大阪に「あいりん地区」と呼ばれる場所がある。
日雇いの人や路上生活者、生活保護を受ける人たちが大勢集まる地区と言われている。
何年か前、友達が案内してくれて、「ぶっしー危ないからあまりジロジロ見ないようにね」と行く前に念を押された。
実際に行くと、ぱっと見民宿のような宿泊施設がたくさんあって、どこも大抵「1泊○○円」と宿泊料金の表示が掲げられていた。
そこが他の観光地やビジネスホテル街とは大きく違うなと思った。
高くはなくても安くもなかった気がする。
ちょっとした公園みたいなところでは炊き出しの配給があって、みんな手には器を持って律儀に一列に並んでいた。
まるで戦時中のような配給風景だった。
友達いわく、NPOやNGO団体が入って、色々とサービスを日常的に提供してるらしかった。
昼間から営業している居酒屋もあちらこちらにあって、すでに中にはお客さんがいた。
結構な人数が入っているお店もあった。
私はこのことを過去にブログで書いた気もするし、書いてない気もする。
案内してくれたのが大阪で地震のあった日に電話をくれたKちゃんだったから、それで思い出してた。
私はぶっちゃけあいりん地区の方が健全な気がしたぐらいに、名古屋でもっとやばい場所を見てきた。
その時のことがやたらと鮮明に記憶によみがえってきた。
今も流行りなのかはわからないけれど、大人が集えるコミュニティスペースに行ったことがある。
名古屋にいた頃、当時仲良くしていた女の子がこの場所ぶっしーもしかしたら興味があるかもだから連れて行ってあげると言われ、連れて行ってもらった場所だった。
名古屋の中でも一等地のオフィス街の一画にあって、建物はキレイだったし、中もとても整っていた。
外見や清潔感だけ取れば、あいりん地区の100倍綺麗だった。
中ももちろん綺麗にしてあって、自由に会員は出入りできるシステムになってた。
ショッピングモールとかにありそうな占いブースのような席が端っこの方に2つか3つ、あとは10人程度の人が入れそうなミーティングスペース
あとは談話できるようにソファーとローテーブルのセットが数セット配置されてた。
私が行った時は、その占いベース風のところに1組の女性たち(多分何かしらの個人セッション)、あと数人のグループでワークショップか打ち合わせをしていた。
友達と私は、その日の管理者の人からそのスペースの使い方の説明を受けてた。
会員になって月会費なり年会費を払って自由に出入りするか、又は1回いくらという形でお金を払って行きたい時だけ利用する、又は色々イベントをしてるからそのイベントの時にだけ利用するのパターンがあったと思う。
イベントは、ビジネス系のものからスピリチュアル系のものまで幅広くあったような気がする。
スターバックスではないけれど、家でも職場でもない第3の個人のスペースとして確立されてる場所だった。
自由に出入りする人たち同士で仲良くなったりもします、とか言ってた気がする。
説明をしてくれたのは30代ぐらいの男性だった。
当時の私と年が近かったと思う。
私がその説明の時に一番気になったことは、その男の人が何回も何回もことある毎に
「ここ居心地いいでしょう〜(ニコニコ)」
と言ってくることだった。
朝活やら読書会、スピリチュアル系のワークショップ、本の勉強会、コーチング系のセミナー、ビジネス系のセミナー、自宅サロンでの小規模の会、あらゆるタイプのものに出まくっていた当時の私は、そこが人生の中でワースト3に入る居心地の悪さだった。
