2018年2月27日火曜日

答え合わせ

仕事帰りに100均に寄った。

ペンジュラムが先週どうして子供用の童謡CDを置いてるだろう店舗ではなく、別の店舗に行くように言ったのか、その意図を知りたかった。

行く前の私は、行った方には買った小さなメッセージカードがあって、行かなかった方にはそのカードが売られてなかったのかも…とずっとそうだと信じ込んでた。

実際に足を運んでみてわかったことは、そのメッセージカードはそのもう一つの100均にも売っていたこと。

すぐには見つけられなかったけれど、文房具売り場をくまなく点検したらあった。

途中で2歳の姪っ子に買ったお医者さんごっこのおもちゃも置いてあって、あれ?この店でも良かったのに、何でペンジュラムはあえて別の店を指したのかな?…と不思議に思ってた。

ペンジュラムは嘘を教えたんじゃない。

必ず何かしらの意図を持ってその場所を指す。

何だろう…としばらく車を運転しながら考えてた。

そうしたら思い出したことがあった。

そもそもメッセージカードは予定外の買い物だった。

私はあくまでも姪っ子を連れての長めのドライブに備えて、童謡のCDを探しに行った。

私が行った方の100均は、最近店内を大幅改装して、何がどこに置いてあるのかさっぱりわからない状態になっている。

しかもこの100均、どうしたらそんな配置にするの⁉︎と言いたくなるぐらいに統一性がない。

この間もお弁当なんかを入れる保冷バックを探しに行ったら、キッチン用品のところにはなくて、店員さんに聞いて随分と離れた別コーナーを案内された。

しかもお目当てのものは、さらにそのコーナーとは全く違う、キャラクターグッズ系の文房具売り場にあった。

とにかく一事が万事その調子だから、その子供用の童謡CDについてもなかなか探し出せなかった。

結局CDはなかったにしても、その広い店内を私は最低でも3周した。

しかも、その統一性のない商品の置き方をする店だと知ってたから、くまなくチェックした。

その途中でメッセージカードは出てきた。

そう、探してもなかったメッセージカードが、くまなく棚を見て回ったことで出てきた。

全然買う予定もメッセージカードを書く予定もなかったけれど、一目で気に入り、さらにカードに最初から印字されている英語の一言のメッセージも良かった。

本当に私の願いそのままが文章になっていた。

そして、未来のプレゼントに添える一言メッセージなら、本当にちょうど良い大きさだった。

それに使おう、そうしよう!と即決した。


今日の仕事帰りに寄った店舗にも確かに同じカードが置かれていた。

だけどそこは店内改装もしてなければ、どこに何が置いてあるのか大体は見知ってる。

CD売り場も知ってる。

ということは、その店では私はメッセージカードに行き当たることは絶対になかった。

最初の目的のCDがなければ(実際に売ってなかった)、他に用事はないし、見たいものもないし、何なら翌日からの怒涛の2歳児という名の怪獣対策で少しでも早く体を休めたいから、無駄に店内をうろつくこともしなかった。

そう、その店では私は文房具売り場に行かなかったし、ましてやくまなく何かを探し回るなんてこともしない。

だからペンジュラムはわざとあのごちゃごちゃしている100均の方を指したんだと思う。

私の行動パターンを加味して、あえてあの店舗だったんだろうなと思う。

そしてあの店舗だった理由は、あの小さなメッセージカードを手にすること、それに尽きると思う。


未来のプレゼントと同じ形をしたものを、それぞれ頼まれていた人たちに送るために夜手紙を書いた。

今回3人分送ることになっていて、3人目の便箋と封筒を見て気付いた。

3人目は男性ということもあって、ベージュの罫線だけが入っている無地でシンプルな便箋と封筒だった。

未来のプレゼントに付けたメッセージカードは、100均で商品を見て付けることを思いついたけれど、実は選んでる最中も実際に書いてた時もとても楽しいものだった。

未来のプレゼントの相手にこれまで用意したものたちは、茶封筒だったり、白い紙だったり、無地の小さなカードだったりした。

茶封筒なんかは買ってる時、全くテンションが上がらなかった。

諸事情で茶封筒になったけれど、何でよりにもよって茶封筒…とどこかやるせない気持ちもあった。

とにかく一番デザイン性のないものが無難だろうという考えの元で選んでいたから、そういう意味で楽しい買い物からは程遠かった。

でも今回は、自由に選べた。

未来のプレゼントを渡せるというのは、それ相応の関係がなければ渡せないから、そうであれば自分の趣味でメッセージカードを選んでも大丈夫だろうと思ったから。

そして初めて自分の気持ちに素直に従ったものを選べた。


渡るかどうかもわからないメッセージカード(と未来のプレゼント)。

だけど、ペンジュラムが教えてくれた場所にはきちんと自分の気持ちが表れたメッセージカードが売られていて、そして私はそこからまたさらに新しい体験を追加した。

届かなくてもこういう体験のひとつひとつが自分がしたいことなんだろうなぁ、人生を賭けてやりたいことなんだろうなぁと思う。

誰かのことを思って何かを用意するという行為は、とても特別なものだと私は思っている。

そもそもはそういう人と人生で出逢わないといけない。

出逢ったからと言っても、その後何かを用意するのは関係がなければできないこと。

だから誰かに何かを用意するって、色んなことが成り立って初めてそれが可能になる。

さらに用意したものが相手に手渡されて(または届いて)、そしてそれを相手も喜んでくれたら、そんなの本当に奇跡だと思う。

ちなみに死ぬ間際にもまだ手元にあったら、もうその時はその時で一番良い方法で何とかしようと思ってる。

そして自分はその思い出を持ってあの世へ旅立ったらいい、それでもいいなと本気で思ってる。

そもそも限りなくゼロに近い可能性にかけて用意したものだから、それは届かなくても本当に仕方ないと思ってる。

だけど、奇跡が起きるならその奇跡が起きてもいいように用意だけしておこう、そんな風にして私の人生に現れたものだった。

2018年2月25日日曜日

未来のプレゼント 追記

昨日買った、届くか届かないかもわからない未来のプレゼント。

姪っ子メイと妹と少し遠出をする予定があったから、4連休に入る前の晩、100均に行った。

行き帰りの車中で童謡の音楽でもかけられたらなと思って、100均に売られてるのを見たことを思い出したから。

見た店も覚えていて、そちらに行く気満々だったけど、ペンジュラムはそちらじゃなくてもう一つ別の店舗に行くことを示した。

そっちの方が新しくてきれいだし、同系列だから間違いなくあるんだろうと思って行ってみた。

なのに童謡の音楽CDは売ってなくて、代わりに余計というか予定外のものを買って終わった。

予定外のものは、名刺サイズのメッセージカード。

プレゼントを買うことは決まったから、それに一言メッセージをつけたらいいかも!と思って買ってきた。

英語の一言メッセージも良かったし、デザインもわかりやすくて良かったし。

ペンジュラムも買え買えと言う(笑)。

他の似たデザインもないわけじゃなかったと思うけど、ペンジュラムはそれにだけしかYESと言わなかった。

結局のところ童謡CDはなくて、何のためにその100均に行くことになったんだろう…?と思いながらそのまま忘れてた。

4連休の最終日、メイと妹は2時間ほど前に金沢に向けて帰って行った。

ようやく1人時間を持てて、それで最初違うことをしていたけれど、そうだった、メッセージを書くんだった!と思い出して、さっきそのカードを出してきて書いた。

届くか届かないかもわからないその未来のプレゼントにさらに小さなメッセージもつける。

届かなかったらただただ痛い人で、それをどうするんだろうと思う。

まぁだけど、万が一届いたらメッセージがないのは寂しいから、その起こりそうにもない可能性にかけて小さなメッセージを書き上げた。

ふと、カードのデザインを見ていた時、デザインを構成する特定の形が全部でいくつあるのかなと思いついて数えてみた。

水玉ではないけれど、同じ形のものをいくつも重ねて一つの大きなデザインになっている。

その水玉部分にあたるものがいくつあるのかを数えてみた。

下書き用のカードはもう用済みだから、形の部分に直接数を書き入れた。

もしかして…のそのもしかしてで、全部で38個あった。

プレゼントの相手が今年度どこかのタイミングで38歳になる。

周りの人たちの話を耳をダンボにして聞いたところによると(←盗み聞き)、10月以降のいつかで、私の中では勝手に早生まれなんじゃないかと思ってる。

誕生日の日にちは最後までわからなかったけれど、38歳になるのは確実。

誕生日はさておいても、その数を数えたらちょうど38個、1人で狂喜乱舞しそうだった(笑)。

もしそれで本当に買った昨日やメッセージを書いた今日が本人の誕生日なら尚のこと面白い!

