夜中に目が覚めた私は、ぼーっとした頭のままスマホをいじった。
目が冴えないようにするために、難しい調べ物をしたらいいんだと思って、ヒーリング関係の調べ物を始めた。
その中に1年前、あぁまだ1年経っていない、去年の秋ぐらいにかなり読みこんだサイトがヒットした。
魂の関係について毎日毎日調べまくった時にヒットしたサイトで、私はそのサイトをかなり読んでいた。
男性が書いているもので、この人の最大の特徴は、おそらくこの人自身はそういう人に出逢っていなくて、でもセラピーをする人でそのセラピーにそういうことをテーマに持ってくるお客さんが多いみたいで、それでその人の知識とお客さんたちの動向を掛け合わせて情報を発信してくれてるところだった。
だから私情は全くはさまれていないし、本当にあくまで施術する立場から見えてることを柔らかい口調で文章にしているところが良かった。
っていうかそれ専属のセラピーの人かと勝手に思っていたから、夜別のことを検索した時にその人のサイトがヒットするのがとても意外だった。
しかも何でヒットしたのかを今戻って戻ってを繰り返して大元をたどったら、なんと寝ぼけていて関係のない「関連キーワード」で出てきた言葉をタッチしたようで、それでその人のサイトを見つけた模様。
懐かしいなぁと思って開いて見たら、最新記事の中に魂の関係の話が新たに2018年バージョンとして9記事分あって、今度はどんな内容なのかなと思って読んでみた。
っていうか、この手の話に2017年バージョンとか2018年バージョンとかあるんだと不思議な気持ちで眺めた。
読んで納得した。
たしかに去年の情報とは異なっている。
そして去年仮に公開されていたとしても、私にはその内容の意味が多分わからなかった。
この1年位で色んなことを体験したから、そこに書かれていることがよくわかったけれど、体験なしでは机上の空論状態だった。
あぁ今がまさに読むタイミングだったんだなぁとわかった。
こういう時、何かがいたずらしたかのようにきちんと仕組まれていて、そこ(必要なものや情報)に行き着くようになっていたんだなと思う。
その人いわく、去年あたりから今年にかけて過去世で近しい関係にあった人たち、要は魂の繋がりのある人たちとの今世での再会が増えているとのこと。
(寝ぼけていたからどちらかはわからないけれど、魂同士が今世で再会(=初対面)という意味なのか、そうではなく一度はすでに今世で出逢っていてその後会えなくなってそれで今また会えるようになった(=再会)ということなのかはわからなかった。私は初対面でいいじゃんと思うけれど、こういう世界では区別するために初対面でもわざと「再会」なんて表現する人がいるからややこしい。)
その理由を読んで私はものすごく納得した。
それが起こることでの大きな特徴は、そういう人に出逢うとまずは「好き」とか「大切」とか「愛」というような感情が大きく開かれる。
しかもそれは「好きになりたい」とか「大切にしたい」とか「愛したい」というようなものではなく、気付けば「好き」だし気付けば「大切なもの」「愛する人」で、自分でもコントロールできないぐらいにそういう感情に自動的になってしまう、本来の自分の純粋な気持ちが大きく開かれるようだった。
それは、それまでに蓋をしていたような他の感情に関しても開く手助けとなるもので、それらが開くと否が応でも自分の気持ちに気付きやすくなる。
自分の本当の気持ちに、それまでは蓋をしたり気付かないフリをしていた気持ちに気付きやすくなる。
そういうことに気付きだすと、今度は自分の人生に嘘がつけなくなってくる。
色々葛藤するも、自分の人生を生きようという流れに人生がシフトしてくる。
それと時代の流れとを重ね合わせてその人はその後も説明していたけれど、おおよそそういうことを書いていた(と思う)。
何せ寝ぼけて読んでいたから、もしかしたらその方はそんな風に言ってないかもしれないけれど(苦笑)。
それを読んだ時に、あぁと納得するものが出てきた。
まさに流れはそんな風だった。
私は口では結婚したいとか良い人いたらいいなぁとかは言っていたけれど、実際には多分それを本気で望んでいるかというと、例えば本気で望んでいたとしても、それ以上に誰かと関係を築くことに対してものすごい怖さを持っていた。
傷を増やすぐらいならもう何もない方が身の安全心の安全だとものすごい強い力で信じていたと思う。
「思う」と書いたのは、これはもう深層心理すぎて自分ではわからないから。
心の仕組み、意識の仕組みを勉強すればするほど、自分なんてのは本当にわからなくなる。
頭で思い描いていることの10分の1でもその通りになっていたら、私自身は自分に対して御の字だと思っている。
