私は普段から大きな袋の中にこれからも使えるおしゃれな袋をいくつかストックしている。
引っ越しでどうでも適当な大きさの袋が必要で、それでその大きな袋からすべてと言っても10個ちょっとの袋を出した時に、1つの紙袋を見て驚いた。
それがいつのことだったか覚えていないけれど、少なくともこの1年以内のことだったのは確か。
その日は雪が降っていたから。
友達の紹介で、私はお見合いではないけれど、どちらかと言えば結婚前提的な意味での紹介された人と会った。
どのぐらい自分に結婚願望があったかと言われたらかなり怪しいところではあったけれど、でも次に進みたいという気持ちが少なからず出てきた頃ではあったから、せっかくの機会と思ってその人に会ってきたのだった。
その時にその人から、その人が勤める会社のグッズをあれこれいただき、それが入っていた袋がその紙袋だった。
私はとにかく驚いた。
この1年で私は自分がどれだけ遠くにまで来たんだろうと思った。
とにかく激動の1年だった。
その人に会ったことももうすっかり忘れていて、今日その紙袋を見ておおよそ1年ぐらいだったかなということを思い出したぐらい。
ちなみにいただいたグッズは超重宝していて、それっきり会うこともない人になったけれど、私は普通に普段使いしたり特別な時にこれまた特別な感じで使わせてもらったりしている。
その中のひとつは、ひとめぼれする位に気に入った小さな袋で、前の職場でも今の職場でもがっつりと使い込んでいる。
その人と会ったお店は私が子どもの頃からずっとあったお店だったけれど、この1年の中で閉店し、そして今は全く別のお店となって生まれ変わった。
閉店した時に私はわざわざお店の入り口前に車をつけて張り紙を見に行った。
「あれ?閉店してる?」と思い見に行ったら案の定そうなってた。
その閉店のお店を前に、人生で一度きりの時間をその人と過ごして、それが最初で最後の時間・思い出となるように最初からなってたんだなと思った。
正直私はどうしてその人と会うんだろうか?と行く前から不思議な気持ちでいた。
表面上は男女の顔合わせ的な感じの出合いのように見えるけれど、本当はそうじゃないんだろうなぁとどこかで思っていた。
当時は新潟に戻ってから半年ぐらい。
私は何も決めずに帰ってきたから、そしてどの位新潟に住むのかも皆目見当もつかなかったから、私は高校の時からずっと会い続けている部活の時の友達以外には他の誰にも地元で連絡を取らなかった。
自分の今をあれこれ聞かれても答えに困るだけだし、積極的に人に会いたいとは全く思わなかった。
ひっそりこっそりと生きていたかったから、だから私が会ったのは高校の友達だけだった。
それ以外はずっと家と仕事の往復という頃だった。
だから誰かに会うということを全くしていなかった当時、仕事以外の場面で初めて「新しい人」に会うことになった。
しかも自分から作ったきっかけではなく、人が持ってきたきっかけだったから、これは余計と何か意味があって起こることなんだろうと漠然と思っていた。
だから、何か意味としては、「お付き合いしましょう」的な感じで会うんじゃないんだろうなぁと思っていた。
過去に何人かの男性を友達経由で紹介してもらったことがあるけれど、そんな風に会う前から思った人は初めてだった。
会ってみて、本当に思った通りというか、そういう理由で会ったんだなというのが今、より一層わかる
私はその人と数時間お茶をした。
私は人に合わせて自分の話す量の割合が変わるけれど、基本的には話すの好きだと思う。
でもその日の私は、数時間の中で15分か20分ほどしか喋らなかった。
残りの時間はすべて相手の人が喋り通した。
多分普段はあまり喋らない人だと思う。
ましてや自分の個人的なことなんかそうそう積極的には喋らない人だと思う
だけどその時のその人は、自己紹介という意味合いで自分のことを洗いざらい私の前で告白していた。
何百人という人の人生の話を聞いてきている。
私が聞く話というのは、どちらかと言えば個人の人が墓場にまで持って行くような、本人にとってトップシークレット的な話のことが多い。
そういう話の時は、何でそういう流れになるのか毎回わからないけれど、いつも私が全く身構えていないような時に突然相手はそういう秘密の話を始める。
突然告白してくる場合が多くて、というより私は自分から聞き出そうとして聞いたことが多分一度もない。
