2022年4月29日金曜日

10連休前の買い出し

2022/04/28
道の駅近くの国道に繋がる道から見た夕焼け空




今日から10連休になった私。

5月2日と6日を有休にして、10連休にした。


とりあえず引きこもれるように、連休前の木曜日の仕事の後にあちこち食材の買い出しに出かけた(単なるスーパー数軒のはしご)。


ヤマザキのパン祭りの点数を確認するために途中で一度家に帰ると、町内会業務の市報関係のお便りが家に届いていたから、引きこもるために私は大急ぎで全部で14世帯分の紙の仕分けをして、新たな回覧板の仕分けも2部分作って(世帯数が多いから、回覧板を毎回2部分作って回す)、そそくさと夜暗い中各世代に配った。


家に帰ったらすぐにお風呂に入れるように追いだきのスイッチも入れて、また買い出しの続きに出た。(もちろんスーパー)。


商店街の道沿いに、たくさんののぼりが出ていた。


祭りでもあるのかと思ったら、市の文化ホールや図書館関係が全部新設されることになって、数年越しにようやく完成して5月からオープンすることがわかった。


頭の中では色んなことが思い浮かんだ。


連休初日の今日は精力的に色々やりたいことがあるから(もちろん家の中で)、「1時間」と決めて、今昨日の夜のプチドライブという名のスーパーはしご中に回想したことを書けるだけ書きたい。







買い出しの途中、隣りの市の道の駅にも行った。


今、玉ねぎがとにかく高くてずっと買えないでいる。


その道の駅は北海道のどこかの農協と提携しているのか、いつも玉ねぎの特売をしている。


それを期待して見に行ったけれど、玉ねぎはどこも一緒で超高額商品として並んでいた。


その道の駅は、イケメン上司がいた職場のすぐ近くで、あと1分2分と車を走らせたのならその場所に着けるところにある。


天気も良くて近くまで行こうかと考えたけれど、やめた。


ペンジュラムもNOだった。


そもそも、夕方の時間でうっかり関係者がいたらというところまで考えた時、はたと気付いた。


もしかしたらもう事務所がなくなっているかもしれない。


仲良くしていたSさんからうんと前に聞いたのが、3月と言っていた気がするけれど、全国的な組織編成の変更に伴って、イケメン上司が所属する企業は新潟県の担当から外れるとかで、それで事務所が閉鎖されると聞いた。


だからもう事務所そのものがない可能性の方が高い。


3月の自分の誕生日に有休を取って1人ランチに出かけた時、その近くを通らないといけないところに行った。


大通りから事務所の方に目をやると、見慣れた事務さんの車があったから、まだやってるんだなと思った。


今はわからない。


もう本当に閉鎖になってるかもしれない。


建物の所有はしてないから建物は残り続けるはずだけど、もう事務所はなくなってるのかもしれない。


その場所は本当にわざわざ行かないとついでに立ち寄るような場所になく、そんな場所に私がその職場に行く何ヶ月か前に迷子になって行き着いて、Uターンするために車体の一部をちょっとだけ駐車場に入らせてもらって、なんてことは普通にありえないわけで、本当によくぞそんな風に迷子になれたもんだなと思った。


そんなことを思いつつ、家の方向に向かう当時の通勤路を走りながら、「この夢は叶わなかったけれども、時間をかけただけあってそのことを静かに受け止められてる」と思った。


私はひそかに1つ「叶ったらいいな」と思ったことがあった。


もしイケメン上司と会えるような仲になれて、そしてもしイケメン上司がもう一度新潟の地に足を運んでくれるようなことがあったとするなら、イケメン上司と一緒にもう一度事務所に行ってみたかった。


大前提が色々おかしいのは百も承知だし、これこそ本当にとってもおかしな、夢どころか妄想、妄想というよりもあの世の世界を想像するくらい、つかめない雲を掴むみたいな話だけれど、私はひそかに本当にそれを叶えたかった。


それはもう叶うことはないんだなとドミニカの陽気な音楽がかかった車内で静かに思った。


1年前の今くらいだったと思うけれど、協力隊の時の知人の女の子が若くして亡くなって、そういう生き死にが関係することを思う時、生きてるうちにしか叶えられないことってたくさんあって、でもこんな風に叶えられないことももちろんあって、受け止めながらも色んな気持ちが湧いた。


生きてるうちにイケメン上司にもう一度会えないのかなとこれも静かに思った。







最後の1軒のスーパーで買い出しが終わると(全部で8軒はしご)、けっこうなお金を使ったなと思いつつも、それだけたくさんお金を使えるくらいに今働いてお金を稼げていることに感動した。