少なくとも明日の仕事帰り、もう一つの100均に寄って、そのカードが売ってるかどうかを見てこようと思う。

なければ何でペンジュラムがその実際に行った方の店を指したのかがはっきりするから。

まぁ仮にあったとしても、ペンジュラムがそのカードだよと教えてくれたのは間違いなくて、こういう偶然は単純に嬉しい。

しかも私も数を数えよう!なんて思い付き、ナイスすぎる(笑)。

単なるこじつけだろうと言われても仕方ないけれど、私は自分が嬉しくなった方が大事だから、やっぱりこの数の一致を喜んでしまう。

未来のプレゼント

2018年2月24日(土)
今日の昼間あるものを買いに行ってきた。

それは、色んな意味を込めて買おうと決めた未来のプレゼントだった。


そもそものきっかけはこうだった。

1週間前の土曜日にも私は同じお店に行ってきた。

その時に、私個人のオーダーと頼まれた知り合いの人のオーダーをお願いするため、今日買ってきたものの製作者の方に個人的に連絡を取りたいとお店の人にお願いして帰ってきた。

お店の人が最初に間に入って連絡を取って、その後その方と私が直接やり取りできるようにしますね、と言われて安心して帰ってきた。

そうしたら、お店の人から次の日連絡が来て、なんと製作者の方が今後は製作中止することが判明した。

販売も今出ている分だけということになった。

個人のオーダーも当然お願いできないことになった。

それも残念すぎたけど、それ以上に気になったのは別のことだった。

もし、本当にもし、ある人と再会できるのなら、その時にはその人にそのものを渡そうと考えていた。

その人に渡したいものだから、もし本当にそれを渡せるような状況になったら、その時は喜んでお店に買いに行こうと思ってた。

だけど、近い将来製作中止ゆえの販売中止になるなら、それは叶わないことになる。

そのいつ起こるかもわからない万が一みたいなことが本当に起こったとしても、もうその頃にはそのものは売られていないことは明白だった。

それで今日慌てて買いに行ってきた。

友達2人も買いに行きたいと言ってたから、その付き添いも兼ねて行った。


買うと決めるまでのこの1週間、私は何度も本当に買うのかを自分にも聞いたし、ペンジュラムにも聞きまくった。

これが確実に相手に渡るものであれば私も何の迷いもなく買うって決めれた。

だけどそんな保証もないどころか、普通に今の現状を見たら渡らない方が可能性として高いと言うより、それしかない。

渡す手段さえ今の私は持ち合わせていない。

高い買い物じゃないから財布への影響は少ないけれど、でもいかんせん渡るか渡らないかと言えば渡らない可能性が99.9%。

こんなの買うこと自体どうかしてると真面目に思う。

でも残りの0.1%のことが現実になったら、今度は物がない可能性が高い。

世の中には同じ商品が売られてるのは知ってる。

作り手もその人1人じゃないことも知ってる。

だけど、私はその人の作ったものだから買いたくて、他の人のものでは多分違うんだろうなと思ってる。

自分が日々使ってみてすごく良くて、それで最初2人の友達にプレゼントしようと考えて買いに行ったら、ちょうど仕入れ担当の店の人がたまたまいて、それがどういうものか説明してもらえた。

制作過程やその製作者の意図を教えてもらって、余計とそれが本当に良いものだとわかった。

すでにプレゼントした友達の1人がネットで色々調べて、「なんか他の人たちが作ったものは(質が)違うんだよね」と言ってたから間違いないと思う。

その友達は、物でもサービスでも悪いものや合わないものは体にとことん出てしまうし(私も数回目の前で具合悪くなったのを見ている)、反対に良いものは体の調子が良くなったり他にも本人にわかるプラスの作用がはっきり出る人だから、その人がそう言うぐらいだから本当にすごいんだろうなと思ってる。

だから、そのものはもう今あのお店にある分だけ=なら今しか買えないということもわかった。

そんなにすぐには売り切れないにしても、いつか近いうちには売り切れる。

でも、そんなの本当に相手に渡るかもわからなければ、相手が受取拒否することだって考えられる。

本当に買うのかな…と迷ったけど、ペンジュラムはNOを言わないどころか買えと言う。

こういう時私は質問を変えてあれこれ聞くんだけど、どんな風に聞いてもペンジュラムは買うにYESしか言わなかった。

しかも「買わない」に対しては単純なNOではなく、絶対的なNOを示すサインまで出してきた。

毎日アホみたいに何回も聞いて、それでもペンジュラムは何十回と聞かれても「買う」に対してYESだった。

もうこれは今の私の頭の中ではとても考えられないことだけれど、それでも買うことが何かに繋がっていくのかもしれないと思って、それで買いに行こうと決めれた。

ちなみに変えた質問の1つに「相手に渡らなかった場合、私の手元に置いておく」というのがあった。

それに対してもペンジュラムはNOを指した。

往生際の悪い私は、買った後も「これを渡す機会が巡って来なければ、自分のものとして使う」かどうかを聞いた(答えはNO)。

他にも「その人には渡らず、その人以外の人の元に行く」と聞いたけど、それもNO。

もっと色々聞き直しても相手にいくようになってるらしく、私の手元には残らないというのがペンジュラムに聞いて今の段階でわかったこと。

別にどうなっても、仮に願った方向(相手の手に渡る)になったらそれはそれで一番良くて一番嬉しい結果だけど、そうならなくてもこれはこれで実験として楽しんだらいいと思って、だから買いに行けた。

ちなみに今回が自分が自分用に買ったものも含めて8個目で、他にも友達の付き添いでもう9個、全部で17個のものを見たけれど(ひとつひとつ全部違う)、今回は自分のものと同じくらいすぐにピンときた。

言うなれば、ひとつひとつデザインが違う。

他の人たちのものは付き添いの友達含めて、なんとなくこれかなとなったのは3人、他は全くわからなかった。

どれを見ても、これがその人たちの元へ行く、その人たちのものになる、というイメージは湧かなかった。

なんとなくわかったのも3人で、自分の時と今回の時ほどに「これ!」とはならなかった。

それぞれデザインも意味も違うから、そういうわからないことはペンジュラムに全部聞いて決めた。
(この間頼まれた分も含めて4人分購入した時、ペンジュラムを使って選んで、その後ネットで意味を調べたら、4人が4人ともそれぞれにピッタリなものが選ばれていてビックリした!)

付き添いで行った友達やその家族の分も、私には全くどれがいいかなんてわからないから、まずは本人に選んでもらって最後はそれが合ってるかどうかをペンジュラムで確認するというやり方を採った。

念には念をということで、さらにその後ネットで調べると、どれもみんな友達の直感で選ばれたものがやっぱり本人や家族にぴったりのものがいくというなんとも不思議な感じで、私はそれ見たさに同行してるようなものだった。

余談が過ぎたけど、とにかく私は何を見ても基本的には見ただけでピンとくることは自分のもの以外にはなかった。

そんな私が今回は見た瞬間に「これだ!」となって、そこに相手の顔も浮かんで、そして最後ペンジュラムにも聞いてそれだけがYESで他の商品は全てNOだった。

数としては20前後あったと思うけど、今日買ってきたものは、見た瞬間「これだ!」となった。

自分のものを選んだ時と同じ感覚だった。

これまで自分以外の16個の時には絶対にそうならなかった。

3人だけそうかな…という多少なりの感覚はあっても、「もう絶対にこれ!」なんていう感じからは程遠かった。

反対にネットで意味を調べたら何でそれなのかわからなかったけど、まぁそんなの本当に相手の手に渡るならその意味もその時にわかるだろうと開き直って買ってきた。


今回のプレゼントは他にも意味がある。

1つは、「渡せる状況になる」ということが起こるなら、それ相応の関係性が未来に生まれるということ。

まさか関係性がないのにプレゼントは渡せない。

はじめに書いたように、今の段階では渡したくても渡す手段がない。

だから、渡せるということは、今とは違う展開になってるということ。

私の人生はもう何年にも渡って読めないことだらけで、そして過去にたくさんの奇跡を体験したから、たとえ今私の目に映る可能性が0.1%でもそれが本当に起こることもありうると思ってる。

最近では「起こらないことは起こる必要のないこと」「起こることはどんなことを経ても起こるべくして起こること」ぐらいに思うようになってきたから、だからそこは未来のお楽しみみたいにしてその時を待てたらいいなと思う。

