『ナスのトゲ取り』
何ともアホらしい話だけれど、家を出る1時間前、私は右手親指の指の腹にトゲが2本も刺さっているのを発見した。
多分ナスのトゲ。
どうしても煮浸しが作りたくて、揚げ物してる傍らでその後に揚げるナスの準備をしていた。
(煮浸しー麺つゆに大根おろしを投入して、そこに素揚げした野菜を入れて浸して味を染み込ませた食べ物)
その時にやたらとトゲのあるナスだなと思ってはいた。
スーパーに出す用ではなく、自然のままに育てるとこういう姿になるんだろうなぁという、ナス本来の力に満ちたものだった。
チクチクするとは思ったけれど、まさかトゲが刺さってるとは思っていなかった。
まだ荷造りも終わってないのにナスのトゲ抜き…。
しかも木のトゲと違ってトゲが細い。
業務用の極細針を使ってトゲを抜くことの2本分。
支度をする前に力尽きそうだった。
『カツオ×のび太』
カツオは磯野カツオ。
のび太は野比のび太。
この2人の弱点や短所をかき集めたのが自分だと思うとゾッとした(滝汗)。
ホロスコープの宿題は、1ヶ月近く時間があったにも関わらず終わらなくて、今これから残りの4分の3に取り組む。
つい最近のサザエさんでは、早くもカツオの夏休みの宿題の取り組み方について、家族のみならず裏のおばあちゃんも巻き込んでの環境作りになっていた。
のび太もすぐに楽をしようとする。
そして最後はドラえもん頼み。
とりあえず、ヒーリングの勉強会の方のやるべきことは今終わったから、これからはホロスコープの宿題at東京始める。
at東京というのがすでにおかしい。
ちなみにどちらのキャラクターかは忘れたけれど、時間を逆算して、自分の能力を過大に見積もって、「あとこのぐらいの時間があれば宿題終わりそうだから、先に遊ぼう!先に漫画読もう!」などというアホなシーンが出てくる。
まさにそれも私。
私は昨日、今しなくてもいいレシートの整理をなんと延々3時間以上やっていた(お陰でそちらはかなり片付いた)。
その3時間あれば、ホロスコープの宿題終わった…。
『センスない』
ホロスコープの宿題をしている。
名前は伏せられた有名人のホロスコープを、講座で教えてもらった手法で読み解いていく。
やっていてわかる。
本当に私は星読みのセンスがない。
このブログとは打って変わって、私はホロスコープから読み取れることを文章に起こすのが大の苦手で仕方ない。
言葉を繋げても、「これ誰?」となる。
誰かを当てる必要はないけれど、自分の文章を読んでいてもそこからその人物の特徴がさっぱり見えてこない。
『暑い』
暑くて目覚めた。
クーラーのリモコンの在り処がわからず、右往左往した。
ようやく見つけて部屋は涼しくなった。
『ホロスコープ鑑定 again』
今回東京にもう1日滞在した理由は、ホロスコープ鑑定を受けるため。
1時間半個人宅で超みっちり専門用語オンパレードで読み解いてもらってきた(録音OKだったから、またこれから何回か聴く予定)。
本当は先月を希望した。
5月の末の話だった。
ところが6月はもう予約がいっぱいで、次空いてるのは7月以降だと言われた。
それで行けたのが今回だった。
何で今回だったのか、わかる。
今は書くと長いから書かないけれど、話を聞きながら納得した。
自分の人生の方向性も、特徴も、そこに全部現れていた。
半分は過去と今の話、半分は未来とそもそもどういう設定で生まれ落ちてるのかの話。
もうあとは私の覚悟とどう動いて色付けしていくかなんだとわかった。
自分の人生から逃げずに生きる。
それは乗り越えるのとも立ち向かっていくのとも違っていて、鑑定士さんの言葉で一番印象的だったのは「自分の星を好きになる」だった。
言葉を変えると、私の場合は、自分の人生から逃げずに、自分の人生そのものを好きになっていく、そんな風に私は解釈した。
『宿題を終える』
