「心細い」これが今の感想。
感想じゃおかしいか、自分の気持ちとでも言えばいいんだろうか。
一番下の妹のホロスコープが完成した。
今回もWord26枚、約25000文字ほどをひたすら打ち込んだ。
自分のホロスコープと妹2人のホロスコープは三者三様、全く違う。
どんなにひっくり返しても、私の中から出てきたものは妹たちのところからは出てこない。
さらに何気なく次の8月11日の新月の情報を見てた。
私が多分3年ぶりに持つことになった手帳は、新月と満月と春分・夏至・秋分・冬至のポイントが書かれてある。
だから先々の天体情報もわかるようになっている。
さらに天体図と自分の天体図をどう重ね合わせて見るかも、この間ホロスコープ鑑定を受けて知り得た。
全部はわからなくても大切なワンポイントぐらいは習得してきた。
そのワンポイントが早速役立つなんて…。
次の新月は、獅子座の新月で部分日食を伴う。
ホロスコープの角度が読めるようになった私。
次の新月というか日食は、自分の生まれた時の月の位置に1度の誤差なくぴったり重なる。
蝕と自分の個人天体が重なるのは18年に1回ぐらいの割合じゃなかったんだろうか?
どうして2年も経たないうちにそんなことがまた起こるのか。
まぁそんなのは天体事情だからぶつくさと文句を言ったところで仕方ない。
私が怖いと思ったのはそこじゃない。
つい最近も、人に聞かれるままにある心理ワークのやり方を教えた。
またいつものごとく、その人の状況をちょっとだけ文章で読んで、それでその人が何をしたらいいのかわかったから、それで心理ワークを教えた。
高校野球のファンの人が「今回の見どころはどこ?」と聞かれたら、スラスラ答えてくれると思う。
さらに具体的に、「ピッチャーで今回の星となる選手はどの子?」なんて聞いたら、具体名が挙がって、そこに加えてどんな投げ方でどんな強みがあるかも答えてくれる、そんなのを想像して欲しい。
私が紹介した心理ワークもそんな風で、問題点とその問題に対する具体的なアプローチを箇条書きにして順に説明した。
やってみます、と言われて私はそんなこと頭から抜けてた。
そうしたらその数時間後連絡が来て、なんと自分の働き方に関して1つ大きな決断をしたと言う。
しかもそのきっかけが私の紹介したワークだと。
ワークに仕事を変えさせるようなそんな威力はないし、そんなことを目的としたワークでもない。
だけど、結果的にその人の生き方がこれから大きく変わろうとしてるきっかけにはなった。
効果の出方も出る速さもさすがにおかしいと思って、すぐにペンジュラムに確認した。
情報を持っていたのは確かに私だけれど、それをその人に伝えるというプロセスは私の意図ではなかった。
今回もこれまでの癒しのレシピ同様、相手の潜在意識や魂からの情報というかGOサインが出た上での情報提供だった、ペンジュラムいわく。
私は単なる媒介する係で、とにかく思い浮かんだままのことを相手に伝えたに過ぎない。
少なくとも自分も何回も同じワークをしてるから知ってる。
そのワーク自体は働き方を変えるようなものではないこと。
でもその人にはそれだけの力があったこと。
そしてそれを伝えたのは、紛れもなく私自身だったこと。
良い方向に向かう変化だから、それは単純に喜ばしい。
だけど私が心細くなっているのは、もはや自分でも何がどうなってるのかよくわかっていないのに、想像もしていなかった事態がどんどん展開して、今の私は喜びよりも恐怖の方が大きい。
そんな折に今度は次の新月で、しかも日食が伴うエネルギーの強い新月で、それと自分の個人天体がまたぴったり重なる。
ホロスコープ鑑定をしてくれたS先生は「そもそも武士俣さんが皆既月食の直前に生まれているから、どうしても蝕(しょく:日食や月食)を伴う時の空模様から影響を受けやすい、さらにそれと自分の天体が誤差0度で重なる(実際は前後2〜8度ぐらいまで見る)なんていう時はもう影響が出ないわけがない」と説明してくれた。
それがまた今回も起こる。
今回も1度以下、零点何度の小数点以下しかない誤差での重なり。
どんな影響が出るのか今回も予想すらつかないけれど、その後じわじわと来るのは多分間違いない。
今回の蝕は最大で1時間15分。
1年3ヶ月ほど影響が出るのかな…。
自分が全く追いついていない。
なのによくわからないことは起こり、自分の決断なんかもうどこまでも延び延びになっているし、そういう自分を外に打ち出すのが私は死ぬほど怖い。
さすがに逃げられないことはわかってきたし、逃げても逃げても付いてくるものなら腹を括った方がいいことも頭ではわかった。
だけど、心はついていかない。
7/31 1:01
妹のホロスコープを見て、とにかく全く違うホロスコープに驚いた。
例えばの話。
私たち三姉妹はそれぞれ人間関係のテーマがあるけれど、それが全く違っている。
私の場合は、自分の志や理念なんかを軸に人と繋がっていくことがテーマにある。
真ん中の妹は、社会の中で職業的な部分の完成を目指した人間関係の形成がテーマになっている。
下の妹は、1対1のような深い関係の人間関係の充実が求められている。
それぞれの重きが違う。
私の場合は、自分の大切にしたい価値観やそれに伴った自己表現が軸となる。
真ん中の妹は、リーダーシップを取ったり周りとの調整が軸になる。
下の妹は、自分の心を開くこと、人と深く関わることに対する恐怖を乗り越えることがテーマになる。
とまぁ、こんな風にそれぞれが違うものを持っている。
人間関係は脇に置いて、3人分を一通り読んで、私にしかないものがあることに気付いた。
妹2人と決定的に違っていたからわかった。
妹たちは目に見える世界のことに基本はテーマがあるし、現実的だったり現世的な感じにテーマが集約されている。
私のは明らかに違っていて、やたらと見えない世界の法則と現実を結びつけるとか、物事全体を眺めてそこから絶対的なものを見つけ出すとか、言うなれば魂や無意識の領域の話がとにかく多い。
そういうことがしやすい天体配置なのはこの間のホロスコープ鑑定を受けて知ったけれど、それにしても…という感じは否めない。
そうだ!と思い付いて、一緒にホロスコープ講座を取っている1人のクラスメートの人のものも見てみた。
その人とは同い年で誕生日が1日しか違わない。
多くの共通点がありながら、社会に打ち出すテーマの太陽と無意識を司る月、そして社会的な顔を表す地平線軸と社会的役割を表す子午線軸が全く違うから、誕生日が1日違いだなんてとても思えなかった。
私が非現実の世界をテーマとするなら彼女は現実の世界をテーマに、私が自分の理念を打ち出すのに戦うとしたら彼女は同じ頃見えない部分で手助けを得やすいと出る。
大げさに言ってるのではなく、私のものは本当に表現の中に「戦い」とか「捨て身の覚悟で飛び込む」とか「真っ先に敵陣に飛び込む」とかそんなんが出てくる。
何に驚いたって、この間の講座の日、彼女の口から「私、自分のホロスコープ好きです」と出たことだった。
私からしたら衝撃の発言だった。
前の日にS先生の鑑定を受けて、自分自身で生きていくしかないというのはわかったけれど、自分のホロスコープが好きだとは思わなかった。
これからそれを受け入れていこうか…みたいな感じで、だからその言葉に驚いた。
S先生からも講座のU先生からも実は私は同じことを言われている。
自分の宿命や運命に対して受け入れて生きていく生き方を応援する言葉だった。
私はそれを本当に形にできた時は、このブログでも書こうと考えている。
この間、このブログでS先生の鑑定で言われたことを箇条書きした中には書かなかった。
わざと省いた。
なぜならまだ私の中では受け入れられてないから。
多分今は受け入れようとしてる自分と受け入れたくない自分との間で折り合いがつかず葛藤してるんだろうなぁと思っている。
夜中に書いた文章(↑この記事の最初)の通りで、実際に起こっていることに対して自分の心がついていっていない。
怖いのと、心細いのとに加えて、私は自分自身に対してもかなり疑心暗鬼になっている。
色んなことがたまたまなんじゃないかとか、実は私が誇大妄想してるだけで全ては私とは無関係なんじゃないかとか。
逃げたい気持ちもまだたっぷりとある。
他の人の人生が羨ましくなることもある。
自分で今気付いてる能力的なものも、はっきり言って私は自分が適任だとは思わない。
他にもっと上手に使いこなせるとか人のために役立たせることができる人がいるんじゃないかとさえ思う。
しかも、それも気のせいじゃないかとさえ未だに私は思っている。
たまたま結果が出来過ぎなぐらい上手くいったけれど、本当はたまたま人が良くなったり、たまたま変わるきっかけになっただけなんじゃないかと思っている。
7/31 9:02
上の文章を書いた後、私は部屋のカーテンを閉め切って、ヒーリング用の音楽をかけた。
ノートに、出てきた記憶や感情を出たままの言葉で、そして出てきたタイミングで書き出した。
途中から涙もボロボロ出てきた。
1時間くらいそんなことをした後、違うことをしたくなって、しばらく開かなかった友達から借りた本を開いた。
今のタイミングで読むようになってたんだなと思いながら読み進めた。
本を読むうちに本を抑えている自分の右手を眺めた。
手を見てたらまた泣けてきた。
私は自分の手の形や見た目が好きじゃない。
自分の体に対して思うことはあれこれあるけれど、そして思うことの9割は否定するようなことだけれど、手も他の部位も私が好きじゃないとか見た目がブサイクだななんて思っていても、そんなの全く気にせずに黙って私の脳からの指令の通りに動いてくれてる。
私の意思に必ず添って、いつも黙って働いてくれてる。
そう思ったらまたまた泣けてきて、だから泣いていた。
手を見て泣いていた。
今日はその後も手に注目した。
手はプロのスーパーアシスタントだった。
ペンを握って文字を書いたり、エアコンのスイッチを切ったり、包丁を持って料理したり、指先で窓から入る夏の風を感じたり、箸を持って食べ物を口に運んだり、洗い物を器用にしたり、ハンドルを握ったり…。
風呂の中で本を読んだ時に気付いた。
私の目は文字を追って、心の中に物語を思い浮かべて…それに集中できるように手は黙って本を抑えて本が見えやすい位置にずっとセットしてくれてた。
ものすごい有能なアシスタントだった。
大事にしようと思った。
どんな時も文句の1つも言わずに働き続けてる自分の体を大事にしようと思った。
40年近く、故障することもほとんどなく常に私の意思に沿って働き続けてくれてたことに、本気で初めて感謝の念が湧いた。
しばらく気持ちの吐き出しに忙しくなりそうだし、その分感情の振り幅も凄くなりそうだけど、こんなの自分しか付き合えないから、できるとこまでやってみようと思う。
7/31 22:28
2018年7月31日火曜日
2018年7月30日月曜日
ホロスコープ鑑定〜東京編〜③振り返り
先日のホロスコープ鑑定の音声を一通りメモすることを終えた。
実際に3回以上は聞いていて、ノートにももちろん書いたし、そしてこのブログの備忘録としても書いた。
ブログに書こうと思って、それで書いて良かったなと思った。
人の目に触れるのであれば、S先生の言葉通りに書こうと考えたし、そしてわかるように補足説明もした。
結果的に、客観的に自分のホロスコープを見ることになって良かった。
メモをしながら、何でホロスコープ鑑定を2回もそれぞれ別の人から受けたのかがわかった。
1回目は、私の性格や特徴を読み解く内容が主だった。
そこにも私という人物がありありと描かれ、とても感動した。
そしてそれを一生の自分の取扱説明書にしたらいいと思った。
変な言い方ではあるけれど、1回目のホロスコープで私は夢や希望のような明るい一面を自分のホロスコープの中で見出した。
良いことが書いてあったとかではないけれど、自分が薄ぼんやりと思っていたこととホロスコープ鑑定書に書かれていた自分が重なった。
その重なりはとても嬉しかった。
だから、そのホロスコープ鑑定は生涯の中で最初で最後だと思った。
じゃあ何で2回目の鑑定を申し込んだのかな?と振り返って、思い出した。
3月の終わりに占星術家でビジネスを展開している海部舞さんの文章に出逢って、そこで自分のホロスコープを読めるようになりたいと思った。
自分を生きると思ったら、自分自身をきちんと知ることが大事だと思ったから。
だから4月から自力で読み解き始めたんだった。
読めば読むほど自分ではわからないことがたくさん出てきて、そしてそれを読める人は相当探さないといないだろうことも気付いてた。
自分で読むようになって気付いたことは、自分にしかわからない意味合いのものや、自分だからこそ引っかかるポイントがあることだった。
1回目の鑑定にはもちろん大満足している。
だけど、私が知りたいと切望した部分はまだベールが被されたままで、そこは自分で読み解くしかなかった。
だから私のホロスコープの読み方は、自分の知りたいこと中心だったから、ピンポイントの部分はいくつもわかったけれど全体像は余計とボンヤリとした。
そして全体像を読むにしても、絶対に外せないようなポイントがとにかくわからない。
もちろん調べたけれど、特殊すぎるのかどこにも情報がない。
いいところで、概要の説明とか他の人の似たものの読み解きの例で、じゃあ私のはどうやって読むの?というのがてんでわからなかった。
ホロスコープ初心者にはあまりにも難しすぎる私のホロスコープは、お手上げ状態だった。
だから、その本筋をストレートに客観的に専門的に見れる人から見てもらって、そして私にその意味を伝えて欲しかった。
それが今回のS先生の鑑定に繋がった。
S先生の鑑定は、私の人生の特徴や流れ、生まれ持ったもの、そうしたものを統括的に伝えてくれるものだった。
私の予想を遥かに上回る知識を持っておられて、見たままのものをとても丁寧に説明してもらえた。
言うなれば、前回がパソコンでいうところのソフトウェアの細かな中身の部分で、今回がハードウェアの本体の部分をそれぞれ見てもらった感じになった。
だから2回とも必要で、2回受けてようやく私自身も自分のことに納得できた。
そして、1回目が陽の部分なら2回目は陰の部分という風だった。
S先生から柔らかい口調と選ばれた言葉で、時々笑いも起こりながら説明されたことは、はっきり言って、そんなに明るい内容ではない。
暗いと言うよりも、あまりにも絶対的すぎて、たとえそれが受け取りたくないものでももうそうなってるから受け入れる他ない、そういうタイプのものだった。
例えば私が感じている「自分でコントロールできない人生の流れ」なんてのは、他の人たちからしたら「何言ってんの?」という感じだし、実際に言われたこともある。
私はこれまでそのことを「自分の努力や計画が足りない」とか「上手くいかないことを言い訳みたいに言うのは自分の甘えかもしれない」とか、そんな風にマイナス方向に捉えてた。
恵まれてるとかこんなに力があるのに活かさなくてもったいないとかもかなり言われた。
私は理解して欲しいとは言わないし、そんなこと望めないとはなからあきらめてる。
だけど、せめて否定だけはされたくない、本当にただそれだけの願いにも関わらず、私のその願いはあまりにも大きすぎるのかとにかく叶わなくて、私も私で傷付きたくないから適当に相手に合わせる術を身に付けるようになった。
自分が望む望まないなんてのとは関係なく人生が展開していく。
しかも展開するものは、どちらかと言えば望まないものの方が圧倒的に多い。
じゃあ選ばなきゃいいじゃんという話だけれど、選ばなくても自動的にそちらに運ばれてしまう、そんな風だった。
その流れこそがそもそも人生の設定として持ってきてるものだと今回S先生から教えてもらって初めて知った。
だから1つ前のブログ(ホロスコープ鑑定②)で、「設定通りの人生という意味なら百点満点」と言ったのは、そこに繋がる。
当の本人からしてみても、よくわからない人生の流れがある。
自分自身もだけど、自分の人生も読めない。
これは計画しても多分その通りに運ばないことの方が多い。
でもそれが人生の設定にあって、私の場合は大元がそれだから、生涯を通じてそのコントロールの効かない人生の流れには逆らえない。
(だから、慣れてくしかない。)
大きかったことは、これまでは自分を責めたり自分の至らない点を探したりもしたけれど、もうそういう性質の人生なんだとわかって、ある程度開き直れたのと、まぁ周りが何を言っても仕方ないなと思えたこと。
言いたい人には言わせておけばいい、そんな感じの視点がさらに一層強くなった。
近い人間関係ほど理解が得られないことや、そこでの安心感を得るのが難しいこともホロスコープに出ていた。
これまでも、不都合なもしくは理不尽な人間同士のやり取りがあるととことん分析する癖があって、なるべくあったことをあったままに見つめてきた。
そして自分に何ができて何ができないかも見ていった。
私はそこで何とか理解してもらおうなんてのはあきらめた。
さらに理解しない人たちを変えるなんてのはできないから、もう平行線は平行線のままでいいというところにまで行っている。
近しい人間関係から理解が得難いことも、ある意味慣れていくしかない。
決してマイナスの意味で言っていない。
そういう人間関係のクセがあるにも関わらず、それを捻じ曲げてまで美徳な人間関係を無理矢理作らなくていいということ。
そういう意味で、私は私で人との付き合い方を自分なりに模索したらいいと思っている。
救いだったのは、趣味とか同じ志を持つ仲間とかには恵まれるということ。
これはわかる。
私は20代の後半から、自分を真っ向から受け止めてくれる人というのに3人出逢えた。
特にそのうちの1人は、私の完全なる救世主だった。
その人は、私の本質を一発で見抜いた。
人生で初めて強がることをしなくて良い相手だった。
だから、そうした人間関係には恵まれてるし、私自身もそうした人間関係を大切に作っていくことを人生の目的の1つにしているから、今後は人との繋がり方は自分がいかに心地よくいられるかで判断していって大丈夫と思った。
無理してまで誰かと関係を持つというのはしなくていいだろうし、変に理想を掲げなくてもいい。
特に家族に関しては、程良い距離感を保つ他ないと思った。
それは家族が好きとか嫌いとかではなく、私が自分の身を守るための一番最適な手段だと今は思っている。
パートナーシップや男性との付き合い方なんてのは、あまりにもその通り過ぎてビックリした。
ホロスコープの勉強を始めた当初、どの本を読んでも私の異性関係は私が性に対して自由奔放でだらしなく、平気で浮気も不倫もして、相手を大事にしなくて飽きるとすぐに相手を取っ替え引っ替えみたいな、とにかくハチャメチャな小悪魔みたいな感じの書かれ方しか見当たらなかった。
たしかにその配置もあるけれど、それにしてもこのかけ離れた現実と説明は何だろう?と思ってた。
ところが今回S先生は全く別のところに焦点を当ててくれていて、それこそが私の異性関係そのものだった。
恋愛に奥手で、それゆえに結婚も遅れ、子どもも遅れ、さらには悪く出ると男性のやる気を潰してしまう…。
まさに!という感じだった。
恋愛が奥手、何をもって奥手とするかはわからないけれど、私は気持ちの切り替えがそんなにうまくないから、すぐ次みたいな風には基本いけない。
さらに痛手から立ち直るのにすごい時間を要するから、自ら恋愛に対して積極的に行こう!なんてのもない。
さらに言うと、女としての自分に自信が全くないから、そこを変に男の人から刺激されるとさらに自分が弱るから、それもあって積極的に恋愛にGO!GO!とはならない。
(自分の女性性に対しての強いコンプレックスもホロスコープにしっかりと出ていてビックリした!)
だから恋愛に関しては、よほどの事情や気持ちがないとそこまで動かない。
男性のやる気を潰すというか、プライドを傷ませるというのは、鑑定の時にすぐにどのことか思い付いてしまった。
これはちなみにカラクリがあって、私が否定したり相手を踏み倒したりするのではない(と私は思ってる)。
男の人が私の得意分野で勝負しようとすると、おかしなことになる。
多分私の得意分野は、凡人以上の力を発揮するぐらいの、ものによっては天才的な力を出すから、そこに勝負を挑もうとする人がいると厄介になる。
言うならば、私が子どもの頃習っていたピアノを、結婚式やバーなんかでピアノを弾くプロと張り合うみたいな、もしくはピアニストと張り合うみたいなそういう無茶ぶりをしようとするからおかしくなる。
私ならそんなの面倒だし敵わないのわかってるから最初から挑まない。
英語がわかりやすいけれど、このことで私はものすごい嫌な思いをしたことがある。
私にしたら、私は私で何年も積み重ねてそれでようやく到達したレベルだった。
決して楽したわけでもない。
そこと張り合おうとした男性がいた。
私はその人のことを賢い人で頭の良い人だと本気で思ってた。
ただ英語だけに関しては私の方が積み重ねの結果で少し上にいるのは仕方のないことだった。
他の教科に関しては、私はとてもじゃないけれど足元にも及ばないぐらいに賢い人なのは間違いなかった。
でも相手はそうはとらない。
私と張り合ってそして敵わないとわかると拗ねたり私への批判めいたものが始まって、はっきり言って面倒くさかった。
反対に、私を良い風に使ってくれた人もいた。
仕事で英語が必要になったその人は、私に英語の文章をいくつか書いてきておかしかったら見て欲しいし、私ぐらいの力をつけたいと、良い風に私を活用して、結果的に私は私のままで相手のやる気を引き出した(笑)!
だから、私からすると私がどうこうと言うよりも、相手の性格や人間性によって吉と出るか凶と出るかという感じがする。
ちなみにもう1つ別の場面でもあって、その時も私はすごく嫌だった。
その人は付き合った人ではなかったけれども、典型的な「ザ・男」みたいな人で、こういうタイプの人ともし付き合うことになったら私が大変だな…と有りもしない想像をしたことがあった。
私は張り合う気もなければ、相手の人には私にないものを持っているから尊敬してても、相手はいくつもある選択肢の中でわざわざピンポイントで私の専門分野(人の超パーソナルな話を聞くこと)を選び、そして私の方が多分圧倒的に経験も知識も上回っているから、敵わないとわかったら怒りみたいなのをぶつけてきた。
それ以外のことなら、あなたの方が私よりも何十倍と能力もあってできる人ですから!と言いたかったぐらい。
だから、選べる立場ではないけれど、今後誰かと付き合うにしても、私は自分がすることとは全く異業種の人の方がいいなと思ってる。
お互いに絶対に同じ土俵に立たないというのは、とても健全な境界線を引けるし、変な張り合いをしなくていい。
だけどS先生は言ってた。
「趣味の仲間とか同士からパートナーが出てきたりするんじゃないですか」と。
これも私は嫌だなとかなり思ってる。
先月から始まったヒーラーの男性Oさんとのレッスンを思い浮かべるとわかる。
あとコーチングのスクールに通ってた時の男性陣とか。
あれはやっぱり趣味とか興味関心の話であって、あんなの家に持ち込みたくないと私は思ってる。
気が休まらないから。
家でもその延長なんて私ははっきり言って嫌だなと思う。
家では普通においしくごはん食べるとか、ダラダラするとか、くだらないおしゃべりで盛り上がるとか、時には真面目な話をするとか、そういうのに強く憧れて仕方ない。
(ちなみにバツイチの男友達に言わせると、私みたいな結婚に夢見てばかりいるタイプは、理想と現実がわかってなくて面倒くさいと言われた…。)
今後「プライベートがない」というのがどういう意味でやって来るのかはわからないけれど、たしかに家でも思い付いたら思い付いたことをしてしまう。
心理系のワークなんかその最たるもので、私の中ではもはや趣味とか、健康的な人がやる体のストレッチみたいな感覚でやる。
だけど、パートナーシップまでもがそのプライベートがない感覚のものにはなって欲しくない。
もう1つ引っ掛かりを覚えたのは「天王星みたいな人が結婚するパートナーになりやすい」というフレーズ。
解釈的にはオリジナルな生き方とかユニークな人なのはいいけれど、「天王星みたいな人」と言われた時に良いイメージが出てこなかったのは気のせいだろうか…。
この場合のユニークは、面白いというのではなく、オンリーワンという意味。
好き勝手書いたけれど、結婚に関しては私はもうごちゃごちゃ言わない。
間違いなく面倒くさいタイプの人間の部類に入る私と結婚してもいいなんて思ってくれる人は、相当人間性が高くて心の広い人だと思ってる。
だからそんな奇跡的な人物に出逢えて結婚までできたとするなら、私はもう相手に感謝しか湧かない。
あと、殻を壊してまた新しい枠組みを作ってそこに向かうこともわかる。
殻を壊す直前というのは、自分の中で限界を感じている。
そこに留まれないわけでもないけれど、先が見えている。
そしてそこに留まる方が後々に面倒なことになったり、さらに自分の首を締めることになるのが目に見えてる。
だから思い切ってそこを抜け出す。
もしくは留まってはいけない場合、そこにしがみつこうとしても外部から強制終了がかかる。
いずれの場合も、自由になるわけではないし、むしろまた1から立て直しになるから面倒この上なかったりする。
でもそれが自分の人生の特徴ならもう仕方ないなと思う。
私は自分の人生が人よりも大変だとは思っていない。
だけど、もっと悠々自適に生きている人たちを見ていると、私は何を間違えているんだろう?とは常々思っていた。
だけど設定の通りに歩んでるかどうかを見たら、もうその通り過ぎてビックリした。
そして最後にS先生に言われたように、自分の星を好きになって慣れていくことが大事なんだと思った。
S先生の話を聞いてて、星に表れている自分の人生で好きだなと思ったことが1つあった。
太陽と月のシンボルがどちらも「奇跡」とか「非日常」を大切にするというところ。
私は「奇跡」という言葉の響きも好きだし、奇跡を発見するのも居合わせるのも聞くのも、とにかく好きでたまらない。
それは一期一会とか、その時にしかない特別なこととか、唯一無二とか、そうしたものを連想させる。
だからその時その瞬間にだけ存在したものとかには、それが人でもおしゃべりでも風景でも料理でも物でも、とにかく心惹かれる。
私は自分の太陽も月もシンボルは知っていたけれど、S先生に指摘されるまでそれが奇跡と結びついてるとは思っていなかった。
言われて初めて気づいて、そしてそれが自分の好きなものと組み合わされてるところに超感動した。
ちなみに。
短期決戦はかなり厳しいからそんな目標は立てないけれど、自分が死ぬ時に「愛しきかな我が人生」なんて気持ちで最後死ねたらいいなと思ってる。
人生の設定自体、自分が設定してきたとするなら何を間違えてこんなメチャクチャなものを詰め込んだのかと思うけれど、それでも最後の最後に自分の人生が最高に愛おしいと思えたらいいなぁと思う。
実際に3回以上は聞いていて、ノートにももちろん書いたし、そしてこのブログの備忘録としても書いた。
ブログに書こうと思って、それで書いて良かったなと思った。
人の目に触れるのであれば、S先生の言葉通りに書こうと考えたし、そしてわかるように補足説明もした。
結果的に、客観的に自分のホロスコープを見ることになって良かった。
メモをしながら、何でホロスコープ鑑定を2回もそれぞれ別の人から受けたのかがわかった。
1回目は、私の性格や特徴を読み解く内容が主だった。
そこにも私という人物がありありと描かれ、とても感動した。
そしてそれを一生の自分の取扱説明書にしたらいいと思った。
変な言い方ではあるけれど、1回目のホロスコープで私は夢や希望のような明るい一面を自分のホロスコープの中で見出した。
良いことが書いてあったとかではないけれど、自分が薄ぼんやりと思っていたこととホロスコープ鑑定書に書かれていた自分が重なった。
その重なりはとても嬉しかった。
だから、そのホロスコープ鑑定は生涯の中で最初で最後だと思った。
じゃあ何で2回目の鑑定を申し込んだのかな?と振り返って、思い出した。
3月の終わりに占星術家でビジネスを展開している海部舞さんの文章に出逢って、そこで自分のホロスコープを読めるようになりたいと思った。
自分を生きると思ったら、自分自身をきちんと知ることが大事だと思ったから。
だから4月から自力で読み解き始めたんだった。
読めば読むほど自分ではわからないことがたくさん出てきて、そしてそれを読める人は相当探さないといないだろうことも気付いてた。
自分で読むようになって気付いたことは、自分にしかわからない意味合いのものや、自分だからこそ引っかかるポイントがあることだった。
1回目の鑑定にはもちろん大満足している。
だけど、私が知りたいと切望した部分はまだベールが被されたままで、そこは自分で読み解くしかなかった。
だから私のホロスコープの読み方は、自分の知りたいこと中心だったから、ピンポイントの部分はいくつもわかったけれど全体像は余計とボンヤリとした。
そして全体像を読むにしても、絶対に外せないようなポイントがとにかくわからない。
もちろん調べたけれど、特殊すぎるのかどこにも情報がない。
いいところで、概要の説明とか他の人の似たものの読み解きの例で、じゃあ私のはどうやって読むの?というのがてんでわからなかった。
ホロスコープ初心者にはあまりにも難しすぎる私のホロスコープは、お手上げ状態だった。
だから、その本筋をストレートに客観的に専門的に見れる人から見てもらって、そして私にその意味を伝えて欲しかった。
それが今回のS先生の鑑定に繋がった。
S先生の鑑定は、私の人生の特徴や流れ、生まれ持ったもの、そうしたものを統括的に伝えてくれるものだった。
私の予想を遥かに上回る知識を持っておられて、見たままのものをとても丁寧に説明してもらえた。
言うなれば、前回がパソコンでいうところのソフトウェアの細かな中身の部分で、今回がハードウェアの本体の部分をそれぞれ見てもらった感じになった。
だから2回とも必要で、2回受けてようやく私自身も自分のことに納得できた。
そして、1回目が陽の部分なら2回目は陰の部分という風だった。
S先生から柔らかい口調と選ばれた言葉で、時々笑いも起こりながら説明されたことは、はっきり言って、そんなに明るい内容ではない。
暗いと言うよりも、あまりにも絶対的すぎて、たとえそれが受け取りたくないものでももうそうなってるから受け入れる他ない、そういうタイプのものだった。
例えば私が感じている「自分でコントロールできない人生の流れ」なんてのは、他の人たちからしたら「何言ってんの?」という感じだし、実際に言われたこともある。
私はこれまでそのことを「自分の努力や計画が足りない」とか「上手くいかないことを言い訳みたいに言うのは自分の甘えかもしれない」とか、そんな風にマイナス方向に捉えてた。
恵まれてるとかこんなに力があるのに活かさなくてもったいないとかもかなり言われた。
私は理解して欲しいとは言わないし、そんなこと望めないとはなからあきらめてる。
だけど、せめて否定だけはされたくない、本当にただそれだけの願いにも関わらず、私のその願いはあまりにも大きすぎるのかとにかく叶わなくて、私も私で傷付きたくないから適当に相手に合わせる術を身に付けるようになった。
自分が望む望まないなんてのとは関係なく人生が展開していく。
しかも展開するものは、どちらかと言えば望まないものの方が圧倒的に多い。
じゃあ選ばなきゃいいじゃんという話だけれど、選ばなくても自動的にそちらに運ばれてしまう、そんな風だった。
その流れこそがそもそも人生の設定として持ってきてるものだと今回S先生から教えてもらって初めて知った。
だから1つ前のブログ(ホロスコープ鑑定②)で、「設定通りの人生という意味なら百点満点」と言ったのは、そこに繋がる。
当の本人からしてみても、よくわからない人生の流れがある。
自分自身もだけど、自分の人生も読めない。
これは計画しても多分その通りに運ばないことの方が多い。
でもそれが人生の設定にあって、私の場合は大元がそれだから、生涯を通じてそのコントロールの効かない人生の流れには逆らえない。
(だから、慣れてくしかない。)
大きかったことは、これまでは自分を責めたり自分の至らない点を探したりもしたけれど、もうそういう性質の人生なんだとわかって、ある程度開き直れたのと、まぁ周りが何を言っても仕方ないなと思えたこと。
言いたい人には言わせておけばいい、そんな感じの視点がさらに一層強くなった。
近い人間関係ほど理解が得られないことや、そこでの安心感を得るのが難しいこともホロスコープに出ていた。
これまでも、不都合なもしくは理不尽な人間同士のやり取りがあるととことん分析する癖があって、なるべくあったことをあったままに見つめてきた。
そして自分に何ができて何ができないかも見ていった。
私はそこで何とか理解してもらおうなんてのはあきらめた。
さらに理解しない人たちを変えるなんてのはできないから、もう平行線は平行線のままでいいというところにまで行っている。
近しい人間関係から理解が得難いことも、ある意味慣れていくしかない。
決してマイナスの意味で言っていない。
そういう人間関係のクセがあるにも関わらず、それを捻じ曲げてまで美徳な人間関係を無理矢理作らなくていいということ。
そういう意味で、私は私で人との付き合い方を自分なりに模索したらいいと思っている。
救いだったのは、趣味とか同じ志を持つ仲間とかには恵まれるということ。
これはわかる。
私は20代の後半から、自分を真っ向から受け止めてくれる人というのに3人出逢えた。
特にそのうちの1人は、私の完全なる救世主だった。
その人は、私の本質を一発で見抜いた。
人生で初めて強がることをしなくて良い相手だった。
だから、そうした人間関係には恵まれてるし、私自身もそうした人間関係を大切に作っていくことを人生の目的の1つにしているから、今後は人との繋がり方は自分がいかに心地よくいられるかで判断していって大丈夫と思った。
無理してまで誰かと関係を持つというのはしなくていいだろうし、変に理想を掲げなくてもいい。
特に家族に関しては、程良い距離感を保つ他ないと思った。
それは家族が好きとか嫌いとかではなく、私が自分の身を守るための一番最適な手段だと今は思っている。
パートナーシップや男性との付き合い方なんてのは、あまりにもその通り過ぎてビックリした。
ホロスコープの勉強を始めた当初、どの本を読んでも私の異性関係は私が性に対して自由奔放でだらしなく、平気で浮気も不倫もして、相手を大事にしなくて飽きるとすぐに相手を取っ替え引っ替えみたいな、とにかくハチャメチャな小悪魔みたいな感じの書かれ方しか見当たらなかった。
たしかにその配置もあるけれど、それにしてもこのかけ離れた現実と説明は何だろう?と思ってた。
ところが今回S先生は全く別のところに焦点を当ててくれていて、それこそが私の異性関係そのものだった。
恋愛に奥手で、それゆえに結婚も遅れ、子どもも遅れ、さらには悪く出ると男性のやる気を潰してしまう…。
まさに!という感じだった。
恋愛が奥手、何をもって奥手とするかはわからないけれど、私は気持ちの切り替えがそんなにうまくないから、すぐ次みたいな風には基本いけない。
さらに痛手から立ち直るのにすごい時間を要するから、自ら恋愛に対して積極的に行こう!なんてのもない。
さらに言うと、女としての自分に自信が全くないから、そこを変に男の人から刺激されるとさらに自分が弱るから、それもあって積極的に恋愛にGO!GO!とはならない。
(自分の女性性に対しての強いコンプレックスもホロスコープにしっかりと出ていてビックリした!)
だから恋愛に関しては、よほどの事情や気持ちがないとそこまで動かない。
男性のやる気を潰すというか、プライドを傷ませるというのは、鑑定の時にすぐにどのことか思い付いてしまった。
これはちなみにカラクリがあって、私が否定したり相手を踏み倒したりするのではない(と私は思ってる)。
男の人が私の得意分野で勝負しようとすると、おかしなことになる。
多分私の得意分野は、凡人以上の力を発揮するぐらいの、ものによっては天才的な力を出すから、そこに勝負を挑もうとする人がいると厄介になる。
言うならば、私が子どもの頃習っていたピアノを、結婚式やバーなんかでピアノを弾くプロと張り合うみたいな、もしくはピアニストと張り合うみたいなそういう無茶ぶりをしようとするからおかしくなる。
私ならそんなの面倒だし敵わないのわかってるから最初から挑まない。
英語がわかりやすいけれど、このことで私はものすごい嫌な思いをしたことがある。
私にしたら、私は私で何年も積み重ねてそれでようやく到達したレベルだった。
決して楽したわけでもない。
そこと張り合おうとした男性がいた。
私はその人のことを賢い人で頭の良い人だと本気で思ってた。
ただ英語だけに関しては私の方が積み重ねの結果で少し上にいるのは仕方のないことだった。
他の教科に関しては、私はとてもじゃないけれど足元にも及ばないぐらいに賢い人なのは間違いなかった。
でも相手はそうはとらない。
私と張り合ってそして敵わないとわかると拗ねたり私への批判めいたものが始まって、はっきり言って面倒くさかった。
反対に、私を良い風に使ってくれた人もいた。
仕事で英語が必要になったその人は、私に英語の文章をいくつか書いてきておかしかったら見て欲しいし、私ぐらいの力をつけたいと、良い風に私を活用して、結果的に私は私のままで相手のやる気を引き出した(笑)!
