8連休前の昼休み
今日は昨日よりも調子が良い。
だけど今回の小さな情報にやられた自分を見て、連休前半はとことん自分を甘やかしてゆったりのんびり過ごそうと決めた。
願わくば、溜め込んだ涙も何かの拍子にズルズルと引っ張られて出てきてくれないかと思う。
喉から鼻にかけての不具合は続いていて、多分風邪じゃない。
痛みはなくて、咳も出ないし、発声も普段通り。
だけど泣きそうな時とか泣いた後みたいなツーン感が続いている。
体に予知機能があるのかは知らないけれど、魂案件はこの4年近く一度も衰えることなく色んなサインを体に送ってきていた。
だから今回の喉の違和感も何ら不思議じゃない。
っていうか喉…。
時々思う。
その人は多分ものすごく口下手で言葉で何かを伝えるとかいうのは多分しなくていいなら一番と言ってもいいくらいしたくないことなんだろうなぁと思う。
したくないだと言葉が違うかも…、避けたいことというか。
今の仕事で100人近い「ザ・男のフロア」みたいなところにいて、半分くらいの人たちとはなんだかんだで喋ったけれど、ここも理系バリバリ系の人たちの集団だけれど、男の人でもおしゃべり好きな人とか雑談大事!みたいな人たちはいる。
そういう対応は長年の積み重ねで私も普通にやりとりするし、おしゃべり不得手タイプの人でもなんとなく話せそうな人たちとはそれとなくおしゃべりもする。
とかいうのを思い浮かべた時に、本当にその人は仕事のことはスラスラとスマートに対応していたけれど、個人的なおしゃべりは本当に気を許した人にしかしないんだろうなぁと思う。
喉の違和感を感じるたびに私はその人のそういう姿を思い出す。
当時の私は本当に仕事中一言も喋らずにいたから黙々と割り当てられた仕事をしていたけれど、今の職場ならそしてその人もいたのなら、当時よりかは普通に話せたかもしれないなぁなんて思う。
小さな会話さえはばかられる感じだったから(そういう職場ではないけれど、その人はベラベラおしゃべりする人じゃなかった)、何にも個人的な話はできなかった。
当時1人だけ、仕事の絡みでしょっちゅうやりとりする必要のある男性がいた。
人当たりの良い感じの人でとても助かっていたけれども(何せ本当に喋らない毎日だったから、どんな人か想像もつかないだろう私を相手にしても普通にやりとりしてくれるタイプの人で本当に良かった)、この業務がその担当者じゃなくてその人だったらどんなに良かっただろう…、って何度も想像した。
とにかくそのくらい喋らなかったし、その人も自分からグイグイおしゃべりするタイプでもなければ、私もだんまりな物静かな置き物のようになっていたから、私的なおしゃべりはただの一度もしたことがなかった。
(この辺りからは水曜日の夜)
だから喉の調子が悪くなると、いつもその人のそういう姿を思い出す。
*
水曜日の夜、布団の中で。
今日の仕事は適度に忙しく適度に集中してやらないといけないものだったから、昨日のような涙じわじわみたいなことにはならずに済んだ。
変な欲も出てきて、この感覚はなりたいと思ってもそうそう簡単になれるものじゃないから、味わえるうちに味わいたいと思うところも出てきた。
仕事であれこれやり出すと、良くも悪くも日常に忙殺される。
日常とはよくできたもので、多分人間は安全への欲求を満たすために日常はとことん穏やかに過ごせるよう、イレギュラーなことや奇妙なことが起こらないように気を配る。
だから、日常生活がまたいつものリズムになってくると、この今浮上してきた気持ちや感覚は奥に追いやられる可能性が高い。
しばらく社会生活から離れられるから、思いっきりこの感覚を見て感じたい、そんな気持ちが湧いてきた。
そして、少しの間、オンタイムでなるべく言葉に起こしていこうと思った。
書くと自分の中にあったものが外に出てくる。
そして、書いている中で自分の気持ちや感覚にもどんどん近付いて気づけるようになる。
