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2018年3月19日月曜日

38歳の決断

2018年3月10日

木のテーブルにて

 

38歳の1年をかけて、そして38年間という時間を経て1つ決断したこと。

武士俣史子の本名のままで、これからはすべて表現していくこと。

それはすなわち、「武士俣史子」として生きていくこと。

そして武士俣史子という名前を持って生きていく覚悟を持つこと。

 

 

2018年3月18日

ようやく「38歳の決断」が書ける。

ずっとずっと書こうと思っていてここまで延びてしまった。

春分の日から金沢の妹のところに行くから、また書けなくなる。

もうどうでもこの週末に書こうと決めていた。

 

「武士俣史子」の本名のままでこれからはすべて表現していく。

これは私にとって38歳の1年で一番大きな決断だった。

これを読んでくれている人は薄々気付いていると思うけれど、私の今の人生のベースにはスピリチュアルなことがものすごくたくさん入っている。

ペンジュラムとかオルゴナイトとかもそうだし、具体的な物じゃなくても考え方とかにはスピリチュアル的な学びから得たものが多い。

そもそも『名古屋シリーズ』をこのブログ内で公表しようと思ったのも、スピリチュアルな世界に入っていくそのプロセスをきちんと書きたいと思ったから。

先に言うと、私は31歳になるまでスピリチュアルなこととは無縁な世界で生きていた。

気を起こすことができる友達(『カメハメハの夜』)や霊視できる友達の友達と会うこと(『イシダくんの予言』)はあっても、単に興味本位で見聞きしただけで、自分がそういう世界に行くなんて1ミリたりとも思っていなかった。

しかも20代の頃は、福祉や心理の本を見に行くといつも必ず隣りは精神世界の本のコーナーで、それを見ては「あそこはやばいコーナー、やばい・頭のいかれた人たちが読む本のコーナー」と位置づけ、絶対に近寄らなかった。

手をほんの少し伸ばせばそのコーナーの本は簡単に取れたけれど、私の心の中では地球を1周するぐらいの距離があって、そこは存在していないも同然だった。

31歳に何があったかは名古屋シリーズに詳しく書くにして、とりあえず人生が自分の力ではどうにもこうにもできないぐらいに崩れて、そしてそのまま年を重ねることにすごい恐怖を抱いた私は、ひょんなことからコーチングと出逢った。

自分の人生の立て直しを図らないと、これから何十年と生きていける気がしないと切実に感じていた。

コーチングが何かも知らずに体験説明会に行って、そこで出逢ったのが私のコーチのまんちゃんだった。

私は他の人からはコーチングを受けてないから詳しくは知らないけれど、多分世の中で認識されているコーチングとまんちゃんがするコーチングは随分と違う。

まんちゃんはスピリチュアルなことをすごく勉強していてそういう知り合いも多くて、そして本人も特異体質で感性が鋭いから、普通の目標設定のようなコーチングとは似ても似つかないセッションをする。

まんちゃんがスピリチュアルなことを全く知らない私に1から色んなことをさりげなく教えてくれた。

そもそもそういうものが何かも知らぬまま、だけどまんちゃんのセッションを受けると必ず気持ちが楽になってそしてどんどん状況も好転していったから、それが何なのかその秘密を知りたかった。

そんなこんなでスピリチュアルなことをどんどん知っていって、そして自分自身でも本やセミナーで勉強するようになった。

私は何年か前からアメブロを開設して、そちらにはそうした学びと自分の体験を組み合わせて知り得たことを情報発信していた(今は2年近く休止中)。

だけどその時も、ものすごい細心の注意を払って、スピリチュアルな用語も使わなければそういうにおいも出さないように表現していた。

そういう自分を隠したいと思っていたから。

私が31歳でそういう世界に触れるまで一切受け付けられなかったように、普通の人も受け付けられないだろうと思って、だからそういうことは言わないか、もしくはオブラートに包んで表現するかの二択だった。

