2021年6月29日火曜日

星の王子さまの日




2017年6月28日


「では明日29日の日程を確認。


東経◯度、北緯◯度、日本某所


天気は快晴、間違っても雨など降らさぬように。


予定通り屋外の倉庫の掃除を決行。


周りの者に協力させ、武士俣史子は最初の当番に割り当てること。


間違えても準備万端などにはさせず、いつも通りのうっかりをやらかすように仕向けること。


そして彼女の職場の男性上司にだけ彼女がうっかり抜けていることを目撃させ、それにフォローを働かせるように仕向けること。


皆の者、異議はないかね?


では本日の審議会を終了とする」




なんてことが本当に天上界では審議されてたんじゃないのかと思う。


その日も私には昨日と変わらない今日で、今日と変わらない明日の1日前の予定だった。


自分の人生にこれから特別なことが起こるなんて全く想像もしていなかったし、まさかその時を境に自分でもはっきりとわかるくらいに人生が大変貌を遂げるなんてさらに想像できなかった。







これを29日に合わせてアップすることは、6月に入る前あたりから、ひっそりと計画していた。


今も書きながら何を書くつもりだろう?と自分でもわかっていない。


この2ヶ月、もっと言うと4年くらいかけて、ほぼほぼ余すことなくイケメン上司とのやりとりや回想や心の整理について書き続けてきたから、今さら目新しい何かは何も書けないと思っている。


実際に新しいネタは何もない。


私がこれを書くのは、完全に自分が満足するためだと思っているし、これを目にするだろうイケメン上司には何のメリットもないだろうことも想像はついてる。


だけど、書かずにはいられないし、何か書きたい気持ちは1ヶ月近くずっとあったわけで、書いているうちに何かしら思い当たるだろうと予想している。







イケメン上司と出逢った意味を思う時、真っ先に「癒し」という言葉が出てきた。


そんなこと考えたことはこれまでなかったけれども、今ふと、繋がりもしない、だけど強力な印象だけ残して立ち去ったイケメン上司という存在が私の人生に現れてくれた意味を思った。


人生には必要なことしか起こらない。


あの日のあの瞬間は、決して私のうっかりが目的でもイケメン上司のイケメン行為が目的でもなかったと思う。


そうした緻密なパズルを通して1つの大きな人生ストーリーに仕立てる時に必要なことを、あの瞬間はもたらしたんじゃないのかなと思う。


そしてその1つの大きな人生ストーリーの中には「癒し」が大きなテーマとして裏側にあったんじゃないのかなと今は思う。


人は誰しもが色んなことに悩むし、答えのない何かに対して延々とグルグル思考する癖も持っている。


悩んだところで答えなんか何もないことは日常茶飯事だし、仮に明確に答えが出たからと言ってじゃあもう全てスムーズに動けるよね、じゃあ全て解決だね、めでたしめでたしとはならない。


イケメン上司と出逢う前と後とでは私の生きる世界は色彩が変わった。


それは文字通り、本当に目に映る世界の色がクリアに鮮明にオクターブ級にビビッドになったことももちろんあるけれども、私の内面でも大きな変化を迎えた。


もうイケメン上司を知らなかった頃にはもちろん戻れないけれども、もし知らずにいたとするなら、もしくは知っていてもあの日のようなことが何も起こらなければ、今の私の人生はまるで違うものになっていたと思う。


イケメン上司が現れたことで、私は彼の存在そのものによって自分がどんどん癒されていった。


今考えても何でそこまで悩んだんだろうと思うくらい、私は自分の人生に対して悩み、何で今日も生きなきゃいけないのか?と毎日のように思っていたし、もう特に何がしたいわけでもないから生きることから解放されたい、とそんなことを思って生きる30代だった。


30歳になる頃にはもうキャリアというものにもしくは社会生活というものに興味がない風になってからは、本当にどこに行こうとしてるのかもどうしたいのかも全くわからなかった。


自分の人生なのに、全てを投げ出したくなるくらいの気持ちだった。


そして大袈裟に聞こえるかもしれないけれども、もう傷という傷がいくつも重なりすぎて、自分自身が限界だった。


これは今でも本気で思っているけれども、私は30代の中の3年とか4年とか使って引きこもったり社会生活から離れてみて心の底から良かったと思っている。


もし30代も走り抜けて立ち止まらずにいたとするなら、40代の今、もっともっとしんどくて、そして30代で手にした色んな癒しのプロセスをこれからするなんてなったら、自分がもたなかっただろうと思うし、想像しただけでゾッとする。


