2017年12月10日日曜日

習慣のすごさ


9月の中旬に入る前から始めた墓参り。

仕事のある日は仕事の前に、休日は出かける前にさっと立ち寄る。

外に一歩も出る用事のない日でも墓参りにだけ行く日もある。

だから意図的に墓参りに行かなかった日は、初雪が降った日。

そしてついこの間も行かなかった日があった。

行けないわけではなかったけれど、行ったら数分の遅刻は免れそうになかった。

冬恒例の道路工事が始まって片側通行が数か所その前の日から発生したから、その数分のロスを計算すると、多分間に合わない。

さすがに墓参りに行くために遅刻するのはどうかと思い、その日は断念した。

行かないと決めたものの、こうも毎日行っていたから行かないことが非常に気持ち悪かった。

初雪の日は行かないことよりも、今年が10年ぶりの運転から数えて2回目の冬だから、運転に集中することでいっぱいいっぱいだった。

だけど、その行かなかった日は道路に雪がなく、心は自由に思考していた。

ふと「そうだ、この車の中で心の中でそっと手を合わせたらいいんだ」と思い付いた。

文字通り私は運転しながら、心の中で手を合わせていつもと同じフレーズを心の中で唱えた。

やりながら、冬場雪で墓参りができなくなったら毎朝こうしようと決めた。

その手を合わせていた時、「これが心の中で手を合わせる」という行為だということに気付いた。

お墓なんていうのは残された人たちが先祖と向き合うための形として設けられたものだから、お墓を持つことが大事なんじゃなくて、本当の意味でお墓参り又は先祖供養をしたいのであれば、日々心の中で手を合わせることが大事、と説いた神職の方がいた。

ごもっともと思ったけれど、いかんせん「心の中で手を合わせる」なんてことしたことがなかったから、どうするのかなんて実際のところ全然わからなかった。

だけど3ヶ月近く墓参りを続けているとこれまた不思議で、手を合わせることが当たり前になってくる。

そして私はまた相変わらず祈りというよりも我欲全開の願いを唱えてくる。

それをお墓がなくても自分の心の中で実践すればいいだけだから、今度は迷うことなく手を合わせることができるようになった。

100回近い回数をこなすようになると、こうして意味不明でできないと思っていたこともできるようになるんだなと感動さえ覚えた。

習慣のすごさを思い知った。

ちなみに全てにおける因果関係はさっぱりわからないけれど、平穏無事でいられることやその中でも不思議としか言いようのない数々の出来事や出逢いに遭遇している日々の中で、やっぱり墓参りは大事な役目を果たしてくれてるんじゃないかと思っている。

お墓前の道 2017/12/10晴天!

お墓前から撮影 2017/11/28 朝出勤前




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