2つ目は、今回のプレゼントは私そのものを表してる一部で、それを受け取ってもらえるというのは、私にとってとても大きな意味がある。

私はすでに4人の友達にプレゼントしたりこれから郵送したりするけれど、1人だけはプレゼントするのにすごく勇気が必要だった。

他3人は間違いなく理解あるし興味もあるのはわかってたから平気だった。

なんなら私がペンジュラムを日常的に使うことも知ってれば目の前でも使ってる姿を見ているから、ペンジュラムを使って選んだと言ってもそのままわかる人たち。

だけど、1人だけは、誰よりも早急にプレゼントしたかったけれど、誰よりもペンジュラムのこと含めてきちんと説明しなきゃいけない相手で、私は彼女にはものすごーく長い手紙を書いて説明した。

(『ふみの日日曜日』http://viva-vivir.blogspot.jp/2018/01/blog-post_5.html?m=0)

友達はものすごく喜んでくれたし、手元に着いてから「自分の元にやってきてくれたものはそもそも来ることが決まってた、そんな気がする」なんていう嬉しいことまで言ってくれたけど。

それぐらいに私も相当な注意を払って渡すもので、だから今日買ったものを受け取ってもらえるというのは私からしたら自分の思いや大切にしてることを受け取ってもらえるのと等しかったりする。

そんな色んな意味を込めて用意した未来のプレゼント。

ごちゃごちゃ書いたけど、本音は「届くといいなぁ」の一言に尽きる。

2018年2月24日土曜日

お風呂に入る楽しみ

日が暮れる前の明るい頃から2歳の姪っ子メイとお風呂に入った。

メイはアワアワ(入浴剤)に釣られて、「フミコと入る」となった。

メイはいつも風呂の時間が長い。

大人みたいに発汗作用や血行促進を図るために長風呂になるわけじゃない。

単純にお風呂の中で遊ぶ時間が楽しすぎて、それで結果的に長風呂になる。

昨日一番のヒットは、水中ピンポン&サッカーだった。

お風呂で遊ぶ道具の中にピンポン玉があって(色々あるのは知ってたけどピンポン玉の存在は昨日メイに見せられるまで知らなかった)、使わなくなった小さな木のしゃもじがラケット代わり、そして15センチほどの柔らかいプラスチック製の鳥の人形がサッカーのようにピンポン玉をキックする。

メイはラケット代わりの木のしゃもじでピンポン玉を弾く(はじく)。

私は鳥の足がピンポン玉に当たるようにして、そして反対側にいるメイのところにキックして玉を返す。

メイは時々自分の足を出して、鳥と同じ動きをしてピンポン玉を蹴った。

そんなようなことをエンドレスでやった。

他にもいくつか遊びがあって、メイはとにかく忙しい。

分刻みで動いている。

本来お風呂ってこういう楽しい時間なんだな…と反省も含めて昔の記憶を掘り起こしていた。

子どもの施設で働いていた頃、仕事の1つに子どもたちを風呂に入れることがあった。

入ったばかりの頃私は服を着たまま子どもの入浴介助をしてた。

でも他のベテラン先生たちを見ているとみんな一緒に入っている。

ある時ベテラン先生の1人に、お風呂は一緒に入った方がいいのかと質問したら
「小さいうちって、普通は大人と一緒にお風呂に入るでしょう。ここは家じゃないけれど、せめてそれに近い状況を作ってあげようと思って、それで一緒に入ってるのよ」
と教えてもらった。

探せばどこかにあると思うけど、私が当時の仕事でもらったマニュアル的なものはA4の紙1枚だけだった。

そこに5種類の勤務の流れが箇条書きで書かれていて、だからお風呂当番に関しても「幼児の入浴」ぐらいしか言葉としての説明がなかった。

なんでもそうだったけれど、とにかく全てが予測不可能な仕事ゆえ、マニュアルというマニュアルはなくて、何でもかんでも手探り状態でやるしかなかった。

だからお風呂もそうで、でもあの時に私はベテラン先生に質問して良かったと思う。

なぜなら、異動がある職場で、ベテラン先生たちは本来保育園の園長や副園長にあたる人たちで、そうした上の人たちが丸っと入れ替わった5年目以降、そのポジションとして現場にいるのはペーペーの私が一番の古株になって、私以外は誰も子どもと一緒にお風呂に入ることはなかったから。

新しく来る人からしたら、私1人が人と違う動きをしていて、最後の最後まで誰も私に何でお風呂に子どもと入るのかなんて聞いてこなかった。

唯一人生経験がとても豊富で物事を俯瞰して見るパートさんだけが「本当は武士俣さんがしてるやり方が本来の自然な姿なんだけどね、上の人たちは気付かないんだろうか」というようなことを何回か言ってくれてた。

そうやって理解してくれる人がいてくれたおかげで、私は他の誰もしなくなってからも最後まで子どもたちとお風呂に入り続けた。

ちなみに当時は、パートさんを配置しなきゃいけないぐらいに小さな子たちが多くて、毎回最低でも10人の風呂入れがあった。

この時ばかりは私は少しでも具合の悪い子がいると必死に検温した。

入れずに済むならそうしたかったから (苦笑)。

子どもの具合の心配じゃなくて自分の業務軽減のための検温で、私の場合は一事が万事本末転倒だった。

10人一斉は無理だから、3人か4人のグループに分けて、誰が1番、誰が2番、誰が3番と予め分けて、最初の子たちとはそのまま一緒にお風呂に行って、残りの子たちはパートさんにお願いして交代で連れてきてもらってた。

メイとマンツーマンで入るのとは違って、お風呂場は戦場のようだった。

お風呂はリラックスタイムじゃなくて、子どもたちに髪の洗い方や体の洗い方を教えたり仕上げしたり、終わったら今度は一緒にお風呂に入って少しばかりお話をして数を数えたりと本当に慌ただしかった。

遊びの要素は全くなくて、ひたすら日常のルーティンをこなすみたいな感じだった。

メイといると、当時のことがどれだけいびつだったのかがわかる。

あの時はあの時で全力だったけれど、メイとのお風呂タイムとは雲泥の差になっている。

メイがまだ小さいのもあるけれど、唯一お風呂で違うのは、その子どもたちは体についての質問がたくさんあったこと。

子どもたちもどういうわけかお風呂の中でしかその質問はしてこなかった。

女の人には何でおっぱいがあるの?なんて質問から、どんなに小さな女の子でも赤ちゃんが入るためのお部屋が生まれた時からおなかの中にあるんだよ、なんてことも教えたりした。

この話は女の子たち大好きで、私は毎回毎回この話をさせられてた。

男の子は男の子で面白く、どんなに小さくても体は反応するし、年中ぐらいになると恥ずかしいと思うのか見られないようにしたりする。

でも慣れてくるとそれもなくなって、普通に入る。

慣れてくると今度は男の人特有な感じの質問があって面白かった。

今思い出したことは2つ。

「○○の肌すべすべだね!」と言いながら子どもの肌を触ってたら、「ぶっちゃんのはだはすべすべじゃないね」と私の腕を触りながら返された。

私はそうだねと普通に返したつもりだったけど、その男の子は何を察したのか
「ねぇ、『すべすべじゃない』っていい言葉?」
と聞き返してきた。

嘘を教えてもよくないから
「うーん、そうだね、大人の女の人にそれ言うとイヤがられるかもね」
と教えた。

そうしたらその子は
「まちがえた!ぶっちゃんのはだすべすべ‼︎」
とすぐに言い直して、吹き出しそうだった。

そんなに気を使わなくてもいいのにと思いながら、こうやって男の子は女の人の扱いを覚えていくのかと思った。

なぜならその子の中では、私は松嶋菜々子より綺麗な人ということになってたから(笑)←私はそんなこと教えてないけど、子どもなりに私を喜ばせようと必死だったのはわかる。

またある時は別の年長の男の子にすごくきわどい質問をされた。
「大人の男の人は毛がたくさん生えてるけど、どうして女の人のうでや足や脇のしたに毛が生えないの?」
というものだった。

女の人は処理してるからないんだよ、なんて言いたくても言うのがいいとは当時は思えなかったから、私はそれには適当に相槌を打って終わった。

とにかく体についての質問は絶えず聞かれてたし、子どもたちもこれは裸の時じゃないと聞けないと思うのか、普段はそんなこと聞かれることもなかった。

前に、いとこの子どもたちとお風呂に入った時もそういう質問は一切なかった。

当たり前だけど、その子たちは自分の母親たちとお風呂に日常的に一緒に入っていて、普段とは違う人という意味で斬新でも施設の子どもたちみたいに大人とお風呂に入る体験が極端に少ないのとは違うから、普段のようにお風呂の中で遊んでた。

