5月に立ち上げて放っておいたブログを再開した。
5月から9月まで延々と迷いながら、ほとんど書けなかったブログだった。
5ヶ月で書いた記事は5つ。
携帯メモに書いた記事をコピペして、一度全部削除した。
登録のところから全部やり直そうかと考えたこともあったけれど、それこそ面倒だからやめた。
代わりに、触ったところを全部削除して、真っ新な状態に戻した。
その真っ新なところに今日からリスタートすることにした。
5月に始めた方のブログは、自分でできる心のケアについてあれこれ書こうと思っていた。
自分のこれまでの積み重ねたものをアウトプットする、あわよくばそこから仕事を生み出して、集客的なものもできないかと考えた。
その意思やあれこれ付属の「あわよくば」的なところ自体は否定しなかったけれど、とにかくしっくりと来ていない。
そこから始まり、そのうち自分の書きたいこともブレ出し、自分は何を書いたり何を表現したいんだろう?と疑問を持ち、「書きたい」よりも違う気持ちの方が強く強く出てしまった。
そうなってくると、面倒くさいし、考えるのも嫌だし、そうまでして書かなくてもいい!となって、それで止めた。
このブログだけは書き続けているけれど、かれこれ2週ないし3週は手書きの書き物をほとんどやめた。
ホロスコープの調べ物もやめた。
天体の動きのチェックも激減、今は一日置きに1つ読むか読まないかぐらい。
(だから逃避行の料理ブログ熱が少しだけ復活した←多分また近々飽きる)
心理系の読み物もやめた。
全部ゼロにしようとしてることに気付きつつも多分やり過ぎで、少し前から左眉毛が円形脱毛症ちっくな症状を呈している。
(気付いてから1週間ほどした昨日から新しい毛がうっすらと生え始めてるから、今は快方に向かっているし、円形脱毛症は「気のせい」かもしれない)
下弦の月が2日だったから、その辺りから少しばかり変化が出てきた。
(一般的に下弦の月は自分にとって不要なものを手放していくイメージ)
発信しようがしまいが今すぐどうこうなるわけじゃない、そうなら今書いても得もないかもだけど損もないから書いてもいいなぁと思った。
もちろん損得の問題ではないし、それと書くことを結び付けることにも疑問は残る。
ただ、「損もないから書こう」というのは、「書きたくない」からしたら大進歩だった。
宝の持ち腐れ状態で、それを出してもいいかもしれない、もう何でもいいかな〜という気楽な部分が、ちょっとだけど顔を出すようになった。
意図が色々不純ではあるけれど、なるべくリスタートする時は「新月」とかの天体的に何かを始めるのに良い時を選びたい。
ちょうど9日の今日が新月だとわかった。
そこにしよう、そうしよう、書く内容も決まってないのに日にちだけ決めた。
書く内容は来たもの勝負で行くことにした。
その直前で私は何を感じたり何を体験するかはわからない。
だから書くきっかけが来るかもだし、来なければ来ないで「武士俣史子です。自分の心のケアを色々試しました。自分の気に入ったものたちをあれこれ紹介したいと思います」ぐらいな簡単な文章を書けばいいと、もう全てを流れに任せることにした。
そんな折に、母の兄である跡取り長男だったおじの一周忌が日曜日にあった。
私は「昼飲み+映画鑑賞」という素晴らしいラインナップを整えてその日を迎えた。
ところがその前に不穏な情報をキャッチした。
おば夫婦(大好きなおば+苦手な義理のおじ)、末っ子のおじ、先月会った別の大好きなおばが我が家に来て泊まると言う。
前代未聞の事態で、それもこれも我が家が建て替えて新築になったということで集まるという理由だった。
表は新築ゆえ。
