

そしてその頃から本当に異常なほどのシンクロやその人を表すサインが至る場面で出始めた時で、それらも私をとても混乱させた。

現実は全く交わる気配もないのに、なんなら断られ無視までされてる風なのに、そうではない部分ではその人を表すものがどんどん来るわけだから、何をどう理解していいのかもわからなかった。

しばらくは本当にきつかった。

しばらくとか言ってるけれど、本当に今ぐらい楽になってきたのはつい最近、年明けたぐらいだと思う。

あの頃と比べてもサインたちは相変わらずやって来るけれども、大きく変わったことがある。

とりあえず、わけのわからないこの自分の人生を受け入れ始めた。

今はそこから逃げようとは思わないし、一生を懸けてそこに向き合っていこうという覚悟は決まった。

覚悟が決まったと言うとカッコいいけれど、内実は違う。

逃げるともっと強烈な出来事が起こりうるとわかってきて、それが嫌だからそれなら向き合う方がまだマシ!という、全く前向きではない理由から向き合っているだけ( ̄∀ ̄)。

10年ぐらいを過ごして、逃げるともっともっと大変になるのはよくわかった。

嫌なままでもいいから受け入れた方がいい。

やっと10年ぐらいしたら、そこだけは理解できるようになった( ̄∀ ̄)。

『奇跡の果実⑧覚醒』の中で、
【嫌なもの、苦手なものでも、一旦は受け取る。
受け取り拒否してもいいけれど、あとからもっとでかいものくるよ!(爆)
(↑自爆テロみたくなるから勧められない)】
と書いている部分がある。

あの文章も余裕が出てきたら解説を書きたいと思ってるぐらいだけど、あの中にある「自爆テロ」とはまさに私が言うところの【逃げるともっと強烈な出来事】に該当する。

そういう意味で肝が据わった。

そして1年半くらい経ってみて、高嶺の花だった当時のイケメン上司についても私の中で意味合いが変わってきた。

本当の本当に、高嶺の花イケメン上司は、魂の転生の中で再会した、すごい結びつきの強い人だということ。

それだけは疑いようのない事実だと悟った。

前はもしかして…という程度だったものが、いや、転勤でいなくなった当時なんかはそれをポロッとスピリチュアルなことを知ってる友達に言ったら「そんなことある?」ぐらいなことまで言われて、あぁやっぱり私の思い違いかも…と思ったりもしたけれども。

この1年半、何度もそう思っては打ち消し、そう思っては打ち消しを繰り返したけれども。

今はそちらはほぼほぼ確信、100%の確信と言ってもいい。

今後再会できるかどうかなんてのはわからないけれども(←もはや死者の霊魂が現れるぐらいの人生だから、何があってもおかしくない)、再会せずに今生死ぬことになっても、その人は私の人生においてなくてはならない存在には変わらない。

さすがに死者の魂からもその人についての話が勝手に出されるぐらいだから、もうそういう特殊な存在なのは確定。

偶然として片付けることは無理だし、何にも関係のない人だとは、ここまでくるとさすがに言えない。

私の勘違いだとも思わない。

そして、至る場面、特に重要だったり大変な場面で毎回救世主のごとくサインが来るから、本人の気持ちとかはさておいても間違いなく時空さえぶっ飛んでお互いの何かが結びついているんだろうなぁと思う。

まぁそんな見えない形じゃなくて、普通に顔を合わせて再会させてください!と思う( ̄∀ ̄)。

私はそんなところまで非現実的なオカルト色を求めていない( ̄∀ ̄;)。

相手からしたらそんな関係性の強い人が私でガックシでも、私からしたらそんなイケメンで仕事もできる素敵な人が自分の人生の中で魂的な繋がりがある人だというのは単純に嬉しい。

私からもたらされたものが迷惑とか負担とかそういうものだったとしても、相手側から私にもたらされたものは良いもの満載だったから、それでその人はその人自身の役割を果たしたのかもしれない。

今思うと、その人が私を無視みたいなことしてたのは、その人自身も色々意味がわからない強烈な何かがあって逃げたかったのかもしれないなぁなんて思ったりもする。

ペンジュラム使ったり宇宙の話とかに興味を持って聞ける私でも「変」に感じたことが満載だったから、そんな知識多分ゼロだろうその人からしたら「変」を通り越して「危険人物」だったのかもしれない、私が。

だから、その人を責めることもないし、なんなら「大変だったでしょう?」とさえ思う。

今は必要があれば、またお互いの人生がどこかで交わるのかな…と思っている(正しくは超期待している( ̄∀ ̄))。

でも、それが相手の結婚を風の噂で聞くとかは絶対に嫌だから、そういうことだけは間違っても今後起きませんようにと、もう私も大概の苦しいことは経験済みだから、これ以上強烈なことはやめて下さいと思う。

相手が結婚する可能性は高くても、そんなことは私は知りたくない。

それなら、会えなくてもいいから、代わりに何も知らずに余生を生きたいと願う。



話があちこちに飛びすぎたけれど( ̄∀ ̄)。

女友達ではなく男友達ではあったけれども、月曜の朝出勤前なのか、出勤して少し時間があった時なのか、その時に2人の子どもたちのツーショット写真を送ってくれたことは本当の本当に嬉しかった。

それは私が初めて、結婚とか子どもとかいうものに対して、真っ直ぐに相手の気持ちを受け止められた瞬間だったかもしれない。

リーダー(=男友達)が送ってきたものは、自分たちの大切な宝物の写真。

そして、自分たちの宝物を自分の大切な友達と共有したい、ただただその気持ちで送ってくれたのがよくわかった。

自慢したいとか見せつけたいとかそういうことじゃない。

私に遠慮もしていない。

ただただ、自分たちの大切にしているものを私にも見せてくれた、そういうことだとすぐにわかった。

自分がそういう気持ちを素直に受け入れられたのも嬉しかったし、リーダーの気持ちもとても嬉しかった。

週明けで忙しいだろうに、そんな時に1枚写真を送ってくれる、その手間は時間があるだけではできない。

気持ちがなかったらやれない。

それが本当の本当にわかったから、とても嬉しかった。

10年前、リーダーと他2人の同い年の友達と4人で三十路会を祝った。

私には毎年誕生日にだけ書く日記帳がある。

20歳の頃から付け始めた。

30歳の時、リーダーはそこにこんな風に書いてくれた。

「“ママになったんだね”ってブッシーに言える日を心から楽しみにしています。」

リーダーは子どもが生まれて1時間もしないうちに、ツーショット写真を私に送ってきてくれた。

リーダーは自分の人生の大切な節目の時には必ず私に連絡をくれる。

そういう人だから、今回のG男の子どもと自分の子どものツーショット写真を送ってきてくれた、そう思ってる。

リーダーは写真に一言添えていた。

「世代を超えて。」



>>>2019/02/26

新しい調べ物にハマり始めた(((o(*゚▽゚*)o)))

前々から気になっていて心の中でひっそりと狙っていたもの。

オラクルカードやルノルマンカードでレア物のカードが欲しかった。

Sさんから1ヶ月早い誕生日プレゼントとして人生で初めてのルノルマンカードをプレゼントしてもらって以降、自分の好みというのがわかってきた。

人も持っているというものには基本あまりときめかない。

そうこうしているうちに、海外のルノルマンカード取扱店のサイトに行き着き、その前後で世界中の手作り作家さんが出店されてるみたいなネットショップを見つけて、そこでどハマりして探している。
(etsy.com←このサイトの正式ジャンルは知らないけれど、私はそこでひたすら手作りのオリジナルカードたちを検索している)

10月に母方のおばから、電車の駅まで送った際お小遣いをもらって、それは絶対に生涯を通じて使えるものに変えようと決めていて、それでその類いのお金が今3000円まで貯まったから、カードがいいなぁと元々思っていた。

おばはその時に私が生まれたばかりの時の話をしてくれた。

自分がこの世に誕生したことを手放しに喜んでもらえた当時の話は、そうそう聞けるものじゃない。

その話は多分私は生涯で一度しか聞くことはないと思う。

そういう思い出が入ったお金だから、きちんと意味あるものに変えたい、できれば生涯ずっと長く使えるものにしてそれを見るたびにおばとの思い出を思い出せるようにしたい、ずっとそう思っていて、そしてとうとう候補となるものたちが最近現れてきた。

それがそのネットショップに色々あって、私は超ルンルンで調べまくっている。

Sさんからプレゼントしてもらった方のルノルマンカードはまだまだ解読途中だけど、自分でわかったこと。

・絵が色々あって解釈の自由度が高いものが好き

・英語のガイドブックの方が解釈を広げやすい

それこそこの間手元にある、これまたSさんから数年前にもらったオラクルカードを見て、すごいことに気付いた。

カードリーディングをされる方の動画でよく「日本語訳がまずい」というボヤキが出ていた。

どうまずいのかはいまいち視聴者の私にはわからなかったけれど、その人がまずいと言う時は本当にまずいんだろうなぁと思ってはいた。

この間、私の手元のカードの日本語訳も英語から日本語に訳される道中で意味が変わったものを発見した。

それはガイドブックには「与えることと与えられること」とある。

ところが、正しくは「与えることと受け取ること」になる。←カード本体に記されている英語の武士俣訳

私のマニアックなこだわりだけれど、「与えられること」と「受け取ること」は全く別物になる。

「与えられる」という行為は、自分は誰かからもらうのを待つ、要は受け身の姿勢でいることになる。

反対に、「受け取る」という行為は、自分自らが受け取ると決めて、意思をはっきりと示して、自分からもらいに行くことを指す。

与えられるのが受動的なら受け取るのは能動的になる。

全く別物だということがわかる。

そして、今手元にあるルノルマンカードに関しては、ガイドブックは全文英語だから、私がそれを直に訳して解釈する。

そして、すごく良いのが、日本語が自分の中で怪しいものは一言一句全て辞書を引く。

辞書を引くと、まぁ細かい解説が色々あったり、日本語訳も数種類あったりする。

それらを私は自分の好みで絵柄とマッチする言葉を拾い出すやり方を採っている。

だから、ますます私のオリジナルガイドブックは、私独自の解釈になってすごく素敵な仕上がりになっている。(←以前買っておいたスヌーピーのノートが、私専用のルノルマンカードガイドブックになっている(^-^))

例えばこの間も1つあったこと。

「責任」という和訳になる英単語が英語のガイドブックの方に出てきた。

「責任」と一口に言っても色々ある。

親としての責任とか、会社の責任者とか、何か個人的なことに対して責任を負うとか。

この責任は違う。

辞書には「(信頼から生じる)責任」とあった。

どういうことかと言うと、そのカードの絵柄の中では犬と象が出てくる。

英語のガイドブックによると、2人は親友同士という設定になっている。

お互いがお互いを大切にし合う、特に危機的な状況において自分が不利な状態になっても、相手を信じること、その信じることに対しての責任を謳っているものだった。

何この素敵な解釈&和訳☆*:.o(≧▽≦)o.:*☆と思った。

という細かいニュアンスの違いもわかれば、そこからまた私があれこれ色を付け足して意味を広げることもできる。

多分、これ日本語のガイドブックが出ているなら「責任」の一言で終わっていると思う。
(たしか日本語版のガイドブックもあったはず)

今回こうした体験をしたことで、私の中で俄然「英語のガイドブック」が付いているカードに目がいくようになった。

自分が訳すから、自分がピンとくる言葉を使えるのと、主語が何になるかで意味合いがガラッと変わることもわかるし、とにかく純粋に言葉をおろせるのがいい。

ギフテッドのAくんの東大入試の英作文ですら私は全く萌えなかったけれども(Aくんとやりとりするのは萌えても英語は別物で萌える材料には一切ならない)、カードの和訳における英語の勉強はめちゃくちゃ楽しい♪

人生で初めて英語の勉強が楽しいと思った!