だから、私からすると私がどうこうと言うよりも、相手の性格や人間性によって吉と出るか凶と出るかという感じがする。
ちなみにもう1つ別の場面でもあって、その時も私はすごく嫌だった。
その人は付き合った人ではなかったけれども、典型的な「ザ・男」みたいな人で、こういうタイプの人ともし付き合うことになったら私が大変だな…と有りもしない想像をしたことがあった。
私は張り合う気もなければ、相手の人には私にないものを持っているから尊敬してても、相手はいくつもある選択肢の中でわざわざピンポイントで私の専門分野(人の超パーソナルな話を聞くこと)を選び、そして私の方が多分圧倒的に経験も知識も上回っているから、敵わないとわかったら怒りみたいなのをぶつけてきた。
それ以外のことなら、あなたの方が私よりも何十倍と能力もあってできる人ですから!と言いたかったぐらい。
だから、選べる立場ではないけれど、今後誰かと付き合うにしても、私は自分がすることとは全く異業種の人の方がいいなと思ってる。
お互いに絶対に同じ土俵に立たないというのは、とても健全な境界線を引けるし、変な張り合いをしなくていい。
だけどS先生は言ってた。
「趣味の仲間とか同士からパートナーが出てきたりするんじゃないですか」と。
これも私は嫌だなとかなり思ってる。
先月から始まったヒーラーの男性Oさんとのレッスンを思い浮かべるとわかる。
あとコーチングのスクールに通ってた時の男性陣とか。
あれはやっぱり趣味とか興味関心の話であって、あんなの家に持ち込みたくないと私は思ってる。
気が休まらないから。
家でもその延長なんて私ははっきり言って嫌だなと思う。
家では普通においしくごはん食べるとか、ダラダラするとか、くだらないおしゃべりで盛り上がるとか、時には真面目な話をするとか、そういうのに強く憧れて仕方ない。
(ちなみにバツイチの男友達に言わせると、私みたいな結婚に夢見てばかりいるタイプは、理想と現実がわかってなくて面倒くさいと言われた…。)
今後「プライベートがない」というのがどういう意味でやって来るのかはわからないけれど、たしかに家でも思い付いたら思い付いたことをしてしまう。
心理系のワークなんかその最たるもので、私の中ではもはや趣味とか、健康的な人がやる体のストレッチみたいな感覚でやる。
だけど、パートナーシップまでもがそのプライベートがない感覚のものにはなって欲しくない。
もう1つ引っ掛かりを覚えたのは「天王星みたいな人が結婚するパートナーになりやすい」というフレーズ。
解釈的にはオリジナルな生き方とかユニークな人なのはいいけれど、「天王星みたいな人」と言われた時に良いイメージが出てこなかったのは気のせいだろうか…。
この場合のユニークは、面白いというのではなく、オンリーワンという意味。
好き勝手書いたけれど、結婚に関しては私はもうごちゃごちゃ言わない。
間違いなく面倒くさいタイプの人間の部類に入る私と結婚してもいいなんて思ってくれる人は、相当人間性が高くて心の広い人だと思ってる。
だからそんな奇跡的な人物に出逢えて結婚までできたとするなら、私はもう相手に感謝しか湧かない。
あと、殻を壊してまた新しい枠組みを作ってそこに向かうこともわかる。
殻を壊す直前というのは、自分の中で限界を感じている。
そこに留まれないわけでもないけれど、先が見えている。
そしてそこに留まる方が後々に面倒なことになったり、さらに自分の首を締めることになるのが目に見えてる。
だから思い切ってそこを抜け出す。
もしくは留まってはいけない場合、そこにしがみつこうとしても外部から強制終了がかかる。
いずれの場合も、自由になるわけではないし、むしろまた1から立て直しになるから面倒この上なかったりする。
でもそれが自分の人生の特徴ならもう仕方ないなと思う。
私は自分の人生が人よりも大変だとは思っていない。
だけど、もっと悠々自適に生きている人たちを見ていると、私は何を間違えているんだろう?とは常々思っていた。
だけど設定の通りに歩んでるかどうかを見たら、もうその通り過ぎてビックリした。
そして最後にS先生に言われたように、自分の星を好きになって慣れていくことが大事なんだと思った。
S先生の話を聞いてて、星に表れている自分の人生で好きだなと思ったことが1つあった。
太陽と月のシンボルがどちらも「奇跡」とか「非日常」を大切にするというところ。
私は「奇跡」という言葉の響きも好きだし、奇跡を発見するのも居合わせるのも聞くのも、とにかく好きでたまらない。
それは一期一会とか、その時にしかない特別なこととか、唯一無二とか、そうしたものを連想させる。
だからその時その瞬間にだけ存在したものとかには、それが人でもおしゃべりでも風景でも料理でも物でも、とにかく心惹かれる。
私は自分の太陽も月もシンボルは知っていたけれど、S先生に指摘されるまでそれが奇跡と結びついてるとは思っていなかった。
言われて初めて気づいて、そしてそれが自分の好きなものと組み合わされてるところに超感動した。
ちなみに。
短期決戦はかなり厳しいからそんな目標は立てないけれど、自分が死ぬ時に「愛しきかな我が人生」なんて気持ちで最後死ねたらいいなと思ってる。
人生の設定自体、自分が設定してきたとするなら何を間違えてこんなメチャクチャなものを詰め込んだのかと思うけれど、それでも最後の最後に自分の人生が最高に愛おしいと思えたらいいなぁと思う。
2018年7月29日日曜日
細胞の記憶
『人を好きでいる目的は彼女になることだけじゃないよね。って思う。』
細く細く不定期開催している手紙の整理をしていた時に見つけた言葉だった。
私は時々「この子と友達になりたい‼︎‼︎」という気持ちにさせられる子に出逢う。
この手紙の女の子もそうだった。
こんな素敵な言葉を発する手紙はもちろん永久保存版となる。
今日は朝から会いたくて会いたくてでも会えないのはわかっていて、そうしたら猛烈に寂しくなって…みたいな始まりだった。
最近考えることの1つに、この行き場のない気持ちは最後どんな風に終わりを迎えるんだろうということ。
私としてもこんなに長くダラダラとくるつもりはなかったから、この想定外のことに自分の身の置き所のなさにたじろいでる。
おとといだったのか忘れたけれど、私はもう繋がりなんかなければその人に関するようなものは何も見ないし、もし繋がりの可能性があるなら何かを見るだろうと思って車を走らせてた。
家に着くまで何を見ることもなく、あぁやっぱり何もないよね、と結論づけて家に入った。
もう全ては終わりに向かっていて、「何もない」ことがこの出逢いの全てなんだろう、ただ私がそれを受け入れられないだけだと考えたりもした。
その1時間後ぐらいにご飯を食べてた時のこと。
テレビでは旅番組的なものをしていて、芸能人が地元の人に観光スポットを聞いているシーンが映った。
シーンはすぐに変わる。
本当に一瞬だった。
背景の画面に床屋のあの白と赤と青のクルクルみたいな看板が映った。
縦型のポールの方じゃなくて、店の壁に取り付けるタイプの正方形の看板のようなものの方。
そこにその人の名字が、要は店名が出ていた。
画面全体の20分の1ぐらいの大きさで、よくあんな一瞬の間に目でキャッチできたなと感心した。
どうしてこうもあまのじゃくみたいなサインを見せられるかな…と思いながら、半分は嬉しい気持ち、半分はやるせない気持ちでその画面を見た。
こういったサインもそうだし、体感覚もさらに混乱の元になっている。
体の方は感覚としてやってくるから、それを私が勘違いして意味付けを誤ってる可能性ももちろんある。
だけど、自分の方で湧き上がらせてる感覚としては、ずい分と普段の感覚とは違う。
この感覚に関しては、もしもし本人に会えることがあれば直接聞いてみたいと思っている。
今日も今日で、新聞に月1ぐらいのペースで入ってくる小冊子を見た。
新聞さえ読まない日々になって早半年、そういうものを手にすることさえ珍しかった。
何の気なしに見てたら、突然その人の名前がドンと出てきた。
今度は下の名前。
毎日何のアピールかは知らないけれど、忘れる努力なんてする方がアホらしくなりそうな事態になっている。
今思えば、毎日会えてた時の方がイレギュラーだったんだなぁと思う。
生きてることそのものが喜びだった。
大げさに言ってるのではなく、本気で喜びを感じてた。
会えることが嬉しかった。
自分も生きてその人も生きて同じ場所にいられる、ただそれだけで私は嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
その人がいるだけで嬉しいとか、喜びを感じるとか、そんな人にあと生涯何人に会えるだろうと思う。
その人に会えるだけで全身の細胞という細胞が喜びで満たされるなんていう体験、そうそうない。
去年の夏、生きることや命がとてもリアルだった。
何かが1つでも違っていたら絶対に存在しなかった瞬間瞬間を味わってた。
数日前、東京でホロスコープ鑑定を受けた後に思った。
その人は、私の人生においてなかなかシビアな時に登場してきた人だった。
ホロスコープによれば、本来痛みとか困難をかなり伴う期間だったと思う。
命万歳!みたいなところからは程遠い変容の時期に入っていった頃だった。
だけど、私はその時を喜びでいっぱいにしていた。
その人がいてくれたおかげで、私の痛みのような時期は痛みではなくなった。
後から痛みも生まれたけれど、それは私が自らそのスイッチを入れたものだから仕方ない。
スイッチを入れなかったとするなら、喜びだけで全てを満たすことができたと思う。
寂しさがぐっとせり上がってくる時、体の末端から中心にかけて痛みや緊張が走る。
私はすぐに誤魔化してしまうけれど、あの体で感じる寂しさは尋常じゃない。
細胞中で喜びを感じた分、寂しさも細胞中で感じるらしい。
寂しくて体が痛くなるなんて聞いたことない。
でも不思議と痛くなる。
寂しさと体の痛みのメカニズムなんて知らないけれど、本当にそうなってる。
今日も寂しさが体の奥の方から出てきた時、体の末端の方から痛みが一瞬にして姿を現した。
条件反射で私は寂しさを消そうと体の違うところに瞬時に力を入れた。
そこに意識が向くと、寂しさの痛みはとりあえず消える。
寂しさは消えなくても、ちょっとだけ濃度が薄まる。
ちなみに先に書いた体感覚はもっと別物で、寂しくて体が痛いのは自分の感覚だってわかる。
引きこもってた時だったのか、いつだったのかは忘れたけれど、「寂しい」ってすごい感情だなと感動したことがある。
そもそも誰かがいなくて寂しいとなるには、そのそもそもの誰かと出逢っていないといけなくて、そしてその人が寂しさを連れてくるぐらいに自分の中で特別でないといけない。
だから、これは誰かがいないと成立しない感情なんだなと思った。
もちろん1人でも理由なく寂しくはなるけれど、それとこれとは違う。
人を伴う寂しさは、まず「出逢う」ところからスタートしないといけない。
そしてそんな気持ちになれるほどの相手と知り合えたそのことが凄いんだと知った。
その人と初めて顔を合わせた日、まさかあの笑顔が後に寂しさというすごい爆弾を仕掛けてくる人物だなんて想像さえできなかった。
最初の日の他の人たちのことは綺麗さっぱり忘れたけれど、その人のことだけは鮮明に記憶に残ってる。
忘れっぽい私がなぜか覚えた人だった。
初対面で記憶に残ってる人なんて、私の場合数人しかいない。
しかもその数人は、独特だったり、後に仲良くなっても苦手だと思って残った人たちだった。
だけど、その人だけは最初から色んな意味で違ってた。
そのことに気付いたのはずっと後でも、それでもその人みたいに印象に残った人は人生で今のところ他にいない。
ヒーリングのことを教えてもらってる中で覚えたこと。
人間の体の中で3つの部分から一番エネルギーが出ていて、その3つの状態を見るとその人のエネルギーがわかるとのこと。
私は他の2つの部位のエネルギーは見てもわからないから判断できないけれど、唯一その中の1つだけは私でもわかる。
目を見たらわかると言われた。
目を覚えてる。
あの日のその人の目はとてもきれいで優しい目をしてた。
その人がまとってる空気も心地よさそうなものを発してたし、全身から出ているものがとにかく良かった。
私は「イケメンだから」というとんでもない理由で一括りにしてしまったけれど、あれはイケメンだからじゃないと今は思う。
あの人が発してるものすべてに私は一瞬で引き込まれていたんだと思う。
本人は無自覚かもしれないけれど、本当にすごく良いものを持ってる人だというのはわかる。
だから強烈に印象に残ったし、それは最後まで変わらなかった。
私に対してはどんどん重苦しいものへと変化したけれども、それでもその人の元々持っているものは本当に良いものでそれはみんなが持ちたくても持てるものではないものだった。
本人は全力で否定してきそうだけれど、本当に自然に身についてるものがすごく良いものだったことは間違いない。
初対面の日なんていうのは、私の中では全く何の気持ちも動いてなかったから、純粋にその人の人となりを見ていたと思う。
初対面という枠組みの中でなら、1000人どころかもっとたくさんの人に人生で出会ったと思う。
だけど、その人を見た時に感じたあの独特の良さは、これまで1人としていなかった。
私の余計な色メガネなくして見ていたから、私のあの日の感覚は合ってると思う。
そして初めての日、その目を見てその人を見て私は言いようのない安心感を覚えた。
社会人になってから勤めた仕事で、初めてのことだった。
指折り数えたらそこは11個目の職場(中には1つの仕事で3つの事務所を行き来してた時もある)で、当然どこに行くにしても毎回最初の挨拶はあるわけで、まず安心感なんてのは皆無だった。
だけど、唯一その人を見て、安心した。
こんな人がいてくれる職場なら大丈夫だろうと。
緊張しまくりだったけれど、なぜか安心できたという前代未聞の体験をした。
こういう出逢いは狙って手にできるものじゃない。
これから人生しばらくきつくなるから、まぁその緩和剤としてこの人間をおまえに出逢わせてあげよう、そんな風に決定されてその人は私の人生に送り込まれてきたのかもしれない。
だから本当ならその人の役目はもうすでに終わってるのかもしれない。
もしかしたら私が手出しすることがアウトだったのかもしれない。
まぁいずれにしても、いないととてつもなく寂しさを与えてくる人物には間違いない。
こんな予定じゃなかったのに…と思う。
ちなみに怖いから、相手側からの視点はシャットアウトして見ないようにしている。
相手にしたら、単なる迷惑材料が誤配送されてしまった、そんな風になっていそうだから。
7/29 18:43
細胞マジックとでも呼べばいいんだろうか。
上の文章を書いてる途中から、私は当時を思い出してやたらとしあわせな気分に気付くとなっていた。
瞬間瞬間を思い出して、心は当時の感じを再現していた。
私はその人のことを思う時も、それに気付いて打ち消そうとしてた時も、違う違うと否定しまくっていた時も、要はどんな風にしてもその人がいた。
それは朝起きてから夜寝るまで続いて、さらには夢の中もその状態で夢を見てたと思う。
だから、ある意味すっごく忙しかった。
忙しかったおかげで、水面下で起きてるようなことには何も気付かず、いずれ気付く時は来るにしても、少なくともその人が1日中を占めてた当時は、私には毎日生きる意味と楽しみがあった。
それは細胞が覚えてるんだと気付いた。
時間も随分とたくさん経過したし、視覚でその人の姿を捉えることもなくなったし、聴覚でその人の声を自分の中に響かせることもなくなった。
だけど、3ヶ月ほど細胞中でその人を捉えていたから、今思い出していると当時の感じのまま思い返される。
寂しさよりも当時の明るい感じに包まれていた感覚を思い出した。
すごいことだなと我ながら感心した。
体で覚えたことは忘れない。
同じ空間で1メートルくらいの距離感にいて、そして相手の目を見てまとってる空気を感じて、何気ない1日のはずだった。
それが1年先にも影響を及ぼすほどの出来事だなんて、当然想像さえしていなかった。
名刺の名前を見て私は驚いた。
その名前は入口にある貼り紙を見て、顔を合わせる前から知っていた。
勝手に自分よりも年上の人だと決めつけていた。
だから名刺を見てその名前の人だと知り、そして見た目には私より年下というかうんと若く見えて、名前とのギャップに驚いた。
今振り返れば、名前もすぐに覚えた。
私は、初対面どころか、その後も名前や顔を覚えるのが基本苦手で、当時も名前を覚えるためにいの一番にメモ帳に名前と席を書いた。
なんなら私は一番お世話になる人の名前すら最初の2日ほど覚えられなかったほどだった。
名前を覚えられなくて、周りの人がその人を呼ぶ時に耳をダンボにしてた。
だけど私はよく考えてみれば、その人の名前だけは一番覚えなくても差し支えなかったのに一番に覚えていた。
今手元にある名刺は、唯一私がその人に出逢えたという証拠品になっている。
時々、全てが幻とか夢の中で起きたことのように思う時があって、そうした時に名刺を見てリアルに起こったことだと確認する。
仕事のことはほぼほぼ忘れたけれど、その人と最初に顔を合わせた瞬間のことははっきりと覚えている。
そこだけ切り取ったかのように覚えている。
そしてその人が放ってた空気も記憶にしっかりとある。
『人を好きでいる目的は彼女になることだけじゃないよね。って思う。』
昼間手紙の整理をしてた時に、手が止まった。
高校生の私が受け取った手紙だった。
私は何にもなれなかったけれど、私はその人の何かになるために出逢ったわけじゃないと思う。
私からしてみたら、生きる喜びを教えてくれた人だった。
生きてるって素晴らしい、今日も生きてあなたに会えるって素晴らしい、そういう感覚を私の人生に吹き込んでくれた人だった。
7/29 22:48
細く細く不定期開催している手紙の整理をしていた時に見つけた言葉だった。
私は時々「この子と友達になりたい‼︎‼︎」という気持ちにさせられる子に出逢う。
この手紙の女の子もそうだった。
こんな素敵な言葉を発する手紙はもちろん永久保存版となる。
今日は朝から会いたくて会いたくてでも会えないのはわかっていて、そうしたら猛烈に寂しくなって…みたいな始まりだった。
最近考えることの1つに、この行き場のない気持ちは最後どんな風に終わりを迎えるんだろうということ。
私としてもこんなに長くダラダラとくるつもりはなかったから、この想定外のことに自分の身の置き所のなさにたじろいでる。
おとといだったのか忘れたけれど、私はもう繋がりなんかなければその人に関するようなものは何も見ないし、もし繋がりの可能性があるなら何かを見るだろうと思って車を走らせてた。
家に着くまで何を見ることもなく、あぁやっぱり何もないよね、と結論づけて家に入った。
もう全ては終わりに向かっていて、「何もない」ことがこの出逢いの全てなんだろう、ただ私がそれを受け入れられないだけだと考えたりもした。
その1時間後ぐらいにご飯を食べてた時のこと。
テレビでは旅番組的なものをしていて、芸能人が地元の人に観光スポットを聞いているシーンが映った。
シーンはすぐに変わる。
本当に一瞬だった。
背景の画面に床屋のあの白と赤と青のクルクルみたいな看板が映った。
縦型のポールの方じゃなくて、店の壁に取り付けるタイプの正方形の看板のようなものの方。
そこにその人の名字が、要は店名が出ていた。
画面全体の20分の1ぐらいの大きさで、よくあんな一瞬の間に目でキャッチできたなと感心した。
どうしてこうもあまのじゃくみたいなサインを見せられるかな…と思いながら、半分は嬉しい気持ち、半分はやるせない気持ちでその画面を見た。
こういったサインもそうだし、体感覚もさらに混乱の元になっている。
体の方は感覚としてやってくるから、それを私が勘違いして意味付けを誤ってる可能性ももちろんある。
だけど、自分の方で湧き上がらせてる感覚としては、ずい分と普段の感覚とは違う。
この感覚に関しては、もしもし本人に会えることがあれば直接聞いてみたいと思っている。
今日も今日で、新聞に月1ぐらいのペースで入ってくる小冊子を見た。
新聞さえ読まない日々になって早半年、そういうものを手にすることさえ珍しかった。
何の気なしに見てたら、突然その人の名前がドンと出てきた。
今度は下の名前。
毎日何のアピールかは知らないけれど、忘れる努力なんてする方がアホらしくなりそうな事態になっている。
今思えば、毎日会えてた時の方がイレギュラーだったんだなぁと思う。
生きてることそのものが喜びだった。
大げさに言ってるのではなく、本気で喜びを感じてた。
会えることが嬉しかった。
自分も生きてその人も生きて同じ場所にいられる、ただそれだけで私は嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
その人がいるだけで嬉しいとか、喜びを感じるとか、そんな人にあと生涯何人に会えるだろうと思う。
その人に会えるだけで全身の細胞という細胞が喜びで満たされるなんていう体験、そうそうない。
去年の夏、生きることや命がとてもリアルだった。
何かが1つでも違っていたら絶対に存在しなかった瞬間瞬間を味わってた。
数日前、東京でホロスコープ鑑定を受けた後に思った。
その人は、私の人生においてなかなかシビアな時に登場してきた人だった。
ホロスコープによれば、本来痛みとか困難をかなり伴う期間だったと思う。
命万歳!みたいなところからは程遠い変容の時期に入っていった頃だった。
だけど、私はその時を喜びでいっぱいにしていた。
その人がいてくれたおかげで、私の痛みのような時期は痛みではなくなった。
後から痛みも生まれたけれど、それは私が自らそのスイッチを入れたものだから仕方ない。
スイッチを入れなかったとするなら、喜びだけで全てを満たすことができたと思う。
寂しさがぐっとせり上がってくる時、体の末端から中心にかけて痛みや緊張が走る。
私はすぐに誤魔化してしまうけれど、あの体で感じる寂しさは尋常じゃない。
細胞中で喜びを感じた分、寂しさも細胞中で感じるらしい。
寂しくて体が痛くなるなんて聞いたことない。
でも不思議と痛くなる。
寂しさと体の痛みのメカニズムなんて知らないけれど、本当にそうなってる。
今日も寂しさが体の奥の方から出てきた時、体の末端の方から痛みが一瞬にして姿を現した。
条件反射で私は寂しさを消そうと体の違うところに瞬時に力を入れた。
そこに意識が向くと、寂しさの痛みはとりあえず消える。
寂しさは消えなくても、ちょっとだけ濃度が薄まる。
ちなみに先に書いた体感覚はもっと別物で、寂しくて体が痛いのは自分の感覚だってわかる。
引きこもってた時だったのか、いつだったのかは忘れたけれど、「寂しい」ってすごい感情だなと感動したことがある。
そもそも誰かがいなくて寂しいとなるには、そのそもそもの誰かと出逢っていないといけなくて、そしてその人が寂しさを連れてくるぐらいに自分の中で特別でないといけない。
だから、これは誰かがいないと成立しない感情なんだなと思った。
もちろん1人でも理由なく寂しくはなるけれど、それとこれとは違う。
人を伴う寂しさは、まず「出逢う」ところからスタートしないといけない。
そしてそんな気持ちになれるほどの相手と知り合えたそのことが凄いんだと知った。
その人と初めて顔を合わせた日、まさかあの笑顔が後に寂しさというすごい爆弾を仕掛けてくる人物だなんて想像さえできなかった。
最初の日の他の人たちのことは綺麗さっぱり忘れたけれど、その人のことだけは鮮明に記憶に残ってる。
忘れっぽい私がなぜか覚えた人だった。
初対面で記憶に残ってる人なんて、私の場合数人しかいない。
しかもその数人は、独特だったり、後に仲良くなっても苦手だと思って残った人たちだった。
だけど、その人だけは最初から色んな意味で違ってた。
そのことに気付いたのはずっと後でも、それでもその人みたいに印象に残った人は人生で今のところ他にいない。
ヒーリングのことを教えてもらってる中で覚えたこと。
人間の体の中で3つの部分から一番エネルギーが出ていて、その3つの状態を見るとその人のエネルギーがわかるとのこと。
私は他の2つの部位のエネルギーは見てもわからないから判断できないけれど、唯一その中の1つだけは私でもわかる。
目を見たらわかると言われた。
目を覚えてる。
あの日のその人の目はとてもきれいで優しい目をしてた。
その人がまとってる空気も心地よさそうなものを発してたし、全身から出ているものがとにかく良かった。
私は「イケメンだから」というとんでもない理由で一括りにしてしまったけれど、あれはイケメンだからじゃないと今は思う。
あの人が発してるものすべてに私は一瞬で引き込まれていたんだと思う。
本人は無自覚かもしれないけれど、本当にすごく良いものを持ってる人だというのはわかる。
だから強烈に印象に残ったし、それは最後まで変わらなかった。
私に対してはどんどん重苦しいものへと変化したけれども、それでもその人の元々持っているものは本当に良いものでそれはみんなが持ちたくても持てるものではないものだった。
本人は全力で否定してきそうだけれど、本当に自然に身についてるものがすごく良いものだったことは間違いない。
初対面の日なんていうのは、私の中では全く何の気持ちも動いてなかったから、純粋にその人の人となりを見ていたと思う。
初対面という枠組みの中でなら、1000人どころかもっとたくさんの人に人生で出会ったと思う。
だけど、その人を見た時に感じたあの独特の良さは、これまで1人としていなかった。
私の余計な色メガネなくして見ていたから、私のあの日の感覚は合ってると思う。
そして初めての日、その目を見てその人を見て私は言いようのない安心感を覚えた。
社会人になってから勤めた仕事で、初めてのことだった。
指折り数えたらそこは11個目の職場(中には1つの仕事で3つの事務所を行き来してた時もある)で、当然どこに行くにしても毎回最初の挨拶はあるわけで、まず安心感なんてのは皆無だった。
だけど、唯一その人を見て、安心した。
こんな人がいてくれる職場なら大丈夫だろうと。
緊張しまくりだったけれど、なぜか安心できたという前代未聞の体験をした。
こういう出逢いは狙って手にできるものじゃない。
これから人生しばらくきつくなるから、まぁその緩和剤としてこの人間をおまえに出逢わせてあげよう、そんな風に決定されてその人は私の人生に送り込まれてきたのかもしれない。
だから本当ならその人の役目はもうすでに終わってるのかもしれない。
もしかしたら私が手出しすることがアウトだったのかもしれない。
まぁいずれにしても、いないととてつもなく寂しさを与えてくる人物には間違いない。
こんな予定じゃなかったのに…と思う。
ちなみに怖いから、相手側からの視点はシャットアウトして見ないようにしている。
相手にしたら、単なる迷惑材料が誤配送されてしまった、そんな風になっていそうだから。
7/29 18:43
細胞マジックとでも呼べばいいんだろうか。
上の文章を書いてる途中から、私は当時を思い出してやたらとしあわせな気分に気付くとなっていた。
瞬間瞬間を思い出して、心は当時の感じを再現していた。
私はその人のことを思う時も、それに気付いて打ち消そうとしてた時も、違う違うと否定しまくっていた時も、要はどんな風にしてもその人がいた。
それは朝起きてから夜寝るまで続いて、さらには夢の中もその状態で夢を見てたと思う。
だから、ある意味すっごく忙しかった。
忙しかったおかげで、水面下で起きてるようなことには何も気付かず、いずれ気付く時は来るにしても、少なくともその人が1日中を占めてた当時は、私には毎日生きる意味と楽しみがあった。
それは細胞が覚えてるんだと気付いた。
時間も随分とたくさん経過したし、視覚でその人の姿を捉えることもなくなったし、聴覚でその人の声を自分の中に響かせることもなくなった。
だけど、3ヶ月ほど細胞中でその人を捉えていたから、今思い出していると当時の感じのまま思い返される。
寂しさよりも当時の明るい感じに包まれていた感覚を思い出した。
すごいことだなと我ながら感心した。
体で覚えたことは忘れない。
同じ空間で1メートルくらいの距離感にいて、そして相手の目を見てまとってる空気を感じて、何気ない1日のはずだった。
それが1年先にも影響を及ぼすほどの出来事だなんて、当然想像さえしていなかった。
名刺の名前を見て私は驚いた。
その名前は入口にある貼り紙を見て、顔を合わせる前から知っていた。
勝手に自分よりも年上の人だと決めつけていた。
だから名刺を見てその名前の人だと知り、そして見た目には私より年下というかうんと若く見えて、名前とのギャップに驚いた。
今振り返れば、名前もすぐに覚えた。
私は、初対面どころか、その後も名前や顔を覚えるのが基本苦手で、当時も名前を覚えるためにいの一番にメモ帳に名前と席を書いた。
なんなら私は一番お世話になる人の名前すら最初の2日ほど覚えられなかったほどだった。
名前を覚えられなくて、周りの人がその人を呼ぶ時に耳をダンボにしてた。
だけど私はよく考えてみれば、その人の名前だけは一番覚えなくても差し支えなかったのに一番に覚えていた。
今手元にある名刺は、唯一私がその人に出逢えたという証拠品になっている。
時々、全てが幻とか夢の中で起きたことのように思う時があって、そうした時に名刺を見てリアルに起こったことだと確認する。
仕事のことはほぼほぼ忘れたけれど、その人と最初に顔を合わせた瞬間のことははっきりと覚えている。
そこだけ切り取ったかのように覚えている。
そしてその人が放ってた空気も記憶にしっかりとある。
『人を好きでいる目的は彼女になることだけじゃないよね。って思う。』
昼間手紙の整理をしてた時に、手が止まった。
高校生の私が受け取った手紙だった。
私は何にもなれなかったけれど、私はその人の何かになるために出逢ったわけじゃないと思う。
私からしてみたら、生きる喜びを教えてくれた人だった。
生きてるって素晴らしい、今日も生きてあなたに会えるって素晴らしい、そういう感覚を私の人生に吹き込んでくれた人だった。
7/29 22:48
ホロスコープ鑑定〜東京編〜②人生解体書
ホロスコープ鑑定士S先生から見てもらった私のホロスコープは、まさに私の人生そのものだった。
これまでずっと「何で?」と思っていたことも、その中でどんどん明らかになっていった。
それが自分の人生の設定そのものとするなら、たとえ今の私や過去の私がどうであっても、設定通りの人生という意味なら、百点満点の人生だと思う。
本当にたとえ無意識でも、ホロスコープ通りの人生が展開していたし、そしてこれからもホロスコープ通りの人生になっていくと思う。
ただ1つ違うのは、これまでは自分の人生に起こってくることに対して何の準備もなく、毎回すったもんだしながら訳のわからない波に呑み込まれていたけれど、今後はそういう習性のある人生だとわかった上で生きていけることだと思う。
他人の人生と比べられないから何とも言えないけれど、私の人生ははっきり言って自分ではコントロールの効かないことがかなりある。
例えば、自分が頑張ったり楽しんだりしたら何とかなる、というものではなくて、どんなに努力したり望んだりしても叶わないことや、反対に逃げたくても逃げられないものがあること、そういうちょっと自分の力を超えた部分での人生というのが私の人生だった。
S先生も言葉を選んではいたけれども、隠すことなく私のホロスコープに表れているものをそのまま読み解いてくれた。
生きづらさの理由もホロスコープにきちんと表れてくれてたし、その対処法とは違うけれど自分のためにできることもわかった。
ちなみにできることは、「自分の星を好きになること、そしてそれに慣れていくこと」だとS先生は言った。
私もその言葉に同感だった。
回避するとか、やらないとか、逃げるとか、そうした選択肢は私の場合ない、ということはわかった。
一抹の望みをかけて、生涯その流れなのかと聞けば「そうですね」、やると出ている星に関してやらないという選択肢があるのかと聞けば「それはないですね〜」とさらりとでもことごとく否定された。
だから、自分の星を好きになる、慣れていく、というのは、ある意味それしか方法がないんだと良い意味であきらめられた。
【具体的に言われたこと】
・隠れたものを知る力、洞察力が強い。
・「鷹の目」と呼ばれるもので、高い位置から小さなものをピンポイントで見つけたり、反対に小さな小窓から世界全体を見渡そうとする力がある。
→興味の方向として、背後に隠れている法則を知りたい。
・ブーメラン(ホロスコープ用語)があると正直生きづらい
(ゼロが普通で1つでもあれば「多い」に入るのかな?私は2つある)
・(上のブーメランに付け加えると)1人の中に天才が2人同居しているような感じになって、船に船頭が2人いると沈むのと同じで、お互いに相容れない。そしてお互いに譲らないし自分を曲げない。
普通の成功とかこの人真似てたら大丈夫みたいなのには当てはまらないから、生きていく上でのモデルもいなくて、特殊な生き方になってきやすい。
(単純計算すると、私はブーメランが2つあるから、自分の中に4人の全く相容れない人たちがいる感じになっている)
・扱いづらい部類のホロスコープに入ってくる。
(「私からしたらしんどいですね、これ」とS先生から言われた私のホロスコープ…)
・頑固、マイペース
・自分の美意識・自意識にそぐわないことはあまりしたくない。
・保守的であまり冒険をしたがらない性質を帯びていながら、人間関係のストレスが強い傾向があるため、保守的ばかりでもいられない。
・2016年の春分の日のチャートと似ていて、春分の入口に対してその反対側に天王星が位置。その年、トランプ大統領が就任して、そんな風に人間関係において読めない出方をするチャートを私も持っている。
(春分の日の天体図は、その後1年間影響があるとされる。私は出生図がそうだから人生における人間関係の出方が読めない。)
・読めない、相手がどう出てくるかわからないそういう人間関係になりやすく、それが強いストレスをもたらしやすい。またそうした人間関係が強制的に働いてしまう傾向がある。
・天王星=刺激の強い、改革の星。天王星の色が濃い人たちと縁が出やすい。
・その天王星と月も角度(スクエア)を取っているため、子どもの頃からキツイ人間関係を経験したかもしれない。母親との関係も愛着や安心が必要な時期にそれが得られなかったり、まだ甘えたい時期に甘えられなかったり、いきなり近しい人がいなくなったりなど、突然人と距離ができてしまう体験をしたかもしれない。
・出会いは別れではないけれど、急に絶交されたり急に距離を取られたりする。
・身近な対人関係で安心感を得られない。
・結婚するとなったら天王星がかった人かな、とのこと。
要は、ユニークでオリジナルな生き方をする人。
・水瓶座の金星…変わり者。
ー男女の友情は成立する
ー博愛主義
ー近しい人間関係はわりとドライ
ー家族と遠い世界の子どもたちが同率になったりしやすい(血縁や地理的距離関係なく同一と見なす傾向)
ー遠く遠くに繋がっていく対人関係
・仕事が大事。キャリアを通して自分のアイデンティティを確立していくタイプ。
・仕事の肩書きを持つ。ヨッド(ホロスコープ用語)があるから、専門分野を元々作りやすい。
(ヨッド…別名「神の指先」と呼ばれるもので、ある特定の分野に従事することを人生の中で予定している。どちらかと言えば、性別や国籍なんかと一緒で個人の力では変えられない宿命的なものとされている。)
・仕事をする上で人間関係に恵まれやすい。広告塔やスポークスマンのような華のあるお仕事をすることもある。
・色んなコスチュームを着て色んなところに馴染んだり参加したりはできるけれども、100%の帰属感はなくて、ここ!という居場所は得にくい。
ただ、半分はどういう風にも変われるものを持っているから、どこにでも行けるタイプ。
・(水星+金星、頂点土星のヨッド)
ー年を取っても心の中はずっと年を取らない、ティーネイジャーのままみたいな感じになりやすい。
ー文才が出る
ー快適な文章能力や会話能力を持つ
ー心の中がいつまでも老けていかないから、普通心が老けると外面も老けるけど、心が老けないから年齢と共にますます年齢不詳な外見になりやすい
ー土星が効いているから、若い頃はじけていない、若くてチヤホヤされたというような体験もあまりないはず
ー50代後半になると、水星と金星が効いてきて、若い人たちと交流したり華やかになっていく
・(上記ヨッドに土星+火星のブーメラン)
ー男性で出た場合、不器用で屈折した難しい男性を引き寄せる。他の女の子ならちょいちょい選ばない人、だけど(武士俣さんなら)理解してあげられるんじゃないかなという人がくる。
ー愛の修行。
ーコンプレックス強めだったり、挫折を経験しまくってたりする男性を引き寄せやすい。
ー土星の力が強くなると、男性のやる気を潰しかねない。反対にうまくコントロールすると、相手にやる気を出させる。
・(太陽+ノードの合)
自分自身の責任ではないところで、何かのコミュニティや集団に属することがある。一族という場合もある。その部分が自分にとってしんどいものになりやすい傾向がある。
自分は自由だと思っても、育った環境や周りの環境から影響を受けやすい。
・男性に関しても、カルマ絡みの縁の人と縁を持ったりしやすい。
・趣味、芸事、遊びが仕事になっていくパターン。また、こうしたことを仲間やパートナーとシェアしやすい。
・仕事が終わってからの活動が人生の中で大きな位置を占めてくる。
・他人様の子どもや血の繋がらない人たちとの関わりもできやすい。
→「やり残した宿題」みたいなものとして今生に持ってきている課題の1つ。これまで仕事で数百人単位の子どもと関わったと伝えたところ、それとは別の形でまた関わり合いになるんじゃないかとのこと。
例えば、子連れの男性と結婚してその子どものお母さんになるとか、もしくは自分の子どもを産んでその子どもの配偶者との縁が強くなるなど、何かしらの形で血の繋がらない子どもとの縁を持つことになるだろうとのこと。
(説明は省くけれど、ホロスコープ的にきちんと論的な理由がある)
・太陽のシンボルが「夕食のために用意されたテーブル」で、「深い事情を聞かないから誰でも来ていいよ」というような場を人生の中で設けるだろう。誰でもウェルカムでひとときホッとしていきなさいよ、というようなみんなのための何らかの場を作る。
それは、さんざん過去生でもやってきたものだから得意で、要請があればやれてしまうところがある。
・「人間交差点」的な役割をする。生まれてすぐに皆既月食があったため、その影響が大きい。
誰かの重要なタイミングや、人と人とが出逢うタイミングに居合わせることが多い。
・予期しない流れやどうして自分の人生はこうなんだろう?というのは、私の場合、ホロスコープそのものの状態ももちろん関係しているけれど、もう1つ月食近くに生まれているというのも関係している。
・場を提供するだけじゃなく、人との接点になりやすい。
・パートナーとなる人も仲間から出やすい。
・パートナーと一緒に仕事をする、又はパートナーが仕事を手伝ってくれる。
・無意識のこと、秘密めいたもの、スピリチュアリティーなんかのことを仲間とシェアする。
・対人関係のストレスは1対1となると出やすいけれど、仲間とか友達といった交友関係では気の合った人たちと良い関係を築ける傾向にある。
・家族の縁が太い。
・月(無意識を司る)のシンボルが「ハウスボートのパーティー」で、だから友達が家に訪ねてきてパーティーしようとよくなってたのかもしれない。
・海外との縁、家に本がたくさんある、教育など、自分のルーツが広がるものを持っている。
・月が獅子座で、海王星や天王星とも組んでいるから、自分の好き勝手にしやすい。型にははまらないけれど、ルーツからは守られてる。
・心理的な居場所や安定感を必要とする。
・若い頃は放浪するかもしれないけれど、いずれは自分の場所を持って活動していく人になるんじゃないかと思われる。
・たくさんヨッド(私の場合3つ)組んでると、何らかの専門に通じてないといけない。
(ヨッドは1つあるだけでも通常は珍しいとされる中、私は3つあってさらにアルプスやブーメランと呼ばれるものも同時に形成されてる。ネットで調べた限り、それを全て持ってる人誰もいなかった。)
・海王星…微細な感覚を拾う、冥王星…拝み屋さん(祈祷師)とか何かを引き寄せる、水星…宇宙の法則を察知する
→直観やインスピレーションが湧きやすい
(それぞれの星単独でそうなるのではなく、私の場合はそれぞれの星が色んな条件と重なってそうなりやすい)
・2017年8月21日に海王星が社会的役割や使命なんかを表す軸に乗った。元々見えない力を相続・継承して持ってはいたけれども、ただ持っていただけで、それの看板を去年のそのあたりに上げることになった、とホロスコープ上では読める。
・スピリチュアルなドアが開いたのは、2016年の9月1日に日食が起こって、その起こった場所と同じ場所(軸)に私の個人天体の土星があって、その対角線上に火星、その火星の上には空の海王星がピッタリ重なっていて、さらには魂の課題や方向性を表すドラゴンヘッドも近くにある。それらの条件が重なったことで開いたと思われる。
・S先生いわく、日食1時間あたり1年影響すると試算されていて、その時は欠け始めから欠け終わりまで約3時間20分だから、3年と4ヶ月ほど、だから2019年から2020年にかけての年末年始ぐらいまで影響があるんだと思う(←今自分で時間を調べた)。
・自分の個人天体と蝕の起こる場所が重なると、古いものが出て新しいものが入ってくる流れになる。
・16年の秋以降、微妙な男性、色々難しい問題を抱えてる男性にモテる傾向にある(モテてはないけれど、確かに社会的にはハイスペックな人ではあったけれど私生活の面でとても傷付いた男性を紹介された)。
・自分の天体の上で蝕が起きるのは18年に1回ぐらいしかなく、そしてそうなった時はしばらくその時に来た流れに乗り合わせることになる。
・2020年の年末より何かを始める。それは秩序の中で発展していくもので、始めたらその後20年間はやり続けるもの。
具体的な舵取りの方向を決めて進めていくもの。
例としては、出産、結婚、所有する家のローン開始、会社の設立など。この時に何かしらのキャリアを始めた場合、死ぬまでやりますよというようなものになりやすい。
・2020年のキャリアはスピリチュアルなものになりやすい。私の場合はその頃海王星の扉が開くからとのこと。そして、それは今から始める、そういう流れに入ってる。
・しんどいけれど、レベルを上げてチャレンジする感じの流れ。だから今から始めてもいいこと。その頃、人生で設定してきたことをやる、とも考えられる。
・潰しのきく星回りではないけれど、このことならこの人しかいない!という星の配置になっている。だから、そこにはまると、絶対数が少ないから、依頼が殺到することになる。
・今漠然とイメージを持っているものに対して計画表を立てるのがいいと思う。
・神様にロックオンじゃないけれど、もうそれしか道がありませんという強制力が働いてる(土星+冥王星)。
海が好きで山なんか大嫌いなのに、エベレストに連れて行かれて山登り終わるまで下ろしてもらえない、そういうタイプの強制力。
・持って生まれたヨッドをやりなさいよ、という流れにすでに入ってる模様。そういうものを持って生まれてきた場合、死ぬまでやらずに貯蔵しておきますよ、というわけにはいかない。
・私の場合、ヨッドの1つが太陽+月+冥王星で構成されていて、月は過去生の太陽を表し、冥王星は先祖の意思を表す。表面上はやりたくないと思っていても、そこには先祖でもDNAでも神でもなんでもいいけれど、そういうものにロックオンされているから、やらないわけにはいかない。
しかももうスイッチが入っているから、やらざるを得ないところに来ている。
・2020年の年末に冥王星が自分の社会的役割を意味する軸に乗るまでには、何らかの肩書きを定めないといけない。内緒で勉強してるだけじゃ済まなくなってくる。
・「霊能者」と名乗るのは抵抗があるかもしれないけれど、そういうものになっていく。霊能者と言っても、誰かの真似はできなくて、自分の中にある何かと何かを組み合わせていくタイプで、その組み合わせたものを提供していくチャートになってる。
(注意:私自身は自分が霊能的なことができるとも思っていないし、やりたいとも思わない。普通にみんなができるかと言ったらできる人はとても少ないと言うより会ったことないちょっと変わった、見慣れない聞いたことない能力的なものはあるけれど、でもそれは「霊能」とは違うと思ってる)
・自分で組み合わせてメソッドを作っていかないといけない。
・こんなに重たいものが来てたら、覚悟しておいた方がいい。自分で自分の星を使うと言うよりも、星にどうぞ私をお使い下さい、というようなレベルになっている。
・流れとしては、次々にそういった謎が解けていく感じ。
・社会的役割を示すシンボル「紅茶の葉を読む女」にあるように、小さな事象と大きなことの関係性を読み解ける。無意識のメッセージの読み解きでもあるから、怖いものを見ることもあるかもしれない。
・(5ハウス土星)
ー恋愛が奥手になり、だから結婚も遅れ、子どもも遅れ…となりやすい。
(なりやすいも何もその通り過ぎ)
ー好きなことがそのまま仕事になりやすい
・好きなことが仕事→自分が好きなだけじゃなく、周りからもやってくれという要請を示すサインが(ヨッドと)一緒に入っているから、ニーズが出やすい。
・女性性のコンプレックスが強い。それを癒したい気持ちがあるものの、天体配置がハードで傷口に塩を塗るような方法になってる。
それだけだと傷をえぐるだけのアプローチが、そこに助っ人として水星と火星が入っている。
水星は、言葉を使ったコミュニケーションによって傷を癒そうとする。火星は、実際の男性との関係もそうだけど行動療法によって癒そうとする。
・普段から色々書いたりする→女性性の癒しになっている。
・ヨッド3つは全部使うことになり、それらすべてを組み合わせたものを自分なりに打ち出していくようになる。
(余談だけど、ヨッド+ブーメランの内訳は、太陽・月・冥王星・金星・水星・土星・アセンダントと呼ばれる地平線軸、そこにブーメランとなる火星とドラゴンヘッド。ほぼ天体フルキャスティングに近いヨッド)
・複数ヨッドの人は、例えば写真家をしながら人道活動もするみたいな感じで、全く関係のないものを組み合わせる。
だから、自ずと自分のモデルとなる人が圧倒的に少なくなってくる。
別々のことをするのではなく、組み合わせる形で自分だけの在り方を確立していく。
・私の場合は、太陽と月がそのヨッドに参加してそこに冥王星もくっついて、さらにそのヨッドがブーメラン化しているから、まずは『プライベートがない』。
家にいても常に仕事のことで何かを思い付いたり、メッセージがダウンロードされたりする。
(これについては本当にそうで、ひらめきに関しては家にいようが運転してようが関係なくやってくるから、来たらすぐにメモするようにしている。そうした行為が『プライベートがない』の例に当たるらしい。)
・上記に合わせて、そもそもそうした見えない力の部分を継承して生まれてきているから、どうしてもプライベートにもその部分が侵入してきやすい。
・スピチュアルなことは、これまでの過去世で散々やってきたから、わざと封印してた可能性がある。封印することで現実的な感覚を養うために。
だけど過去の資産だから才能にはなっていて、ある一定の時を過ぎたら出てくることが多い。ペンジュラムがそれに該当すると思われる。
・今の時期は、「再方向付け」「方向転換」という意味の時期になっている。あと1年半したら私自身の太陽が牡牛座に移るため、牡牛座になると自分の肉体に備わった資質をもっと発揮していくことになっていく。
・上記に対して、逆らうことはないのかを質問したら、「それはない」とのこと。ただ、今は葛藤がある(配置がそうなってる)。
・「神は群衆を与える」という言葉の通り、自分だけがやりたいんじゃなくて周りからもやって下さいというものだから、すぐのすぐとはいかなくても、いずれやっていく流れになると思うとのこと。
・自分の資質を使ってお金を稼ぐとなると、私の場合はそれが潜在意識やスピリチュアルなことを指す場所に入っているから、そうした方面でのお金の稼ぎ方になるだろうとのこと。
・自分の才能を使うことは、肩書きを持ったり日々の糧(お金)となるものに繋がっていく、それを示す配置になっている。
・自分は何ができるかをまずは知ってもらうのが大事。セラピーのことなんかを書いていくと良い。書くことでファンやお客さんもつくのではないかと思う。
・迷ったり方向転換してフラフラしたりしても、最終的に定められた道に入っていくことになるのか?
→そうだとのこと。
・但し、ブーメランというものがあるから、修行を重ねるとその時の自分の枠に当てはまらなくなる。それでその枠を壊す。そしてもっと大きな枠を作ってまたその中で修行を積むけれどまた当てはまらなくなると壊す。
壊しても決して自由なわけではない。
だから何度も脱皮があると思っておいた方がいい。
・(↑に関して少しだけ希望を持ちたくて)「それってずっと続いていきますか?(もちろんそんなこと続いてもらいたくないですけど)」と聞いたら、「ずっと続いていくでしょうね〜。続いていくことで成長するってことなんでしょうね〜」と返ってきた。
安定はしないけれど、スケールは大きくなっていく。あきらめない人になる。
それは自分がしたいことかと言うとそうでもなくて、でもそうなっちゃうみたいな感じになる。
・非日常や奇跡を求める。そういうことが自分自身の動機になってくる。
太陽(夕食のテーブルパーティー)も月(ハウスボートパーティー)もどちらも非日常の要素が高いことがそれを裏付けている。
・自分の才能や自分が持って生まれたもの、自分からは逃げられない。
だから、いかに自分の星を好きになって手慣れていくかということが大事になってくる。
これまでずっと「何で?」と思っていたことも、その中でどんどん明らかになっていった。
それが自分の人生の設定そのものとするなら、たとえ今の私や過去の私がどうであっても、設定通りの人生という意味なら、百点満点の人生だと思う。
本当にたとえ無意識でも、ホロスコープ通りの人生が展開していたし、そしてこれからもホロスコープ通りの人生になっていくと思う。
ただ1つ違うのは、これまでは自分の人生に起こってくることに対して何の準備もなく、毎回すったもんだしながら訳のわからない波に呑み込まれていたけれど、今後はそういう習性のある人生だとわかった上で生きていけることだと思う。
他人の人生と比べられないから何とも言えないけれど、私の人生ははっきり言って自分ではコントロールの効かないことがかなりある。
例えば、自分が頑張ったり楽しんだりしたら何とかなる、というものではなくて、どんなに努力したり望んだりしても叶わないことや、反対に逃げたくても逃げられないものがあること、そういうちょっと自分の力を超えた部分での人生というのが私の人生だった。
S先生も言葉を選んではいたけれども、隠すことなく私のホロスコープに表れているものをそのまま読み解いてくれた。
生きづらさの理由もホロスコープにきちんと表れてくれてたし、その対処法とは違うけれど自分のためにできることもわかった。
ちなみにできることは、「自分の星を好きになること、そしてそれに慣れていくこと」だとS先生は言った。
私もその言葉に同感だった。
回避するとか、やらないとか、逃げるとか、そうした選択肢は私の場合ない、ということはわかった。
一抹の望みをかけて、生涯その流れなのかと聞けば「そうですね」、やると出ている星に関してやらないという選択肢があるのかと聞けば「それはないですね〜」とさらりとでもことごとく否定された。
だから、自分の星を好きになる、慣れていく、というのは、ある意味それしか方法がないんだと良い意味であきらめられた。
【具体的に言われたこと】
・隠れたものを知る力、洞察力が強い。
・「鷹の目」と呼ばれるもので、高い位置から小さなものをピンポイントで見つけたり、反対に小さな小窓から世界全体を見渡そうとする力がある。
→興味の方向として、背後に隠れている法則を知りたい。
・ブーメラン(ホロスコープ用語)があると正直生きづらい
(ゼロが普通で1つでもあれば「多い」に入るのかな?私は2つある)
・(上のブーメランに付け加えると)1人の中に天才が2人同居しているような感じになって、船に船頭が2人いると沈むのと同じで、お互いに相容れない。そしてお互いに譲らないし自分を曲げない。
普通の成功とかこの人真似てたら大丈夫みたいなのには当てはまらないから、生きていく上でのモデルもいなくて、特殊な生き方になってきやすい。
(単純計算すると、私はブーメランが2つあるから、自分の中に4人の全く相容れない人たちがいる感じになっている)
・扱いづらい部類のホロスコープに入ってくる。
(「私からしたらしんどいですね、これ」とS先生から言われた私のホロスコープ…)
・頑固、マイペース
・自分の美意識・自意識にそぐわないことはあまりしたくない。
・保守的であまり冒険をしたがらない性質を帯びていながら、人間関係のストレスが強い傾向があるため、保守的ばかりでもいられない。
・2016年の春分の日のチャートと似ていて、春分の入口に対してその反対側に天王星が位置。その年、トランプ大統領が就任して、そんな風に人間関係において読めない出方をするチャートを私も持っている。
(春分の日の天体図は、その後1年間影響があるとされる。私は出生図がそうだから人生における人間関係の出方が読めない。)
・読めない、相手がどう出てくるかわからないそういう人間関係になりやすく、それが強いストレスをもたらしやすい。またそうした人間関係が強制的に働いてしまう傾向がある。
・天王星=刺激の強い、改革の星。天王星の色が濃い人たちと縁が出やすい。
・その天王星と月も角度(スクエア)を取っているため、子どもの頃からキツイ人間関係を経験したかもしれない。母親との関係も愛着や安心が必要な時期にそれが得られなかったり、まだ甘えたい時期に甘えられなかったり、いきなり近しい人がいなくなったりなど、突然人と距離ができてしまう体験をしたかもしれない。
・出会いは別れではないけれど、急に絶交されたり急に距離を取られたりする。
・身近な対人関係で安心感を得られない。
・結婚するとなったら天王星がかった人かな、とのこと。
要は、ユニークでオリジナルな生き方をする人。
・水瓶座の金星…変わり者。
ー男女の友情は成立する
ー博愛主義
ー近しい人間関係はわりとドライ
ー家族と遠い世界の子どもたちが同率になったりしやすい(血縁や地理的距離関係なく同一と見なす傾向)
ー遠く遠くに繋がっていく対人関係
・仕事が大事。キャリアを通して自分のアイデンティティを確立していくタイプ。
・仕事の肩書きを持つ。ヨッド(ホロスコープ用語)があるから、専門分野を元々作りやすい。
(ヨッド…別名「神の指先」と呼ばれるもので、ある特定の分野に従事することを人生の中で予定している。どちらかと言えば、性別や国籍なんかと一緒で個人の力では変えられない宿命的なものとされている。)
・仕事をする上で人間関係に恵まれやすい。広告塔やスポークスマンのような華のあるお仕事をすることもある。
・色んなコスチュームを着て色んなところに馴染んだり参加したりはできるけれども、100%の帰属感はなくて、ここ!という居場所は得にくい。
ただ、半分はどういう風にも変われるものを持っているから、どこにでも行けるタイプ。
・(水星+金星、頂点土星のヨッド)
ー年を取っても心の中はずっと年を取らない、ティーネイジャーのままみたいな感じになりやすい。
ー文才が出る
ー快適な文章能力や会話能力を持つ
ー心の中がいつまでも老けていかないから、普通心が老けると外面も老けるけど、心が老けないから年齢と共にますます年齢不詳な外見になりやすい
ー土星が効いているから、若い頃はじけていない、若くてチヤホヤされたというような体験もあまりないはず
ー50代後半になると、水星と金星が効いてきて、若い人たちと交流したり華やかになっていく
・(上記ヨッドに土星+火星のブーメラン)
ー男性で出た場合、不器用で屈折した難しい男性を引き寄せる。他の女の子ならちょいちょい選ばない人、だけど(武士俣さんなら)理解してあげられるんじゃないかなという人がくる。
ー愛の修行。
ーコンプレックス強めだったり、挫折を経験しまくってたりする男性を引き寄せやすい。
ー土星の力が強くなると、男性のやる気を潰しかねない。反対にうまくコントロールすると、相手にやる気を出させる。
・(太陽+ノードの合)
自分自身の責任ではないところで、何かのコミュニティや集団に属することがある。一族という場合もある。その部分が自分にとってしんどいものになりやすい傾向がある。
自分は自由だと思っても、育った環境や周りの環境から影響を受けやすい。
・男性に関しても、カルマ絡みの縁の人と縁を持ったりしやすい。
・趣味、芸事、遊びが仕事になっていくパターン。また、こうしたことを仲間やパートナーとシェアしやすい。
・仕事が終わってからの活動が人生の中で大きな位置を占めてくる。
・他人様の子どもや血の繋がらない人たちとの関わりもできやすい。
→「やり残した宿題」みたいなものとして今生に持ってきている課題の1つ。これまで仕事で数百人単位の子どもと関わったと伝えたところ、それとは別の形でまた関わり合いになるんじゃないかとのこと。
例えば、子連れの男性と結婚してその子どものお母さんになるとか、もしくは自分の子どもを産んでその子どもの配偶者との縁が強くなるなど、何かしらの形で血の繋がらない子どもとの縁を持つことになるだろうとのこと。
(説明は省くけれど、ホロスコープ的にきちんと論的な理由がある)
・太陽のシンボルが「夕食のために用意されたテーブル」で、「深い事情を聞かないから誰でも来ていいよ」というような場を人生の中で設けるだろう。誰でもウェルカムでひとときホッとしていきなさいよ、というようなみんなのための何らかの場を作る。
それは、さんざん過去生でもやってきたものだから得意で、要請があればやれてしまうところがある。
・「人間交差点」的な役割をする。生まれてすぐに皆既月食があったため、その影響が大きい。
誰かの重要なタイミングや、人と人とが出逢うタイミングに居合わせることが多い。
・予期しない流れやどうして自分の人生はこうなんだろう?というのは、私の場合、ホロスコープそのものの状態ももちろん関係しているけれど、もう1つ月食近くに生まれているというのも関係している。
・場を提供するだけじゃなく、人との接点になりやすい。
・パートナーとなる人も仲間から出やすい。
・パートナーと一緒に仕事をする、又はパートナーが仕事を手伝ってくれる。
・無意識のこと、秘密めいたもの、スピリチュアリティーなんかのことを仲間とシェアする。
・対人関係のストレスは1対1となると出やすいけれど、仲間とか友達といった交友関係では気の合った人たちと良い関係を築ける傾向にある。
・家族の縁が太い。
・月(無意識を司る)のシンボルが「ハウスボートのパーティー」で、だから友達が家に訪ねてきてパーティーしようとよくなってたのかもしれない。
・海外との縁、家に本がたくさんある、教育など、自分のルーツが広がるものを持っている。
・月が獅子座で、海王星や天王星とも組んでいるから、自分の好き勝手にしやすい。型にははまらないけれど、ルーツからは守られてる。
・心理的な居場所や安定感を必要とする。
・若い頃は放浪するかもしれないけれど、いずれは自分の場所を持って活動していく人になるんじゃないかと思われる。
・たくさんヨッド(私の場合3つ)組んでると、何らかの専門に通じてないといけない。
(ヨッドは1つあるだけでも通常は珍しいとされる中、私は3つあってさらにアルプスやブーメランと呼ばれるものも同時に形成されてる。ネットで調べた限り、それを全て持ってる人誰もいなかった。)
・海王星…微細な感覚を拾う、冥王星…拝み屋さん(祈祷師)とか何かを引き寄せる、水星…宇宙の法則を察知する
→直観やインスピレーションが湧きやすい
(それぞれの星単独でそうなるのではなく、私の場合はそれぞれの星が色んな条件と重なってそうなりやすい)
・2017年8月21日に海王星が社会的役割や使命なんかを表す軸に乗った。元々見えない力を相続・継承して持ってはいたけれども、ただ持っていただけで、それの看板を去年のそのあたりに上げることになった、とホロスコープ上では読める。
・スピリチュアルなドアが開いたのは、2016年の9月1日に日食が起こって、その起こった場所と同じ場所(軸)に私の個人天体の土星があって、その対角線上に火星、その火星の上には空の海王星がピッタリ重なっていて、さらには魂の課題や方向性を表すドラゴンヘッドも近くにある。それらの条件が重なったことで開いたと思われる。
・S先生いわく、日食1時間あたり1年影響すると試算されていて、その時は欠け始めから欠け終わりまで約3時間20分だから、3年と4ヶ月ほど、だから2019年から2020年にかけての年末年始ぐらいまで影響があるんだと思う(←今自分で時間を調べた)。
・自分の個人天体と蝕の起こる場所が重なると、古いものが出て新しいものが入ってくる流れになる。
・16年の秋以降、微妙な男性、色々難しい問題を抱えてる男性にモテる傾向にある(モテてはないけれど、確かに社会的にはハイスペックな人ではあったけれど私生活の面でとても傷付いた男性を紹介された)。
・自分の天体の上で蝕が起きるのは18年に1回ぐらいしかなく、そしてそうなった時はしばらくその時に来た流れに乗り合わせることになる。
・2020年の年末より何かを始める。それは秩序の中で発展していくもので、始めたらその後20年間はやり続けるもの。
具体的な舵取りの方向を決めて進めていくもの。
例としては、出産、結婚、所有する家のローン開始、会社の設立など。この時に何かしらのキャリアを始めた場合、死ぬまでやりますよというようなものになりやすい。
・2020年のキャリアはスピリチュアルなものになりやすい。私の場合はその頃海王星の扉が開くからとのこと。そして、それは今から始める、そういう流れに入ってる。
・しんどいけれど、レベルを上げてチャレンジする感じの流れ。だから今から始めてもいいこと。その頃、人生で設定してきたことをやる、とも考えられる。
・潰しのきく星回りではないけれど、このことならこの人しかいない!という星の配置になっている。だから、そこにはまると、絶対数が少ないから、依頼が殺到することになる。
・今漠然とイメージを持っているものに対して計画表を立てるのがいいと思う。
・神様にロックオンじゃないけれど、もうそれしか道がありませんという強制力が働いてる(土星+冥王星)。
海が好きで山なんか大嫌いなのに、エベレストに連れて行かれて山登り終わるまで下ろしてもらえない、そういうタイプの強制力。
・持って生まれたヨッドをやりなさいよ、という流れにすでに入ってる模様。そういうものを持って生まれてきた場合、死ぬまでやらずに貯蔵しておきますよ、というわけにはいかない。
・私の場合、ヨッドの1つが太陽+月+冥王星で構成されていて、月は過去生の太陽を表し、冥王星は先祖の意思を表す。表面上はやりたくないと思っていても、そこには先祖でもDNAでも神でもなんでもいいけれど、そういうものにロックオンされているから、やらないわけにはいかない。
しかももうスイッチが入っているから、やらざるを得ないところに来ている。
・2020年の年末に冥王星が自分の社会的役割を意味する軸に乗るまでには、何らかの肩書きを定めないといけない。内緒で勉強してるだけじゃ済まなくなってくる。
・「霊能者」と名乗るのは抵抗があるかもしれないけれど、そういうものになっていく。霊能者と言っても、誰かの真似はできなくて、自分の中にある何かと何かを組み合わせていくタイプで、その組み合わせたものを提供していくチャートになってる。
(注意:私自身は自分が霊能的なことができるとも思っていないし、やりたいとも思わない。普通にみんなができるかと言ったらできる人はとても少ないと言うより会ったことないちょっと変わった、見慣れない聞いたことない能力的なものはあるけれど、でもそれは「霊能」とは違うと思ってる)
・自分で組み合わせてメソッドを作っていかないといけない。
・こんなに重たいものが来てたら、覚悟しておいた方がいい。自分で自分の星を使うと言うよりも、星にどうぞ私をお使い下さい、というようなレベルになっている。
・流れとしては、次々にそういった謎が解けていく感じ。
・社会的役割を示すシンボル「紅茶の葉を読む女」にあるように、小さな事象と大きなことの関係性を読み解ける。無意識のメッセージの読み解きでもあるから、怖いものを見ることもあるかもしれない。
・(5ハウス土星)
ー恋愛が奥手になり、だから結婚も遅れ、子どもも遅れ…となりやすい。
(なりやすいも何もその通り過ぎ)
ー好きなことがそのまま仕事になりやすい
・好きなことが仕事→自分が好きなだけじゃなく、周りからもやってくれという要請を示すサインが(ヨッドと)一緒に入っているから、ニーズが出やすい。
・女性性のコンプレックスが強い。それを癒したい気持ちがあるものの、天体配置がハードで傷口に塩を塗るような方法になってる。
それだけだと傷をえぐるだけのアプローチが、そこに助っ人として水星と火星が入っている。
水星は、言葉を使ったコミュニケーションによって傷を癒そうとする。火星は、実際の男性との関係もそうだけど行動療法によって癒そうとする。
・普段から色々書いたりする→女性性の癒しになっている。
・ヨッド3つは全部使うことになり、それらすべてを組み合わせたものを自分なりに打ち出していくようになる。
(余談だけど、ヨッド+ブーメランの内訳は、太陽・月・冥王星・金星・水星・土星・アセンダントと呼ばれる地平線軸、そこにブーメランとなる火星とドラゴンヘッド。ほぼ天体フルキャスティングに近いヨッド)
・複数ヨッドの人は、例えば写真家をしながら人道活動もするみたいな感じで、全く関係のないものを組み合わせる。
だから、自ずと自分のモデルとなる人が圧倒的に少なくなってくる。
別々のことをするのではなく、組み合わせる形で自分だけの在り方を確立していく。
・私の場合は、太陽と月がそのヨッドに参加してそこに冥王星もくっついて、さらにそのヨッドがブーメラン化しているから、まずは『プライベートがない』。
家にいても常に仕事のことで何かを思い付いたり、メッセージがダウンロードされたりする。
(これについては本当にそうで、ひらめきに関しては家にいようが運転してようが関係なくやってくるから、来たらすぐにメモするようにしている。そうした行為が『プライベートがない』の例に当たるらしい。)
・上記に合わせて、そもそもそうした見えない力の部分を継承して生まれてきているから、どうしてもプライベートにもその部分が侵入してきやすい。
・スピチュアルなことは、これまでの過去世で散々やってきたから、わざと封印してた可能性がある。封印することで現実的な感覚を養うために。
だけど過去の資産だから才能にはなっていて、ある一定の時を過ぎたら出てくることが多い。ペンジュラムがそれに該当すると思われる。
・今の時期は、「再方向付け」「方向転換」という意味の時期になっている。あと1年半したら私自身の太陽が牡牛座に移るため、牡牛座になると自分の肉体に備わった資質をもっと発揮していくことになっていく。
・上記に対して、逆らうことはないのかを質問したら、「それはない」とのこと。ただ、今は葛藤がある(配置がそうなってる)。
・「神は群衆を与える」という言葉の通り、自分だけがやりたいんじゃなくて周りからもやって下さいというものだから、すぐのすぐとはいかなくても、いずれやっていく流れになると思うとのこと。
・自分の資質を使ってお金を稼ぐとなると、私の場合はそれが潜在意識やスピリチュアルなことを指す場所に入っているから、そうした方面でのお金の稼ぎ方になるだろうとのこと。
・自分の才能を使うことは、肩書きを持ったり日々の糧(お金)となるものに繋がっていく、それを示す配置になっている。
・自分は何ができるかをまずは知ってもらうのが大事。セラピーのことなんかを書いていくと良い。書くことでファンやお客さんもつくのではないかと思う。
・迷ったり方向転換してフラフラしたりしても、最終的に定められた道に入っていくことになるのか?