お金が底をついても働こうとしなかった自分を何度も見ているから、普通に仕事に行って(やりたいことではなくても)、生活できるだけじゃなく、今回みたいにある程度好きなように食材を買えるというのは私には一種の贅沢みたいなもので、それができてることに単純に感動した。


今回買った中ですごく満足したのが、30枚入り餃子の皮を半額の50円で5袋買えたことだった。


単純に計算したら150個餃子を作れる。


250円で150個、単価を考えたらただみたいなものだなと思った。


これも超くだらない話だけれど、私はこの間とうとう味の素の冷凍餃子デビューを果たした。


料理ブロガーの人たちがこぞってイチオシしている味の素の冷凍餃子。


これは少しだけ期待した。


料理上手な人たち、中には私がレシピを試した人たちもいてそれでおいしいレシピに当たったこともある、そういう人たちも絶賛しているから大丈夫だろうと。


私は別にグルメでもないし味にうるさいとかもないけれど、そしてジャンクフードも好きだし、スーパーのお惣菜も何の抵抗もなく好きこのんで買って食べるけれど(ちなみにスーパーの惣菜はおいしい店とそうでない店とがある)、冷凍餃子やスーパーの餃子コーナーに売っている冷蔵の餃子だけは、どうしても苦手な味がする。


保存料的なものなのかは知らないし、餃子の時にしか感じないからそれが何の味なのかもわからないけれど、とにかく機械で作った系の餃子特有の味がある。


で、味の素の冷凍餃子はすごいおいしいと超評判だから、この間試してみた。


たしかに冷凍であそこまでのクオリティーはすごかったし、味も普通においしいものだとは思うけれど、やっぱりその私が感知する苦手な味がした。


自分以外でそんなこと言う人に当たったことがないからわからないけれど、とにかくその味がすると「おいしくない」といつも思ってしまう。


だから餃子だけは毎回適当に味付けするから味も落ち着かなければ焼き方もフライパンとの共同作業具合でまちまちな完成具合にはなるけれど、それでも自分で作った方がおいしいと思う。


ちなみにお店で食べるのは別で、それはみんなどこもおいしいと思う。


多分機械仕様の餃子が苦手なんだと思う。


だから今回、ゴールデンウィーク中の数日間は両親が金沢から帰ってくるから、その時にも餃子を作って焼いてもいいなと思った。


ちなみに10連休初日の今日、夜は占星術の講座があってその前に飲むことはできないから(飲んだら眠くなりそう)、昼飲みを企画していて、その時も餃子を作って焼こうかと思っている。


夜は生きくらげともやしとひき肉を炒めての味噌ラーメンの予定だから、その時にも餃子を焼けばいいかな〜なんて思っている。食べ物の計画だけはとてもスムーズ。







餃子の話が盛り上がりすぎて1時間を超えてしまったけれど、買い出しの最後に思ったことを書いてそれでアップしたい。


買い出しが終わって家に帰る時、私はいつもの道の方じゃなくて、小さい頃に住んでいた方の町の道の方を通った。


わざとそうした。


イケメン上司がいた事務所とか、ニート引きこもりだった時の自分とか、ドミニカの音楽とか、そうだった、最後のスーパーでは私が20代の頃に流行っていた浜崎あゆみのBGMが流れていて、20代の頃の自分を思い出したりしていた。


20代の自分からは考えられない今の自分であると共に、色々やりきった20代を思ったら、もっと過去に戻ってその自分を回想したいと思った。


そして、今ニュースで連日報道されてる行方不明になった女の子や海の事故で亡くなった小さな女の子のこともあって、私は当時の記憶を辿りたい、そう思った。


その通りに差しかかった時、自分でもビックリしたくらいに当時の記憶がとても鮮明に出てきた。


その道は、普通の通りではあるけれど、そこを5歳くらいの私が若そうな男の人に口を塞がれながら連れ去られた道で、私はジタバタしていただろうし、そこそこの体の重さもあったと思うけれど(年齢からすると17〜20キロくらいの間)、その人は火事場の馬鹿力じゃないけれど、その私を抱えて歩くだけのすごい力を出していた。


私は近所の家に行っていた母親を迎えに行くと言って、家で飲んでいた父とその友達にそう告げて本当に30秒もあれば着くような夜道の途中で連れ去られた。


その道を車でゆっくりと進んだ。


そして今は別の家が建っているところで、そこで当時あった町の書店のおばちゃんがちょうど店じまいのために外に出てきたところとかち合って、そこで私がそんなことになっているとすぐに気付いて、後にも先にも聞いたことのない大きな声で男を怒鳴りつけて、そして男はパッと手を離して私を置いて走って逃げて行った。