それはそうと、とにかく私は自分を癒すことにいつの時も必死だったし、いつからかは自分さえ癒すことができれば残りの人生もなんとなく大丈夫だろうと思った。


そうは思っていたものの、実際に何十年と人生の分だけ積み重ねた傷を癒すのは容易ではなかったし、色んなことを長い時間をかけて取り組んだけれども、根底から本当に癒されたとはなかなかならなかった。


それがイケメン上司と出逢ったらガラリと変わった。


まずは「生きたい!」と思った。


イケメン上司に会うためにはまずは元気でいないといけないから、単純に会いたいから会うために生きたいという生きることへの執着が生まれた。


執着というと悪いイメージが浮かぶかもしれないけれども、この限りにおいては全く悪い意味じゃなくてむしろ生きることそのものへの価値を体感しないと持てないものだから、ものすごくプラスの意味で使っている。


イケメン上司は何か特別なことをしてくれたのとは違うけれども(してくれたことももちろんあったけれども)、本当の本当に存在してくれてるだけで私への癒しはどんどん起こった。


これって本当にすごいことだと今でも思う。


何かをしてくれたとか、何か偉業を成したとか、何か価値あるものを提供したとか、そういう社会で賞賛されるものではなくて、ただ在るだけでその場にいてくれるだけで誰か他の人の人生を最大限に引き上げてくれるってどれだけすごいんだろう。


やろうと思って、もしくは目指そうと思ってやれることとは絶対に違う。


イケメン上司も自分がそんなことをしているなんて全く思ってはなかったと思うけれども、実際にそれだけの影響を私に与え続けていた。


生きてることが楽しくて、明日を迎えることが楽しみで、それらの原点はすべてイケメン上司の存在そのものにあった。


そういうものを日々体感していた私は、どんどん癒された。


生きることに対してのこの上ないモチベーションをもらって、こんなにも生きるって楽しいんだ♡\(*ˊˋ*)/♡という感じだった。


だから、イケメン上司の存在というのは、私にとっての癒しで生きる力を引き出すパワーの源だった。







2021年6月29日


今日の新潟は雨だった。


夕方くらいからは曇りぐらいに回復したけれども、4年前のように快晴とはならなかった。


今日の仕事中、何回か考えた。


もし4年前の同じ日、今日みたいな天気なら外での作業はなかったと思う。


当時の職場は、技術者たちは基本的にみんな日中現場に出ていたから、みんなの予定を合わせてみんなが事務所滞在にするにはいきなり今日言って明日そうしよう!とはできなかったはず。


予めその日に的を絞って日程調整をしての6月29日になったんだと思う。


そうなると天気は予想できない。


梅雨の季節だから雨の可能性ももちろんある。


そんな中で一か八かで立てられた計画だったんじゃないかと思うけれども、それが本当に雲ひとつないくらいに晴れて、むしろ私はひたすら日焼けの心配しかしてなかったけれども(そちら側は抜かりがなかった)、とにかく晴れて無事に決行となることだってある意味奇跡の1つに数えられる。


もし外掃除が行われなければ、イケメン上司と私とは永遠にすれ違って、いてもいなくても互いに気にならない、時間が経てば簡単に忘れ去ってしまう、そんな状態に陥ったのではないかと思う。


だから冒頭に書いた神々の審議会の模様を妄想しながら書いたものも、あながち嘘ではないと思う。


見えないところで信じられないくらいの数の調整が為されて当日を迎えられたように感じる。


そんなことを感じながら、今日は何回か仕事中にも自由に振り返っていた。


本当はもっと濃い中身を書く計画だったけれども、今日中にアップするとなると書き終わらないことが簡単に予想できたから、癒しの他に思い浮かべたことはまた近いうちに書き上げてアップしたいと思っている。


一応忘れないようにメモ書きは残した。


濃い中身は書けなかったけれども、代わりというか面白いものを家の日めくりカレンダーで発見した。


今日というのは「星の王子さまの日」らしい。


朝は気付かなかったけれども、家に帰ってからカレンダーを改めて見て気付いた。


調べたら、『星の王子さま』を書いたアントワーヌ・ド・サン・テグジュペリの誕生日が由来とのこと。


『星の王子さま』を何回か挑戦したものの一度も最後まで読破できたことのない私は具体的なストーリーをよく知らないけれども、とりあえずその本は人生で大事なことを物語を通して伝えているらしい。