裏は、嫁に行った3姉妹+家を出たおじにとってもう自分たちの直系の血縁者は実家にいないから、これまで通りそこで集うことができなくなった。
おば夫婦は普段関西に住んでいる。
そのおばこそ、もう頼れるは自分の姉妹だけだから、泊まるならうちかもう1人のおば宅かになる。
で、今回新築になって生まれ変わった我が家がその対象と相成って、母の兄弟の何人かがうちにくることになった。
いつ一体私の訳のわからない生き方に話の矛先が飛んでくるのか予想できず、本当にその集いに関して気が重たい他の何物でもなかった。
ただもう1つ思ったことは、この前代未聞の真新しい一族の集いの計画に関しては、私の計画や意思なんか1ミリも関与するところがなく、いきなり組み込まれた行事…。
イコール、自分ではコントロールの及ばない分野で起こる今回のことが何かしら私にも意味のあるものをもたらすことが予想できた。
ただ私もなるべく触りたくない話なのはわかっていたから、私はと言うと、ひたすら平穏無事に時間が過ぎて事なきを得ますように…という、そんな願いをひたすら願い続けた。
すべての会合が終わった今、想像をはるかに上回る話を聞くことができた。
私と17歳違いのおばが今回私と同じ部屋に寝た。
間違いでなければ、今回が2回目のおばとのお泊まり会だった。
前回は一昨年の夏、名古屋から新潟に戻った最初の夏、その関西在住のおばが実家に帰ってくるということで、私も呼んでもらった。
その時、そのおばと同じ部屋で布団を並べて寝た。
2人のおばたち+いとこでもいなければ、私にとっても母の実家は敷居が高くて入りにくい。
敷居が高いというのは高級なとか高貴なということではなく、その人たちなくては居心地がマックス落ち着かないし、話なんかは10分続けるだけでも倒れそうになるから、そういう意味で敷居が高い。
その時に2人で並んで寝た。
今回も、消去法でそういう選択肢が決定された。
そもそも平日なんて絶対に休まないそのおばがどうして今回来よう!なんて思ったんだろう?とは不思議に思っていた。
おばのことは好きだから気持ち的にわだかまりは無くても、我が家での兄弟の集いが前代未聞であるのと同様、仕事を休んでまでそれに参加するおばの行動に「どうして?」とは思った。
おばは学校給食のパートをしている。
今回土曜日に学校行事があって、火曜日の今日代休になったとのこと。
だから自分も一緒に行けることになったと嬉しそうに話してた。
すごい納得した。
生まれた時からおばは私のおばだから、おばの生き様もよく知らなかったし、今は落ち着いているから、全くこれまでおばの過去に興味さえ湧かなかった。
私の数少ない親戚の中で、亡くなった母方祖母に次いで私が近くに感じるのがそのおばなのは間違いない。
関西在住のおばはおばで、私が生まれた時から関西にいたから、会う回数がどうしても多くて年に1回だった。
子なしのその関西在住のおばは、それこそ私たち三姉妹や実家の姪っ子たち(=私のいとこ)をものすごく可愛がってくれた。
だけど、距離の関係で頻繁にはどうしても会えない。
もう1人のおばは県内にいるし、先月遊びに行かせてもらった時みたいに20代の頃は時々近くで用事があるたびに泊まらせてもらっていたから、そういう意味でも近かった。
ただ、どういうわけかおばの生き方を聞いたことがなかった。
私が小さい頃は母の実家に住んでいて、小学校2年生の時に結婚して式に呼ばれて、それから毎年盆正月は会っていて、さらには20代は何回もおば宅に世話になった。
大人になってからもかなりな回数を一緒に過ごしているのに、一度もおばの話は聞いたことがなかった。