これは当時も今も変わらないけれど、私は本名で書いていくことにものすごくこだわった。

それは本名で書く以上は変なことは書けないから、そういう意味で自分への戒めになると思った。

そしてそれはこういう選択肢も同時に生んだ。


 ①偽名を使ってスピリチュアルなことを発信していく
 ②本名で書く代わりにスピリチュアルなことは伏せる

私の中で①は絶対に有り得なかったから、おのずと②になった。

そして今ある③の選択「本名でスピリチュアルなことも公表していく」というのはここ最近まで全く選択肢の中にさえなかったことだった。

最近まではそんな危険を冒せないと思った。

周りの人たちから変な人と思われるのももちろん嫌だった。

そして公表しなくてもさして困ることがなかったからそれで良かった。

ところがこの数ヶ月でどんどんそうも言っていられなくなってきた。

1つはペンジュラムの存在が大きい。

アメブロを休止したタイミングは、丁度手元にペンジュラムがきたタイミングでもあった。

アメブロ休止は別にペンジュラムとは一切関係がなくて、単にネット環境がなくなってブログをパソコンからアップできないからという理由で書かなくなり、そして気付けば2年近く経過したというにしか過ぎない。

(これは休止して今となっては正解だと思ってる。遅くともこの39歳の1年の中でそちらはリニューアルオープンしようと企んでる)

この2年の間で私の人生は激変した。

まさか興味を持って買ったペンジュラムがこんなにも色んなことを教えてくれ、さらにはペンジュラムの研究じゃないけれど、そこから出てくるメッセージの読み解きにこんなにもはまるとは思わなかった。

今年に入ってからやってきたオルゴナイトに関しては、これからもますます面白い展開を見せてくれると思って今も絶賛観察中。

そしてもう止まらないぐらいにそういう類いの世界のことがどんどん情報として入ってきていて、当然自分自身も色んな体験を同時進行でしていくわけで、そんな中隠し通す方が難しくなってきた。

過去のブログを見ると多分出てくると思うけれど、私がまだペンジュラムをペンジュラムと紹介できなかった時は「ある物」という言い方をブログの中ではしていた。

そういう風に書く時はいつも面倒だと思っていたし、こんなにも役立つものをそのまま紹介できないもどかしさも感じていた。

でもまだ自分の中では「隠してる方が得策」みたいな考えがあったから、隠していた。

それが2017年の12月にあったイベント「命の授業」で一気にその想いが覆された。

本名をそのまま出してそれでスピリチュアルな情報を発信している、けれど一般ピープル的な感じで普段生活しているだろう人たちに出逢った。

これまでも出逢っていたけれど、何て言うのか、雲の上の存在じゃないけれど、レベルが自分と違い過ぎて目指すにも目指したいとさえ思わないぐらいにすごい人たちだった。

到底その域にいない自分が本名で何かを発信するなんてありえなかった。

それがこの度、なんかそんなにもこだわらなくてもいいのかもと思える人たちに出逢わせてもらえた。

しかも私は友達の計らいで、イベント後の飲み会にも参加して、そこで彼女たちと話して彼女たちがとても普通の感覚で日々生きていることも知ったし、近寄りがたいなんていうことは全くなくむしろフレンドリーで親しみやすくって、その感じもとっても良かった。