苦節27年28年、まさか生きているうちに英語の勉強が楽しい♪٩((*⁰▿⁰*))۶♪なんて日が来るとは思わなかった。

私は友達に言ったことがあるけれども、「言語を勉強する時の一番良い方法は『楽しめること』」だと私は絶対にそうだと思っている。

言語の勉強が楽しい!となってる人は、もうそれだけで私からすると【才能】だと大真面目に思う。

私は英語もスペイン語も、大学の時の単位の一部で取った中国語も、もうどれもこれも全部苦痛の他の何物でもなかった。

二度と触りたくない、それぐらい楽しくない記憶しかない。

色々楽しめる方法を試したらいい、なんてビジネス書なんかには書いてあるけれど、私はそれは違うと思う。

やっぱり好きじゃないものは好きじゃないし、私は元々勉強が嫌いで何を習得するにも人の倍以上の時間を要するから、それだけで苦手要素満載すぎる。

だから大人になってからも人に英語の何かを頼まれるのが、実は毎回超苦痛だった。

嫌味みたいな話だけど、能力があるからできても好きにはならない。

そんな私が嬉々として英語の辞書を開いて調べる、しかも細かいところまで見るなんて、これまで一度もなかった。

ましてや一言一句調べまくる、辞書になければネットの英和辞典でも調べるという徹底ぶり!

「好き」ってすごいんだなと思った。

それだけでやる気を自動的に供給してくれる、すごいパワーの源なんだとわかる。



話ついでに、英語と日本語では全く捉え方が違っていて、すごく参考になった話があるからそれを紹介。

例えば、日本語の「不安になる」とか「心配する」という、そうなった時に基本気持ち良く過ごせないタイプの感情がある。

これ英語圏のヒーラーさんが動画で話しているのを聞いていた時に、全く違う表現になっていて「これは良い!」となったのがある。

英語では、【それがあなたの邪魔をする】と言っていた。

不安なら不安があなたの邪魔を、心配なら心配があなたの邪魔をすると。

日本語の「不安になる」とか「心配する」という言い方は、自分と不安や心配が一心同体になっていて、逃げ場がないみたいな感じで余計苦しくなる。

でも、英語だと自分と不安や心配はそれぞれ別の存在で、私は私、不安は不安、心配は心配、とそれぞれが独立している。

だから、私を邪魔する不安や私を邪魔する心配、そういう感じになる。

自分と切り離してそれらを捉えられるのがすごく良いなぁと思った。

この捉え方は役立つなぁと思って、私は今もよく使う。

ついでにもう1つ。

これは何かのブログかメルマガで知ったもので、時々遊んだりしてるけれど。

例えば、「怒り」、「不安」、「怖れ」というネガティブ感情の代表選手たちがいる。

それらにあだ名をつける。

「怒り」なら「いかりん」とか。

「不安」なら「ふあさん」とか「ふっしー」とか。

「怖れ」なら「おそくん」とか「おそれんれん」とか。

ふざけたこと言ってるみたいに見えると思うけれど、これ本当に使える!!!

それまで重たさが100とするなら、90とか80、上手くいけばアホくさくなって深刻ぶっていたものが笑えたりする(^-^)!

これも私のお気に入りのネガティブ対処法の1つ。



私事だけど、2月20日の満月の時、超具合が悪くなって、今日26日下弦の月も体だるくて午前中は布団で二度寝。

ホロスコープ見たら、私の生まれた時の4天体が今日の空の4天体と重なっていた。

自分でも、月の節目節目に相当影響が強く出るのがわかってきたからいいものの、やっぱり渦中はいいなんて思えない。

全部天体のせいにするつもりはないけれど、突然意味不明な体調不良を引き起こす人がいるなら、月のリズムとか天体の動きとかに注意するといいかもです。

《今後の節目となる部分》
・3月6日…天王星が牡羊座から牡牛座へ
・3月7日…魚座で新月
・3月14日…蟹座で上弦の月
・3月21日…春分の日、天秤座で満月
・3月28日…山羊座で下弦の月

ホロスコープ系のブログを読んでいると、3月の春分までは相当浄化のエネルギーが強く働くらしく(今年は特に)、毎年春分の日は鬼門の私にとって、かなり気をつけないとまずいなぁとは思っている( ̄∀ ̄)。

個人差があるし、ならない人はならないし、体調不良が本当の病気のこともあるから、これはあくまでもいち情報としてお使いください。



【写真】
1年前の3月に、2歳の姪っ子と繋いだ手。

1年前の春分の日の体調不良は、彼女によってもたらされた( ̄ཀ ̄;;)。

子どもの菌って何であんなに強いんだろう?と思う。

だから、有給取って金沢にいる間、ほとんど体調不良だった私((((;゚Д゚)))))))。

そして、姪っ子の黄色い服、あれはなんと私たち三姉妹のおさがり∑(゚Д゚;)!

墓参りに着たゆかたもおさがり、家で着るはんてんもおさがり、姪っ子用の布団(←私の保育園時代の昼寝布団)もおさがり…、母の捨てられない症候群もここまで来ると才能だと思う( ̄∀ ̄)。

姪っ子をいつも見ていて思う。

私たち家族にしあわせをいっぱい運んできてくれる存在だなって。

エンドレスお店屋さんごっことか拷問かと思うけれど( ̄ཀ ̄;;)、それでもその小さな手はいつもたくさんのものを私にプレゼントしてくれる♡╰(*´︶`*)╯♡。

パートナーにも子どもにも恵まれなかった30代、そうしたことに関して心はどこまでも荒(すさみ)まくっていた30代の中で、私は姪っ子の誕生だけは本当に純粋に嬉しかったし、こんなに素晴らしいものを天は授けてくれるんだと心底感動した。

いつか姪っ子が大きくなって人生に迷うようなことがあった時、おばが私にしてくれたように、私も姪っ子が生まれてどれだけみんなが喜んでいたのかを伝えたい。

2019年2月25日月曜日

奇跡の果実(18)ギフテッド〜天からの贈り物




>>>1月27日

夜9時になろうとしていた。

AくんからLINEが来た。

今年も東大受験することにしたから、英語の添削をお願いしたいと。

私は2つ返事でいつでもどうぞと言った。

今LINEを見返して驚いた。

AくんからのLINEは20:56になっている。

英語はいつでも送ってきてOKなことやお母さんは受験することを知っているのかを聞いたその後、21:07に私はAくんに聞いていた。

「Aくん、お母さんが潜在意識のブロック取るワークされてるの、受けたことありますか?」



Aくんの話をこの後するために、最初に背景を少し話そうと思う。

今回、この話をするために、Aくんには何を私がブログに書いてもOK!と了解を得ている。

本当にありがたいことこの上なく、私は遠慮なくこの話をさせてもらおうと思う。

Aくんこそが、『奇跡の果実』にちょいちょい登場している「ギフテッド」の子になる。

そして、Aくんは私が名古屋の頃からお世話になっているSさんの息子さんになる。

だから、Sさん経由でAくんと出会った。

私は今でも初めてAくんに会った時のことをとてもよく覚えている。

その頃、Aくんは高校1年生か2年生で、時期的には夏休みで帰省していたと思う。

Aくんは本人の希望で、中学から全寮制の学校に通っていた。

Aくんとその時に何に興味があるかみたいな話をした。

Aくんは宇宙よりも海底に興味があると言った。

なぜなら、Aくんいわく、宇宙に関しては色々と研究が進んでいるけれど海底に関してはほとんど研究が進んでなく、今もって神秘や謎に満ちた分野だから、だから僕はすごく興味がある、とそんな風に話していた。

宇宙もだけど海底に興味があるって、聞いたこともない話で私はびっくりした。

Aくんの学校は規則も厳しく、何でもかんでも持ち込みOKではなかったような気がするけれど、その中でAくんが愛読している雑誌は「National Geographic 」という科学系のもので、その中の記事に関して面白かったものをその時に話してくれた。

内容は忘れたけれども、とても同じ体組織を持っている人間とは思えないぐらいにAくんの発想は豊かで、そして誰も目を付けないところを実にピンポイントで付く知的探究心と知性を持っていて、それらがものすごく光っていた。

自分の高校時代と比べても雲泥の差で、頭がクラクラしそうだった。

ちょうど学校の宿題も持っていて、数学の計算問題は見たことのない記号がオンパレードになっていて、そんな見たことのない記号がこの世に普通に存在するなんて、驚きでしかなかった。

しかもAくんはサラリと「これは簡単です」と言う。

まだ塾の仕事を辞めたばかりだったから、Aくんの頭の良さや視点が飛び抜けて違うことがすぐにわかった。

しかも、協力隊に参加したことで、東大、京大、阪大、お茶の水、早稲田とか、私含め他の世の中の大多数の人が知っている大学出身者にたくさん会って、たくさんのインテリな人たちにも出会った。

だけど、Aくんはその誰とも違っていた。

上手く言葉にはその時はできなかったけれど、頭が異常なほど良いというだけではなく、何かその子にしかない、本当に唯一無二の才能とか知性を与えられているという感じだった。