→そうだとのこと。
・但し、ブーメランというものがあるから、修行を重ねるとその時の自分の枠に当てはまらなくなる。それでその枠を壊す。そしてもっと大きな枠を作ってまたその中で修行を積むけれどまた当てはまらなくなると壊す。
壊しても決して自由なわけではない。
だから何度も脱皮があると思っておいた方がいい。
・(↑に関して少しだけ希望を持ちたくて)「それってずっと続いていきますか?(もちろんそんなこと続いてもらいたくないですけど)」と聞いたら、「ずっと続いていくでしょうね〜。続いていくことで成長するってことなんでしょうね〜」と返ってきた。
安定はしないけれど、スケールは大きくなっていく。あきらめない人になる。
それは自分がしたいことかと言うとそうでもなくて、でもそうなっちゃうみたいな感じになる。
・非日常や奇跡を求める。そういうことが自分自身の動機になってくる。
太陽(夕食のテーブルパーティー)も月(ハウスボートパーティー)もどちらも非日常の要素が高いことがそれを裏付けている。
・自分の才能や自分が持って生まれたもの、自分からは逃げられない。
だから、いかに自分の星を好きになって手慣れていくかということが大事になってくる。
2018年7月28日土曜日
皆既月食
皆既月食を見るために、1時間おきに目覚ましをかけて夜中に起きた。
今かな〜という頃、3時半過ぎ。
なんと西側は山が邪魔して何も見えない。
外に出て見えやすい位置に行っても見えない。
明るさから言って、多分月は出ている。
けれども山の裾野に隠れてる。
迷ったけれど、車を出すことにした。
開けた場所に行けば見える気がしたから。
予想は外れ、車を走らせれば走らせるほど、今度は空全体が明るくなってきて厳しいなぁと感じた。
空が見渡せるスポットに着いた時には、東側の空が赤く染まっていて、太陽がそろそろ昇ることがわかった。
あきらめて家に戻った。
皆既月食は見れなかったけれど、朝焼けを見れたから、しかもそんな時間に見れることもないから、これはこれで良かったなと感じながら運転してきた。
月曜日から火曜日に変わってすぐの真夜中、赤褐色の大きな月を見た。
スーパームーンみたいだった。
今日に変わってから同じような時間に月を見た。
今日の方が満月で皆既月食も伴うならもっと赤褐色でもいいのに、赤褐色でもなければ大きさも普通だった。
むしろあの火曜日の月の方がパワフルな感じがした。
私は運転しながらその進行先に大きな月があって、月見をしながらの旅の始まりで1人で感動していた。
皆既月食は見れなくて残念だったけれど、それ以上のものをこの数日で見れたし、今も朝焼けや天使の羽の形をした雲を見れたからいいかなと思っているうちに家の近くまで来た。
家の近所にドラッグストアがある。
朝の4時半、2台の大きなトラックが搬入していた。
驚いた。
まさかこんな朝早くに搬入していたなんて、思ってもみなかった。
どこかの誰かがこうやって物を運んでくれることで、自分の日々の生活が成り立っているんだなと感じた。
名古屋にいた頃、経営者の方が教えてくれたことの1つがそれだった。
目の前の物を見つめる。
自分の手に渡るまでどれだけの人の手を介したのかを見ていく。
原材料を調達する人、それを運ぶ人、それを形にする人、梱包する人、店頭に運ぶ人、店頭でレジを担当する人。
少なくともそれだけの人が関わって自分のところに物が届く。
その1つ1つに思いを馳せると、何1つ当たり前じゃなくて、そこに至るまでの色んな人の思いや力が注がれていることに気付く。
感謝や尊敬の念が湧くみたいなことを言われてたと思うけれど、本当にその瞬間を今日目の当たりにして、ものすごく納得した。
自分の日々の生活は、こうした目に見えない人たちによって支えられているんだなと感じた。
家に着いた。
すっかり明るくなって、手元もよく見えた。
膝の上にはペンジュラムとオルゴナイトの他に、透明ケースに入れた名刺が1枚ある。
今日1番最初に目に入った文字がその名刺の中の名前で、朝から得した気分になれた。
名刺を見てたら、昨日チェックした石井ゆかりさんの魚座の来週の運勢の文章を思い出した。
『人は強い好意を抱いている相手に対しては
振る舞いがギクシャクしたり、不器用になったりすることがあります。
この時期、あなたの前に立つ人は
あなたが思う以上に、あなたを好きでいてくれるため、
好意からくる緊張で、
少々挙動不審になっているところがあるのではないかと思うのです。』
(『筋トレ週報』
http://weekly.hatenablog.com/entry/2018/07/27/193000_4)
挙動不審というか、ぎこちなくなっていた姿を思い出した。
私が好かれてるなどと考えるにはあまりにも勘違いも甚だしいと言わなければいけなかったけれど、私はその人のその様子を見て驚いた。
女の人には慣れてるとばかりに勝手に思っていたのに、あまりにもぎこちなくて、私は思わず自分が何かしたのかと思った瞬間があった。
それか私が何か探してますか?と聞いたのがそんなに不意打ちだったんだろうか?と。
その割にその人は、私が名前も呼ばずその人の背後の少し離れた場所から声を掛けたけれど、その人は自分に話しかけられてるというのはすぐにわかってた。
その人のぎこちない態度に、私は自分までもがなんだか恥ずかしくなってしまった。
好かれて挙動不審だったら嬉しかったなぁと思った。
想像は自由。
現実と食い違っているのは知っている。
だけどその瞬間だけは、本当に不思議な感じだった。
そんなことを思い出してた。
夏の日の思い出、来年はどんな風に思い出しているんだろう。
来年は、その人の隣りにいたかったという思いをきれいに手放せてるといいなぁ。
さらに欲を言えば、来年は誰かの隣りにいられるといいなぁ。
もうそんなことも思い出さないぐらいに、目の前の誰かを大切にする、そういう自分でありたいと思う。
今かな〜という頃、3時半過ぎ。
なんと西側は山が邪魔して何も見えない。
外に出て見えやすい位置に行っても見えない。
明るさから言って、多分月は出ている。
けれども山の裾野に隠れてる。
迷ったけれど、車を出すことにした。
開けた場所に行けば見える気がしたから。
予想は外れ、車を走らせれば走らせるほど、今度は空全体が明るくなってきて厳しいなぁと感じた。
空が見渡せるスポットに着いた時には、東側の空が赤く染まっていて、太陽がそろそろ昇ることがわかった。
あきらめて家に戻った。
皆既月食は見れなかったけれど、朝焼けを見れたから、しかもそんな時間に見れることもないから、これはこれで良かったなと感じながら運転してきた。
月曜日から火曜日に変わってすぐの真夜中、赤褐色の大きな月を見た。
スーパームーンみたいだった。
今日に変わってから同じような時間に月を見た。
今日の方が満月で皆既月食も伴うならもっと赤褐色でもいいのに、赤褐色でもなければ大きさも普通だった。
むしろあの火曜日の月の方がパワフルな感じがした。
私は運転しながらその進行先に大きな月があって、月見をしながらの旅の始まりで1人で感動していた。
皆既月食は見れなくて残念だったけれど、それ以上のものをこの数日で見れたし、今も朝焼けや天使の羽の形をした雲を見れたからいいかなと思っているうちに家の近くまで来た。
家の近所にドラッグストアがある。
朝の4時半、2台の大きなトラックが搬入していた。
驚いた。
まさかこんな朝早くに搬入していたなんて、思ってもみなかった。
どこかの誰かがこうやって物を運んでくれることで、自分の日々の生活が成り立っているんだなと感じた。
名古屋にいた頃、経営者の方が教えてくれたことの1つがそれだった。
目の前の物を見つめる。
自分の手に渡るまでどれだけの人の手を介したのかを見ていく。
原材料を調達する人、それを運ぶ人、それを形にする人、梱包する人、店頭に運ぶ人、店頭でレジを担当する人。
少なくともそれだけの人が関わって自分のところに物が届く。
その1つ1つに思いを馳せると、何1つ当たり前じゃなくて、そこに至るまでの色んな人の思いや力が注がれていることに気付く。
感謝や尊敬の念が湧くみたいなことを言われてたと思うけれど、本当にその瞬間を今日目の当たりにして、ものすごく納得した。
自分の日々の生活は、こうした目に見えない人たちによって支えられているんだなと感じた。
家に着いた。
すっかり明るくなって、手元もよく見えた。
膝の上にはペンジュラムとオルゴナイトの他に、透明ケースに入れた名刺が1枚ある。
今日1番最初に目に入った文字がその名刺の中の名前で、朝から得した気分になれた。
名刺を見てたら、昨日チェックした石井ゆかりさんの魚座の来週の運勢の文章を思い出した。
『人は強い好意を抱いている相手に対しては
振る舞いがギクシャクしたり、不器用になったりすることがあります。
この時期、あなたの前に立つ人は
あなたが思う以上に、あなたを好きでいてくれるため、
好意からくる緊張で、
少々挙動不審になっているところがあるのではないかと思うのです。』
(『筋トレ週報』
http://weekly.hatenablog.com/entry/2018/07/27/193000_4)
挙動不審というか、ぎこちなくなっていた姿を思い出した。
私が好かれてるなどと考えるにはあまりにも勘違いも甚だしいと言わなければいけなかったけれど、私はその人のその様子を見て驚いた。
女の人には慣れてるとばかりに勝手に思っていたのに、あまりにもぎこちなくて、私は思わず自分が何かしたのかと思った瞬間があった。
それか私が何か探してますか?と聞いたのがそんなに不意打ちだったんだろうか?と。
その割にその人は、私が名前も呼ばずその人の背後の少し離れた場所から声を掛けたけれど、その人は自分に話しかけられてるというのはすぐにわかってた。
その人のぎこちない態度に、私は自分までもがなんだか恥ずかしくなってしまった。
好かれて挙動不審だったら嬉しかったなぁと思った。
想像は自由。
現実と食い違っているのは知っている。
だけどその瞬間だけは、本当に不思議な感じだった。
そんなことを思い出してた。
夏の日の思い出、来年はどんな風に思い出しているんだろう。
来年は、その人の隣りにいたかったという思いをきれいに手放せてるといいなぁ。
さらに欲を言えば、来年は誰かの隣りにいられるといいなぁ。
もうそんなことも思い出さないぐらいに、目の前の誰かを大切にする、そういう自分でありたいと思う。
2018年7月27日金曜日
ホロスコープ鑑定〜東京編〜
5月末に予約して、6月は満席、7月にしか席が取れなかったホロスコープ鑑定を受けてきた。
その方は、私が自分のホロスコープを4月から読み解き始めた時に、ものすごく参考にしたブログの方だった。
普通に調べても出てこないヘンテコな線と線とで作る奇妙な形のものが自分のホロスコープにあるのはずい分と早くから知った。
何せないから、とにかくヒットしたサイトは片っ端から読んでいった。
その中で、今のホロスコープ講座の先生と今回ホロスコープ鑑定を受けてきた方のサイトが一番詳しくそして理論的に説明してくれてた記事だった。
その方はどうも有名な占星術家だったらしく、そのマニアックな記事に対してなんと本人の返信含め100以上ものコメントがついていた異例の記事だった。
全国どころか多分海外在住の日本人の方までが相談や確認をするような内容だった。
だから「色んな方のものを読める=私のホロスコープの詳細も読み解けるだろう」というのはそのコメントを見てわかったから、それで講座で東京に行くついでに見てもらいたいと思っていた。
その方推薦の初級講座が私が今受けてる講座で、そして講座のU先生の師匠にあたる方が今回の鑑定をして下さったS先生だった。
ちなみにS先生に帰りのバス停まで送ってもらった時にこれまで何人ぐらい鑑定されたのかを聞いた。
500人ぐらいまで数えていたけれど、今は数えてないとのこと。
ただ、月に60人、かけることの20年、1年あたりを700人としてものべ1万人以上は鑑定されたと思う。
S先生は本当にすごかった。
柔らかい感じのとても自然体な方だった。
その自然体な感じからは、あのバリバリなホロスコープの読み解きなんて想像できないぐらい。
でも一度口を開いたら、巨匠だと思った。
ホロスコープ界の重鎮みたいな。
言うなれば、その人はホロスコープの広辞苑みたいな人で、あの暗号を一瞬でバババッと読み解いていた。
今人数を数えてみたら、あぁ…と気付いた。
それだけたくさん読んでる中で、S先生は、私のホロスコープを説明する時にすごく気を使われて言葉を選んでいたのはわかった。
「生きづらい」とか「修行」とか「扱いづらいホロスコープの部類」とか、そういう類いの言葉たちが至るところで出てきた。
最初は私が事前に送った質問に答えて、その後全体的なものを読みながら説明してくれた。
その最初が「対人ストレスが強いチャート」だった。
その辺りからさらに一層言葉を選ばれてる風だったから、私は自分でも色々思い当たることはたくさんあるから、そのまま色々言ってもらっても大丈夫であることを伝えた。
何をもって「対人ストレスが強い」とするかはわからないけれど、確かに家族とかパートナーシップのような近しい人間関係ではストレスゼロとは決して言えない。
それでも私が何とか自分を保っていられるのは、素敵な人たちと出逢わせてもらえてるからだと思ってる。
多分一般的にはストレスとなるようなとか、特殊な人とかがやたらと私の人生には現れる。
確かにそうだけれど、でも私にはストレスにならない。
無理もしていない。
本気で嫌だと感じると、私は逃げる。
だけれど、そうでもならない限り、私が今も続いてる人間関係はとても恵まれてる。
高校に入るまでは散々ではあったけれど、それ以降は年と共に恵まれている。
代わりと言っては変だけれど、色んな人の話を聞くという意味合いにおいては、とにかく特殊な体験をした人たちがやたらめったらとやってくる。
家族はこうした今の私みたいな状況には全く理解がないし、その分のストレスというか心の負荷みたいなのはあるけれど、その辺りは私も付き合い方をうまくしないと自分がやられるのはわかっているから、それは少しずつ防御策みたいなのは身に付けつつある。
そんなこんなの話をしながらさらに先の説明に進んだ。
「なんとかポジティブに」とS先生が言うということは、私のものは相当ネガティブ要素満載なんだと思う 苦笑。
とにかく色んな説明を受けた。
全部書くと長いから、それ以外の細々としたことは、また別記事に書こうかな…とは考えてる(本当に書くかわからないけれど)。
受けて一番大きかったことは、ある意味自分の人生に対して吹っ切れたということ。
受ける前、私の中ではまだ色んなことが半信半疑だった。
スピリチュアルな世界に踏み込んでる自分を見て、時々「どうしてこの分野に興味を持つの?」と思うことがある。
自分にできることがわかりつつあっても、「私の勘違いかもしれない」とか。
しかも色々進む方向性みたいなのが見えてきても、「で、だからどうするの?」という疑問はいつまでも残り、「私、本当にやりたいの?」みたいな疑問はやらない言い訳としても使うけれどそれ以上に本当にする?という疑問は常々あった。
色んなことが絵に描いた餅状態で、どれもこれも現実味に乏しく、さらに自分がしたいの?となるとやらない理由や言い訳は五万と出てきた。
だけど、鑑定を受けてその辺りが変わった。
時間のかかり具合や具体的な活動の中身はわからないけれど、もうやるやらないというよりやる方向にしか人生が流れていかないだろうことは感じた。
私の場合は、やりたいからやると言うよりも、もうそれしかないからやるとか、やらざるを得ないというのが人生そのものの在り方みたいな感じだった。
特殊な意味合いのものをいくつも兼ね備えて生まれてきてる、というのは、それを使うためにもしくは何かをする時にそうである方が都合がいいからそうなってる、と考えられる。
S先生に見てもらって、具体的な出来事やそれらが起こった年月は、まさに私のホロスコープにある通りだった。
スピの知識や一般的にメジャーではないどう説明していいのかもわからない自分の能力的なもの、そんなものもホロスコープに全部出ていた。
時期までもが合っている。
ぐうの音も出なかった。
しかもパソコン上でこの時のホロスコープですよ、と見せられたものがいくつかある。
360度の中のたった1度のところにピッタリ重なり合ってた。
色んな公転周期のあるものが、360分の1の確率で同じ角度のところに一堂集結するわけだから相当ない。
S先生いわく、18年に1回あるかないかぐらいの確率でしか起こらないと言われた。
自分でもその日のホロスコープを出して見た。
本当に1度の誤差なくピッタリ重なってる。
基本的にホロスコープでは、公転周期の遅い空の天体が自分の出生図の時の天体と重なる時、大きな影響を受けやすいとされる。
私の土星(社会的役割を意味する天体)の上に金環日食を伴う新月の月と太陽がドンと乗って、そして同じ時、私の火星の上に空の海王星がこれまたドンと乗っている。
私の土星と火星は生まれた時からライバルのごとく常に張り合うような=矛盾や相容れないものが常にある配置になってる。
だから土星に影響のあることは、同じく火星にも影響が自動的に及ぶようになっている。
S先生いわく、そもそも私自身が皆既月食の直前に生まれているから、どうしても蝕(しょく:日食や月食)を伴う時の空模様から影響を受けやすい、さらにそれと自分の天体が誤差0度で重なる(実際は前後2〜8度ぐらいまで見る)なんていう時はもう影響が出ないわけがない、ということだった。
私は金環日食を伴った2016年9月1日の新月の日、0度の誤差なくピッタリと自分の土星に金環日食の月・太陽が重なった。
そして土星と180度反対にある火星に空の海王星がロックオンした。
新月は28日周期でくるから珍しくはないけれど、蝕を伴ったり、さらにはその伴った状態の角度(その時は乙女座9度、各星座毎に30度ある)と個人の天体がピッタリ重なるのは、相当珍しいと思う。
そしてそのすぐ近くに魂の課題や方向性を表すドラゴンヘッドと呼ばれるものがある。
これら全ての相乗効果で、私の方の日々の生活がどんどん変化した。
単純にあった出来事は、その日は新潟に戻ってから初めて派遣の仕事を始めた日だった。
派遣の仕事を始めただけなら大して大きな影響とは考えにくいと思う。
私の場合は、その辺りからさらに一層水面下で色んなことが重なり合っていたと思う。
派遣の仕事の時の、ちょっと変わったエピソードをかいつまんで話した。
事務仕事メインの求人だったにも関わらず、なぜか最後の方になって私1人しかやらない特殊な仕事を頼まれてしてたことを話した。
50人近くいたのに、やったのは私だけだったことを伝えた。
そしてその仕事は、なぜかこれまで私がやってきた仕事全ての知識や技術を掛け合わせないとできないようなものだったこと、おかげで私は自分のこれまでしてきたことを発揮する機会を得たことを話した。
S先生が言われた。
「武士俣さんの星そのものですね。
武士俣さんのすることは、前例がないものです。
自分の持ってるものを自分で組み合わせて1から作り上げていく、そういうものです。
基本的に誰もしたがらないようなことだったりするから、ニーズが出てくるんです。
やってる人が圧倒的に少ないから、武士俣さんお願いします、となる、そんな風な仕事になっていくと思います」
本格的にその天体の影響が自分でもわかるぐらいに出てきたのは、2017年の9月ぐらいだったと思う。
その頃は仕事も変わったし、ものすごく大きな変化を個人的には迎えていた。
さらに、ずっとスピの世界から離れていたにも関わらず、不思議なリンクや出来事が起こり始めた(と認識できた)のもその頃からだった。
S先生いわく、2016年の9月にスピリチュアルな扉が開いた、とのことだった。
これは今世でやっていく必要のあることとも関連したもののようだった。
「ちなみに、星に表れていることをやらないっていう可能性もありますか?」と質問した。
それはありえないと言われた。
本来生まれてきた時に設定してあったものに対して、その扉に30数年かけて到達して、そしてそれが開いたのがこの2年ほどのこと。
今さら開いたものが閉じるということはないわけだから、今後はどんどん生まれた設定に対してもっと具体的になっていく、という風に説明された。
とりあえず自分が漠然と思っていたこととS先生との説明に大きな差はなかった。
ただ、私は何となくまだもしかして「選ばない」という人生もありなのかもしれない、というのはあった。
だけど聞いていくうちに、それはないことがわかった。
形がどうなるのか、社会的な肩書きや職業名が何になるのかはわからない。
だけど、もう自分を生きていくしかないのと、その自分というのは誰もモデルがいないから自分で打ち出していくしかないのと、それが多分これから残りの人生をかけて私がやっていくことなんだと思う。
多分逃げても逃げられない。
とりあえず今の気持ちとしては、逃げても逃げられないのなら、ゆっくりマイペースでいいから自分の頭の中にあるものを少しずつ形にしていこう、というところ。
ちなみに何がそんなに可笑しいのかわからないけれど、私はS先生との対話を録音したものを聞いて、毎回どこかで笑ってしまう。
そして私の話し方の癖がわかって、とりあえず早急に直したいものは自分の話し方だった。
質問に答えてなかったり、話をしてるつもりがものすごく言葉足らずになっていたり。
よくこんな話し方で周りの人たち私とコミュニケーション取ることができるなと感心した。
そして周りの人たちはみんな天才だと感じた。
【追記】
2月にホロスコープ鑑定を受けて、さらに今回約半年空いて別の方からホロスコープ鑑定を受けた理由。
占いジプシーみたいだけれど、私の中では明らかに違うものだった。
2月の鑑定は鑑定でとても有意義だったし、そしてホロスコープの入口としてはとても良かった。
そしてあの時何よりも良かったのは、自分の過去生とその時に関係があったと思われる人との繋がりがわかったことだった。
余談だけど、私は自分の初めて聞いた過去生がそのことで本当に良かった。
なぜなら次に聞いた私の過去生は、大量虐殺の先導者的な立場だったり、死刑囚の看守役でその人たちをいびったりしただろうものだったから。
順番が逆でなくて良かったなと思ってる。
心の準備として、最初はソフトなものから、その後はヘビーでも構わない。
とにかく2月の鑑定はそれはそれで大満足だった。
今回新たに受けようと思ったのは、4月から自分で読み解き出して、あまりにもわからないことがたくさん出てきたからだった。
別に知らなくても問題はない。
だけど見れば見るほど、そこに多分人生において大切なヒントが隠れてるとしか思えなくなった。
さらにそれを読み解くと、色々わかって面白かった。
だけど同時に自分で読むのは限界だと感じた。
基礎はもちろんだけれど、マニアックな発展応用的なこともわからなかった。
先に書いたように、私のものは普通に検索しても出てこないものがあまりに多すぎた。
しかも今回行って、さらに超マニアックなものが隠れていたことが判明して(それこそ広辞苑レベル)、S先生も初めて当たったのか、ブログで紹介してもいいかと聞かれたほどだった。
私は他の人たちの役に立つならいくらでもどうぞどうぞと返事してきた。
1万人ぐらい見てもなかなか出てこないような、それぐらいマニアックなものを私自身が持ってるわけで、そんなの素人が気付けるはずもなかった。
それにももちろん意味があったし、そして私は今回受けたことで自分の人生の特徴がホロスコープにあったとわかってホッとした。
これまではどうしてそうなのかがわからなかったけれど、今回受けたことで「どうして」の部分がかなり明確になった。
そしてわかったことで、私はまた1つ自分を否定しなくていい材料を手に入れることができた。
さらに自分の人生の向かう先が、これまでの中で一番明確な言葉で聞けたから、ある意味安心できた。
具体的なことはわからないままでも、流れの特徴や人生で設定している目的がある程度見えた。
30過ぎてからは特に、自分の人生がどこに向かっているのか本当にわからなくなった。
自分が決めるとか決めないとか関係なく勝手に物事が動いたり滞ったりする様は、今はだいぶ慣れたけれども常々「なんで?」とは思っていた。
その他にも説明のつかないことはたくさんあり過ぎて、私自身がそれでかなり苦しくなったり戸惑ったりした。
そうしたことも、今回の鑑定でものすごくはっきりとわかって、おかげで私はそれが自分の人生なんだと理解できた。
おかしな言い方だけど、本当にそのよくわからない流れや変なクセのある人生が私の場合は正解のようだった。
だから人生そのものを捉えるためには、今回のホロスコープ鑑定はなくてはならなかった。
その方は、私が自分のホロスコープを4月から読み解き始めた時に、ものすごく参考にしたブログの方だった。
普通に調べても出てこないヘンテコな線と線とで作る奇妙な形のものが自分のホロスコープにあるのはずい分と早くから知った。
何せないから、とにかくヒットしたサイトは片っ端から読んでいった。
その中で、今のホロスコープ講座の先生と今回ホロスコープ鑑定を受けてきた方のサイトが一番詳しくそして理論的に説明してくれてた記事だった。
その方はどうも有名な占星術家だったらしく、そのマニアックな記事に対してなんと本人の返信含め100以上ものコメントがついていた異例の記事だった。
全国どころか多分海外在住の日本人の方までが相談や確認をするような内容だった。
だから「色んな方のものを読める=私のホロスコープの詳細も読み解けるだろう」というのはそのコメントを見てわかったから、それで講座で東京に行くついでに見てもらいたいと思っていた。
その方推薦の初級講座が私が今受けてる講座で、そして講座のU先生の師匠にあたる方が今回の鑑定をして下さったS先生だった。
ちなみにS先生に帰りのバス停まで送ってもらった時にこれまで何人ぐらい鑑定されたのかを聞いた。
500人ぐらいまで数えていたけれど、今は数えてないとのこと。
ただ、月に60人、かけることの20年、1年あたりを700人としてものべ1万人以上は鑑定されたと思う。
S先生は本当にすごかった。
柔らかい感じのとても自然体な方だった。
その自然体な感じからは、あのバリバリなホロスコープの読み解きなんて想像できないぐらい。
でも一度口を開いたら、巨匠だと思った。
ホロスコープ界の重鎮みたいな。
言うなれば、その人はホロスコープの広辞苑みたいな人で、あの暗号を一瞬でバババッと読み解いていた。
今人数を数えてみたら、あぁ…と気付いた。
それだけたくさん読んでる中で、S先生は、私のホロスコープを説明する時にすごく気を使われて言葉を選んでいたのはわかった。
「生きづらい」とか「修行」とか「扱いづらいホロスコープの部類」とか、そういう類いの言葉たちが至るところで出てきた。
最初は私が事前に送った質問に答えて、その後全体的なものを読みながら説明してくれた。
その最初が「対人ストレスが強いチャート」だった。
その辺りからさらに一層言葉を選ばれてる風だったから、私は自分でも色々思い当たることはたくさんあるから、そのまま色々言ってもらっても大丈夫であることを伝えた。
何をもって「対人ストレスが強い」とするかはわからないけれど、確かに家族とかパートナーシップのような近しい人間関係ではストレスゼロとは決して言えない。
それでも私が何とか自分を保っていられるのは、素敵な人たちと出逢わせてもらえてるからだと思ってる。
多分一般的にはストレスとなるようなとか、特殊な人とかがやたらと私の人生には現れる。
確かにそうだけれど、でも私にはストレスにならない。
無理もしていない。
本気で嫌だと感じると、私は逃げる。
だけれど、そうでもならない限り、私が今も続いてる人間関係はとても恵まれてる。
高校に入るまでは散々ではあったけれど、それ以降は年と共に恵まれている。
代わりと言っては変だけれど、色んな人の話を聞くという意味合いにおいては、とにかく特殊な体験をした人たちがやたらめったらとやってくる。
家族はこうした今の私みたいな状況には全く理解がないし、その分のストレスというか心の負荷みたいなのはあるけれど、その辺りは私も付き合い方をうまくしないと自分がやられるのはわかっているから、それは少しずつ防御策みたいなのは身に付けつつある。
そんなこんなの話をしながらさらに先の説明に進んだ。
「なんとかポジティブに」とS先生が言うということは、私のものは相当ネガティブ要素満載なんだと思う 苦笑。
とにかく色んな説明を受けた。
全部書くと長いから、それ以外の細々としたことは、また別記事に書こうかな…とは考えてる(本当に書くかわからないけれど)。
受けて一番大きかったことは、ある意味自分の人生に対して吹っ切れたということ。
受ける前、私の中ではまだ色んなことが半信半疑だった。
スピリチュアルな世界に踏み込んでる自分を見て、時々「どうしてこの分野に興味を持つの?」と思うことがある。
自分にできることがわかりつつあっても、「私の勘違いかもしれない」とか。
しかも色々進む方向性みたいなのが見えてきても、「で、だからどうするの?」という疑問はいつまでも残り、「私、本当にやりたいの?」みたいな疑問はやらない言い訳としても使うけれどそれ以上に本当にする?という疑問は常々あった。
色んなことが絵に描いた餅状態で、どれもこれも現実味に乏しく、さらに自分がしたいの?となるとやらない理由や言い訳は五万と出てきた。
だけど、鑑定を受けてその辺りが変わった。
時間のかかり具合や具体的な活動の中身はわからないけれど、もうやるやらないというよりやる方向にしか人生が流れていかないだろうことは感じた。
私の場合は、やりたいからやると言うよりも、もうそれしかないからやるとか、やらざるを得ないというのが人生そのものの在り方みたいな感じだった。
特殊な意味合いのものをいくつも兼ね備えて生まれてきてる、というのは、それを使うためにもしくは何かをする時にそうである方が都合がいいからそうなってる、と考えられる。
S先生に見てもらって、具体的な出来事やそれらが起こった年月は、まさに私のホロスコープにある通りだった。
スピの知識や一般的にメジャーではないどう説明していいのかもわからない自分の能力的なもの、そんなものもホロスコープに全部出ていた。
時期までもが合っている。
ぐうの音も出なかった。
しかもパソコン上でこの時のホロスコープですよ、と見せられたものがいくつかある。
360度の中のたった1度のところにピッタリ重なり合ってた。
色んな公転周期のあるものが、360分の1の確率で同じ角度のところに一堂集結するわけだから相当ない。
S先生いわく、18年に1回あるかないかぐらいの確率でしか起こらないと言われた。
自分でもその日のホロスコープを出して見た。
本当に1度の誤差なくピッタリ重なってる。
基本的にホロスコープでは、公転周期の遅い空の天体が自分の出生図の時の天体と重なる時、大きな影響を受けやすいとされる。
私の土星(社会的役割を意味する天体)の上に金環日食を伴う新月の月と太陽がドンと乗って、そして同じ時、私の火星の上に空の海王星がこれまたドンと乗っている。
私の土星と火星は生まれた時からライバルのごとく常に張り合うような=矛盾や相容れないものが常にある配置になってる。
だから土星に影響のあることは、同じく火星にも影響が自動的に及ぶようになっている。
S先生いわく、そもそも私自身が皆既月食の直前に生まれているから、どうしても蝕(しょく:日食や月食)を伴う時の空模様から影響を受けやすい、さらにそれと自分の天体が誤差0度で重なる(実際は前後2〜8度ぐらいまで見る)なんていう時はもう影響が出ないわけがない、ということだった。
私は金環日食を伴った2016年9月1日の新月の日、0度の誤差なくピッタリと自分の土星に金環日食の月・太陽が重なった。
そして土星と180度反対にある火星に空の海王星がロックオンした。
新月は28日周期でくるから珍しくはないけれど、蝕を伴ったり、さらにはその伴った状態の角度(その時は乙女座9度、各星座毎に30度ある)と個人の天体がピッタリ重なるのは、相当珍しいと思う。
そしてそのすぐ近くに魂の課題や方向性を表すドラゴンヘッドと呼ばれるものがある。
これら全ての相乗効果で、私の方の日々の生活がどんどん変化した。
単純にあった出来事は、その日は新潟に戻ってから初めて派遣の仕事を始めた日だった。
派遣の仕事を始めただけなら大して大きな影響とは考えにくいと思う。
私の場合は、その辺りからさらに一層水面下で色んなことが重なり合っていたと思う。
派遣の仕事の時の、ちょっと変わったエピソードをかいつまんで話した。
事務仕事メインの求人だったにも関わらず、なぜか最後の方になって私1人しかやらない特殊な仕事を頼まれてしてたことを話した。
50人近くいたのに、やったのは私だけだったことを伝えた。
そしてその仕事は、なぜかこれまで私がやってきた仕事全ての知識や技術を掛け合わせないとできないようなものだったこと、おかげで私は自分のこれまでしてきたことを発揮する機会を得たことを話した。
S先生が言われた。
「武士俣さんの星そのものですね。
武士俣さんのすることは、前例がないものです。
自分の持ってるものを自分で組み合わせて1から作り上げていく、そういうものです。
基本的に誰もしたがらないようなことだったりするから、ニーズが出てくるんです。
やってる人が圧倒的に少ないから、武士俣さんお願いします、となる、そんな風な仕事になっていくと思います」
本格的にその天体の影響が自分でもわかるぐらいに出てきたのは、2017年の9月ぐらいだったと思う。
その頃は仕事も変わったし、ものすごく大きな変化を個人的には迎えていた。
さらに、ずっとスピの世界から離れていたにも関わらず、不思議なリンクや出来事が起こり始めた(と認識できた)のもその頃からだった。
S先生いわく、2016年の9月にスピリチュアルな扉が開いた、とのことだった。
これは今世でやっていく必要のあることとも関連したもののようだった。
「ちなみに、星に表れていることをやらないっていう可能性もありますか?」と質問した。
それはありえないと言われた。
本来生まれてきた時に設定してあったものに対して、その扉に30数年かけて到達して、そしてそれが開いたのがこの2年ほどのこと。
今さら開いたものが閉じるということはないわけだから、今後はどんどん生まれた設定に対してもっと具体的になっていく、という風に説明された。
とりあえず自分が漠然と思っていたこととS先生との説明に大きな差はなかった。
ただ、私は何となくまだもしかして「選ばない」という人生もありなのかもしれない、というのはあった。
だけど聞いていくうちに、それはないことがわかった。
形がどうなるのか、社会的な肩書きや職業名が何になるのかはわからない。
だけど、もう自分を生きていくしかないのと、その自分というのは誰もモデルがいないから自分で打ち出していくしかないのと、それが多分これから残りの人生をかけて私がやっていくことなんだと思う。
多分逃げても逃げられない。
とりあえず今の気持ちとしては、逃げても逃げられないのなら、ゆっくりマイペースでいいから自分の頭の中にあるものを少しずつ形にしていこう、というところ。
ちなみに何がそんなに可笑しいのかわからないけれど、私はS先生との対話を録音したものを聞いて、毎回どこかで笑ってしまう。
そして私の話し方の癖がわかって、とりあえず早急に直したいものは自分の話し方だった。
質問に答えてなかったり、話をしてるつもりがものすごく言葉足らずになっていたり。
よくこんな話し方で周りの人たち私とコミュニケーション取ることができるなと感心した。
そして周りの人たちはみんな天才だと感じた。
【追記】
2月にホロスコープ鑑定を受けて、さらに今回約半年空いて別の方からホロスコープ鑑定を受けた理由。
占いジプシーみたいだけれど、私の中では明らかに違うものだった。
2月の鑑定は鑑定でとても有意義だったし、そしてホロスコープの入口としてはとても良かった。
そしてあの時何よりも良かったのは、自分の過去生とその時に関係があったと思われる人との繋がりがわかったことだった。
余談だけど、私は自分の初めて聞いた過去生がそのことで本当に良かった。
なぜなら次に聞いた私の過去生は、大量虐殺の先導者的な立場だったり、死刑囚の看守役でその人たちをいびったりしただろうものだったから。
順番が逆でなくて良かったなと思ってる。
心の準備として、最初はソフトなものから、その後はヘビーでも構わない。
とにかく2月の鑑定はそれはそれで大満足だった。
今回新たに受けようと思ったのは、4月から自分で読み解き出して、あまりにもわからないことがたくさん出てきたからだった。
別に知らなくても問題はない。
だけど見れば見るほど、そこに多分人生において大切なヒントが隠れてるとしか思えなくなった。
さらにそれを読み解くと、色々わかって面白かった。
だけど同時に自分で読むのは限界だと感じた。
基礎はもちろんだけれど、マニアックな発展応用的なこともわからなかった。
先に書いたように、私のものは普通に検索しても出てこないものがあまりに多すぎた。
しかも今回行って、さらに超マニアックなものが隠れていたことが判明して(それこそ広辞苑レベル)、S先生も初めて当たったのか、ブログで紹介してもいいかと聞かれたほどだった。
私は他の人たちの役に立つならいくらでもどうぞどうぞと返事してきた。
1万人ぐらい見てもなかなか出てこないような、それぐらいマニアックなものを私自身が持ってるわけで、そんなの素人が気付けるはずもなかった。
それにももちろん意味があったし、そして私は今回受けたことで自分の人生の特徴がホロスコープにあったとわかってホッとした。
これまではどうしてそうなのかがわからなかったけれど、今回受けたことで「どうして」の部分がかなり明確になった。
そしてわかったことで、私はまた1つ自分を否定しなくていい材料を手に入れることができた。
さらに自分の人生の向かう先が、これまでの中で一番明確な言葉で聞けたから、ある意味安心できた。
具体的なことはわからないままでも、流れの特徴や人生で設定している目的がある程度見えた。
30過ぎてからは特に、自分の人生がどこに向かっているのか本当にわからなくなった。
自分が決めるとか決めないとか関係なく勝手に物事が動いたり滞ったりする様は、今はだいぶ慣れたけれども常々「なんで?」とは思っていた。
その他にも説明のつかないことはたくさんあり過ぎて、私自身がそれでかなり苦しくなったり戸惑ったりした。
そうしたことも、今回の鑑定でものすごくはっきりとわかって、おかげで私はそれが自分の人生なんだと理解できた。
おかしな言い方だけど、本当にそのよくわからない流れや変なクセのある人生が私の場合は正解のようだった。
だから人生そのものを捉えるためには、今回のホロスコープ鑑定はなくてはならなかった。
2018年7月26日木曜日
駅までのショートストーリー
ホロスコープ講座のクラスメートに1人だけ男性がいる。
今回帰り道が駅の構内まで一緒だったからそこまで並んで歩いた。
その人は講座の後のおしゃれカフェでの席で、ゲイであることをカミングアウトされた。
ゲイであることをカミングアウトしたのは話のついでで、その前後は自分のホロスコープの負とされる部分がうまい具合に抑えられるのはパートナーのおかげで、ちなみに僕ゲイなんですけどね、という具合だった。
だから駅まで並んで歩いた時に、私はゲイである彼にそのことを聞いてもいいかと聞いてからいくつか質問をした。
こういう時ははっきりと言う。
まどろっこしい言い方や変な気遣いをすると相手をより不快にすることもあるから、とにかく直球勝負で自分の気持ちを正直に伝える。
単純に私はゲイの人たちに興味があること、理由は普通と言われるような生き方ではない道を歩いているからその目から見える世界に興味があること、でもそういう人たちになかなか知り合えないから、ちなみに彼には本人カミングアウトで知ったゲイの人は彼が人生で2人目であること、本当に個人的な興味関心ゆえの質問だけれど聞いても大丈夫かを聞いてから話を聞いた。
嫌な顔1つせずいいですよと言ってもらえた。
話を聞いて感じたのは、その人の生き方と在り方に対しての強い憧れだった。
ゲイであることに対しての質問の前に、その人の生き方を少し聞いていた。
その人は大人になってから絵を描き始めた人だった。
その描くきっかけがとても面白く、そしてそれは私が何年か前にコーチングのコーチと一緒に見た、実話を基にしたあるドキュメンタリー映画の話と重なった。
映画の中で、10歳にならない子どもを2人持つ女性が出てくる。
ある時、家族4人で海やプールの付いたリゾート地へ休暇を楽しむために出かけた。
妻であり母であるその女性は、夫が2人の子どもを見てくれてた時間、結婚して以来なのか、もっと前の時間以来なのか、昔好きだった絵をたまたま描いた。
ホテルに絵画道具があったのか、家から持ち込んだ子どもの絵の具道具だったのかは忘れた。
彼女は絵を描いてくうちに自分の中の感情が湧き上がるのを止められなかった。
描いて描いて描きまくり、手が止まらなくなった。
そして自分が本当は絵を通して自分を表現したいと思っている自分に気付いて、でもそれをしたら家のことも子どものことも適当になってしまうんじゃないかとか、色んな不安が押し寄せてくる。
彼女は自分の本当の気持ちと今の生活や立場の両立に悩み出して、そして様子のおかしい妻を見て夫がどうしたのか夜話しかける。
最終的に妻は夫に自分の気持ちを伝えて、今回だけ数日自分1人だけホテルに残り、子どもたちを夫に見て欲しい、必ず帰るから、だけど今だけはどうしても自分の内面に向かうための時間が欲しいと訴えた。
夫は了承し、そして彼女だけがホテルに残り、残りの時間も彼女は絵を描き続けた。
ひたすら描いて描いて描きまくって、それで約束した日家に帰る。
そこから彼女は、描くこととこれまでの自分の家庭人としての仕事の両立を始めるみたいな内容だったと思う。
その描いて描いて描きまくるシーンと、その彼が絵を始めた時のシーンとが重なった。
その人は子どもの頃はさっぱり絵になんか興味がなかった。
むしろ図工は5段階の2にマイナスが付いていたと言う。
だけどある時、自分の中にあるものを吐き出すために紙に何かしらの筆記用具を使ってそのまま手の動くまま心の動くまま描いたと言う。
そうした時に「これだ!」と感じて、そしてどんどん絵を描いたのが最初とのこと。
個展を開くぐらいにまで現在はなられているそう。
そんな彼が話してくれたゲイのパートナーの人の話がとっても良かった。
「パートナー」と呼んではいたけれど、パートナーと言うよりもっともっと強い気持ちを抱いて一緒にいられるのは話を聞いていて感じた。
かれこれ10年以上一緒にいるのだと言う。
私が、1人目のゲイの人から、ゲイ同士で長く続くカップルは珍しいと言っていた話を出して、私は詳しくはわからないけれど、普通に10年と聞いてビックリしたとそのままの感想を言った。
男の本能的な性的欲求の高さや浮気心じゃないけれど、元々種子を残そうという生物学的なものも相まって、とにかく長く同じパートナーといるのは珍しいと言っていた(ということまではさすがにその人には言わなかった)。
そうしたら、その人も全く同じ説明を私にしてきて、これはゲイの世界ではメジャーな考え方や価値観なのかもしれないと思った。
そう前置きした上で、それでも今の人と長く続いてる理由は、聞いていたら性欲よりも遥かに人間関係そのものの理由で私は感動した。
パートナーは本当の本当に大切な人で失いたくない、絶対に大切にしたい、そう言ってた。
その人に出逢うまでに関係があった人たちとは、別に別れても次にいけばいいと思っていたし、ダメならダメでいいかとなってたとのこと。
だけど、その人は最初から違っていて、付き合うまでも自分はすごく大切に関係を作るようにしていたし、適当に扱ってはダメだと感じたらしい。
普段ならすぐに関係を始めるみたいな言い方をしていたけれど、今のパートナーに関しては慎重に進めたとのこと。
相手もそうだったんじゃないんですか?と聞いたら、相手もそんな風でいた感じはありました、と言っていた。
自分自身は突然仕事を辞めたり、絵を描き始めたり、とにかくハチャメチャだけれど、それでもどんな時も何も言わずに自分を見守ってくれてる、本当にすごい人だと思ってる、と話してくれた。
そんな風だから、パートナーは最初から何も変わらずにありのままの自分を大切にしてくれてる、自分もとにかく相手が大切なんだと教えてくれた。
ゲイかノーマルかなんて関係なくて、普通に自分の大好きな人大切な人を大切にするという、人間が人間として生きるそのものを表現するかのごとくパートナーと生きている人だった。
その関係性がものすごく羨ましくて仕方なかった。
たかが15分ほどの移動でしかなかったと思うけれど、私はその人の話に惹きこまれた。
絵の話もパートナーの話も良かった。
相変わらず私は、人からその人の人生模様を聞くのが好きだなと感じた。
その人しか知らない人生があって、その人しか生きて体験できないものがある。
それはみんな1人1人がオリジナルで、そしてそのオリジナルを貫いている人ほど面白い。
さらにその話の中で自分もいいなと思ってることなんかとの共通点を見つけると嬉しくなる。
今回帰り道が駅の構内まで一緒だったからそこまで並んで歩いた。
その人は講座の後のおしゃれカフェでの席で、ゲイであることをカミングアウトされた。
ゲイであることをカミングアウトしたのは話のついでで、その前後は自分のホロスコープの負とされる部分がうまい具合に抑えられるのはパートナーのおかげで、ちなみに僕ゲイなんですけどね、という具合だった。
だから駅まで並んで歩いた時に、私はゲイである彼にそのことを聞いてもいいかと聞いてからいくつか質問をした。