こういう生き方もきちんとあるんだとわかった。

そしてその辺りから自分でも気付き始めた。

昔からの友達2人とSさんに関しては、私がどうであろうとずっと仲良くしてくれてる。

私の色んなぶっ飛んだ発想やペンジュラムを使いこなしてる姿を見ても、変わらずに付き合ってくれていること。

さらには、そういう私だと知っても仲良くしてくれる人がちらほらと現れ始めた。

別にみんなにみんな受け入れて欲しいなんていうことは思わない。

だけど自分の好きな人たちから受け入れてもらえなかったらそれは悲しいしショックだろうと思う。

そういうのもあって公表を控えていたのもある。

公表さえしなければこのままでいられると思ったから。

大切なものを失わずに済む気がしたから。

でも今はもうそう思っていない。

本当に私と縁のある人たちだったら、こういう私でもそれがぶっしーだよねと受け入れてくれる気がしている。

そしてそういう人じゃないとこれから先縁は続かないようになっていると思う。

そんなのは仕方ないと割り切れるようになったのもここ最近だった。

もう等身大の自分で生きて、それで縁のある人たちとこれから先は繋がっていきたい、そういう気持ちがうんと強くなった。

自分を押し殺すんじゃなくて、自分を出していこうって。

それで相手が逃げた時は仕方ない。

だけどもう自分を隠すのはおしまいにしようって。

だって本当の本当に私はそういうスピリチュアル要素の高い教えや物にものすっごく助けられたから。

そして本当に良いものは周りの人たちにも「良いよ~」って宣伝できる。

伝えることもできる。

アメブロは特にそういうスタンスで書いていたけれど、自分が色々やってみて本当に効果を感じたことをそのまま公表している。

それは私だけが特別なんじゃなくて、誰でも、たとえスピリチュアルなことに全く興味のない人でも、何か感じるものがあればいかようにも使えるものだから。

私が目指すスピリチュアルは昔も今も変わらなくて、いかに日々の生活にそして人生そのものに活かせるかどうか。

だからぶっ飛んだことを伝えるんじゃなくて、どうやって自分の気持ちに寄り添っていくとか、どうやって自分の気持ちに気付いていくとか、そういうことが中心だったりする。

だって使えないことを書いても仕方ない。

それがある程度のトレーニングを積んだ人しか使えない方法なら、そんなのちょっと違うと思う。

私の最大の強みは、そういうことを一切知らないところから人生が大きく崩れて、そこから本当に自力で這い上がらなければいけない状況を通過していることだと思う。

だから渦中の大変さもものすごくたくさん知っているし、簡単に大丈夫だよなんて言えない。

だけど必ず道はあるし、そしてそこから色んなことが開いていく、たとえ可能性が1%もなさそうなことでも状況が変わる瞬間を何度も見てきた。

そしてそういう時に自分が自分のために何ができるかも自分でやったから知っている。

そういう体験があるから言えることがあるし、伝えることもできる。

そしてそういう情報が自分以外の誰かにも役立つんだということを周りの人たちから教えてもらえるようになったのもここ最近だったりする。

ペンジュラムについても、私の場合は丸っと自己流で、何かを見て覚えたわけじゃない。

自分でがんがん使ってそれで色んなことをそこから読み解いたり質問の仕方を学んだりしていった。

そんなのは、今の仕事でコピー機の使い方・テプラの使い方・excelの入力の仕方を学ぶのと何ら変わらない。

地道に1つ1つ積み重ねた先にわかることがあるし、それなら別に私じゃなくても誰でもできる。

そういうことをどんどん発信したいのと、そしてもう本名で発信しても大丈夫だろうなと自分で思えるようになった。

今は思う。

本名でスピリチュアルなことを発信していくのは、変なことが言えないから自分の戒めにももちろんなる。

でももう1つ、本名で言っていくことが自分を守る手段になると予想している。

私は実際に本名で活動している人と、ハンドルネームじゃないけれど違う名前を使って活動している人との両方に会っている。

違う名前を使う人たちはそれぞれ事情があるからそれをどうこう言うつもりはない。