何てピッタリの表現だろう!!!と思った。


今日という日は、私にとって人生で本当に大切なものを届けてもらえた日だった。


生きることの喜び、そのスイッチをイケメン上司が届けてくれた。


イケメン上司の意志とは全く違う解釈かもしれないけれど、私側からするとそうなる。


とても素敵なプレゼント(イケメン行為)をイケメン上司からもらって、その瞬間から今に至るまで私は本当にたくさんの素晴らしい体験と色んな心を授けてもらった。


もちろん良いことばかりじゃなくてしんどいことも思い通りではないことも五万とあったわけだけど、それでも私はこうして今「素晴らしい」と感じている。


本当に素晴らしい人生の贈り物だった。


そのように当時も今も変わらずに思えることがさらに素晴らしい。


イケメン上司の方にはこんなに強く記憶に残っていなくても、私がこれだけ騒がなければ忘れ去られていたとしても、イケメン上司の記憶に関係なく私はこんな風に素敵に記憶しているからそれで十分。


星の王子さまの名に相応しい贈り物を私は4年前の今日もらった。


そしてどうやらその贈り物は一生モノらしい。


例えば来年、再来年、10年後、20年後と時間を経ることに日にちは忘れるかもしれない。


けれど、どんなことが起こってどんな素敵な気持ちにさせてもらえたかは一生忘れない自信がある。


それくらいに素晴らしいものを私は受け取った。


そしてその時から着火した生きる力は今もずっと継続している。


おかげさまで本当に末長く続いてくれてる。


改めてイケメン上司の存在の凄さを思う。

2021年6月27日日曜日

ドキドキの検証

昨今のイケメン上司にまつわるブログはあと2つないし3つアップしたら終わると言っていたけれども(これを書いている日の朝、そのように書いた記憶がしっかりある)、まさかのプチ出来事があったから、これも書いてしまおうと思う。

今回のテーマは「ドキドキの検証」。


今の職場に行ってから、初めてドキドキした。


ドキドキしたけれども、こんな風に検証しようとしてる時点ですでにドキドキという表現が合っているのかどうかわからないけれども、こんな検証は今日みたいなことが起こらない限りできないから、早速検証してみたいと思う。


事の発端はこうだった。


ジャニーズ事務所に就職した方が絶対に良かったんじゃない?という20代後半に差しかかったかな?という男性がいる。


私は全く好みではないし、なんなら色々仕事上でやりとりしてムカついたり神経に障るようなこともあったからなんとも思わないけれども、本当に冗談抜きでジャニーズに入れる甘いマスク系で背が高くてスタイル良しな感じ。


ジャニ男と呼ぼう。


ちなみにジャニ男は私が今の仕事に就いて2ヶ月目か3ヶ月目あたりに超大がかりな仕事の担当者に充てがわれて、さらにその大物仕事の英訳が私に回ってきたから、相当な回数やりとりをした。


しばらく組むこともなかったけれども、前日の残業終わりの時に突然やってきて、「明日っていますか?」と聞かれて、その質問が何を意味しているのか即わかって恐ろしいことこの上なかったけれども、とりあえず英訳の仕事が何かしらあるんだろうというのはわかった。


実際にやってきて、思ったよりも小さな英訳で済んでそれはすぐに終わった。


そうしたら想像以上に早く終わったらしく、「またもう1つ聞きに行きます」と言われて、それで実際に終業30分前くらいにジャニ男が私の席にやってきた。


ジャニ男が訳したものを見て欲しいと言われて直したけれども、1つだけしっくりいかなくて、実際に直した英訳とは別にもう1つ英訳を作り直して、両方をGoogle翻訳にかけて印刷した紙を持って行こうとした。


ジャニ男の席は私の席の180度向こう側で体育館の端から端くらいの距離がある。


そうしたらちょうどジャニ男が2人の席の中間点にあるコピー機で何かコピーをしていて、そのジャニ男に話しかけて紙を渡して軽く説明して終わる予定だった。


実際にそうしたけれども、その説明の時にどういうわけかジャニ男は私と互いに面と向かっている状態のまま、さらに私側に近づいてきて、壁ドンとは言わないけれども、壁ドン級な近さで近づいてきてそれでドキッとした。


ジャニ男と私の間にもう1人挟まってるくらいな近さだった。


私の後ろにそれこそ棚があって、私も最初後ずさったけれども、そうするとジャニ男がさらに近付いてくるという、私からすると、っていうか私じゃなくても一般的な感覚からしても近すぎる距離でのやりとりになった。