そうやって自分は危機一髪で命を救ってもらった。


今現在も、大きな事故や病気もなく生き永らえている自分というものが、とても凄いことだと感じた。


生きていることが当たり前のように感じている日常ではあるけれど、普通に生きていられたというのは本当にすごいことだと感じた。


1秒でも何かが違っていたのなら生きていられなかった、その上に今の自分がいるんだと思ったら、スーパーのはしごももう無くなってるかもしれない事務所も、何もかも全部が何ひとつ当たり前ではない、ヤマザキのパン祭りも餃子の皮もビールもどれも日常のなんてことないことたちでもそれは「命」があって初めて体験できるものなんだと感じた。


色々と家や空き地の感じは変わっていたけれども、夜の暗さやそこそこ街灯があっても人影がないゆえのしんとした暗さとかは当時と何ら変わりなく、あの時の体験がここまで鮮明に記憶に残ったのは、自分の命に対して今生きてるよと伝えるためでもあったんじゃないかとさえ今書きながら思った。







10連休中は、6日に陶器市に出かける以外は基本家にずっとこもるつもりでいる。


もしかしたら真ん中の妹も帰ってくるかもだけど(昨日連絡が来た)、それ以外は休息も含めて家でやりたいこと諸々ある。


頭の中の予定では。


・タロットカード遊び

・タロットカード用のマットのための裁縫

・友達のタロットカード読み

・別の友達の手作り誕生日プレゼントの用意

・大学時代の恩師への手紙書き

・衣替え(これはしたくないけれども、やらないと生活に差し支える)

・部屋の片付け(断捨離含む)

・テレビ見てダラダラ

・1人飲み

・ブログ書き

・日記書き

・占星術講座(今日、初日の夜)


これも気付いたら2時間近く書いたけれど、とりあえず書きたいことを書けたから満足。


今日初日は、この後タロットカード系のやりたいことリストのどれかをやる予定。


洗濯やらと同時進行で。


朝は最近ハマってる、ダブルソフトをトーストして、マーガリン、はちみつ、ゆずジャムを塗って食べる予定。


ダブルソフトはもちろんヤマザキのパン祭りの副産物。


どうしたら点数を稼げるかを自分で調査した結果、ダブルソフトが一番お得だとわかった。


セールの時にかち合えば、100円近くする0.5点分の菓子パン系に対して、130円くらいで2.5点分のダブルソフトの方がうんとお得になる。


28点集めるとお皿1つと交換できる。


どうでもいいことだけれど、ヤマザキのパン祭りの皿は耐久性抜群で、我が家には何十年クラスの選手もまだ現役で活躍している。

2022年4月24日日曜日

占星術〜魂のシンボル

メルカリで買った占星術の本


メルカリの出品者から調べるといいと言われて
教えてもらった言葉を入力したら
なぜかアメリカのプロレスラーがヒットした!




2022/04/23(土)


タロットに熱を上げて占星術がすっかりなりを潜めているけれど、久しぶりに占星術の話題など。


とてつもなくはるか遠く昔に感じていたけれど、まだ1ヶ月少しだったんだと気付く。


最後に占星術の講座を受けたのは、私の43歳の誕生日のすぐ後の土曜日だった。


だから3月の話になる。


それを最後にしばらくどころかもう占星術講座はいいかなと思っていた。


しかも年明けのタロットカードの扉開きからはずっとずっとタロット一辺倒みたくなっていて、占星術のことはほぼほぼノータッチになっていた。


興味が失せたというのとも少し違うけれど、自分の中で星の学びは一区切りついてしばらくはもういいかなと思った。


おなかいっぱいというか。


そして、この1年数ヶ月の間、月に2本占星術講座を受けていて、いくら家でオンライン受講と言えどもやっぱり時間は縛られるから、やる気もなければ最後は面倒くさいの方があまりにも上回りすぎて、もう受けなくてもいいなとなった。


話は少し逸れるけれど、少し前に興味のある占星術講座の案内があった。


あったけれど、また1年間、月1で受け続けるという縛りがきつくて、そして受ける受けないを私は最終的に決める時にタロットカードを引いて、これがある種のタロットカードでの初めての占いに近かったけれど()、そこで出てきたカードはベッドのようなところの上で仰向けに寝ている絵で、それを見て「やっぱり受けないんだな」と確信した。