実際に2位かな。
(思い出しても断トツ1位の所とそこの2つしか思い出せなかった)
それとは別に、当時は月1ないし2ぐらいのペースで色んな繋がりの友達が私の狭いアパートに泊まりに来てくれてたから、私は人を受け入れることに関しては慣れみたいなのがあった。
大学4年の時に住んだ家とドミニカで住んだ家は、色んな意味で集まりやすい家だったから(立地+広さ+ルームメートの性格)、ある種のパーティーハウスと化していた。
私は提案しない(そういうのとても苦手)。
周りの誰かが提案して、じゃあフミコの家で!みたいな流れで決まってた。
だから、人を家に入れることもある意味私は慣れてた。
そんな私は、そこにいた小一時間の間、ずっと落ち着かなかった。
はじめソファーの座り心地の問題なのかと思っていたけれど、そうではなかった。
すごく綺麗にしてあるし、窓から光も入ってくる。
なんだけど、何かが大きく違っていた。
居心地いいでしょう〜と言われる度に、私は寒気がしそうなぐらいだった。
当時も感じたし、今も感じてることだけれど、そこは居場所のない大人たちが集う場所という感じだった。
大人になると、なかなか人と繋がるのが難しいのはわかる。
ましてや本音で繋がろうとしたら、相当難しい。
家にも居場所がない。
職場にも居場所がない。
本音で話せる友達のような存在もいない。
そういう人たちがやって来る、そんな感じを私は感じた。
そしてこれも言い過ぎかもしれないけれど、そこに来る人たちは何となくどんな場でもどんな人とも繋がれない人なのかもしれない、と思った。
ごくたまに、この人何かが大きくズレてる、ズレが個性ではなく周りからすると不協和音だから逃げたくなる、という人を見かける。
その手のタイプの人が来そうな感じを私は印象として受けた。
これは私の持論だけれど、大人になってから知り合って友達になれた人たちに共通していることがある。
どの人も自分なりのやり方で孤独と向き合っていること、イコール孤独から逃げないこと。
そしてもう1つは、1人の時間も楽しめること。
この2つができてるんだと思う。
そういう人たちと集まるとわかる。
一緒にいる時間を大切にする。
話したいことを話したいペースで話す。
相手が言わないことは無理に聞き出さない。
沈黙も共有する。
自分のペースがあるから、人にその人のペースを押し付けることもしなければ、かと言って周りに合わせて自分のペースを変えることもしない。
その辺りが絶妙で、すごく居心地がいい。
そして私はただの一度も自分の家に人が来た時に「うち居心地いいでしょう?」なんて聞いたことも言ったこともない。
名古屋の狭いアパートの時は「狭くてごめんね」ぐらいは言ったけれど、それ以上は言わない。
居心地いいでしょう?なんて、逆に怖くて聞けない。
居心地悪くても、「いいでしょう?」なんて聞かれたら「うん」って相手は言わざるを得ないじゃんと思う。
私も色んな家や公のスペースにお邪魔させてもらったけれど、そこ以外で「居心地いいでしょう?」なんて聞かれたことはない。
場の浄化方法を紹介されたことはあっても(←勉強会の会場の匂いがあまりにも気に入って質問した人)、だからと言っていいでしょう?なんて言われなかった。
そこまでして何かを言葉で言わないと伝わらないとでも思っているんだろうか?
そこまでしないとこの人不安なんだろうか?
それとも取り繕ったものを良いと言って欲しいんだろうか?