不覚にもドキッとしたけれども、私はその時に別のことも思っていた。


もしこれがイケメン上司だったのなら、もう心臓が口から本気で飛び出したなとか、背の高さは同じくらいな感じがするから、もしイケメン上司とこの近さでやりとりできたのならこういう目線の高さの感じだったなとか、何もかも基準はイケメン上司だった。


ジャニ男とは目も普通に合わせられたし、当たり前だけど普通に喋ったし、何もかもが普段通りで、だから実際にドキッとしたのはジャニ男ではなくてその距離感というかそのシチュエーションだったわけだけど、そのことから一気に私の頭の中は様々な分析や検証が始まった。


ちなみにこれまで散々やりとりしていたものの、よくよく考えてみたらいつもはどちらかが席に座っている状態で、もう1人が机の向こうから話しかける状況が定番で、今回みたいに互いに通路に立って話すのは初めてのことだった。


だから今回こんなことが起こらなければドキドキの検証なんてする予定もなかった。


書きながら「ドキドキ」という言葉のチョイスがそもそもミスってる気がしてきた







ジャニ男との一件があってまず思ったことは、当時イケメン上司がイケメン行為な気遣いを私にしてくれた時、私がそれを「イケメンがしてくれたから感情が動いている」と思ったのも無理はないなだった。


ジャニ男の行為や言動によってイラッやモヤッが過去に何回かあったのは決して忘れてないから、そしてそれらは私が人としてどうなのそれ?と思うことだから、ジャニ男は上手に付き合う必要のある人という認識にある。


そんな人相手にドキッとしたわけで、それは冷静になればなるほど、決してジャニ男にドキッとしたわけではなくてその状況にドキドキしたんだなとわかった。


ジャニ男との過去のやりとりはその時々はモヤモヤしたけれども、今となれば判断材料になってくれる貴重なものになってる()


そういう相手でもそうなわけで、イケメン上司はそういう嫌な印象や気をつけないといけない相手とかでは一切なかったから、だからこそイケメン行為な気遣いをしてもらった時に、私は「相手がイケメンだからこんな反応になる」と思った。


今は分析できても4年前の当時は思考停止して迫り来る感覚にひたすら反応するばかりの自分でいっぱいいっぱいだった。


なんだけれど、そうだと認めたくなくて、私は「これはイケメンが相手だから」と自分にその後必死に言い聞かせていて、そんなこんなのリアルな感覚を久しぶりに思い出した。







検証を始めた私を見て、そもそもが違うことに気付いた。


イケメン上司の時はその後からイケメン上司の姿の代わりに足元をチラチラと見始めた。


そういう反応は計算なんか全くなくて、突如そうなるから、自分でも止められなかったし、色んな意味で為すがままだった。


一方でジャニ男の時はのんきに検証を始めて、しかも席なんか見えもしない位置だし、1日1回くらいの割合でジャニ男は私の席の後ろにある大型印刷機の部門のところに図面と思われるものを持ってくるけれども、私の席の脇の通路を通っても何とも思わない。


仮に席が超近くだったとしてもチラ見などする気にならないし、なんなら1日2回3回と通うMr.ダンディの席がジャニ男の席の2列ほど手前にあって、そこに向かう時はジャニ男の席を視界に入れようと思えば入るけれども、翌日以降もそんなことはしないだろうことが簡単に想像がつく。


イケメン上司の時は、滅多に訪れない用事が浮上してくれただけで狂喜乱舞してたし、それでほんの少し近くに行けるだけで行く前からドキドキして心を落ち着けるように最大限努めていた。


ジャニ男とコピー機のすぐ隣りでやりとりした後はあっさりとしたもので、ジャニ男の姿を目で追いかけるなんて全くしなかったし、もはやジャニ男ではなく私の中ではイケメン上司の方がやたらとクローズアップされていた。







もう1つ、イケメン上司とジャニ男とでは圧倒的な違いがあることに気付いた。


イケメン上司の足元をチラ見してイケメン上司の姿を確認したその後から、私の毎日の楽しみはイケメン上司に会うことだった。


とにかく「会いたい」という明確な気持ちがまるで形を持っているかのように私の中にあった。


会うと言ったって、単に同じ職場に行くだけで、挨拶さえも交わさないくらいだったわけだけど、それでもいいからイケメン上司に会いたくてそれだけの理由で毎日ルンルンで仕事に行っていた。