こういう時ははっきりと言う。
まどろっこしい言い方や変な気遣いをすると相手をより不快にすることもあるから、とにかく直球勝負で自分の気持ちを正直に伝える。
単純に私はゲイの人たちに興味があること、理由は普通と言われるような生き方ではない道を歩いているからその目から見える世界に興味があること、でもそういう人たちになかなか知り合えないから、ちなみに彼には本人カミングアウトで知ったゲイの人は彼が人生で2人目であること、本当に個人的な興味関心ゆえの質問だけれど聞いても大丈夫かを聞いてから話を聞いた。
嫌な顔1つせずいいですよと言ってもらえた。
話を聞いて感じたのは、その人の生き方と在り方に対しての強い憧れだった。
ゲイであることに対しての質問の前に、その人の生き方を少し聞いていた。
その人は大人になってから絵を描き始めた人だった。
その描くきっかけがとても面白く、そしてそれは私が何年か前にコーチングのコーチと一緒に見た、実話を基にしたあるドキュメンタリー映画の話と重なった。
映画の中で、10歳にならない子どもを2人持つ女性が出てくる。
ある時、家族4人で海やプールの付いたリゾート地へ休暇を楽しむために出かけた。
妻であり母であるその女性は、夫が2人の子どもを見てくれてた時間、結婚して以来なのか、もっと前の時間以来なのか、昔好きだった絵をたまたま描いた。
ホテルに絵画道具があったのか、家から持ち込んだ子どもの絵の具道具だったのかは忘れた。
彼女は絵を描いてくうちに自分の中の感情が湧き上がるのを止められなかった。
描いて描いて描きまくり、手が止まらなくなった。
そして自分が本当は絵を通して自分を表現したいと思っている自分に気付いて、でもそれをしたら家のことも子どものことも適当になってしまうんじゃないかとか、色んな不安が押し寄せてくる。
彼女は自分の本当の気持ちと今の生活や立場の両立に悩み出して、そして様子のおかしい妻を見て夫がどうしたのか夜話しかける。
最終的に妻は夫に自分の気持ちを伝えて、今回だけ数日自分1人だけホテルに残り、子どもたちを夫に見て欲しい、必ず帰るから、だけど今だけはどうしても自分の内面に向かうための時間が欲しいと訴えた。
夫は了承し、そして彼女だけがホテルに残り、残りの時間も彼女は絵を描き続けた。
ひたすら描いて描いて描きまくって、それで約束した日家に帰る。
そこから彼女は、描くこととこれまでの自分の家庭人としての仕事の両立を始めるみたいな内容だったと思う。
その描いて描いて描きまくるシーンと、その彼が絵を始めた時のシーンとが重なった。
その人は子どもの頃はさっぱり絵になんか興味がなかった。
むしろ図工は5段階の2にマイナスが付いていたと言う。
だけどある時、自分の中にあるものを吐き出すために紙に何かしらの筆記用具を使ってそのまま手の動くまま心の動くまま描いたと言う。
そうした時に「これだ!」と感じて、そしてどんどん絵を描いたのが最初とのこと。
個展を開くぐらいにまで現在はなられているそう。
そんな彼が話してくれたゲイのパートナーの人の話がとっても良かった。
「パートナー」と呼んではいたけれど、パートナーと言うよりもっともっと強い気持ちを抱いて一緒にいられるのは話を聞いていて感じた。
かれこれ10年以上一緒にいるのだと言う。
私が、1人目のゲイの人から、ゲイ同士で長く続くカップルは珍しいと言っていた話を出して、私は詳しくはわからないけれど、普通に10年と聞いてビックリしたとそのままの感想を言った。
男の本能的な性的欲求の高さや浮気心じゃないけれど、元々種子を残そうという生物学的なものも相まって、とにかく長く同じパートナーといるのは珍しいと言っていた(ということまではさすがにその人には言わなかった)。
そうしたら、その人も全く同じ説明を私にしてきて、これはゲイの世界ではメジャーな考え方や価値観なのかもしれないと思った。
そう前置きした上で、それでも今の人と長く続いてる理由は、聞いていたら性欲よりも遥かに人間関係そのものの理由で私は感動した。
パートナーは本当の本当に大切な人で失いたくない、絶対に大切にしたい、そう言ってた。
その人に出逢うまでに関係があった人たちとは、別に別れても次にいけばいいと思っていたし、ダメならダメでいいかとなってたとのこと。
だけど、その人は最初から違っていて、付き合うまでも自分はすごく大切に関係を作るようにしていたし、適当に扱ってはダメだと感じたらしい。
普段ならすぐに関係を始めるみたいな言い方をしていたけれど、今のパートナーに関しては慎重に進めたとのこと。
相手もそうだったんじゃないんですか?と聞いたら、相手もそんな風でいた感じはありました、と言っていた。
自分自身は突然仕事を辞めたり、絵を描き始めたり、とにかくハチャメチャだけれど、それでもどんな時も何も言わずに自分を見守ってくれてる、本当にすごい人だと思ってる、と話してくれた。
そんな風だから、パートナーは最初から何も変わらずにありのままの自分を大切にしてくれてる、自分もとにかく相手が大切なんだと教えてくれた。
ゲイかノーマルかなんて関係なくて、普通に自分の大好きな人大切な人を大切にするという、人間が人間として生きるそのものを表現するかのごとくパートナーと生きている人だった。
その関係性がものすごく羨ましくて仕方なかった。
たかが15分ほどの移動でしかなかったと思うけれど、私はその人の話に惹きこまれた。
絵の話もパートナーの話も良かった。
相変わらず私は、人からその人の人生模様を聞くのが好きだなと感じた。
その人しか知らない人生があって、その人しか生きて体験できないものがある。
それはみんな1人1人がオリジナルで、そしてそのオリジナルを貫いている人ほど面白い。
さらにその話の中で自分もいいなと思ってることなんかとの共通点を見つけると嬉しくなる。
2018年7月25日水曜日
7月の東京
『ナスのトゲ取り』
何ともアホらしい話だけれど、家を出る1時間前、私は右手親指の指の腹にトゲが2本も刺さっているのを発見した。
多分ナスのトゲ。
どうしても煮浸しが作りたくて、揚げ物してる傍らでその後に揚げるナスの準備をしていた。
(煮浸しー麺つゆに大根おろしを投入して、そこに素揚げした野菜を入れて浸して味を染み込ませた食べ物)
その時にやたらとトゲのあるナスだなと思ってはいた。
スーパーに出す用ではなく、自然のままに育てるとこういう姿になるんだろうなぁという、ナス本来の力に満ちたものだった。
チクチクするとは思ったけれど、まさかトゲが刺さってるとは思っていなかった。
まだ荷造りも終わってないのにナスのトゲ抜き…。
しかも木のトゲと違ってトゲが細い。
業務用の極細針を使ってトゲを抜くことの2本分。
支度をする前に力尽きそうだった。
『カツオ×のび太』
カツオは磯野カツオ。
のび太は野比のび太。
この2人の弱点や短所をかき集めたのが自分だと思うとゾッとした(滝汗)。
ホロスコープの宿題は、1ヶ月近く時間があったにも関わらず終わらなくて、今これから残りの4分の3に取り組む。
つい最近のサザエさんでは、早くもカツオの夏休みの宿題の取り組み方について、家族のみならず裏のおばあちゃんも巻き込んでの環境作りになっていた。
のび太もすぐに楽をしようとする。
そして最後はドラえもん頼み。
とりあえず、ヒーリングの勉強会の方のやるべきことは今終わったから、これからはホロスコープの宿題at東京始める。
at東京というのがすでにおかしい。
ちなみにどちらのキャラクターかは忘れたけれど、時間を逆算して、自分の能力を過大に見積もって、「あとこのぐらいの時間があれば宿題終わりそうだから、先に遊ぼう!先に漫画読もう!」などというアホなシーンが出てくる。
まさにそれも私。
私は昨日、今しなくてもいいレシートの整理をなんと延々3時間以上やっていた(お陰でそちらはかなり片付いた)。
その3時間あれば、ホロスコープの宿題終わった…。
『センスない』
ホロスコープの宿題をしている。
名前は伏せられた有名人のホロスコープを、講座で教えてもらった手法で読み解いていく。
やっていてわかる。
本当に私は星読みのセンスがない。
このブログとは打って変わって、私はホロスコープから読み取れることを文章に起こすのが大の苦手で仕方ない。
言葉を繋げても、「これ誰?」となる。
誰かを当てる必要はないけれど、自分の文章を読んでいてもそこからその人物の特徴がさっぱり見えてこない。
『暑い』
暑くて目覚めた。
クーラーのリモコンの在り処がわからず、右往左往した。
ようやく見つけて部屋は涼しくなった。
『ホロスコープ鑑定 again』
今回東京にもう1日滞在した理由は、ホロスコープ鑑定を受けるため。
1時間半個人宅で超みっちり専門用語オンパレードで読み解いてもらってきた(録音OKだったから、またこれから何回か聴く予定)。
本当は先月を希望した。
5月の末の話だった。
ところが6月はもう予約がいっぱいで、次空いてるのは7月以降だと言われた。
それで行けたのが今回だった。
何で今回だったのか、わかる。
今は書くと長いから書かないけれど、話を聞きながら納得した。
自分の人生の方向性も、特徴も、そこに全部現れていた。
半分は過去と今の話、半分は未来とそもそもどういう設定で生まれ落ちてるのかの話。
もうあとは私の覚悟とどう動いて色付けしていくかなんだとわかった。
自分の人生から逃げずに生きる。
それは乗り越えるのとも立ち向かっていくのとも違っていて、鑑定士さんの言葉で一番印象的だったのは「自分の星を好きになる」だった。
言葉を変えると、私の場合は、自分の人生から逃げずに、自分の人生そのものを好きになっていく、そんな風に私は解釈した。
『宿題を終える』
ホロスコープ鑑定の後、妹と待ち合わせるまで、私は初めて降り立った超ローカルな駅の中のパン屋併設のカフェで時間を潰した。
1時間半ぐらいかけて、宿題を一気にやった。
宿題は興味が湧かなかったけれど、私は同じ読み解きを自分のホロスコープでも毎回する。
新しく習った基礎の通りに読み解く。
この読み解きは本当に大好きで面白い。
自分のことを客観視することができる。
見知らぬ誰かのものはさっぱり言葉が繋がらないし、人物像も思いつかないけれど、自分のものは自分のどの部分がそういう色合いを出すのかや、自分自身の体験や価値観と照らし合わせて共通項が見つかって面白い。
そして自分のことを淡々と言葉にして綴る。
例えば私なら、ホロスコープの1つから読み解けることの中に、「どんなに小さなことでも、誰かから引き渡された価値観では納得できない、必ず自分が納得できることが大事」というのがある。
そういうことも、ホロスコープの読み解きによって、客観的にわかるようになってきた。
ちなみに、テスト範囲の子午線云々の話は読んだけれどいまいち理解できず、だから言葉が変わると絶対に答えられない自分がいるのは明白だけれど、まぁそこはわからなくても困らないからいいかと開き直った!
(↑こういうところもカツオとのび太にそっくりな気がしてならない。)
『傷を見つめる』
多分私は1つの傷に関して、3年ほど見つめてる。
傷を受けた最初は、相当泣いた。
それは家族が関係している。
今回また3年ぐらい前と同じような会話が妹との間にあった。
私は今回、3年分の自分を見つめ続けて自分のために積み重ねたものに心底感謝した。
決して嫌な思いをしないということじゃない。
でももう私は自分を否定しなくて良くなった。
3年前の私は、言われるがまま、そして一番自分の中で不確かだった部分が全く理解されないどころか、自分が生きてていいのかどうかもわからないぐらいに落ちたから、私は葛藤した。
あれは強烈過ぎたし、私の子どもの頃からの不安定感の正体もわかった。
ちなみに私が自分の弱いところを出さない最大の理由は、慣れ親しんだ家族との関係にあると思っている。
私は自分の家族は好きだし1人1人尊敬もしている。
本当に善い人たちだし、心の広さも優しさもある。
その人たちでなかったら、今の私はさぞかしもっと性格の悪い人間になってたと思う。
だけど、うちの家族の最大の弱点は、弱さを各自が自分の中に受け入れられないのと、それ故に家族の誰かの弱さも受け入れられない。
だから私が落ちても、大変だったねではなく、自分のことは自分で何とかしろ、がんばれ、みんな大変なんだからと言われる。
わかるだろうか、この言葉の強さ、そして寄り添ってもらえなさ。
反対に私はそれを言わないから、家族がそれぞれしんどくなったりきつくなると、私にそっと言ってくる。
私は自分はそれをしても家族からはそれをしてもらえないことを知ってる。
一番身近な人たちがそうだったから、私は人生で本気で怖いとか死にたいと思ったような相当追い込まれていた時でさえも、全て自分で抱えるしかなかった。
ただでさえ心がもう許容範囲を超えてるのに、そこにさらなる追い討ちが来たら自分が崩れるから。
私は自分だけが大変だなんて思わないし、自分がよく頑張ったとかいう風にも思わない。
だけど、人間もう今日は疲れて無理だよという時に、今日は疲れたから無理と、これに関しては私は自分的に超傷付いたからそれに向き合えないと、そんな元気ないと、それを自然に言える環境が欲しかった。
3年前、13ヶ月私が引きこもっていたことを家族は誰も知らない。
代わりに容赦ない言葉ばかりが飛んできた。
唯一何も言ってこなかったのは一番下の妹だけで、あとは父も母も妹もそれぞれの主張を私にぶつけてきた。
私はとうに限界がきていてとてもすべてをそのまま聞けるような状態にはなかった。
まさか3人もそれぞれ自分の言葉が私をさらに追い詰めてるなんて思ってもなかったと思う。
完全にノックダウンだった。
遠く離れていたから誰も私の顔は見えない。
30年近くごまかしの術をマスターしてる私は、普通の声で普通に受け答えできるキャパがある。
電話越しには誰も気付かなかった。
もしかしたら、目の前でも私はごまかせたかもしれない。
なぜなら私はショック過ぎて何も考えられないぐらいだった時に、なんと仕事の営業の仕事があった。
正しくは、営業の仕事の合間の休憩中に爆破的な人とのやり取りがあった。
完全に気持ちは飛んだ。
だけどお客さんは予定通りにくる。
その後も3人か4人対応した。
私はもう自分が何を喋ってるのかもわからない、相手の話も耳に入ってこないような状況にも関わらず、なんと全て契約を取った。
長年の経験は、私にそれだけの能力を授けてくれた。
だけど、本当はもうとっくに自分の中では崩壊してるから、心はズタズタになっている。
3年前の時に、私は外に求めても仕方ないとはっきりと悟った。
そして、せめて自分だけは自分を、たとえそれがどこをどう見てもよろしくない自分でも、受け入れるようにしようと決めたきっかけだった。
自分が傷付いたと感じることと、自分をどう思うかは別物だと学んだ。
そして、自分以外の人がどう私のことを思っても、それがものすごい否定されるものでも、だからと言って自分まで自分を否定しなくてもいいことも学んだ。
これ家族とか夫婦とか恋人とか、近しい人にされると相当きつい。
かなり追い込まれるし、傷も深くなる。
だけどそれはそれだし、自分までもが自分を傷付けてしまうようなことを思わなくてもいいんだとわかった。
そこが私の中の大きな線引きと癒しに繋がった。
だから今回妹がこの3年の間で繰り返し色んな言葉で私を否定するようなことと同じことを言ってきても、決して平気ではなかったけれど、かと言ってそれをいちいち真に受けなくてもいいこともわかった。
そして多分、妹の方が傷付いてる。
私に向けてる風だけれど、多分それと同じものが妹自身に向かってる。
それも感じたから、私はもうそっとすることにした。
私は弱さや苦しさを溜め込むんじゃなくて出すこと、そしてその自分に付き合うことを積み重ねた。
そのことが実を結んだように感じた。
傷を1つ1つ見つめていく作業は決して楽ではないけれど、必ず報われる。
自分のためにし続けたことは、必ず自分に返ってくる。
だから、無視するとその分自分の元へ爆弾として返ってくる。
だけど、付き合うと大丈夫な部分や自分の逃げ場所ができる。
これは自分から逃げるのと違う。
自分が自分の手を引いて、「今のこの状況危ないからちょっと隠れようか」みたいな感じ。
3年ほど鍛えといて良かった!と思った。
言うならば心の筋トレみたいなもの。
いちいちすごい筋トレみたいなことはしていない。
私がしたのは多分2つ。
1つは自分に合った筋トレの方法を模索して見つけたこと。
もう1つは気が向いた時だけ軽いストレッチをしたこと。
ストレッチは、泣くこともあれば、そうしたメンタル系の本を読むこともあれば、ノートに自分の気持ちのまま何かを書くこともあれば、逃げて全く関係のないことをすることもある。
ただ大事なのは、ストレッチの方法は何でもいいけれど、そういう自分を見捨てないこと。
『明日というか今日』
変な時間に目覚めた私は、真夜中らしい心の声を綴った。
だけど、今日こそホロスコープの講座で、その前に知人の方が作品展をされてるということで初めての三越日本橋本店に出向き、そして最後にヒーリングのレッスンがある。
寝ないとまずい。
まずは寝よう。
関係ないけれど、英語でおやすみはgoodnight だけど、実際の挨拶の時は「Have a good night」になる。
この表現、私大好きなことを思い出した。
何ともアホらしい話だけれど、家を出る1時間前、私は右手親指の指の腹にトゲが2本も刺さっているのを発見した。
多分ナスのトゲ。
どうしても煮浸しが作りたくて、揚げ物してる傍らでその後に揚げるナスの準備をしていた。
(煮浸しー麺つゆに大根おろしを投入して、そこに素揚げした野菜を入れて浸して味を染み込ませた食べ物)
その時にやたらとトゲのあるナスだなと思ってはいた。
スーパーに出す用ではなく、自然のままに育てるとこういう姿になるんだろうなぁという、ナス本来の力に満ちたものだった。
チクチクするとは思ったけれど、まさかトゲが刺さってるとは思っていなかった。
まだ荷造りも終わってないのにナスのトゲ抜き…。
しかも木のトゲと違ってトゲが細い。
業務用の極細針を使ってトゲを抜くことの2本分。
支度をする前に力尽きそうだった。
『カツオ×のび太』
カツオは磯野カツオ。
のび太は野比のび太。
この2人の弱点や短所をかき集めたのが自分だと思うとゾッとした(滝汗)。
ホロスコープの宿題は、1ヶ月近く時間があったにも関わらず終わらなくて、今これから残りの4分の3に取り組む。
つい最近のサザエさんでは、早くもカツオの夏休みの宿題の取り組み方について、家族のみならず裏のおばあちゃんも巻き込んでの環境作りになっていた。
のび太もすぐに楽をしようとする。
そして最後はドラえもん頼み。
とりあえず、ヒーリングの勉強会の方のやるべきことは今終わったから、これからはホロスコープの宿題at東京始める。
at東京というのがすでにおかしい。
ちなみにどちらのキャラクターかは忘れたけれど、時間を逆算して、自分の能力を過大に見積もって、「あとこのぐらいの時間があれば宿題終わりそうだから、先に遊ぼう!先に漫画読もう!」などというアホなシーンが出てくる。
まさにそれも私。
私は昨日、今しなくてもいいレシートの整理をなんと延々3時間以上やっていた(お陰でそちらはかなり片付いた)。
その3時間あれば、ホロスコープの宿題終わった…。
『センスない』
ホロスコープの宿題をしている。
名前は伏せられた有名人のホロスコープを、講座で教えてもらった手法で読み解いていく。
やっていてわかる。
本当に私は星読みのセンスがない。
このブログとは打って変わって、私はホロスコープから読み取れることを文章に起こすのが大の苦手で仕方ない。
言葉を繋げても、「これ誰?」となる。
誰かを当てる必要はないけれど、自分の文章を読んでいてもそこからその人物の特徴がさっぱり見えてこない。
『暑い』
暑くて目覚めた。
クーラーのリモコンの在り処がわからず、右往左往した。
ようやく見つけて部屋は涼しくなった。
『ホロスコープ鑑定 again』
今回東京にもう1日滞在した理由は、ホロスコープ鑑定を受けるため。
1時間半個人宅で超みっちり専門用語オンパレードで読み解いてもらってきた(録音OKだったから、またこれから何回か聴く予定)。
本当は先月を希望した。
5月の末の話だった。
ところが6月はもう予約がいっぱいで、次空いてるのは7月以降だと言われた。
それで行けたのが今回だった。
何で今回だったのか、わかる。
今は書くと長いから書かないけれど、話を聞きながら納得した。
自分の人生の方向性も、特徴も、そこに全部現れていた。
半分は過去と今の話、半分は未来とそもそもどういう設定で生まれ落ちてるのかの話。
もうあとは私の覚悟とどう動いて色付けしていくかなんだとわかった。
自分の人生から逃げずに生きる。
それは乗り越えるのとも立ち向かっていくのとも違っていて、鑑定士さんの言葉で一番印象的だったのは「自分の星を好きになる」だった。
言葉を変えると、私の場合は、自分の人生から逃げずに、自分の人生そのものを好きになっていく、そんな風に私は解釈した。
『宿題を終える』
ホロスコープ鑑定の後、妹と待ち合わせるまで、私は初めて降り立った超ローカルな駅の中のパン屋併設のカフェで時間を潰した。
1時間半ぐらいかけて、宿題を一気にやった。
宿題は興味が湧かなかったけれど、私は同じ読み解きを自分のホロスコープでも毎回する。
新しく習った基礎の通りに読み解く。
この読み解きは本当に大好きで面白い。
自分のことを客観視することができる。
見知らぬ誰かのものはさっぱり言葉が繋がらないし、人物像も思いつかないけれど、自分のものは自分のどの部分がそういう色合いを出すのかや、自分自身の体験や価値観と照らし合わせて共通項が見つかって面白い。
そして自分のことを淡々と言葉にして綴る。
例えば私なら、ホロスコープの1つから読み解けることの中に、「どんなに小さなことでも、誰かから引き渡された価値観では納得できない、必ず自分が納得できることが大事」というのがある。
そういうことも、ホロスコープの読み解きによって、客観的にわかるようになってきた。
ちなみに、テスト範囲の子午線云々の話は読んだけれどいまいち理解できず、だから言葉が変わると絶対に答えられない自分がいるのは明白だけれど、まぁそこはわからなくても困らないからいいかと開き直った!
(↑こういうところもカツオとのび太にそっくりな気がしてならない。)
『傷を見つめる』
多分私は1つの傷に関して、3年ほど見つめてる。
傷を受けた最初は、相当泣いた。
それは家族が関係している。
今回また3年ぐらい前と同じような会話が妹との間にあった。
私は今回、3年分の自分を見つめ続けて自分のために積み重ねたものに心底感謝した。
決して嫌な思いをしないということじゃない。
でももう私は自分を否定しなくて良くなった。
3年前の私は、言われるがまま、そして一番自分の中で不確かだった部分が全く理解されないどころか、自分が生きてていいのかどうかもわからないぐらいに落ちたから、私は葛藤した。
あれは強烈過ぎたし、私の子どもの頃からの不安定感の正体もわかった。
ちなみに私が自分の弱いところを出さない最大の理由は、慣れ親しんだ家族との関係にあると思っている。
私は自分の家族は好きだし1人1人尊敬もしている。
本当に善い人たちだし、心の広さも優しさもある。
その人たちでなかったら、今の私はさぞかしもっと性格の悪い人間になってたと思う。
だけど、うちの家族の最大の弱点は、弱さを各自が自分の中に受け入れられないのと、それ故に家族の誰かの弱さも受け入れられない。
だから私が落ちても、大変だったねではなく、自分のことは自分で何とかしろ、がんばれ、みんな大変なんだからと言われる。
わかるだろうか、この言葉の強さ、そして寄り添ってもらえなさ。
反対に私はそれを言わないから、家族がそれぞれしんどくなったりきつくなると、私にそっと言ってくる。
私は自分はそれをしても家族からはそれをしてもらえないことを知ってる。
一番身近な人たちがそうだったから、私は人生で本気で怖いとか死にたいと思ったような相当追い込まれていた時でさえも、全て自分で抱えるしかなかった。
ただでさえ心がもう許容範囲を超えてるのに、そこにさらなる追い討ちが来たら自分が崩れるから。
私は自分だけが大変だなんて思わないし、自分がよく頑張ったとかいう風にも思わない。
だけど、人間もう今日は疲れて無理だよという時に、今日は疲れたから無理と、これに関しては私は自分的に超傷付いたからそれに向き合えないと、そんな元気ないと、それを自然に言える環境が欲しかった。
3年前、13ヶ月私が引きこもっていたことを家族は誰も知らない。
代わりに容赦ない言葉ばかりが飛んできた。
唯一何も言ってこなかったのは一番下の妹だけで、あとは父も母も妹もそれぞれの主張を私にぶつけてきた。
私はとうに限界がきていてとてもすべてをそのまま聞けるような状態にはなかった。
まさか3人もそれぞれ自分の言葉が私をさらに追い詰めてるなんて思ってもなかったと思う。
完全にノックダウンだった。
遠く離れていたから誰も私の顔は見えない。
30年近くごまかしの術をマスターしてる私は、普通の声で普通に受け答えできるキャパがある。
電話越しには誰も気付かなかった。
もしかしたら、目の前でも私はごまかせたかもしれない。
なぜなら私はショック過ぎて何も考えられないぐらいだった時に、なんと仕事の営業の仕事があった。
正しくは、営業の仕事の合間の休憩中に爆破的な人とのやり取りがあった。
完全に気持ちは飛んだ。
だけどお客さんは予定通りにくる。
その後も3人か4人対応した。
私はもう自分が何を喋ってるのかもわからない、相手の話も耳に入ってこないような状況にも関わらず、なんと全て契約を取った。
長年の経験は、私にそれだけの能力を授けてくれた。
だけど、本当はもうとっくに自分の中では崩壊してるから、心はズタズタになっている。
3年前の時に、私は外に求めても仕方ないとはっきりと悟った。
そして、せめて自分だけは自分を、たとえそれがどこをどう見てもよろしくない自分でも、受け入れるようにしようと決めたきっかけだった。
自分が傷付いたと感じることと、自分をどう思うかは別物だと学んだ。
そして、自分以外の人がどう私のことを思っても、それがものすごい否定されるものでも、だからと言って自分まで自分を否定しなくてもいいことも学んだ。
これ家族とか夫婦とか恋人とか、近しい人にされると相当きつい。
かなり追い込まれるし、傷も深くなる。
だけどそれはそれだし、自分までもが自分を傷付けてしまうようなことを思わなくてもいいんだとわかった。
そこが私の中の大きな線引きと癒しに繋がった。
だから今回妹がこの3年の間で繰り返し色んな言葉で私を否定するようなことと同じことを言ってきても、決して平気ではなかったけれど、かと言ってそれをいちいち真に受けなくてもいいこともわかった。
そして多分、妹の方が傷付いてる。
私に向けてる風だけれど、多分それと同じものが妹自身に向かってる。
それも感じたから、私はもうそっとすることにした。
私は弱さや苦しさを溜め込むんじゃなくて出すこと、そしてその自分に付き合うことを積み重ねた。
そのことが実を結んだように感じた。
傷を1つ1つ見つめていく作業は決して楽ではないけれど、必ず報われる。
自分のためにし続けたことは、必ず自分に返ってくる。
だから、無視するとその分自分の元へ爆弾として返ってくる。
だけど、付き合うと大丈夫な部分や自分の逃げ場所ができる。
これは自分から逃げるのと違う。
自分が自分の手を引いて、「今のこの状況危ないからちょっと隠れようか」みたいな感じ。
3年ほど鍛えといて良かった!と思った。
言うならば心の筋トレみたいなもの。
いちいちすごい筋トレみたいなことはしていない。
私がしたのは多分2つ。
1つは自分に合った筋トレの方法を模索して見つけたこと。
もう1つは気が向いた時だけ軽いストレッチをしたこと。
ストレッチは、泣くこともあれば、そうしたメンタル系の本を読むこともあれば、ノートに自分の気持ちのまま何かを書くこともあれば、逃げて全く関係のないことをすることもある。
ただ大事なのは、ストレッチの方法は何でもいいけれど、そういう自分を見捨てないこと。
『明日というか今日』
変な時間に目覚めた私は、真夜中らしい心の声を綴った。
だけど、今日こそホロスコープの講座で、その前に知人の方が作品展をされてるということで初めての三越日本橋本店に出向き、そして最後にヒーリングのレッスンがある。
寝ないとまずい。
まずは寝よう。
関係ないけれど、英語でおやすみはgoodnight だけど、実際の挨拶の時は「Have a good night」になる。
この表現、私大好きなことを思い出した。
2018年7月23日月曜日
川のある場所
重軽の石がある神社に行く前、私は去年の夏から秋にかけて昼休みによく行ってた川のある静かな場所に立ち寄った。
そこには大きな駐車場と和菓子屋さんがある。
今回は寄らなかったけれど(なぜならその後にケーキが控えていたから)、ある時お店に入って生チョコ大福を買って食べた。
それがものすごく絶品で、私はそこの生チョコ大福を何回リピートしたか知らない。
常に誰もいない店内でやって行けるんだろうかと思ったら、どうやらそこは有名な和菓子屋さんらしく、ショッピングモール系のお店の中にいくつか店を出していた。
あんなに美味しいんだから間違いないと思った。
大きな駐車場は4トントラックなんかも止めれるから、駐車場はいつも適度に混み合っていた。
昼時になると、営業マンとか巡回型の電気や配管工事系の車とか、サラリーマンのお兄さんもおじさんもたくさんいた(みんな車の中)。
私1人だけが女みたいなことは常だった。
私は車の中の方が暑いから、いつも川の横にある大きな広場に降りて行って、そこにある小屋みたいな形をした木の椅子とテーブルがあるところでお昼を食べた。
その日もおにぎりを持参したから、おにぎりをそこで食べた。
一応メインはケーキだから、ケーキを美味しくいただくために外食はさけておにぎりにした。
最近、自分で握るおにぎりが美味しくて、ちょっとしたマイブームになっている。
大福だのケーキだのとスイーツの話が続いているけれど、私は基本的に甘いものはそんなに好きじゃない。
ちょっと食べたら十分な人。
ケーキはどちらかと言うと、私の中では「特別な時に食べる」感じ。
自分の誕生日とか、何かしらのお祝いや打ち上げ的な意味で食べる。
だから今回もケーキを食べたくて食べに行ったと言うよりも、もっと別の目的で食べに行っている。
ちなみにそこの大福は特別。
スイーツのリピートなんてほぼほぼしないけれど、そこは名古屋に住んでいた時の最寄駅近くにあった絶品たい焼き屋さん並みにハマった美味しさだった。
そのたい焼きは本当に美味しくて、今でこそ普通なのかもだけど、皮の部分に餅のようなものが入っていて、外はパリッ、中はモチッとした食感が美味しかった。
さらに味のバリエーションもたくさんあるわ、店主のおばさんは朗らかで親しみやすい人だわ、餅の原材料が余ると分けてくれるわ、特売日もあって安くなるわで、とにかく私はそこのたい焼きとそこのお店が大好きだった。
いつかの年の友達の誕生日の日にそのたい焼きをケーキ代わりに出したら「誕生日にめでたいのたい焼きもいいね!っていうか旨っ‼︎」とスイーツ通にも絶賛された一品だった。
なんと友達は相当気に入って、うちから車で30分はかかるようなところに住んでいたけれど、その後しょっちゅうたい焼きを買い求めに来たらしい。
話があちこちに逸れたけれど、その川原の近くでおにぎりを食べて、少し書き物をして、そして読書もした。
外は真夏日で暑いのに、その小屋みたいなところは360度風が通って涼しかった。
アゲハ蝶が小屋に入ってきたり、セミの鳴き声が聞こえたり、ボーッとするのにこれ以上ない良い場所だった。
その場所は、仕事の昼休みに気分転換をするだけじゃなく、大事な決断をした場所でもあった。
その日は雨だった。
だから下には降りず、車の中で色の変わった川を眺めながら、雨がフロントガラスに伝わる様子を見ながら静かに過ごしていた。
午前中の体に重たいものが付いたような1秒1秒長く感じた時間と空間から抜け出して、初めてきちんと泣いた。
声も出さず、静かに、声が漏れそうになってもぎゅっと口を閉じて声を殺したまま泣いた。
世界が終わるかと思った。
仕事中にあまりにも無視されてさすがにそれは私も仕事に差し支えるから(心が折れて仕事に集中できなくなる)、本人に挨拶とかは無視しても構わないけれど、仕事の用事を私が伝える時だけは普通にして欲しいとお願いしようかと考えてた矢先だった。
2日ほど引きずったら、今度はいなくなると聞いて、そんなお願いは一気に吹っ飛んだ。
気持ちはどこをどう駆け抜けてるのかわからず、私はその日の昼休み、とりあえずその川を目がけて車を走らせた。
どこにも行きようのない気持ちと絶対的に変えられない未来を前に、私はようやく自分の気持ちと向き合う場面を作ることができた。
私はその車の中で、賭け事をした。
その賭け事は、100%起こらないことだというのは知っていた。
だから賭け事と言っても、明らかに起こらないとわかってることが起こるなんてあり得なかった。
絶対に起こらないと確信していた。
だけどその絶対に起こらないことがもし起こったら、私は自分の心に従ってみようと決めた。
あまりにも色々ありすぎて、私の中ではもう全てから離れるつもりでいた。
だから、小さな気持ちはもう無視の予定だった。
(当時私の中では、それはまだ「小さな」気持ちだと思ってた)
私は賭け事をしたことが起こるわけないと思っていたから、あと残り少ない日々は静かにひっそりと過ごすことになるだろうと思っていた。
あと少しなら、当初言おうかと考えていた仕事上のお願い事もしなくていいかなと思ったし(そんな機会あとあっても1、2回だと思ったら我慢したらいいと思った)、自分の心の声は心の中だけにそっとしまってあとは終わりの日を迎える、最後は何事もなかったかのように見送ったらいい、そう思った。
賭け事を始めた。
嘘だと思った。
あの瞬間、時間が止まった。
100%起こらないことが目の前で起こった。
何で?と思った。
ありえないことが起こった。
ただ、それを見て私は決断した。
自分の心に正直でいようと。
あれから何ヶ月もして、結局今もあの時に何が起こったのかはわからない。
でも、「ありえない」ということはないんだとわかった。
そして時に人生の中で重要な局面を迎える時ほど、通常では絶対にないことも起こりうることがわかった。
これもそうだった。
この時の決断の変更がなければ、おそらくだけれども、私は今全く別の体験をする人生にあったと思う。
いつの時もそうで、たった1つの決断はとてつもなく小さい。
その時の決断(理性よりも心を優先)はすごく大きかったけれど、そんなのは例外中の例外で、毎日は小さな選択の集合体で成り立っている。
例えばその場所も最初に知ったのは、10年以上前の話。
小児精神科医の先生が主催する勉強会があった。
上司に恵まれて、行きたいと言ったら行かせてもらえることになった。
本来なら大御所の人たちが行くものなのに、上司は私が行けるように裏で手配をして、それで数回通った。
その時に通った道すがら知り得た川原で、それがまさか10年後の私の昼休みスポットや美味しい和菓子屋さん、はたまた大きな決断を下すために奇跡を目撃する場所になるとは思ってもみなかった。
その川原に寄る予定はなかったけれど、ケーキの前に重軽の石があった神社に立ち寄る予定も組み込んだ関係で路線変更となって、それで一緒に立ち寄ることにした。
その川原の場所を通過点にすることは可能だから久しぶりにそこに行こうと思った。
振り返ると、私は当時の仕事の休憩場所や、仕事帰りに立ち寄る場所として、川が見える場所ばかりを選んでいた。
そこの川原もそうだったし、もう1つ職場の近くに道の駅があって、そこの川沿いのほとんど車の停まっていない駐車場も私は好きだった。
川の見える風景を好きこのんでいたなと思う。
静かに自分と向き合えるのが好きだった。
そういう場所は人も少なく、たとえいたとしてもみんな思い思いに過ごすからいても気にならない。
私が自分の世界に没頭するように、他の人たちもそれぞれの世界に没頭する。
だから、色んなことがありすぎた去年は、昼休みや仕事帰りにその川の見える風景に自分を連れて行って、そこで自分の気持ちを眺めたり整理したりしていた。
私が川のある風景にばかり行っていたと気付いたのは最近で、気付いた時顔がニコッとしてしまいそうだった。
無意識のうちにその人と色んなことが繋がっていたんだなとわかる。
ちなみにその心への影響大だった態度は後から意味が変わった。
確かに心はボキッとなったし、立ち直る間も無く次の爆弾が投下されて、私には何がなんだがわからなかった。
でもその人がそういう姿を誰でも彼でも見せるわけではないことはわかってたから、そういう姿を見れたのはちょっとだけ特別感を感じた。
基本的に物事は平和の方がいいし、余計なゴダゴダとか心が苦しくなるようなのは極力避けたいと思う。
大人になればなるほど、一般的にその傾向が強くなる気がする。
色んな子どもや大人と関わった中で私なりに学んだことの1つに、嫌な部分の自分をさらけ出せる関係というのがある。
もちろんそれにも2種類ある。
1つは、本当に相手が嫌で不快感を露わにし、相手を遠ざけるため、自己防衛のために、あえて冷たくしたり突き放したり素っ気なくする。
もう1つは、無意識の中でそういう自分を出してもいい、その人に見せてもいいという、ある意味相手と一線を超えた関係があって初めて成立するもの。
その人の場合は、前者の線が濃厚だけれど、それでも普段感情を外に出さない人がものすごくわかりやすい形で出していた。
私に気を許してそんな風だったとは考えにくいけれど、それは少なくとも私以上に平和主義そうなその人が見せた唯一のものだった。
それは私の心を突き刺すものすごくマイナスの力に満ち満ちてはいたけれど、でもいつからかそれは特別な感じにも見えるようになった。
みんなに見せるものではない、多分その人が人生で生きている中でもそうそう表に出さない自分の姿だろうから、そういう意味で特別感があった。
贅沢を言うなら、もっと別の形の特別感が私は良かったけれど、でも平穏無事ですべてをまあるく収めたとするなら絶対に見ることのできない姿ではあった。
知らない方が平和に時間は流れたと思う。
知ったことで、平和の代わりに痛みに悲しみにやり場のない思いに色々てんこ盛りではあったけれど、それと同等にその人が大切だと感じている自分にも気付けた。
何にも代え難い、かけがえのない存在であること、そういう人に私は出逢えたことを知った。
賭けが想像もしていなかった方向に動いたことで、私はその後突拍子もない行動に出た。
自分の重たすぎる行動や、相手の迷惑を省みない自分勝手な振る舞いには、自分でもありえないと思っていた。
だけど、私がそこまでしつこくそして絶対的に自分の意思を貫いたのは、繋がりとも呼べないような繋がりを断ちたくなかったから。
今繋がらないともう二度と人生がどこかで重ならないことはわかっていた。
私はそれが本当に嫌だった。
黙っていたら相手から来てくれるようなそんな上手い具合にはいかないことも知ってた。
だから私は動いた。
今振り返ると、怖いもの知らずとはあの時の私のことを言うんだと思う。
私は、永遠に重ならない人生の方が怖かった。
だから動くしかなかった。
そしてあの時の私は、本当に全てに対して全力だった。
理性とかそうしたものたちは一気にぶっ飛んで、あとは非常に動物的な感じで、本能というか体の内側から湧く力でひたすら動いていた。
動いて重ならなかった結果は仕方ない。
今も色々納得できない自分がいるけれど、それでもあの時動けたのは、自分の中の全部の気持ちを1つにしたからだと思う。
理性よりも心を選んだ私は、あの時自分の人生そのものをそこに対して懸けた、そんな気がする。
その人といられるなら、私はもう本当に他は何でも良かった。
そして何となくだけど、あの時にありえないことが起こったのは、私をその道に進ませるために、要は黙るのではなく相手に伝えるために、そうなったような気がする。
私からしたらあの賭け事は、人間が勝手に雨を降らせたり止ませたりできない、そういう天の采配レベルのことだった。
今回のケーキは、わざと去年と同じ店にした。
その方がこの1年がどんな風かわかると思ったから。
今年は自分が食べたい!と思ったケーキにしようと思って店に入った。
入口付近ですぐに目に飛び込んできたのは、苺のショートケーキだった。
ショーケースまで結構距離のあるお店だけれど、それでも真っ先に目の中に入ってきた。
去年もそうだったから今年は違うのにしようと思ったけれど、結局ショーケースを見たらやっぱり苺のショートケーキが一番その時の気持ちに合ってた。
冷たい飲み物よりもホットコーヒーと思って頼んだら、なんと去年と全く同じ組み合わせのケーキセットになってた。
去年、私はケーキを食べた店で自分がものすごく葛藤しながら日記を書いたことをとてもよく覚えている。
その時の私は自分の中にある気持ちをないことにしようとしてた。
だから名前を絶対に書かなかった。
すぐ隣りのページは8月10日(木)で、私は仕事に行く前に朝マックに行ってさらに駅で用事を足してから行こうとしてた(時間配分間違えて、遅刻した気がする)。
その日の日記にある。
「本当はここに残しておこうかと思った」
その一文に全ての気持ちが入ってた。
私はその人の名前やその人との間であったことを残そうとした。
だけど、それを書いたら、自分の中だけにあったものが形を持ってしまいそうで、それが怖かった。
まだまだ私は葛藤してた。
自分で気付きながらも、その人の名前や自分が何を思ってるとか書けなかった。
文字にして出す、そうしたら認めることになりそうで、私はそれに対してものすごく抵抗した。
色んな種類の葛藤と、そして私は多分そこまで葛藤した理由は、怖かったからだと思う。
人と関係を持たないことで得られる心の平穏に私はすっかり魅せられた。
失う怖さや自分1人で生きていく時間の中に常にある喪失感、私はそういうものが本当に嫌だった。
ましてや可能性があるなんて思えない人に自ら声をかけるなんて、そんな博打みたいなことしたくなかった。
だから知らないふり気付かないふりの方がそういう意味で楽チンだった。
その時の私は、その1ヶ月ぐらい後から七転八倒するなんて当然知らない。
七転び八起きじゃなくて、七転八倒。
その葛藤してた頃の自分を思い出しつつ、今年のケーキを食べた。
川のある風景も、重軽の石も、たった1年で新しく仲間入りした思い出だった。
去年の夏、私は立場もわきまえず、本当に自分の気持ちのままに突っ走った。
計算も計画もできない私は、本当にそのままの自分を呈する他なかった。
手紙には書かなかったけれども、私は1つだけどうしても勘違いされたくないことがあった。
何をどういう風に捉えられても、それは相手の捉え方だから、私がどうにかできるものではなかったけれども、勘違いだけはされたくなかった。
相手の社会的な立場や外見というようなものには一切気持ちが動かなかったということ。
純粋にその人というものに私の気持ちが動いていたこと。
その部分だけはどうしても相手に伝えたかった。
私はその人の何に惹かれてるのか最後まで言葉を持っていなかった。
それでも社会的なものや外見という、婚活なんかでは超重要視されることは本当に何1つ私には関係なくて、むしろそれが私には弊害でもあった。
特に立場的なものは、分不相応過ぎて余計と近寄りがたかった。
ネットの記事でも読んだことあったし、男友達から聞いた実体験もあった。
結婚したくて言い寄ってくる女たちがいるということ。
しかも結婚したいのは、その人じゃない。
その人の社会的地位とか収入とかそういうのを目当てに結婚したいのだと言う。
もちろんそんなこと声に出して言うわけではないけれど、そういう意味で寄ってこられるのはわかるとのこと。
モテ男の男友達いわく、そういうのは雰囲気でわかるし、本気で幻滅するし、相手の人間性を疑うと言ってた。
(実際に男友達の社会的立場に惚れ込んでアタックしてきた女の人も少なくとも2人以上いて、私も話聞いて一緒にドン引きしてた)
私はそんな風にだけは絶対に思われたくなかった。
しかも結婚を前提にその人に近付いたわけじゃない。
だけど、私の方はそう思われても言い訳のできない立場や状況にあったから、それだけは本当に勘違いされたくなかった。
きちんと話したことない人が誘ってきたら、そんな風に思われてもおかしくなかった。
たとえ私にそんなつもりがなくても、そう捉える人だっているだろう。
だから私は、何か自分の中でうまく言い表せないものでも、なんとか言葉にしてその人に伝えたかった。
自分の中にあるものや、その人に出逢えて本当に良かったということを、そのまま伝えたかった。
面と向かっての時間がもらえない以上、私は他の策を取るしかなく、それが手紙に繋がった。
正しくは、策を練るような精神的余裕はなく、思い付いたままに動いたらそれが手紙だった。
この文章自体、3日か4日ぐらいに分けて書いている。
自分でも毎回驚くけれども、この人についてこうして文章を書いたり過去のある場面を鮮明に思い出したりすると、理由のわからない涙が出てくる。
心の深いところに到達しないと見えない景色だったり、感じられない感覚だったりするところから来ている感じはする。
失恋してボロボロ泣くのとは違っていて、言うならば、10年以上前に亡くなったばばちゃん(母方祖母)との思い出を思い出す時や、2歳の姪っ子の全身全霊で表現する「大好き」や、友達が言ってくれた「ぶっしー、生きて!」や、そういう状態の時に流す涙と似ている。
「ぶっしー、生きて!」は私が死のうとしたのでは全くない。