関係ない話だけど、協力隊の訓練所での訓練の際、全員で大きな講堂みたいなところで受講する講座が毎日何かしらあった。

席は決まっていて、私の右隣りは東大大学院生の男の子だった。

大学を休学してでも参加するらしかった。

私はそんなに頭の良い人だとは当初知らず、気さくで私のアホ話にも付き合ってくれ、良い人だなぁなんて思った。

後から東大大学院に行ってると人づてに知って、私はすかさず本人に聞いたけれど、その時も普段の会話のごとく普通にしていた。

ちなみにその彼のことで一番ビックリしたエピソードを紹介したい。

個人的に講座を開きたい人は講座を開ける制度みたいなのがあって、その彼は主催者として講座を開いた。

何の講座だったのか今でもよく覚えている。

バナナの皮で紙を作る講座だった。

ふざけて言ってるのじゃない。

本気でバナナの皮で紙が作れる!(◎_◎!)。

私も作った。

理科の実験みたいで楽しかったことは覚えているけれど、作り方は全部忘れた。

何でこの話をしたかと言うと、バナナの皮で紙を作るなんていうすごい発想の持ち主の東大大学院生の彼にさえ、私はAくんに感じたような感覚は感じなかった。

その子だって、発想力や発明力、頭の回転や知性なんかはズバ抜けている。

だけど、そのすごいことはわかっても、Aくんに感じたものはなかった。

去年2018年の秋、私はたまたまネットニュースの記事で、全国の高校の東大合格者数のランキングを出していたものを見かけて読んだ。

日にちを見たら10月の終わりになっていた。

当時それを読んで下書きした文章がこれになる。

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「絶対に載っている気がする」

そう思ってヤフーニュースを開いた。

ヤフーはメールだけ使っていて、基本的にニュースは見ないけれど、気になるトピックスがあったから開いた。

全国の高校の東大・京大進学率の話。

私には関係ないけれど、知っている子の高校はあるはず!と踏んで開いたら、大当たり。

トップ30の中に入ってた!

ちなみに、塾勤めの時に何人か桁外れに頭の良い子たちがいたけれど、そちらも納得。

愛知県の公立トップの高校がそのランクに入っていて、そこを目指すような子たちを見てたと知った。

そりゃ、私が私立高校の過去問なんて解けるどころか問題の意味すら理解できなかったことに納得(←こういう子たちが受けるすべり止めという名の私立は半端なく頭良い)。

それはそうと、その最初に気になった子のこと。

私はこの子の将来がめちゃくちゃ楽しみで仕方ない。

私は本人に頼まれて、東大受験の英作文対策の添削をしていた。

頭キレッキレの子の会話力と言ったらなかった。

しかもこの子、お母さん経由で私のマニアックな体質も知っているし、その子用のオルゴナイトもペンジュラムを使って選んだ経緯がある。

そのヘンテコ体質についてもものすごーく理解のある子で、それに関して最大の敬意を払ってくれて、私はめちゃくちゃ嬉しかった。

ちなみに高校を首席で卒業したけれども、だから東大に入学するだけの学力は十分に持ち合わせているけれども、結局不合格になった。

(中略)

今年の春、その子がもし違う学部を受験していたのなら、その子は普通に東大に合格してた。

その子が受けた学部は、飛び抜けて点数が上がっていて、他のもっと難しいところがそこよりも何十点と下がる(=合格する)ような異例の事態が起きた。

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Aくんのもう1つのエピソード。

Aくんが通ってた高校には超優秀な生徒のみを対象にした奨学金制度がある。

東大合格者を世の中全体から見て多く輩出するという学校の特待生制度。

Aくんはその奨学金の対象者で、おかげさまで高校3年間を奨学金で過ごさせてもらった、とAくんのお母さんSさんが言ってた。

当時を回顧してSさんは、
「本当に目に見える・持っている全てを失い、家、車、人を失った。
人生が転がり堕ちるどん底の始まりだった」
と話されている。

そう、Aくんが高校生になる少し前からSさんは人生のどん底に堕ちて、本当の本当にとても大変な時期に突入していた。

普通の人なら自殺してもおかしくない、そのぐらいの状況になっていた。

私は今でも覚えている。

その転がり堕ちる最初の頃だったと思う。

Sさんは半分泣きながら、電話越しに私にそれを報告するために連絡をくれた。

「ぶっしーちゃん、Aの奨学金が下りたよ!
親の私が言うのもなんだけれども、あの子はやっぱり他の子たちと違うんだよね、何かが。何が、とは具体的に言えないんだけど、とにかく何かが違うんだよ。
でさ、もう私はあの子、学校辞めさせないかんと思ってたの。もうお金もないし、あんな高額な学費に寮費にもう払っていけないから。学校にも相談しに行かないといけない、あの子にも言わなきゃいけない、そこまで覚悟決めてたんだよ。
そうしたらさ、奨学金がおりたの。
あの学校は本当の成績優秀者にしか奨学金は出ないんだよね。授業料はほぼ免除。寮費とか食費は払えるギリギリかな…。
本当に今回は守られてる、何かに守られてると思った。どんな手段を使ってでもこの子をあの学校に居させ続けるために、何かとてつもない力によって守られているのかな…って思ったの。
私からしたら辞めてもらって公立高校に移籍してもらう方が本当に助かる。だけど、天なのか神なのかはわからないけれど、そういうところはそうと判断しない。あの子を何としてでもあの学校にいさせて、あの素晴らしい教育を受けさせる、そういう言葉では説明できないような力が働いていると思うの。
本当にありがたい。
親の私があの子にしてあげられないことを、学校が代わりにしてくれる。奨学金という制度であの子の命をあそこに繋いでくれてる。もう、本当に感謝しかない。
しかもあの子、私の子どもだとは信じられないぐらい、本当にその奨学金をもらえるぐらいに勉強ができるんだよね。あの子が自分のために勝ち取った奨学金でもあるんだよね。
本当の本当にありがたい。
もう辞めなきゃいけないところまで来ていたのに、あの子自身の力と学校の協力で、おかげさまであの子を辞めさせずに学校に通わせられる、本当にありがたいとしか言葉がない」

泣きながらSさんはそんなことを私に伝えてきた。

Aくんの通っている学校はすごく特殊な教育プログラムを持っていて、全国各地、なんなら海外からも受験する子がいるぐらいの学校らしい。

そんなところでずっとトップを取っていて、しかも開校以来初めてのダブルだかトリプルだかの功労賞的なものを受賞したようで、本当にとっても優秀なのは、Sさんが後に教えてくれたことで知った。

ちなみにSさんは、ある意味とても変わったお母さんで、奨学金のことや部活のこと、学校の変わった制度でSさんが心惹かれたものは何回か私に話をしていたけれども、子ども本人の学力には一切興味がなくて、私に何回「ぶっしーちゃん、偏差値ってなにぃ?」と聞いてきたかわからない。

「偏差値100ってないの?」だの「じゃあ0点なら偏差値は0にならないの?」だの、何回説明しても全く通じなくて、私は何度も大笑いした。

塾でお母さんたちに何百回も説明していたから、私は偏差値に関しては相当上手に説明できると思うけれども、Sさんは興味ないだけあって、全く理解しないままAくんの卒業の時を迎えた(笑)。

今回のこの話をするために、Sさんにはブログにどんな言葉で伝えていいかを確認した時、最後こんな風なLINEが送られてきた。


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本人の、
人格、努力、結果を残していたのも学校長の目にかなっていたんだと思う。 

手術数日後、病院へ向かう痛みと闘う過酷なあの時
副学校長から携帯に連絡が入り、いただいた言葉は今でも大切にしているんだ。
忘れようにも忘れられない、身体の激痛が伴っていたからね。
光の感覚と、身体の激痛は、天と地ほどかけ離れていたな。

(まだまだ奇跡的な事はありますよ)

あと、母子家庭の私学就学金みたいなものをいただいていたので、ほぼ無料に近いものでした。
全てが繋がり奇跡的でした。私がどんな状況や状態であっても、彼は学園に行くようになっていたと、つくづく思うところです。
その学園の経験と、
その名前が彼には
欠かせない、必要だったのだとつくづく感じたものでした。

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Sさんが「その名前」という言い方をするのはものすごく珍しい。

人生で山ほどの修羅場を体験したSさんは、中身こそ本当に徹底的に見定めるけれども、名前で何かを判断したりはしない。

名前で何かを決めることもないし、それで世の中では色んなことがまかり通っていても、Sさんはそういうことにはとても慎重なところがあるから、名前だけ見て何かを判断することもない。

だけどSさんは、Aくんにとって【『その名前』が欠かせない、必要なもの】と言われてる。

普段そんなこと絶対に言わない人が言うから、Aくんの学校に対して並々ならぬ価値とそれを絶対的に必要とするだろうAくんの人生そのものへの想いを感じた。

Sさんと上に書いた内容をブログに載せていいかも含めて電話した際、当時の状況を口頭でも教えてもらった。

当時Sさんは体に強烈な痛みを伴う手術を受けたばかりだった。

術後も痛くて、痛みは極限に達して全身を蝕(むしば)んでいた。

その状態で通院しなければならず、しかもSさんの代わりに運転してくれるような、そういう意味で頼れる人が近くにおらず、自分で車を運転して行くしかなかったと話されていた。

そんな時に副学校長から電話が来て、Aくんの奨学金の話をもらったとのこと。

その話を聞いてSさんは、
「状況がどうであっても通るものは通る。
自分の置かれている状況に負い目を感じなくていい。
どんなに望んでも残りたくても残れない、そういう状況だってあるのに、Aはこうして残る道を与えてもらえた。
宇宙ってすごいな、本当にそういう奇跡を起こしてくれるんだ」
と思いながら、体は痛みで悶絶、でも心はこの上ない奇跡に満たされて…という状況だったと教えてくれた。

SさんはAくんがどんな道を歩んでも全力で応援するお母さんだし、ああしろこうしろとは一切言わない。

Aくんのこと、Aくんの人生そのものを全身全霊で信じている。

そのSさんがここまでAくんの歩んだ道のことでこだわっているものは他に何もない。

学校のブランドとかそういうことじゃない。

Sさんが本当に大切にしているのは、Aくんの人生そのものと、その中で彼が勝ち取ったもの、それを支えてくれてる周りの人たち、そうしたものをとにかく大切にされてる。



話は戻って、1月27日。

英語の添削をお願いするAくんのLINEを見た瞬間、「Sさんの潜在意識の中にあるブロックを取るワーク」が頭の中に浮かんだ。

添削はするにしても、Aくんが本来合格のためにやらなきゃいけないのは、そういう勉強とかではないんだと直観的に思った。

私の中ではもうはっきりと「潜在意識にある余計なブロックを取り除く」ことが何より先決だと感じていた。

どう考えても、Aくんが不合格になり続ける理由は学力じゃない、そこだけがとても際立っていた、私の頭の中で。

不合格になるならなる他の理由や他の阻むもの、それはもう目に見えない領域のものだと感じた。

そして続けざまに、「ギフテッド」という言葉と「Aくんへの癒しのレシピ」の情報が私のところに来た。



先にギフテッドの特徴をここで紹介したい。

引用元はWikipedia。

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・先天的に、平均よりも、顕著に高度な知的能力を持っている人のこと。または、先天的に、平均よりも、顕著に高度な知的能力を指す。