だけど振り返ると、私が本気でこの人すごい!って惚れてその人の教えや実践してることがいいな!と思ってる人は、全員本名を名乗っている。

本名を名乗ることが大切なのは、自分自身がずれないことにあると思っている。

例えば私が「森山直太朗です」なんて違う名前を名乗ったら、私はその時は森山直太朗にならなきゃいけない。

だけどオフの時は当たり前だけど武士俣史子に戻る。

そんな器用なことは私にはできない。

もうどんなにカッコ悪い自分でもそれを出す覚悟が出てきたから、もうそのままでいいと思ってる。

いちいち他の誰かになっていては体がいくつあっても足りない。

もう無理をせず自分でいられることを一番の軸にしたい、そう思うようになったのが38歳の1年だった。

そしてそれが一番ダイレクトに出るのが「本名で」「自分の思いや体験を表現していくこと」だった。

本名を名乗り続けることも妥協したくない。

そここそ本当に絶対に妥協したくないポイント。

ぶっしーと呼ばれるとかそんなのは良くて、そうじゃない自分自身が違う名前を名乗ったら私の場合はもう終わりだと思う。

自分に対して嘘をついているのと同じぐらいのことだと思ってる。

他の人はごまかせても自分自身はごまかせない。

そしてスピリチュアルなことも含めて表現することもあきらめたくない。

むしろそういうのをこれからはもっと自由に表現したいと思っている。

悪いことをしているわけでも、人に迷惑をかけているわけでもない。

むしろ私なんかはそれに助けられたわけだから、それを本当にそのまま伝えていけたらいいなと思う。

 

38歳の最後の方で決断したこと。

これから先の人生でも大切な軸として自分の中にずっと持っていようと思ってる。

武士俣史子の本名のままで、これからはすべて表現していくこと。

それはすなわち、「武士俣史子」として生きていくこと。

そして武士俣史子という名前を持って生きていく覚悟を持つこと。 

38歳最後の日


【2017年9月30日の日記より】
「もしネットの情報が本当なら、私この人生が最後の人生になる。そう思ったら、全ては一期一会でもう次はないんだって、そうなると全てはまさに奇跡の連続で愛でもつながりでも出し惜しみしてる場合じゃないって、そう思った。」

 
私が子どもの頃大賑わいだったショッピングセンター脇の立体駐車場に来ていた。

最初その近くにいて、夕日が丁度沈む頃で、その辺りはごちゃごちゃと中途半端に高い建物たちがあってよく太陽が見えないから、それでその5~6階はある立体駐車場の一番上に上った。

今は閑散としているから屋上には私以外誰もいなかった。

夕日を見ながら色んなことを思った。

ネットの情報というのは、私は自分の身にあまりにもおかしなことがたくさん起こり出してきたから、それを調べて行くうちにそういう情報にたまたま行き着いた。

だけどそんなの確証はないし、気のせいと言われたらそうだし、すべて勘違いかもしれなかったから、まぁそんなのの真偽は正直どちらでも良かった。

でももし本当だとするなら、1つだけ納得できることがあった。

いつからか覚えてないけれど、とにかく38歳のある1人の人との出逢いの後から、目に映る景色ががらりと変わった。

色彩がとてつもなく濃い。

目に映る色んなものが「これは一生で一度の一期一会の景色です」と言わんばかりの様相を示してきた。

それは自分の年齢がそうさせてるのか、それともその人と出逢って感性が高くなったのか、はたまた別の理由かなんてわからないけれど、とにかく色んなものを見てうんと感動する。

そして何でもかんでも「これが最後かもしれない」という感覚がやたらと出てくる。

それは単調な仕事の時でさえ、もう見れるのはこの空気のこの場所にいれるのは今が最後だと思うことが本当に多かった。

その後も、私の目を見て書でメッセージを書く人に出逢ったり、名付け親のおばちゃんに再会したり、自分の名前とそこに宿っているだろう使命の関係性みたいなのを調べ始めたり、命の授業のイベントに参加したり、オルゴナイトを紹介してもらったり、ホロスコープ鑑定を受けたり、私自身の体から私の潜在意識からの声を伝えてもらったり…。