人の数だけ物語や体験があって、内容によってはよくこの人ここまで生きてこれたなぁと泣きたくなるぐらいにただただその人が生きていることに感慨深いものを感じることもある。
本当にヘビー(heavy)な体験をしている人というのはいくらでもいて、全くもってそれでも日々生きていると思うと、相手のけなげさに胸がきゅんとする。
話は戻って、その紙袋をくれた人。
私はその人の話は「聞いてあげなきゃいけない」と思った。
「聞いてあげる」なんていうのは何て傲慢な考え方だと普段の私は思う。
「○○してあげる」ってそれだけで上から目線で、相手を小馬鹿にしているみたいで、私はすごく嫌だなと思ってる。
だから私はこれまで一度も「話を聞いてあげる」なんて思わなければ、「聞いてあげたい」と思うこともなかった。
だけど、その人の時は「聞いてあげなきゃいけない」というのがとても自然に出てきた。
話の内容ではなくて、その人が体験したことで自分の中に抱えている傷があまりにも生々しすぎた。
性的虐待を受けたという告白を何人かの人から聞いた時がある。
私はそういう時でさえ「話を聞いてあげなきゃ」なんて思わないし、その人の傷の深さを感じても傷が生々しいなどと思ったことはない。
比べるものではないけれど、それらに比べたらそこまで痛い体験ではない。
だけど、その人がもう抱えきれなくなっていてその傷がバンとそのまま目の前に出てきてしまっていて、その人の痛みやそれを声に出して言えない、自分の中で抑えるしかない気持ち、そういうものが外に出たがっていて、それらがやたらと生々しくそしてとても痛い感じがした。
おかしな言い方だけれど、多分そういう、人の他人には言えない話を聞くことが私の人生の役目みたいなものだと思う。
当時の私はそういうことから自分をわざと遠ざけていた。
自分のことで目一杯で、とにかく色んなことがそれどころではなかった。
だけどそろそろそういうところに戻ってもいいですよ、それがあなたのすることですよ、というお知らせじゃないけれど、そんな風にしてその機会は巡ってきた。
だから会う前から「何か違う感じで物事は動いている気がする」というのは、そういうことだったんだと思う。
そして私としては全く悪い印象を持たないどころか、何か大切なものに気付かされた感じさえしたから、相手からいただいた品物は今もありがたく使わせてもらう、という普段の私なら抵抗するようなことを何のてらいもなくやっている。
後日談として、その人を紹介した大元の人から「あの時はとにかく話を聞いてもらえて良かった」と相手が言っていたことを友達経由で教えてもらった。
その紙袋をもらった時、今の私の姿なんて想像もできなかった。
私はその日の自分の格好を今でも覚えているけれど、その日私は男の人と会うんだからせめてスカートぐらいは履かなきゃいけないと思って履いて行った。
履きたくて履いたんじゃない。
普段長靴で行動するくせして、その日はブーツで出かけた。
かばんもきれい目なかばんを持って行ったかと思う。
「常識の範囲」で考えた格好をして出かけた。
そうしたくてそうすると言うよりも、そうするのがマナーとかそういう場にふさわしいと考えてそうした。
それがこの1年でずい分と変わり、私はこんな年になってから自分の好きな形のスカートを履くことを好み、何にもなくても「今日はおしゃれしよう!」と自分の中でおしゃれをすることがある。
その原動力はもっと別のところにあって、私はそんな原動力とこの1年の中で出合うことになるなんて想像さえしていなかった。
そして1つわかったことがある。
求めていなくてもそういう何かに出合うことが人生では起こるということ。
それはどちらかと言えば、必然に近い感じで、必要だからそうなってるという方がしっくりくる。
例えば私はその人の話を聞こうなんて全く考えてもなければ求めてもいなかった。
だけどそんな予定もしていないところに、そういうことが実際に起こった。
人と出逢ったり、自分にとって何か大切なものと出逢う時もそう。
求めていない時に突然目の前に現れる。
そういうことがめまぐるしく起こりまくった1年だった。
たった1枚の紙袋は、私のこの激動の1年を伝えるだけではなく、その激動の1年となった色んな出逢いを改めて強く意識に上らせてくれた。
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