・ギフテッドは、外部に対する世間的な成功を収めることではなく、内在的な学習の素質、生まれつきの学習能力を持つことを指す。

・ギフテッドとは、同世代の子供と比較して、並外れた成果を出せる程、突出した才能を持つ子供のことである。

・ギフテッドにおける高度な知的能力の傾向は、誕生時点から、生涯にかけて見られる。

・ギフテッド (gifted)は、贈り物を意味する英語の「ギフト (gift)」 が語源であり、神または天から与えられた“資質”、または遺伝による生まれつきの「特質」と言える。「ギフテッドの才能を伸ばす」という言い方はできる。しかし「こうすればギフテッドになる」とは言わない。

・ギフテッドは早期教育や、他人よりも早く多く習得する先取り学習によってギフテッドに成長するようなことはない。ギフテッドは自ら常に多様な「知的刺激」を切望して満たし、自分の好みの学習方法で、自分の興味のある分野を極めて深く掘り下げて探求する傾向にある。

・一般的にギフテッドは同年の人間より速く、深く、広く学ぶ。

・高い論証能力、独創性、好奇心、想像力、洞察力、芸術性、共感的理解、豊富な語彙、優れた記憶力を持つ傾向にある。わずかの反復で全体概念を修得しやすい傾向がみられる。

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で、ここからが私の超絶怪しい記憶を紐解いて何とか書こうと思う部分だけど、先に弁解を1つしたい。

2月17日、だからAくんから英語の添削をお願いされて3週間経った頃、私はSさんに「そもそもどうしてAがギフテッドだってぶっしーちゃん気付いたの?」と聞かれた。

実はあれからずっとずっと思い出そうとしているけれど、断片的にしか覚えていない。

その断片的な話をこれからする。

私はAくんにお母さんのする潜在意識のブロックを取る心理療法を受けたことがあるかどうかを聞いて、あの後けっこうすぐにAくんへの「癒しのレシピ」がやってきた。

やってきたというのは、Aくんに伝えるメッセージがAくん自身の潜在意識なり魂から私の方に向かってもたらされた。

で、それは27日のことだった。

28日は他のことでバタバタしていたのか何なのか、Aくんへの癒しのレシピを書かなかった。

翌日29日にノート出して色々頭の中にあるものを取り出して書いている。

でも、少なくとも27日には私はもうAくんが「ギフテッド」だというのは気付いた。

ただどうしてその言葉が私の中から出てきて、どうやってそのことを自分の中で確証したのか、その辺りがさっぱり思い出せない。

そして不思議なことに、当時のことはほとんどノートに何も書いていない。

唯一見つけたのが28日月曜の日付で
「いやしのレシピーAくん」
というメモ書きだけだった。

でも私はたしかに「Aくんはギフテッドだ!」と確信に至った瞬間がある。

今思うに、あれは天啓のようなものだったんだと思う。

もしそうなら、私の記憶が抜け落ちてることも、記録がないことも頷ける。

本当に大切なことだから、それがはっきりとわかる形で当時は「ギフテッド」という言葉が私にもたらされてる。

でも、もうお役目は終わったことだから、今当時を思い出そうとしても思い出せないようになっている。

神隠しみたいな、そういうレベルのことだったんだろうと私は解釈している。

しかも、これを書くためにもう一度Wikipediaのギフテッドの説明を見たら、当時見た時と様子がだいぶ違っていた。

編集は5ヶ月前と出ていたから、この1ヶ月ぐらいで中身が変わるわけもないんだけれど、私が見た時に「これAくんだ!」とわかるぐらいに言葉が画面から浮かび上がるみたいな感じで、私はスラスラとそこから要点をきれいに抜き出していた。

私の目にははっきりとどの部分をAくんに伝えなきゃいけないのか見えていたし、それはすべて読まなくてもこことここみたいにパッと見てわかるようになっていた。

でも今見ると、そんな風ではなくなっている。

今だときちんと読まないと抜き出せないし、途中でというか最初の2つ目ぐらいで疲れ切って読むのをやめたぐらいだった。

よくあんな風に抜き出せたな!と思った。

あの時の私は、実にスラスラと要点だけ抜き出すことに成功していた風だけど、実はそのように説明が見えていただけで、今見ると細かく読まないと要点を上に載せたみたいには引っ張ってこれないことがわかった。

あの作業も神がかり的だったんだなと感じた。

私側の事情はいいにしても、やっぱりあれはAくんへの天啓として私は「ギフテッド」という言葉を得たと思う。

Sさんからも「何でぶっしーちゃん、その言葉を知ってんの?」と聞かれたけれども、それも今考えたら何で知ってるんだろう?という具合。

元々何年か前にギフテッドだけじゃなく色んなジャンルのブログを読むことにハマってた私は、その中で知ったと思う、たしか。

Aくんは違うけれども、ギフテッドはけっこう発達障害と紙一重みたいなところがあって、ただ私は我が子がギフテッドだと認識している親のブログをいくつか読んだことがあるけれど、私はなぜか「それ違うよ」と思っていた。

何かが違っていて、特別と思いたいのはわかるけれども、いやそれ違うよみたいな感覚があった。

厳密に言うと、私はものすごく頭の良い人たちにそこそこの人数出会ったわけだけど、「ギフテッド」と思った人は誰もいないのと、そして何よりも私はギフテッドにこれまで会ったことがない。

にも関わらず、私は何の疑いもなく「Aくんはギフテッドだ」と確信したし、そのまま自分の部屋の前で夕方か夜に「Aくん、あの子ギフテッドだ!」呟いたことも覚えている。

私の勘違いだと悪いから、「ギフテッド」と入力してネット検索をかけたら、Aくんは見事にギフテッドの特徴にドンピシャで当てはまっていた。

諸々を総合的に考えると、その「ギフテッド」というのは、Aくんの魂側からもたらされたことなんだろうなぁと、もう準備ができてるからあなたから伝えてあげなさい、ということだったんじゃないかなと思っている。

あれは、もう本当の本当にAくんが自分の持っている特殊な能力に気付いて、次に進むための絶対的に欠かせない儀式みたいなものだったんだろうなぁと今の私は感じる。



ちなみに、AくんにギフテッドだとWikipediaの説明も足して告げると、こんな風に返ってきた。

「ギフテッドのWikipediaを読んで、僭越ながら自分に近いと感じたものをあげるとすれば、比較的少ない反復回数で学校の成績をおさめられた点や関心が広いこと語彙に気を使う、単純な暗記が好きでないと言ったところです。
ただみんなそうなんじゃないかなあとも思います。
 一方で独創性を自分が持っているとはそれほどは思いませんでした! いわゆる突飛なことをするといったことはこれまであまりなかったと思います!」

「『みんなもそう』ってどういうこと?( ̄∀ ̄)」「『突飛なことをするといったことはこれまであまりなかった』って( ̄∀ ̄)?」と思った私は、もっと突っ込んで、Aくんがどれだけ他の人たちと違うかをさらに詳しく説明した。

塾で何百人の子どもたちのそれぞれの長所や強みを保護者懇談用の話のネタとして探さないといけなくて、それでものすごく細かく人を見る目が育った私には、Aくんが本当に他の人たちとは違っていたことは一目瞭然だった。

ちなみに突飛なことはしないけれども、考え方や発想は他に類を見ないぐらいに突飛なところ満載の子。

私がすごい長文を書いて説明したにも関わらず、Aくんの返事はこうだった。

「独創性があるに越したことはないので、あると言って貰えて嬉しいです!笑
興味深い言葉の提供ありがとうございました!おもしろかったです😆」

普段から返信は短めだけど、私はズッコケそうだった。

なんだろう?私の興奮度とは反比例するかのようにAくんは「興味深い」の一言で終わりで、私からすると「えっ(´⊙ω⊙`)?」って感じだった。

ちなみにもうあれから1ヶ月近く経つけれど、Aくんはギフテッドをあまり認識してないのは相変わらずなのと、「Aくんって発想が面白いよね」と言うのと「Aくんはギフテッドだよ」と言うのと、同じぐらいにしか思ってないと思う( ̄∀ ̄)。



私がAくんがいかにもギフテッドだと思ったエピソードを紹介したい。

東大の英作文は、英語力もだけど、発想力、思考力、分析力、自己表現力なんかを短い英作文の中で求める。

過去問は毎回ぶっ飛んでる。

問題によっては、私なんかは問題文すら理解できないこともあった( ̄ཀ ̄;;)。

Aくんがいつも問題と解説と回答例をセットにして写真で送ってきてくれてたから、私はその問題文の解説を解答例よりも見た気がする。

「こういうこと聞かれてるわけねー、なるほど!」みたいな、添削以前の問題だった( ̄∀ ̄;)。

場合によっては、私は問題文の解説を理解するために国語辞典だの英和辞典だのを出して読んでいたぐらい(  ̄Д ̄;)。

本当に変な質問ばかりで、その中で一番まともだけど一番難易度高いなぁと思ったのが「当校の印象について述べなさい」だった。

東大そんなこと聞くの?と思いつつ、これ一筋縄じゃいかないのがすぐにわかった。

簡単過ぎるようだけど逆に難しい。

ちなみにAくんの書いてきた答えも超シュール過ぎて、私は吹き出すかと思った。

Aくんはなんと、校舎内のトイレの素晴らしさについて述べていた。

ウケ狙いじゃなく、ガチで。

しかも理由が凄かった。

その問題に取り組んだのは、まだAくんも英作文に悪戦苦闘してた時で、私はAくんに何を英作文で書こうとしてたのかを詳しく聞いたからものすごくよく覚えている。

当時の英作文が出てきたから、それを和訳したい。

ちなみに質問はこうだった。

「あなたが今試験を受けているキャンパスに関して、気づいたことを一つ選び、それについて60〜80語の英語で説明しなさい。」

上の質問に対してのAくんの答え。

「このキャンパスにはたくさんのトイレがあることに僕は気付いた。
たくさんのトイレがあるメリットについていくつか述べたい。
1つ目、学生たちはトイレを探すのに無駄な時間を浪費しなくて済む。もし1つのトイレが使用中で使えなくても、学生たちは近くの別のトイレに行けば解決するから、時間を無駄にすることがない。
2つ目のメリットは、周りに人がいると気になってしまうような人が、誰もいなくて気兼ねなく使えるトイレを見つけやすい。
それらゆえ、学生たちは快適にキャンパスライフを送れると僕は考える。」