それ以外の9割以上の部分は、自分の思っていることとは真逆のことが展開しているし、じゃあ私は一体何を望んでいるんだろう?という感じで、そんなわけのわからない領域に関しては、たとえ自分のことでもさじを投げている。
そして積極的に自分の傷だとか恐怖だとかに目を向けたいとも思わない。
さんざんそうした癒しをして、今では「本当にする必要がある時は否が応でもするだろうし、するための道具なり人なりが揃うだろう」ぐらいに思っている。
そしてその否が応でもということでなければ、自らそんな癒しを積極的にしたいとは一切思わないから近寄らない。
嫌でもしないといけない時以外は、傷の癒しに関しては私自身はある程度距離を置いて付き合っていたいと思っている。
でもその人が人生に登場したことで、色んな予期せぬことが人生にもたらされたし、そしてそれこそ否が応でも自分の傷だとか見たくないことにも向き合わざるを得なくなった。
最初はまず気持ちが心がガッと開く。
自分では止められない。
誤って熱いものを触った時に、条件反射でそこからパッと手を離す。
その時にいちいち、「触ったままだと熱いから手を離そう」と考えてから手を離すわけじゃない。
もう反射でパッと手が離れる。
その人に対しては本当にその反射反応みたいなもので、考えたりとか想いを巡らせる前に勝手に惹かれるという感じだった。
すごい不可抗力だった。
そういうものに対して私は悪あがきをして「離れよう」「なるべく近寄らないにしよう」「これは自分の勘違いです」などと頭で一生懸命抑え込もうとしていたけれど、そもそもそんな条件反射並みの吸引力が働いていたわけだから、思考で何とか対処できるレベルではなかった。
頭で考えると不毛すぎた。
いい年した大人が、しかも結婚したいと思っている人が、こんなにも可能性のない誰かをいいと思ってどうする気でいるんだろうと思っていた。
これ良い方向に行くとは到底思えなかったし、そんな危険なところに自ら足を踏み入れるなんてどうかしていると思っていた。
危険というのは、相手の何かが危険なのではなくて、私が冷静に考えて相手の人は私を相手にするとは到底思えなかったから、そういうタイプの人に近付くのは危険という意味。
相手の反応も若干おかしかったし、この人もこの人でどうしたんだろう?と思ったりする場面もあったけれど、私はそこにはあまり目を向けないようにしていた。
そんな小さな可能性に賭けると自分が後で泣きを見そうで、そんなのは自分の気のせいと考えてる方が楽だった。
だから頭で考えたら絶対にやめておいた方がいい人。
なんだけど、不可抗力で心はむき出しみたくなるから、一度顔を出してきたものはもう奥には引っ込んでくれない。
今度は今度でそこと対峙しないといけない。
ちなみに私はそのような葛藤を2ヶ月ほど続けて、それで最後ようやく自分でも「もうダメだ」となったのは夏も終わろうとしている頃だった。
(今読み返して、「もうダメだ」って…(苦笑)。他に言い方ないんだろうか?と思うけれど、これが本音だったんだから仕方ない。)
本当は東京でお世話になったことのあるマッサージのおじさんのところに行きたかった。
私はそのおじさんがとても好きで、力も一流であれば知識も一流、人間性も一流で、その人と知り合えただけで自分までもが良い人なんじゃないかと勘違いできるぐらいの威力を持っている人だった。
友達の結婚式で東京を経由するから、そのおじさんのところに予約しようとした。
ところがその日だけ毎週毎週専属の予約客がいて、私が希望する日時では予約が取れなかった。
残念だけど仕方なくて、それで妹に言ったら妹がヨガに行こうと提案してくれた。
ヨガの時は意識が通常とは異なる状態になる。
一番近いのは、朝目が覚めた時にまだ目は閉じていて頭は徐々に起きる方向に向けて動き出そうとまどろんでる状態の時。
頭は当然働かないし、ぼーっとしている。
ヨガの最中は、私の場合それに近いものがあるけれど、その時に最初から最後まで1秒たりとも休むことなくその人のことがずっとずっと脳裏に浮かんでいた。
脳裏に浮かぶと言うよりも、全身どこもかしこもその人のことで埋め尽くされてるみたいな感じだった。
全身全霊で誰かのことを想うとは、まさにそういう状態のことを指すと思った。
ヨガのポーズで先生が色々指示を出してくれていたけれど、それさえも耳だけ貸して、そして耳から入れた情報で体にもそのように動くように自分で動いてはいたけれど、でも意識はずっとその人のことがぺったりと貼りついて、まるで空気のごとくその人はずっといた。
そこまでの状態になって初めて私は「細胞中でこの人のことをいいと思っている」ということに気付いた。