体や髪の毛の洗い方も本人たちの動きを見て、手伝ってと言われたらしたし、できると言われれば手は貸さず、最後に仕上げしようか?と聞いて終わってた。

当時は何とも思っていなかったけれど、実に面白い体験を仕事を通じてしていたんだなと思った。

そしてメイがいることで、今度はまた違った形で子どもと時間を過ごす。

妹の子どもということでこちらも気を使わなくていいし、メイもメイでおかあしゃんより自由にさせてくれるのを知ってるから、好き放題に遊んだりリクエストをしてくる。

当時は周りに小さな子どもが誰もいなかったから、施設の子どもたちに対しても何の先入観もなく関われたように思う。

お風呂で遊ぶことを知らないまま大人にさせてしまうことを、今少しばかりの後悔に似た気持ちを持ってしまう。

当時はいつどんな状況になっても生きていけるように、生きる力をつけることに何よりも注目してた。

それで良かったと思うけど、もう少し遊びも日常の中に取り入れたら良かったなと思う。

生きる力も大切だけど、その瞬間瞬間を楽しむことも生きていく上でとても大切だと気付いたのは、私の場合ほんの数年前だった。

だから施設で働いてた時はそんなこと考えたこともなければ、お風呂を楽しもう‼︎なんて発想は1ミリもなかった。

子どもたちも私とお風呂に入ることは楽しみにしてくれていたけれど、お風呂で遊ぶということは知らずにいたからそういう楽しみは持っていなかった。

今ならもう少し違う形で子どもたちとお風呂に入るなぁと思う。

これは個人的に感動したことだけれど、1、2年生の頃一緒に入ってた男の子たちは最後5年生になって、お風呂に関してその子たちの成長を感じたことが1つあった。

4年生までは学校から帰ってくると普通にお風呂の戸を開けて私にベラベラと話しかけてきたけれど、5年生になってからは子どもたちの方が察して、子どもたちはお風呂場の戸は閉めたまま、脱衣所から私に話しかけてた。

思春期に入りかける少し前で、絶対に戸は開けなかったし、見てはいけないという状況を察する力を自然と身につけてた。

いつの間にかこんなこと覚えていくんだなと思った。

まだ幼いから普段は平気で卑猥な言葉を大きな声で連発してたけれど、そういう大切なところはきっちりと線引きしてた。

色々やらかしまくりな3人トリオだったけれど、そういう言葉にはできない部分を大切にしてくれる子どもたちだったなと思う。

そんなこんなのことをたくさん思い出せるぐらいにメイとのお風呂タイムは長かった。

メイのお風呂タイムの長さは、私の方が根負けしそうで、最後は大人のずる賢さを駆使してメイに
「お風呂上がってアンパンマンのチョコ食べない?」
と誘い出し、アンパンマンチョコLOVEなメイはすぐにそれに飛びついて、それでようやく風呂から上がってくれた。

妹がいつぶりかわからないぐらいにゆっくりお風呂に入れた!と大喜びしてたから、今日もメイとお風呂に一緒に入ろうと思ってる。

今日もピンポン玉ゲームなのかはたまた別の新しい遊びなのかわからないけれど、また全力で遊びながら楽しくお風呂にメイは入るんだろうなと思う。

そして私はまた最後は姑息な手段でメイを風呂から上げるんだと思う。

2018年2月23日金曜日

書きたい記事たち

書きたい記事たち【備忘録】

・有休の行方
→今日と明日取った休み(+週末で4連休!の過ごし方)

・38個のプレゼントのその後
(は、実際のところ毎日めまぐるしくて、気付けばほとんど用意できてないという)

・できること≠やりたいこと
(2年続けてわかったこと)
→お金をもらってまでそして自分の力を買われてすごい任務を仰せつかってるけど、やり続けてみて違うなとわかった話

・やめることに対しての心境の変化
→仕事に関しての思うことあれこれ

・溜まった写真たち
→撮りためた写真の紹介

・ゴリラの教え
→恩師ゴリラとの思い出ノートより

・オルゴナイト
→紹介とオルゴナイトストーリー

・カーナビできるペンジュラム
→ペンジュラム頼りで未知の道へと繰り出す

・思い出の共有
→2歳の姪っ子の思い出

・(未来記事)渡す日未定のプレゼント
→2月24日にあるものをある人に向けて買いに行く

・匿名ブログのその後
→というよりも、「多分匿名では書かないと思う」までの道すじ

・本名を貫く意志の裏側
→匿名記事を書かないことと連動してる

・決めたこと
→知ってることは伝えようと決めた、たとえお節介でも

・体からのメッセージ
→この間、体からのメッセージをマッサージ師さんから伝えてもらった時の話

・東大生の発想
→私が人生で知り合った東大生の発想力(奇想天外すぎる件)

・年を取るのが楽しみと言った女の子
→私の1つか2つ下のとても美人さんな女の子もとい女性の発言より

・人生で初めて言われた感動の「がんばれ」
→初めて自らがんばりたいと思った

・老いには勝てない
→って何だろう?と思った話

・2歳児の孤独
→姪っ子が人生で初めて経験してる孤独とその向き合い方

・命の授業
→12月に参加した命の授業のこととその後の今

・次の日記帳との出逢い
→前回同様、今回も難を極めた日記帳探し

その他に名古屋メモリーズ
(今頭の中にあるものだけで5個はある)

こういう記事をこれから順不同で書いていく。

2018年2月17日土曜日

映画『メガネ』とメガネ女子


そもそも「メガネ女子」という言葉が出てきたのは、ある人との会話の中でだった。

「そういえばいつか『タイプの女性ってどんな人?』みたいな話になったんですよ。そうしたら『メガネ女子』って言葉が返ってきました。あの人がメガネ女子が好みなんて言うの、なんか面白いでしょ?」

それを聞いて、私もたしかにメガネをかけているけれど、その話の中に出てきた「タイプが“メガネ女子”」というものとは大きくかけ離れているんだろうなぁと思った。

そう思いつつも、一体全体メガネ女子というのが何を指すのか定かではなかった私は、その後ネットで検索した。

検索したことをとても後悔した。

ネット上で紹介されているメガネ女子たちはみんな可愛いか美人かのどちらかだった。

っていうか私は一体何を勘違いしてるんだろう、と冷静になると、タイプの女子の話は忘れられなかったけれど忘れる努力をしようと決めた。

代わりに、ふわ~っとメガネについての思い出がよみがえってきた。

 

1つは子どもたちと交わしたメガネの会話(☆)

もう1つはある夏の日の風景。

 

私はその日用事を済ませてある大きなビルを後にした。

ビルの外は晴れていて、のんびりと時間が流れていて、空の青空が気持ち良かった。

何一つ悲観することなんてなかったし、切ない出来事もなかった。

日常的にはとても落ち着いていた。

なのに突然私は泣きたくなるぐらいにとてつもなく寂しくなった。

とにかく寂しくて寂しくてたまらなかった。

原因が何かもわからず、ひたすら寂しかったし切なかった。

そんな感覚に陥っていた時、メグミさんの顔が浮かんだ。

他にも近くに人は何人かいたけれど、会いたいと思ったのはメグミさんだった。

メグミさんならこの感覚わかってくれるだろうなぁと真っ先に思い浮かんだ。

メグミさんは私よりいくつか年上で異国の地で3人の子どもを育てていた。

旦那さんはいるけれど、家にいない日の方が多かった。

だから私も遊びに行きやすくて、2回か3回メグミさんの家に泊まらせてもらった。

いつかの泊まりの時、メグミさんと子どもたちと私とで映画『メガネ』を見た。

メグミさんはその映画が好きで、わざわざ日本からDVDを持ち帰ってきたと教えてくれた。

私がその映画を見たのはその時が初めてだったし、それ以降一度も見ていない気がする。

メグミさんはその映画の中の空気が好きで、何回見ても飽きないと言う。

私もその映画はとても好きだったし、また機会があれば見たいなと思う映画ではあったけれど、当時は全く違う感想も同時に抱いていた。

たしかに映画の中の空気感は独特で、見ていてとても癒される。

でも私が抱いた感想はそれではなく、この映画は寂しいということがどういうことかわかってる人が初めて見てわかる映画なんだと思った。

わかるというのは「理解する」という意味で。

自分の寂しさがわからない人が見てもその空気感やその良さは多分全然わかんないだろうなぁと。

しかもメグミさんは四六時中子どもがいて、旦那さんもいる。

だけどそんなことでは埋められない、人間誰しもが持っている寂しさをきちんと知ってる人、そういう感じだった。

メグミさんは、一緒にいて楽しい人だし、あっけらかんとしているし、根っからの明るさを携えている。

だけどそうではない一面、寂しさについても何か大切なものを知ってるという風な人だった。

だから、あの晴れた青空とのんびりと流れてる時間の中で、ふととても人恋しくなって寂しくなって、無性にメグミさんに会いたいと思ったのは、その時の気持ちとメグミさんの家で『メガネ』を見た時に感じた気持ちがとても似ていたからじゃないかと思う。