目の付け所があまりにもユニーク過ぎて、そういう発想って全受験生の中でもAくんだけだろうなぁと思う。



Aくんに与えられているそのすごい知的能力の高さと唯一無二の発想力、私は何でAくんにそれが与えられているのか、生まれた時から授けられているのか、お母さんのSさんから話を聞くとさらによくわかる。

「ギフテッド」という言葉は「gifted」と英語では書いて、その語源は「ギフトーgift」贈り物から来ている。

天からの贈り物、それがAくんに与えられている。

今日たまたま見たネットの記事で面白い話があった。

知恵というのは、善にも悪にも使えると。

Aくんは間違いなく善のために使える人で、世のため人のために全力を尽くす心意気をいつも持っている。

そして自分の類まれな能力を鼻にかけないし、すごいとも言わない。

常に謙虚で温厚な性格の持ち主で、いつやりとりしてもとても気持ちの良いやりとりができる。

Aくんの高校の同級生たちは今春卒業して新社会人になる。

私だったらそんな状況、いたたまれないけれども、Aくんにどう思っているのかを今回癒しのレシピを書く前に一度聞いた。

そうしたら、Aくんはこう返信してきた。

「同級生は今4年生です!来年から社会人になります!
僕はそれについて特に思うことはないです。ただみんなは凄いなあと感心するばかりです! 僕はしっかりした生き方はできないし、生き方は人それぞれだから別にいいかなあと納得してしまっています!」

Aくんは無理してそう言ってない。

本当に心からそう言ってる。

相手を敬う心を、それがたとえ同級生の友達・仲間であっても、そこをきちんと持てる。

もう私には言葉がなかった。

ある時のエピソードが頭をよぎった。

SさんがいつだったかAくんと2人でちょっと良い店、割烹風のお店にランチに行った時の話をしてくれた。

来ていたお客さんのグループで、本当に耳障りな話ばかりをしている人たちがいて、Sさんは非常に不愉快極まりなかったらしい。

店を出た後、Aくんとそのお客さんの話をすると、Aくんはこう返してきたらしい。

「あの人たちのおかげで、ああいう敷居の高いお店ではあったけれども、緊張せずにリラックスしてごはんを食べられたから良かった」

Sさんは、その言葉にハッとさせられたと言っていた。

Sさんはいつも言う。

「あの子は本当に人のことを悪く言わないの。そしてどんな状況の時でもそれを必ず違う視点で見て、その中で良いことを見つける目があるんだよね。本当に私の方が見習わなきゃいけないぐらい、あの子は人間ができてる」

Aくんは、本当にどんなものに対してもそこに宿る明るい部分、プラスの部分が見れる子で、そしていつも冷静な風でいて実はすごく情に厚く、懐が深くて正義感に溢れている。

人を陥れるとか人を踏み台にするみたいな発想が一切無くて、成人した男性とは思えないぐらい少年のような真っ直ぐな心を持っている。

中年になろうが老年になろうがこのまま年を重ねるんだろうなぁと思う。

Sさんが教えてくれた別のエピソードで、いつかAくんが薬の研究者を目指そうとしていた頃があったとのこと。

それは体が弱くて30回近く手術を繰り返したお母さんを見てそう思ったのもあるかと思うけれども、Sさんが教えてくれたAくんが薬の研究者に目を付けた理由がすごかった。

「病気を治すのは医者じゃない。医者は薬を処方するだけ。病気を治すのは薬なんだよ。その薬を研究したい」

そう話していたそうだった。

こういう人柄だからこそ、Aくんにギフテッドの能力が与えられているんだと思う。

誰でもいいわけじゃない。

Aくんという人だからこそ、その能力を正しく使えて人のために活かすことができる、そう判断があって贈られている贈り物だと私は思っている。



今日2/25現在振り返って思う。

これは後から書く記事に詳しく書く予定でいるけれど、Aくんは私の状況を何も知らない時にポンと連絡をくれた。

私もそれはすぐに気付いたけれども、1月の下旬において私と連絡を取り合う人というのは相当限られていた。

しかも、相手から来る人というのは本当にごく一部だった。

おこがましい話だけれども、1月7日におじいちゃんの霊魂が登場して以降、その後2月のあたまぐらいまで、霊界からのエネルギーが相当強く働いていたと思う。

今の比じゃなく、本当に強かったと今振り返って特に思う。

そんな渦中に普通に連絡くれた人というのは、相当特殊な事情や人生の目的がある人たちしか来ないことに私は気付いてた。

Aくんはまさにその1人だった。

年明け前からでも良かったわけだし、もっと早い時期から添削を依頼するでも良かった。

だけど、1月27日のタイミングでAくんは連絡をくれた。

これはめちゃくちゃ意味があることだとわかったのは、その後だった。

その意味に関しては次回以降話す。

まさかAくんのこの一石を投じるみたいなことが、お母さんであるSさんの長年の懺悔に似た気持ちや罪悪感に悩みに悩んだことを解消する出来事に繋がるなんて、その時誰が思っただろうと思う。

Aくんは、自分のためとお母さんのためと両方の役目を担って、今回私に連絡してきたんだと私は思っている。

事実、Aくんの英語の添削はどれも10分もあれば終わった。

以前は3時間とか普通にかかっていたから、べらぼうに時間短縮したのがわかる。

だから、今回Aくんははっきり言って、私の英語力は要らない状況だった。

だけど繋がった。

それは今はまだ全容が見えないからはっきりとはわからないけれども、色んな人たちの色んな人生に関わるから、Aくんは連絡をくれたんだろうと思っている。

最後に、1月29日にAくんに書いて送った「癒しのレシピ」を紹介して終わりにしたい。

この癒しのレシピが次のストーリーに繋がっていく。

あと、冒頭の写真は、何個か前のブログでも紹介した、Aくんから来たスタンプ。

ここに書かれた話にピッタリの言葉になっている。

「感謝するぜ  これまでの  全てに!!!」


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【Aくんの癒しのレシピ】

《Aくんの才能》
・周りに流されない力
・芽の出ていない土をずっと持ち続ける力、それを見守る力
・状況を見極め、それに合った方法で、自分の軸をぶれないようにするためにはどういう風にしたらいいかをちゃんと考える力(←これのみ、吉本ばななさんの『人生の旅をゆく 3』からの引用です)
・物事の本質を見極める力
・自分の不器用さを認めていること、そしてその自分で生きていく覚悟
・周りの人たちのことを素直に“すごい”と思える心
・飽くなき探究心
・人とは違う視点で物事や状況、人物を観察・解釈する力
・人にさりげなくできる気遣いやさりげなくさっと渡せるやさしさ
(ギフテッドに関しては、別のメッセージに書いたので割愛します)


《今後伸ばすと良い力》
・自分の才能や資質を育てていく力
・自分の才能を受け取るための器を広げていく力
・自分には何ができるだろう?と自分の好きや得意を細かく出していく
・そうした自分と社会の接点を見出していく
・自分のために社会で活躍する場を作っていく
・自分に納得できる、自分の生き方に納得できる人生を切り拓いていく
・周りの人たちを頼っていく力


《Aくんに今必要な行動》
(やれるものからやっていくといいです)

・お母さんに自分の食べたいものをリクエストして作ってもらって、2人で家で食べる
→これに関してはお母さんにすでにお願いしてあります。お母さんには、妹やお兄ちゃんは抜きで、Aくんと2人だけ、その時はAくんだけのお母さんになってくださいとお願いしました。
一生の中で、意図してそういう時間をどこかで持つというのは、何か特別なものをその時や後々に運んできてくれると思います。

・お母さんに全てを任せて、お母さんから潜在意識のブロックを再度取ってもらう。
やり方や数は、完全にお母さんに任せてしまう。(←私はその方法でやってもらって、それが効果てきめんでした!)
なんなら遠隔で受けてもOK。
→これもお母さんにすでに上の件と一緒にお願いしました。ブロック取りのワークに関しては、Aくんから一言お母さんに「ぶっしーさんから聞いてると思いますが、潜在意識のブロック取りをお願いします」と連絡を入れてください。

※この件に関しては、もし私がどうしてお母さんに任せてすることを提案しているのか、Aくんが気になれば連絡ください。きちんと説明します。

・youtubeで変わった大人たちの生き様が見れるような動画を探して見る

・漫画『ジョジョの奇妙な冒険』を読む

・映画を観る(DVD出てます)

ー『ギフテッド』…こちらは、ギフテッドの人の特性を見るためです。ストーリーはそこまで重視しなくていいです。
(私は見たことないから全くどんな映画か知りません)

ー『ペイイットフォワード〜pay it forward』
…こちらはストーリーを見てください。

・人に言わなくていいから、自分の中で感じている気持ちを自分の中で受け止めるようにすること

・音楽『それが大事』…歌詞を聞いてください

・きっかけは何でもいいけれど、心が動いて涙を流す体験をする。
(映画、本、日常の何か、何でもOK。悲しいでも感動したでも、涙の種類も何でもOK)


[追記]
漫画と映画は、ペンジュラムを使って引っ張ってきた情報です。
一応ここに書かれているものは、全てペンジュラムで、Aくんに伝える伝えないを確認して、それでYESが出たものだけ書いてます。


《その他》
・社会の作られた基準や価値観で生きないこと
(例えば、三浪して恥ずかしいとか、変わってるなど、社会にある当たり前みたいな価値観や基準に流されないでね、という意味です)

・ギフテッドゆえ、人とは違っていて誰からも理解されない苦労を伴ったりすることもあるけれども、その違いこそがAくんの才能です。そしてわかってくれる人、理解を示してくれる人、Aくんを必要としてくれる人たちが必ずいます。

・自分が自覚していくことで、Aくんの力がもっと伸びたり広がったりします。
“自分にはそんな力ない”と否定したくなる気持ちが湧いたのなら、その時はその出てきた気持ちを否定せずにそのままにしておいてください。
けれどもできるだけ“もしかして、ぶっしーさんの言った通りの力が自分にあるのかも”と前向きに捉えていく方が可能性がどんどん広がります。

・Aくんがこの4年間で得たものはかけがえのないものです。
何も肩書を持たず、社会的には敗者のような立場になって、先も見えず悶々としただろう時間をここまで積み重ねてきたその精神力と忍耐力。
相談したり心から話したりできる人が周りにいない中で生きる力。
一般的に、周りから理解されない状況に身を置くことで、ギフテッド特有の(誰からも理解されないもしくは分かち合えないことなどから派生する)孤独に対して、それに耐えうるだけの力を養っていたこと。
高校卒業と同時にストレートにいかなかったことで得た経験値は、他の何物にも代えられません。唯一無二のすごい財産に今後必ず化けていきます。
だから大丈夫!