だからもう占星術講座はこれから何年もの単位で受けないと思ったし、下手したら一生受けないかもとさえ思ったし、とにかく興味の矛先がタロットカードに移ったら、講座を受ける時間があるならばタロットをしていたいという気持ちが勝って、だから講座なんて全く受ける気がなかった。


という私が、今回ゴールデンウィーク初日に1つ占星術講座を受ける。


単発講座で、さっき3時間前くらいに案内を見つけて、即担当者に連絡して、すぐに返信が来たから即お金も振り込んで(ネットバンキング様々)、それであと数日後の29日の夜には講座を受ける算段になっている。


今回の講座は「ノード講座」。


占星術講座に興味が失せたのは本当だけれど、ノードについては全く別次元で興味関心が刺激されまくった。


ちなみにノードと呼ばれるものにも興味が基本ないし、私なんかは自分の生まれた時のホロスコープ(星の天空図)の中ですでに特徴的なノード(ドラゴンヘッドとドラゴンテイル)を持っているから、それが色んな方面に影響が出まくるというのは講座や鑑定で教えてもらったから、もはや「そういうもの」としてある意味あきらめて、それで自分のものをこれ以上深く追究したいとかいうことは全くなかった。


またか!とつっこまれても何も言い返せないけれど、今回私がノードの講座を受けたいと思ったのは、イケメン上司のノードのことをこの1ヶ月とか2ヶ月とかの中でさらなる情報を得たからだった。


何個か前のブログに書いたと思うけれど、ある時に私は派遣会社の担当者(だけど、実際は地区の事務所の所長というお偉いさん)から電話が来た時に、イケメン上司の職場への紹介の話が初めてきたのが2017年の5月の何日だったのかを調べて欲しいとお願いした。


私のヘンテコなお願いも快く引き受けてくれて、それが何日だったのかその場で調べてくれてすぐに教えてくれた。


その後速攻で私は、その日のホロスコープとイケメン上司の生まれた時のホロスコープとを重ねて見た。


ドンピシャで、その日がイケメン上司にとって18〜19年に1回巡ってくる、ノードリターンと呼ばれる日だったことがわかった。


イケメン上司のノードリターンということは主人公はイケメン上司で私はあくまでも脇役というかその時にちょうど居合わせたエキストラ的な人でしかないにしても、とにかくそういうタイミングの時に私自身がイケメン上司の人生の側に入り込んだのは紛れもない事実で、現実にそうだったことだけは確実なものとして今もある。

(ノードを端的に説明するとするなら、魂的な目的の道で、ノードリターンの時は魂的な目的のために色んな変化やご縁が運ばれてきやすいと言われている。(そういうことが統計的にも示されている))


それをもっと学術的に意味を知りたいとはその時も思ったけれど、ノード関係の単発で尚且つ内容も深いものが講座としてあるのかと言えば、探す方が面倒くさいから、それでそれっきりこれっきりにしたままだった。


その情報だけで十分だったし、とにかくイケメン上司が好む好まないに関わらず、その18〜19年に1回しか巡ってこない星回りのタイミングに私が居合わせられたことを思えば、私にはそれだけで何か認められたような背中を支えてもらったような、そんな気持ちになれたから、まぁそれでいいかと思った。


で、さっき録画した番組をダラダラ見ながら、不定期にチェックする占星術講座の時の先生たちのブログを見に行ってきた。


そうしたらそのうちのお一方が、ノード講座をするとあった。


(興味のある方は、リマーナすず先生のブログを見てください。『ノード講座』という記事がおそらくトップに出てくるかと思います。)


そもそも、すず先生のオンライン講座を受けたことがない私は受けれるのかどうかも定かではなかったけれど、担当者の方に聞いたら単発講座だから基本は誰でも受けれるとのこと。


すず先生がまたふんだんに惜しみなく自分の持っている情報を共有してくれるだろうことは想像できるし、そして何にも偏らずただただ情報を真っ直ぐに流してくれるだろうことも想像できる。


私は自分が生きているうちにイケメン上司からイケメン上司が見ていた景色の話を直接聞けるのは、この先それこそ私が月や火星に旅行に行きますというくらいの確率でしか起こらないような気がしている。