ホロスコープ鑑定の後、妹と待ち合わせるまで、私は初めて降り立った超ローカルな駅の中のパン屋併設のカフェで時間を潰した。
1時間半ぐらいかけて、宿題を一気にやった。
宿題は興味が湧かなかったけれど、私は同じ読み解きを自分のホロスコープでも毎回する。
新しく習った基礎の通りに読み解く。
この読み解きは本当に大好きで面白い。
自分のことを客観視することができる。
見知らぬ誰かのものはさっぱり言葉が繋がらないし、人物像も思いつかないけれど、自分のものは自分のどの部分がそういう色合いを出すのかや、自分自身の体験や価値観と照らし合わせて共通項が見つかって面白い。
そして自分のことを淡々と言葉にして綴る。
例えば私なら、ホロスコープの1つから読み解けることの中に、「どんなに小さなことでも、誰かから引き渡された価値観では納得できない、必ず自分が納得できることが大事」というのがある。
そういうことも、ホロスコープの読み解きによって、客観的にわかるようになってきた。
ちなみに、テスト範囲の子午線云々の話は読んだけれどいまいち理解できず、だから言葉が変わると絶対に答えられない自分がいるのは明白だけれど、まぁそこはわからなくても困らないからいいかと開き直った!
(↑こういうところもカツオとのび太にそっくりな気がしてならない。)
『傷を見つめる』
多分私は1つの傷に関して、3年ほど見つめてる。
傷を受けた最初は、相当泣いた。
それは家族が関係している。
今回また3年ぐらい前と同じような会話が妹との間にあった。
私は今回、3年分の自分を見つめ続けて自分のために積み重ねたものに心底感謝した。
決して嫌な思いをしないということじゃない。
でももう私は自分を否定しなくて良くなった。
3年前の私は、言われるがまま、そして一番自分の中で不確かだった部分が全く理解されないどころか、自分が生きてていいのかどうかもわからないぐらいに落ちたから、私は葛藤した。
あれは強烈過ぎたし、私の子どもの頃からの不安定感の正体もわかった。
ちなみに私が自分の弱いところを出さない最大の理由は、慣れ親しんだ家族との関係にあると思っている。
私は自分の家族は好きだし1人1人尊敬もしている。
本当に善い人たちだし、心の広さも優しさもある。
その人たちでなかったら、今の私はさぞかしもっと性格の悪い人間になってたと思う。
だけど、うちの家族の最大の弱点は、弱さを各自が自分の中に受け入れられないのと、それ故に家族の誰かの弱さも受け入れられない。
だから私が落ちても、大変だったねではなく、自分のことは自分で何とかしろ、がんばれ、みんな大変なんだからと言われる。
わかるだろうか、この言葉の強さ、そして寄り添ってもらえなさ。
反対に私はそれを言わないから、家族がそれぞれしんどくなったりきつくなると、私にそっと言ってくる。
私は自分はそれをしても家族からはそれをしてもらえないことを知ってる。
一番身近な人たちがそうだったから、私は人生で本気で怖いとか死にたいと思ったような相当追い込まれていた時でさえも、全て自分で抱えるしかなかった。
ただでさえ心がもう許容範囲を超えてるのに、そこにさらなる追い討ちが来たら自分が崩れるから。
私は自分だけが大変だなんて思わないし、自分がよく頑張ったとかいう風にも思わない。
だけど、人間もう今日は疲れて無理だよという時に、今日は疲れたから無理と、これに関しては私は自分的に超傷付いたからそれに向き合えないと、そんな元気ないと、それを自然に言える環境が欲しかった。
3年前、13ヶ月私が引きこもっていたことを家族は誰も知らない。
代わりに容赦ない言葉ばかりが飛んできた。
唯一何も言ってこなかったのは一番下の妹だけで、あとは父も母も妹もそれぞれの主張を私にぶつけてきた。
私はとうに限界がきていてとてもすべてをそのまま聞けるような状態にはなかった。