当時は毎週金曜日になると翌週の予定表が配られていた。


途中からは私もそれが自分の仕事で必要だから仕事に必要な項目もきちんと見るようにはなったけれども、そのイケメン行為の後からは私は何よりも先にイケメン上司が仕事に来る来ないの確認(出張とかは目ざとく検知)、鍵当番の日は確実、よし!とか、とにかくイケメン上司の予定を真っ先に確認していた。


仕事はしていたけれども、もはや何をしに仕事に行っているのか私の場合は本末転倒だった。


その年のお盆休みのことも記憶にある。


会社としてはっきりとしたお盆休みが決まっていないから自由に休んでいいと私の教育係の事務さんから言われた。


お盆ど真ん中は休むにしても、16日とか17日とかそういう微妙なところはどうしようかなと思った。


事務さんはじめ他の人たちがいつ来るのかを聞きながら、イケメン上司側の会社は超大型連休と聞いてガッガリした。


地元が新潟ではないから帰省することを見込んで、10日近く会えないのかとテンションはだだ下がりだった。


自分は周りに合わせて16とか17とかその辺りから出たと思うけれど、そうしたら盆明け2日目にはイケメン上司も休みを切り上げたのかなんなのか普通に出勤していた。


仕事はいつの時も全くテンションが上がらなかったけれども、イケメン上司がその場にいる、というだけで私の心の中は常にテンションMAXだった。


しかもその頃はまだ何にもイケメン上司相手にしてなかったから、イケメン上司も穏やかだったし私にだけ向かう剣もなかった。


イケメン上司だってまさか自分が出勤するだけで私が大喜びしているなんて思ってもなかっただろうし、向こうは向こうで日常に戻るだけで何の喜びもなかっただろうけれども、私にはこの上ない最上のことだった。


いつの時も、また明日も会いたいと常々思っていたし、夜寝る前も今日1日の素晴らしさをかみしめ、明日の喜びに胸を馳せるという、自分の人生でも他に類を見ない毎日を当時は送っていた。


ジャニ男相手にはそんなこと全く思わないんだなと当たり前のことに気付いて、それが当時はその時だけくらいに思っていたのにまさかその感触をその後何年も強く記憶に残るなんて考えたことさえなかった。


改めて、こういう強い記憶の残り方が魂の繋がりの強い人の特徴なんだろうなと思う。


新しい世界にそれぞれが身を置いて、私も私で当時とは全く違う日常を送っているけれども、そしてもうリアルイケメン上司は生きていても同じ場所にはいない人で会えないけれども、それでもこんな風にずっとずっと強い存在感を持ち続けるなんて普通じゃなさすぎる。


今も書いてて思ったけれども、ジャニ男とのやりとりは単なるトリガーに過ぎなくて、結局気付けばまたイケメン上司ワールド全開になっている。







ドキドキの検証をのんきにしていた後、夜ごはんを食べ始めてすぐくらいにテレビの向こうでイケメン上司の下の名前が連呼された。


2回、3回じゃない、そのテーマが流れている間数え切れないくらいの回数、名前を聞いた。


これは過去も今もだけど、イケメン上司がいなくなる少し前からイケメン上司の苗字でも名前でもとにかく色んな形で聞いたり見たりすることが日常の中で溢れるようになった。


特にこういうイレギュラーなことがある時ほど絶妙なタイミングで現れる。


そんなのはイケメン上司の意思なんて全く働いてないけれども、今回のパターンは別に私にとっての危機的な状況でも絶対に外せない重要な任務中でもなくて単にドキドキ検証という半分エンタメ的な時に現れたのがなんだかホッコリとした。


「俺いるよ」とアピールしてるのとは絶対に違うとわかっていても、あまりの名前連呼にすごい存在アピールみたいで、これはこれで楽しいなと思った。


翌朝、朝の通勤の車の中で「ドキドキ検証とか言って、気付けばイケメン上司のことしか検証していないんだ」と気付いた。


もはやそれに気付くまでジャニ男のことはすっかり忘れていて、これから向かう先にイケメン上司はいなくてもジャニ男はいるのにジャニ男に会う楽しみなど皆無だと気付いて、改めてイケメン上司の不動級の圧倒的存在感を認識して仕事に向かった。