 

「メガネ女子」という言葉を聞いたのは2017年の秋10月。

そしてそこからあの青空の下で思ったことと映画『メガネ』が繋がるわけだけど、それは2008年か2009年の出来事。

8~9年の開きがある。

それでも時間の間隔なんか関係ないのか、すっと1本の道で繋がれているかのように色んなことを思い出した。

今同じような気持ちになれというのは無理があるけれど、私はあの時のすごく寂しくなった感覚は今でもよく覚えている。

自分ひとりぼっちみたいな、それは誰かがいてくれないからとかじゃなくて、何か命の根源のところで乾いている・欠けているみたいな、そんな感じだった。

 

【あとがき】

『メガネ女子』は実際に2017年の10月に最初書いた話。

当時自分がどんな思いでその単語を耳にして、一喜一憂どころか一喜百憂ぐらいな感じになって、なんかその憂うつな感じが痛々しくなって、それで多分脳内では他の「メガネ」ストーリーを探そうと必死になったんじゃなかったかと思う。

今思い返しても自分のちょっとしたぬか喜びが痛々しい感じはそのままだけど、でもそこから色んなことを思い出した。

それこそ死ぬ時に自分と一緒に持って行く思い出をたくさん思い出した。

もし自分が死ぬ間際に「メガネ女子」という言葉をもう一度聞くことがあったら、その時はこの一連のすべてのことを思い出したいなぁと思う。

私しか知らない思い出を自分の胸の中にいっぱい広げて、それで「あぁあの時はあの時で素敵な人に出逢わせてもらえたんだな」と思って死ねたら最高だろうなぁと思う。

メガネ女子

2017.10.28

「メガネ女子」という言葉を数日前初めて聞いた。

うっかり「私もメガネ女子」などと口走らなくて良かった、と後からネットで「メガネ女子」なるものを検索した時に思った。

世の流行にうといから、世間一般で言われる「メガネ女子」が一体どういうタイプの女の人を指すのかはわからないけれど、少なくともネットで出てきた「メガネ女子」たちは皆揃って美人だった。

「メガネ女子かぁ…」などと思いながら、ふわっとメガネの思い出が2つ浮かび上がってきた。

 

まさか「メガネ女子」が人生のヒントをくれるとは思わずに出てきた思い出たちだった。

 

今でこそ私はメガネを日常的にかけて、人に会ったりする時や飲み会や結婚式なんかの席に出席する時だけコンタクトをするようになっているけれど、元々は反対で普段コンタクトをしていてオフや必要な時にだけメガネをかけていた。

その「メガネ」がこんな会話を毎週生み出していた。

 

「ぶっちゃん、今日夜勤でしょ?メガネかけてるもんね~!」

 

家庭の事情(虐待とか)で家では暮らせらない子どもたちが生活する施設で働いていた頃のこと。

夜勤は15時から翌日のお昼の12時までの勤務だった。

途中仮眠程度に寝るのは3時間あればいい方だった。

当然そんな長い時間コンタクトを着用するには目がしょぼしょぼするし、朝の戦場と化したような時間にコンタクトを着ける余裕があるならその分ごはん作りか他の諸々の支度をする時間の方が必要だったから、夜勤の時は毎回メガネだった。

だから子どもたちの中で「私がメガネをかけている=私の夜勤の日」という図式が出来上がっていた。

いつだったか何人かの子どもたちに言われたことがあったけれど、子どもたちにとってその日誰が夜勤に入るのかというのはものすごい一大事で、学校から帰ってくるとまずは大人たちの勤務が出ているホワイトボードを見るとのこと。

だから子どもたちと「ぶっちゃん、今日メガネかけてる!夜勤だね」なんていう会話は、こうして文字にすると大したことない会話でしかないけれど、それは「今日は一緒だね」というようなニュアンスも含まれていたと思う。

5年半働いたその場所で単純に計算すれば270回前後の夜勤をしたと思うけれど、その会話は最初の頃から最後辞める時までずっとずっと続いた。

それも1人2人じゃない、何人もの子どもとその会話を交わした。

 

そんなことを「メガネ女子」の言葉を皮切りに思い出していたら、自分がどうしてその道に進もうかと思ったのかを、久しぶりに鮮明に思い出した。

 

大学4年になった年、福祉の現場実習に8ヶ月450時間費やすことが卒業単位の一部だった。

私の大学は、自分自ら実習先を探し出すことになっていた。

頭ではわかっていたけれど、私は得意の先延ばしをして、そして本当にもう決めないと卒業が間に合わないという頃、ようやく重たい腰を上げて探し始めたのだった。

当初私はスクールカウンセリングを実習先として希望していた。

そこで受け入れ実績のある数校に連絡を入れたけれど、どこもすでに実習生を受け入れていてこれから先数ヶ月は空きがないと断られた。

担当教授のところに行って相談しに行ったら「選択肢は2つ、このどちらかで探すように」と言われた。

1つは、分野を変更して障害なりホームレスなり高齢者なり別の施設や組織に行く。

もう1つは、あくまで「児童福祉」にこだわるのであれば虐待された子どもを保護しているグループホームへ連絡するように言われた。

私の中で「子ども」と関わること以外に選択肢はなかった。

虐待は全く興味関心もなければ、専門知識も全く持ち合わせていなかった。

だけど、子どもと関わるのであればもうそこしかないと言われ、それで渋々グループホームへ連絡したのだった。

見学・面接・人物調査と経て、ようやく受け入れが決まり実習が始まった。

私が子どもにこだわったのは、別に子どもが好きだからという理由じゃない。

自分が子どもの頃、色んなことを吐き出す場所がなくて、それで今度大人になった自分はそういう場を作りたいと思った。

好きだからということはなくて、家と学校しか基本的に選択肢のないような子どもの頃に、絶対的に安全な場・自分の気持ちや思いを言える場、そういうものが自分が欲しかったから、だから私は子どもにこだわった。

という感じで始まった実習ではあったけれど、当初からそんなのどこ吹く風状態だった。

子どもたちはむしろ私の神経を思いっきり逆撫でしてくれ、8ヶ月中3分の2以上の時間は実習も嫌だったし、子どもと関わるのも心底嫌だったし、1日も早くさっさと終わらせてしまいたかった。

最後の1~2ヶ月位だったと思う。心境に変化が生まれた。

私の実習先で生活していた子どもたちは、虐待やそれに付随して受けたダメージの度合いからして、最重度の次に重たい重度に近い子どもたちだった。

障害ということではなく、心の傷・ダメージがとてつもなくでかかった。

ぱっと見は普通の子どもたちと何ら変わらないけれど、口を開けば罵詈雑言当たり前、大人をおちょくり、試し行動と呼ばれる行動を本人の気が済むまでやり続けてくる。

試し行動は、相手が信用できるかどうかを見るための子どもなりのテストみたいなものだと私は教わった。

だから最初の数ヶ月はひどい惨状だった。

そしてそこを超えたぐらいから少しずつ子どもたちがなつき始めた。

それでようやく子どもたちが可愛いと思えるようになったし、そして子どもたちと関係を1から作る楽しさ・面白さみたいなものもわかるようになってきた。

色んなことがあったけれど、2つとても印象に残っていることがある。

1つは英語での本の読み聞かせ。

ブレークは11歳の男の子だった。

高機能自閉症という分類になると思うけれど、ぱっと見は普通の男の子。

だけど自閉症特有のこだわりの強さで人間関係のトラブルは日常茶飯事だったし、そしてブレークのルールと世間のルールは互いに平行線状態で、ブレークが納得できないことはどこまでも納得できないままだった。