友達の友達が自殺したらしく、それで友達は悔しい悔しいと言って電話をかけてきて、当時プー太郎だった私に「ぶっしー死んじゃダメだよ!ぶっしー、生きて!」と言った。
私も友達の言葉を聞きながら泣いた。
泣こうと思って泣くんじゃなくて、勝手に涙が出てくる、そういう感じの涙を流す源のところにその人はいる。
時間が解決してくれるわけではないみたいだから、それはこの数ヶ月で期待しなくなった。
だから私は、この状態に飽きる時まで自分に付き合い続けようと思っている。
今はもうその人に迷惑をかけることもないから、私は私のペースでその人とのことは何とか自分の中で良い感じで昇華したいと思っている。
言葉を間違えた。
「昇華したい」は多分次の段階。
今はまだ昇華したいとさえ思っていない。
どう扱っていいかもわからないから、野放しに近い。
今日私は一度だけ外に出た。
東京に行く前にどうしてもコピーしておきたかったデータがあって、コピーのために徒歩3〜4分のコンビニに歩いて行った。
うちのすぐ近所にあるお店がある。
お店の前にブラックボードがあって、最近のお店のウリを紹介していた。
普段歩いて通ることなんかないし、そもそもボードがあることさえ知らなかったから、初めてそれを見た。
私は探してもないし、求めてもないし、引き寄せてもない。
だけど、そのボードにはその人の名前がひらがなで書いてあった。
毎回何でこんなところに⁉︎というような場所で遭遇する。
常々こんな風だから、何とかしよう!なんて力むと余計におかしくなりそうだから、放置している。
まだまだ普通に私はその名前に反応するし、昇華からはずい分と遠いところにいる。
だから私が飽きるか、新しく誰かに出逢うか、そんなことでもない限りしばらく大きな変化は望めそうにないからあきらめている。
心の深いところで響くものがあっても、それは今の日常に差し支えないから、そのままでいいかなと思っている。
そこには大きな駐車場と和菓子屋さんがある。
今回は寄らなかったけれど(なぜならその後にケーキが控えていたから)、ある時お店に入って生チョコ大福を買って食べた。
それがものすごく絶品で、私はそこの生チョコ大福を何回リピートしたか知らない。
常に誰もいない店内でやって行けるんだろうかと思ったら、どうやらそこは有名な和菓子屋さんらしく、ショッピングモール系のお店の中にいくつか店を出していた。
あんなに美味しいんだから間違いないと思った。
大きな駐車場は4トントラックなんかも止めれるから、駐車場はいつも適度に混み合っていた。
昼時になると、営業マンとか巡回型の電気や配管工事系の車とか、サラリーマンのお兄さんもおじさんもたくさんいた(みんな車の中)。
私1人だけが女みたいなことは常だった。
私は車の中の方が暑いから、いつも川の横にある大きな広場に降りて行って、そこにある小屋みたいな形をした木の椅子とテーブルがあるところでお昼を食べた。
その日もおにぎりを持参したから、おにぎりをそこで食べた。
一応メインはケーキだから、ケーキを美味しくいただくために外食はさけておにぎりにした。
最近、自分で握るおにぎりが美味しくて、ちょっとしたマイブームになっている。
大福だのケーキだのとスイーツの話が続いているけれど、私は基本的に甘いものはそんなに好きじゃない。
ちょっと食べたら十分な人。
ケーキはどちらかと言うと、私の中では「特別な時に食べる」感じ。
自分の誕生日とか、何かしらのお祝いや打ち上げ的な意味で食べる。
だから今回もケーキを食べたくて食べに行ったと言うよりも、もっと別の目的で食べに行っている。
ちなみにそこの大福は特別。
スイーツのリピートなんてほぼほぼしないけれど、そこは名古屋に住んでいた時の最寄駅近くにあった絶品たい焼き屋さん並みにハマった美味しさだった。
そのたい焼きは本当に美味しくて、今でこそ普通なのかもだけど、皮の部分に餅のようなものが入っていて、外はパリッ、中はモチッとした食感が美味しかった。
さらに味のバリエーションもたくさんあるわ、店主のおばさんは朗らかで親しみやすい人だわ、餅の原材料が余ると分けてくれるわ、特売日もあって安くなるわで、とにかく私はそこのたい焼きとそこのお店が大好きだった。
いつかの年の友達の誕生日の日にそのたい焼きをケーキ代わりに出したら「誕生日にめでたいのたい焼きもいいね!っていうか旨っ‼︎」とスイーツ通にも絶賛された一品だった。
なんと友達は相当気に入って、うちから車で30分はかかるようなところに住んでいたけれど、その後しょっちゅうたい焼きを買い求めに来たらしい。
話があちこちに逸れたけれど、その川原の近くでおにぎりを食べて、少し書き物をして、そして読書もした。
外は真夏日で暑いのに、その小屋みたいなところは360度風が通って涼しかった。
アゲハ蝶が小屋に入ってきたり、セミの鳴き声が聞こえたり、ボーッとするのにこれ以上ない良い場所だった。
その場所は、仕事の昼休みに気分転換をするだけじゃなく、大事な決断をした場所でもあった。
その日は雨だった。
だから下には降りず、車の中で色の変わった川を眺めながら、雨がフロントガラスに伝わる様子を見ながら静かに過ごしていた。
午前中の体に重たいものが付いたような1秒1秒長く感じた時間と空間から抜け出して、初めてきちんと泣いた。
声も出さず、静かに、声が漏れそうになってもぎゅっと口を閉じて声を殺したまま泣いた。
世界が終わるかと思った。
仕事中にあまりにも無視されてさすがにそれは私も仕事に差し支えるから(心が折れて仕事に集中できなくなる)、本人に挨拶とかは無視しても構わないけれど、仕事の用事を私が伝える時だけは普通にして欲しいとお願いしようかと考えてた矢先だった。
2日ほど引きずったら、今度はいなくなると聞いて、そんなお願いは一気に吹っ飛んだ。
気持ちはどこをどう駆け抜けてるのかわからず、私はその日の昼休み、とりあえずその川を目がけて車を走らせた。
どこにも行きようのない気持ちと絶対的に変えられない未来を前に、私はようやく自分の気持ちと向き合う場面を作ることができた。
私はその車の中で、賭け事をした。
その賭け事は、100%起こらないことだというのは知っていた。
だから賭け事と言っても、明らかに起こらないとわかってることが起こるなんてあり得なかった。
絶対に起こらないと確信していた。
だけどその絶対に起こらないことがもし起こったら、私は自分の心に従ってみようと決めた。
あまりにも色々ありすぎて、私の中ではもう全てから離れるつもりでいた。
だから、小さな気持ちはもう無視の予定だった。
(当時私の中では、それはまだ「小さな」気持ちだと思ってた)
私は賭け事をしたことが起こるわけないと思っていたから、あと残り少ない日々は静かにひっそりと過ごすことになるだろうと思っていた。
あと少しなら、当初言おうかと考えていた仕事上のお願い事もしなくていいかなと思ったし(そんな機会あとあっても1、2回だと思ったら我慢したらいいと思った)、自分の心の声は心の中だけにそっとしまってあとは終わりの日を迎える、最後は何事もなかったかのように見送ったらいい、そう思った。
賭け事を始めた。
嘘だと思った。
あの瞬間、時間が止まった。
100%起こらないことが目の前で起こった。
何で?と思った。
ありえないことが起こった。
ただ、それを見て私は決断した。
自分の心に正直でいようと。
あれから何ヶ月もして、結局今もあの時に何が起こったのかはわからない。
でも、「ありえない」ということはないんだとわかった。
そして時に人生の中で重要な局面を迎える時ほど、通常では絶対にないことも起こりうることがわかった。
これもそうだった。
この時の決断の変更がなければ、おそらくだけれども、私は今全く別の体験をする人生にあったと思う。
いつの時もそうで、たった1つの決断はとてつもなく小さい。
その時の決断(理性よりも心を優先)はすごく大きかったけれど、そんなのは例外中の例外で、毎日は小さな選択の集合体で成り立っている。
例えばその場所も最初に知ったのは、10年以上前の話。
小児精神科医の先生が主催する勉強会があった。
上司に恵まれて、行きたいと言ったら行かせてもらえることになった。
本来なら大御所の人たちが行くものなのに、上司は私が行けるように裏で手配をして、それで数回通った。
その時に通った道すがら知り得た川原で、それがまさか10年後の私の昼休みスポットや美味しい和菓子屋さん、はたまた大きな決断を下すために奇跡を目撃する場所になるとは思ってもみなかった。
その川原に寄る予定はなかったけれど、ケーキの前に重軽の石があった神社に立ち寄る予定も組み込んだ関係で路線変更となって、それで一緒に立ち寄ることにした。
その川原の場所を通過点にすることは可能だから久しぶりにそこに行こうと思った。
振り返ると、私は当時の仕事の休憩場所や、仕事帰りに立ち寄る場所として、川が見える場所ばかりを選んでいた。
そこの川原もそうだったし、もう1つ職場の近くに道の駅があって、そこの川沿いのほとんど車の停まっていない駐車場も私は好きだった。
川の見える風景を好きこのんでいたなと思う。
静かに自分と向き合えるのが好きだった。
そういう場所は人も少なく、たとえいたとしてもみんな思い思いに過ごすからいても気にならない。
私が自分の世界に没頭するように、他の人たちもそれぞれの世界に没頭する。
だから、色んなことがありすぎた去年は、昼休みや仕事帰りにその川の見える風景に自分を連れて行って、そこで自分の気持ちを眺めたり整理したりしていた。
私が川のある風景にばかり行っていたと気付いたのは最近で、気付いた時顔がニコッとしてしまいそうだった。
無意識のうちにその人と色んなことが繋がっていたんだなとわかる。
ちなみにその心への影響大だった態度は後から意味が変わった。
確かに心はボキッとなったし、立ち直る間も無く次の爆弾が投下されて、私には何がなんだがわからなかった。
でもその人がそういう姿を誰でも彼でも見せるわけではないことはわかってたから、そういう姿を見れたのはちょっとだけ特別感を感じた。
基本的に物事は平和の方がいいし、余計なゴダゴダとか心が苦しくなるようなのは極力避けたいと思う。
大人になればなるほど、一般的にその傾向が強くなる気がする。
色んな子どもや大人と関わった中で私なりに学んだことの1つに、嫌な部分の自分をさらけ出せる関係というのがある。
もちろんそれにも2種類ある。
1つは、本当に相手が嫌で不快感を露わにし、相手を遠ざけるため、自己防衛のために、あえて冷たくしたり突き放したり素っ気なくする。
もう1つは、無意識の中でそういう自分を出してもいい、その人に見せてもいいという、ある意味相手と一線を超えた関係があって初めて成立するもの。
その人の場合は、前者の線が濃厚だけれど、それでも普段感情を外に出さない人がものすごくわかりやすい形で出していた。
私に気を許してそんな風だったとは考えにくいけれど、それは少なくとも私以上に平和主義そうなその人が見せた唯一のものだった。
それは私の心を突き刺すものすごくマイナスの力に満ち満ちてはいたけれど、でもいつからかそれは特別な感じにも見えるようになった。
みんなに見せるものではない、多分その人が人生で生きている中でもそうそう表に出さない自分の姿だろうから、そういう意味で特別感があった。
贅沢を言うなら、もっと別の形の特別感が私は良かったけれど、でも平穏無事ですべてをまあるく収めたとするなら絶対に見ることのできない姿ではあった。
知らない方が平和に時間は流れたと思う。
知ったことで、平和の代わりに痛みに悲しみにやり場のない思いに色々てんこ盛りではあったけれど、それと同等にその人が大切だと感じている自分にも気付けた。
何にも代え難い、かけがえのない存在であること、そういう人に私は出逢えたことを知った。
賭けが想像もしていなかった方向に動いたことで、私はその後突拍子もない行動に出た。
自分の重たすぎる行動や、相手の迷惑を省みない自分勝手な振る舞いには、自分でもありえないと思っていた。
だけど、私がそこまでしつこくそして絶対的に自分の意思を貫いたのは、繋がりとも呼べないような繋がりを断ちたくなかったから。
今繋がらないともう二度と人生がどこかで重ならないことはわかっていた。
私はそれが本当に嫌だった。
黙っていたら相手から来てくれるようなそんな上手い具合にはいかないことも知ってた。
だから私は動いた。
今振り返ると、怖いもの知らずとはあの時の私のことを言うんだと思う。
私は、永遠に重ならない人生の方が怖かった。
だから動くしかなかった。
そしてあの時の私は、本当に全てに対して全力だった。
理性とかそうしたものたちは一気にぶっ飛んで、あとは非常に動物的な感じで、本能というか体の内側から湧く力でひたすら動いていた。
動いて重ならなかった結果は仕方ない。
今も色々納得できない自分がいるけれど、それでもあの時動けたのは、自分の中の全部の気持ちを1つにしたからだと思う。
理性よりも心を選んだ私は、あの時自分の人生そのものをそこに対して懸けた、そんな気がする。
その人といられるなら、私はもう本当に他は何でも良かった。
そして何となくだけど、あの時にありえないことが起こったのは、私をその道に進ませるために、要は黙るのではなく相手に伝えるために、そうなったような気がする。
私からしたらあの賭け事は、人間が勝手に雨を降らせたり止ませたりできない、そういう天の采配レベルのことだった。
今回のケーキは、わざと去年と同じ店にした。
その方がこの1年がどんな風かわかると思ったから。
今年は自分が食べたい!と思ったケーキにしようと思って店に入った。
入口付近ですぐに目に飛び込んできたのは、苺のショートケーキだった。
ショーケースまで結構距離のあるお店だけれど、それでも真っ先に目の中に入ってきた。
去年もそうだったから今年は違うのにしようと思ったけれど、結局ショーケースを見たらやっぱり苺のショートケーキが一番その時の気持ちに合ってた。
冷たい飲み物よりもホットコーヒーと思って頼んだら、なんと去年と全く同じ組み合わせのケーキセットになってた。
去年、私はケーキを食べた店で自分がものすごく葛藤しながら日記を書いたことをとてもよく覚えている。
その時の私は自分の中にある気持ちをないことにしようとしてた。
だから名前を絶対に書かなかった。
すぐ隣りのページは8月10日(木)で、私は仕事に行く前に朝マックに行ってさらに駅で用事を足してから行こうとしてた(時間配分間違えて、遅刻した気がする)。
その日の日記にある。
「本当はここに残しておこうかと思った」
その一文に全ての気持ちが入ってた。
私はその人の名前やその人との間であったことを残そうとした。
だけど、それを書いたら、自分の中だけにあったものが形を持ってしまいそうで、それが怖かった。
まだまだ私は葛藤してた。
自分で気付きながらも、その人の名前や自分が何を思ってるとか書けなかった。
文字にして出す、そうしたら認めることになりそうで、私はそれに対してものすごく抵抗した。
色んな種類の葛藤と、そして私は多分そこまで葛藤した理由は、怖かったからだと思う。
人と関係を持たないことで得られる心の平穏に私はすっかり魅せられた。
失う怖さや自分1人で生きていく時間の中に常にある喪失感、私はそういうものが本当に嫌だった。
ましてや可能性があるなんて思えない人に自ら声をかけるなんて、そんな博打みたいなことしたくなかった。
だから知らないふり気付かないふりの方がそういう意味で楽チンだった。
その時の私は、その1ヶ月ぐらい後から七転八倒するなんて当然知らない。
七転び八起きじゃなくて、七転八倒。
その葛藤してた頃の自分を思い出しつつ、今年のケーキを食べた。
川のある風景も、重軽の石も、たった1年で新しく仲間入りした思い出だった。
去年の夏、私は立場もわきまえず、本当に自分の気持ちのままに突っ走った。
計算も計画もできない私は、本当にそのままの自分を呈する他なかった。
手紙には書かなかったけれども、私は1つだけどうしても勘違いされたくないことがあった。
何をどういう風に捉えられても、それは相手の捉え方だから、私がどうにかできるものではなかったけれども、勘違いだけはされたくなかった。
相手の社会的な立場や外見というようなものには一切気持ちが動かなかったということ。
純粋にその人というものに私の気持ちが動いていたこと。
その部分だけはどうしても相手に伝えたかった。
私はその人の何に惹かれてるのか最後まで言葉を持っていなかった。
それでも社会的なものや外見という、婚活なんかでは超重要視されることは本当に何1つ私には関係なくて、むしろそれが私には弊害でもあった。
特に立場的なものは、分不相応過ぎて余計と近寄りがたかった。
ネットの記事でも読んだことあったし、男友達から聞いた実体験もあった。
結婚したくて言い寄ってくる女たちがいるということ。
しかも結婚したいのは、その人じゃない。
その人の社会的地位とか収入とかそういうのを目当てに結婚したいのだと言う。
もちろんそんなこと声に出して言うわけではないけれど、そういう意味で寄ってこられるのはわかるとのこと。
モテ男の男友達いわく、そういうのは雰囲気でわかるし、本気で幻滅するし、相手の人間性を疑うと言ってた。
(実際に男友達の社会的立場に惚れ込んでアタックしてきた女の人も少なくとも2人以上いて、私も話聞いて一緒にドン引きしてた)
私はそんな風にだけは絶対に思われたくなかった。
しかも結婚を前提にその人に近付いたわけじゃない。
だけど、私の方はそう思われても言い訳のできない立場や状況にあったから、それだけは本当に勘違いされたくなかった。
きちんと話したことない人が誘ってきたら、そんな風に思われてもおかしくなかった。
たとえ私にそんなつもりがなくても、そう捉える人だっているだろう。
だから私は、何か自分の中でうまく言い表せないものでも、なんとか言葉にしてその人に伝えたかった。
自分の中にあるものや、その人に出逢えて本当に良かったということを、そのまま伝えたかった。
面と向かっての時間がもらえない以上、私は他の策を取るしかなく、それが手紙に繋がった。
正しくは、策を練るような精神的余裕はなく、思い付いたままに動いたらそれが手紙だった。
この文章自体、3日か4日ぐらいに分けて書いている。
自分でも毎回驚くけれども、この人についてこうして文章を書いたり過去のある場面を鮮明に思い出したりすると、理由のわからない涙が出てくる。
心の深いところに到達しないと見えない景色だったり、感じられない感覚だったりするところから来ている感じはする。
失恋してボロボロ泣くのとは違っていて、言うならば、10年以上前に亡くなったばばちゃん(母方祖母)との思い出を思い出す時や、2歳の姪っ子の全身全霊で表現する「大好き」や、友達が言ってくれた「ぶっしー、生きて!」や、そういう状態の時に流す涙と似ている。
「ぶっしー、生きて!」は私が死のうとしたのでは全くない。
友達の友達が自殺したらしく、それで友達は悔しい悔しいと言って電話をかけてきて、当時プー太郎だった私に「ぶっしー死んじゃダメだよ!ぶっしー、生きて!」と言った。
私も友達の言葉を聞きながら泣いた。
泣こうと思って泣くんじゃなくて、勝手に涙が出てくる、そういう感じの涙を流す源のところにその人はいる。
時間が解決してくれるわけではないみたいだから、それはこの数ヶ月で期待しなくなった。
だから私は、この状態に飽きる時まで自分に付き合い続けようと思っている。
今はもうその人に迷惑をかけることもないから、私は私のペースでその人とのことは何とか自分の中で良い感じで昇華したいと思っている。
言葉を間違えた。
「昇華したい」は多分次の段階。
今はまだ昇華したいとさえ思っていない。
どう扱っていいかもわからないから、野放しに近い。
今日私は一度だけ外に出た。
東京に行く前にどうしてもコピーしておきたかったデータがあって、コピーのために徒歩3〜4分のコンビニに歩いて行った。
うちのすぐ近所にあるお店がある。
お店の前にブラックボードがあって、最近のお店のウリを紹介していた。
普段歩いて通ることなんかないし、そもそもボードがあることさえ知らなかったから、初めてそれを見た。
私は探してもないし、求めてもないし、引き寄せてもない。
だけど、そのボードにはその人の名前がひらがなで書いてあった。
毎回何でこんなところに⁉︎というような場所で遭遇する。
常々こんな風だから、何とかしよう!なんて力むと余計におかしくなりそうだから、放置している。
まだまだ普通に私はその名前に反応するし、昇華からはずい分と遠いところにいる。
だから私が飽きるか、新しく誰かに出逢うか、そんなことでもない限りしばらく大きな変化は望めそうにないからあきらめている。
心の深いところで響くものがあっても、それは今の日常に差し支えないから、そのままでいいかなと思っている。
2018年7月22日日曜日
東京ヒーリング③ 磯野カツオ
東京で受けてきたヒーリングのヒーラーOさんは、本当に想像以上にすごい人だった。
あれからまだ1週間しか経ってないとはとても思えない。
Oさんから了承を得て、今月の月末に会うまでに何か質問があったら、それまでにもラインやメールで聞けることになった。
質問は、ヒーリングのことでもエネルギーワークのことでも何でもその分野に関することならいいとのことだった。
しかもOさんからの提案で、私が質問する→Oさんが文書で答えるを何回かして、それで会う当日はそこからまた話を深めたり掘り下げたりするのもいいですね!となった。
ということで、Oさんとのやり取り(レッスン)が始まった。
私は最初に断っておいた。
私というのは、何でも聞いてくださいなんて言われた日には本当にたくさん聞くので(図々しいと言われることも書いておいた)、負担がでかい時は遠慮なく断ってください、と。
つい何日か前、第1回目の質問、10個を送った。
中には「セッションで気をつけていることを教えてください」なんてのまである。
好奇心の塊みたいな方で驚いた、だけどこうしてきちんと物事を深めるのは好きだからということで、その10個をものすっごく丁寧に全部書いて送ってくれた。
PDF7枚分にして。
あまりにもきっちりとした回答でこちらが申し訳ないぐらいだった。
次東京に行く時は、新潟の美味しいせんべい持って行こう!と思った。
そのせんべいメーカーは、銀座で独立店舗を持つぐらいに(←先週見つけた)美味しいということだろう。
もちろん気遣いじゃなくて、罪滅ぼしの意味で。
そして、質問の中には私の能力に関するものもあって、それについてはOさんが教えてくれたことを私の方で書き直して、OさんからGOサインもらったらここでも紹介しようと思う。
Oさんの希望で、私がそのレッスン内容をネットに公開したり他者へ公言するのは避けて欲しいということだったから、そこはもちろん遵守するとして。
能力的な部分は自分でもずっと私が何をしていて何にアクセスしているのか全くわからなかったところを、Oさんがものすごくわかりやすく説明してくれたから、その部分だけは自分が他の人に説明する時に使いたいから、自分の言葉で書き直して、使っても差し支えないかどうかを後日見て判断して欲しいとお願いした。
現段階で言えるのは、少なくとも私も何にアクセスしていて、その時に私がキャッチするプロセスがどういったものなのか、それがはっきりと言葉で示されて私は安心した。
これまでは何だか知らないけれどそうなっていて、一応ペンジュラムに情報の出所は春先から聞くようにはなったけれど、それでも私にははっきりとした確証もなければ、怪しさ満載なのは相変わらずだったから、そこが余計と私の不安をでかくしていった。
怪しいというのは、世間一般では到底信じられないようなことが身の上に起こっているわけで、私も「それ怪しいね」と指摘されたら「そうだよ」と答える。
だって、何をどうしたら、自分の目の前にいない人たちの日常のヒントを私がキャッチするのか、という話で、しかもそれが毎回やってくる方法が違う。
「キャッチする」という一点においてはみんな共通だけれど、そのプロセスはそれぞれ違う。
そしてもっと言うと、私の場合は、完全に起き上がっていて頭も通常の状態で、変性意識に入るわけではないから、そうなってる状態とそうでない時の自分の状態の差が自分でもわからない。
だから、私はその時の前後のことや渦中のことはメモしてる。
自分でわからないから、せめて自分が後で振り返る用に書き残しておく。
そんな部分のことをOさんはとてもわかりやすく解説してくれて、この人は使いの者なのかと思ったぐらいに凄かった。
実は私は何年もの間、自分が何してるのかを言葉で伝えてくれる人を探してた。
個人セッションをする時というのは、私には私が何をしているかわかる。
ただわからなかったのは、「じゃあそれって一言で言うと何?」という部分だった。
私の場合、その人のその時の状況や状態を見て、何をするかは全く変わる。
だから統一性が全くない。
だから自分でもずっとずっと説明できなかった。
だってある時はひたすら話を聞いてメモしてる時もあれば(←これがその人のヒントになるから)、コーチングで習った質問をあるやり方に基づいてひたすら重ねてその人の深層心理に行く時もあれば、軽い催眠術をかけてその人の意識をリラックスさせてそこから深い心の中に入ってもらうこともあれば、本当に様々。
カードを使うこともあるし、最近はペンジュラムが大活躍してくれてる。
手法に名前の付いてるものもあれば、私独自で思いつきでやってるものもある。
だから1回1回全く違うものたちを総称すると何なのか?という話だったし、ましてやその手法たちに関してもどうやって選んでるのか?と聞かれるとこれもまた困った。
一応相手の希望は聞く。
希望を聞いた上で「多分これ」というのをする。
そして、予め言っておく。
テーマを決めても多分最終的には違うものが出てくるからと。
テーマを決めても最終的に違うものが出てくる、というのはやるとわかる。
「テーマ」として出してきたものは頭で考えて出している。
それは顕在意識バリバリのものだから、そんなのは単なるきっかけに過ぎない。
(ここでは言い方がきついけど、伝える時はそんな乱暴な言い方はしない)
だから相手には「何が出てきてもそのままを教えてください。関係ないと思うことでも、きちんと1つのことに繋がっているので、心配しないでそのまま出してください」と説明する。
話してる本人には支離滅裂でも、私は本人じゃないから感情が乗らない分、その話に共通しているテーマがわかる。
それは最初に出したものとは絶対に違うテーマになるし、それが本人が大切にしている価値観や想いと合致する。
そんなこともあって、私はもうこのよくのわからない自分のスタイルをどう説明するのか、ずっと言葉を持ち合わせていなかった。
まだはっきりと言葉を出せたわけではないけれど、少なくともOさんから私のことを客観的に説明してもらえたから、その意味がわかるようになった。
そして同じ怪しいでも、もう少し馴染みのある言葉で説明することがここに来て初めて可能になった。
もう1つの発見。
4月当初、私はまずホロスコープにロックオンされた。
ホロスコープの学びが楽しくて仕方なかった。
そして同じくらいにひっそりと始めた癒しのレシピも楽しかった。
4月と5月の情報はほぼほぼホロスコープにあったけれど、6月の途中からは情報の内容が変わった。
代替医療じゃないけれど、そうしたものや、エネルギーや波動の改善みたいな内容が来ている。
それも私が自分で選んだ本たちじゃない。
友達とOさんが紹介してくれたり貸してくれた本たちがそういうものだった。
自分じゃ選ばない本が人を介して来る時は、それはすなわち「あなたに必要な情報ですよ」のサインだと思ってる。
どちらのタイプの本も、「自己治癒力」が鍵になっている。
私の中のテーマもそこに傾倒しているし、自分でも少しずつどうしたら良くなってどうしたら良くならないのか、そこを見るようになった。
ちなみに良くならない1番の原因は、本人が「良くならない」と決めてることにあると私は思っている。
病気となると色んな理由が背後にあるからそうとは言わないけれど、日常の中で本人が苦しくてもなかなかその状況や状態が改善しないのは、本人が頑なに「良くならない」と決めてるところが大きいと思う。
先日、前の仕事で同期入社だった人から電話が来た。
その人は人は良い。
基本的に心のやさしい人だし、人に対してもその心を惜しみなく出せる人。
なんだけど、本人の思考グセがあって、基本的にとてもネガティブに物事を捉える。
半年とか1年ぶりの電話だったと思うけれど、最後はそのネガティブなクセを全面に出していた。
一応私がしんどかった時に色々やったことも紹介はした。
基本的に私は自分が効果があると実感できたものは、他の人たちにも普通にこれいいよ!と伝える。
だけどその時は手段や方法論の名前は伝えたけれど、詳細はやめた。
伝わらないと思ったから。
色んな人たちと関わったから、感覚でわかる。
この人やると思う人と、この人やらないと思う人の差。
基本的に私にポロリと何かをこぼす時は、ほとんどの人が大変な時期を通過している。
程度の差こそあれ、大変という意味ではみんな一緒。
その時に私は相手の様子を黙って観察している。
この人絶対にやるだろうとわかった人には、細かく情報を説明する。
やらないと思う人には、サラリと流すか、聞かれてもちょっとしか伝えない。
なぜなら「やらない」とわかるから。
それって大元を辿ると、本人が「良くならない」と決めている。
表面上は「良くなりたい」と言っているけれど、違う。
深いところでは、その今の状況を自ら引き受けている。
喜んで選んでいると言ってもいいくらい。
それを本人に言うとものすごく怒らせるから言わないけれど、絶対に良くならないぞと決めてるのが伝わってくるのと、本人の口からもそのような言葉が出てくる。
だからそういう人には何を言っても伝わらないしこちらも疲弊するから、余計なことは言わない。
だから、自己治癒力の部分に私はとても興味があるし、それをどう引き出すのか、何を見るといいのか、そんなことに興味津々だったりする。
そんな折に、友達の洗脳騒ぎで出逢えたOさんで、そのOさんからまさに今の私が知りたいことを教えてもらえる。
1つ1つの流れたちにはさっぱり共通点が見えなかったけれど、気付いたら今ここで、そして多分必要なところに辿り着いてる。
まさかホロスコープを毎日飽きずに調べてた頃、こんな風にヒーラーの誰かに会うなんて思ったことさえなかった。
7月7日 8:34
来週の東京行きに向けての振り返り。
ホロスコープは本当に口実だったんだと思う。
今回も銀座でホロスコープの講座を受けて、その後夜はOさんからまた個人でレッスンを受けてくる。
ホロスコープの宿題はまだしてなくて(テスト勉強もしていない)、なのにOさんとの勉強会の質問だけは先日2回目を提出した。
移ろいゆく季節の中で、私の興味関心も相変わらずあちこちに移った。
今は何のために東京にそもそも行くのかもわからなくなって来た。
もちろんホロスコープの講座のためではあるけれど、ホロスコープはついでな感じになってきた。
2つの全く異なる分野だから余計に感じるのかもしれないけれど、言葉の入り方が全然違う。
ホロスコープは学校の授業に近くて、全神経集中しないと理解ができない。
一方、Oさんのレッスンは、感覚で受けられる。
7/19 18:22
2回目の質問の回答も返ってきた。
私は勝手にOさんは天の使いの者だと思っている。
字が似ているけれど、天使じゃない、天なり何か私の力では及ばないようなところから遣わされてやって来た人、という感じ。
『天の使い』とはおかしな言い方だけれど、なぜかピンポイントでいきなりOさんを最初から引き当てたのは、必要があって出会わせてもらえた人、という感じだった。
しかもなぜOさんに今回も会うのか。
それは理由は1つで、Oさんから大切なこと、私が知る必要のあることを学ぶため。
友達になろうとか、付き合いましょうとか、デートしましょうとか、そういうタイプの出会い方じゃない。
明らかに、人間関係じゃなく、それ以外の理由でOさんが人生に現れたのはわかる。
今回は、自分のこれからにマックス迷いながら東京に行く。
普段体験しないことがいくつか東京行きに含まれてる。
普段体験しないことのために火曜日から行って、水曜日に講座を受けてOさんのレッスンを受けて帰ってくる。
その中でヒントが得られますように…と祈りつつ行く。
それよりも、ずっと放置していたホロスコープの宿題と今回のテスト範囲をさっき初めてきちんと見た。
一夜漬け的なことを今回ももれなくやるんだろうなぁと思った。
「三つ子の魂百まで」
なんていう名言だろう。
夏休みの最後数日に一気に宿題をしていた私は、大人になってからも変わっていない。
一応最初の数日はちょっとだけやってやった気になって、その後パタリと何もせず、そして期日が迫って焦る頃一気にやるタイプだった。
子どもの頃は宿題終わっていたんだろうか?
毎年8月31日は泣く日と決まっていた。
いくら興味があっても宿題はやっぱり苦手で、テスト勉強も苦手のまま。
しかも私、一番初歩的なことが何よりも理解できてなくて、その日本語の難度たるや外国語並みに何言ってるのかわからない。
という部分もテスト範囲だから、これから?明日から?(←濃厚な線)やろうかな…というところ。
久しぶりに読んだらいきなりすごく理解ができる!なんていうラッキーなことにならないだろうか…。
子午線とか、もうそもそもの言葉の意味のわからない理科的な用語を調べないと多分一生わからない。
Oさんの回答も読み込んでおらずで、時間あるくせしてやる気にならない、典型的な磯野カツオタイプの私。
ちなみに20代の頃、カツオと一緒の誕生日と知って、あまりにもカツオのダメダメなところと自分のダメダメなところが重なって、いくら漫画上の人物とは言え似すぎていて笑えなかった。
7/22 20:16
あれからまだ1週間しか経ってないとはとても思えない。
Oさんから了承を得て、今月の月末に会うまでに何か質問があったら、それまでにもラインやメールで聞けることになった。
質問は、ヒーリングのことでもエネルギーワークのことでも何でもその分野に関することならいいとのことだった。
しかもOさんからの提案で、私が質問する→Oさんが文書で答えるを何回かして、それで会う当日はそこからまた話を深めたり掘り下げたりするのもいいですね!となった。
ということで、Oさんとのやり取り(レッスン)が始まった。
私は最初に断っておいた。
私というのは、何でも聞いてくださいなんて言われた日には本当にたくさん聞くので(図々しいと言われることも書いておいた)、負担がでかい時は遠慮なく断ってください、と。
つい何日か前、第1回目の質問、10個を送った。
中には「セッションで気をつけていることを教えてください」なんてのまである。
好奇心の塊みたいな方で驚いた、だけどこうしてきちんと物事を深めるのは好きだからということで、その10個をものすっごく丁寧に全部書いて送ってくれた。
PDF7枚分にして。
あまりにもきっちりとした回答でこちらが申し訳ないぐらいだった。
次東京に行く時は、新潟の美味しいせんべい持って行こう!と思った。
そのせんべいメーカーは、銀座で独立店舗を持つぐらいに(←先週見つけた)美味しいということだろう。
もちろん気遣いじゃなくて、罪滅ぼしの意味で。
そして、質問の中には私の能力に関するものもあって、それについてはOさんが教えてくれたことを私の方で書き直して、OさんからGOサインもらったらここでも紹介しようと思う。
Oさんの希望で、私がそのレッスン内容をネットに公開したり他者へ公言するのは避けて欲しいということだったから、そこはもちろん遵守するとして。
能力的な部分は自分でもずっと私が何をしていて何にアクセスしているのか全くわからなかったところを、Oさんがものすごくわかりやすく説明してくれたから、その部分だけは自分が他の人に説明する時に使いたいから、自分の言葉で書き直して、使っても差し支えないかどうかを後日見て判断して欲しいとお願いした。
現段階で言えるのは、少なくとも私も何にアクセスしていて、その時に私がキャッチするプロセスがどういったものなのか、それがはっきりと言葉で示されて私は安心した。
これまでは何だか知らないけれどそうなっていて、一応ペンジュラムに情報の出所は春先から聞くようにはなったけれど、それでも私にははっきりとした確証もなければ、怪しさ満載なのは相変わらずだったから、そこが余計と私の不安をでかくしていった。
怪しいというのは、世間一般では到底信じられないようなことが身の上に起こっているわけで、私も「それ怪しいね」と指摘されたら「そうだよ」と答える。
だって、何をどうしたら、自分の目の前にいない人たちの日常のヒントを私がキャッチするのか、という話で、しかもそれが毎回やってくる方法が違う。
「キャッチする」という一点においてはみんな共通だけれど、そのプロセスはそれぞれ違う。
そしてもっと言うと、私の場合は、完全に起き上がっていて頭も通常の状態で、変性意識に入るわけではないから、そうなってる状態とそうでない時の自分の状態の差が自分でもわからない。
だから、私はその時の前後のことや渦中のことはメモしてる。
自分でわからないから、せめて自分が後で振り返る用に書き残しておく。
そんな部分のことをOさんはとてもわかりやすく解説してくれて、この人は使いの者なのかと思ったぐらいに凄かった。
実は私は何年もの間、自分が何してるのかを言葉で伝えてくれる人を探してた。
個人セッションをする時というのは、私には私が何をしているかわかる。
ただわからなかったのは、「じゃあそれって一言で言うと何?」という部分だった。
私の場合、その人のその時の状況や状態を見て、何をするかは全く変わる。
だから統一性が全くない。
だから自分でもずっとずっと説明できなかった。
だってある時はひたすら話を聞いてメモしてる時もあれば(←これがその人のヒントになるから)、コーチングで習った質問をあるやり方に基づいてひたすら重ねてその人の深層心理に行く時もあれば、軽い催眠術をかけてその人の意識をリラックスさせてそこから深い心の中に入ってもらうこともあれば、本当に様々。
カードを使うこともあるし、最近はペンジュラムが大活躍してくれてる。
手法に名前の付いてるものもあれば、私独自で思いつきでやってるものもある。
だから1回1回全く違うものたちを総称すると何なのか?という話だったし、ましてやその手法たちに関してもどうやって選んでるのか?と聞かれるとこれもまた困った。
一応相手の希望は聞く。
希望を聞いた上で「多分これ」というのをする。
そして、予め言っておく。
テーマを決めても多分最終的には違うものが出てくるからと。
テーマを決めても最終的に違うものが出てくる、というのはやるとわかる。
「テーマ」として出してきたものは頭で考えて出している。
それは顕在意識バリバリのものだから、そんなのは単なるきっかけに過ぎない。
(ここでは言い方がきついけど、伝える時はそんな乱暴な言い方はしない)
だから相手には「何が出てきてもそのままを教えてください。関係ないと思うことでも、きちんと1つのことに繋がっているので、心配しないでそのまま出してください」と説明する。
話してる本人には支離滅裂でも、私は本人じゃないから感情が乗らない分、その話に共通しているテーマがわかる。
それは最初に出したものとは絶対に違うテーマになるし、それが本人が大切にしている価値観や想いと合致する。
そんなこともあって、私はもうこのよくのわからない自分のスタイルをどう説明するのか、ずっと言葉を持ち合わせていなかった。
まだはっきりと言葉を出せたわけではないけれど、少なくともOさんから私のことを客観的に説明してもらえたから、その意味がわかるようになった。
そして同じ怪しいでも、もう少し馴染みのある言葉で説明することがここに来て初めて可能になった。
もう1つの発見。
4月当初、私はまずホロスコープにロックオンされた。
ホロスコープの学びが楽しくて仕方なかった。
そして同じくらいにひっそりと始めた癒しのレシピも楽しかった。
4月と5月の情報はほぼほぼホロスコープにあったけれど、6月の途中からは情報の内容が変わった。
代替医療じゃないけれど、そうしたものや、エネルギーや波動の改善みたいな内容が来ている。
それも私が自分で選んだ本たちじゃない。
友達とOさんが紹介してくれたり貸してくれた本たちがそういうものだった。
自分じゃ選ばない本が人を介して来る時は、それはすなわち「あなたに必要な情報ですよ」のサインだと思ってる。
どちらのタイプの本も、「自己治癒力」が鍵になっている。
私の中のテーマもそこに傾倒しているし、自分でも少しずつどうしたら良くなってどうしたら良くならないのか、そこを見るようになった。
ちなみに良くならない1番の原因は、本人が「良くならない」と決めてることにあると私は思っている。
病気となると色んな理由が背後にあるからそうとは言わないけれど、日常の中で本人が苦しくてもなかなかその状況や状態が改善しないのは、本人が頑なに「良くならない」と決めてるところが大きいと思う。
先日、前の仕事で同期入社だった人から電話が来た。
その人は人は良い。
基本的に心のやさしい人だし、人に対してもその心を惜しみなく出せる人。
なんだけど、本人の思考グセがあって、基本的にとてもネガティブに物事を捉える。
半年とか1年ぶりの電話だったと思うけれど、最後はそのネガティブなクセを全面に出していた。
一応私がしんどかった時に色々やったことも紹介はした。
基本的に私は自分が効果があると実感できたものは、他の人たちにも普通にこれいいよ!と伝える。
だけどその時は手段や方法論の名前は伝えたけれど、詳細はやめた。
伝わらないと思ったから。
色んな人たちと関わったから、感覚でわかる。
この人やると思う人と、この人やらないと思う人の差。
基本的に私にポロリと何かをこぼす時は、ほとんどの人が大変な時期を通過している。
程度の差こそあれ、大変という意味ではみんな一緒。
その時に私は相手の様子を黙って観察している。
この人絶対にやるだろうとわかった人には、細かく情報を説明する。
やらないと思う人には、サラリと流すか、聞かれてもちょっとしか伝えない。
なぜなら「やらない」とわかるから。
それって大元を辿ると、本人が「良くならない」と決めている。
表面上は「良くなりたい」と言っているけれど、違う。
深いところでは、その今の状況を自ら引き受けている。
喜んで選んでいると言ってもいいくらい。
それを本人に言うとものすごく怒らせるから言わないけれど、絶対に良くならないぞと決めてるのが伝わってくるのと、本人の口からもそのような言葉が出てくる。
だからそういう人には何を言っても伝わらないしこちらも疲弊するから、余計なことは言わない。
だから、自己治癒力の部分に私はとても興味があるし、それをどう引き出すのか、何を見るといいのか、そんなことに興味津々だったりする。
そんな折に、友達の洗脳騒ぎで出逢えたOさんで、そのOさんからまさに今の私が知りたいことを教えてもらえる。
1つ1つの流れたちにはさっぱり共通点が見えなかったけれど、気付いたら今ここで、そして多分必要なところに辿り着いてる。
まさかホロスコープを毎日飽きずに調べてた頃、こんな風にヒーラーの誰かに会うなんて思ったことさえなかった。
7月7日 8:34
来週の東京行きに向けての振り返り。
ホロスコープは本当に口実だったんだと思う。
今回も銀座でホロスコープの講座を受けて、その後夜はOさんからまた個人でレッスンを受けてくる。
ホロスコープの宿題はまだしてなくて(テスト勉強もしていない)、なのにOさんとの勉強会の質問だけは先日2回目を提出した。
移ろいゆく季節の中で、私の興味関心も相変わらずあちこちに移った。
今は何のために東京にそもそも行くのかもわからなくなって来た。
もちろんホロスコープの講座のためではあるけれど、ホロスコープはついでな感じになってきた。
2つの全く異なる分野だから余計に感じるのかもしれないけれど、言葉の入り方が全然違う。
ホロスコープは学校の授業に近くて、全神経集中しないと理解ができない。
一方、Oさんのレッスンは、感覚で受けられる。
7/19 18:22
2回目の質問の回答も返ってきた。
私は勝手にOさんは天の使いの者だと思っている。
字が似ているけれど、天使じゃない、天なり何か私の力では及ばないようなところから遣わされてやって来た人、という感じ。
『天の使い』とはおかしな言い方だけれど、なぜかピンポイントでいきなりOさんを最初から引き当てたのは、必要があって出会わせてもらえた人、という感じだった。
しかもなぜOさんに今回も会うのか。
それは理由は1つで、Oさんから大切なこと、私が知る必要のあることを学ぶため。
友達になろうとか、付き合いましょうとか、デートしましょうとか、そういうタイプの出会い方じゃない。
明らかに、人間関係じゃなく、それ以外の理由でOさんが人生に現れたのはわかる。
今回は、自分のこれからにマックス迷いながら東京に行く。
普段体験しないことがいくつか東京行きに含まれてる。
普段体験しないことのために火曜日から行って、水曜日に講座を受けてOさんのレッスンを受けて帰ってくる。
その中でヒントが得られますように…と祈りつつ行く。
それよりも、ずっと放置していたホロスコープの宿題と今回のテスト範囲をさっき初めてきちんと見た。
一夜漬け的なことを今回ももれなくやるんだろうなぁと思った。
「三つ子の魂百まで」
なんていう名言だろう。
夏休みの最後数日に一気に宿題をしていた私は、大人になってからも変わっていない。
一応最初の数日はちょっとだけやってやった気になって、その後パタリと何もせず、そして期日が迫って焦る頃一気にやるタイプだった。
子どもの頃は宿題終わっていたんだろうか?