未来の自分はもうこんな風に書くことはなくなるだろう…と思うから、余計と言葉にできそうな今、言葉にしていきたいと思う。
*
2021/04/29
雨の音、朝の布団の中
昨日、突然思い出したことがある。
人と人とが同じ時代に生きて出会って隣りに居合わせる確率というのは、自分の家の中のトイレに宇宙から隕石が落ちてくるくらいのもの、というような格言めいたたとえ話がある。
私はその言葉がとても好きなのと同時に、それをそのままその人にも書いて伝えた。
そのたとえ話は、本やテレビ、雑誌なんかに出ていたものじゃない。
それはある時、友達の家に遊びに行って、その友達ともう1人の友達とで友達の住んでるマンションの目の前にあった超ローカルみたいな小さな昔ながらのスーパーに買い出しに出て、そこでパジャマにも外に少し出る時にも使えそうな七分丈くらいの履き心地の良さそうなパンツが売られていて、それを買ったらその服のタグに付いていたものだった。
ドラッグストアなんかに小さく衣料品が売ってたりするけれど、あれよりもさらにもっと小さなサイズでそのスーパーの一角にあって、そんなの買う予定にもなかったけれども、本当にデザインも生地も申し分なく良くて、値段も700円くらいだった気がする、それで私ともう1人の友達は似たようなデザインのものを買った。
そのパンツはその後数年、穴が開いて、開いた後裂けるその時まで私は履き倒した。
それくらい気に入っていた。
でそのパンツを買った西の地こそ、今その人が転勤で行った場所なんだと気付いた。
ちなみにパンツは2009年の夏に買ったもの。
その人が転勤したのは「去年」とあったから、2020年なんだと思うけれども、まさかパンツ→タグのメッセージ→手紙→相手の転勤先と繋がっていくなんて思ってもいなかった。
ざっくりとした地名だから、実際には広いしその中のどこにいるかなんて想像もつかないけれど、とにかくまさかの色んなことが重なりまくっていることに驚いた。
さらに、これを書いているまさに今、その地名を自分のブログの中で見ることになるなんて、これまた驚いた。
朝の6時過ぎに読まれた記事があって、相変わらずタイトルを見ただけではわからなくて、ポチッと開いて読んでみた。
自分で書いたくせして、まるで今初めて読むかのような内容で結局最初から最後まで読んだ。
最初に誰かの愚痴を書いていたけれども、それが誰のことを指しているのか自分でもわからなかったΣ(꒪◊꒪; )))) 。
誰を指したかは覚えてなくても怒りの内容は今も基本同じスタンスだなぁと思った。
その後、カラスの鳴き声には種類があるとか、そんなこんなを書いていて、最後にプロレスの宣伝が自分の携帯のGoogle内に出てくることを書いていた。
その最後の最後に、当時の宣伝文句をそのまま載せていた。
【[新日本プロレス・速報]
2.9 ◯◯ Road to ニュー・ビギニング 試合結果:棚橋&オカダ軍団 vs. バレットクラブ…】
◯◯の中には地名が入る。
その地名はまさに私がパンツを買って、その人が今いる土地になる。
そんなこと書いたなんてとっくに忘れていて、まさかのシンクロ具合にとても嬉しくなった。
誰が読んでいるのかは知らないけれど、どこかの誰かが開いてくれたそのブログにはそういう嬉しい偶然があった。
*
外では雨が降り続いている。
カーテンを閉め切っているから外の様子は見えないけれど、音はちゃんと耳に届くし、その音を聞いて雨だとわかる。
転勤を知らされた日の昼休み、よく通った大きな川が見えるところに行った。
その日が雨だったと思う。
朝から降っていたのかどうかは覚えていないけれども、とにかく昼は雨だった。
雨が車のフロントガラスに当たる中、私はそこで賭け事をした。
当時2つ持っていたペンジュラムを巾着から取り出して、それを両方の手でそれぞれ1個ずつ持ってじっと待った。
私のペンジュラムは縦に動くかクルクル回転するしか動きのパターンとしてはなかった。