その時が特別だったのではなく、普段のうるさい頭のおしゃべりが止んだ時に、ようやくそこまでの状態に自分が普段からなっていたとやっとやっと認められた。
そんな全開の感情のまま、今度は本気で相手にしませんという印籠を相手から突き付けられて、それで私にはその感情の大きさに比例して傷やら悲しみやらがもう手には負えないぐらいの大きさで押し寄せてきた。
最初はその人への気持ちからスタートしたけれど、その人が本当にいなくなって、気持ちはすぐには切り替わらなかったけれど、それは徐々に徐々に自分に向くようになっていった。
まだ傷もとっても生々しかった2017年の10月14日。
あれはまだスタートだった。
その日私は「あなたの目を見てメッセージを書きます」みたいな書家の方のイベントを、たまたま立ち寄った大きなショッピングモールで見つけた。
後にも先にもその時にしかそのイベントには遭遇していない。
私は大した期待もせずそれに申し込んだ。
その時に書いてもらったメッセージ。
『絶対的な意志の強さは、使命と共に、生き続けます。
納得を追求して、自分の心の人生を』
(この時のことはまだずっと下書きの途中になってる…。いつ完成させるつもりだろう…)
その人に言われたことは今でもはっきりと覚えてる。
「自分の中の絶対を追求する。
自分の中の納得を大切にする。
もうそれ以外の生き方はできないし、逃げられない。
自分が納得するためにがんばれ」
その人は私の目を見てそこから浮かんだメッセージをそのように伝えてくれた。
この時はその言葉の半分どころか10分の1もわからなかった。
使命って何?自分の中の絶対って何?自分は何だったら納得できるの?とはてなマークのオンパレードだった。
だけどものすごく深いところで響いたし、私は言われた瞬間ぼろぼろぼろっと涙が出た。
たくさん泣けるようになってわかったこと。
涙にも色んな種類があって、その時の涙は「魂に響いてる」タイプの涙。
魂で聞いて、それで魂のところで大切な何かを感じて涙したんだと思ってる。
そこを皮切りに色んなことがどんどん起こってくるようになって、2017年12月2日の土曜日、友達主催の命の授業に参加して大きく心が動かされた。
自分の本音で何かを語りたいし、表現したい。
自分に嘘をついて、自分を誤魔化して、それで何かを表現するのは嫌だとはっきりと感じた。
その辺りから私はこれからも絶対に本名を名乗ってブログを書き続けることと、今度はスピリチュアル的なことも普通に発信しようと決めた。
隠し続けても仕方ないと思ったから。
あの時は単に隠し続けることの方が難しいと判断してそういう想いに至ったけれど、今となってみたら大正解だった。
この半年ほどで、私はそうした内容を発信することに抵抗がなくなった。
しかも発信して、そして周りの人たちへのカミングアウトも亀の歩みのようにゆっくりと始めたけれど、それでさえも随分と抵抗が薄れた。
別に私は私のままで、その私の中にそういうスピ的なことに興味のある部分が存在している、というだけの話。
私にしたら、お酒を好んだり、料理したり、読書したり、書いたり、手芸したりするのと同じ線上にある。
そこを言えなかった一番の理由は、世間的に受け入れられる皿がまだいまいちないのと、「スピリチュアル」とか「精神世界」と言うだけで言葉が独り歩きして超絶怪しくなるのと、そして私はその独り歩きした先入観に基づいて自分もおかしい人と判断されるのが嫌だった。
だけど、その辺りもだいぶ切り離して見れるようになった。
本気で怪しいし、それで怪しい商売をしている人なんて世の中に五万といる。
だけど、私の中で取り入れさせてもらったことは怪しいものではなくて私を本気で助けてくれた考え方だったり、はたまた私以外の人もそれを知ることで健康状態や精神状態がよろしくなったりするきっかけとなるもので、悪いものじゃない。
私は自分が見ている事実と現実だけに目を向けたらいいんだと思った。
怪しいと思う人はどこまでもそう思うだろうし、そして私がそんな風でも私との付き合いを変えない人は変えない。
だから私はその部分だけを大事にしたらいいんだと、この半年ぐらいでわかるようになってきた。
そしてホロスコープの出逢いがあって、自分の人生を生きようという気持ちにもなってきて、でもいざ今度選ぶ段階(←今現在、2018年7月)になって色々怖さがどさっとやってきて怖気づいてるという。
そんな折にヒットした魂の繋がりの解説サイトで、そしてまさにそれを体験するためにその人と知り合った・出逢ったとするならものすごく色んなことに納得できた。
