30代の色々意味不明なことたちを経て、私の多分元から備わってたことが表面化してきた。
プラスして、子どもの頃から当たり前のことが実はみんなはそうじゃないとわかったのも30代に入ってからだった。
それを今日は紹介したい。
ざっと一覧にすると。
・共感覚
・話を聞いてる時に相手の大切なポイントに触れるとお腹周りの体温が上がる+他にも体の反応あり
・話を聞きながらひたすらメモ。そしてそこからその人のテーマが出てくる
・相手の感情が飛んでくる
・嘘発見器じゃないけれど、この人嘘言ってるなとかは大概わかる
・カードを読む
・起こっている出来事の別の意味を捉える
・物からメッセージをキャッチする(物との対話とは別)
・予知夢、デジャブ
・エンパス
・HSP
・相手の潜在意識をキャッチ。その人の悩みのヒントや答えが瞬時にわかる
(クレアコグニザント)
・ペンジュラムとの対話
・物との対話
多分これで全部。
1つの記事で全部を説明するのは長くなるから、いくつかに分けて紹介(の予定)。
名前の付いてるものもあれば、名前がないから文章で書いたのもある。
もしかしたら名前があるのかもしれないけれど、現時点では不明。
あと例えば「相手の感情が飛んでくる」なんてのは、他にどう言葉で説明したらいいのかわからないから、とりあえずの言葉をはめてみた。
最後のペンジュラムや物との対話はこのブログの中でかなりたくさん書いてきたから今回は省略。
◎共感覚
聞き慣れない言葉かもしれない。
私が知ったのは、朝活でだったと記憶している。
今振り返るとそのためにその朝活に出たんじゃないかと思った。
確か私が朝活に出れるようになったのは、10回ほど出した退職届が全部受理されず途方に暮れてたら、上司が正社員から契約社員への変更をするからそれで次の人が見つかるまで続けて欲しいと言われてからだったと思う。
朝7時に家を出て夜は日付が変わらないうちに家に着いたら御の字、年間盆正月合わせて50日しか休んでなかった正社員時代(←スーパーブラック)から、給料は確かに減ったけれど福利厚生とボーナスはそのまま、出勤日数は私が全部決めていいとなって、平日8時間×4日と土曜日午前中だけ、計4.5日/週という働き方に変えた。
その働き方に変えてからの方が売上アップ、契約率アップしたんだから、会社も働き方改革したらいいのにと思った。
そんな働き方で、平日は毎日午後2時過ぎに出社だったから、ようやく悲願の朝活に出れるようになった。
普段は指定された本を事前に読んでそれについてのシェアリングみたいな読書会に参加してた。
共感覚について知った読書会はたった一度しか出たことがなくて、それは他とは違ってた。
その1回の読書会は、自分が気に入った本を持参してそれを他の人たちに紹介するというものだった。
ヤバイ、本題に入る前に余計な記憶がボロボロと出てくる 汗。
今何を思い出したかって、その時に私が紹介した本を、この3月まで勤めてた派遣先の会社の事務所の中にいた新入社員の男の子にそれと同じ本を買って押し付けてきた。
そこに触れると共感覚の話に行き着かないからやめるけれど、そんなことをふと思い出した。
その本を紹介する朝活では、主催者の私より少し年上の女性含め男女数人の方が参加してた。
その中の男性の1人、技術職とかの人だったような記憶があるけれど、顔とかも覚えてなくて穏やかそうな真面目な感じの印象しか残ってない、その人が共感覚の本を紹介してた。
共感覚というのは、字のごとく、2つの感覚が同時に起こることを言う。
その方がざっくり紹介されたのは、数字を見た瞬間それに特定の色や音が一緒に感覚として出る人とか、音を聞くとそこに景色が広がるとか、そうした性質だった。
面白そうと思って、私も後日その本を書店で手に取って読んだ。
その本の中に色々共感覚の例が挙がっていて、何かを読む時に声が聞こえるのも共感覚の1つだと知った。
私はそれを見て驚いた。
これはけっこういるらしいけれど(の割に私はまだ会ったことない)、とにかく何を読むにしても全部に音声が付く。
これが私の場合の共感覚だった。
というかこれを書くにあたって調べてわかった。
私の場合、日本語限定。
英語は日本語並みに音声が付くけれど、スペイン語はアルファベットの羅列を見ても音が聞こえなかった!