そんなブレークは頭脳がずば抜けていて、特に言葉の読解力は半端ない力を持っていた。

当時小学校5年生にして、大学生が読むレベルの文章をすらすらと読み、理解できる力を持っていた。

そんなブレークとは、最初の数ヶ月ずっとずっと仲たがいをしていた。

大人げない私は、自分より10こも下のブレークと本気で言い争いをしていた。

私も頑固で、絶対におかしいと思うことはどこまでも譲らなかった。

そんなブレークもやっぱり小さな男の子で、夜寝る時は必ず誰かしら大人から本を読んでもらっていた。

最後の1ヶ月ほどだろうか。

ブレークはその本読みの係に私を指名するようになった。

私は正直すごく嫌だった。

係に指名されるのは名誉なことだったけれど、とにかく私の下手くそな英語の発音を披露してまでする本読みというのが本当に嫌だった。

最初の日だったような気がする。

私はブレークに正直に伝えた。

「本読みの係に指名してくれるのはうれしいんだけど、私よりもっと上手に読める人たちが他にいるから、その人たちに読んでもらう方が聞きやすいだろうと思う。他の人と代わろうか?ブレークも私の英語の本読みが上手じゃないのは知ってるでしょ?」

そうしたらブレークは答えた。

「フミコ、あのね、フミコの英語が上手かどうかなんて重要じゃないんだよ。ぼくはフミコに読んで欲しいんだよ!」

ブレークの言葉を聞いて私ははっとさせられた。

別に上手か下手かなんてどちらでもいい。

それよりもブレークにとっては私との時間が大切だった。

2人で過ごす時間を大切にしようと思ってくれていた。

私はブレークにごめんねとありがとうを言って、そのまま本読みを始めた。

よくつっかえるし、何なら読み方がわからないとブレークに教えてもらうし、とても寝る前の入眠効果なんか全く期待できないどころかますます頭が冴えそうな本読みだったけれど、それでもブレークはその時間にとても満足してくれていた。

そしてそれ以降私もごちゃごちゃ言わず、まっすぐブレークの部屋に行って本読みをした。

こだわりの強いブレークだったけれど、よくよく思い出すと私の英語の発音については珍しく何一つ言ってこなかった。

間違えていても、普段なら小姑のように指摘するブレークが、その本読みの時間だけは本当にその時間を愛してると言わんばかりに静かだったし穏やかだった。

言葉を超えたコミュニケーションをブレークは私に教えてくれた。

そして人間同士の関わり合いの時に、言葉の上手下手はあまり関係ないということも教えてもらった。

それよりも言葉にはできない部分、目には見えない部分での繋がりの方が実はうんと大切だということも知った。

そうやって、人間関係を1から子どもたちと作る面白さをそこでは教えてもらった。

そして日々変化する関係に私はものすごく魅せられていた。

もう1つ印象に残っていること。

それは言葉の壁だった。

アメリカ生活4年目、英語はかなり達者になっていた。

授業も普通に英語で受けているし、色んな人たちと会話を交わすし、論文もたくさん書いたおかげで語彙もどんどん増えた。

日本帰国後すぐに受けたTOEICで925点を取り、それが相当なレベルであるというのは後から知った。

だけどそこまでの英語力があっても、やっぱり言葉の壁には勝てないということがわかった。

言葉の問題が顕著になる場面は2つあった。

1つは、子どもたちが自分の胸の内を明かす時、それは過去の超トラウマ級の話をする時も度々あったけれど、そういう時に私は100%理解できないのがものすごくもどかしかった。

すごく大切な部分のところが理解できなくて、それこそ私がこのブログに書いている言葉を丸っと理解するぐらいの語彙力がないとどうしても最後のところで寄り添いきれない感じが残った。

さすがに英語でここまでの差異を感じ取るだけの読解力や共感力はない。

その言葉を聞いても、それがどの程度重たいものなのか又は軽いものなのか、相手の表情や声質なんかで読み取れても、言葉として理解できる部分には限界があった。

もう1つは、言語は文化から生まれるとはよく言ったもので、文化に根付いた言葉を知らないことで日常的に困ることが多々あった。

例えば「だるまさんがころんだ」的な遊びが英語でもあるけれど、そういう誰もが知ってる遊びなんかを毎度毎度見聞きしないといけないのが若干私にはストレスだった。

これが日本語ならそこがクリアになって楽なのになぁといつも思っていた。

言葉の壁を感じたおかげで、私は卒業したら日本で子どもと関わる仕事をするってスパッと決められた。

大学4年間向こうにいると、卒業後1年間は特殊なビザの申請が可能で、そのビザを使って働くことができる。

周りの日本人の友達でもそれを使ってる子たちは何人かいたし、私も申請を考えなかったわけじゃない。

だけど私はアメリカに残るんじゃなくて日本に帰ることを決めた。

ブレークとしたようなやり取りを日本でしたいと思った。

せめて言葉の壁を感じないところで、もっと目の前の子どもに全力で向き合えるような状態で子どもと関わりたいと思った。

それが冒頭の「ぶっちゃん、今日夜勤でしょ?メガネかけてるもんね~!」の場面に後々繋がっていった。

ネットで見た美人なメガネ女子からは程遠い私の夜勤メガネではあったけれど、今となってはもうあの時にしか存在しなかったとても貴重なメガネトークだった。

もう生涯を通じて、私がメガネをかけているとそれだけで喜んでくれる子どもたちがいるなんていう体験、二度としないと思う。

「メガネ女子」なる言葉は決してそんな意味で聞いたわけじゃなかったけれど、私がその言葉を聞いて真っ先に思い出したのは、そんな子どもたちとの会話だった。

そしてその会話は私の心の中を一気に満たしてくれる、幸福活性剤的な存在に今はなっている。

助けられた奇跡のいのち


最近とみに出てくるシーンがある。

私は子どもの頃誘拐されかかったことがある。

時間にしたら多分10~15分程度、でもしっかり記憶が残っている。

そしてそれを思い出す度に、自分の命が救われた奇跡をすごいと感じる。

 

すぐ下の妹はいたけれど一番下の妹はいなかった気がするから、多分4歳頃だと思う。

その日父の友達がうちの家に飲みに来ていた。

母は用事があって近所のケーキ屋さんの家に夜出向いていた。

お酒を飲んでいる父に「おかあさんをむかえにいってくる」と言って家を出た。

近所のケーキ屋さんは大人の足で歩いたら1分で行ける距離。

子どもの足でも5分とかからないと思う。

家を出てすぐ隣りの機織りのおうちを過ぎた角を曲がる手前のところで男の人につかまった。

その辺りの記憶はうっすらとしかないけれど、相手はおじさんではなくお兄さんだった。

子どもがお兄さんと思うぐらいだから、若い人だったと思う。

その人は私を抱えあげて「犬を見に行こう」と言ってきた。

私は当時から動物がとても苦手で「みにいかない、イヤだ!」と全力で抵抗した。

子どもだから変と思っても何が変なのかわからなかったし、当時は隣り近所みんながみんな知ってるみたいな時代且つ地域でもあったから、その人に声をかけられても危ないと思わなかったのかもしれない。

私はそのままその男の人をふりきってケーキ屋さんの家に行くつもりでいた。

そうしたらその人は私の脇の下から私を抱き上げ、十文字固めをするような感じで抑え込んだ。

私はわんわんと泣いていやだいやだと言ったけれど、すぐに口も手で塞がれてしまった。

塞がれても私は声を出そうと必死だったし、足もじたばたさせた。

そんな状態の私をその男の人はずっと抱えたままそれこそ数百メートル歩いた。

火事場の馬鹿力じゃないけれど、人間が自分の欲求を満たすためなら、20kg弱の重さのじたばたしている子どもを抱えて歩くことも可能になってしまう。

 

あれはどういう巡り合わせだろうと思う。

すべてが1秒の狂いもなくその通りに起こった。

そのことがなければ私は自分が今頃本当にどうなっていたんだろうと思う。

命さえもなかったかもしれない。

 

そんな私を数百メートル抱えたまま、その人は近所の本屋さんの前を通過しようとした。

思うに、他の店は全部閉まっていたから、時間は21時前後だったと思う。

本屋のいなとよのおばちゃんは、店じまいをするために店頭の商品をシャッターが閉まるように動かし始めていた。

いなとよのおばちゃんは男の人に口を塞がれて抱えられている私の姿を一目見るなり血相を変えて「あんた何やってんの?」とものすごい怒声を上げた。

全体的にふくよかなおばちゃんではあったけれど、普段穏やかで優しいおばちゃんからは想像もできないような声を張り上げていた。

「その子を離しなさい!」と言って、そして男の人もびっくりしたのか、あっさりと私を離して走ってその場から立ち去った。

その後いなとよのおばちゃんが私を家に連れて行ってくれて、それですべては事無きを得た。

おばちゃんのところには親に連れられてよく行っていたし、子ども用の本もそこで何回か買ってもらったことがある。

私が武士俣さん家(ち)のふみこちゃんだということはよく知っているおばちゃんだった。

 