これまでの人生の中には全くない要素がどんどん人生の中に流れ込んできた。

そんなの38歳になった1年前の誕生日には全く想像も予定もしていないことばかりだった。

 
38歳最後の日の土曜日の朝、1本の電話がかかってきた。

相手はずっとずっと何年にも渡ってお世話になっている年上の女性Sさんだった。

Sさんの先に繋がっている人で、特定の使命を持って生まれてきているかどうかを調べることができる人がいる。

Sさんも最初は適当にその話を聞き流していたらしい。

だけど何回も話が出るからそれである日調べてもらったとのこと。

Sさん、Sさんの娘さん、Sさんのお孫さんの3人が該当していた。

特定の使命というのは私もよくはわからないけれど、まぁそれゆえというかとにかく波乱万丈な人生になりやすい。

色んなことが起こるし、それはのしをつけて返したいようなことばかりだけれど、それは結局使命に繋がるところにすべて通じている。

お孫さんなんてまだ2歳になったかならないかだけど、もうそういう人生を想定した人生に今後なっていくらしい。

娘さんはまだ10代だけど、私から見ても何か大きな役割を持って生まれてきている子なんだなというのはわかる。

愛情いっぱいの家族の元に生まれてきてもとてつもなく色んなことが起こっている子だから、そして普通の同世代の子たちが通過する道を歩まないようになって早数年、これは何か意味があって起こっているとしか思えない状況を私も間近で見ていた。

で、そのSさんが2月のいつだったかに「ぶっしーちゃんも多分そうだと思うの」と言ってきた。

Sさんいわく、調べて欲しいと自ら言う人たちというのはみんな違うらしい。

色んな人たちのことを頼まれた分全部調べてもらったらしいけれど、該当しなかったとのこと。

逆に「この人そうかも」とSさんがぴんときて、それで本人の了承を得て調べてもらった人は反対に該当するとのこと。

私も興味本位半分、逆に「違う」と言って欲しいの半分で調べてもらった。

「違う」と言って欲しかった理由は、そういう使命はいらないし、色々現実とすり合わせていくのも大変そうだし、そもそもそんな能力やキャパシティ私にないと思ったから。

誕生日の数日前、Sさんが23時過ぎに「今電話できる?」とラインしてきた。

私はその辺りでSさんから心理セラピーみたいなのを遠隔で受けて、それで異常な眠気に襲われていたからその日は早々と寝ていて、気付いたのは真夜中の3時過ぎとかだったと思う。

それ見て、なんとなく予想はついた。

Sさんはそんな時間に「電話できる?」なんてまず言ってこない。

そう言うってことは、電話してまで伝えること。

伝えなきゃいけないこと。

そんなの最近の中ではそれぐらいしかない…。

それで何だかんだと延びて、それで電話で話すことができたのが誕生日の前日、38歳最後の日だった。

「ぶっしーちゃん、やっぱりそうだったよ。
ぶっしーちゃんもそうで、そして娘は今月以降、私は来年の1月以降にそのタイミングが始動するって説明されたけれど、ぶっしーちゃんは『もういつでも受けれます』って言われたから、だからもうすでにその状態になってるってことだと思う」

その辺りは私も細かく突っ込んでないから未だに何も知らないけれど、だけど1つだけすごく気になることがあった。

それは調べる前から言われたこと。

仮にその使命で生きていくということを選んだ場合、この今の人生が人間としての最後の人生になること、もう輪廻転生はしないこと、それも同時に選ばないといけないということだった。

本当に何をぶっ飛んだ話かと思われるけれど、あの秋の日に「この人生が最後の人生になる」と突然思ったことと一気に繋がった。

そして当たり前だけれど、それは本人の意志に基づいて選べるから、そこに進まないというのももちろんOKだし、それも決断の上進むというのでも、本当にどちらでもいいと言われた。

ちなみにあれからそのことはそっとしてある。

積極的にぐいぐいといきたい感じではないから、何か言われない限りはしれっとしてようと思ってる。

そんなこんなの話を聞いた後、私は日帰り温泉へと出かけた。

その日もぽかぽかしていて気持ち良かった。

空は青、山の色はくっきりはっきりとしていた。

その日も片道60kmほど運転したと思うけれど、目に映る全てがあまりにもきれいで涙が出た。

その日も元気で、外に出るための車があって、そしてお願いもしていないのに天気は晴れで、目に映る色んなものが命を宿していて、とにかく見るものすべてが奇跡の集合体で、何だか意味も分からず涙が溢れ出た。