ゼロとは言わないしそうとも思いたくないけれども、まぁそのくらいの確率で考えてないと自分のメンタルがもたないこともあってそのように思っている。


それはいいとして、だからこそイケメン上司と私とがどうして出会うことができたのか、それを少しでも裏付けできる情報があるのならそれは知りたいと思う。


たまたま運良く星回りも知れてその知識も得て、さらなる深い知識を知れる機会が巡ってきた今、私がそれに飛びつかない理由はない。


そんなことを知ったからと言って、イケメン上司と私との関係が前進したり変化したりすることはないだろうし、受ける前と受けた後とで何か私の生活や生き方が変わるなんてこともない。


けれども、知らずにいるよりかは知っておきたいし、知ることでさらに私の中の確信というか色んなことを信じる力が強まればそれに越したことはない。


イケメン上司からしたら本当に事故みたいな出来事だったかもしれないけれど、私からしたら人生で最大のターニングポイント・人生最大のご褒美みたいなことだったわけで、その意味を知りたい。







冒頭の写真の本は、時を同じくしてメルカリで見つけて購入した占星術の本。


出品されて以降何回か目にしていたけれど読まなさそうと思って遠目に見ていたけれど、どんどん値下げされて、この値段なら仮に読まずに終わっても買っても後悔しないなという値段まで下げられて、そこで「そうだ!」と思い出してAmazonへと飛んだ。


タロットカードの本の調べ物でさんざん「試し読み」にお世話になったから、その本の試し読みも出来るかも!と思って見に行ったら大正解で、少しだけ読んできた。


本当に数分しか読まなかったけれど、それだけでその著者の世界観がとても好きだなと感じた。


占星術の本ではあるけれど、占星術を超えた話をしていた。


後々調べてわかったけれど、占星術以外にも家族療法だとか他のセラピーなんかも色々やる人だとわかった。


だからその世界観が占星術だけにとどまらなかったんだと納得した。


Amazonの試し読みが終わった後、どうかまだ残っていますように!と祈る気持ちでメルカリに戻った。


本当に縁があって私のところに来るものであるならまだ売れていないだろうし、売れていたのならそれは縁がないということ、そんなことを久しぶりに思った。


ちなみにAmazonで定価で買うといくらなのかも知って、定価の85%オフみたいな値段でメルカリで出品されていたと知った。


ちなみに定価なら私はタロットの英語本の方が欲しいから絶対に買わない。


そんなことを考えながらメルカリに戻ったら、まだあって即座に購入手続きをした。


そんなすごく良い本だとは知らずにいた私は、今回メルカリで出品されている方に購入後のメッセージのやりとりで、どうしてその本を知り得たのかを差し支えなければ教えて欲しいと頼んだ。


そうしたらとても丁寧な返信が返ってきて、その方はそもそも占星術に詳しい知人から薦められて手にした本だとあった。


しかも勝手に女の人だと思っていたら男の人でそれも驚いた。


そのやりとりの中で「ブライアンクラーク」を調べると良いと書かれていたから、著者の名前だと気付かずに最初検索したら、冒頭の写真にあるページがヒットした。


アメリカのプロレスラーが出てきて、私は何か間違えたのかと思った。


もう一度メッセージを読んで、本の著者の名前を見ると、そのプロレスラーと同姓同名とわかった。


この面白い偶然にシンクロを感じながら、この本を注文して本当に良かったと思った。







2022/04/24(日)


本が届いた。


遅い午後の時間帯から始めた昼飲みを終えて、本が到着していると知ってポストを見てきた。


半分ほろ酔いな頭でこれを書き始めている。


“Symbols are the language of the soul.”

SOUL, SYMBOL and IMAGINATION 

Brian Clark・著


私はこの言葉に何よりも魅せられて、今回の本を買った。


直訳すると「シンボルは魂の言葉」。


ノードリターンなんていうのはまさしくシンボルの最たるものの一例で、知らない人たちからしたらノードだのノードリターンだの2017年の新緑のある日だの、そんなのは何にも意味を成さない。


「ノードね〜」なんて普通に返せる人がこの世でどのくらいのパーセンテージでいるんだろうと思う。


私がもし占星術を、自分でホロスコープを読めるようになりたいから学びたい!、と思わなければ、一生知ることのない知識だった。


そして、全てにおいて何の確証も持てないイケメン上司との出逢いは、たまたま自分が強く反応した出逢いでそこには何ら深い意味や意図なんかないと片付けたのではないかと思う。


だけど私は最初は自分をもっとよく知るために占星術の世界に足を踏み入れて、そしてその後とても運良くイケメン上司の誕生日を知り得て、さらにはそこからイケメン上司のノードリターンの日と私がイケメン上司がいる職場の仕事の紹介を受けた日とが全く同じだと知り得た。