ジャニ男の存在感ではなくイケメン上司の存在感を浮き上がらせた朝の車の中とは一転、仕事に行ったら1つ事件が勃発して、そこでさらにはっきりとわかった。


長期的に関わっている仕事がある。


これまたいくつもいくつも問題勃発な上に、とうとう問題が重なりすぎてそれでアップアップしたことによって、私は私が信頼している人から当たられてしまった。


ゴールデンウィーク前から、何十年と積み重ねてきた負の遺産的な会社の悪しき体質にメスが入って、それの修正作業に今日々追われている。


会社としての指針が出たのは良いことだと思うけれども、それを是正する末端の人間からしてみればたまったもんじゃなくて、しかも末端側は業務だけひたすら増えて上の人たちは思いついたようにあれこれ指示や指摘をするだけで、私も含めて末端側の作業者はてんてこまいになっている。


そんな中で、その一緒にやっている担当者から当たられて、私の気持ちもガクンと落ちた。


その話は長くなるから割愛するけれども、ちなみに当たった人は翌日私のところに来てわざわざそのことを自ら話に出して謝ってくれて、それこそ人として超イケメン行為(ちなみにこの担当者もイケメン)をしてくれて、それだけで感動したけれども、とにかくそんなこんながあって、気付けばジャニ男のことなど完全に忘れてた!とこのブログの続きを書こうとした時に思い出したくらいだった。


ドキドキの話に戻ると、この時点でもジャニ男がどういう存在でもないことがさらに明らかになった。


というよりも、イケメン上司への反応の方が異常というか稀有だったんだとわかる。


当時はそれが日常だったから、自分の反応に常に半信半疑どころか「自分がおかしいかも」とは常々思っていたけれども、かと言ってそんな風になるトリガーのイケメン上司の存在が特殊で稀(まれ)だとまでは思わなかった。


今ならわかる。


当時の反応(今も引き続いてはいるけれども)は、あれはイケメン行為だとか相手がイケメンだからとかそういうことではなくて、イケメン上司の存在そのものが特別でそうなった。


存在そのものに対しての反応であって、行為とか外見的うんぬんではないことが今ならとてもよくわかる。


ジャニ男はそういう意味でわかりやすいくらい真逆のことを指し示してくれたから、今回ジャニ男がいてもいなくても全く気にならない自分の心の中がよくわかった。


ジャニ男はいないけれども、見えもしない会えもしないイケメン上司はずっとずっといるんだなというのも今回改めてよくわかった。







【人間は、男女ともに本当に人を好きになったら、冷静な駆け引きなどできなくなる。】


たしかネットニュースで見た言葉をそのままコピペしておいたものだったと思う。(引用元失念)


そもそも私は人間関係全般において駆け引きとかいう概念がないから、すべからくそういうことを器用にできるタイプとは違うけれども、その中でもイケメン上司相手の時は何もかも冷静ではいられなかった。


一方でイケメン上司も、私に対して何か想っていたとかいうことはなくても、普段のクールで落ち着いた感じの対応じゃなくて、かなり素に近い自分が出ていたんじゃないのかなと思う。


イケメン上司の態度を見て自分が好かれてるなどとは全く思えなかったけれども、少なくとも私がその場での再起不能になるくらいの破壊力抜群な態度を見て、職業人ではなく私人としての顔を少しだけ見れたように思う。


私というのは、イケメン上司からしてザワザワさせたり受け付けられない何かを発していたとしても、癒しだとか好きだとかそういう相手とは確実に違うんだろうなぁと思った。


そういう人ではないけれども、自分の中の感情を刺激する人、良い方ではなく好ましくない方でみたいだったのかな……、と想像する。


ドキドキ検証の翌日、チームで仕事をしている相手が仕事上でむしゃくしゃしてて当たられた時、ふと占星術の先生から言われたことを思い出した。


「人間関係の中でゴミ箱になりやすい」ということ。(私がということではなく、私の生まれた時の星の配置というのがそういう性質を帯びている。)


人には恵まれているけれども、時々私は何が悪いわけではなくても人から当たられることがある。


そういうのを指すのかななんてふと思って、そうしたらイケメン上司からしても、そもそもの火種を蒔いたのは私だし私が動くことでただならぬものを感じて穏やかになんていられなかったんだとしても、もしかしたら当時もそういう負のものをキャッチする係というか矛先になってたのかもしれないなとも思った。