その日の最後、『人生フルーツ』という名のドキュメンタリー映画を見に行った。

いつかの喫茶店で地域情報誌にその上映会のことは掲載されていた。

誕生日の前日で、何か意味があるのかなと思った。

そのチケットを買いに行った日のこともよく憶えている。

前日の金曜日、仕事が終わってから駅の中の書店に前売り券を買いに行った。

駅前のパーキングに入る2つ前の信号あたりから満車を表す「満」という赤い文字が見えた。

直前の長い赤信号で止まっていた時も「満」のままで、そして誰も駐車場にこなければ車が出る気配もなかった。

その後友達の娘の家庭教師も控えていたから、あまりのんびりとはしていられなかった。

空くといいなぁと思いながら駐車場前に着いたまさにその時、1台の車が出ようとした。

私が駐車券の機械の前に着くのとほぼ同時に、その車は清算をしていた。

だからすぐに駐車することができた。

そして書店に向かった。

レジで前売り券が欲しい旨を言うと、「少しお待ちください。まだあったかな…」と言われていた。

そのファイルを持ってきて店員さんが「ありましたけど、後半の19時からの分で1枚しかもうないんですがそれでもいいですか?」と聞いた。

まさに私の欲しいのはそれで、自分ひとりで行くから1枚で十分だった。

それを見て、もうそこに行けってことだろうなぁと思った。

行けない時はどんなことしても行けない。

でも行く必要がある時はどんなに有り得ないことでも行けるようになっている。

そうして手にした1枚だった。

実際に見てみて、90歳と87歳の老夫婦の日常が撮影されていて、そして最後の方で実
際に90歳のだんなさんが亡くなられるけれどその後も人生は続いていった。

その夫婦のやりとりもそうだし、日常の生活も、そこに登場する色んな景色や歴史も、普段の食卓も、もう私はそのすべての虜になって見ていた。

特別なものは時々あるけれど、普段の生活は単調と言えば単調。

だけどその生活をとことん慈しんで大事にしている。

その姿が私にはツボだった。

そして途中で戦争の時に知り合った台湾人の男の子(20歳前後)が政治犯として捕まって1950年頃処刑されて死んだことを知った。

その子はそのだんなさんに手作りの印鑑をプレゼントしていて、そのご夫婦はすべての契約でも何でも数十年に渡りその印鑑1本で済ませてきたとのこと。

それを本人に返そうということで、2人でその子のお墓参りをしに行くシーンがあった。

普段おだやかなだんなさんが泣いてたのはそのシーンだけだった。

当時みんなで口ずさんだ歌を歌いながら、印鑑を埋めるために土を掘りながら、声を震わせて泣いていた。

見終わった後、不思議な気持ちに包まれていた。

朝、生きてることだけで奇跡だと思ったのと似ている感覚だった。

 
これを書いている3月18日はすでに39歳になっていて、色んなことが相変わらずではあるけれど、覚えている限りの38歳最後の日を残したくて書いた。

2018年2月17日土曜日

助けられた奇跡のいのち


最近とみに出てくるシーンがある。

私は子どもの頃誘拐されかかったことがある。

時間にしたら多分10~15分程度、でもしっかり記憶が残っている。

そしてそれを思い出す度に、自分の命が救われた奇跡をすごいと感じる。

 