何の変哲もない、とある1日のことでしかない。


だけど、それがシンボルとして成り立つものの先には色んな情報が集まって、生涯でたった一度しか起こらない奇跡を生み出していた。


シンボルが魂の言葉を代弁してくれた、と言ってもいい。


そこに私は、並々ならぬパワーみたいなこの世の言葉では語り尽くせない深い意図が後ろにあるように感じてならない。


そんなことをたった1つの文章から感じさせてくれたのが今回やってきた本だった。







昨日土曜日の昼間に、多分年の頃は私より年上で50歳前後ではないかと思しき男性のブログに行き着いた。


理系かさもなくば文系的なお仕事でも、とても理論的に客観的に仕事をすることを求められている方ではないかなと思う。


効率能率重視!という感じがそれとなく自己紹介の文章で感じられる方だった。


そんな男性が、これまたパワーポイントを使ってプレゼンでもするのかと思うような理路整然とした言葉で、文章も短く端的に、スピリチュアルだの運命だの全く信じない自分が「この人だ!」と思った女性に出逢ってその方と関係が始まってみたいなことの記録を残している。


それを私は一気に全部読んだ。(まだ始めたばかりのブログで20ちょっとしかないからすぐに全部読めた。)


男の人でましてやアラフォーは確実に超えてもっと言えばもしかすると還暦前くらいの可能性もあるけれど、そんな人が赤裸々に自分の内面や恋心みたいな気持ちを書いているブログなんて早々ないから、ものすごく興味深いブログだった。


その人は魂的な繋がりの縁だとどうして思うのか、その理由を理論的に語っている。


ちなみに理論的に説明されたいくつかのことは、私が実際に体験したこととかぶっていて、その超リアルなことしか信じないみたいな男性が「これは特別な魂の縁だ」と思うに至る考え・体験と同じと知って、何だか心強かった。


それを読みながら改めて、イケメン上司の目には私が登場していた時間や空間はどんな風に映っていたのかなと思った。


その人のブログでは、相手の女性と出逢ってから世界が一変するくらいの変化が淡々とした口調で、でも読んでる側にはとても強い印象が残る言葉で描かれている。


何でそのシーンが突然出てきたのかはわからないけれど、それを読みながらイケメン上司に最後の挨拶をした時に一瞬だけイケメン上司が私の目を見た瞬間がパッと出てきた。


(「挨拶を交わした」と書こうとしたけれど、挨拶さえも私1人が礼儀作法として常識の範囲内でしている風で、というか一方的に押しかけて挨拶を押し付けてる風だったから、「交わした」という言い方はやめた。)


イケメン上司が何で一瞬だけ私の目を見たのかはわからない。


もしかすると、本人さえもどうしてそうしたのか説明できないかもしれない。


本人の意志よりも魂の意志が勝って、そんな風になっていたのかもしれない。


1秒ってどのくらいなんだろう?と思って、さっきiPhoneのストップウォッチ機能を出して見てみた。


100分の1秒まで表示されるタイプで、1秒のところの位が「1」になるまでを見てみた。


そうやって眺めると1秒ってとても長く感じる。


イケメン上司が私の目を見たのは1秒程度かそれ以下だったかもしれないけれど、そういう時間の流れ方だった。


本当に一瞬だったし、本気で色々やらかした!と反省しきりになるような冷たさというか、鋭さはないけれど言うなら冷たい、そういう目ではあったけれど、その瞬間がずっと強く記憶に残る、ものすごいインパクトのある時間が流れていた。


何にもわからないけれど、こんな風にものすごい強さで記憶に残るところが魂の記憶って感じがするし、これはもう一生モノの記憶なんだなと今だからわかる。


仕事上は愛想良く振る舞っていても基本はポーカーフェイスなイケメン上司が何を感じて何を思ったかは私にはどうやっても想像できないけれど、本当に魂的なご縁であるとするなら、イケメン上司側にも相当なインパクトがあったのかなとその方のブログを読みながらそんな想像をした。







占星術のノード講座の話をしたかったんじゃないのか!?と自分にツッコみたいくらいに話がそれまくりで支離滅裂系な感じになってきたけれど、もうひとつこのタイミングで出てきたことがあったからついでに書いちゃう。


タロットカードを使って日記を書くということをかなり不定期にやっている。


今日(4/24)久しぶりにそれをした。


まずは今日のカードを1枚ペンジュラムで選ぶ。


そして今度は“Journaling the Tarot: Evolutions” (Andy Matzner・著)という本を出してきて、そのカードの中の何番の質問に答えるかをペンジュラムとサーフィンボード(ペンジュラム用のボード)を使って聞く。