私は少し気になって、おばがどんな若い時代を過ごしていたのかを聞いてみたくなった。
母方の祖父というのは、話を聞く限り、とてもはちゃめちゃな親だった。
今なら間違いなく「虐待」として通報されるような、そういうことを平気でする親だったらしい。
自分が絶対主君、逆らう者・言うこと聞かない者には暴力で対応、子供は稼ぎ要員、そんな風だったらしい。
反対にその妻である祖母は私からして菩薩のような人だったけれど、その菩薩具合もわかる。
その暴君亭主の前では従う以外の道はない。
おばたちも母も口を揃えて「怒ったことのない親だった」と言うから、祖母はある意味別格過ぎた。
おばはあと還暦まで指折り数えるぐらいの年齢。
おばの若かりし頃の話はこうだった。
同級生たちのほとんどは高校進学を普通にするような中、父親の一存で農家の家に丁稚奉公に出されて、自分が希望していた進路を断たなければならなかった。
その時だけ唯一母親である祖母が、娘であるおばに「悪いけれども家君の言うことを聞いて欲しい」と頭を下げてきたと言っていた。
だからおばは農家の家に丁稚奉公に行き、夜間の高校も並行して行ったようだった。
2人で大爆笑したけれど、祖父はおばが家を出る時にこう言ったらしい。
「寂しくなったら、金を数えてろ!」
私は「ホームシック」の対処方法でお金を数えろなどと言う人は、生まれてこの方初めて聞いた。
私の母親にも言ったら、呼吸困難を起こすのかと思うぐらいに大爆笑していた。
おばは15歳の時にそんなはちゃめちゃな進路を親に勝手に決められ、さらには名ゼリフと共に送られ、金を実家に仕送りしながら高校にも行き、戦前戦後世代のような生き方を若い頃した人だと知った。
だから私が知っているのは、丁稚奉公が終わった後実家に戻ったおばからで、それ以前は今回初めて聞いた。
おばはその話の最後にこう言った。
「でも、そんな風だったけれど、私は親のことを恨んでいない」
部屋は真っ暗だからおばの顔は全く見えなかったけれど、おばはものすごくはっきりとした声でそう言い切った。
この人、本当に凄いと思った。
「親に感謝している」と綺麗事を言う人たちの何百倍ものパワーを言葉から感じた。
「恨んでいない」その一言にどれだけの思いが含まれていたんだろうと思う。
一切の迷いもわだかまりもなく、おばは真っ直ぐに自分の人生を引き受けていた。
話はいきなり飛ぶけれど、普段車で移動するおばが、今回は関西在住のおば夫婦の車で一緒に来た関係で、帰りは電車になった。
これもうまくできていたなぁと思った。
当初、関西在住のおばの希望で、地元名産のお土産を私の案内で買いに行って、その足でおばを高速バス乗り場まで送ろうかと思っていた。
ところがその土産購入がちょっとした理由で私が1人で後から買いに行って宅急便で送ることになり、その関西組の動きに合わせなくて良くなったことで公共交通機関で帰るおばも高速バスから電車で帰ることに変わった。
だから午前中に関西夫婦を見送って、お昼をうちで食べてからおばを電車の駅まで送った。
その道すがら聞いた話を私は一生忘れない。
おばが「そう言えば武士俣さんにもこうしてM駅まで送ってもらったことがある」と言い出した。
武士俣さんというのはうちの父親のことだった。
あれ、おかしいな…と思った。
なぜなら、物心つく頃にはおばは車を持って運転していたし、これまで一度だって電車で我が家のある町へ来たなんて聞いたことがなかった。
しかも「ばあちゃん(私の祖母)と一緒に行った」と言う。
ますますわけがわからず、それいつのこと?って聞いた。
助手席のおばはしばらく静かに考え込んで、
「あぁわかった!
ふぅが生まれたの3月でしょう?