すぐ下の妹はいたけれど一番下の妹はいなかった気がするから、多分4歳頃だと思う。

その日父の友達がうちの家に飲みに来ていた。

母は用事があって近所のケーキ屋さんの家に夜出向いていた。

お酒を飲んでいる父に「おかあさんをむかえにいってくる」と言って家を出た。

近所のケーキ屋さんは大人の足で歩いたら1分で行ける距離。

子どもの足でも5分とかからないと思う。

家を出てすぐ隣りの機織りのおうちを過ぎた角を曲がる手前のところで男の人につかまった。

その辺りの記憶はうっすらとしかないけれど、相手はおじさんではなくお兄さんだった。

子どもがお兄さんと思うぐらいだから、若い人だったと思う。

その人は私を抱えあげて「犬を見に行こう」と言ってきた。

私は当時から動物がとても苦手で「みにいかない、イヤだ!」と全力で抵抗した。

子どもだから変と思っても何が変なのかわからなかったし、当時は隣り近所みんながみんな知ってるみたいな時代且つ地域でもあったから、その人に声をかけられても危ないと思わなかったのかもしれない。

私はそのままその男の人をふりきってケーキ屋さんの家に行くつもりでいた。

そうしたらその人は私の脇の下から私を抱き上げ、十文字固めをするような感じで抑え込んだ。

私はわんわんと泣いていやだいやだと言ったけれど、すぐに口も手で塞がれてしまった。

塞がれても私は声を出そうと必死だったし、足もじたばたさせた。

そんな状態の私をその男の人はずっと抱えたままそれこそ数百メートル歩いた。

火事場の馬鹿力じゃないけれど、人間が自分の欲求を満たすためなら、20kg弱の重さのじたばたしている子どもを抱えて歩くことも可能になってしまう。

 

あれはどういう巡り合わせだろうと思う。

すべてが1秒の狂いもなくその通りに起こった。

そのことがなければ私は自分が今頃本当にどうなっていたんだろうと思う。

命さえもなかったかもしれない。

 

そんな私を数百メートル抱えたまま、その人は近所の本屋さんの前を通過しようとした。

思うに、他の店は全部閉まっていたから、時間は21時前後だったと思う。

本屋のいなとよのおばちゃんは、店じまいをするために店頭の商品をシャッターが閉まるように動かし始めていた。

いなとよのおばちゃんは男の人に口を塞がれて抱えられている私の姿を一目見るなり血相を変えて「あんた何やってんの?」とものすごい怒声を上げた。

全体的にふくよかなおばちゃんではあったけれど、普段穏やかで優しいおばちゃんからは想像もできないような声を張り上げていた。

「その子を離しなさい!」と言って、そして男の人もびっくりしたのか、あっさりと私を離して走ってその場から立ち去った。

その後いなとよのおばちゃんが私を家に連れて行ってくれて、それですべては事無きを得た。

おばちゃんのところには親に連れられてよく行っていたし、子ども用の本もそこで何回か買ってもらったことがある。

私が武士俣さん家(ち)のふみこちゃんだということはよく知っているおばちゃんだった。

 

お店にも何回か行っているから知っていたけれど、おばちゃんは普段は入り口入ってすぐのところで店番をしていた。

それは通りに対しては背中を向ける形で、そしてそれは通りからは1.5メートルほど離れているところにあった。

当然おばちゃんは店内にいるわけだから、おばちゃんの背中のすぐ後ろは、内と外とを隔てる壁で覆われている。

子どもの頃の記憶だから若干怪しいけれど、私はおばちゃんが外に出ていたところは見たことがない。

いつも中にいて、中でゆったりと店番をしていたその姿しか記憶にない。

だからあの日あの瞬間、丁度店じまいの時間でおばちゃんが外に出ていて、そして通りがすぐ目に入る場所にいてくれたことは、ものすごく奇跡的なことだった。

普段通りの場所にいたのなら、おばちゃんはその男の人にも私にも気付かなかっただろう。

だけどあの時は色んなことが偶然に偶然を呼んで、1秒の狂いもなくその通りのことが起こった。

しかもあの本屋さんの前を通ってもらわないと困る。

道は他にもたくさん選択肢があったけれど、なぜかあの道だった。

そしてそこにはものすごいタイミングでいなとよのおばちゃんが待ち構えていた。

そしていなとよのおばちゃんは私が武士俣さんちのふみこちゃんだということをよく知っていた。

そんなこんなの有り得ないことだらけで私の命は助けられた。

 