お店にも何回か行っているから知っていたけれど、おばちゃんは普段は入り口入ってすぐのところで店番をしていた。

それは通りに対しては背中を向ける形で、そしてそれは通りからは1.5メートルほど離れているところにあった。

当然おばちゃんは店内にいるわけだから、おばちゃんの背中のすぐ後ろは、内と外とを隔てる壁で覆われている。

子どもの頃の記憶だから若干怪しいけれど、私はおばちゃんが外に出ていたところは見たことがない。

いつも中にいて、中でゆったりと店番をしていたその姿しか記憶にない。

だからあの日あの瞬間、丁度店じまいの時間でおばちゃんが外に出ていて、そして通りがすぐ目に入る場所にいてくれたことは、ものすごく奇跡的なことだった。

普段通りの場所にいたのなら、おばちゃんはその男の人にも私にも気付かなかっただろう。

だけどあの時は色んなことが偶然に偶然を呼んで、1秒の狂いもなくその通りのことが起こった。

しかもあの本屋さんの前を通ってもらわないと困る。

道は他にもたくさん選択肢があったけれど、なぜかあの道だった。

そしてそこにはものすごいタイミングでいなとよのおばちゃんが待ち構えていた。

そしていなとよのおばちゃんは私が武士俣さんちのふみこちゃんだということをよく知っていた。

そんなこんなの有り得ないことだらけで私の命は助けられた。

 

今日2018年2月17日、今頃は始発の新幹線に乗って妹が2歳の姪っ子のメイを連れて金沢から帰ってくる。

パン職人の義理の弟は急遽また三重の方の店舗の手伝いに駆り出されて、おとといから三重に行ったらしい。

それが1週間なのか10日なのかわからないけれど、メイと2人でいるよりも実家に戻って大人の手があるところにいた方がいいと思ったのだろう。

両親にしたらメイしか孫がいないから、溺愛する孫が帰ってくるとなり、2人は大喜びでメイを迎える準備をすぐに整えた。

私もこれから来週末くらいまではメイとの濃密な毎日を送ることになる。

また「足がしゃがしゃ」「かいーかいー」などと訴えてオイルマッサージをさせてくれるだろうか。

「だっこっこ」と言って抱っこをせがんでくるだろうか。

「ドラえもん見たい」とぼそっと小さな声で言ってまたエンドレスドラえもんタイムの刑になるだろうか。

作家の吉本ばななさんがいつかのエッセイの中で「死んだ時に持って行けるものは思い出だけ」と言っていた。

本当にその通りだと思ったし、その最後の時までどれぐらい素敵な思い出をたくさん作れるだろう…と考えると、実はそれが人としてやるべき唯一の仕事なのかもしれないとさえ思ってしまう。

社会的なことではなく、本当に自分の大切な人たちといかに巡り合っていかにその人たちと大切な時を刻めるか、それが本来はすべてでもいいのかもしれない。

これから数日に渡りメイと思い出を作る。

4月からは保育園に行くらしいから、もうこんな風に長期で実家に帰ってくることもそうそうないだろう。

それもあって両親は帰ってくることを心待ちにしていた。

そういう思い出作りもあの日あの時いなとよのおばちゃんが助けてくれなかったらありえないことだった。

他にも9・11のテロの時の直前に私はあの世界貿易ビルの前に行ったり、2004年の中越地震で崩れた崖の中から2歳の男の子が助けられたけれど、まさに次の日私はその同じような時間帯にそこを通る予定でいた。

そしてなんと前日も似たような時間に全く別の用事でその道を通っていた。

どちらも一度きりの用事で、何であの時にそのことが集中したんだろうと運命のいたずらとしか思えないことが重なっていた。

なぜなら当時の普段の生活ではそこは通らないどころか行くことさえもない町だったから。

だけどあの時は、前日は職場で仲良くなった人たちと秘密裏で行った旅行の帰り、翌日は今度は福祉の現場実習をその日から始める予定でいてそれで通る道だった。

九死に一生を得るじゃないけれど、私はいつもすんでのところで命が助かっている。

助けられていると言う方が近いかもしれない。

見えない存在から見守られているという感じも、今ほどにそういうことに全く興味がなかった頃もそう思っていた。

自分の命が普通にあることが普段は当たり前になっているけれど、本当はそうじゃないことを私はそういう体験から本当は知ってるくせしてまたすぐに忘れる(苦笑)

だからなのか何なのかは知らないけれど、私は20代の頃からやたらと「命あっての…」と思うことが多かった。

命があって色々体験できること。

自分の命があって他の誰かの命があって、その命と命が交じり合って何かの瞬間が生まれること。

それは思い出かもしれないし、笑いかもしれないし、涙かもしれない。

だけどそれが本当の本当に特別であることは、普段忘れていてもふとした瞬間に思い出すことがある。

オリンピックでメダルを取るとかそういうこともすごいことだと思う。

だけどそんな大きなことじゃなくても日常の中に奇跡はいっぱいこと詰まっているし、そしてそれに触れるたびに何か大切なものが自分の心にそっと染み渡っていく感じがする。

 

とか良いこと書いているけれど、多分これからやってくる怪獣メイとの日々に、生気を吸い取られてぐったりとしている自分の姿が目に浮かんで仕方ない。

ペンジュラムとの軌跡&奇跡

ペンジュラムが何を教えてくれているのか、今日はそれをいくつか紹介したい。
(related story: ペンジュラム~石と対話する~)

 

*ミホちゃんとの出逢い*

2016年5月。

名古屋を出る前に、名古屋最後の仕事で一緒だったYさんと会う約束をした。

Yさんと日にちを合わせる時、「ミホちゃんも誘っていい?」と聞かれた。

ミホちゃんとは一度だけ顔を合わせたことがある。

Yさん主催の合コンでミホちゃんとはその時に会った。

関係ないけれど、私以外の女性も男性もみんななぜフリーなのか疑問に思うほどの美人・可愛い子揃い、男性は公務員か大手企業でのお仕事且つ容姿もイケメンよりという合コンだった。

大真面目に私一人だけ場違いみたいな感じだった。

自分でも浮いているなと思った。

そういう場に慣れていない私への男性陣のフォローや配慮は素晴らしかった(笑)。

そんな場で一度しか会っていないミホちゃん。

今度同じ職場で働き始めるということで、Yさんがミホちゃんも誘いたいんだけどどうかな?と言ってきた。

Yさんとは会いたかったけれど、ミホちゃんとは初対面に近く、なぜ名古屋を去る前に相手に気を遣ってまで時間を過ごさなきゃいけないんだろうと思った。

本当にそう思った。

ミホちゃんの感じは好きだし、楽しく過ごせそうというのもわかったけれど、私の中でどうしても会いたいかというとそれは限りなくNOに近かった。

それに対してペンジュラムにYES・NOを聞いた。

ミホちゃんとも一緒に会いますか?と。

ペンジュラムは最初から何も迷うことなくYESを示した。

うそでしょ!?と思った。

でも何度聞いてもペンジュラムはYESだった。

何だかよくわからないけれど、ミホちゃんもぜひ一緒に!と大人的な言葉を使ってYさんに返事をした。

Yさんとミホちゃんと3人で会った日。

私はその日のことを一生忘れない。

ミホちゃん自体は明るくて話題も富んでいて話していてとても楽しい。

会も終盤の頃だったと思う。

ミホちゃんに聞かれた。

「ねぇフミちゃん、ブログ書いてない?それも心理系のブログ」

「えっ!?何で知ってるの??うん、書いてるよ!」

「やっぱり!

私ね、自分が辛い時苦しい時に検索してフミちゃんのブログに行き着いて、それ以来時々読んでるんだよ!