・怒りたい時は怒っていいし、嫉妬心や劣等感が湧いたらそれも普通だし、誰しもが通る道だから大丈夫!
自分の中から出てくるもの、負の感情も含めてそれ全部大切なのものだから、脇に追いやらないこと。
いきなり全部は受け止められなくてもOK。少しずつでOK。
(ちなみに私は10年近くそうした感情と向き合ってもまだまだです)

・社会的価値観に一切重きを置かないお母さんを持てることの幸運。
(塾の仕事をしたおかげで何百人のお母さんと会って話をしてきたけれども、あんなにも外の情報や社会の中に普通にある歪んだ価値観とかに動じないお母さんって他にいないです!)

奇跡の果実▷ウラ話⦅12⦆色んな話




>>>2019/02/22 夜

25年来の友達へのカミングアウトは上手くいった。

私は少しでも見えるものがあった方がいいかと思って、色々グッズを持ち込んだ。

けれど、グッズはペンジュラム以外不要だった。

開始1分もしないうちに友達から言われた。

「ぶっしー、私大丈夫だよ!
あれ、言わなかったっけ?
うちお姉ちゃんがそういう系の仕事をしているから、私はそういう見えない世界には関わらないけれど、本当に抵抗がないから大丈夫だよ!」

拍子抜けしそうだった。

友達のお姉ちゃんの存在は知っていたけれど、県外にいることや離婚危機になったことぐらいしか知らなくて、それ系の仕事をする人だというのは今回初めて知った。

友達は基本的に興味はないけれど、私が話すことに関しては超真面目にそして興味を持って聞いてくれたし、そして持って行った1冊の本には超食いついて買おうかなとまで言っていたから、私としても大収穫だった。

『未来事典 3年後の私がわかるサビアン占星術』(松村潔・著)という本で、私も超重宝している。

何が収穫だったって、占星術にもスピリチュアルなことにも興味のない友達が、「これ当たっているね」と言いながら写真撮ったぐらいにそこから何かを感じていたこと。

私はどこの宣伝部長か?と言わんばかりに、熱くその本の使い方から一家全員で半永久的に使えること、本の一覧表にはない子どもたちの分に関しては出生時間を教えてくれればどこがスタートか私が教えられること、とにかく色んな使い方ができるから!とあらゆる良いことを語ってきた。

そして、友達と話しながら、占星術に関しては、私は通常の占星術は全くもってセンスがないけれど、この未来事典に使われている「サビアンシンボル」と呼ばれるものは、ホロスコープ鑑定を受ける前から知っていただけあって、自分に合っていることにも気付いた。

サビアンシンボルに関しては、私は本にも他のプロの占術家たちも書いていない独特の読み解き方・使い方ができる。

そして妹2人分のホロスコープ鑑定書を1人当たりワード25枚以上で作った時も、私は実はこのサビアンシンボルの方で妹たちの性格的傾向を把握していた。

上手く言えないけれど、占星術そのものは私は本当にセンスのかけらもないと思う。

自分でわかるけれど、知らない人よりかは読み解けるものの、シンボルたちを見てそれが何を意味しているのか言葉にできない。

こんなにブログ書けるくせして、占星術は丸っきし何も言葉が出てこない。

しかも他人のものはもっと読み解けず、情報は持ってこれるけれど、私が感覚で読むことは相当難しい。

だけど、サビアンシンボルは別で、私はその各シンボルの意味を解説した文を読むと、そこから一気に何かが自分の中で繋がり出す。

パターンも浮かび上がれば、「これがこの人のテーマなんだ!」という生涯を通じて取り組むことになるだろうテーマも見えてくる。(←ホロスコープの読み解きからは読み解けない部分)

こうやって私は占星術の読み解きをする方が得意なんだということにも今回初めて気付けた。



占星術の話に花が咲いてしまったけれども、本当はそこじゃなかった( ̄∀ ̄)。

友達と話していて、何で私はこの子とずっと付かず離れずの距離で友達だったのか、初めてわかった。

性格も好みもそれぞれの歩んできた道のりも全く違う。

高校の時の部活が一緒なだけで、趣味もかぶってないし、片や子育てバリバリのお母さん、片や人生迷走中のアラフォー独身、何にも共通点なんかない。

だけど、話しててわかった。

大切にしているものが一緒なこと。

先月か先々月、その子の家に行った時、下2人の子どもがニコニコしながら「どのチョコにする?」と言って、高級チョコレートの缶を持ってきてくれた。

ありがたくいただいたけれども、後から聞いて驚いた。

そのチョコレートは謝罪のチョコレートで、一歩間違えたら重度障害が残ってもおかしくない事故があって、それのお詫びの印だった。

事の顛末を聞いたら口をあんぐりとする内容で、本当にちょっとしたケガで済んで良かったね!!!という危機一髪の事態にその子の家の子どもが巻き込まれていた。

これが真面目に大事故になったら、全国ニュース級のすごい内容だった。

しかも連日報道されてもおかしくないツッコミどころ満載の話だった。

友達はとりあえず無事だったから謝罪とかはすべて丁重に断って、そうしたらチョコレート及び大人の事情的な諸々が学校経由でやってきたらしい。

で最近学校行事があって、そこで初めて相手のお母さんに会ったようだった。

その時の話を聞いて、あぁ…と思った。

友達は一言、「お金で解決しようという風にしか見えなかった」と言った。

謝罪とかを求めているのでもなく、もちろんチョコや大人の事情的なものを求めてるのでもない。

単に誠意を感じられたら友達はそれで十分だったのに、それがなかった。

一歩間違えたら、命なり残りの人生なりを左右するぐらいの事故だったにも関わらず、相手のお母さんは「もう謝ったのでいいですよね」的な雰囲気だったらしい。

ちなみに、子供同士のことだから、なんていうレベルではなく、友達の子どもはたまたまそこに居合わせただけで全く予想もしていなかったいたずらをされたことで起きてしまった事故だった。

それは周りの子どもたちがみんな見ていて、その子は100%被害者でしかないと証言するぐらいだったから間違いない。

私が聞いても、本当にそんなことってあるの??と言いたい酷い内容だった。

友達は怒ってもないし不満を言ってるのでもなかったけれど、「私だったら、自分が逆の立場ならそんなことできない」と言った。

友達ならどうしていたかと話していて、それを聞いて私はその子の芯の通った考え方が大好きだと気付いた。

そういうことを普段ベラベラと話す子じゃないから、そんな話、今回多分初めて聞いたと思う。

その芯の通ったところが普段の何気ない行為や言動にも当然表れているわけで、私が好きなのはそこだと知った。

だから、何1つ共通点がないにも関わらず、ずっとこうして付かず離れずの距離で続いて来られたんだと気付いた。

友達でいる理由なんて普段考えないけれど、私が唯一同世代の友達で子育て真っ最中にも関わらず何だかんだと会っているのはその子しかいない。

普通なら、生活スタイルがあまりに違うから疎遠になる。

だけど、彼女とは疎遠にならず今も続いている。

こんな素敵な人とお母さんになってからもずっと付き合い続けてこられた恵まれた縁に初めて気付いた。

子どもたちにも相当言い聞かせたのか、一番下の子以外は、友達と私が話している間部屋にはやって来なかった。

友達はじゃまが入ることを予想していたから、そのじゃまを阻止するために色々子どもが喰いつく喜ぶ物をあらかじめ与えていた。

来たら仕方ないにしても、極力来ないように策を講じてくれてた。

本当に私の話のためにそこまでしてくれてたのがとっても嬉しかった。

友達は受験が終わったら、年度末で余ってる有給使うからランチ行こう!と言ってくれた。

その時に今度ゆっくり話したいと。

色んな人たちに自分のオカルト体質+オカルトワールドを告白していく中で、私は周りの人たちの本気のやさしさをたくさん知ることになった。

みんなビックリするぐらいにすんなりと受け入れて、興味ある人は聞いてくれたりもするけれど、そうでない人たちでも普通にみんな話してくれたり私の話を聞いてくれる。

腫れ物に触るようにもしないし、そのままでいてくれる。

私にはもったいないぐらいの超人間的にできた人たちに囲まれている。

これは私の人徳ではとてもカバーできないレベルの人たちに出逢わせてもらっている。

遠慮してそう言ってるのではなく、本気でそういう人たちに私はめちゃくちゃ恵まれている。

人の温かさを知った時間だった。

そして、そういう人たちのおかげで、私はもっと自分のことに対して前向きに向き合える、そんな気がする。

周りから受け止めてもらえると、私自身も自分を肯定するための原動力をまた1つ多くもらえる。

とても温かいそしてやさしい気持ちにさせてもらった。



>>>2019/02/22 昼下がり

上の話とは打って変わって、昼間の出来事は色んな意味で衝撃だった。

役所に某手続きと確定申告に行った。

手続きのために最初役所の市民対応系のフロアに行くと、隣りにいたおじさんに話しかけられた。

そのおじさんは、隣りで待っていたたかが2、3分で私に下の話をしてきた。

「これから俺は戦争よ!」

「戦争ですか?」
(私の心の声「戦争って何だ何だ?」( ̄д ̄;))

「おうおう、戦争だよ!
資産税に関して、兄弟と争ってんだよ。もうあいつはぁ兄弟でも何でもねぇ!死んだって知らねえよ!どっちが先でもお互いに葬式なんざ出ねえよ。あいつがどうなったかなんて俺の知ったこっちゃねぇ!もうあいつは兄弟じゃない、兄弟の縁は切ったんだ!」

その後も二言三言話をしている合間に私は係の人に呼ばれて窓口に案内された。

窓口に行くと、役所の50代の男性と思しき方がやってきた。

前回と同じ担当者だった。

その人は至極真っ当な対応と当たり前のことを私に説明した。

何1つ間違ってはいない。

だけど、私はこの時すでにもう目の前の方が正しいことを言えば言うほど、頭が痛くなるという状態になっていった。

私はその人の話を顔を見ながら聞いて思った。

もし目の前にいるのが私じゃなくてその人の子どもだったならその人はどうやって話すんだろう?と。

こんなに正しいことだけベラベラと話して、それで相手がそれに同意するように仕向けて終わりなんだろうか?と。

その人は仕事だからその対応なのはわかるけれど、何かが大きくズレていた。

この人、心にもないことを、もしくは自分の中で正しいと信じ込もうとしていることを話してるんじゃないか、だから本当のその人とはズレているからそのズレを感じて私は自分の頭が痛いのか…!?と思った。