自分が先に差し出しているからそのような態度になってもそれは仕方ないというか、イケメン上司の非という風には思わなかった。


むしろごめんなさい、と思っていた。


イケメン上司との時とは状況も感じも全然違ってはいたけれども、今の仕事で当たられた時のガーンという感じはイケメン上司の時の心が折れた時とちょっと似ていた。


決して歓迎できるものじゃないけれども、イケメン上司が冷静でなんていられないくらいに個人的な感覚が動いたのかなと思うと、それはちょっぴりだけ光栄なことなのかもしれない。


少なくともイケメン上司はいつも涼しい顔をしていて私情を皆無と言ってもいいくらいに外に出さない人だったから、私とてそのイケメン上司の中では超がついてもいいくらいの人間的な反応を見たのは全部で2回だったと思う。


1回は仕事の伝言をしているのにガン無視。


もう1回は最後の日の挨拶。


心を許してもらえたとは全く思ってないけれども、そういう自分を無意識のうちに出してもいい相手として私はいたんだろうなと思うとほんの少しだけ自分が救われる。


個人的にはもう少し役得な感じのポジションが良かったけれども、あまり自分を出さないイケメン上司の性質を思えば、それを見せてもらえたことはある種の勲章に近いものがあるなと思う。


今も思い出すと苦い感覚が自分の中にジワジワと広がるけれども、そんな風でも小さな人と人としてのやりとりができたのはある意味しあわせなことなのかもしれないなとも思わなくもない。


ドキドキの検証からかなり離れた話になってしまったけれども、どれもこれも今は全部大事な瞬間として私の記憶の中に残っている。


「生きてること」


「同じ時間を同じ場所で共有すること」


そのどちらもが成り立っていた当時は、他の何にも代え難い。


感覚の再現はできても、イケメン上司が私の生きる世界の中に実態を伴っていてくれるという再現はできないから、だからこそどんなに強烈でしかなかった当時のことも今はとても大切なものとして私の中にある。


そしてそういうことを思い出すたびに色んな感情を味わいつつ、その時が自分の人生にあって良かったといつも思う。


そしてイケメン上司が私の人生に現れてくれて良かった、とこれもまたいつも思う。

2021年6月23日水曜日

雨の日の朝、布団より

2ヶ月くらいイケメン上司にまつわる回想を書いている。

私は書き飽きたなんてことはないけれども、書き過ぎて引かれてさらにもう見向きもされなくなるのは怖いと思っている。


だからもう2つないし3つ書いたらそろそろ日常のブログに戻ろうと思う。(2つは書き途中。もう1つは書きたくなるだろうことがある。)


ずっと書いていて、改めて思った。


色んなことがどうにもならなくても、私はせめてイケメン上司に私側の心情や見えている風景を言葉で伝えたいんだと。


知ってて欲しい。


どうやっても時間をもらえなかった私にとって、たとえこんなイレギュラーなブログという形でも、伝えられることは伝えて、真意や真実を知ってて欲しいと思っている。


そんなのは完全に私の自己満足でしかないけれども、そのくらいのわがままを自分が通してもいいかなと思う。


迷惑もかけないし、好きな時に好きな分だけ見たらいいものだから、逆に見てもらえなくても文句は絶対に言わないから、だから小さな願い事を自分のためにひとつくらい叶えてみようと思う。


いつかは書かなくなる時が絶対にくるから、その時まで思いっきり自分を甘やかして書きたいだけ書けばいい、そう思っている。


死んだら何も伝えられなくなる。


その前に飽きて何も書かなくなることだってあるかもしれない。


いずれにしても、書きたい気持ちがないといつかは書かなくなるし、書きたい気持ちがあっても体が亡くなったら書けなくなる。


自分の中にあるものに声を吹き込んで、こうして見える形にして、届くかどうかはわからなくてもとりあえずお店のように言葉を陳列する。


言葉を手に取って見てもらえたら御の字で、それは何が嬉しいのかって、小さなものでも私の中の一部を共有できるところのような気がする。


「共有」なんていう言葉が適当かどうかはかなり微妙だけど、私1人の中にとどめたら私1人のものでしかなかったものが、こうして外に出すことでとりあえず相手も知り得る可能性が出てくる。


