2018年6月23日土曜日

手紙と死ぬ間際

昨日海に行った際、手紙を持って行った。

海で振り返りなんて粋だと思った。

晴天のさなか、日焼けは絶対に避けたかったから、日陰+誰もいないところを探した。

あっさりと見つかって、海と川の境い目の上にかかる陸橋の下があった。

そんなところ誰もいないし、海も見えるし、座るところ(コンクリート)もあるし、日陰。

言うことなしだった。

ところが予想に反して寒かった。

潮風は冷たすぎて、途中から寒さが気になりだして、色々集中できなくなった。

とりあえず手紙を封筒から出して読んだ。

4枚目で嫌になり、やめた。

渡された人はこの手紙をどうしたんだろう…と思った。

最後まであの勢いに任せて書かれた起承転結のない、だから何だ?とツッコミどころ満載の手紙をどうしたんだろう。

最後まで読んでくれたとしたら、 それだけで神対応だなと思った。

そこには去年の夏の記録が記されている。

もう永遠にやって来ない瞬間たちが詰められている。

私の文字の向こう側でどんな顔して何を感じたんだろうか。

迷惑極まりないことも重々承知してた私は、最後に邪魔なものならシュレッターにかけて欲しいとお願いした。

私なりの気遣いだった。

けれど、その最後にまで行き着いたんだろうか。

久しぶりに読めば、新鮮な気持ちで読めるのかと思ったら大間違いだったことに気付いた。

これはある種の嫌がらせにとられてもおかしくないなと思った。

私の扱い方の問題もあって、封筒はかなりボロボロになっている。

手紙本体は、余計な空気が抜けてペタンとなっている。

数日前から私は突然スイッチが入って、昔の手紙を処分し始めた。

もちろん全部は処分しない。

その手紙たちは、周りからおばあちゃんと呼ばれるような年齢になった時、読み返す楽しみ用に取っておいてある。

たまに手紙を渡しそびれたり下書きしたと思われるものも出てくる。

それは基本的に処分。

高校生の私が書いたものの大半はくだらない。

読みもせず処分用の大きな封筒にどんどん入れている。

それに比べたら、昨日海に持って行った下書きの手紙はまだ新しい。

でもそれもいつか私は自分のこの手で処分するんだと思う。

最近時々考えてることだけど、自分が独り身で死ぬとしたら、遺品の処分の仕方を考えないといけないんだなと。

1人で死なないのであれば、相手にやってもらうということではなく、相手の意向も聞くのかな…なんて想像しなくもないけれど、まぁ基本は1人で死ぬと想定した方が今は想像しやすい。

そういう意味ではこの下書きの手紙は絶対に自らの手で処分するから、ただ時期が早いか遅いかの違いだと思ってる。

ちなみに私は、自分がある日突然死んだとしたら、特に今なんか物の管理がなってないから、お手数ですが何でもかんでも処分してください、という気持ちでいる。

死の話題を出したついでに、私が忘れられない夢の1つを話したい。

多分見たのは今から5年か6年前。

夢の中の私は、それが私だということはわかったけれど、それが今の私なのか、未来のこの人生の終わりを迎えている私なのか、それとももう命がすでに終わっているある時に生きていた過去世の私なのか、その区別はさっぱりつかなかった。

だけど、それが自分自身であることだけはわかった。

私は知らない空間、病院みたいなところなのか、殺風景で壁も布団も白くて、ベッドの上に仰向けに寝ていた。

目も閉じていた。

私自身ははっきりと自分がこれから死ぬのはわかっていた。

これから死ぬの死ぬは、長くてもその日のうちに、早ければ数分後みたいな、死の迫り方だった。

私の右手は布団から出ていて、ダランと下に垂れそうなそんな風だった。

その手を誰かは知らないけれど、誰かが握ってくれていて、そしてそれを見て私は「良い人生だったな」と喋りはしないけれど静かにでもはっきりと思っていた。

自分の命が絶えようとしているその瞬間に誰かがそばにいてくれて、肉体は弱りきっているから力がないんだけれど、それでも握ってもらっている手には力を感じていた。

私は自分が完全に死ぬ前に目覚めたから、夢の中ではその手をずっと握ってもらってるところで終わっていた。

たったの一度しか見たことのない夢ではあるけれど、ものすごく強くて強烈な印象を残したものだった。

夢から覚めた後も、私は本気でそんな風にして最後を迎えたいと思った。

もし1人でも私の死の瞬間に一緒にいて、そして手を握ってくれるような誰かがいたら、私の人生、本気で御の字だと思ったし、今でも思ってる。

今スイッチが入っていて処分してる手紙とは別に残す手紙に関しては、単純に老後の楽しみを想像できる。

でも昨日海に持って行った下書きの手紙の方は、イメージ的にそのいつか見た夢の中の死ぬ間際のシーンと重なる。

老後の楽しみではなく、自分が生きた軌跡で、そして命が終わったら本当に終わりになる、それをものすごく意識させられるものだったりする。

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