その時ばあちゃんと一緒に行ったんだ」
と言い出した。
おばはその時何歳だったのかを聞くと、2人の生まれ年を引くと17歳になった。
丁稚奉公で農家に行っていたんじゃないかな?と思って聞いたら、その農家は3月は閑散期で事情を話して休みが取れたとのこと、それでばばちゃんと一緒にうちまで生まれたばかりの私を見に来てくれたこと。
ばばちゃんはそのまま母の産後の手伝いもあってしばらくは残ったけれども、おばはまた農家の家に戻らないといけなかったから、うちの父にM駅まで送られて電車で帰ったと教えてくれた。
今でも電車で乗り換えなしで行っても、おばが当時住んでいた農家の最寄駅まで1時間以上かかる。
当時はその倍の時間がかかっていてもおかしくない。
おばは駅舎を見て「当時とあまり変わらない」と言っていた。
私が子どもの頃に使ったきりの駅で、たしかに私から見ても当時の風景と変わらない。
平屋建てで、出口は1つ、駅の目の前がバスやタクシーのロータリー、改札を挟んで左に駅長室、右に待合室、本当に当時と同じM駅で、おばもそうそうこんな風景だった!と言っていた。
私はその話を聞いて、1つ絶対的に確信できたことがある。
私が生まれたことを心から喜んで、そしてその生まれたばかりの赤ちゃんに会いたくて会いに来てくれた人たちがいたということ。
17歳の少女だったおばが、丁稚奉公先での休みをお願いして、自分で稼いだお金を使ってまで、生まれたばかりの赤ちゃんに会いに行く。
おばからしたら私は3人目の甥っ子姪っ子にあたるけれど、女姉妹の中での甥っ子姪っ子は私が初めてだった。
ばばちゃんにしてみてもそうで、息子側の孫はいたけれど、娘側の孫は私が初孫に当たる。
あぁもう嫌だ、どうしてくれよう?このとっ散らかった人生、何か決めるのもするのも嫌ーーーー!ってなっていた時。
いわゆる中年の危機で人生迷いまくりの今の時。
結婚子育てはおろか、仕事さえも超絶怪しい方向に進んでいるというか完全に足が止まっている今。
何で私は生まれて何で今生きていて、一体私は何をする予定でこんな人生になっているんだろう?という思春期の子供みたいなツッパリ具合で。
自分でも色々自分のことでドン引きしていて。
そんなこんなの負のループ全開・絶好調の時に、突然教えられた私が生まれてすぐのストーリーだった。
謎の兄弟の集いも、突然高速バスから電車に変更になった件も、私が無職で今家にいることも、そしてどこか他の地ではなく今の地にいることも、1年前当主だったおじが突然死したのも、全部全部全部重なってくれたおかげで、私はなんと生まれてすぐの自分の話を今回このタイミングで聞くことができた。
仕事をしていたら間違いなく仕事に行っていたから駅まで送るなんてできなかった。
仕事を休むこともしなかっただろう、そんな面倒な集いのために。
全てはピッタリとピースがハマるように動いていたし、私のあの一番苦手な心の低空飛行も意味があったし、何よりそのおかげで「動く気が全くしなくて動かなかった」のが功を奏した。
おばを見送った後、私は寄り道せずに真っ直ぐ帰ってきた。
そして88888キロを通過した地点やこのブログを再開しようと決めた時の交差点を過ぎながら、気持ちは少しずつ固まった。
このことをそのリスタートさせようと思っていたブログに第1号の記事として書くこと。
自分を良く見せたりとか、心に響く文章を書こうとか、そういうのは今はもう要らないと思った。
この何ヶ月かの間で、私は好きな文章やこういうの書きたいなという文章にいくつか出逢っている。
本当に素敵だし、今でも好んで読んでいる。
でも、多分自分が書くものはそういうのとは違うと思う。
そしてたくさんの人向けではなく、1万人ぐらいの人が読んで、その感覚わかるよ!と言ってくれる人が1人でもいたらいいかな…という文章だと思う。
きれいな言葉やきれいな表現も書けなくはない。
だけど、それは自分を偽りながら書くから必ず無理が出る。
だから何ヶ月も時間があっても書けたのは5記事とかいうことになってしまう。