今日2018年2月17日、今頃は始発の新幹線に乗って妹が2歳の姪っ子のメイを連れて金沢から帰ってくる。

パン職人の義理の弟は急遽また三重の方の店舗の手伝いに駆り出されて、おとといから三重に行ったらしい。

それが1週間なのか10日なのかわからないけれど、メイと2人でいるよりも実家に戻って大人の手があるところにいた方がいいと思ったのだろう。

両親にしたらメイしか孫がいないから、溺愛する孫が帰ってくるとなり、2人は大喜びでメイを迎える準備をすぐに整えた。

私もこれから来週末くらいまではメイとの濃密な毎日を送ることになる。

また「足がしゃがしゃ」「かいーかいー」などと訴えてオイルマッサージをさせてくれるだろうか。

「だっこっこ」と言って抱っこをせがんでくるだろうか。

「ドラえもん見たい」とぼそっと小さな声で言ってまたエンドレスドラえもんタイムの刑になるだろうか。

作家の吉本ばななさんがいつかのエッセイの中で「死んだ時に持って行けるものは思い出だけ」と言っていた。

本当にその通りだと思ったし、その最後の時までどれぐらい素敵な思い出をたくさん作れるだろう…と考えると、実はそれが人としてやるべき唯一の仕事なのかもしれないとさえ思ってしまう。

社会的なことではなく、本当に自分の大切な人たちといかに巡り合っていかにその人たちと大切な時を刻めるか、それが本来はすべてでもいいのかもしれない。

これから数日に渡りメイと思い出を作る。

4月からは保育園に行くらしいから、もうこんな風に長期で実家に帰ってくることもそうそうないだろう。

それもあって両親は帰ってくることを心待ちにしていた。

そういう思い出作りもあの日あの時いなとよのおばちゃんが助けてくれなかったらありえないことだった。

他にも9・11のテロの時の直前に私はあの世界貿易ビルの前に行ったり、2004年の中越地震で崩れた崖の中から2歳の男の子が助けられたけれど、まさに次の日私はその同じような時間帯にそこを通る予定でいた。

そしてなんと前日も似たような時間に全く別の用事でその道を通っていた。

どちらも一度きりの用事で、何であの時にそのことが集中したんだろうと運命のいたずらとしか思えないことが重なっていた。

なぜなら当時の普段の生活ではそこは通らないどころか行くことさえもない町だったから。

だけどあの時は、前日は職場で仲良くなった人たちと秘密裏で行った旅行の帰り、翌日は今度は福祉の現場実習をその日から始める予定でいてそれで通る道だった。

九死に一生を得るじゃないけれど、私はいつもすんでのところで命が助かっている。

助けられていると言う方が近いかもしれない。

見えない存在から見守られているという感じも、今ほどにそういうことに全く興味がなかった頃もそう思っていた。

自分の命が普通にあることが普段は当たり前になっているけれど、本当はそうじゃないことを私はそういう体験から本当は知ってるくせしてまたすぐに忘れる(苦笑)

だからなのか何なのかは知らないけれど、私は20代の頃からやたらと「命あっての…」と思うことが多かった。

命があって色々体験できること。

自分の命があって他の誰かの命があって、その命と命が交じり合って何かの瞬間が生まれること。

それは思い出かもしれないし、笑いかもしれないし、涙かもしれない。

だけどそれが本当の本当に特別であることは、普段忘れていてもふとした瞬間に思い出すことがある。

オリンピックでメダルを取るとかそういうこともすごいことだと思う。

だけどそんな大きなことじゃなくても日常の中に奇跡はいっぱいこと詰まっているし、そしてそれに触れるたびに何か大切なものが自分の心にそっと染み渡っていく感じがする。

 

とか良いこと書いているけれど、多分これからやってくる怪獣メイとの日々に、生気を吸い取られてぐったりとしている自分の姿が目に浮かんで仕方ない。