もしかして本人じゃないのかな?と思ったら、やっぱりフミちゃんだったんだね!」

この時の驚きようと言ったらなかった。

今も残したままだけど、そのブログはいいねが10個もつけばいい方だったし、一体誰が読んでるんだろう?という感じだったから(これもそうだけど)、まさかリアルに自分のブログの読者に会うなんて思ってもみなかった。

しかもミホちゃんは読者登録してるわけでもなく、自分が読みたい時に読むようなスタイルのようだった。

何をどう検索すると私のブログに行き着くのか知らないけれど(無名すぎて普通の検索ではひっかからないはず)、しかもミホちゃんが見つけてくれた時というのは私の名前以外の言葉で検索したから、そもそも私のブログに行き着いたということが奇跡に近い。

私の名前で検索するなら普通にヒットするけれど、それ以外で検索するとなるとヒットする確率はミクロの世界になってしまう。

たしかこれがペンジュラムが教えてくれたことで一番初めにビックリしたことだったと思う。

毎回思うけれど、ペンジュラムは一体どこからそんな情報を持ってくるのか、とにかく私が知らないことを知っていて、そして私に毎回奇跡のような物語を見せてくれる。

それを機に、ペンジュラムがYESを出した時は、たとえ自分の方が納得してなくてもとりあえずそのYESで動く習慣がついた。

なぜなら、ペンジュラムのYESは私が想像もできないことを運んでくるというのがわかったから。



 

*しおり探し*

名古屋で1、2を争うくらいにお世話になったまんちゃんへ、名古屋を立ち去る前にしおりをプレゼントしようと名古屋市内でずいぶんと探した。

ぴんとくるものがなく、ペンジュラムに「名古屋にある」と聞いたらNOと出た。

私は過去に応募したエッセイが賞に入って、近く京都で授賞式に参加することになっていた。

もしかして京都にあるのかな?と思ってペンジュラムに「京都にある」と聞くとYESが出て、それなら京都で探そうと思い名古屋でのしおり探しをストップした。

日帰り旅行の京都は、朝早く着いたものの授賞式までの数時間、ほとんどノンストップで動きまくった。

授賞式用の衣装と靴を入れたリュックを背に、地下鉄やバスを使いながら色んな寺を巡った。

ある神社で月1で開催される手作り市をしているのを見かけた。

100個以上のお店が出ていて、ようやく1つしおりを売っている店にあたった。

でもどうしてもデザインがしっくりこない。

だけどさんざん探した挙げ句、もしこれ以上他のしおりが出てこなかったらそれの方が困ると思い、保険をかけるつもりでそのしおりを購入した。

時間を見ると授賞式会場に向かわないと間に合わないような時間になっていた。

バス乗り場に駆け付けた。

なんとなく嫌な予感はしていたけれど、バス乗り場に着いて予感的中。

バスは大幅に遅れているわ、バス待ちの人で長蛇の列だわで、これはバスで移動するのは難しいと悟った。

ペンジュラムもバスはNOで、歩きはYESと出た。

地下鉄の駅まで3~4kmとわかり、私は歩くことにした。

こんなことになると思わず日傘を持ってこなかったことをひどく後悔しながらも、授賞式に間に合わない方が困るから、かの有名な鴨川沿いをひたすら歩いた。

途中、器屋兼カフェのお店が通り沿いにあった。

小さなお店で、器の量もさほど多くない。

5分程度なら大丈夫だろうと踏んで、私は実際に外に出されてたものだけではなく中の器も見に店内に入った。

私は器が好きで、器を買うためだけに1日かけて陶芸の町や東京でいうところの合羽橋的な町に行ったりする。

それぐらいに好き。

だからこういう店先で器を見ると、ついつい足を止めて見てしまう。

器を1つ、また1つと見て回った。

そこは展示するようにして器を売ってるお店でとても見やすい状態になっていた。

そうしたら器と器の間に、なんとしおりが売っていた。

言うけれども、そこは完全に器屋で雑貨屋とかじゃない。

なのにしおりが売られていた。

しかもそのしおりは、木で作られていて、作家さんの作品のようですべてが1点ものだった。

3~4個あったと思うけれど、木だから1つ1つ模様が違った。

本当に世界に1つしかないしおりだった。

しかもプレゼントするまんちゃんは、自然のものや世界に1つしかないものが大好きで、そういう価値観のわかる人だった。

もうこれ以上ないぐらいにぴったりなしおりを見つけた。

予想的中でまんちゃんは木のしおりに大喜びしてくれたし、ペンジュラムがそこに連れて行ってくれたこともそういう話が大好きなまんちゃんはものすごく食らいついて聞いてくれたと記憶している。
(related story:ペンジュラムとの出逢い)

 

*手紙*

大切な人に宛てた手紙を書きあげたまでは良かったけれど、その渡すタイミングと方法がわからなかった。

2人きりになることはまずないし、もうすでに誘いを断られた身としては個人的に呼び出して渡すとかは絶対にできなかった。

しかも普段からその人に何かを渡すなんていう状況は一切ない。

その人の近くに行くことさえかなりおかしなシチュエーションすぎて、普通にはその渡し方の方法が思い付かなかった。

渡すタイミングも含めて考えたらもっと思い付かず、途方に暮れた。

自分の脳をフル回転させてもその状況もそのタイミングもうまいこと思い描けない。

渡す直前、お墓に手紙を持参して「どうか無事に渡せますように」というご先祖様頼み的なことはした。

ペンジュラムが何を伝えてくれようと、やっぱり普通に考えて「渡す」ことがどう頭をひねっても状況として思い付かなかった。

だからペンジュラムだけじゃなく、もうご先祖様からも助けてもらおうと、こういう時だけの神頼み的なことを私はした。

やれることはやったけれど、だからと言ってうまく渡せる保証なんかどこにもない。

何かにすがりたくて、墓参りの前も後もペンジュラムに聞きまくった。

移動中の車の中でも私は聞きまくっていた。

何度聞いてもペンジュラムの答えはずっと一貫していた。

手紙を書いた時からペンジュラムは「月曜日の朝」と示していた。

月曜日の朝というだけでもう難易度が高かった。

1週間のスケジュールを思い返しても、月曜日の朝とはどう考えても普通に渡せるような状況ではなかった。

でもペンジュラムは月曜の朝を譲らなかった。

そこで私はペンジュラムに「○○さんがいたらどうする?」と聞くと、○○さんだけならOKと出た。

月曜に限らずいつでも○○さんは必ずいる。

他にも思い付く人たちの名前を挙げたけれど、ペンジュラムはなぜか「いない」と言う。

そんなわけないと思った。

これまでいなかったなんていう試しがない。

ペンジュラムはずっと同じことを私に伝え続けてくれていたけれど、私は半信半疑どころか「そんなことありえない」という風にしか思えなかった。

そして実際にその場に到着すると、今日は何の日ですか?と言わんばかりにフルキャスティングで人がいた。

もう絶望的だった。

気を取り直して、まぁ別に今日でなくても他の日でもいいかと思った。

私は直前まで手紙を読み返していたから、封筒に封をしていなかった。

他にも何人か人がいたから、とりあえず封をしようかとセロハンテープを適当な長さに切って封をしていた。

そんな折、ふと見渡すと本当に手紙の相手と私以外誰もいなくなっていた。

ウソみたいだった。

そんなことこれまで一度も起こったことがないのに、なぜか本当に2人だけしかその場にいなかった。

私は慌てて手紙を手にして、その相手に渡しに行った。

うんともすんとも言われなかったけれど、とにかく渡すだけ渡した。

ペンジュラムが「いない」と言ったのは本当だった。

本当に誰ひとりその場にいなかったから。

時間にして1分もあったかないかだった。

しかも渡し終わるかどうかというタイミングで、1人の男性が近くを通った。

ものすごい冷やっとしたけれど、ぼーっとしてそうなその人で良かったと思った。

ぼーっとしてるというか、その人なら何かを見ても鋭く勘を働かせてその場の状況を詮索するようなタイプの人じゃない。

そしてその後はずっと数名の人が近くにいて、片時も2人になるなんてことはなかった。

私はその日1日をつぶさに観察していたけれど、最初から最後までそのたった1分にも満たないその時間しかその人と2人きりになることはなかった。

どうしてペンジュラムは1日だったか2日だったかも前にそんな状況を知っていたんだろうと思う。

しかもピンポイントで「月曜の朝」「着いたらすぐ」という風に私には伝えてくれていた。

私は最後まで信じられなかったけれど、それでもペンジュラムが言った通りの現実が現れた。

 

ドラえもんの道具じゃないけれど、そういう絶対に起こることのないことが、もしくは起こるわけないと信じていることが、ペンジュラムを通じてことごとく覆されてきた。

さすがに今の私はペンジュラムが何か突拍子もないことを示しても驚かなくなった。

奇想天外すぎるけれど、そういう奇想天外なことが起こることもあるということを知った。

まんちゃんにはしおりのストーリーを伝えられたし本人も大喜びで話に食らいついてくれたけれど、手紙の相手にはとうとう最後までそんなこと伝えられなかった。

相手の視点から見たら何もかもが変すぎただろうし、ましてや渡すタイミングをそんな風に推し量っていたなんて知らないだろうなぁと思う。

しれっと渡したけれど、本当はしれっと渡せるなんてその時を迎えるまで1ミリも思えなかった。

そんな奇跡みたいなことがたくさん起こっていたんだよ!!って相手も知ったとするなら相手はどんな反応をしたんだろう。

さらに気持ち悪がられたかもしれないけれど、そういうことをたくさん共有したい人、お互いが奇跡の上に成り立っていることを言い合えたらどんなに良かったかななんて思う。