この聞こえない感じが多分一般的な感覚なんだろうなぁ、と今、本当にたった今知った。
私の話に戻ると、とにかく日本語だと何を読んでも、本だろうが新聞だろうが漫画だろうが社内の回覧だろうが、とにかくありとあらゆる書物を読む度に必ずそれらが同時に音読される。
しかも声は毎回違う。
人にその感覚を説明する時によく使うのが、ドラマの手紙のシーン。
遠く離れた母親からもらった手紙を主人公が読む時、途中から母親の声でその手紙が読まれたりする。
あのシーンのようなことが私の場合、全ての読み物で起こる。
どういう声なのかと言うと、本なら作者の声(男性・女性、若い・年配の差がある)、小説だと会話文とそれ以外で声は異なるし、漫画も登場人物ごとに違う。
新聞は、やや男性寄りの、でも中性的な感じの声。
これは本の難易度は関係ない。
絵本から超専門的な本まで1つの例外もなく読む時は全てに声が聞こえる。
私はその時までみんなもそうだと思っていたから、そんなことが共感覚に入ることさえ驚いた。
その後何人かの人に聞いたら、逆に「どういうこと?」と突っ込まれた。
それでその感覚がみんなにあるわけじゃないことを初めて知った。
聞かれた質問の中に、それって何か読む時に邪魔にならないの?というものがあった。
何せ子どもの頃から、物心ついた頃からそれだから、邪魔だと感じたことは一度もない。
そしてさっきスペイン語のフレーズのサイトを見て、何も音が聞こえないということを体験して、初めてその音のない世界を知った。
文字と音とがセットにならないってなんだか不思議だった。
ちなみに知らない漢字の時は2パターンある。
1つは読み飛ばす。
これはまだいい。
もう1つが厄介で、思い込みで読む。
今パッと例が出てこないけれど、私の読み違いはかなりな数があるから、後から本当の読みを人との会話から知ったなんてことが多々ある。
メールや手紙はもちろん、ツイッターやブログも。
声がそれぞれ違うのはどうやって私の脳がそんな判断をするのかはわからない。
でも何も考えずとも勝手に声は変えられてる。
この後も自分のその感覚についてシリーズで書いていこうと思う。
上に書いたことの共通点は、どれも人から習ってないということ。
物からメッセージをキャッチするとか出来事の別の意味を捉えるとかは、その見本を見せてくれた人がいたけれども、その人たちから習ったりはしていない。
ちょっとだけ見本を見せてもらって、後は自分ですぐにできるようになった。
そういう自分の性質を知るのも、徐々にで、そして上のいくつかは周りの人たちからの指摘で発覚したものもある。
自分の性質を知っていく作業は、他の出来事たちと関連していて、今振り返ると、私がそうした自分のちょっと変わった性質や体質を受け入れられる器ができると認識できるようになっていた。
私の場合、どれもこれも日常生活の延長で出てきたものばかりだったから、余計と特別感がなかったし、私自身の意識は常にほとんど変わらないから余計と分かりにくかった。
人との会話からキャッチする時はちょっとだけ違っていて、その時の私はあまり喋らないのと(下手すると本当に一言二言だけ)、相手の話を全力で聞いている。
だからかなり話やその時の空気に集中している。
でもそれだって力んでるわけじゃなくて、なるべく意識が逸れないように気をつけている程度。
そうだ…。
時々人から指摘されるけれど、「話聞いてなかったでしょう?」と言われる。
私は時々話の途中で意識が別のところに向く時がある。
気付いたら別のことを考えてた…みたいな。
そして戻ってくると、気付かぬうちに話が変わっていて、その自分の意識が別のところにある間どんな話がされてたのかてんでわからないなんてことが時々ある。
相手からしたら私が話を聞いてないってことになるけれど、私からすると意識が別のところに向いてただけ…。
と言うと怒られるから、その時は適当に相槌を打つ。
仲の良い人たちは「ぶっしー、話聞いてなかったでしょ?」と普通に突っ込んでくれるからいいけれど、そうじゃない人たちはどう思っているんだろう…。
書いてて、痛い大人の例みたいでなんか嫌だった…。
とにかく私の日常はこんな風にして成り立っている。
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