そうやって出てきた今日の質問はこんな風だった。


「人生をとあるコースと考えた時(基礎コースとか〇〇課程とか、そういう学びの時に使う「コース」)、一番幸せだった時はいつですか?」


考える間もほとんどなく、すぐに出てきた。


それは私の人生の中にイケメン上司がいた時間だった。


それもただただ毎日会えるだけでルンルンだった時だけじゃなく、ご飯誘ったり手紙を渡して拒否拒絶的な態度をデンと示された時も含めて、目の前にイケメン上司がいた時間全てだった。


「しあわせ」という感覚を知ってるって本当にしあわせなことだなと感じた。


しかも迷わずにそうだと言えること。


さらには結末というか現状というかは、全くもってしあわせに満ちてるものではなく、むしろそれ負け試合ですよね?みたいなことになっていても、それでもやっぱり「一番しあわせーhappiest」最上級のしあわせの時間なんだというのは、本当にしあわせな人生だなと思った。


結果とか形とかではなくて、自分がどう感じているかでしあわせは決まる。


って本当にその通りだと思う。


はたから見たら、しあわせ要素ゼロだし、むしろとてつもなく痛々しい人、無理してる人みたいに見えたとしても、私の中ではあんなにも至福感に満ち満ちた時間も感覚も人生で他にはない。


本当のしあわせを私は知った。


それには何の条件も要らなかった。


ただただ誰かが存在してくれてるだけでいい、そういうしあわせは人生でそう何度も起こらない。


それも一緒にいられるわけでも一緒に人生を歩めるわけでもない、もっと言えば嫌われてるかもしれない、それでも私は自分が感じる感覚に嘘は一切ないし、本当にしあわせだと自分の全身全霊がそうだよと教えてくれる。


こんなの人生最大の奇跡と呼ばず何と他に呼ぶんだろう。


それだけのものを私に運んできた人なわけで、だからこそノード講座が気になるし、その裏側にある見えない世界、神々の審議会的な、宇宙でも天空でも何でもいい、そういう言葉には尽くせないすごいものを現実に引き起こしてくる魂の意図や力たるものを私は知りたい。


イケメン上司から聞けないのは仕方ないから、せめて学術的に理解する材料が1つでもあったら嬉しい。


こんなこと書いてたら、プチシリーズ化している「舞台裏」を書くところに(予定通り)至らず、それはゴールデンウィーク中に仕上げようと計画中。


どうでもいいことだけれど、いつも終わり方というか締め方がなんだかダサくて、かと言ってどう締めていいものか名案があるわけでもなく、いつも「なんだかなあ、この終わり方(てんてんてん)」ってなっている。


もっとスマートなもしくは余韻が素敵な終わり方があればいいのにななんて思っている。

2022年4月22日金曜日

フレッシュ独り言

独り言ツラツラ日記。

4月に入って職場の同じフロアに複数の派遣の人たちが入ってきた。


気の良さそうな人たち、笑顔が可愛い人たちが多い。


そんな人たちを眺めていて、「わざわざ私である理由なんかないし、わざわざ無数にいる女の人たちの中で私を選ばなきゃいけないなんてことはないよね」と改めて思った。


イケメン上司の誕生日メッセージを書いた時の舞台裏は少しずつ書いてはいる。


需要があるのかはとりあえず度外視して、書いてはいる。


書き終わったらアップもするし、これだって書いたら書いたままアップする気でいる。


そういうことじゃなくて、世の中の女の人たちと新規で触れ合う機会を得る度に、私が必要とされる理由も、選ばれる理由も何もないなとはたと我に返る瞬間がある。


ブログを書いている時って自分しかいないから、超自分の世界にどっぷり浸かっていて、周りなんか何も見えていない。


ある意味すごく自分に集中しているわけだけど、世の中は色んな人たちで成り立っていて、そんな当たり前のことを普段は忘れているけれど、ふと新しい女の人たちに出会うと今回みたいな気持ちが湧いてくる。


人当たりも悪くないし、他人に危害を加えることもないし、と自分のことを思う反面、イケメン上司のような人が何が悲しくて私みたいな人と関係を持たなきゃいけないんだろうと自己否定も甚だしいけれど、本気でそんな風に思った。


(読み返したら「関係を持つ」って色んな意味に取られやすいと気付いたけれど、私が指して言っているのは「人間関係」全般の方。決してワンナイト的な方じゃない( ̄∀ ̄;)。後者の方ならますます嫌がらせみたいな話になりかねない。)