ちなみに書いた記事は、個人的に好きなスタイルで書いたから、またどこかのタイミングでどこかのブログには再登場させようと思っている。
「親を恨んでいない」という言葉だけを切り取ったら、あまり響きが良くない。
だけど、その言葉が出るまでの全ての背景を聞くと、その言葉がものすごいパワーを見せてくれる。
さらに、駅まで送った行動そのものには大した意味もないけれど、そこに40年前の風景と重なることで大きく意味が変わる。
なんなら今の絶賛彷徨い中の私に最高の奇跡のストーリーを届けてくれる。
自分の命が歓迎されて生まれ出たことを第三者の口から初めて教えてもらい、それだけで私は自分が生まれて良かったんだなと感じた。
今の私がどうであっても、生まれてきた時はその命に会いに行こうとしてくれた人たちがいたこと、それだけで生まれてきて良かったと心から感じられた。
私はこうやって自分の心に響いたことを響いたままに書きたいと思った。
理解者や社会的ステータスが欲しくて書くのとは違うんだとわかった。
もちろん、理解者も社会的ステータスも仕事もお金もお客さんも色々欲しい。
だけど、何で書くのか?と言えば、書きたいから書く、それぐらいシンプルなものに今ようやくたどり着けたかな…と思う。
また得意のホロスコープを出して読み解いてみた。
新月の時間はネットで調べたらわかるけれど、私はあえて調べず、555の語呂合わせにして、17:55にそのリスタートのファースト記事アップとなるようにセットした。
それでホロスコープを読んだ。
今の私にピッタリなメッセージがいくつも来た。
・解決策のないようなことに対して外から一歩引いて見て、そこから何かを見出そうとする
・まだ芽が出ていない可能性や自分の可能性を育てる
・普遍的な視点を持つ
・人に甘えてみる、又は自分の情に従って社会との接点を持とうとする
・役割とかから脱却して、誰の影響もないところへ行こうとする
・自分にしかできないことにひたすら取り組む
・伝えていくことの難しさを知りながらも自分の言葉で伝えていこうとする
・自分の世界を完成させる
無理しようとしてる自分や背伸びをしようとしてる自分もいる。
それを今まではカッコ悪いとかダサいと思っていたけれども、そんな自分も含めて等身大の自分だと感じるようになった。
難しく考えすぎたり、答えの出ないことにいつまでも執着したり、全部が嫌になって全部を極端にストップさせたり。
そういう自分のままでもそれも自分だからいいかとなってきた。
私の場合、人に良く思われたい願望ではなく(多分それもある)、人から受け入れられる自分でありたい願望が強い。
自分が拒絶されたり否定されることを極端に嫌がっている自分がいる。
どうでもいい人からはその扱いでもいいけれど、自分が気に入った人たちからそれをされるとキツイ。
だから人に合わせて許容範囲内の人間になろうとしたり、又は自分のダメなところをひた隠して適当に振る舞ったりする自分がいる。
だから、私は時々自分でもドン引きするぐらいに人の前の自分と自分1人の時の自分のギャップの大きさに驚く。
みんなあると思う。
他の人たちと比較できないけれど、私はかなりひどいと自覚している。
そんな自分にも時々悩めば、それよりも自分の人生に悩む、迷う。
そんな時に、おばから教えてもらえた1979年の3月の話だった。
私もそのぐらいの生まれたばかりの姪っ子に会いに行ったからわかる。
小さな命に会いに行った。
不思議な気持ちだったけれど、その後その小さな命は今に至るまで私に色んなものを見せてくれてる。
多分その最たるものが「愛」だと思う。
そして、おばの話を聞いていて感じたのも「愛」だった。
見えなくてもきちんとあるんだな、愛って…と感じた。
「愛」なんて言われなくても愛をたくさん感じた。
そして同時に、生まれたことを心から喜んでくれた人たちがいたという事実は、大人反抗期の私の心にきちんと届いた。
そして今、そのおかげでとりあえずブログが再スタートした。
愛の力たるや半端ない。
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