毎年8月31日は泣く日と決まっていた。
いくら興味があっても宿題はやっぱり苦手で、テスト勉強も苦手のまま。
しかも私、一番初歩的なことが何よりも理解できてなくて、その日本語の難度たるや外国語並みに何言ってるのかわからない。
という部分もテスト範囲だから、これから?明日から?(←濃厚な線)やろうかな…というところ。
久しぶりに読んだらいきなりすごく理解ができる!なんていうラッキーなことにならないだろうか…。
子午線とか、もうそもそもの言葉の意味のわからない理科的な用語を調べないと多分一生わからない。
Oさんの回答も読み込んでおらずで、時間あるくせしてやる気にならない、典型的な磯野カツオタイプの私。
ちなみに20代の頃、カツオと一緒の誕生日と知って、あまりにもカツオのダメダメなところと自分のダメダメなところが重なって、いくら漫画上の人物とは言え似すぎていて笑えなかった。
7/22 20:16
2018年7月21日土曜日
重軽の石 リトライ
順番があべこべだけど、書けるうちに書いてしまおう。
別の話を途中まで書いた。
その途中まで書いたものに別のもの=これから書こうとしてることが加わった。
でもこれ書き出すと、ただでさえごちゃごちゃした話がもっと混線すると思った。
だから思いついた今のうちに書いてしまう。
重軽の石(神社)の前にも私は別の場所にもう1つ寄っている。
その話を始めたら、どんどん話があちこちに飛び出したから、それでこれは別で書こうと決めた。
重軽の石は、あれはまやかしだったのかと思って、私は今朝も懲りずにまた箱を変えて持ち上げてみた。
自分の思い描いていることによって自分が感じる箱の重さが変わるのかどうかを確かめた。
結果は変わらない。
やっぱり、その人と再会する、と思いながら聞くと、箱は一番軽くなってひょいと持ち上げられた。
だけどさっき途中まで書いた話を改めて振り返ると、昨日や今朝の重軽の石の状態はありえない。
もし私がもう少し分をわきまえて一社会人として真っ当な態度で臨み、それはすなわち何もせずおとなしく可も不可もない態度でいたとしたなら…。
今となっては脅迫状だったんじゃないかとさえ思う手紙も存在せず、とりあえずニコニコ他の全員に対してと同様にその人にも接し、まあるく事を収めたとして。
間違いなくその人との最後は全く違うものになったと思う。
最後は絶対に違う。
その人も会社の人間として社会的な微笑みともう少し心のこもった社交辞令ぐらいは私に見せてくれたと思う。
その人にとって無害でいられたとするなら、その人も私に対して友好的に振る舞ってくれたと思う。
いつもたられば話はそこで止まっていたけれど、この度の重軽の石でここに至るまでをたらればしてみた。
あまりにも色々あったから、今さら何もなかった設定なんてそもそも無理なのは百も承知だけど、もし何もしなかったなら、今の自分は今の自分の立ち位置にはいなかったと思う。
良い思い出だけを手にしていたとするなら、もしかして私は今頃その人のことをかなり忘れたかもしれない。
100%忘れはしないけれど、24時間体制的な存在感ではなくなったかな…と。
本人もいない、会える見込みもない、そうした状況になってから、驚くぐらいにたくさんのことが起きた。
それも、起きることとその人とが色んな形で重なっていた。
だけどもし、波風立てず、穏便に済ませ、何事もなくその人の旅立ちを他の人たちと同じように見送ってたとしたら、多分その重なりはなかったと思う。
途中まで書いたことの中に「本人に挨拶とかは無視しても構わないけれど、仕事の用事を私が伝える時だけは普通にして欲しいとお願いしようかと考えてた」という下りが出てくる。
その人が実際に私に取った態度を見たら、99.9%は「嫌われた」とか「嫌がられてる」とか「不快にさせてる」とか「迷惑になってる」とか、まぁそう捉えて当たり前の反応だったと断言できる。
少なくとも私自身はそう捉えた。
ショックやら申し訳ないやら色んな感情が湧き上がったけれど、それを見て「私愛されてる」とか「私好かれてる」なんていうことだけは絶対に想像できなかったし、そんな考えさえ選択肢の中に持つにはあまりにも無理すぎる状況だった。
その人の態度を見て「好かれてる」と脳内変換できる人がいるとしたら、相当頭のいかれた人だと思う。
そんな中、私は一方的に色んな感情が噴き出して、自分でも色々変すぎてこれは単なる自分の思い込みがこういうおかしな事態を招いてるんじゃないか、もしくは色んなことを勝手に無理矢理こじつけてるんじゃないか、そんな風にもいっぱいいっぱい思った。
それが私が実際に現実でたくさん考えたことだった。
だけど、もし全てをそっとしておいたら、そんな考えも浮かばせる必要もなければ、きれいな思い出として全て良い風に記憶されて今頃は終わりを素直に受け入れていたと思う。
その違う現実の中にいたら、重軽の石さえもしかしたら登場しなかったかもしれない。
その神社に行って重軽の石を見つけるところまでは、現実に起こったとしても不思議じゃない。
だけど、私がその人に再会できる?なんて質問さえ思い浮かばなかったと思う、もし何もせずそっとしていたら。
少し冷静になってみると、それよりももっと聞きたいこと他にもたくさんあったなと思う。
でも何も深く考えずとっさに出てきた質問というか願いがその人との再会だった。
実際にあったこと+その人の反応+ずっと音沙汰なし、という図式からは「再会」なんていう答えはとてもじゃないけれど導き出せない。
なのに重軽の石はその質問の時が一番軽かった。
それも断トツで軽かった。
とにかく全てが平穏無事に事が運んでいたとするなら、この10ヶ月近くの間であったことは、一瞬で消えてなくなる。
存在さえできなかった、そんな気がする。
当然のごとく、重軽の石は現れなかったと思う。
半分寝ぼけながら書いてるから、結局言いたかったことが何だったのかよくわからないままだった。
月曜日23日以降加筆訂正するかもしれない。
2018/07/21
これが書きたかったことではないと思うけれど、今思い付いたし、いつかは書きたいと思っていたから書こうと思う。
私がその人がいなくなった去年の秋以降今に至るまで、もし全てがまあるく収まって違う道だったとするなら…というのはこういうことだった。
現実的に、その人がいない毎日がスタートした。
風景は少しずつ変わっていった。
少しずつだったおかげで、私はその変化が思ったよりも平気だった。
風景の変化は、本人がまだいた時に徐々に物が減っていく方が私には衝撃だった。
ビックリするぐらいに物が散乱している机だった。
ちなみに私は自分が整理整頓ができないことを知ってるから、仕事の机だけはやたらと細かく分けて片付けるようにする(じゃないと、書類やら他の大切なものを失くしかねない)。
家でそれができないから、まるで家の私の私物状態だった。
あんなにごちゃごちゃしてるのに、仕事はきっちりしている。
神業としか思えなかった。
で、その机のごちゃごちゃぶりが片付いて机の面が見えたり、スッキリしたりするその変化を見てる方が私には辛かった。
本当に日に日にあのトレードマークと呼んでもいい机が片付いていく様は悲しい他の何ものでもなかった。
机のごちゃごちゃ感でさえも、それはその人を表すもので、私はそれさえも見えなくなることの方が悲しくて仕方なかった。
その人の命の表現みたいで、私にはそのごちゃごちゃ感が特別だった。
なんなら自分の気持ちが認められずその人の粗探しを必死でしてた頃、その机のごちゃごちゃ感もマイナスポイントにしてたぐらいだった。
自分が何様なのかと思うけれども、その人に冷めるには何でもいいから材料や理由が欲しかった。
そうした思い出もあった机だったから、余計とそこが片付いてその人の色がどんどん薄まってしまいにはなくなるその瞬間までは、本当に寂しいカウントダウンだった。
私はそこをわざと目に入らないようにしてたぐらい、見たくないものだった。
だから、実際にいなくなってからの背景としての風景は、そんなにも心が悲しくはならなかった。
だけど、存在そのものは目に見えてなくなったわけで、その穴は慣れるのにずい分と時間がかかった。
色んなところから名前も剥がされて、別の名前がそこに載るようになった。
その変化のスピードだけは速かった。
週明けの月曜日の朝、私は思い付いて、多分もうこれは見れない気がすると思った玄関先の貼り紙を写真に撮った。
読みは大当たりで、その日のうちに貼り紙は変更になった。
そうやってどんどんその人のいた風景は変わり、私が辞める頃には跡形もないぐらいになっていた。
目に見える景色も耳で聴く音も何もかもその人のいない毎日が普通になった。
ところがおかしな話で、その人がいなくなる少し前、多分最後3日ぐらいから、その人を示すサインやメッセージが色んな形でやって来るようになった。
それは止まらなかった。
いなくなってからの方が回数は増した。
そしてどういうわけか、私が何か思い悩んだりしてる時にたくさん来るようになった。
その人は本当にいないけれど、いなくなってからの方がうんと色んな形で近くにいるみたいな、そんな日々に移り変わった。
自分でも変な表現だと思う。
現実的な繋がりは何もなくて、連絡も取れなくて、相手は確実に新しい生活を始めている。
にも関わらず、私の生活の方は、その人がいることを、その人が今日もどこかで生きていることを私に伝えるかのようにその人を思い出さずにはいられないものがどんどん増えていった。
最初は気のせいだと思った。
傷心がそういう幻想じみたことをたまたまタイミング良く見せてるだけなんじゃないかと思った。
ここに書いたかわからないけれど、私は正月の時、さすがに正月にそんな何かを目撃することはないだろうと思った。
しかも当時、2歳の姪っ子も妹と正月帰省していたから、我が家のテレビはエンドレス、アンパンマン+ドラえもん+おかあさんといっしょ+アナ雪、という大人は辟易とする番組ばかりが映ってた。
あれは本当に一瞬のことで、私も見たくて見てたというよりボーッとしながらテレビを眺めてたに過ぎなかった。
その人の名前が仮に森山直太朗だとする。
「新春のご挨拶」という始まりで、地域の会社の宣伝が正月になると流れる。
終わりは「代表取締役 森山直太朗」みたいなやつ。
あれが二本連続で流れた。
1本目の会社の代表取締役は「森山なんとか」さんだった。
2本目の会社の代表取締役は「なんとか直太朗」さんだった。
なんと2本合わせると、その人の名前、特に名前の方は何通りもの漢字がある名前だけれど、まさに同じ漢字の名前がテレビに映った。
とまぁ、なかなか粋な感じの演出で、盆正月問わず度々どころか週5ぐらいの割合で何かを見るのがずっと続いてる。
なんなら昨日、東京で世話になる人たち向けにせんべいを買いに出かけた時。
私が清算するために立っていたその場所からちょうど他の新潟土産のお店の名前も見えて、それがその人の名前と同じ名前のお店だった。
相変わらず、至る所で名前が散見される。
一事が万事そんな風で、いなくなったのに、本当に目に見えることも声を聴くこともないのに、まるで見えないところでは繋がってることを示すかのように色んなものを私は見たり聞いたりしている。
だからいなくなってからの方がなぜかいるみたいな、すごくおかしいことだけれど、本当にそういう風だった。
だから、たらればで、もしその最後の時にまあるく収まって、少なくとも心底気に入っていたあのきれいで澄んだ目とあの何がそんなにも惹きつけるのかその理由はわからないけれどとても良い声とそして笑顔とは、その人からもたらされたと思う。
ただ代わりに、この何ヶ月の間で見たものたちは何1つ見えなかったような気がする。
その人が私の中にいるなんてこと、そのうち感覚が薄れて忘れて、今なんかは違う風になったんじゃないかと思った。
先日の車のメーターが88888をヒットした話なんて、もしかしたら起こることさえなかったのかもしれない。
こんなのは私の念的なものかもしれない。
だけど、そうだと片付けるにも片付けられないぐらいのことが数ヶ月に渡って起こり続けた。
私は山登りしないからわからないけれど、方角がわからなくなったら北極星を見て確認しろというのを聞いたことがある。
それで方角がわかるんだと思う。
日々色んなことがある中で、色々訳がわからなくなることも多々あるけれど、その中でその人の存在というのは目印みたいな感じでいてくれてる、たとえ本人にその気が一切なかったとしても。
中心にどしっと構えてるのとはちょっと違うのかもしれないけれど、フラフラ、オロオロする私みたいな人には、「これだけは変わらない!」というのが1つでもあると本当の意味で安心できてとても心強い。
その人はそんな風にどんどんなっていった。
だからいないのにいるみたいな、不思議な感覚がずっとずっとあった。
もちろん、私の勘違いという可能性はかなりある。
思い込みが激しいだけかもしれない。
でもおかげでこの数ヶ月何とかやり過ごせたんだから、それは勘違いや思い込みであったとしても、非常にありがたかった。
だから、1年前に戻って違う選択がなされて、それこそ一社会人として理性と常識を最優先させてたとするなら、多分今は全然違うところにいたんじゃないかなと思う。
いないのにいる、いると言うよりもその人の存在を感じる、みたいなのも体験することなく時が流れたのではないかなと予想している。
すべてはたらればだから、そんなのは現実として実際に想像はできないけれど、私にはそんな風に感じる。
重軽の石を持った時とても驚いたのと、そしてなぜかあのいつかの冷たい様子が思い浮かんだ。
絶対に私と目が合わないように、それもちょっとじゃない、もう何が何でも目を合わせないというような強い意志を感じる行動に、私は本気で打ちのめされた。
あの時最後に私は「よろしくお願いします」と声を変えず、努めて明るく言うようにした。
心はどこまでも落ちたけれど、そんなことへっちゃらですぐらいな感じで、用件を言い終えた。
あの部分だけ切り取ると、再会なんて叶うどころか夢に見ることさえはばかられる。
だけど、この何ヶ月にも渡るものたちは、どちらかと言えば、あの冷たさではなく、重軽の石寄りな感じのものだった。
見えない世界からのメッセージだとするなら、あの重軽の石が伝えようとしてることもわからなくもない。
当時のことを私はこんな風に書いている(ずっと気にかけてくれた方に送ったものの一部)。
私が自分の気持ちに正直になって書いたありのままの気持ちだった。
2017.9.8
「あれ(ごめんなさい、できませんの答え)が本心ではなかったように思います。
(中略)
だから、断られた時もどこか違和感のような、頭で出した答えという感じでした」
私にはどうしてもその人が自分の本心からその言葉を発してるようには見えなかった。
見えないと言うよりも感じられなかった。
心と言葉が一致している時のスッキリ感やストレート感がなくて、何かもやっとした感じが残った。
もちろんそんなこと一言も突っ込んでなんて本人に言えなかったけれど。
っていうか、そもそも私もよくぞあの状況下で聞いたなと思う。
賭けの結果により、理性ではなく自分の心に従うと決めたはいいけれど、今振り返るとかなりはちゃめちゃだなと思う。
上のものをメモから探してたらついでに出てきたメモ。
2017.10.8 5:12
「目の前で起こったことを言葉で描写することはできるけれど、その行動の裏側にある、またはその行動を支える相手の気持ちや意図を言葉で表すことはできない。
それは私は知らないから。
それよりも、その時に私の中に広がった感傷に思いを馳せ、それを癒すことに注力したい。
あの時の私はたしかに傷付いてた。
だけど、その傷は傷のまま終わりにするものじゃない。
癒して自分に新しい何かを与えるきっかけとなるものだろう。
そしてそのきっかけを与えてくれるのは相手が○○さんでなければならなかった。
他の人ではそういう反応を生み出さなかったから。
その感覚さえも人間であるがゆえ、今命があるがゆえのことだと思うと、何だか愛おしい。
生命力
人間力
自分力
今ならその順番がわかる。
命があること。
人間であること。
その2つが満たされて初めて自分であることの領域が発動する。
干支が一周して、川端さん(=川端誠さん・絵本作家さん)の言葉がようやく自分のものとして理解できるようになった。
そういうものを気付かせてくれる存在なんだと、○○さんはそういう人なんだと気付く。
もし○○さんが社交的でうまく振る舞ってくれてたら私の中の気持ちは穏やかでそれで終わってたかもしれない。
だけど、それとは真逆で、私がものすごく動揺する結果になって、頭であれこれ考えないといけなくて、でも結果今のようなことに気付く流れになってたとしたら、○○さんの在り方が一層愛おしい大切なものになる。
自分に優しくするきっかけを与えてもらったんだと思う。」
当時、1ヶ月?2ヶ月?ぐらい、本気で眠れなくなって、毎日3時間寝たか寝ないかみたいな生活を送ってた。
私は不安が高じると眠れなくなる体質で、その時はその人が自分の世界からいなくなってしまうことが本気で怖かった。
そこまでの症状が出たのは過去にもう1回だけで、でもその時は不安でそうなったのとは違ってた。
過去の時は、どちらかと言えば、楽観的な状況にあって、意識が深まるような感じのことが続いた時になった。
でも当時は違ってた。
その人がいなくなるというのは、私にとって、何かとんでもない恐怖が立ちはだかっていて、絶望みたいなものだった。
生きているのに会えない、人生で交わらない、それが本気で怖すぎてまともに受け止められなかった。
その恐怖や絶望を説明するのに、「魂の繋がり」がわかったのは大きかった。
あるという前提で、その人とのすべてを見た時に、その恐怖や絶望も理解できるレベルになった。
魂からの叫びだったとするなら、あの半端ない怖さ、人生でもう交わらないという時の絶望が、わかる気がした。
やっと出逢えた、なのにそれぞれの道に行く、それが本当に悲しくて仕方なかったんだと思う。
重軽の石1つがこれだけたくさんの回想と想いを引っ張り出すことになるとは思わなかったけれど、久しぶりにあの嫌で嫌で仕方なかった瞬間を思い出した。
でも、時間の経過と共に、あの嫌な瞬間は違う意味合いが加わって嫌ばかりではなくなった。
時は流れるし、状況もあれこれ変わる。
時々、その幻みたいなことではなく、もっと現実的に発展性のある関係を誰かと持ちたいと思うこともある。
それでもいつだってその人は私の中にいて、何をどうやっても出る気配がない。
この存在感は半端ない。
重軽の石は、願いが叶うとかいうことではなく、その願いがどれだけ自分にとって大切なものかを教えてくれるバロメーターとしたら納得できるなぁ…。
自分でもよくわかってないけれど、多分とっても大切な人なんだと思う。
そう思うと、あの重軽の石の結果もわかる。
7/23 真夜中
別の話を途中まで書いた。
その途中まで書いたものに別のもの=これから書こうとしてることが加わった。
でもこれ書き出すと、ただでさえごちゃごちゃした話がもっと混線すると思った。
だから思いついた今のうちに書いてしまう。
重軽の石(神社)の前にも私は別の場所にもう1つ寄っている。
その話を始めたら、どんどん話があちこちに飛び出したから、それでこれは別で書こうと決めた。
重軽の石は、あれはまやかしだったのかと思って、私は今朝も懲りずにまた箱を変えて持ち上げてみた。
自分の思い描いていることによって自分が感じる箱の重さが変わるのかどうかを確かめた。
結果は変わらない。
やっぱり、その人と再会する、と思いながら聞くと、箱は一番軽くなってひょいと持ち上げられた。
だけどさっき途中まで書いた話を改めて振り返ると、昨日や今朝の重軽の石の状態はありえない。
もし私がもう少し分をわきまえて一社会人として真っ当な態度で臨み、それはすなわち何もせずおとなしく可も不可もない態度でいたとしたなら…。
今となっては脅迫状だったんじゃないかとさえ思う手紙も存在せず、とりあえずニコニコ他の全員に対してと同様にその人にも接し、まあるく事を収めたとして。
間違いなくその人との最後は全く違うものになったと思う。
最後は絶対に違う。
その人も会社の人間として社会的な微笑みともう少し心のこもった社交辞令ぐらいは私に見せてくれたと思う。
その人にとって無害でいられたとするなら、その人も私に対して友好的に振る舞ってくれたと思う。
いつもたられば話はそこで止まっていたけれど、この度の重軽の石でここに至るまでをたらればしてみた。
あまりにも色々あったから、今さら何もなかった設定なんてそもそも無理なのは百も承知だけど、もし何もしなかったなら、今の自分は今の自分の立ち位置にはいなかったと思う。
良い思い出だけを手にしていたとするなら、もしかして私は今頃その人のことをかなり忘れたかもしれない。
100%忘れはしないけれど、24時間体制的な存在感ではなくなったかな…と。
本人もいない、会える見込みもない、そうした状況になってから、驚くぐらいにたくさんのことが起きた。
それも、起きることとその人とが色んな形で重なっていた。
だけどもし、波風立てず、穏便に済ませ、何事もなくその人の旅立ちを他の人たちと同じように見送ってたとしたら、多分その重なりはなかったと思う。
途中まで書いたことの中に「本人に挨拶とかは無視しても構わないけれど、仕事の用事を私が伝える時だけは普通にして欲しいとお願いしようかと考えてた」という下りが出てくる。
その人が実際に私に取った態度を見たら、99.9%は「嫌われた」とか「嫌がられてる」とか「不快にさせてる」とか「迷惑になってる」とか、まぁそう捉えて当たり前の反応だったと断言できる。
少なくとも私自身はそう捉えた。
ショックやら申し訳ないやら色んな感情が湧き上がったけれど、それを見て「私愛されてる」とか「私好かれてる」なんていうことだけは絶対に想像できなかったし、そんな考えさえ選択肢の中に持つにはあまりにも無理すぎる状況だった。
その人の態度を見て「好かれてる」と脳内変換できる人がいるとしたら、相当頭のいかれた人だと思う。
そんな中、私は一方的に色んな感情が噴き出して、自分でも色々変すぎてこれは単なる自分の思い込みがこういうおかしな事態を招いてるんじゃないか、もしくは色んなことを勝手に無理矢理こじつけてるんじゃないか、そんな風にもいっぱいいっぱい思った。
それが私が実際に現実でたくさん考えたことだった。
だけど、もし全てをそっとしておいたら、そんな考えも浮かばせる必要もなければ、きれいな思い出として全て良い風に記憶されて今頃は終わりを素直に受け入れていたと思う。
その違う現実の中にいたら、重軽の石さえもしかしたら登場しなかったかもしれない。
その神社に行って重軽の石を見つけるところまでは、現実に起こったとしても不思議じゃない。
だけど、私がその人に再会できる?なんて質問さえ思い浮かばなかったと思う、もし何もせずそっとしていたら。
少し冷静になってみると、それよりももっと聞きたいこと他にもたくさんあったなと思う。
でも何も深く考えずとっさに出てきた質問というか願いがその人との再会だった。
実際にあったこと+その人の反応+ずっと音沙汰なし、という図式からは「再会」なんていう答えはとてもじゃないけれど導き出せない。
なのに重軽の石はその質問の時が一番軽かった。
それも断トツで軽かった。
とにかく全てが平穏無事に事が運んでいたとするなら、この10ヶ月近くの間であったことは、一瞬で消えてなくなる。
存在さえできなかった、そんな気がする。
当然のごとく、重軽の石は現れなかったと思う。
半分寝ぼけながら書いてるから、結局言いたかったことが何だったのかよくわからないままだった。
月曜日23日以降加筆訂正するかもしれない。
2018/07/21
これが書きたかったことではないと思うけれど、今思い付いたし、いつかは書きたいと思っていたから書こうと思う。
私がその人がいなくなった去年の秋以降今に至るまで、もし全てがまあるく収まって違う道だったとするなら…というのはこういうことだった。
現実的に、その人がいない毎日がスタートした。
風景は少しずつ変わっていった。
少しずつだったおかげで、私はその変化が思ったよりも平気だった。
風景の変化は、本人がまだいた時に徐々に物が減っていく方が私には衝撃だった。
ビックリするぐらいに物が散乱している机だった。
ちなみに私は自分が整理整頓ができないことを知ってるから、仕事の机だけはやたらと細かく分けて片付けるようにする(じゃないと、書類やら他の大切なものを失くしかねない)。
家でそれができないから、まるで家の私の私物状態だった。
あんなにごちゃごちゃしてるのに、仕事はきっちりしている。
神業としか思えなかった。
で、その机のごちゃごちゃぶりが片付いて机の面が見えたり、スッキリしたりするその変化を見てる方が私には辛かった。
本当に日に日にあのトレードマークと呼んでもいい机が片付いていく様は悲しい他の何ものでもなかった。
机のごちゃごちゃ感でさえも、それはその人を表すもので、私はそれさえも見えなくなることの方が悲しくて仕方なかった。
その人の命の表現みたいで、私にはそのごちゃごちゃ感が特別だった。
なんなら自分の気持ちが認められずその人の粗探しを必死でしてた頃、その机のごちゃごちゃ感もマイナスポイントにしてたぐらいだった。
自分が何様なのかと思うけれども、その人に冷めるには何でもいいから材料や理由が欲しかった。
そうした思い出もあった机だったから、余計とそこが片付いてその人の色がどんどん薄まってしまいにはなくなるその瞬間までは、本当に寂しいカウントダウンだった。
私はそこをわざと目に入らないようにしてたぐらい、見たくないものだった。
だから、実際にいなくなってからの背景としての風景は、そんなにも心が悲しくはならなかった。
だけど、存在そのものは目に見えてなくなったわけで、その穴は慣れるのにずい分と時間がかかった。
色んなところから名前も剥がされて、別の名前がそこに載るようになった。
その変化のスピードだけは速かった。
週明けの月曜日の朝、私は思い付いて、多分もうこれは見れない気がすると思った玄関先の貼り紙を写真に撮った。
読みは大当たりで、その日のうちに貼り紙は変更になった。
そうやってどんどんその人のいた風景は変わり、私が辞める頃には跡形もないぐらいになっていた。
目に見える景色も耳で聴く音も何もかもその人のいない毎日が普通になった。
ところがおかしな話で、その人がいなくなる少し前、多分最後3日ぐらいから、その人を示すサインやメッセージが色んな形でやって来るようになった。
それは止まらなかった。
いなくなってからの方が回数は増した。
そしてどういうわけか、私が何か思い悩んだりしてる時にたくさん来るようになった。
その人は本当にいないけれど、いなくなってからの方がうんと色んな形で近くにいるみたいな、そんな日々に移り変わった。
自分でも変な表現だと思う。
現実的な繋がりは何もなくて、連絡も取れなくて、相手は確実に新しい生活を始めている。
にも関わらず、私の生活の方は、その人がいることを、その人が今日もどこかで生きていることを私に伝えるかのようにその人を思い出さずにはいられないものがどんどん増えていった。
最初は気のせいだと思った。
傷心がそういう幻想じみたことをたまたまタイミング良く見せてるだけなんじゃないかと思った。
ここに書いたかわからないけれど、私は正月の時、さすがに正月にそんな何かを目撃することはないだろうと思った。
しかも当時、2歳の姪っ子も妹と正月帰省していたから、我が家のテレビはエンドレス、アンパンマン+ドラえもん+おかあさんといっしょ+アナ雪、という大人は辟易とする番組ばかりが映ってた。
あれは本当に一瞬のことで、私も見たくて見てたというよりボーッとしながらテレビを眺めてたに過ぎなかった。
その人の名前が仮に森山直太朗だとする。
「新春のご挨拶」という始まりで、地域の会社の宣伝が正月になると流れる。
終わりは「代表取締役 森山直太朗」みたいなやつ。
あれが二本連続で流れた。
1本目の会社の代表取締役は「森山なんとか」さんだった。
2本目の会社の代表取締役は「なんとか直太朗」さんだった。
なんと2本合わせると、その人の名前、特に名前の方は何通りもの漢字がある名前だけれど、まさに同じ漢字の名前がテレビに映った。
とまぁ、なかなか粋な感じの演出で、盆正月問わず度々どころか週5ぐらいの割合で何かを見るのがずっと続いてる。
なんなら昨日、東京で世話になる人たち向けにせんべいを買いに出かけた時。
私が清算するために立っていたその場所からちょうど他の新潟土産のお店の名前も見えて、それがその人の名前と同じ名前のお店だった。
相変わらず、至る所で名前が散見される。
一事が万事そんな風で、いなくなったのに、本当に目に見えることも声を聴くこともないのに、まるで見えないところでは繋がってることを示すかのように色んなものを私は見たり聞いたりしている。
だからいなくなってからの方がなぜかいるみたいな、すごくおかしいことだけれど、本当にそういう風だった。
だから、たらればで、もしその最後の時にまあるく収まって、少なくとも心底気に入っていたあのきれいで澄んだ目とあの何がそんなにも惹きつけるのかその理由はわからないけれどとても良い声とそして笑顔とは、その人からもたらされたと思う。
ただ代わりに、この何ヶ月の間で見たものたちは何1つ見えなかったような気がする。
その人が私の中にいるなんてこと、そのうち感覚が薄れて忘れて、今なんかは違う風になったんじゃないかと思った。
先日の車のメーターが88888をヒットした話なんて、もしかしたら起こることさえなかったのかもしれない。
こんなのは私の念的なものかもしれない。
だけど、そうだと片付けるにも片付けられないぐらいのことが数ヶ月に渡って起こり続けた。
私は山登りしないからわからないけれど、方角がわからなくなったら北極星を見て確認しろというのを聞いたことがある。
それで方角がわかるんだと思う。
日々色んなことがある中で、色々訳がわからなくなることも多々あるけれど、その中でその人の存在というのは目印みたいな感じでいてくれてる、たとえ本人にその気が一切なかったとしても。
中心にどしっと構えてるのとはちょっと違うのかもしれないけれど、フラフラ、オロオロする私みたいな人には、「これだけは変わらない!」というのが1つでもあると本当の意味で安心できてとても心強い。
その人はそんな風にどんどんなっていった。
だからいないのにいるみたいな、不思議な感覚がずっとずっとあった。
もちろん、私の勘違いという可能性はかなりある。
思い込みが激しいだけかもしれない。
でもおかげでこの数ヶ月何とかやり過ごせたんだから、それは勘違いや思い込みであったとしても、非常にありがたかった。
だから、1年前に戻って違う選択がなされて、それこそ一社会人として理性と常識を最優先させてたとするなら、多分今は全然違うところにいたんじゃないかなと思う。
いないのにいる、いると言うよりもその人の存在を感じる、みたいなのも体験することなく時が流れたのではないかなと予想している。
すべてはたらればだから、そんなのは現実として実際に想像はできないけれど、私にはそんな風に感じる。
重軽の石を持った時とても驚いたのと、そしてなぜかあのいつかの冷たい様子が思い浮かんだ。
絶対に私と目が合わないように、それもちょっとじゃない、もう何が何でも目を合わせないというような強い意志を感じる行動に、私は本気で打ちのめされた。
あの時最後に私は「よろしくお願いします」と声を変えず、努めて明るく言うようにした。
心はどこまでも落ちたけれど、そんなことへっちゃらですぐらいな感じで、用件を言い終えた。
あの部分だけ切り取ると、再会なんて叶うどころか夢に見ることさえはばかられる。
だけど、この何ヶ月にも渡るものたちは、どちらかと言えば、あの冷たさではなく、重軽の石寄りな感じのものだった。
見えない世界からのメッセージだとするなら、あの重軽の石が伝えようとしてることもわからなくもない。
当時のことを私はこんな風に書いている(ずっと気にかけてくれた方に送ったものの一部)。
私が自分の気持ちに正直になって書いたありのままの気持ちだった。
2017.9.8
「あれ(ごめんなさい、できませんの答え)が本心ではなかったように思います。
(中略)
だから、断られた時もどこか違和感のような、頭で出した答えという感じでした」
私にはどうしてもその人が自分の本心からその言葉を発してるようには見えなかった。
見えないと言うよりも感じられなかった。
心と言葉が一致している時のスッキリ感やストレート感がなくて、何かもやっとした感じが残った。
もちろんそんなこと一言も突っ込んでなんて本人に言えなかったけれど。
っていうか、そもそも私もよくぞあの状況下で聞いたなと思う。
賭けの結果により、理性ではなく自分の心に従うと決めたはいいけれど、今振り返るとかなりはちゃめちゃだなと思う。
上のものをメモから探してたらついでに出てきたメモ。
2017.10.8 5:12
「目の前で起こったことを言葉で描写することはできるけれど、その行動の裏側にある、またはその行動を支える相手の気持ちや意図を言葉で表すことはできない。
それは私は知らないから。
それよりも、その時に私の中に広がった感傷に思いを馳せ、それを癒すことに注力したい。
あの時の私はたしかに傷付いてた。
だけど、その傷は傷のまま終わりにするものじゃない。
癒して自分に新しい何かを与えるきっかけとなるものだろう。
そしてそのきっかけを与えてくれるのは相手が○○さんでなければならなかった。
他の人ではそういう反応を生み出さなかったから。
その感覚さえも人間であるがゆえ、今命があるがゆえのことだと思うと、何だか愛おしい。
生命力
人間力
自分力
今ならその順番がわかる。
命があること。
人間であること。
その2つが満たされて初めて自分であることの領域が発動する。
干支が一周して、川端さん(=川端誠さん・絵本作家さん)の言葉がようやく自分のものとして理解できるようになった。
そういうものを気付かせてくれる存在なんだと、○○さんはそういう人なんだと気付く。
もし○○さんが社交的でうまく振る舞ってくれてたら私の中の気持ちは穏やかでそれで終わってたかもしれない。
だけど、それとは真逆で、私がものすごく動揺する結果になって、頭であれこれ考えないといけなくて、でも結果今のようなことに気付く流れになってたとしたら、○○さんの在り方が一層愛おしい大切なものになる。
自分に優しくするきっかけを与えてもらったんだと思う。」
当時、1ヶ月?2ヶ月?ぐらい、本気で眠れなくなって、毎日3時間寝たか寝ないかみたいな生活を送ってた。
私は不安が高じると眠れなくなる体質で、その時はその人が自分の世界からいなくなってしまうことが本気で怖かった。
そこまでの症状が出たのは過去にもう1回だけで、でもその時は不安でそうなったのとは違ってた。
過去の時は、どちらかと言えば、楽観的な状況にあって、意識が深まるような感じのことが続いた時になった。
でも当時は違ってた。
その人がいなくなるというのは、私にとって、何かとんでもない恐怖が立ちはだかっていて、絶望みたいなものだった。
生きているのに会えない、人生で交わらない、それが本気で怖すぎてまともに受け止められなかった。
その恐怖や絶望を説明するのに、「魂の繋がり」がわかったのは大きかった。
あるという前提で、その人とのすべてを見た時に、その恐怖や絶望も理解できるレベルになった。
魂からの叫びだったとするなら、あの半端ない怖さ、人生でもう交わらないという時の絶望が、わかる気がした。
やっと出逢えた、なのにそれぞれの道に行く、それが本当に悲しくて仕方なかったんだと思う。
重軽の石1つがこれだけたくさんの回想と想いを引っ張り出すことになるとは思わなかったけれど、久しぶりにあの嫌で嫌で仕方なかった瞬間を思い出した。
でも、時間の経過と共に、あの嫌な瞬間は違う意味合いが加わって嫌ばかりではなくなった。
時は流れるし、状況もあれこれ変わる。
時々、その幻みたいなことではなく、もっと現実的に発展性のある関係を誰かと持ちたいと思うこともある。
それでもいつだってその人は私の中にいて、何をどうやっても出る気配がない。
この存在感は半端ない。
重軽の石は、願いが叶うとかいうことではなく、その願いがどれだけ自分にとって大切なものかを教えてくれるバロメーターとしたら納得できるなぁ…。
自分でもよくわかってないけれど、多分とっても大切な人なんだと思う。
そう思うと、あの重軽の石の結果もわかる。
7/23 真夜中
重軽の石
突然の思い付きで、ケーキを食べる前にある神社に立ち寄った。
県内でも有数の神社で、多分普段なら激混みだけど、真夏の平日の昼下がりなんて大して人もいないだろうと踏んで向かった。
片手で数える位しか行ったことないし、よく考えたら自分で運転して行ったことが一度あるかないかだから、道さえも怪しかった。
何通りか行き方があるんだと思うけれど、私はある特定の道だけは通りたいなぁと頭に思い浮かべて、そもそもそこさえも行き方がわからないから、あとはペンジュラム頼りだった。
途中で標識が出てきた。
なんとペンジュラムは、その神社は左折と出てるのに右折を指示してきた。
迷ったけれど、まぁ間違えたら最悪戻ればいいかと思って、ペンジュラムが指したように右折した。
通ったこともない道で、またもや民家が並ぶ細道とか、車1台しか行き来できない踏切とか、相変わらずよくわからない道を通ったけれど、なんとその通りたいとイメージした道に繋がった!
何でペンジュラムは毎回毎回確実な道を教えてくれるんだろう。
ペンジュラムのおかげで、無事に神社に着いて、そしてよくわからない道を歩いて抜けて境内の中に入った。
予想通り人はまばらで、多分全員で30人もすれ違ってないと思う。
境内は広いから、誰もいない時を狙って写真を撮れたぐらいだった。
帰ろうと思って複数の小路の交差点に着いた時、方向音痴力を存分に発揮した。
目印となるお守りとか売ってる所があったけれど、それですらもどこから私が来たのかわからず、目印にさえならなかった。
キョロキョロしてるうちに、私はある一点を捉えた。
いつか試したいと思っていた「石」だった。
この半年ぐらいの中で、私は2回そのシーンをテレビで見た。
願い事が成就するかどうかを見極める石で、持った時に重たければ叶わないし、軽ければ叶うとテレビでは解説されてた。
土曜の朝の旅番組とかだったと思う。
ただ場所が遠くて行けないなと思った。
2回目がいつかは忘れたけれど、それはローカルの情報番組で、その時にその神社のその石が紹介されてた。
だけどそこもいつ行くかなんてわからないから、興味は持ったけれど、そんなことはすっかり忘れてた。
20〜30代の娘と両親という組み合わせの人たちがその石の前に群がって互いに持って比べていた。
もしやあの石⁉︎と思って近付くと当たりで、そしてその人たちの会話を盗み聞きしてどうやらその石だということが判明した。
人もまばらで、少し外れたところだから他には誰もいなかった。
私にしてみても、単なる方向音痴が思わぬ産物となって、まさに怪我の功名だった。
その親子がいなくなってから私も試した。
「重軽の石」と札があっただけで、説明書きはなかった気がする。
2つあって、まずは1つを普通に持ってみた。
重かったけれど、持ち上げられないほどではなかった。
ちなみに私は、テレビで見た時に「石の重さが変わるなんて嘘でしょ?」と思いながら見ていた。
だって同じ石を持ってるのに、意識の在り方で軽くなったり重くなったりするなんてありえないと思った。
コーチングを習った時に、潜在意識と顕在意識の力の差を習うワークはした。
確かに潜在意識の力は強くて、まさに火事場の馬鹿力みたいな感じになる。
だけどそれは物を持つことはなく、単に自分の腕を使うだけだから、原理としてはわからなくはなかった。
だけどテレビの中では石が使われていて、もし秤(はかり)があれば絶対に重さが変わらないのは一目瞭然。
なのに、願い事を思い浮かべると軽くなるようで、それを体験した芸能人は喜んでいた。
ヤラセかと思った。
一度持った後、今度は思いついたことをそのまま聞く感じで持ってみた。
1つ目。
昼頃友達から連絡が来て、県の事務の仕事が半年契約で出てるよと教えてもらった。
興味はゼロ。
それに行く⁇と思いながら石を持った。
嘘みたいな本当の話で、なんと石が重くなった‼︎
重い=叶わない。
続けて聞いた。
2つ目、派遣会社に連絡する。
さっきよりかは重くなくても確実に最初より重い。
これも違う。
3つ目。
心の傷を癒す仕事をしますか⁇と。
なんとこれは最初より軽くなった。
確実に上に持ち上がった。
でも軽いとは言えなかった。
多分なんか違うんだろうなぁと思って、次の質問に移った。
4つ目。
心を癒す仕事をしますか?
これは今までの中で一番軽かった。
軽くて驚いた。
何だこの石⁉︎と思いながら、最後5つ目、爆弾質問をした。
私の中では他の4つと比べて一番叶う可能性も低ければ、非現実的過ぎて、一番重くなるんじゃないかと思った。
重ければ重いで、私の中のあきらめるためのきっかけにもなっていいと思って聞いた。
○○さんに再会できますか?って。
なんと石はこれまでの4回が何だったのか?と思うぐらいに軽かった。
「えっ⁉︎」ってなった。
嬉しいよりも意外過ぎて、私はこれは何かの間違いかと思った。
そこで隣りの左の石でも試したらわかると思って試した。
左の石はさらに重たくて、まず普通には私は持ち上げられなかった。
持っても石が少し動いたかな?どうかな?という程度で、持ち上げるのは無理だった。
事務の仕事と派遣の仕事は、持てないどころか重すぎて最初の時よりもさらに動かせなかった。
重すぎた。
心の傷の癒しの仕事は、宙から全体が浮くぐらいには持ち上げられた。
嘘みたいだけど、本当にそうだった。
心を癒す仕事は、さらにもう少し上まで上がった。
最後の質問も持ち上がったとしてもその程度だろうと踏んだ。
なぜなら右の石と違って、左の石は重すぎて普通には持てなかったから。
また同じように○○さんに再会しますか?と聞いた。
なんと、あの普通には全く持ち上がらなかったその石が、私の手首から肘ぐらいの長さ、だから25〜30センチ程はひょいと持ち上がった。
しかも軽くなってる。
最初の4つは、私の自助努力の範疇だから、石が軽くなったり重くなってもそれは私に合う合わないを伝えてくれてると思えばまだ納得できる。
最後の質問は、他と違って、私の自助努力の範疇にない。
私ががんばったら再会できます、というのとは違う。
っていうか、私が再会に関してがんばれること・できることなんて何もないから、これは何なのか?と思った。
願望の強度測定なら、5つ全ての結果はわかる。
後半の質問になればなるほど、自分の願いの強さも強くなる。
だけどそうではなく、その石は「成就する・しない」を判断するためにあるらしいから、原理にのっとれば、「会える」ことになる。
信じたい気持ちと、信じて叶わないことを目の当たりにして落ち込むのは避けたい気持ちとがある。
これを深く考えたら成就するなら超張り切って考え続けるけれど、そういうものではないから、とりあえず肯定しすぎることも否定しすぎることもなくいたいなぁと思った。
ちなみに疑い深い私は、家でも実験できないかとさっき試した。
本が10数冊入ってる段ボールで試した。
やっぱり結果は同じだった。
家で試す方がいらっしゃったら…。
個人的にポイントだと思ったのは、適度に重たくて重みが感じられるもの、尚且つ持ち上げるのにつかみやすいもの。
本の入った段ボールの良かった点は、持ち方や姿勢を統一できること。
だから重さの感じ方の違いがわかりやすかった。
雰囲気は石の方が断然出るけれど。
ちなみに言葉は、質問形式でも言い切りの形でもどちらでも石の重さの感度は変わらなかった。
「再会できますか?」にしても、「再会します」にしても、イメージするものは同じだから(厳密には違うにしても、相手を思い浮かべるという行為は一緒)、私の場合は言葉尻で結果が変わることはなかった。
いずれにしても、叶うことを本気で信じたいなぁという気持ちは同じだった。
県内でも有数の神社で、多分普段なら激混みだけど、真夏の平日の昼下がりなんて大して人もいないだろうと踏んで向かった。
片手で数える位しか行ったことないし、よく考えたら自分で運転して行ったことが一度あるかないかだから、道さえも怪しかった。
何通りか行き方があるんだと思うけれど、私はある特定の道だけは通りたいなぁと頭に思い浮かべて、そもそもそこさえも行き方がわからないから、あとはペンジュラム頼りだった。
途中で標識が出てきた。
なんとペンジュラムは、その神社は左折と出てるのに右折を指示してきた。
迷ったけれど、まぁ間違えたら最悪戻ればいいかと思って、ペンジュラムが指したように右折した。
通ったこともない道で、またもや民家が並ぶ細道とか、車1台しか行き来できない踏切とか、相変わらずよくわからない道を通ったけれど、なんとその通りたいとイメージした道に繋がった!
何でペンジュラムは毎回毎回確実な道を教えてくれるんだろう。
ペンジュラムのおかげで、無事に神社に着いて、そしてよくわからない道を歩いて抜けて境内の中に入った。
予想通り人はまばらで、多分全員で30人もすれ違ってないと思う。
境内は広いから、誰もいない時を狙って写真を撮れたぐらいだった。
帰ろうと思って複数の小路の交差点に着いた時、方向音痴力を存分に発揮した。
目印となるお守りとか売ってる所があったけれど、それですらもどこから私が来たのかわからず、目印にさえならなかった。
キョロキョロしてるうちに、私はある一点を捉えた。
いつか試したいと思っていた「石」だった。
この半年ぐらいの中で、私は2回そのシーンをテレビで見た。
願い事が成就するかどうかを見極める石で、持った時に重たければ叶わないし、軽ければ叶うとテレビでは解説されてた。
土曜の朝の旅番組とかだったと思う。
ただ場所が遠くて行けないなと思った。
2回目がいつかは忘れたけれど、それはローカルの情報番組で、その時にその神社のその石が紹介されてた。
だけどそこもいつ行くかなんてわからないから、興味は持ったけれど、そんなことはすっかり忘れてた。
20〜30代の娘と両親という組み合わせの人たちがその石の前に群がって互いに持って比べていた。
もしやあの石⁉︎と思って近付くと当たりで、そしてその人たちの会話を盗み聞きしてどうやらその石だということが判明した。
人もまばらで、少し外れたところだから他には誰もいなかった。
私にしてみても、単なる方向音痴が思わぬ産物となって、まさに怪我の功名だった。
その親子がいなくなってから私も試した。
「重軽の石」と札があっただけで、説明書きはなかった気がする。
2つあって、まずは1つを普通に持ってみた。
重かったけれど、持ち上げられないほどではなかった。
ちなみに私は、テレビで見た時に「石の重さが変わるなんて嘘でしょ?」と思いながら見ていた。
だって同じ石を持ってるのに、意識の在り方で軽くなったり重くなったりするなんてありえないと思った。
コーチングを習った時に、潜在意識と顕在意識の力の差を習うワークはした。
確かに潜在意識の力は強くて、まさに火事場の馬鹿力みたいな感じになる。
だけどそれは物を持つことはなく、単に自分の腕を使うだけだから、原理としてはわからなくはなかった。
だけどテレビの中では石が使われていて、もし秤(はかり)があれば絶対に重さが変わらないのは一目瞭然。
なのに、願い事を思い浮かべると軽くなるようで、それを体験した芸能人は喜んでいた。
ヤラセかと思った。
一度持った後、今度は思いついたことをそのまま聞く感じで持ってみた。
1つ目。
昼頃友達から連絡が来て、県の事務の仕事が半年契約で出てるよと教えてもらった。
興味はゼロ。
それに行く⁇と思いながら石を持った。
嘘みたいな本当の話で、なんと石が重くなった‼︎
重い=叶わない。
続けて聞いた。
2つ目、派遣会社に連絡する。
さっきよりかは重くなくても確実に最初より重い。
これも違う。
3つ目。
心の傷を癒す仕事をしますか⁇と。
なんとこれは最初より軽くなった。
確実に上に持ち上がった。
でも軽いとは言えなかった。
多分なんか違うんだろうなぁと思って、次の質問に移った。
4つ目。
心を癒す仕事をしますか?
