2018年10月22日月曜日

振り返りノート#つぶやき7

2018年10月20日(土)

>>>振り返りリスト

・生きる喜びだけじゃなく生きる楽しみを持つことがもたらされた
   ⇒これは最後の締めでもっと言葉足して書く予定


・またいつか書きたくなったら書く
終わりと決めるとちょっと苦しくなる
   ⇒本当は、この振り返りノートシリーズを書き終えたら、二度とその人のことは書かないつもりでいた。
だけど、それだとまた書きたくなったらバツが悪いから、一応(仮)で一旦は終わらせるけれど、絶対に書かない!ってしなくてもいいかなと。


・いつもその人が自分の中にはいて、それを否定したりおかしいと非難した瞬間も数え切れないぐらいにあったけれど、私は基本的にすごくしあわせだった。
そして思い出す度に癒しや幸福感をもらい続けた。
私はとってもしあわせだったと言い切れる。
   ⇒これは今回改めて思ったこと。否定した時も、悲しかった瞬間を思い出した時も、どんな時でも幸福感があった。


・うまくいけば良かった。でもうまくいかなくてもそれが全部ダメなんてことは全くなくて、むしろうまくいかなかったからこその経験をたくさんできた。
その人を知っている世界の方が、たとえ色んな悲しみや寂しさがセットでも、うんと良かった。
   ⇒大げさではなく、その人が人生に登場したことで、世界の色が変わった。
同じ場所で同じことをしていても、私の目に映るものは全く別物になった。
夜寝る前に「今日も1日良かった」と枕の上で思い、朝起きて一番に「今日も朝が来て嬉しい」と思いながら目覚めた。
悲しい瞬間も気まずい瞬間も、それでもその人が生きている世界の中に全てはあったから、私の中は常に満たされていた。
それが全部悲しみだったとしても、誰かと出逢わなければ持つことのできないものたちばかりだった。



2018年10月21日(日)月がキレイな夕方

>>>つぶやき

本格的に振り返りノートを始めたのが1週間前の土曜日だった。

たしかその頃、私は闘病日記のブログを何人か立て続けに読んだ。

ちょうど亡くなったばかりの人もいたし、1年前に亡くなって今遺族が振り返りとして書いていた人もいたし、もう終わりが近い本人が書いているものもあった。

どの人たちからも生きたくても生きられない、必ず終わりがあることを示されていた。

今日でおじが亡くなって丁度1年になる。

母はありとあらゆる日を忘れる人だけれど、今朝「兄が亡くなって今日で1年」と私に言った。

先日、母の妹弟たちが我が家に集結した時に、生前に言えなかった言葉を互いに言う兄弟たちの姿があった。

死んだらこういう話し合いには加われないんだな…と他人事のような気持ちで見ていた。

だから今書けることを書こう!なんてなったのとは違う。

闘病日記のブログもおじの死も何かしら大切なことを伝えてくれたけれど、決定的なこととは違っていた。

やっぱりこの振り返りの一番の原動力はその人の存在そのものだったと思っている。

「伝えたい」その気持ちだけで書いていた。

何にもならない可能性が非常に高いし、本当に単なる独り言みたいなもので、必要かどうかなんてのはわからない。

でも、
必要だからするとか、
お金になるからするとか、
自分や誰かのためになるからするとか、
生産性があるからするとか、
そういうことじゃない。

そんな感じのものとは全く別の次元でこの振り返りノートは展開している。

そして常々言葉の用意はしていないのに、いくらでも書ける。

書いても書かなくてもいいもの、だけど私が書きたいから書く。

究極のわがままがまかり通るものだった。

そしてどこまでも自分の気持ちに従って書けたから、とても純粋なものに仕上がったとも思っている。

この振り返りノートを書いていた時間、私は心から安心しきっていた。

子どもの頃から「ホッとする」とか「安心する」とかいう感覚を持ちづらかった、ましてや自分の心にあるものを吐き出す時はもっとドギマギして落ち着かない私が、この振り返りノートを書いている間中、ずっと安心していた。

安心しきって、自分の心に集中して、そして自分の中にある言葉に耳を傾けた。

それはその人の存在がもたらしてくれるマジックだと私は思っている。



2018年10月22日(月)

・その人のことに関して、悩みや心配からは完全に解放されてる。
その人をごはんに誘おうかな…という素敵な悩みもない代わりに、重大で気が重苦しくなるような悩みも全くない。

心配もない。

その2つから解放されてるだけで、どれだけ心が自由なんだろうと感じる。

おかげで、心は色々素直に感じることができる。


・過去に飛んでも心はいつも安全で、そして満たされている。

悲しかった瞬間さえも、今思い出すと心は満たされる。


・傷はない。
よく考えたら、どんなに冷たかったその人を前にしても、たしかに心は複雑骨折並みにボキボキと折れまくったけれど、その人に傷付けられたとは一度も思ったことがない。

私はその人を通じて色んなものをもらったけれど、傷だけはもらっていない。

あるのは
一緒にいられない痛み
一緒にいられない寂しさ
一緒にいられない悲しさ
一緒にいられない切なさ

・寂しさ・悲しさ・切なさは、「愛おしい」の別の表現だと思う。

愛おしいから寂しい。
愛おしいから悲しい。
愛おしいから切ない。

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