『88888』の記事、前編も後編も書いていた時、それは全力で書いていたし私には曇りの一点すら存在しなかったけれど、でもまだ頭の片隅にはあった。
「これってすっごい痛い人になってる気がする」というのが。
だって、ざっくりと説明するとこうなる。
出逢う→惹かれる→誘う→避けられる→断られる→撃沈→相手の引越し→本当の1人ぼっち→気持ちは変わらないどころかますます強まる→とうとう88888のストーリーに相手を勝手に巻き込む(相手の知らないところで)。
痛いと言うより、一歩間違えたら何かしらの精神疾患と診断されるんじゃないかという際どいところにいる。
だけど、何だか知らないけれど、そういう流れにがっつりとはまっているし、私がいくら否定してそんなの偶然と言ったとしても、偶然にしてはありえないほどの偶然の数で、それは他にどう説明していいのかもわからない。
さすがに全てをこの場でカミングアウトはしないけれど、私はその人との間にあったこともここで書くようになった。
それは隠すよりも書いて表に出す方が私が楽になるというのと、そして小さなとっても小さな可能性に賭けて、もしかしたら届くかもしれないという理由で書いてる。
もう本当に会えないのなら、せめてお互いが生きているうちに私だけでも自分の身にあったことを伝えようと思った。
届く届かないなんてのはわからないけれど、もし届くとするなら私は届けるための発信だけはしようと決めた。
誘う直前のこと。
私はその人の反応を見て「あれ?」と感じた瞬間が確かにあった。
普段のポーカーフェイス的な人からは考えられない反応だった。
それは仕事上のやりとりで、別に特別なことでも何でもなかった。
私は他の人たちにもするようにその人にも同じことをした。
本当にたったそれだけのことだった。
だけど、明らかにその人からは他の人たちにはない反応が返ってきた。
私もその反応を見て自分までもがつられて挙動不審になりそうだった。
それぐらいに「あれ?」という違和感を覚えたものだった。
違和感じゃない。
正しくは、その人が感じてる感情みたいなのが私にも伝染したみたいな感じだった。
相手の人が泣けない時に私が代わりに泣くあの時の感覚に似ていた。
そしてその感覚は、普段私がその人に感じてるものと全く同じだった。
それがなければ私は誘おうなんて考えなかった。
絶対に考えなかった。
だけどそれは私の怖ろしいぐらいの勘違いだったようで、その後はさんざんだった。
勘違いぐらいだったら良かったけれど、本当に迷惑だったんだろうなぁと痛感した。
自分が同じ空間にいて自分も苦しかったけれど、相手はもっとやりにくそうにしてたから自分がそこにいることさえ罪みたいな感じだった。
後悔はずっとしていた。
仕事を休むわけにもいかないから行ってはいたけれど、申し訳ないやら悪いことしたやらでいたたまれなかった。
相手がいなくなるのも悲しかった。
何も知らず何も話さず時間だけがどんどん過ぎていった。
どんどんと言えるほどの時間は残されていなかったけれど、時間だけはペースを変えずに刻一刻と過ぎ去っていった。
そして私は迷惑も顧みず、というかそんな余裕はその時本当になかったから、ものすごい勢いでその人に手紙を書いた。
今伝えないと一生伝わらないと思った。
その人と一緒にいたいというのはもうあきらめなければいけないだろうことはわかっていた。
だからそういうことを言いたくて書いたのではなかった。
そこじゃなくて、出逢ったということをそして出逢って私はそれだけで生きていて良かったということを、そしてそれに対してものすごく感謝していることを、今の瞬間を逃したら一生伝えられないと思った。
今しかないから、もう一生のうち今しかないから、今言わなきゃいけないと思った。
それはラブレターではなかった。
本当にあれは愛の告白とかではない。
私は自分の心の内をひたすら綴った。
自分の気持ちの名前も知らなかったから、私は最後の最後まで好きとも愛とも書かなかった。
それを書いたら逆に薄っぺらい感じがした。
その言葉を使えないぐらいに、そんなこと言っては絶対にいけないと、自分を律した。
押し付けの手紙なのに図々しさまで乗せたけれど、私は書いている時にずっと祈っていた。
もし捨てられずに済むとしたら、その人の元へ行った後、その人が人生で何か苦しい時間を過ごすような時、ちょっとした気休め的な役割を果たしてくれたらいいなぁと。
私から見たその人の良さを綴ることで、世の中に1人は確実にその人の良さを知っている人がいるんだよ、ということが伝わればいいと。
迷惑ばっかりだったから、そしてその手紙も迷惑という代名詞に近いものではあったけれど、せめてそういう役割を果たせるなら私は喜んで果たしたかった。