私からして「造られたもの」だった。
人と人とが集う時の空気感は、基本的に自然と作られる。
ビジネスの場とかでは難しくても、個人的なスペースにおいては自然と空気感が織りなされる。
もちろんインテリアとかも大切だけれど、最終的に人と人との間に居心地の良さが作られたら、場所なんかどこでもいい。
どこでもそれは生み出せる。
そういう意味で、冒頭のあいりん地区は、取り繕うことなくありのまま、そこにいる人たちがその場に佇んでいたから、雰囲気は独特でも、あの名古屋のスペースみたいな居心地の悪さはなかった。
むしろ健全さを比べたら、あいりん地区の方が私にははるか上に見えた。
あの名古屋のスペースは、見た目がきれいで、いる人たちも基本は人が良さそうだったから、余計とタチが悪い感じがした。
きれいで良いものの裏側に、多分相当歪み(ひずみ)があるのと、それを否定しようとするエネルギーが出ていたんじゃないかと思う。
人間、そんな綺麗事ばかりではやってられないから、と思う。
居心地悪いねここ、と言えないような雰囲気の方がよほど不健康だわと私は心の中で毒づいてた。
社交辞令のように私もニコニコと嘘笑いを浮かべていたけれど、一刻も早く帰りたくて仕方なかった。
出てから友達には、あの場所が私的には合わないことを伝えた。
そして始終居心地が悪かったことも告白した。
友達は全く気にしてなくて、じゃあもう行かないから大丈夫だね、と言ってくれて助かった。
友達は友達で、面白いことをやってるスペースではあるけれど、私も特段そこまで興味がないからもう行かないかな…と言ってた。
家に着いてからもらった資料の中の今月の予定表みたいなのを見た。
それ見て、あそこで感じた雰囲気とその予定表が示す内容の一致具合がわかった。
予定表の中に知ってる人がいて、その人がイベントをすることを知った。
その人というのが、自分の名前を変えた人だった。
名前は忘れたけれど(本名もビジネスネームも)、有名になる前に名前を変えた方が良いと自分のビジネスの師匠だかメンターだかに言われて、自分もそうしてるとのことだった。
その頃すでに色んなタイプの人たちに会っていたから、私にはその人がその手の出世タイプには見えなかった。
私はその人とマンツーマンで会った記憶があるけれど、何を話したのかまたはその人が何を言ったのか、さっぱり覚えていない。
私から見て「この人すごい!」と思う人たちは、皆それぞれ抜きん出た何かを持っていた。
言葉で出てくる人もいれば立ち居振る舞いで出てくる人、グループをまとめてる時に発揮する人、まぁ色々だけれど、その人はとにかく物から入っていくようなタイプで、中身が全く伴っていない、と大変失礼なことを感じたことは覚えている。
その人が自分の講座をする時に選ぶスペースなんだと知って、そしてあの案内の「ここ居心地いいでしょう?」を連発した男性を思い出して、なるほどと思った。
2人とも何か大切なものが抜け落ちてる。
それはどんなに良く見せても、絶対に隠せない何かで、その隠せない何かが多分あのコミュニティスペースに出ていたんだと思う。
大阪のあいりん地区にはないものだった。
あそこは確かにマスコミに取り上げられるような話題を持った地域かもしれないけれど、誰もそこにある雰囲気を隠そうとはしていなかった。
他に良い表現が思いつかず、それを例にするのはどうかと思ったけれど、わかりやすいのは「スケベ」か「むっつりスケベ」か。
スケベの方が健全な感じがするし、むっつりも単に表に出さないぐらいならいいけれど、それが小児性愛とか暴力性を含んだものとか、犯罪と絡まってるようなものは本気で怖い。
あの名古屋のコミュニティスペースで見たものは、そのむっつり系のけっこう危ないにおいを醸し出してる感じのものだった。
人と初めて会う時(=出会いの時)、「この人苦手」というのがある。
単に苦手と感じた人とはその後仲良くなったりすることもある。
だけど苦手の理由が「なんかこの人危ない」と感じる人は、私は離れる。
そして危ない人たちはやっぱりその時はわからなくても後々に何かしらやらかしてて、そのやらかし具合が噂で耳に入ってくる。
すごく無茶なまとめ方だけど。
最近は、過去の色んなことが思い出される。
思い出そうと思って思い出すんじゃなくて、ふとしたきっかけで思い出す。
あいりん地区のことも名古屋のコミュニティスペースのことも、はたまた友達の洗脳騒ぎや自分の体の感覚、色んなことが今は点でしかないけれど、もう少しで1本の線に繋がる気がしている。
頭で考えると、もっと生産性の高いことをしたいと思うけれど、来るものがそうではないから、もうあきらめて来たものを思い出したり振り返ったりする。
あいりん地区にはなくてあの名古屋の小綺麗なコミュニティスペースにあったもの、あの差がとても大切なことを私に教えてくれようとしてるんだと思う。
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