これは今までの中で一番軽かった。
軽くて驚いた。
何だこの石⁉︎と思いながら、最後5つ目、爆弾質問をした。
私の中では他の4つと比べて一番叶う可能性も低ければ、非現実的過ぎて、一番重くなるんじゃないかと思った。
重ければ重いで、私の中のあきらめるためのきっかけにもなっていいと思って聞いた。
○○さんに再会できますか?って。
なんと石はこれまでの4回が何だったのか?と思うぐらいに軽かった。
「えっ⁉︎」ってなった。
嬉しいよりも意外過ぎて、私はこれは何かの間違いかと思った。
そこで隣りの左の石でも試したらわかると思って試した。
左の石はさらに重たくて、まず普通には私は持ち上げられなかった。
持っても石が少し動いたかな?どうかな?という程度で、持ち上げるのは無理だった。
事務の仕事と派遣の仕事は、持てないどころか重すぎて最初の時よりもさらに動かせなかった。
重すぎた。
心の傷の癒しの仕事は、宙から全体が浮くぐらいには持ち上げられた。
嘘みたいだけど、本当にそうだった。
心を癒す仕事は、さらにもう少し上まで上がった。
最後の質問も持ち上がったとしてもその程度だろうと踏んだ。
なぜなら右の石と違って、左の石は重すぎて普通には持てなかったから。
また同じように○○さんに再会しますか?と聞いた。
なんと、あの普通には全く持ち上がらなかったその石が、私の手首から肘ぐらいの長さ、だから25〜30センチ程はひょいと持ち上がった。
しかも軽くなってる。
最初の4つは、私の自助努力の範疇だから、石が軽くなったり重くなってもそれは私に合う合わないを伝えてくれてると思えばまだ納得できる。
最後の質問は、他と違って、私の自助努力の範疇にない。
私ががんばったら再会できます、というのとは違う。
っていうか、私が再会に関してがんばれること・できることなんて何もないから、これは何なのか?と思った。
願望の強度測定なら、5つ全ての結果はわかる。
後半の質問になればなるほど、自分の願いの強さも強くなる。
だけどそうではなく、その石は「成就する・しない」を判断するためにあるらしいから、原理にのっとれば、「会える」ことになる。
信じたい気持ちと、信じて叶わないことを目の当たりにして落ち込むのは避けたい気持ちとがある。
これを深く考えたら成就するなら超張り切って考え続けるけれど、そういうものではないから、とりあえず肯定しすぎることも否定しすぎることもなくいたいなぁと思った。
ちなみに疑い深い私は、家でも実験できないかとさっき試した。
本が10数冊入ってる段ボールで試した。
やっぱり結果は同じだった。
家で試す方がいらっしゃったら…。
個人的にポイントだと思ったのは、適度に重たくて重みが感じられるもの、尚且つ持ち上げるのにつかみやすいもの。
本の入った段ボールの良かった点は、持ち方や姿勢を統一できること。
だから重さの感じ方の違いがわかりやすかった。
雰囲気は石の方が断然出るけれど。
ちなみに言葉は、質問形式でも言い切りの形でもどちらでも石の重さの感度は変わらなかった。
「再会できますか?」にしても、「再会します」にしても、イメージするものは同じだから(厳密には違うにしても、相手を思い浮かべるという行為は一緒)、私の場合は言葉尻で結果が変わることはなかった。
いずれにしても、叶うことを本気で信じたいなぁという気持ちは同じだった。
2018年7月20日金曜日
心の手紙
『心の手紙』
毎年7月になると、ある人に向けてメッセージを送る。
今年もその時が近付いてる。
途中まで書き終えてる。
去年の今頃は、自分の内面の変化とメッセージとに乖離が生まれた。
メッセージに集中できない私がいた。
去年書いたことはおおよそ覚えている。
検索したら出てきた。
「おおよそ覚えている」はかなり言葉を盛った。
読んだら、覚えていたのは冒頭だけだった。
去年はいつにも増して長いメッセージになっていたけれど、今読むと体がキリキリする。
居酒屋なんかで生のグレープフルーツサワーなんかを頼むと、ステンのすりおろし器が渡される。
あれでキュッキュッと最後の一滴までしぼろうとする、あの感触に似ている。
あれでキューーーーッと最後の最後までしぼり抜くあの感じ。
自分で書いた文章に今さら感動して、「私めちゃくちゃ良いこと書いた!」と思った。
そこには色んな言葉を書いていた。
私がもし同じ言葉を誰かからプレゼントされたら号泣するなというタイプの言葉だった。
自画自賛だけれど、本当にこれすごい力のある言葉だなと感じた。
今年は今年で別の言葉を綴るわけだけど、私の気持ちをオンにするために美味しいケーキを食べに行く。
ケーキが目的なのか何が目的なのかもはやわからないけれど、それでも私はケーキを食べて、頭の中にある言葉を拾ってメッセージを完成させると思う。
去年のような言葉は紡げないけれど、今年は今年で2018年バージョンを作ろう。
夜中に目が覚めて、『心の手紙』って出てきた。
そう、この恒例行事は心の手紙なんだとわかった。
去年のものは特別いつもと違っていたから、その前はどうだったのか探した。
2年前に私が書いた文章は、今も健在だと気付く。
【自分を大事にすること
自分を大事にするってどういうことか掘り下げると、無理しない、自分を責めない、自分の気分を良くするものを生活に取り入れるとかそんな風。
気分を良くするものは、夕日に照らされた洗濯物を眺めたり、好きな食器に好きなご飯を盛り付けたり。そういう些細なこと。些細だけど、心や体を満たしてくれるもの。】
決意表明なのか、私はそんな風に書いていた。
そこに書いたことと今思ってること、そんなに変わらないなと気付く。
夕日に照らされた洗濯物は今でも覚えている。
雑巾かタオルを乾かしてた。
薄いカーテン越しに、そのシルエットと夕日がセットで映ってた。
それがあまりにもキレイで、私はしばらく見入ってた。
上の文章は自分の決意表明みたいだけれど、当時の私が最大限できるささやかな気遣いだったんだと思う。
私の心はすぐに色々反応して脆いけれど、脆いながらもがんばるから大丈夫、というメッセージも含めたつもりだった気がする。
今年の下書きをさっと読んだ。
通しで読むと、自分の変化や時間の変化がわかる。
今年の私はそこに目をつけたんだ…とわかった。
ケーキのお店に行く時にその目をつけたことと重なる思い出スポットのようなものがあるから、それもゆっくり見よう、そう思った。
心の手紙は、これから先生きている限り書くつもりでいるのか、いつかは止めるのか、それはわからない。
生まれた命と生き続ける命とを確認しながら、飽きるまで、もしくは嫌になったりどうでもよくなるまで、その時その時の自分に正直になりながら言葉を繋いでいく。
言葉を通して自分を繋いでいく。
そして届ける。
小さな世界に向けて、確かに命のあるその世界に向けて届ける
毎年7月になると、ある人に向けてメッセージを送る。
今年もその時が近付いてる。
途中まで書き終えてる。
去年の今頃は、自分の内面の変化とメッセージとに乖離が生まれた。
メッセージに集中できない私がいた。
去年書いたことはおおよそ覚えている。
検索したら出てきた。
「おおよそ覚えている」はかなり言葉を盛った。
読んだら、覚えていたのは冒頭だけだった。
去年はいつにも増して長いメッセージになっていたけれど、今読むと体がキリキリする。
居酒屋なんかで生のグレープフルーツサワーなんかを頼むと、ステンのすりおろし器が渡される。
あれでキュッキュッと最後の一滴までしぼろうとする、あの感触に似ている。
あれでキューーーーッと最後の最後までしぼり抜くあの感じ。
自分で書いた文章に今さら感動して、「私めちゃくちゃ良いこと書いた!」と思った。
そこには色んな言葉を書いていた。
私がもし同じ言葉を誰かからプレゼントされたら号泣するなというタイプの言葉だった。
自画自賛だけれど、本当にこれすごい力のある言葉だなと感じた。
今年は今年で別の言葉を綴るわけだけど、私の気持ちをオンにするために美味しいケーキを食べに行く。
ケーキが目的なのか何が目的なのかもはやわからないけれど、それでも私はケーキを食べて、頭の中にある言葉を拾ってメッセージを完成させると思う。
去年のような言葉は紡げないけれど、今年は今年で2018年バージョンを作ろう。
夜中に目が覚めて、『心の手紙』って出てきた。
そう、この恒例行事は心の手紙なんだとわかった。
去年のものは特別いつもと違っていたから、その前はどうだったのか探した。
2年前に私が書いた文章は、今も健在だと気付く。
【自分を大事にすること
自分を大事にするってどういうことか掘り下げると、無理しない、自分を責めない、自分の気分を良くするものを生活に取り入れるとかそんな風。
気分を良くするものは、夕日に照らされた洗濯物を眺めたり、好きな食器に好きなご飯を盛り付けたり。そういう些細なこと。些細だけど、心や体を満たしてくれるもの。】
決意表明なのか、私はそんな風に書いていた。
そこに書いたことと今思ってること、そんなに変わらないなと気付く。
夕日に照らされた洗濯物は今でも覚えている。
雑巾かタオルを乾かしてた。
薄いカーテン越しに、そのシルエットと夕日がセットで映ってた。
それがあまりにもキレイで、私はしばらく見入ってた。
上の文章は自分の決意表明みたいだけれど、当時の私が最大限できるささやかな気遣いだったんだと思う。
私の心はすぐに色々反応して脆いけれど、脆いながらもがんばるから大丈夫、というメッセージも含めたつもりだった気がする。
今年の下書きをさっと読んだ。
通しで読むと、自分の変化や時間の変化がわかる。
今年の私はそこに目をつけたんだ…とわかった。
ケーキのお店に行く時にその目をつけたことと重なる思い出スポットのようなものがあるから、それもゆっくり見よう、そう思った。
心の手紙は、これから先生きている限り書くつもりでいるのか、いつかは止めるのか、それはわからない。
生まれた命と生き続ける命とを確認しながら、飽きるまで、もしくは嫌になったりどうでもよくなるまで、その時その時の自分に正直になりながら言葉を繋いでいく。
言葉を通して自分を繋いでいく。
そして届ける。
小さな世界に向けて、確かに命のあるその世界に向けて届ける
2018年7月19日木曜日
5月の海と7月の海 feat.with シャネル
2018.5.11 20:46
海までの道、車の中でバチャータと呼ばれるドミニカの音楽を流した。
なんとなくそういう気分だった。
色んなことが蘇ってきた。
30歳の誕生日になったばかりの深夜0時。
私はテーブルの上にあった開けたばかりの赤ワインに手が当たって床にぶちまけた。
友達2人が「ぶっしー何やってんの?」と半分おちょくりながら半分面倒くさそうに言った。
誕生日のお祝いをしてもらって、そしてその日は友達2人と私はホテルに泊まった。
綺麗なホテルじゃない。
とりあえず泊まれたらいいよね、のドミニカバージョン。
翌朝私は2人より先に目が覚めて、コンクリートむき出しの洗面所の鏡の前に立った。
鏡の自分に向かったら、私に笑ってと言い続けた人の言葉を思い出して、一瞬で目が真っ赤になるぐらい、ものすごく短くでも激しく泣いた。
友達2人のツッコミは嫌だったから、すぐに顔を洗った。
私は誕生日を迎える2、3日前から突然30歳になるのが怖くなった。
それまでは何ともなかったのに、本当にあの怖さは突然やってきた。
鏡の向こうにいる自分は、その怖さと頼りたくても頼れない状況とを色々感じ取っていた。
友達と別れた後、私は高速バスで自分の住む首都に戻って、さらにローカル線に乗り継いで海へと出かけた。
職場には適当な理由を言って、仕事は休んだ。
私は自分の30歳を静かに1人で過ごしてそこでのんびり日記を書くつもりでいた。
平日だからという考えが甘かった。
バス停に着くなり、大音量のバチャータが浜辺から聞こえた。
当然海に近付けば近付くほど音は大きくなる。
この耳を塞ぎたくなるような、あのシーンを思い出してた。
39歳と2ヶ月になった今日、数日前に届いた友達からの誕生日プレゼント、シャネルのグロス(唇がツヤツヤになる口紅のようなもの)を付けて出かけた。
人生で初めてのシャネルだった。
2018.7.18 21:10
同じ海に行った。
海に足を付けられるように、CROCS風のサンダルと膝下の長さのスカートで出かけた。
ちょっとだけ海水浴!と思ったけれど、平成25年以来の40度越えの高音を岐阜で記録した今日、新潟も十分に暑く、10分程度は真夏のギラギラ太陽の下で海の感触を楽しんだけれど、暑すぎてすぐにやめた。
足を洗うために水道を探したら、地下鉄の1駅分ほど炎天下の中歩くことになった。
暑すぎて風が吹くと涼しいと感じるレベルの暑さだったけれど、平日の誰もいない道を自分のペースで歩くのは楽しかった。
夏の草の匂いがした。
ばばちゃん(死んだ母方の祖母)の畑を思い出した。
匂いが似ていた。
この匂いを毎年夏、ばばちゃんの近くで嗅いでいたんだな…と思った。
日記も本も用意したけれど、出すこともなく、代わりに水筒に詰めてきた氷入りのアイスコーヒーを少し口にした。
水筒を持ってきたのは大正解で、夏の海とアイスコーヒーの水筒のコラボがとても粋だった。
ここからは回想しながら5月11日の続きを書きたい。
あの日同じ海に着く少し前とそして着いたその時、私は自分の今いる場所がとてもスペシャルなことに気付いた。
中学を卒業するまで、私は社会の中に居場所がなかった。
そして居場所がないだけではなく、外の世界は私という人間が否定されてしまう場所だった。
自分が生きているそのものがダメみたいな感じで、私には本当に幼い頃からその理由がわからなかった。
何でいじめられるのか、何で心がえぐられるぐらいの何かを受ける対象になってしまうのかわからなかった。
家は素の自分ではあったけれど、私は家を一歩外に出た時の自分が体験している世界については一度も家族に話したことがない。
だから、家の中でも大なり小なり演じる自分が常にいた。
それが高校あたりから徐々に人間関係が良くなって、大学以降はビックリするぐらいに良くなった。
社会人になってから、私はますます人に恵まれた。
大人になった私は確かに喋るようにはなったけれど、基本的に子どもの頃とそんなに変わらない。
だから、私は自分の子ども時代が何のための通過儀礼だったのか今もわからない。
ただそのおかげで、人にはものすごく恵まれている、ということが多分人よりも強く感じられてると思う。
今の私の周りには自分が好きな人たちしか個人的な付き合いをする人に関してはいないということに気付いた。
あの5月の海で、私は自分が出逢った人たちを思い出して、そしてその人たちに支えられての今だと気付いた。
友達は人生のパートナーとは違うけれど、それでもそういう人たちを自分が人生の中で持てるということはものすごく特別なことに感じている。
訳のわからない保育園・小学校・中学校の時間があったから、余計と大人になった自分が好きな人たちに出逢えて友達になれたのが宝物だった。
海に着く少し前から、その宝物の人間関係の友達の顔を思い出していた。
本当に私にはもったいないぐらいの人たちだった。
シャネルのグロスは大人の味がした。
子どもの頃、母親の口紅をいたずらした時に嗅いだ匂いなんだろうか。
口紅特有の匂いがした。
普段の私は、化粧品の匂いが全て苦手だから、何を使うにしても無香料を選ぶ。
匂いもとい臭いがきつい化粧品は苦手で仕方ない。
だけど、その友達がプレゼントしてくれたシャネルのグロスは違ってた。
匂いが大人の味だと感じた。
大人にならないとわからない良さがそこには隠れていた。
友達もシャネルをそのまた友達からプレゼントされたとのこと。
「ありきたりだけど、そして普段私はブランド物には全く興味もないんだけど、それだけはなぜか魔法がかかったみたいに女の子になった気がして、すごくすごくうれしかったの。
同じ気持ちになってもらえたら…と思って」
この友達が添えてくれた想いがさらにシャネルのグロスを引き立ててくれた。
シャネルは女の子になれる魔法だと教えてくれた友達の気持ちが嬉しくて、
そしてその魔法を使う最初の日は特別にしたかった。
デートなら最高に良かったけれど、そんなのいつになるかわからなくてシャネルがタンスの肥やしになりそうだったから、普段使いをすることにした。
その普段使いの最初の日に少しだけ華を持たせたかった。
シャネルのデビューは5月の海だった。
18歳の夏の夜、その友達と私は何度も何度も夜の散歩に出かけた。
坂を登りきると、街全体が見渡せる場所があった。
そこには小さなチャペルがあって、その横にあるベンチに腰を下ろして色んなことを喋った。
18歳の私たちは今39歳になった。
彼女と近くに住んだのはその夏の3ヶ月だけ。
私たち、遠距離恋愛ならぬ遠距離友達だね♡と何度言ったかわからない。
2018.7.19 午前中
上の文章にちょっと付け足しをした。
海でも駐車場でも足洗った場所でもその道中でも、ずっと1人だった。
もうこのまま誰とも関わらずに生きていけるのならそれっていいかもと思った。
社会から離れた生活をすると、私はなぜか毎回怖くなる。
また社会の中で人と交わることがとても怖くなる。
何が怖いのかもよくわからない。
人恋しい気持ちと同じぐらい、私は人のことが怖いのかもしれない。
悪い人なんてそうそういなくて、基本的に大人になってから出会う人たちは、それが仕事を一緒にすることになった程度の深い付き合いにはならない人でも、本当に良い人たちが多い。
相手じゃなくて、私の心の中なんだと思う。
私が感じる怖さは、相手じゃなくて紛れもない私自身の心の中だと思う。
怖いけれど、この文章全体を書いている時の私は、人との繋がりを感じてた。
それもみんなに自慢したいぐらいの繋がりを。
ヘタレメンタルはすぐに弱気になるけれど、こうした心に火が灯るものは大事にできる自分でありたいと思う。
海までの道、車の中でバチャータと呼ばれるドミニカの音楽を流した。
なんとなくそういう気分だった。
色んなことが蘇ってきた。
30歳の誕生日になったばかりの深夜0時。
私はテーブルの上にあった開けたばかりの赤ワインに手が当たって床にぶちまけた。
友達2人が「ぶっしー何やってんの?」と半分おちょくりながら半分面倒くさそうに言った。
誕生日のお祝いをしてもらって、そしてその日は友達2人と私はホテルに泊まった。
綺麗なホテルじゃない。
とりあえず泊まれたらいいよね、のドミニカバージョン。
翌朝私は2人より先に目が覚めて、コンクリートむき出しの洗面所の鏡の前に立った。
鏡の自分に向かったら、私に笑ってと言い続けた人の言葉を思い出して、一瞬で目が真っ赤になるぐらい、ものすごく短くでも激しく泣いた。
友達2人のツッコミは嫌だったから、すぐに顔を洗った。
私は誕生日を迎える2、3日前から突然30歳になるのが怖くなった。
それまでは何ともなかったのに、本当にあの怖さは突然やってきた。
鏡の向こうにいる自分は、その怖さと頼りたくても頼れない状況とを色々感じ取っていた。
友達と別れた後、私は高速バスで自分の住む首都に戻って、さらにローカル線に乗り継いで海へと出かけた。
職場には適当な理由を言って、仕事は休んだ。
私は自分の30歳を静かに1人で過ごしてそこでのんびり日記を書くつもりでいた。
平日だからという考えが甘かった。
バス停に着くなり、大音量のバチャータが浜辺から聞こえた。
当然海に近付けば近付くほど音は大きくなる。
この耳を塞ぎたくなるような、あのシーンを思い出してた。
39歳と2ヶ月になった今日、数日前に届いた友達からの誕生日プレゼント、シャネルのグロス(唇がツヤツヤになる口紅のようなもの)を付けて出かけた。
人生で初めてのシャネルだった。
2018.7.18 21:10
同じ海に行った。
海に足を付けられるように、CROCS風のサンダルと膝下の長さのスカートで出かけた。
ちょっとだけ海水浴!と思ったけれど、平成25年以来の40度越えの高音を岐阜で記録した今日、新潟も十分に暑く、10分程度は真夏のギラギラ太陽の下で海の感触を楽しんだけれど、暑すぎてすぐにやめた。
足を洗うために水道を探したら、地下鉄の1駅分ほど炎天下の中歩くことになった。
暑すぎて風が吹くと涼しいと感じるレベルの暑さだったけれど、平日の誰もいない道を自分のペースで歩くのは楽しかった。
夏の草の匂いがした。
ばばちゃん(死んだ母方の祖母)の畑を思い出した。
匂いが似ていた。
この匂いを毎年夏、ばばちゃんの近くで嗅いでいたんだな…と思った。
日記も本も用意したけれど、出すこともなく、代わりに水筒に詰めてきた氷入りのアイスコーヒーを少し口にした。
水筒を持ってきたのは大正解で、夏の海とアイスコーヒーの水筒のコラボがとても粋だった。
ここからは回想しながら5月11日の続きを書きたい。
あの日同じ海に着く少し前とそして着いたその時、私は自分の今いる場所がとてもスペシャルなことに気付いた。
中学を卒業するまで、私は社会の中に居場所がなかった。
そして居場所がないだけではなく、外の世界は私という人間が否定されてしまう場所だった。
自分が生きているそのものがダメみたいな感じで、私には本当に幼い頃からその理由がわからなかった。
何でいじめられるのか、何で心がえぐられるぐらいの何かを受ける対象になってしまうのかわからなかった。
家は素の自分ではあったけれど、私は家を一歩外に出た時の自分が体験している世界については一度も家族に話したことがない。
だから、家の中でも大なり小なり演じる自分が常にいた。
それが高校あたりから徐々に人間関係が良くなって、大学以降はビックリするぐらいに良くなった。
社会人になってから、私はますます人に恵まれた。
大人になった私は確かに喋るようにはなったけれど、基本的に子どもの頃とそんなに変わらない。
だから、私は自分の子ども時代が何のための通過儀礼だったのか今もわからない。
ただそのおかげで、人にはものすごく恵まれている、ということが多分人よりも強く感じられてると思う。
今の私の周りには自分が好きな人たちしか個人的な付き合いをする人に関してはいないということに気付いた。
あの5月の海で、私は自分が出逢った人たちを思い出して、そしてその人たちに支えられての今だと気付いた。
友達は人生のパートナーとは違うけれど、それでもそういう人たちを自分が人生の中で持てるということはものすごく特別なことに感じている。
訳のわからない保育園・小学校・中学校の時間があったから、余計と大人になった自分が好きな人たちに出逢えて友達になれたのが宝物だった。
海に着く少し前から、その宝物の人間関係の友達の顔を思い出していた。
本当に私にはもったいないぐらいの人たちだった。
シャネルのグロスは大人の味がした。
子どもの頃、母親の口紅をいたずらした時に嗅いだ匂いなんだろうか。
口紅特有の匂いがした。
普段の私は、化粧品の匂いが全て苦手だから、何を使うにしても無香料を選ぶ。
匂いもとい臭いがきつい化粧品は苦手で仕方ない。
だけど、その友達がプレゼントしてくれたシャネルのグロスは違ってた。
匂いが大人の味だと感じた。
大人にならないとわからない良さがそこには隠れていた。
友達もシャネルをそのまた友達からプレゼントされたとのこと。
「ありきたりだけど、そして普段私はブランド物には全く興味もないんだけど、それだけはなぜか魔法がかかったみたいに女の子になった気がして、すごくすごくうれしかったの。
同じ気持ちになってもらえたら…と思って」
この友達が添えてくれた想いがさらにシャネルのグロスを引き立ててくれた。
シャネルは女の子になれる魔法だと教えてくれた友達の気持ちが嬉しくて、
そしてその魔法を使う最初の日は特別にしたかった。
デートなら最高に良かったけれど、そんなのいつになるかわからなくてシャネルがタンスの肥やしになりそうだったから、普段使いをすることにした。
その普段使いの最初の日に少しだけ華を持たせたかった。
シャネルのデビューは5月の海だった。
18歳の夏の夜、その友達と私は何度も何度も夜の散歩に出かけた。
坂を登りきると、街全体が見渡せる場所があった。
そこには小さなチャペルがあって、その横にあるベンチに腰を下ろして色んなことを喋った。
18歳の私たちは今39歳になった。
彼女と近くに住んだのはその夏の3ヶ月だけ。
私たち、遠距離恋愛ならぬ遠距離友達だね♡と何度言ったかわからない。
2018.7.19 午前中
上の文章にちょっと付け足しをした。
海でも駐車場でも足洗った場所でもその道中でも、ずっと1人だった。
もうこのまま誰とも関わらずに生きていけるのならそれっていいかもと思った。
社会から離れた生活をすると、私はなぜか毎回怖くなる。
また社会の中で人と交わることがとても怖くなる。
何が怖いのかもよくわからない。
人恋しい気持ちと同じぐらい、私は人のことが怖いのかもしれない。
悪い人なんてそうそういなくて、基本的に大人になってから出会う人たちは、それが仕事を一緒にすることになった程度の深い付き合いにはならない人でも、本当に良い人たちが多い。
相手じゃなくて、私の心の中なんだと思う。
私が感じる怖さは、相手じゃなくて紛れもない私自身の心の中だと思う。
怖いけれど、この文章全体を書いている時の私は、人との繋がりを感じてた。
それもみんなに自慢したいぐらいの繋がりを。
ヘタレメンタルはすぐに弱気になるけれど、こうした心に火が灯るものは大事にできる自分でありたいと思う。
2018年7月18日水曜日
正解のない瞬間
人生の中で時々、絶対の正解がないところに100%自分のセンスでその場に居合わせることがある。
昨日、私はボーッとしながらようやく建物の陰に入った道を歩いてた。
しばらく工事をしていた駐車場も工事が終わっていた。
これは私が勝手に思ったことだけれど、都会と田舎の有料駐車場の違いは、都会は各駐車場に上がり板みたいなのが付いていて、そして清算は自販機ぐらいの大きさのもので済ませる。
清算が終わると板は自動的に下がって出れるようになる。
田舎にももちろんそのタイプもあるけれど、それよりも入口と出口にそれぞれ発券機と精算機があって、その機械の前に踏切みたいなバーが降りたり上がったりする方式のものが多い。
これは場所に余裕がないとできない駐車場のタイプなんだなぁ…なんて、私はいつから駐車場評論家になったのかと言わんばかりのことを本当に考えてた。
そんなことを考えてた矢先、ドスッと鈍い音がして、音の方向(進行方向)に目を向けると軽の車とおばあさんが衝突しておばあさんが倒れていた。
私から見て、おばあさんも車も突然視界に現れたから、あまりに一瞬のことで驚きを超えてしまった。
おばあさんのところにすぐに駆け寄って大丈夫ですか?と声をかけた。
運転手も車から出てきて、おばあさんは「あなたどこ見てるのよ?危ないじゃない!」と言い放った。
とりあえず意識がはっきりしてるのがわかって良かったけれど、私も気が動転している。
すぐ脇の建物に納入に来ていた男性も飛んで駆け付けてくれて、携帯をさっと出して「救急車呼びますよね?」と私に確認しながら、お願いします、と頼んで呼んでもらった。
おばあさんは多分大丈夫だと思うとは言ったけれど、あの鈍い音がするぐらいには当たっていたから、おばあさんには何かあると悪いから病院に行ってレントゲンとか検査してもらって大丈夫ってわかった方が安心だと思いますよ、とか言いながら、納得してもらった。
車もだけど、おばあさんもその事故の時のままの格好で、それが道路のど真ん中だったから、そこをまず移動しないとまずいと思った。
免許更新の時のビデオを真面目に見とくんだった…というのは後の祭りで、ふと冷静になった私は、おばあさんの体の状態も動かしていいものかどうかも全くわからなかった。
おばあさんを移動させないとまずいのはわかっても、これ移動させて大丈夫なのか全然わからなかった。
骨が折れてたりとか変に打ち身とかだとどうなるんだろうと思った。
しかも私は介護とかしたことないから、体の起こし方もわからない。
おばあさんは尻餅ついたままになっている。
危ないから移動しましょう、立ち上がることできますか?できなかったら私が抱き抱えるので…と抱き抱えるなんて言ったけれどやり方わかんねーとか思いながら、声をかけた。
多分動くのはできると言われた。
私は日傘とタオルを道の端っこに投げて、おばあさんの目の前にしゃがんだ。
おばあさんには私に掴まってもらって、立ち上がりますよとか言いながら、立ち上がってみた。
これでおばあさんが立ち上がれなかったらやり方考えようと思ったら、おばあさんは立ち上がれて、そして数歩歩く分には私に掴まりながらも歩けた。
おばあさんは私とその救急車を呼んでくれた男性に「みなさん、私は大丈夫ですから行ってください」と言われた。
年の頃80手前の方で、自分より他の人、旦那さんのことは「うちの主人」と言いそうな、そして旦那さんをきちんと立てて自分はその後ろをついて歩くような、古き良き時代の良妻賢母みたいな方だった。
その男性は男性で急いでないのでいますよと、そして私は私で「急ぎの用事があるわけじゃないので救急車来るまで一緒に待ちますよ」と伝えた。
そのおばあさんがどれだけの恐怖を感じてるのかはおばあさんを見ていてわかった。
おばあさんはどちらの手も私の手や体から離さなかった。
強く掴まってるのとは違うけれど、その状態になってることすら自分では気付いてないぐらいに動転してるのはわかった。
左手はおばあさんの手と握り合って、右手でおばあさんの背中をずっとずっとさすった。
車の運転手は60代の定年迎えたかな?みたいな男性で、おばあさんにすぐ駆け寄った後、救急車を呼ぶ男性と私がいるのを確認して、家がすぐ近くで保険の書類だけ取りに帰って来ると私に言付けして行ってしまった。
名前聞かなきゃと思う前に行かれて、でもこの人ひき逃げとかじゃなく本気で書類を取りに行くんだろうなという感じだった。
おばあさんの背中をさすってる時に、そのおばあさんが私の背中にあるコブみたいなのとほぼほぼ同じ位置に同じようなコブらしきものがあることがわかった。
このおばあさんと私お揃いだ!みたいなアホなことも考えた。
人の背中をさすったり、誰かに手を触れられたりするなんて久しくなく、私のさすり方は強すぎないかな?とか、嫌じゃないかな?とか、あれこれ考えた。
痛ければおばあさんも何か言うだろうと思って、救急車来るまでおばあさんとちょいちょい言葉を交わしながらずっと背中をさすったまま待った。
救急車は数分後に到着して、救急車の方たちにおばあさんは連れられて行った。
そのタイミングで運転手の男性も言葉通り書類を持って戻ってきた。
救急隊員に聞かれるまま、救急車を呼んでくれた男性が応対してくれて、私は多分第一発見者だけれど、何も聞かれず、そして行って大丈夫と言われたから私は自分の目的地へと向かった。
救急車が目の前で呼ばれたのは人生で二度目だったけれど、やっぱり難しいなぁと感じた。
当たり前だけれど、こういう時マニュアルもないし、普段の生活ではほとんど関わることのないことだから、動き方がさっぱりわからない。
ちなみに前回の救急車騒ぎはこんな余裕一ミリもなく、塾の仕事の最中、てんかん持ちの子がてんかん発作を起こした時だった。
私はその子のお母さんが普段は薬で抑えてるので発作は出ませんと言った言葉を全く疑わず、事前に発作時の対応の仕方の確認をしておかなかった。
私は人生でほぼほぼ初めてのてんかん発作を目の当たりにして、本気でこの子が死んじゃうとかもう二度と息を吹き返さないのかとも思って、生きた心地がしなかった。
その時は本当にラッキーで、辞める直前で後任の方もその場に居られた。
だからその方が救急車を呼んでくれた、それもとても冷静に。
他の子どもたちにも緊張が走っていたし、そしててんかんこそ何をしていいのかさっぱりわからなかった。
双子の子で、もう1人もすぐ隣りにいてくれたから助かった。
その日に限って、いつも絶対に電話が繋がる家なのに、固定電話も携帯も全部繋がらなかった。
片割れに「普段倒れたらどうしてんの?」と聞いたら、そのままでいいと言われた。
そのうち意識が戻ってくるから待ってればいいと。
格好も椅子共々ひっくり返って、椅子だけは本人の体と分離させたけれど、格好はひっくり返ったままの格好だった。
格好もそのままでいいと言われた。
子どもには両親のどちらかに繋がるまでずっと電話かけ続けてと伝えた。
何回目かでやっと電話が繋がってくれて、子どもはのんきに「発作起きたよ」と言ってるから、すぐに替わってもらって、とりあえず救急車を呼んだけれども今こちらは何をしたらいいのかを聞いた。
薬持ってすぐ駆け付けるので、そのままにしてもらってて大丈夫です、と言われて電話を切った。
数分でご両親が駆け付けてこられて、お母さんとは何回も顔を合わせていたけれどもお父さんは初めてお会いした。
お母さんは血相を変えて教室に入ってきたけれども、お父さんはどんと構えていて「大丈夫ですよ」と言っていられたのが印象的だった。
そのうち本人の意識も回復して、お母さんと本人で何かしらのやり取りをしていた。
救急車も到着したけれども、ご両親の方でお騒がせしました、てんかん発作治ったので大丈夫です、と断っていた。
私1人だったら絶対にもっとどうにもならなかったけれども、色んな偶然中の偶然が重なったおかげで、ハチャメチャでもすべては何とかなった。
答えのない、そしてどうするのが適切なのかもわからない瞬間が人生にはある。
今回おばあさんはおそらく大丈夫だと思われるのと、てんかん発作の子はその後はまた通常の生活に戻ったのとで、そういう感想が言えるのかもしれない。
どちらも何をしたら良かったかなんてわからない。
昨日もたまたまと言えども、私は珍しくリュックだけを持ち歩いていた。
普段ならプラスで貴重品とかを入れる小さなカバンを肩から斜めに掛けているところ、リュックだけだったから、自分の体の全面も両手も空いていた。
その後友達の家に行く用事があったから、普段ならサンダルのところ昨日は靴下+スニーカーを履いていた。
さすがに汚い足で友達の家に上がるのは忍びなかったから。
そして大きな日陰に入ったところだったから日傘を閉じていた。
日傘を差していたら、視界はさらに狭く遮られていた。
まるでその事故現場に居合わせてもいいように体の準備だけはやたらと整っていた。
体は良かったけれど、自分の頭は準備万端からは程遠かった。
何もしないよりそこにいるだけでもマシかな…という程度でしかなくても、1人で不安な時に心細くいるよりも良いかなと思った。
私なら誰かいて欲しいから、そんなすごい時。
私はその場を離れてから足が宙を浮いたみたいな、落ち着かない感じを味わった。
日々ドラマだなと思った。
そして、色々あっても普通に生きてるってすごいんだなと思いながらそこを後にした。
昨日、私はボーッとしながらようやく建物の陰に入った道を歩いてた。
しばらく工事をしていた駐車場も工事が終わっていた。
これは私が勝手に思ったことだけれど、都会と田舎の有料駐車場の違いは、都会は各駐車場に上がり板みたいなのが付いていて、そして清算は自販機ぐらいの大きさのもので済ませる。
清算が終わると板は自動的に下がって出れるようになる。
田舎にももちろんそのタイプもあるけれど、それよりも入口と出口にそれぞれ発券機と精算機があって、その機械の前に踏切みたいなバーが降りたり上がったりする方式のものが多い。
これは場所に余裕がないとできない駐車場のタイプなんだなぁ…なんて、私はいつから駐車場評論家になったのかと言わんばかりのことを本当に考えてた。
そんなことを考えてた矢先、ドスッと鈍い音がして、音の方向(進行方向)に目を向けると軽の車とおばあさんが衝突しておばあさんが倒れていた。
私から見て、おばあさんも車も突然視界に現れたから、あまりに一瞬のことで驚きを超えてしまった。
おばあさんのところにすぐに駆け寄って大丈夫ですか?と声をかけた。
運転手も車から出てきて、おばあさんは「あなたどこ見てるのよ?危ないじゃない!」と言い放った。
とりあえず意識がはっきりしてるのがわかって良かったけれど、私も気が動転している。
すぐ脇の建物に納入に来ていた男性も飛んで駆け付けてくれて、携帯をさっと出して「救急車呼びますよね?」と私に確認しながら、お願いします、と頼んで呼んでもらった。
おばあさんは多分大丈夫だと思うとは言ったけれど、あの鈍い音がするぐらいには当たっていたから、おばあさんには何かあると悪いから病院に行ってレントゲンとか検査してもらって大丈夫ってわかった方が安心だと思いますよ、とか言いながら、納得してもらった。
車もだけど、おばあさんもその事故の時のままの格好で、それが道路のど真ん中だったから、そこをまず移動しないとまずいと思った。
免許更新の時のビデオを真面目に見とくんだった…というのは後の祭りで、ふと冷静になった私は、おばあさんの体の状態も動かしていいものかどうかも全くわからなかった。
おばあさんを移動させないとまずいのはわかっても、これ移動させて大丈夫なのか全然わからなかった。
骨が折れてたりとか変に打ち身とかだとどうなるんだろうと思った。
しかも私は介護とかしたことないから、体の起こし方もわからない。
おばあさんは尻餅ついたままになっている。
危ないから移動しましょう、立ち上がることできますか?できなかったら私が抱き抱えるので…と抱き抱えるなんて言ったけれどやり方わかんねーとか思いながら、声をかけた。
多分動くのはできると言われた。
私は日傘とタオルを道の端っこに投げて、おばあさんの目の前にしゃがんだ。
おばあさんには私に掴まってもらって、立ち上がりますよとか言いながら、立ち上がってみた。
これでおばあさんが立ち上がれなかったらやり方考えようと思ったら、おばあさんは立ち上がれて、そして数歩歩く分には私に掴まりながらも歩けた。
おばあさんは私とその救急車を呼んでくれた男性に「みなさん、私は大丈夫ですから行ってください」と言われた。
年の頃80手前の方で、自分より他の人、旦那さんのことは「うちの主人」と言いそうな、そして旦那さんをきちんと立てて自分はその後ろをついて歩くような、古き良き時代の良妻賢母みたいな方だった。
その男性は男性で急いでないのでいますよと、そして私は私で「急ぎの用事があるわけじゃないので救急車来るまで一緒に待ちますよ」と伝えた。
そのおばあさんがどれだけの恐怖を感じてるのかはおばあさんを見ていてわかった。
おばあさんはどちらの手も私の手や体から離さなかった。
強く掴まってるのとは違うけれど、その状態になってることすら自分では気付いてないぐらいに動転してるのはわかった。
左手はおばあさんの手と握り合って、右手でおばあさんの背中をずっとずっとさすった。
車の運転手は60代の定年迎えたかな?みたいな男性で、おばあさんにすぐ駆け寄った後、救急車を呼ぶ男性と私がいるのを確認して、家がすぐ近くで保険の書類だけ取りに帰って来ると私に言付けして行ってしまった。
名前聞かなきゃと思う前に行かれて、でもこの人ひき逃げとかじゃなく本気で書類を取りに行くんだろうなという感じだった。
おばあさんの背中をさすってる時に、そのおばあさんが私の背中にあるコブみたいなのとほぼほぼ同じ位置に同じようなコブらしきものがあることがわかった。
このおばあさんと私お揃いだ!みたいなアホなことも考えた。
人の背中をさすったり、誰かに手を触れられたりするなんて久しくなく、私のさすり方は強すぎないかな?とか、嫌じゃないかな?とか、あれこれ考えた。
痛ければおばあさんも何か言うだろうと思って、救急車来るまでおばあさんとちょいちょい言葉を交わしながらずっと背中をさすったまま待った。
救急車は数分後に到着して、救急車の方たちにおばあさんは連れられて行った。
そのタイミングで運転手の男性も言葉通り書類を持って戻ってきた。
救急隊員に聞かれるまま、救急車を呼んでくれた男性が応対してくれて、私は多分第一発見者だけれど、何も聞かれず、そして行って大丈夫と言われたから私は自分の目的地へと向かった。
救急車が目の前で呼ばれたのは人生で二度目だったけれど、やっぱり難しいなぁと感じた。
当たり前だけれど、こういう時マニュアルもないし、普段の生活ではほとんど関わることのないことだから、動き方がさっぱりわからない。
ちなみに前回の救急車騒ぎはこんな余裕一ミリもなく、塾の仕事の最中、てんかん持ちの子がてんかん発作を起こした時だった。
私はその子のお母さんが普段は薬で抑えてるので発作は出ませんと言った言葉を全く疑わず、事前に発作時の対応の仕方の確認をしておかなかった。
私は人生でほぼほぼ初めてのてんかん発作を目の当たりにして、本気でこの子が死んじゃうとかもう二度と息を吹き返さないのかとも思って、生きた心地がしなかった。
その時は本当にラッキーで、辞める直前で後任の方もその場に居られた。
だからその方が救急車を呼んでくれた、それもとても冷静に。
他の子どもたちにも緊張が走っていたし、そしててんかんこそ何をしていいのかさっぱりわからなかった。
双子の子で、もう1人もすぐ隣りにいてくれたから助かった。
その日に限って、いつも絶対に電話が繋がる家なのに、固定電話も携帯も全部繋がらなかった。
片割れに「普段倒れたらどうしてんの?」と聞いたら、そのままでいいと言われた。
そのうち意識が戻ってくるから待ってればいいと。
格好も椅子共々ひっくり返って、椅子だけは本人の体と分離させたけれど、格好はひっくり返ったままの格好だった。
格好もそのままでいいと言われた。
子どもには両親のどちらかに繋がるまでずっと電話かけ続けてと伝えた。
何回目かでやっと電話が繋がってくれて、子どもはのんきに「発作起きたよ」と言ってるから、すぐに替わってもらって、とりあえず救急車を呼んだけれども今こちらは何をしたらいいのかを聞いた。
薬持ってすぐ駆け付けるので、そのままにしてもらってて大丈夫です、と言われて電話を切った。
数分でご両親が駆け付けてこられて、お母さんとは何回も顔を合わせていたけれどもお父さんは初めてお会いした。
お母さんは血相を変えて教室に入ってきたけれども、お父さんはどんと構えていて「大丈夫ですよ」と言っていられたのが印象的だった。
そのうち本人の意識も回復して、お母さんと本人で何かしらのやり取りをしていた。
救急車も到着したけれども、ご両親の方でお騒がせしました、てんかん発作治ったので大丈夫です、と断っていた。
私1人だったら絶対にもっとどうにもならなかったけれども、色んな偶然中の偶然が重なったおかげで、ハチャメチャでもすべては何とかなった。
答えのない、そしてどうするのが適切なのかもわからない瞬間が人生にはある。
今回おばあさんはおそらく大丈夫だと思われるのと、てんかん発作の子はその後はまた通常の生活に戻ったのとで、そういう感想が言えるのかもしれない。
どちらも何をしたら良かったかなんてわからない。
昨日もたまたまと言えども、私は珍しくリュックだけを持ち歩いていた。
普段ならプラスで貴重品とかを入れる小さなカバンを肩から斜めに掛けているところ、リュックだけだったから、自分の体の全面も両手も空いていた。
その後友達の家に行く用事があったから、普段ならサンダルのところ昨日は靴下+スニーカーを履いていた。
さすがに汚い足で友達の家に上がるのは忍びなかったから。
そして大きな日陰に入ったところだったから日傘を閉じていた。
日傘を差していたら、視界はさらに狭く遮られていた。
まるでその事故現場に居合わせてもいいように体の準備だけはやたらと整っていた。
体は良かったけれど、自分の頭は準備万端からは程遠かった。
何もしないよりそこにいるだけでもマシかな…という程度でしかなくても、1人で不安な時に心細くいるよりも良いかなと思った。
私なら誰かいて欲しいから、そんなすごい時。
私はその場を離れてから足が宙を浮いたみたいな、落ち着かない感じを味わった。
日々ドラマだなと思った。
そして、色々あっても普通に生きてるってすごいんだなと思いながらそこを後にした。
2018年7月17日火曜日
自分の目
2日と2/3日は布団で過ごした後、さぞかしひどい顔になってるだろうと思って自分の顔を鏡で見た。
あれ?と思った。
生まれて初めて、自分の目がきれいだと思った。
自分比だけど、普段よりもきれいな目をしていた。
あんなに何もしたくなくてずっとグダグダしてたのに。
目の錯覚ではないかと思って、何回も何回も見た。
目の形とか目の色とか全体のバランスとかは取っ払って、単純に目そのものを見た時にきれいだなと思った。
思ってるよりも自分の心は汚れてないのかも!とそれは良い風に解釈した。
私は自分の顔があまり好きじゃない。
嫌いだとまではいかないけれど、好きではないから、普段から自分の顔はあまり見ない。
化粧する時は顔は見てなくて、化粧をする部位や化粧の仕上がり具合しか見ていない。
そして私の化粧はすごく短いから、全部で3分も自分の顔を見てないと思う。
しかも裸眼だと0.1も視力のない目では、相当顔を鏡に近付けないと自分の顔が見えない。
ますます自分の顔を見なくなる。
ふと、何でこんなにも自分の顔を見るのが嫌なのかと思った。
私は小学校に始まり中学がピーク、高校の頃は時々、自分の容姿について、からかわれるぐらいならまだかわいいけれど、あれやこれやと完全に言葉の暴力のような形で色んなことを言われた。
自分ではわからない顔の醜さが他人には見えている、そして言われる。
自分でもどうしていいのかわからなかった。
自分で気をつけられるものであればいいけれど、顔や容姿は気をつけようがない。
でもそれが私で、そして子どもの私は今と全く違っていて、言われたら言われっぱなし、全く言い返せないし、自分の思ってることも1つも言えなかったし、嫌だとも言えなかった。
すっごい頑張って、たまに泣くぐらいだった。
そのぐらいしか自己表現もできなければ、本当に喋らない子どもだったから、言われたい放題だった。
中学の頃はもっと酷くて、私はじっと黙って耐えた。
中学も2年の2学期になると、毎日毎日あと残りの中学校生活は1年と何ヶ月みたいな数え方をするようになった。
何も我慢しなくて良かったんだろうけれど、家と学校だけの狭い生活範囲の中では恐怖の方が支配していて、私は言い返すとかやめてと訴えるとかそんなこと考えられなかった。
むしろ、もし死んだらとか、自殺未遂みたいなことしたら、周りは私の心の痛みに気付いてくれるだろうか?と思っていた。
高校からは人間関係が改善されていくんだけれど、それでも私はなぜか男子の意地悪そうなグループに目をつけられてるのか、私が通るとヒソヒソ私の方を見て話したり、明らかに悪意に満ちた顔をして聞こえよがしに何か言ってみたりと、本当に自分の外見全てにおいて私はダメなんだと思った。
勘違いの可能性ももちろんあるけれど、ああいうのは空気が伝わってくる。
決して良い意味には感じられなかった。
高校を卒業してから私は男の人たちと話せるようになった。
アメリカに行くような人たちということもあったのかもしれない。
ちょっとこれまでに会ったことのないタイプの男の人たちが登場した。
女の子もそうで、注意の矛先がオシャレとか外見ばかりじゃなくそれ以外のところ、そしてその頃から私の人間関係は完全に人間性に重きが100%になったから、もう誰も外見がどうだとか言う人はいなくなった。
付き合った人たちは、それぞれ私の外見を気に入ってくれてたけれども、毎回「この人大丈夫かな?」と思ってた。
よほど変な女性のタイプとか好みを持ってる人たちなんだろうと思った。