ちなみに縦に動くのも回転するのも私が決めてそうなってるのではなくて、ペンジュラムの意思というかペンジュラム自身が動きを自ら決めている。
だから私がどうこうできるのとは違う。
当時、ペンジュラムを持って1年以上経った頃で、私はそれ以外のペンジュラムの動きを見たことがなかった。
そしてさっき言ったように、私がどうこう決めれるものではないから、ペンジュラムが縦と回転以外の動きをすることがないのは100%どころか1億%確信していた事実だった。
だから私はペンジュラムが新しい動きを見せてくれるわけがないのは知っていて、それを利用しての賭け事をした。
万が一ペンジュラムが見たこともない動きを見せてくれたのなら、私は自分の心に従ってもう一度その人に時間が欲しいと言ってみようと。
本当に嫌そうにされていたし、仕事の伝言なのに絶対に目を合わせないどころか無視みたいな感じでその人は私に拒否拒絶の意思をとことん示していたから、そんな人を相手に何かを言うなんて狂気の沙汰だった。
だから1億%起こらないと知っての賭けに出た。
どうせ起こらないし、何も変わらない。
それを自分が納得するために賭けをやったようなものだった。
ところが、予想を大きく翻(ひるがえ)して、なんとペンジュラムは横揺れの動きを始めて、そして横に揺れる2つのペンジュラムはとうとうお互いにカツンと音を立ててぶつかり合った。
それは言うなれば太陽が西から昇るくらいのありえないことで、色んな意味で驚愕と言葉にできない想いが溢れて、涙がぼろぼろ出てきた。
それが転機だった。
さすがに私もはがねの心臓なんて持ち合わせていないから、そんなにも嫌がられてる風な人に向かって何かアクションを起こしてさらなる地雷を自ら踏んでさらなる痛手を負うのは嫌だった。
いくら近々いなくなる相手でも、そんなことをしたいのとは違った。
いなくなるならいなくなるで、最後くらい穏やかに、とにかくこれ以上不穏な空気を自ら生み出すなんて嫌すぎたし絶対に避けたかった。
だけどあの時、ペンジュラムは違う動きを私に見せて、全ての舵切りをくつがえした。
それによって、私は次の行動に移って、そして今のこのようなブログに至っている。
その時の天気が雨で、今の外の雨音を聞きながらそうだったなぁと思い出している。
書きながら思い出した。
私のペンジュラムというのは、霊視ができて死者でも見えない何かでも視れるヒーラーさんいわく、地球外生命的なものと交信しているらしい。
だからあの時もだけれど、私なんかが考えられるような次元ではない何かが確実に介入したんだと思う。
さらには、その転機となったきっかけがペンジュラムというのも、今思うとなるほど納得するものがある。
「ペンジュラム」というのは、その人と私とを繋ぐ超重要且つマストアイテムなんだと思う。
「思う」と書いたのは、正直今でも私の中に確信もなければそうなんだ…くらいな感じは相変わらずで、色んな人たちから私の元にもたらされた情報を統合するとそういうことになるからそう「思う」だけ。
真実は知らないし、私の勘違いである可能性も相当に高い。
でも今となればどっちでもいいかなぁと思っている。
むしろ、自分が信じたいものを選んで信じてる方が私自身はしあわせな気持ちになれるから、それが正解とさえ思うようになった。
色んな人たちから伝えられた情報をまとめるとこうなる。
ペンジュラムというのは私が過去世で自分の相棒、体の一部のように大切に持っていたものだったらしい。
今世の私のペンジュラムの使いこなしよう(「使い熟す」と書くらしい)は、本当に熟練された人みたく、最初からいきなり使えた。
私はペンジュラムはみんながみんなそうやって使えるのかと思ったけれども、そうではないらしい。
私は過去世で使っていたからこそ、今の人生でも何も練習も訓練もせずに、さらには誰からも教えてもらわなくてもじゃんじゃん使えているのは、そういうことなんだろうと思う。