もしあの時何もせず、あのよくわからない手紙を書くこともせず、おとなしく静かにじっとしていたとするなら、今の私はどこにいたんだろう。
最後まで良い思い出を持てたかもしれない。
素敵な人に出逢えて良かったなぁって。
最後の瞬間は、あの冷たい目といつもとは違う突き刺すような声ではなく、その人の良さが前面に出た目と声を見届けられたかもしれない。
その人と交わした数少ないエピソードを心にそっとしまって、それで私は淡々と生き続けたかもしれない。
でも起こったものは起こったし、私には苦行にしか映らなかったけれど、そこを皮切りにもっともっと色んなことが起こるようになった。
本当におかしなことはどんどんやってきた。
書家の人もそうだったし、友達の命の授業もそうだったけれど、あんなのまさにその時にしかないもので、もうあれ以来私はそのどちらにも居合わせていない。
ちなみに書家の人に会った日、私はたこ焼き屋のおばちゃんから手をぎゅっと握ってもらった。
私はそのぎゅっと握ってもらった瞬間、心の奥底をぎゅっとしてもらったような感覚になって泣きそうになった。
その後2回そのたこ焼き屋さんに行って、そのおばちゃんから同じようにたこ焼きを買った。
私はわざとおつりが出るように払っているけれど、あの日しか手をぎゅっと握っておつりを渡されたことはない。
さらに同じ日の帰り道、季節外れの花火大会があったようで、空に舞う花火も見た。
それこそ本気の偶然でしかなかったけれど、それを見て何だか自分の人生は大丈夫なのかもしれない、自分が思っているよりも実は大丈夫なのかもしれない、と思ったことは覚えている。
その人にとって私は迷惑とか何だこいつは?ぐらいな存在でしかなかったかもしれないけれど、私にとってはその人が私の人生に現れてくれたことで色んなことが一気に表舞台に出てくるようになった。
自分の気持ちも隠せなければ、自分の人生に嘘をつき続けるのも難しいと感じられるようになった。
その人に出逢うまでは、なんとなく社会の枠の中で生きれる道に自分の個性をのせようとしていた。
でも多分もうそれができない(←現在もものすごいこれに関してはもがきまくっている)。
それができないぐらいに自分の本当の気持ちに向き合わせてくれたのは、紛れもなくその人との出逢いが関係している。
その人が私の固く閉じた気持ちを、それも人間として一番大事で温かい部分を開け放ってくれた人だった。
想い的なものは私の一方通行だったとしても、その想いの最初の部分を開けたのはその人だった。
その人なくしては私の気持ちは開かなかった。
傷つくことが怖かったから、だからずっと自分から殻にこもってた。
そうしてる方が楽だったから。
傷つかない方が生きやすくて、そして自分を守れたから。
だけど、その人と出逢って、たしかにまた1つ傷も増えたかもしれないけれど、私はその傷は勲章だとさえ思っている。
大切だと思える誰かに出逢えて、そしてその人を想ったことでやってきた傷だから、それは傷がつかないようにずっと自分の殻に閉じこもったままよりも素敵なことだった。
その人と出逢ってその人を知ってその人にどんどん惹かれてその人を大切に想う気持ちは、一生の宝物になった。
おかげで私は1つだけ自信を持てるようになった。
私にはまだ誰かを大切に想える気持ちがあるってことを。
そんなのもう一生縁がないとばかり思っていたけれど、少なくとも自分の中に人間として生まれて当たり前にみんなが持ってそうなものを私も持てるんだって感動さえした。
そのサイトにあった通りの人生が展開している。
最後ぐらいその人のあの透き通った目といつも心に響いていた声に触れていたかったなぁと、それは思う。
だけど、私の人生がこんな風に展開した今、後悔は多分ない。
色々はちゃめちゃ過ぎたけれど、それが私そのものだし、もう今さら過ぎ去ってしまったことをどうにもできない。
そしてこれだけ色んなことを経て、77777も88888も含めて色んなストーリーを人生で体験させてもらって、奇跡もたくさんたくさんもらって、私はその人で良かったと思っている。
色んなことが悲しかったし苦しかったけれど、その悲しみや苦しみの原因を作っている人がその人で良かった。
切ないのも会いたくて仕方ないと思う気持ちも、その大元はその人だというのが本当に良かった。
他の誰かじゃなくて、良いこともそうでないことも、それらをもたらしてる人がその人だというのが、本当にうれしい。
私は人生の中に存在している奇跡を、その人のおかげで信じられるようになった。
書家の方からのメッセージ
秋の花火(2017年10月14日)
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