そんなこんなの外見の遍歴があるから、大人になる頃には自分の容姿にはすっかり自信をなくし、でも代わりに人間性でカバーできることを知ったから、私はそれでもう多分20年以上そのスタイルになった。
そして30代の後半、多分去年かおととしぐらいからは、もう年を重ねるとよほど外見に気をつけてる人でもなければそんなにみんな変わらないと思うようになった。
もちろんきれいな人はきれいだけれど、それよりも内面が外見に反映されるんだと本当の意味で感じるようになったから、自分の容姿についてもあまり気にならなくなった。
そんなこんなの私は、だからあまり自分の顔をしっかりと見たことがなくて、だから昨日鏡で自分の目をあれほどまで見つめたのは本当に初めてだったと思う。
本当にきれいな目をしてた。
たった1人だけ、過去に私の目がきれいと褒めてくれた私より何歳か下の女の子がいた。
私はその人と会って話すのが苦痛で、その言葉も全然素直に受け取れなかったけれど、でももしかしたら私が昨日見た自分の目をその子も感じ取ってくれてたのかもしれない。
今朝も自分の目を鏡に近付けてじっくりと見た。
きれいだなと思った。
そして、こうして自分の目を見てしばらく毎日自分の状態を見るのもいいかもしれないと思った。
さすがに見惚(と)れるほどではないからそんなにもガッツリも見ないけれど、1日の中で1、2分自分の目を見るのも悪くないなと思った。
そして、私はその自分の目が好きだなと初めて思った。
私は自分の顔のパーツで唯一好きなのは耳で、他は全く好きではなかった。
だけど目はいい感じな気がする♪と昨日から思ってる。
世の中には美人な人も可愛い人もたくさんいるから、その人たちと比べてという意味じゃない(末恐ろしくて比べることさえできない)。
そうじゃなくて、自分でいいなと思う、それがあるというのは私の人生の中ではものすごい大革命みたいな感じだから、これはこれでとても嬉しい。
ちなみに、昨日自分の目を見た時に思った。
あの私より少し下の男性のあの目は何なのかと思った。
私はたしかに自分の目を見て昨日きれいとは思ったけれど、その人の比じゃない。
その人を前にしたら私の目はどんなに頑張ってもかすむ。
あの人は何をしたらあんなきれいな目になるのか知らないけれど、もう信じられないぐらいにきれいな目をしてる。
それは顔全体の造作がきれいとか言うのとは別に(←いわゆるイケメンの人)、とにかく目がきれい。
目はとっても澄んでるし透明感溢れまくりだし、キラキラとは違うけれど光を持ってるような感じだった。
目力があるのとも違っていて、澄んでいるというのが一番近いと思う。
当たり前だけれどそんな人と比べた日には自分の目がきれいなんてとても言えないから、あくまでも自分比できれいという意味で、これからも日々目の観察にいそしみたいと思う。
あれ?と思った。
生まれて初めて、自分の目がきれいだと思った。
自分比だけど、普段よりもきれいな目をしていた。
あんなに何もしたくなくてずっとグダグダしてたのに。
目の錯覚ではないかと思って、何回も何回も見た。
目の形とか目の色とか全体のバランスとかは取っ払って、単純に目そのものを見た時にきれいだなと思った。
思ってるよりも自分の心は汚れてないのかも!とそれは良い風に解釈した。
私は自分の顔があまり好きじゃない。
嫌いだとまではいかないけれど、好きではないから、普段から自分の顔はあまり見ない。
化粧する時は顔は見てなくて、化粧をする部位や化粧の仕上がり具合しか見ていない。
そして私の化粧はすごく短いから、全部で3分も自分の顔を見てないと思う。
しかも裸眼だと0.1も視力のない目では、相当顔を鏡に近付けないと自分の顔が見えない。
ますます自分の顔を見なくなる。
ふと、何でこんなにも自分の顔を見るのが嫌なのかと思った。
私は小学校に始まり中学がピーク、高校の頃は時々、自分の容姿について、からかわれるぐらいならまだかわいいけれど、あれやこれやと完全に言葉の暴力のような形で色んなことを言われた。
自分ではわからない顔の醜さが他人には見えている、そして言われる。
自分でもどうしていいのかわからなかった。
自分で気をつけられるものであればいいけれど、顔や容姿は気をつけようがない。
でもそれが私で、そして子どもの私は今と全く違っていて、言われたら言われっぱなし、全く言い返せないし、自分の思ってることも1つも言えなかったし、嫌だとも言えなかった。
すっごい頑張って、たまに泣くぐらいだった。
そのぐらいしか自己表現もできなければ、本当に喋らない子どもだったから、言われたい放題だった。
中学の頃はもっと酷くて、私はじっと黙って耐えた。
中学も2年の2学期になると、毎日毎日あと残りの中学校生活は1年と何ヶ月みたいな数え方をするようになった。
何も我慢しなくて良かったんだろうけれど、家と学校だけの狭い生活範囲の中では恐怖の方が支配していて、私は言い返すとかやめてと訴えるとかそんなこと考えられなかった。
むしろ、もし死んだらとか、自殺未遂みたいなことしたら、周りは私の心の痛みに気付いてくれるだろうか?と思っていた。
高校からは人間関係が改善されていくんだけれど、それでも私はなぜか男子の意地悪そうなグループに目をつけられてるのか、私が通るとヒソヒソ私の方を見て話したり、明らかに悪意に満ちた顔をして聞こえよがしに何か言ってみたりと、本当に自分の外見全てにおいて私はダメなんだと思った。
勘違いの可能性ももちろんあるけれど、ああいうのは空気が伝わってくる。
決して良い意味には感じられなかった。
高校を卒業してから私は男の人たちと話せるようになった。
アメリカに行くような人たちということもあったのかもしれない。
ちょっとこれまでに会ったことのないタイプの男の人たちが登場した。
女の子もそうで、注意の矛先がオシャレとか外見ばかりじゃなくそれ以外のところ、そしてその頃から私の人間関係は完全に人間性に重きが100%になったから、もう誰も外見がどうだとか言う人はいなくなった。
付き合った人たちは、それぞれ私の外見を気に入ってくれてたけれども、毎回「この人大丈夫かな?」と思ってた。
よほど変な女性のタイプとか好みを持ってる人たちなんだろうと思った。
そんなこんなの外見の遍歴があるから、大人になる頃には自分の容姿にはすっかり自信をなくし、でも代わりに人間性でカバーできることを知ったから、私はそれでもう多分20年以上そのスタイルになった。
そして30代の後半、多分去年かおととしぐらいからは、もう年を重ねるとよほど外見に気をつけてる人でもなければそんなにみんな変わらないと思うようになった。
もちろんきれいな人はきれいだけれど、それよりも内面が外見に反映されるんだと本当の意味で感じるようになったから、自分の容姿についてもあまり気にならなくなった。
そんなこんなの私は、だからあまり自分の顔をしっかりと見たことがなくて、だから昨日鏡で自分の目をあれほどまで見つめたのは本当に初めてだったと思う。
本当にきれいな目をしてた。
たった1人だけ、過去に私の目がきれいと褒めてくれた私より何歳か下の女の子がいた。
私はその人と会って話すのが苦痛で、その言葉も全然素直に受け取れなかったけれど、でももしかしたら私が昨日見た自分の目をその子も感じ取ってくれてたのかもしれない。
今朝も自分の目を鏡に近付けてじっくりと見た。
きれいだなと思った。
そして、こうして自分の目を見てしばらく毎日自分の状態を見るのもいいかもしれないと思った。
さすがに見惚(と)れるほどではないからそんなにもガッツリも見ないけれど、1日の中で1、2分自分の目を見るのも悪くないなと思った。
そして、私はその自分の目が好きだなと初めて思った。
私は自分の顔のパーツで唯一好きなのは耳で、他は全く好きではなかった。
だけど目はいい感じな気がする♪と昨日から思ってる。
世の中には美人な人も可愛い人もたくさんいるから、その人たちと比べてという意味じゃない(末恐ろしくて比べることさえできない)。
そうじゃなくて、自分でいいなと思う、それがあるというのは私の人生の中ではものすごい大革命みたいな感じだから、これはこれでとても嬉しい。
ちなみに、昨日自分の目を見た時に思った。
あの私より少し下の男性のあの目は何なのかと思った。
私はたしかに自分の目を見て昨日きれいとは思ったけれど、その人の比じゃない。
その人を前にしたら私の目はどんなに頑張ってもかすむ。
あの人は何をしたらあんなきれいな目になるのか知らないけれど、もう信じられないぐらいにきれいな目をしてる。
それは顔全体の造作がきれいとか言うのとは別に(←いわゆるイケメンの人)、とにかく目がきれい。
目はとっても澄んでるし透明感溢れまくりだし、キラキラとは違うけれど光を持ってるような感じだった。
目力があるのとも違っていて、澄んでいるというのが一番近いと思う。
当たり前だけれどそんな人と比べた日には自分の目がきれいなんてとても言えないから、あくまでも自分比できれいという意味で、これからも日々目の観察にいそしみたいと思う。
2018年7月16日月曜日
海の日と心の台風
夏の太陽・夏の雲・夏の夕暮れ・ホタル
夏の太陽を見ていると、私は時々とてつもなく寂しくなる。
夏の太陽の力は半端なく強い。
7月2日 23:33
朝起きた時に、体に独特の感覚があったからそれを調べた。
そうしたら全然関係のないブログがヒットして、なぜか気になったから開いて読んだ。
話の感じだと、40代前半で奥さんを病気で亡くされた男性の心の中が描かれているものだった。
いくつか読んだ。
そのご夫婦の夏の思い出のページがあった。
夏の太陽と暑さの中にバーベキューや冷たいビールが出てくる。
不謹慎かもしれないけれど、私はそれが羨ましかった。
誰か大切な人と思い出を紡げたことが羨ましかった。
三つ子ママの奮闘記を1週間前ぐらいに読んだ。
ある時は、ホロスコープのブログの中でその方は旦那さんとのことを初めて少し踏み込んで書いていた。
旦那さんの事業が失敗したのは知ってた。
それだけにしては(もちろんそれだけのレベルじゃない)違和感がずっとあった。
そうしたらこの間、旦那さんの浮気について初めて触れてた。
改心されたみたいだけれど、文章の上に苦しさが、どうやっても受け入れられない気持ちが乗っかっているようだった。
そんなことは書かれていないし、今は再生した関係が書かれてあったけれど、どうしてもその悲しみとか許せなさみたいなのが見え隠れしていて、ポジティブな内容とは別に私の方が勝手に気持ちが沈んだ。
色んな人の色んな人生を覗いた。
みんなそれぞれにライフヒストリーがある。
去年の秋のおじの葬儀の時を思い出した。
おじの家から徒歩2分ぐらいの距離に大きなお寺さんがある。
そのお寺さんにお経を上げてもらうために行ってきた。
10年前の祖母の葬儀の時から少し変わって、寺の中もやたらと高齢者を意識したかのような内装に色々変わってた。
例えば前は畳の上に直に座るスタイルだったのが、今はパイプ椅子がズラリと並べてあった。
お茶が出てきた。
年老いた住職の奥さんがもてなしの心で客人の私たちをもてなしてた。
副住職の息子さんは独身らしく、若い奥さんはいなかった。
冗談なのか本気なのか区別がつかなかったけれど、いつだったかいとこが「史子、本当に嫁に行きたいのなら、下の寺の住職の息子を紹介できるよ」と言われたことがあった。
もちろんそんなのお願いしてないから今の独身の私が成り立つわけだけど、あれからも変わらずに独身なんだなぁと自分のことは棚に上げて思った。
色んな人生がある。
色んな人生模様を見ると、自分の人生には自分だけのテーマがあるとわかる。
私は三つ子ママではないし、死別の夫がいるわけでもないし、浮気夫もいなければ、寺の住職の嫁でもない。
今は名前だけがある39年目の人生を生きてる人になってる。
体も丈夫で、本当なら3人ぐらい子どもを生める体だったのかもしれない。
ドミニカにいた頃、婦人科系の病気が発覚して(多分29歳ぐらい)、でも同じ病気で手術までした妹は自然妊娠して姪っ子が生まれた。
私は20代の頃、児童養護施設と呼ばれる施設で働いて、2歳から18歳の高校卒業するまでの子どもたちを見る仕事をしていた。
虐待とか親の精神病とか色んな理由で家庭での生活は適切ではない(中には本当に命からがら保護された子もいる)と児童相談所が判断した子どもが生活するために入所する。
私はその仕事が大好きで、大好きな理由の1つが毎日色んなドラマがあって、そして1人1人の子どもと色んなものを積み重ねるそのプロセスに魅せられていた。
色んなドラマと言ったって、テレビドラマの世界のようなドラマじゃない。
布団を一緒に敷くだとか、ご飯食べるだとか、学校の宿題を見るとか、そんなどこの家庭でもあるようなことを一緒にするだけ。
事件も山ほど起こしてくれてたけれど、それでも本当に毎日毎日同じようでいて少しずつ違っている、そしてケンカしたりしながらも関係ができてくその感じが私にはすごく面白かった。
くそばばあも死ねも山ほど言われたけれど、自分より背の高い男の子に殴られそうになったこともあったけれど、椅子やら物やらが投げつけられたこともあったけれど、それでも楽しかった。
だから私は結婚と子育てに関して、並々ならぬ願望を抱いた。
毎日好きな人と一緒にいて好きな人との子どもを宿して生んで育てて…、私からしたら最高のエンターテイメントに見えた。
それがどんどん違う方向に人生は流れて、気付けば訳のわからない新分野の知識や世界が乱入し、元から勤労意欲やキャリア志向などない私からしたらこの収集のつかなくなった人生を前にどうしていいのかわからなくなった。
ちなみにもう前の仕事には戻らない。
私がそうした仕事に就かないのは、そこに勤めるなら数年単位でそこに身を埋める覚悟なくしては関わってはいけない世界であることを知ってるから。
綺麗事を並べるみたいだけど、私は本気でそれを思う。
子どもとそこそこの関係を作るのに3年は要る。
もちろんその前に子どもが親や親族に引き取られて退所になることもあったけれど、そうでなく長期にいるなら3年はかかる。
私は5年半いても関係が素晴らしくいいものになったなんて思ったことは一度としてなく、奥の深い世界だと思った。
だから仕事を辞めた時、私は号泣した。
辞めた日の最後の時間も覚えてる。
担当してたお調子者の男の子が、新学期の始業式で児童代表の新学期の決意みたいな作文読みに立候補した。
立候補までは良かったけれど、まずは作文は書かないわ、先生に叱られてもやらないわで、学校から苦情と窮状を訴える電話が私宛てに来た。
学校も春休みに入るから、作文を書かせて本人に練習させてそれで新学期登校させて欲しいと言われた。
だからまずは本人捕まえて作文を書いてもらって、書き終わって私が言葉のおかしいところは直して、それでやっと今度は発表のための練習をした。
私が最後にした仕事は、その子との恒例の発表練習だった。
2人で何回したかわからない。
私はいつも通りに、畳の上に2人で向かい合って座って、じゃあ始めようかと言って始めた。
私が注意した数々のことを全部守ってた。
姿勢も声の出し方もスピードも目の位置も本当に申し分なかった。
すごい良かったよ、これまでで一番良かったよって絶対に言おうとかなり初めの段階で思ってた。
2枚目に入るあたりから時々咳をして、声がかすれて、鈍い私は全く気付かずそれでも黙って聞いてた。
そのうち本人が嗚咽をもらして読めなくなった。
私はその日いなかったからその日のその子の様子はわからなかったけれど、何日か前に異動と退職の知らせが子どもたちに伝えられた。
その時もすごかったらしい。
だけどその日からその時までその子は私の前では一度も泣かなかったし、これまで通りを貫こうとしてた。
私は私の勝手で辞めるのがわかっていたから、だから最後まで変わらずにいることだけは決めていた。
だけど、5年生のその子にしたら、ある日突然の告知で、それでも私の前では本当に普通に普通に振る舞ってた。
それが最後の瞬間、本人はわかってた。
これが最後で、もう私とこんな風に練習することがないことを。
人と適度に距離を持ってしか人間関係を作らなかったその子が、そして拗ねたり怒って泣くことはたくさんあったけれど、それ以外の気持ちで嗚咽をもらすほどに泣いてたのはその時が初めてだった。
私もつられて泣いた。
自分で決めたことだけれど、そこを去る時にはすごく後悔みたいな気持ちもあった。
もっともっとその仕事をしていたかった。
色んな気持ちが渦巻きながら、そして縁あって出逢った人たちと離れるのが本当に寂しくて、涙は止まらなかった。
その頃の私はまだ呑気だった。
自分の未来に対して明るい展望とそしてそれが実現できると信じて疑わない強さがあった。
それから干支が一周して40という年齢が見えてくる頃、私はやっと自分の人生を受け入れ出したと思う。
自分の人生をそんなに堂々とは受け入れていない。
まだまだ否定もたくさんするし、こんなはずじゃなかったとも思うし、他人の人生を見ては隣の芝生は青いじゃないけれど羨ましくなる。
でも色んな人たちの人生ドラマを見て、今私に来ている手札を見た時に、私はやっぱり三つ子ママとか誰かのお嫁さんとかではなく、私には私の人生のテーマがあるんだと知る。
多分逃げてもテーマはやってくる、そんな風に感じる。
『夏の太陽・夏の雲・夏の夕暮れ・ホタル
夏の太陽を見ていると、私は時々とてつもなく寂しくなる。
夏の太陽の力は半端なく強い。』
冒頭の言葉は、7月の頭にホタルを両親と見に行った日、ふと出てきた言葉をメモに入れておいたもの。
夏の太陽が寂しくなるのは、あの明るさが今だけのもので、それとは対照的なものがこれからやってくる予感を彷彿させるからなのかなと思ってる。
すっごい明るいものって、すっごい寂しさとセットになってる気がする。
だから、私は逆に冬の太陽の方が安心したりする。
7/16 10:30
小さくスイッチが入って、部屋のカーテンを開けて、そして今部屋の片付けを始めた。
小さなことから始めてる。
不要なものを捨てる。
それは片方行方不明になってる靴下やパワーストーン用の小さな巾着袋の紐や3ヶ月前には必要だった書類だったりする。
しばらく使っていなかったカバンにはホコリがいつの間にか掛かっていた。
またこちらを普段使いに戻そうと思った。
心の垢落としは難航してるから、まずは部屋の垢落としをしようと思った。
昨日おとといとほぼほぼ1日布団の中にいて、ちょっと嫌気がさした。
だから体を起こして小さなスイッチで発電が続く限り小さく動いてみようと思った。
7/16 11:10
爪そろそろ切らなきゃなぁと思って数日。
爪切りを出して爪を切って、そんなの10分もあれば終わる。
それさえも面倒な今、症状は重症だなと思う。
とにかく何もしたくない、気が済むまで何もしたくない。
ここまで来た時は、台風のように通過するのを待つしかない。
先ほどのスイッチはすぐに切れ、そしてその後は炊事の手伝いをした。
そしてまた布団の中。
7/16 13:18
とても意外な形で私の中の台風は去ってくれた。
私は、部屋の掃除+雑巾がけだけじゃなく、カバンのホコリも拭いたし、数ヶ月気になっていた観葉植物の葉に乗ってたホコリも拭いた!
爪も切った!
その後、テーブル出して書き物も始めた。
私は爪も切る気にならないと書いた後に、また奥さんを死別で亡くされた方のブログを読んでいた。
本当に素敵なご夫妻で、相思相愛、ブログには悲しみと絶望の色が98%占めてるけれど、それでもそこにはすごい愛が溢れ返っていた。
途中から私は迷い始めた。
何に迷ったのかと言うと、そのブログの主にコメントを書くのかどうか。
普段はこういうことは絶対にしない。
さすがの私も見ず知らずの人に突然コメントするなんて、しかも相手は死別で悲しみの淵にずっといる方で、自分がどれほど差し出がましくお節介ばばあなのかというのもわかってた。
だけど、読んでて気付いてしまって、頭からはそれが離れない。
気付いたのはこうだった。
その方が奥さんを亡くされた後、奥さんからのメッセージやサインと思われるものを夢で見たり感じたりしていた。
その人はそれは気のせいだと何回も何回も色んな記事で書いていた。
私はそれと同じことが書かれている本をつい最近読んだ。
霊能者の方で、死者の魂とコンタクトして(本人がすると言うよりも死者の魂から呼び掛けてくる)、そこから遺族に向けてメッセージを下ろす人の本だった。
初めてその本を見た時のことを私はなぜかよく覚えていた。
私は一度手に取ったけれど、全然つまんないと思って、1ページも読まずにすぐに本を閉じた。
そもそもタイトルも怪しいし、変にキラキラしてて、また新手のスピリチュアリストなのかと思った。
ところが、私はその本を再度手にすることになる。
先月東京で受けてきたヒーリング、私を見ただけで私の人生のあれこれを的中させまくったヒーラーさん、その方が自分が本物だと感じる人ということで2人の名前を挙げた。
1人は外国人で聞いたこともない名前だった。
それが巡り巡って、私はある大型書店でホロスコープ関連の本を手に取った時、その外国人の方の名前がすぐ隣りにあった。
うろ覚えだった私は、車に戻ってその名前をノートで確認して、そしてやっぱりその人だということを確信した。
あのキラキラした表紙だった。
私はその偶然に心躍らせながら、2回に分けてその本は読んだ。
何で自分が泣くのかよくわからなかったけれど、やたらと心に響いた。
そして、その時に初めてその本の人が、死者の魂とコンタクトを取る人で、死者がどんな風に遺族に対してメッセージやサインを送っているのかや、実際にはどういう風に死者の魂が遺族に対して見守っているのかが書かれていた。
その人の本は全て実践から得た知識や情報ばかりだった。
で、そこに書かれていた数々の死者の魂と遺族とを繋いだメッセージやその伝え方が、まさにそのブログの男性の書かれていることと同じだった。
その男性と亡くなられた奥さんが奥さんの死後にどんな風にやり取りしたのか、その話と重なった。
それに気付いた。
私が怪しいと思われたりするのはどうでもいいけれども、これを知ってるのに知らせない、せめて本を紹介できないかと思った。
読んでも奥さんは戻ってこないし、楽になるものでもない。
だけど私が感じたのは、その人がもしその本を読んだら、奥さんが近くでいつも見守ってくれてることが絶対にわかるはずというものだった。
そんなことないと否定する可能性も高いけれど、少なくともこれまでにはない見方ができるかもしれない、そういう気がした。
その人の悲しみが癒えたら…とかそんな気はさらさらなく、どうしてもその情報を伝えたくなってきた。
と言うよりも、伝えなきゃいけない気さえしてきた。
そもそもの話はこうだった。
「体に独特の感覚」と冒頭で書いたけれど、その感覚が昨日今日と連続で朝目覚めた時にあった。
2日連続だったからさすがに気になって調べた。
私はこうした普段にはない感触を感じる時は、検索する時に必ず最後「スピリチュアル」と入れる。
なぜかと言うと、普通の検索だと病気とかがヒットして私が欲しい情報に行き着かないから、最初からそうやって限定するとなかなか良い感じで必要な情報がもたらされるから。
ところがそんな検索だったにも関わらず、なぜか死別の方のブログももれなく引っかかって、それでちょっと気になって読んだらどんどんハマって読み進めたという。
しかも本来の調べ物そっちのけで読んだから、本来知りたかったことは知らないまま今に至ってる。
だから私からすると、予定にないブログだったこと、そもそも2日連続で体の感覚がなければそんな検索さえしなかったこと、全てがイレギュラーだった。
そんなイレギュラーなことによって辿り着いたブログで、これまたイレギュラーで読んだヒーリングの本だった。
そうだった、色んなことが重ならないとそもそも本を教えようなんて思わないんだった、というところに行き着いた。
そこから私はコメントを書いた。
コメント荒らしにも遭ったことのある人だったから、私こそコメント荒らしじゃないかと思った。
とりあえず、ここに書いたようなことを書いて、そしてまさか字数制限があるとは知らずに送ったらエラーになって、それこそコメント荒らしのごとく数回に分けて連投した。
幸い承認制のコメントで、本人が好きにコメントを触れるところも良かった。
私は自分が怪しいものではないと言うために、本名も名乗ったし、連絡先のメールも書いた。
そこまでしないと信じてもらえない気がしたから。
ただでさえ怪しいことを書くわけだから、ここは賭けでやるしかなかった。
怪しまれるのは構わないけれど、大事な情報がきちんと伝わらないのは困る。
だから通りすがりではあるけれど、きちんと順序立てて経緯を説明したし、本についてもざっくりとここに書いたぐらいのことは説明した。
そんなこんなのことが終わって、しばらく私はぽけ〜っとしてた。
スイカを食べてまたポーッとした後、コメントに返信があるかもしれないと思った。
本名出してるから大変申し訳ないけれど非公開対応をお願いした。
だからその人が何かしら返信するとしたらコメントかもしれないと思った。
予想的中。
きちんとその人に情報が届いたことがわかった。
しかも少なくとも悪い風には受け取ってないみたいで良かった。
mixiありがとうー‼︎とも思った。
2003年とか4年あたりに私はmixiを始めた(このブログになってからはmixiはストップしている)。
どうもその方も最初はmixiでスタートしたらしかった。
その方が何年にスタートしたかは知らないけれど、mixiで知らない人とやり取りしたことがある人なら絶対にわかる。
おかしい人とそうでない人の差。
あの見えない世界のネットこそ、私は逆にある程度その人柄が出てしまうと思ってる。
言葉遣い云々よりも、その人のまとってる空気みたいなのがわかる。
だから誠心誠意対応をすれば、少なくともおかしなことにはならない。
それはmixi時代に色んな人とやり取りしてわかった。
朝活なんかはmixiで申し込んで行ってたから、余計と実際に会うと意外な人というのはあんまりいなくて、読んでいた文章やつぶやきのまんまの人たちだった。
外見はわからなくても、考え方とか雰囲気なんてのは、文章通りだと思う人ばかりだった。
反対に、変な人たちから変なメッセージももらっていたことがあったから、やっぱり変な人たちは恐らく現実世界でも変な人たちなんだと思う。
さすがの私もある程度はチェックした。
他の方たちとどんなやり取りしてるとか(mixiの日記のコメント欄みたいだった←これは私の中では通常の一般公開のブログのコメント欄とは違う空気感を感じる)、普段のブログの中とか。
あとはその方はちょいちょい自分の普段の仕事についても触れていて、それがきちんとした会社の管理職なのはわかったから、社会的にきちんとしてる人だというのはわかった。
(むしろ私の方が本当にどこのどいつだよ⁉︎状態だった←一応公平を期すために4月からプー太郎なのは言った。それとは別に、きちんと読んだ感想も書いた。)
そんなこんなのやり取りがあってコメントを見た後、突然スイッチが入った。
まず掃除機と雑巾を用意して、部屋の掃除を始めた。
3日目の布団をようやく床上げした。
植物の葉っぱ拭きとか、セージ(部屋の浄化に使うドライハーブ)炊く用の皿をきれいにするとか、やたらと動けるようになった。
それで色々考えた結果、わかったこと。
多分その方とやり取りすることで、私の中のエネルギーが流れてくれたんだなということ。
だから調子が良くなった、突然に。
もちろん確証はない。
ないけれど、6月から始めたヒーリングの勉強によると、ヒーリング自体はエネルギーを流す行為だから、だから流す側も流しながら自分の具合が良くなるとのこと。
笑顔になると相手も笑顔を返してくれて、ほんわかとするあの感じに近い。
多分あのやり取りがその役割を果たしてくれたんだと思う。
でなければ、あの終わりの見えなかった心の不調は今もまだ続いてたと思うから。
という、あの爪切りの話の時には全く想像もつかなかった形で台風は抜けてくれた。
実質心の不調の原因は何一つ解決していないから、それはそれでこれから何かしらの対応はしないといけない。
それでも、思わぬ形でエネルギーチャージされて、さらには行動力なるものまで生まれて、とてもありがたかった。
7/16 21:05
夏の太陽を見ていると、私は時々とてつもなく寂しくなる。
夏の太陽の力は半端なく強い。
7月2日 23:33
朝起きた時に、体に独特の感覚があったからそれを調べた。
そうしたら全然関係のないブログがヒットして、なぜか気になったから開いて読んだ。
話の感じだと、40代前半で奥さんを病気で亡くされた男性の心の中が描かれているものだった。
いくつか読んだ。
そのご夫婦の夏の思い出のページがあった。
夏の太陽と暑さの中にバーベキューや冷たいビールが出てくる。
不謹慎かもしれないけれど、私はそれが羨ましかった。
誰か大切な人と思い出を紡げたことが羨ましかった。
三つ子ママの奮闘記を1週間前ぐらいに読んだ。
ある時は、ホロスコープのブログの中でその方は旦那さんとのことを初めて少し踏み込んで書いていた。
旦那さんの事業が失敗したのは知ってた。
それだけにしては(もちろんそれだけのレベルじゃない)違和感がずっとあった。
そうしたらこの間、旦那さんの浮気について初めて触れてた。
改心されたみたいだけれど、文章の上に苦しさが、どうやっても受け入れられない気持ちが乗っかっているようだった。
そんなことは書かれていないし、今は再生した関係が書かれてあったけれど、どうしてもその悲しみとか許せなさみたいなのが見え隠れしていて、ポジティブな内容とは別に私の方が勝手に気持ちが沈んだ。
色んな人の色んな人生を覗いた。
みんなそれぞれにライフヒストリーがある。
去年の秋のおじの葬儀の時を思い出した。
おじの家から徒歩2分ぐらいの距離に大きなお寺さんがある。
そのお寺さんにお経を上げてもらうために行ってきた。
10年前の祖母の葬儀の時から少し変わって、寺の中もやたらと高齢者を意識したかのような内装に色々変わってた。
例えば前は畳の上に直に座るスタイルだったのが、今はパイプ椅子がズラリと並べてあった。
お茶が出てきた。
年老いた住職の奥さんがもてなしの心で客人の私たちをもてなしてた。
副住職の息子さんは独身らしく、若い奥さんはいなかった。
冗談なのか本気なのか区別がつかなかったけれど、いつだったかいとこが「史子、本当に嫁に行きたいのなら、下の寺の住職の息子を紹介できるよ」と言われたことがあった。
もちろんそんなのお願いしてないから今の独身の私が成り立つわけだけど、あれからも変わらずに独身なんだなぁと自分のことは棚に上げて思った。
色んな人生がある。
色んな人生模様を見ると、自分の人生には自分だけのテーマがあるとわかる。
私は三つ子ママではないし、死別の夫がいるわけでもないし、浮気夫もいなければ、寺の住職の嫁でもない。
今は名前だけがある39年目の人生を生きてる人になってる。
体も丈夫で、本当なら3人ぐらい子どもを生める体だったのかもしれない。
ドミニカにいた頃、婦人科系の病気が発覚して(多分29歳ぐらい)、でも同じ病気で手術までした妹は自然妊娠して姪っ子が生まれた。
私は20代の頃、児童養護施設と呼ばれる施設で働いて、2歳から18歳の高校卒業するまでの子どもたちを見る仕事をしていた。
虐待とか親の精神病とか色んな理由で家庭での生活は適切ではない(中には本当に命からがら保護された子もいる)と児童相談所が判断した子どもが生活するために入所する。
私はその仕事が大好きで、大好きな理由の1つが毎日色んなドラマがあって、そして1人1人の子どもと色んなものを積み重ねるそのプロセスに魅せられていた。
色んなドラマと言ったって、テレビドラマの世界のようなドラマじゃない。
布団を一緒に敷くだとか、ご飯食べるだとか、学校の宿題を見るとか、そんなどこの家庭でもあるようなことを一緒にするだけ。
事件も山ほど起こしてくれてたけれど、それでも本当に毎日毎日同じようでいて少しずつ違っている、そしてケンカしたりしながらも関係ができてくその感じが私にはすごく面白かった。
くそばばあも死ねも山ほど言われたけれど、自分より背の高い男の子に殴られそうになったこともあったけれど、椅子やら物やらが投げつけられたこともあったけれど、それでも楽しかった。
だから私は結婚と子育てに関して、並々ならぬ願望を抱いた。
毎日好きな人と一緒にいて好きな人との子どもを宿して生んで育てて…、私からしたら最高のエンターテイメントに見えた。
それがどんどん違う方向に人生は流れて、気付けば訳のわからない新分野の知識や世界が乱入し、元から勤労意欲やキャリア志向などない私からしたらこの収集のつかなくなった人生を前にどうしていいのかわからなくなった。
ちなみにもう前の仕事には戻らない。
私がそうした仕事に就かないのは、そこに勤めるなら数年単位でそこに身を埋める覚悟なくしては関わってはいけない世界であることを知ってるから。
綺麗事を並べるみたいだけど、私は本気でそれを思う。
子どもとそこそこの関係を作るのに3年は要る。
もちろんその前に子どもが親や親族に引き取られて退所になることもあったけれど、そうでなく長期にいるなら3年はかかる。
私は5年半いても関係が素晴らしくいいものになったなんて思ったことは一度としてなく、奥の深い世界だと思った。
だから仕事を辞めた時、私は号泣した。
辞めた日の最後の時間も覚えてる。
担当してたお調子者の男の子が、新学期の始業式で児童代表の新学期の決意みたいな作文読みに立候補した。
立候補までは良かったけれど、まずは作文は書かないわ、先生に叱られてもやらないわで、学校から苦情と窮状を訴える電話が私宛てに来た。
学校も春休みに入るから、作文を書かせて本人に練習させてそれで新学期登校させて欲しいと言われた。
だからまずは本人捕まえて作文を書いてもらって、書き終わって私が言葉のおかしいところは直して、それでやっと今度は発表のための練習をした。
私が最後にした仕事は、その子との恒例の発表練習だった。
2人で何回したかわからない。
私はいつも通りに、畳の上に2人で向かい合って座って、じゃあ始めようかと言って始めた。
私が注意した数々のことを全部守ってた。
姿勢も声の出し方もスピードも目の位置も本当に申し分なかった。
すごい良かったよ、これまでで一番良かったよって絶対に言おうとかなり初めの段階で思ってた。
2枚目に入るあたりから時々咳をして、声がかすれて、鈍い私は全く気付かずそれでも黙って聞いてた。
そのうち本人が嗚咽をもらして読めなくなった。
私はその日いなかったからその日のその子の様子はわからなかったけれど、何日か前に異動と退職の知らせが子どもたちに伝えられた。
その時もすごかったらしい。
だけどその日からその時までその子は私の前では一度も泣かなかったし、これまで通りを貫こうとしてた。
私は私の勝手で辞めるのがわかっていたから、だから最後まで変わらずにいることだけは決めていた。
だけど、5年生のその子にしたら、ある日突然の告知で、それでも私の前では本当に普通に普通に振る舞ってた。
それが最後の瞬間、本人はわかってた。
これが最後で、もう私とこんな風に練習することがないことを。
人と適度に距離を持ってしか人間関係を作らなかったその子が、そして拗ねたり怒って泣くことはたくさんあったけれど、それ以外の気持ちで嗚咽をもらすほどに泣いてたのはその時が初めてだった。
私もつられて泣いた。
自分で決めたことだけれど、そこを去る時にはすごく後悔みたいな気持ちもあった。
もっともっとその仕事をしていたかった。
色んな気持ちが渦巻きながら、そして縁あって出逢った人たちと離れるのが本当に寂しくて、涙は止まらなかった。
その頃の私はまだ呑気だった。
自分の未来に対して明るい展望とそしてそれが実現できると信じて疑わない強さがあった。
それから干支が一周して40という年齢が見えてくる頃、私はやっと自分の人生を受け入れ出したと思う。
自分の人生をそんなに堂々とは受け入れていない。
まだまだ否定もたくさんするし、こんなはずじゃなかったとも思うし、他人の人生を見ては隣の芝生は青いじゃないけれど羨ましくなる。
でも色んな人たちの人生ドラマを見て、今私に来ている手札を見た時に、私はやっぱり三つ子ママとか誰かのお嫁さんとかではなく、私には私の人生のテーマがあるんだと知る。
多分逃げてもテーマはやってくる、そんな風に感じる。
『夏の太陽・夏の雲・夏の夕暮れ・ホタル
夏の太陽を見ていると、私は時々とてつもなく寂しくなる。
夏の太陽の力は半端なく強い。』
冒頭の言葉は、7月の頭にホタルを両親と見に行った日、ふと出てきた言葉をメモに入れておいたもの。
夏の太陽が寂しくなるのは、あの明るさが今だけのもので、それとは対照的なものがこれからやってくる予感を彷彿させるからなのかなと思ってる。
すっごい明るいものって、すっごい寂しさとセットになってる気がする。
だから、私は逆に冬の太陽の方が安心したりする。
7/16 10:30
小さくスイッチが入って、部屋のカーテンを開けて、そして今部屋の片付けを始めた。
小さなことから始めてる。
不要なものを捨てる。
それは片方行方不明になってる靴下やパワーストーン用の小さな巾着袋の紐や3ヶ月前には必要だった書類だったりする。
しばらく使っていなかったカバンにはホコリがいつの間にか掛かっていた。
またこちらを普段使いに戻そうと思った。
心の垢落としは難航してるから、まずは部屋の垢落としをしようと思った。
昨日おとといとほぼほぼ1日布団の中にいて、ちょっと嫌気がさした。
だから体を起こして小さなスイッチで発電が続く限り小さく動いてみようと思った。
7/16 11:10
爪そろそろ切らなきゃなぁと思って数日。
爪切りを出して爪を切って、そんなの10分もあれば終わる。
それさえも面倒な今、症状は重症だなと思う。
とにかく何もしたくない、気が済むまで何もしたくない。
ここまで来た時は、台風のように通過するのを待つしかない。
先ほどのスイッチはすぐに切れ、そしてその後は炊事の手伝いをした。
そしてまた布団の中。
7/16 13:18
とても意外な形で私の中の台風は去ってくれた。
私は、部屋の掃除+雑巾がけだけじゃなく、カバンのホコリも拭いたし、数ヶ月気になっていた観葉植物の葉に乗ってたホコリも拭いた!
爪も切った!
その後、テーブル出して書き物も始めた。
私は爪も切る気にならないと書いた後に、また奥さんを死別で亡くされた方のブログを読んでいた。
本当に素敵なご夫妻で、相思相愛、ブログには悲しみと絶望の色が98%占めてるけれど、それでもそこにはすごい愛が溢れ返っていた。
途中から私は迷い始めた。
何に迷ったのかと言うと、そのブログの主にコメントを書くのかどうか。
普段はこういうことは絶対にしない。
さすがの私も見ず知らずの人に突然コメントするなんて、しかも相手は死別で悲しみの淵にずっといる方で、自分がどれほど差し出がましくお節介ばばあなのかというのもわかってた。
だけど、読んでて気付いてしまって、頭からはそれが離れない。
気付いたのはこうだった。
その方が奥さんを亡くされた後、奥さんからのメッセージやサインと思われるものを夢で見たり感じたりしていた。
その人はそれは気のせいだと何回も何回も色んな記事で書いていた。
私はそれと同じことが書かれている本をつい最近読んだ。
霊能者の方で、死者の魂とコンタクトして(本人がすると言うよりも死者の魂から呼び掛けてくる)、そこから遺族に向けてメッセージを下ろす人の本だった。
初めてその本を見た時のことを私はなぜかよく覚えていた。
私は一度手に取ったけれど、全然つまんないと思って、1ページも読まずにすぐに本を閉じた。
そもそもタイトルも怪しいし、変にキラキラしてて、また新手のスピリチュアリストなのかと思った。
ところが、私はその本を再度手にすることになる。
先月東京で受けてきたヒーリング、私を見ただけで私の人生のあれこれを的中させまくったヒーラーさん、その方が自分が本物だと感じる人ということで2人の名前を挙げた。
1人は外国人で聞いたこともない名前だった。
それが巡り巡って、私はある大型書店でホロスコープ関連の本を手に取った時、その外国人の方の名前がすぐ隣りにあった。
うろ覚えだった私は、車に戻ってその名前をノートで確認して、そしてやっぱりその人だということを確信した。
あのキラキラした表紙だった。
私はその偶然に心躍らせながら、2回に分けてその本は読んだ。
何で自分が泣くのかよくわからなかったけれど、やたらと心に響いた。
そして、その時に初めてその本の人が、死者の魂とコンタクトを取る人で、死者がどんな風に遺族に対してメッセージやサインを送っているのかや、実際にはどういう風に死者の魂が遺族に対して見守っているのかが書かれていた。
その人の本は全て実践から得た知識や情報ばかりだった。
で、そこに書かれていた数々の死者の魂と遺族とを繋いだメッセージやその伝え方が、まさにそのブログの男性の書かれていることと同じだった。
その男性と亡くなられた奥さんが奥さんの死後にどんな風にやり取りしたのか、その話と重なった。
それに気付いた。
私が怪しいと思われたりするのはどうでもいいけれども、これを知ってるのに知らせない、せめて本を紹介できないかと思った。
読んでも奥さんは戻ってこないし、楽になるものでもない。
だけど私が感じたのは、その人がもしその本を読んだら、奥さんが近くでいつも見守ってくれてることが絶対にわかるはずというものだった。
そんなことないと否定する可能性も高いけれど、少なくともこれまでにはない見方ができるかもしれない、そういう気がした。
その人の悲しみが癒えたら…とかそんな気はさらさらなく、どうしてもその情報を伝えたくなってきた。
と言うよりも、伝えなきゃいけない気さえしてきた。
そもそもの話はこうだった。
「体に独特の感覚」と冒頭で書いたけれど、その感覚が昨日今日と連続で朝目覚めた時にあった。
2日連続だったからさすがに気になって調べた。
私はこうした普段にはない感触を感じる時は、検索する時に必ず最後「スピリチュアル」と入れる。
なぜかと言うと、普通の検索だと病気とかがヒットして私が欲しい情報に行き着かないから、最初からそうやって限定するとなかなか良い感じで必要な情報がもたらされるから。
ところがそんな検索だったにも関わらず、なぜか死別の方のブログももれなく引っかかって、それでちょっと気になって読んだらどんどんハマって読み進めたという。
しかも本来の調べ物そっちのけで読んだから、本来知りたかったことは知らないまま今に至ってる。
だから私からすると、予定にないブログだったこと、そもそも2日連続で体の感覚がなければそんな検索さえしなかったこと、全てがイレギュラーだった。
そんなイレギュラーなことによって辿り着いたブログで、これまたイレギュラーで読んだヒーリングの本だった。
そうだった、色んなことが重ならないとそもそも本を教えようなんて思わないんだった、というところに行き着いた。
そこから私はコメントを書いた。
コメント荒らしにも遭ったことのある人だったから、私こそコメント荒らしじゃないかと思った。
とりあえず、ここに書いたようなことを書いて、そしてまさか字数制限があるとは知らずに送ったらエラーになって、それこそコメント荒らしのごとく数回に分けて連投した。
幸い承認制のコメントで、本人が好きにコメントを触れるところも良かった。
私は自分が怪しいものではないと言うために、本名も名乗ったし、連絡先のメールも書いた。
そこまでしないと信じてもらえない気がしたから。
ただでさえ怪しいことを書くわけだから、ここは賭けでやるしかなかった。
怪しまれるのは構わないけれど、大事な情報がきちんと伝わらないのは困る。
だから通りすがりではあるけれど、きちんと順序立てて経緯を説明したし、本についてもざっくりとここに書いたぐらいのことは説明した。
そんなこんなのことが終わって、しばらく私はぽけ〜っとしてた。
スイカを食べてまたポーッとした後、コメントに返信があるかもしれないと思った。
本名出してるから大変申し訳ないけれど非公開対応をお願いした。
だからその人が何かしら返信するとしたらコメントかもしれないと思った。
予想的中。
きちんとその人に情報が届いたことがわかった。
しかも少なくとも悪い風には受け取ってないみたいで良かった。
mixiありがとうー‼︎とも思った。
2003年とか4年あたりに私はmixiを始めた(このブログになってからはmixiはストップしている)。
どうもその方も最初はmixiでスタートしたらしかった。
その方が何年にスタートしたかは知らないけれど、mixiで知らない人とやり取りしたことがある人なら絶対にわかる。
おかしい人とそうでない人の差。
あの見えない世界のネットこそ、私は逆にある程度その人柄が出てしまうと思ってる。
言葉遣い云々よりも、その人のまとってる空気みたいなのがわかる。
だから誠心誠意対応をすれば、少なくともおかしなことにはならない。
それはmixi時代に色んな人とやり取りしてわかった。
朝活なんかはmixiで申し込んで行ってたから、余計と実際に会うと意外な人というのはあんまりいなくて、読んでいた文章やつぶやきのまんまの人たちだった。
外見はわからなくても、考え方とか雰囲気なんてのは、文章通りだと思う人ばかりだった。
反対に、変な人たちから変なメッセージももらっていたことがあったから、やっぱり変な人たちは恐らく現実世界でも変な人たちなんだと思う。
さすがの私もある程度はチェックした。
他の方たちとどんなやり取りしてるとか(mixiの日記のコメント欄みたいだった←これは私の中では通常の一般公開のブログのコメント欄とは違う空気感を感じる)、普段のブログの中とか。
あとはその方はちょいちょい自分の普段の仕事についても触れていて、それがきちんとした会社の管理職なのはわかったから、社会的にきちんとしてる人だというのはわかった。
(むしろ私の方が本当にどこのどいつだよ⁉︎状態だった←一応公平を期すために4月からプー太郎なのは言った。それとは別に、きちんと読んだ感想も書いた。)
そんなこんなのやり取りがあってコメントを見た後、突然スイッチが入った。
まず掃除機と雑巾を用意して、部屋の掃除を始めた。
3日目の布団をようやく床上げした。
植物の葉っぱ拭きとか、セージ(部屋の浄化に使うドライハーブ)炊く用の皿をきれいにするとか、やたらと動けるようになった。
それで色々考えた結果、わかったこと。
多分その方とやり取りすることで、私の中のエネルギーが流れてくれたんだなということ。
だから調子が良くなった、突然に。
もちろん確証はない。
ないけれど、6月から始めたヒーリングの勉強によると、ヒーリング自体はエネルギーを流す行為だから、だから流す側も流しながら自分の具合が良くなるとのこと。
笑顔になると相手も笑顔を返してくれて、ほんわかとするあの感じに近い。
多分あのやり取りがその役割を果たしてくれたんだと思う。
でなければ、あの終わりの見えなかった心の不調は今もまだ続いてたと思うから。
という、あの爪切りの話の時には全く想像もつかなかった形で台風は抜けてくれた。
実質心の不調の原因は何一つ解決していないから、それはそれでこれから何かしらの対応はしないといけない。
それでも、思わぬ形でエネルギーチャージされて、さらには行動力なるものまで生まれて、とてもありがたかった。
7/16 21:05
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