兄弟戦争のおじさんの方が言葉も表現も過激ではあったけれど、私は全く嫌ではなかった。

むしろ、自分の想いを真っ直ぐに話していたから、ビックリはしたけれども違和感はなかった。

そしておじさんが兄弟のことを悪く言うたびに、「本当は仲良くしたいのかもしれない」とか「本当は相手が大好きなんだろうな」なんて思ったぐらいに、おじさんの熱い想いが伝わってきた(o´艸`)。

戦争とか言ってたけれど、こうしてわざわざ役所に足を運んででも動くのは、そのおじさんなりの責任を果たそうと一生懸命なのはわかった。

本当にどうでもいいなら、このおじさん、ここにはいないだろうなぁと思った。

確定申告の会場に移動する際、おじさんと役所の人とをそれぞれ思い浮かべて、どうして過激なおじさんが私は平気で、反対に正しい役所のおじさんといると頭が痛くなったのか分析をした。



確定申告は、滞りなく終わった。

担当者は丁寧に対応してくれたし、知り合いにもバッタリ会ったけれども挨拶を交わして何ともなくいられるはずだった。

ところが、順番を待っている間からどんどん頭が痛くなって、その場を後にした30分後ぐらいに私はおなかまで下した。

本当にゲンナリとした。

自分でもよくはわからなかったけれど、多分確定申告の待合室は、怒りとか不満とかそういうエネルギーが異常に強かったと思う。

あの最初の手続きのおじさんと同じ感じの空気感だった。

私は2年前もそこで確定申告をしている。

その時は何ともなかった。

これはわからないけれど、いよいよ体の方が変な歪んだエネルギーに反応するようになってきた気がする。

それは本当にわかりにくくて、戦争発言のおじさんみたいな人は私は全く平気で、反対に奥底に追いやった負の感情を溜め込んでいるとか本音と建て前が違いすぎるような人や場所が多分ダメなのかな…なんて思った。

自分のその反応にショックを受けつつ、痛い頭を抱えて駐車場に行った。

地下を抜けて地上に出たら道が混んでいて、誘導係の人の誘導を待った。

ようやく一般道に出られたのに、路線バスが先を行こうとした。

そこは激混み地帯だから、普段ならドライバー同士で譲り合ったりする。

「こらぁ( *`ω´)!バス!」と思ったけれど、突っ込んでも事故になるだけだから、バスが通り過ぎるのを待った。

そのバスの後ろについた。

超ビックリした。

バスの後ろには大きな宣伝が描かれていた。

「◯◯家」と店の名前がドンと真ん中に大きくあった。

◯◯は、その苗字を見るだけで私が元気になれる人の苗字だった。

赤信号なのをいいことに、すぐiPhoneを手元に手繰り寄せて、写真を撮った。

元気玉が来た。

涙が出るかと思ったぐらいに嬉しかった。

今は淡々と書いているけれども、その時の私は自分のその体調不良具合に本当に落ち込んでいた。

役所の手続きも確定申告も何1つ悪いものはなかった。

確定申告に至っては、見た目には滞りなく終わって、嫌なことを言われたとかされたとかじゃない。

静かに事務的なことが繰り広げられていただけだった。

誰か声を荒げたり、喧嘩腰にクレームを言っているとかいうのも一切なかった。

目に見えては何もなかったその状況下で具合が悪くなったことは、とても怖いものがあった。

見えないものに反応している私は、これから先普通に社会の中で生きていかれるのかな?とか、そんな悲惨なことまで想像していた。

そんな時に、その人の名前を見て元気をもらえた。

その人の名前は、いつも窮地になるとどこからともなくやってくる。

私が今弱ってるって知ってたの?と言わんばかりに、突然パッと目の前に現れる。

これを書いているのは2/24の夜だけど、驚いた。

昼間、私のノートについて思い出したことがあると言って、すごく素敵な解釈を書いたメールを別の友達がくれた。

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ぶっしー、なぜか今ふと思い出して言いたくなったのでメールします😊

前にぶっしーが3冊ノート見せてくれて、それぞれのノートから感じるイメージみたいのを話した時、1冊はセドナみたいな赤土の拓けた大地と真っ青な空(Oさん浄化ノート)、1冊は、鬱蒼とした霧の立ち込める森(NLP時代のノート?だったかな)、で、1番新しいノートだけ、なかなかはっきりしたイメージが掴めなくて、「白い布みたいな…シーツかカーテン…光が透けてまぶしい?…キラキラして…お天気雨みたいな…」 ってさ、たしかそんな感じでうまく説明できなかったんだよね。

何だろうな、知っているものだと思うんだけどな、って気になって、後からそのイメージを何回も思い出して再生していたら、ハッと、「あ、これは繭だ!」ってわかったんだよ! 「繭の中から、外界の明るい光が透けているのを見ている」という映像で、私が「お天気雨??」と表現したキラキラとライン状に光っていたのは、蚕の絹糸じゃん!とわかったの。

気づいたその時にすぐ伝えたら良かったんだろうけど、何だかできすぎた回答みたいでかえって嘘っぽいみたいな気がして、純粋にノートから受け取ったイメージじゃなくて、「後から私が脳内で作っただけじゃない?」 って思っちゃって。

でも今日いい天気で、カーテンから陽射しが透けてるのを見たらなんかふと思い出したので、今さらとは思ったけど、メールしておくね✨

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ものすごく嬉しいメールだった╰(*´︶`*)╯

だけど、常に数冊のノートを同時進行的に使っている私には、友達がどのノートについて言ってくれてるのかがわからなかった。
(ちなみにこの話は9月のあたまにしていた)

それでノートを特定すべく、どこかにメモがあるはず!と過去のノートを探し回って、それでやっと今見つけたら…。

そのメモ書きの隣りのページに書いてあった。

「ぶっしーの能力・感情を解放するきっかけを与える役割の人?ーーYES」

その友達からペンジュラムで聞いてもらった時の質問と答えだった。

上のバスの広告の話に出てくるまさにその人物についての話が、それとは全く関係ない上の友達のメールの内容を確定するために探したノートの隣りのページに、メモ書きとしてあった。

涙が出るかと思った。

この人は感情を解放しただけじゃない。

いなくなった後もずっとずっと1年半以上も私に何かしら癒しを届けている。

本人にはそんな気がなくても、現実として、こんな絶妙なタイミングでその人は癒しを私にもたらす。

その人なくしては、私は自分の能力も感覚も感情も開かなかったことをわかっている。

その人から見て私がどんな風だったのかは知らないけれど(恐ろしすぎて想像もしたくない)、少なくとも私からして、その人は本当に特別な存在で、その人のいない世界に今も私は生きていたとするなら、今の私も今この『奇跡の果実』シリーズも生まれていなかった。

すごいタイミングで上のメモを見つけて、ノートのメモが必要だったのか、その人に関してのメモが必要だったのか、今となってはどちらかわからない。

とにかく、その人物は、私に生きる上で大切なものをたくさんもたらした人には違いない。

あの役所で突然の体調不良に見舞われた時も、その人を表す何かはスーパーマンみたいに突然現れて私に元気玉をくれた。



>>>2019/02/24 朝

外は雲ひとつない、さくらが咲きそうな小春日和になっている。

ギフテッドの彼は明日明後日の入試に向けて家を出発した。

そのギフテッドの彼のことを今日はひとつひとつ丁寧に書こうと予定していたけれど、途中から気力が抜けて止めることにした。

とりあえず延期にした。

無理して書きたくなかった。

きちんと気持ちを込めて書きたい。

それが筋だと思うし、相手の人生のストーリーをこの中で使わせてもらうわけだから、私がいい加減に書くのは良くない、そう判断して延ばした。



これをどのタイミングで書くかずっと迷っていたことが1つある。

何人かの方たちから「ブログ読んでるよ」と嬉しい言葉をもらったのと、公表した方がいいんじゃないかというのとがあって、ここで公表することにした。

だからこれから書くことが目に留まった人は、それを目にする必要がある人なんだろうと思う。

これを読んでくれてる人たちがどういう人生の背景を持っていて、どんな生活をしていて、どんなことにしあわせを感じたり反対に怒ったりする人なのかはわからない。

だけど、総じて私が思っているのは、この私のまるで脈絡のない話をずっとでも時々でも読み続けてくれてる人は、これから先の時代の先駆者となっていく人たちだと思っている。

おまえ何様だよ?ぐらいな話で言うのもかなりためらいが私の中にあるけれど、大切だから続けます。

自分でも書いていてわかるけれど、私が書く話の中には色んなヒントが入っている。

私が意図的に入れたものもあるし、私は無意識に書いていても他の人から見たらヒントになっているというのもあると思う。

ここでは詳しくは書かないけれども、山で行方不明になったおじいちゃんの霊魂が年明けに登場して以降、私自身の体内とか私が日々生きる世界の空気感が変わった。

それはこの『奇跡の果実』シリーズを書いている間だけの話なのか、これから先もずっとそうなのかはわからない。

だけど、とにかく変わったと肌で感じる機会が増えた。

そして、その変わったことの1つに、私はどこかからヒントをもらっていることが挙げられる。

どこかというのは正直私もわからない。

だけど、何か大切なヒントだというのはわかる。

ノートに忘れないように書いて残しているけれども、ふとやってきたメッセージを書いておいて、そしてそれをこのブログの中に織り交ぜている。

そのヒントは、私1人が持っていていいものではなく、みんなで共有するものだと思っているから。

だから、この中にちょいちょい書いている。

予定としては、この『奇跡の果実』シリーズの最後の方に、やってきたメッセージは一覧にして公表しようと計画している。

『奇跡の果実*Lesson』と題したものもそうで、あれも基本は来たまま書いている。

私の学びの話になっているけれど、あれは私の話であって、本当はそうではない、それぞれの人が自分に置き換えて何かを感じるためのものかな…と勝手に思っている。

だから、この『奇跡の果実』シリーズを読んでくれてる人たちは、何かしらの必要なメッセージを、読むことを通じて自分のところにもたらす人たちなんだと思う。

そしてその人たち自身がキャッチしたその人オリジナルのメッセージや心の中の体験なんかが、また次の誰かにバトンを渡すように伝播していく、そんな風に私は勝手に思っている。