知ったところで何がどう変わるわけでもなくても、知られてないより知られている方が良い。


小さなことでも、私という1人の人間がどんな風で何を思ったり考えたりするのか、その中の少しだけでも知り得てもらえたらとても嬉しい。


毎日のように顔を合わせていた当時は、何ひとつ伝えることもできなければ、小さなやりとりさえも叶わなかった。


そして何がなんだかわからないうちにイケメン上司の最終日がやってきて、次の日からは本当にイケメン上司はいなくなってしまった。


頭で理解することと心の理解は全く別物だった。


もう会えないことに対して本当に実感が湧かない気持ちもある一方で、いないことの現実に日々打ちひしがれていた。


信じたくない気持ちと現実とのギャップが凄まじかった。


そうした中でブログが1つの接着剤みたいな役割をしてくれたのは、望外の出来事だった。


「接着剤」も言葉としてなんだかなぁとツッコミどころ満載だけど、とりあえず出てきたからそのまま使う。


昨日と今日で何の変化もない私の中はそのままで、物理的な世界にはイケメン上司がいなくなった。


本人の痕跡はちょこちょこあったけれども、どうやって見ても本人はいなくて、時々仕事の電話で後輩くんとは喋っていたけれど、私がその中に参加できるわけもなく、本当に遠くに行っちゃったんだなと認めたくないけれどもそれが現実だった。


交わらない、関われない、繋がれない、ない、ない、ないのオンパレードの中、私は全てを託してブログを再開した。


「ない」を見えないミクロサイズの点で「1」にできたらいい、ブログが届いたらいい、本気の夢見る夢子状態で始めた。


届くこともだけど、それが4年近く継続されてることの方はもっともっと想像できなかった。


どんどん欲が出てきたというか、自分の欲に対して素直になれるようになってきた。


自分の欲を持つことさえダメみたいに私なんかは思っていたから、今頃になってやっと自分の欲を言葉にできるようになったなと感じる。


知っていて欲しい、それを本当に素直に認めて言葉にできるようになるまでこんなにも時間がかかった。


過去にも一度か二度そんなことを書いたと思うけれど、その時もその時ですごく勇気を持って書いた記憶がある。


「何言ってるんだ?」とか冷たい感じで思われないかななんて悪い方にばかり想像が働いて、それでもようやく口にした、そんな風だった。


今はなんとなく大丈夫な気がするから、そのまま言葉にしている。


ようやく自分の望みをそのまま口に出せるようになった。







最近は、これまで以上にひそかに「いつかは時間を使ってもらえなくなる」と思っている。


それがたとえ単にブログに立ち寄るだけでも、それを今は本人の意思でそれをしてもらえている。


それは単に私が日々お気に入りのブロガーの人のブログを立ち寄るみたいに、意識してというより無意識にそうしてるかもしれない。


それでもいい、少なくともその人に与えられている時間の幾ばくかを私に関わるものに使ってもらえることに意義がある。


だけど、それさえも、大切な人や優先順位の高い何かが現れたら、その時にはこのブログは今と同じように発信していたとしても、もう無いも同然の立ち位置に転落すると思う。


発想の仕方がちょっとズレてるかなと思うけれど、ここ最近の自分の激務具合を見て、しかもそれがしばらくは継続することが確定していてという中で、イケメン上司の仕事の責任はもっと重いのは想像がつくから、仮にも今の私の日々の重圧と責任の重さを見た時に、こんな状態で新規に誰かと人間関係を作るなんて相手に相当入れ込むとかいうことでもない限り絶対にないなと思った。


新しい人間関係に相当なメリットやどうしても相手と仲良くなりたい!!!という強い想いなり意志なりがなければ無理だなと自分を見て思う。


そんな風に考えていくと、首皮1枚で繋がっているような今の状況なんて、あっという間に簡単に切られてしまうだろうなぁと想像できる。


いつかは終わりがくる。


それを思うと、今はとても恵まれていて、そして今じゃなきゃ伝えられないこともある。


書き続けることはできても、イケメン上司の意識と時間をほんの少しでも私の方に向け続けさせることなんか絶対にできない。


弱小過ぎる自分の立ち位置は普通に考えて今後昇格するなんてそうそうないだろうから、望みは捨てなくてもその現実を受け入れる努力は今後も必要になる。


私もこんな風に書き続けることよりももっと大切な誰かに出会ってそちらに全ての時間とエネルギーを注ぐようになりたいと切に願うところだけれど、そんな起きるか起きないかもわからないことよりも、繋がらない現実を真摯に受け止められる自分の中の受け皿を作る方が先決じゃないかと思う。


とにかく奇跡的になぜか今はこのブログがイケメン上司の日常にそっと置かれていてとってもありがたい状況にあるわけで、そのいつまで続くかもわからない未来に対して不安になるよりも今ある機会に注目して伝えられることは伝え切りたい、そう願っている。