自ずと職場にいる時間が1日当たりもだし1週間当たりでも圧倒的に長いのは間違いなく、そんなところに例えば色んな女の人たちがいたとして、そこに私ももし仮にいたとしても、本当に私じゃない誰かが普通に選ばれて、そんな職場なんて面倒なところで私生活まで持ち込むのはとなったとして、趣味の仲間から誰かとか、そんな風に考えたら、この奇妙な魂的な繋がりなど、強烈さはピカイチかもわからないけれど、必要性とか欲しい度合いなんて無いに等しいんじゃないかと今でも思っている。


自分のことを話すのも苦手だろうし自分の内面を見つめるのも超得意なんてことは無さそうなタイプのイケメン上司からしたら、私のこのどこまでも自分を掘り下げて言語化するブログの中身は、ある意味実用的でそれで単にブログは読むのかもしれないな、なんてことも考えた。


話はかなり変わるけれど、この間私は今の上司の方から手書きのものすごく素敵なお手紙をいただいた。


本当に素敵で、たとえ同性からのお手紙でも私は超嬉しくてテンション爆上がりだった。


読みながら嬉しい気持ちや親しみ、愛なんかもたくさん感じたお手紙だった。


便箋も素敵で、通の人たちがご愛用するような某文房具店なのか便箋屋なのかのものが使われていた。


そんな素敵な手紙が朝仕事に来たら自分のマウスパッドとマウスの間にそっと置かれていて、その演出もウルトラスーパー素敵だった。


そちら側のテンションが収まってきたら、私の書いたあの手紙はどうだったんだろうと怖い想像をした。


私が感じたような明るい気持ちや満たされた感じなんて皆無だったんだろうなとやるせなさが出てきた。


自分の感覚に注目すればするほど、本来手紙ってこういう嬉しいものなのに、あの手紙は……と暗い想像しか浮かんでこなかった。


物理的にも寒々しい百均の便箋に封筒で、もはや見た目的にも中身的にも怪文書でしかないシロモノだったなと気を失えるものなら失ってしまいたい気持ちになった。


職場の自分好みな女の人からもらうならまだしも、そうではない人から札束だったら嬉しい!ってなりそうな分厚い封筒を勝手に置いて行かれて、本人の気持ちを想像したら恐ろしい想像しか湧いてこなくて、とりあえずその想像は打ち切った。


イケメン上司も「魂的な繋がり」と言われて、ある意味ホッとしてるんじゃないかと思った。


私が学んだことの1つに、魂的な繋がりが強いイコール付き合うとか結婚とか言うようなパートナーだとは限らないこと。


私がどう強烈なのかはイケメン上司にしかわからない境地だけれど、それが魂的な理由なら日常生活に差し障るような事態と切り離せるのかななんて想像したりもする。


魂が担当するのは見えない部分だとするなら、何かしら人間関係と呼べるような関係性を築かなくて良さそうだし、今みたいに私はブログを書いてイケメン上司は見たい時だけブログを見るという、そういう摩訶不思議なバランスで成り立っているものもOK!みたいな。


そんなのイケメン上司のセリフだろうけれど、何で私なんだろう?と思う。


こうして言葉にしたり心理に元々興味があるから、そういう部分で必要な人材なのか、仕事じゃないけれど、それ担当の派遣社員的な感じなのかもしれないとさえ思っている。


イケメン上司からしたら、苦手分野克服のために派遣されてきたのが私なのかもしれない。


こんな想像したって仕方ないけれど、新しく配属された事務の女性たちを見て、世の中にはたくさんの女の人がいて性格でも容姿でもイケメン上司の好みのタイプは少なくとも私ではないだろうなと考えた。


そんな人が心の奥深いところに届くようにメッセージを書いて送ってくるなんて、あの世もこの世も色々思い通りに動かない世の中のメカニズムなんだななんて思った。


むしろ、そういう相手とは違うからこそ、メッセージも余計な色眼鏡が外されて届くのかもしれない。


こんなこと書いてはいるけれど、思ったりもしているけれど、イケメン上司に向けた誕生日メッセージそのものは本当に自分を切り離して私にできる最大限の力でとにかく真っ直ぐにキャッチして言葉に起こした。


それだけは宣誓できる。


これは木曜日(4/21)が終わった真夜中から金曜日(4/22)の朝起きての中で、目が覚めた時に書いたもの。


朝採れと言わんばかりの超フレッシュ便のブログ( ̄∀ ̄;)


こんなこと書いてるけれど、舞台裏の話は引き続き書いて終わったらアップする。