私が過去世で使っていたということを伝えてくれた人が2人いる。
で、そのうちの1人の人が、その人と私とが過去世で繋がっていただろう、その方にしか視えていないものを私に教えてくれた。
そしてその時のキーワードも「ペンジュラム」だった。
その過去世の中では、その人と私とは一緒の家に住む子ども同士だったようで、その住む家の中には普通にペンジュラムがあった。
その時に言われた、今回色々やってきている情報は私ではなく相手側の魂の意志で伝えられているだろうことを。
不思議な話だったけれども、それだけにとどまらず、その後も私はその人の存在について知らせてもいないのに、その人について全く知らない人たちからその人の情報をもたらされた。
先述のヒーラーさんは、2回目か3回目の会合の時に、突然その人について私に単刀直入に視えているもの全てを言ってきた。
私はたしかにそうした見えない世界や霊的なものの話に慣れてはいるけれども、いくらなんでも自分が口に出したこともない、その人の存在さえ明かしていない、ましてやヒーラーさんとその人とは全くの接点もないのにも関わらず、その人の特徴を次から次へと伝えられるなんて尋常じゃなさすぎた。
テレビとかで霊視する霊能者があれこれ言い当てたりする、あれ級のことが目の前で繰り広げられていた。
そしてどれもこれも当たりすぎて、鳥肌ものだった。
さらには私の知らないその人の情報までもをヒーラーさんは知っていて、何がどうなったらそんな凄いことになるのか、ただただ目を丸くするばかりだった。
どんな仕組みなのか私にはさっぱりわからないけれど、少なくともヒーラーさんにはその人の存在が視えていてその特徴を掴めるほどだったのは間違いない。
挙げ句の果て、死者(山で行方不明になったおじいちゃん)からもその人について「その人のことを聞かなくていいのか?」とそのヒーラーさんを介しておじいちゃんと家族とを繋げるための超真面目な話をしていた時に言われて、本気で度肝を抜かれた。
さらに一番直近だと、今年の冬、占星術の先生の個人鑑定を受けた時にもその人と私とが過去世で繋がっていただろうことと今世でも縁のある人だということを教えてもらったんだった。
そうした不思議な経過を辿っている人なわけで、だからペンジュラムが4年前の秋の日にありえない動きを見せてくれたことで色んなことが変わったのはなるほど納得した。
ーーーー場面変更ーーーー
私は上の文を書いている時、そうだ、その賭け事をした川に行こうと決めた。
のらりくらりと支度をして、今実際にその場所にいる。
雨の日で同じようなシチュエーションでこの川に来れることは、もしかしたら今日が最初で最後かもしれないからと思って、それで引きこもり予定を変更してやってきた。
今回は写真を付けようと思って、写真を撮った。
当時見ていた景色とほぼほぼ同じ感じだと思う。
行く途中当時の職場の近くも通過したけれど、近くには行かずそっと大通りからそちらを見るだけにとどめた。
あの後色々心境の変化があって、最後に手紙を書くことに決めた私は、手紙を実際に書いて押し付けた。
その時の手紙の下書きも今日は持ってきて久しぶりに最初から最後まで読んだ。
読んでて顔から火が出そうなことも平気で書いていたけれども、不思議だなぁと思った。
4年前の秋の日に、もしペンジュラムを使って賭け事をしようなんて考えなければ、私は何かを書いて伝えようなんて絶対に考えなかったと思う。
ペンジュラムはそんなことを示唆したのとは全く違うけれども、あの時の自分の中の勢いたるや本当に凄かった。
その時の週末は、朝から夜遅くまでひたすら書いて書いて書き通した。
元々何も考えずにスラスラと書けるタイプではあるけれども、だからと言ってそういう手紙には全く不慣れだし、はっきり言って人生で初めて書いたタイプの手紙だった。
今日布団の中や支度をする時に思った。