これから先は個人の感性の時代になるとあちらこちらで言われている。

じゃあ感性って何だ?となった時、それを説明しているものは実はすごく少ない、私はそんな風に感じている。

最近は本をあまり読んでないからわからないけれど、私が年間100冊越えで本を読んでいた2011年ぐらいから15年ぐらいは、まだまだスピリチュアルなものも自己啓発やビジネス書なんかもハウツー本が多かったし、具体例がかなり少なかったと記憶している。

私はそれだけじゃ全くわからなくて、そこでたまたま目をつけたのが、日記風のエッセイで、数十冊は読んだかと思う。

学びのために読んだんじゃなくて、単に話が面白くて最初は読んでいたけれども、途中からはエッセイの中に私が欲しい答えがたくさん入っていることに気付いて、それ以降かなり注意深く読むようになった。

その全くジャンルの違う2つを組み合わせて読んだことはものすごく良かった。

例えば「怒っている自分を認める」とスピリチュアルの本でも自己啓発でもあったとする。

ちなみに自己啓発のヤバい奴は「怒りは天敵。さっさと忘れろ」ぐらいな超危ない思想をあたかも正しいかのように言い出しているから、あれは気をつけて読まないといけないと思う。

一言だけ言うと、怒りは「自己防衛」のために絶対に必要な感情だから、悪いものにしてはもったいなさすぎる。

取り扱いには相当注意を要するけれども、それを打ち消したりなかったことにするなんて、せっかく自分を守ってくれる機能を自ら放置または放棄してるようなものだと思う。

話を戻す。

「怒っている自分を認める」と言われて、それが具体的に何を指すのかわかる人なんて、どのぐらいいるんだろう?と思う。

少なくとも私はさっぱりわからなかった。

スピ系の本はどれを読んでも似たり寄ったりで、教えは書いてあっても現実生活に照らし合わせたことは書いていない。

だから、普段の生活で怒った自分が出てきた時にどうしていいのかわからない。

そんな読書全盛期に、私は並行して色んな人たちの日記を読んでいた。

ちなみに読んだのは、吉本ばななさん、高山なおみさん、銀色夏生さん、田口ランディさんだった。

それぞれかなりな冊数で日記風のエッセイを出されている。

その方たちの日々の話はめちゃくちゃ参考になった。

例えば怒った時。

怒りが治まるまで何日もかかったり、治ったと思いきや1週間くらいするとぶり返したり、小さな違和感を無視していたと後から気付いて後から怒ったり。

田口ランディさんは、お兄さんを餓死か孤独死みたいな感じで亡くされている。

そのお兄さんとのあるエピソードをこんな風にして紹介している。

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あるとき、兄が、郵便局に使いに行って、その帰りに鯛焼きを買って帰ってきた。兄は、私から貰うなけなしのお金で鯛焼きを買ったのだ。もちろん私の分もあった。それからお茶をいれてくれて、二人で鯛焼きを食べたのだ。
兄は「鯛焼きなんか食べたの、何年ぶりだろう」と言いながら、子供時代の話をした。商店街にあった「甘太郎」というドラ焼きの店の話だった。めずらしく嬉しそうだった。私は鯛焼きを食べながら、なんだか急に哀しくなってしまった。
兄は私と心から鯛焼きを分かち合っていた。その様子でわかるのだ。でも、私はどうだろうか。心から他者と何かを分かち合ったことがいままであったろうか。思えば、自分が会社を辞めたのも、自分のことばかり考えていて、分かち合うという気持ちが足りない傲慢さのためだったのではないかと思った。
(中略)
あのときの兄は、鯛焼きを買って、私と食べることを心から楽しんでいた。
あの様子を思い出すとき、私は自分の傲慢さに息苦しくなるのだった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

引用:『神様はいますか?』p. 232〜233
田口ランディ


色んなことに怒りすぎて、相手のことも大事にできなくて、そのうちに相手は死んでしまって、永遠にその時のことが自分の中に残ったままという話もどこかにあった気がする。

吉本ばななさんは、お母さんが昔、ばななさんが大事にしていたものを勝手に捨てて、それだけは亡くなった今も思い出すと許せないとか書いてた気がする。

そうしたことたちこそが「怒る自分を認める」ことなんだと私は解釈した。

うやむやにするわけではなく、思い出すたびに色んな感情が噴出してやるせなさが残ったりするけれど、それこそがそういう自分と向き合う唯一の方法のように見えた。

4人のエッセイにはそうした内容がものすごくたくさん描かれている。

そして、読んでいて共感したり、私もこうしたらいいんだ!というヒントを得たりした。

こういう感覚こそ「感性」だと思う。

どういう付き合い方でも向き合い方でもいいけれど、そこに真摯に受け止める姿勢が必要なんだと思う。

そしてその感性こそが自分を大切にする力になってくれる。

怒りのことでもう1つ言うと、本当の怒りはそんなにすぐには消えないし、事あるごとに再び出てきたりもする。

もちろんその怒りをいつまでも放置するのは良くないけれども、そうやって何回も出てくることも決して悪くない。

それはそれで何か大切なことを伝えようとしてくれてる。

又は、怒ってもいいか!と自分にOKを出せると、怒っている自分も前に比べてそこまで気にならなくなったり、悪者扱いしなくて済むようになった。

そうした諸々のヒントも、作家さんたちが書いていた日常の話から得ることが私はとても多かった。



私はすごい好き放題に『奇跡の果実』を書いている。

相手がどう思うかなんて基本的に何も考えず、ひたすら自分の体験したこと、知り得たことを書き続けている。

1つだけそうだといいなぁと思うことがある。

これを読んでくれているどこかの誰かが、これを読んだ時にその人の心の中に何か浮かび上がるものがあったら本当に嬉しいなぁと思っている。

それは、風景や人物、過去の何かや未来の心配事、何でもいい。

過去の切ない恋物語かもしれないし、過去に怒りまくったことかもしれないし、最近あった嬉しい出来事かもしれない。

何でもいいから、そうしたものが1つでも相手の中に浮かび上がったら私はとても嬉しいし、それこそがその人オリジナルの感性だと私は思っているから、それが出てくる1キッカケになってくれたとするなら、それ以上に嬉しいことはない。

そして、それが浮かんでくるタイミングは絶対のタイミングだと私は心から信じているから、それがきっかけとなってもっと別の何かにこの先繋がるならもっともっと嬉しい。



私が信じているもの。

それを最後に書いて今回の記事は終わりにしたい。

色々思いついたままに書いたら、内容がいつも以上にあちこちに飛び過ぎてしまったけれど、仕方ない( ̄∀ ̄)。

来月3月6日に、天王星という公転周期84年、1つの星座に大体7年ほど滞在する天体が、牡羊座から牡牛座に移動する。

天王星は、「改革の星」だの「変革の星」だのと呼ばれている。

ちなみに私は「過去の束縛からの解放・覚醒」を促す天体だと習った。

で、その天王星が約7年ぶりに正式に牡羊座から牡牛座に移る。

あまり好きな表現ではないけれど、まことしなやかに囁かれている、ホロスコープ界の話の1つ。

前回天王星が魚座から牡牛座に移動したのは、東日本大震災の翌日だった。

もちろん科学的に証明はできない。

だけど、それだけの出来事が起こる時というのは、けっこうな確率で天体上も大きな動きがある時が多い。

そうした関連性はわからないから私は何も言えないけれど、天王星牡牛座時代で大事になってくる価値観というのがある。

牡牛座というのは、主に五感を通じて価値観を定めていく傾向が強い。

その五感を軸にこれからの時代が3月6日以降7年近く展開するとするなら…。

これまでは、得かどうか、効果があるか、儲かるかetc、みたいな価値観で物事は判断されていた。

今もまだまだ、世の中全体でその傾向は強い。

だけど、牡牛座に天王星が入ると、その価値観は確実に変わる。

「快か不快か」

これからの価値基準は、一言で言うならそうなる。

各個人によって、快か不快か、それを元に価値観をそれぞれの人たちが決めていく時代に入っていく。

今までみたいな、周りもそうだから自分もそうする…みたいな、周りもみんな良いって言うからそうする…みたいな、自分の価値観を差し置いて周りや社会の価値観に合わせて生きる時代は徐々に終焉を迎えるかと思う。

代わりに、1人1人の感覚、快感・不快感が問われる時代の流れになるだろうと思う。

そこに山羊座の冥王星も関わっているから、もっとシビアな感じで出てくる。

社会的にアウトなものは今後ますます衰退して、社会にとって個人にとって本当に良いものしか残れない時代に変わっていく。

で、あまりスケールのでかい話をしてもわかりにくいから、冒頭の家庭教師をしている女の子が見せてくれたわかりやすい喩えを1つ紹介して終わりにしたい。

3ヶ月ぐらい前のやりとりのこと。

その子は、その時すでに理系の某学校に出願する手続きの申込を中学校に提出していた。

本人が理科を本当は苦手としていることに私は薄々気付いていたけれども、もうその進路の方向で話が進み出していた。

友達であるお母さんとも相談して、私の方でその子とその進路で本当に良いのか話をすることになった。

取り消すならその時しかなかった。

ちなみに結果から言うと、その子はその時出願を取り消して、そして来月3月に通常の公立高校入試に挑む。

その子が取り消したのは、私が説得したのでも親が説得したのでもない。

本人が自分の感覚で決めた。

何をしたのかと言うと、私はその子を連れ立ってTSUTAYAに行った。

TSUTAYAの高校参考書のコーナーに行って、その中の物理と化学の参考書や問題集を10冊以上見た。

TSUTAYAを出る直前に本人が振り返って私の方を真っ直ぐ見て言った。

「◯◯理系校を受けるのやめる!」

そう、参考書を見て、本人が自分の感覚で「これは無理」とわかった。

興味を持てそうにもなければ、すでに苦手意識が働いている中学の理科の一分野の内容がてんこ盛りで、本人も見ながら「わかる気が全くしない」とずっと言っていた。

頭ではなく自分の感覚で「無理」というのを判断していた。

家に帰ってすぐに親にも報告していて、そして翌日には学校にも取り消しを申し出た。

翌日友達がLINEをくれた。

「実は理科が分からないっていう気持ちをブッシーが分かってくれてうれしかったらしい。
なんか朝は吹っ切れてたよ」

ブッシー良い人になってる(o´艸`)←えっ?

私はさておいても、その子が感覚でどうするかを決めたその姿勢は、まさにこれからの天王星牡牛座時代の基準、「快か不快か」のわかりやすい例だと思う。

ちなみに詳しく知りたい方は「天王星牡牛座」と検索したらあれこれヒットするので、どうぞ調べてみて下さい!