まさか3人もそれぞれ自分の言葉が私をさらに追い詰めてるなんて思ってもなかったと思う。
完全にノックダウンだった。
遠く離れていたから誰も私の顔は見えない。
30年近くごまかしの術をマスターしてる私は、普通の声で普通に受け答えできるキャパがある。
電話越しには誰も気付かなかった。
もしかしたら、目の前でも私はごまかせたかもしれない。
なぜなら私はショック過ぎて何も考えられないぐらいだった時に、なんと仕事の営業の仕事があった。
正しくは、営業の仕事の合間の休憩中に爆破的な人とのやり取りがあった。
完全に気持ちは飛んだ。
だけどお客さんは予定通りにくる。
その後も3人か4人対応した。
私はもう自分が何を喋ってるのかもわからない、相手の話も耳に入ってこないような状況にも関わらず、なんと全て契約を取った。
長年の経験は、私にそれだけの能力を授けてくれた。
だけど、本当はもうとっくに自分の中では崩壊してるから、心はズタズタになっている。
3年前の時に、私は外に求めても仕方ないとはっきりと悟った。
そして、せめて自分だけは自分を、たとえそれがどこをどう見てもよろしくない自分でも、受け入れるようにしようと決めたきっかけだった。
自分が傷付いたと感じることと、自分をどう思うかは別物だと学んだ。
そして、自分以外の人がどう私のことを思っても、それがものすごい否定されるものでも、だからと言って自分まで自分を否定しなくてもいいことも学んだ。
これ家族とか夫婦とか恋人とか、近しい人にされると相当きつい。
かなり追い込まれるし、傷も深くなる。
だけどそれはそれだし、自分までもが自分を傷付けてしまうようなことを思わなくてもいいんだとわかった。
そこが私の中の大きな線引きと癒しに繋がった。
だから今回妹がこの3年の間で繰り返し色んな言葉で私を否定するようなことと同じことを言ってきても、決して平気ではなかったけれど、かと言ってそれをいちいち真に受けなくてもいいこともわかった。
そして多分、妹の方が傷付いてる。
私に向けてる風だけれど、多分それと同じものが妹自身に向かってる。
それも感じたから、私はもうそっとすることにした。
私は弱さや苦しさを溜め込むんじゃなくて出すこと、そしてその自分に付き合うことを積み重ねた。
そのことが実を結んだように感じた。
傷を1つ1つ見つめていく作業は決して楽ではないけれど、必ず報われる。
自分のためにし続けたことは、必ず自分に返ってくる。
だから、無視するとその分自分の元へ爆弾として返ってくる。
だけど、付き合うと大丈夫な部分や自分の逃げ場所ができる。
これは自分から逃げるのと違う。
自分が自分の手を引いて、「今のこの状況危ないからちょっと隠れようか」みたいな感じ。
3年ほど鍛えといて良かった!と思った。
言うならば心の筋トレみたいなもの。
いちいちすごい筋トレみたいなことはしていない。
私がしたのは多分2つ。
1つは自分に合った筋トレの方法を模索して見つけたこと。
もう1つは気が向いた時だけ軽いストレッチをしたこと。
ストレッチは、泣くこともあれば、そうしたメンタル系の本を読むこともあれば、ノートに自分の気持ちのまま何かを書くこともあれば、逃げて全く関係のないことをすることもある。
ただ大事なのは、ストレッチの方法は何でもいいけれど、そういう自分を見捨てないこと。
『明日というか今日』
変な時間に目覚めた私は、真夜中らしい心の声を綴った。
だけど、今日こそホロスコープの講座で、その前に知人の方が作品展をされてるということで初めての三越日本橋本店に出向き、そして最後にヒーリングのレッスンがある。
寝ないとまずい。
まずは寝よう。
関係ないけれど、英語でおやすみはgoodnight だけど、実際の挨拶の時は「Have a good night」になる。
この表現、私大好きなことを思い出した。
0 件のコメント:
コメントを投稿