この4年余りで、本当に色んなことが目まぐるしく変わったし、特に人間関係は私の場合一新されたと言っても過言じゃないくらいに変わった。
その人について色々教えてくれた人たちとはまさに一期一会状態で、今は占星術の先生以外とは繋がっていない。
先生とも講座を今また受けているだけで、個人的な話をするのとは全く違う。
色んな人たちが人生から出たり入ったりする中で、その人と出逢ってから今に至るまでずっとなんだかんだと繋がっている、繋がっていると言うととても語弊だらけだけど、私側から見て繋がっているのはその人だけになる。
あとから新しく出会えた素敵な人たちももちろんいるし、その中でも特に親しくさせてもらってる心友的な存在の人もいるけれども、そうではなくてこの4年ないし5年で色んなことが変わった中でずっとずっと変わらずに私の中にいたのがその人だということ。
そしてその人の真意とか意図とかはさっぱりわからないけれども、それでも大きな引越しを2回もして大きく環境が変わった今も、なんだかんだとこのブログは見てくれてるというすごさ。
物理的、関係的に間違いなく私は一番遠いところにいる。
なんだけれども、私が自分の心の内や考えをつらつらと書いているのはこのブログであって、それをいつのどのタイミングで初めて見つけてくれてチェックしてくれるようになったのかは全くもって知らないけれども、それでもそういう括り(くくり)の中だとその人が一番近くで変わらずに確認してくれていた人になる。
今私がいる川の前でペンジュラムが奇跡の瞬間を私にこれ以上ないくらいわかりやすい形で見せてくれたあの時から確実に何かが変わった。
生きる世界も日常を過ごす町も何もかも交わらないだらけの中で、何か全く別のところで不思議な繋がり方をする、そういう風になった。
余談だけれど、今いる場所の名前の中に、その人の苗字の頭文字と私の苗字の頭文字(ぶ)が両方入っている。
「東京スカイツリー」なら「と」から始まる言葉と「す」から始まる言葉とが組み合わさってできているけれども、ちょうどそんな風になっている。
そういう名前を持った場所でペンジュラムが奇跡を見せてくれたんだなと思ったら、実はものすごく裏側では色んなことが整ってその瞬間を迎えられたのかもしれないなと思った。
その時には気付けなくても後々気付けるように…、そんな風になっていたのかもしれない。
2021/04/29
お昼12:20
ーーーー場面変更終了ーーーー
夕方寝落ちしそうな布団の中で。
雨は川が見えるその場所に行く時も川の前に車を止めていた間も、ずっと激しめに降っていた。
本当に4年前の感じととっても似ていた。
ところが、帰り道の途中から雨は小康状態になって、途中からは雨は止んだ。
あの時間だけとにかくしっかりと降ってくれていて、こんなにも雨にテンションが上がるなんてのもそうそうないなぁと思った。
毎回毎回同じようなことを書いているなぁと思うけれど、これは別に私のブログなんだから同じ話をしたっていいかと開き直って書いている。
何せネタという意味では極端に少ないから、どうしても繰り返しの話をしてしまう。
今回は何かもう一度再現してみたり、蓋をしていたものたちの蓋がかぱっと開いたりしてそれらにもう一度対峙するチャンスを得たり、そういう時間を今日で3日目を迎えているけれど、飽きることなくむしろテレビ視聴やなんやらよりもそこにすっと向き合いたい、今はそう思っている。
あまり読み返したりせず、気が向いたら向いた時にこまめにせっせと書き綴ろうと思う。
それが何にもならなくても、少なくとも私の予想が外れなければ届くは届くはず。
届いてノーリアクションであっても、「届いた」という未来は作れる気がする。
私の書くモロモロは何の面白みもないし、読み方によっては頭の狂った人の話みたいに思われたって仕方ないとさえ思うけれど、そんなことはどうでもいい。
ただ1人、届いて欲しい人に届けばそれでいい。
そのためだけに私は書いている。