38歳といえば本当にいい大人で中年で、何かその年齢の人がやらかすと、世間では痛いと思われる。
30歳の私から見て38歳はとても大人に見えたけど、38歳の私は相変わらずで、時々もっと子供っぽくなると感じる時さえある。
若返るんじゃなくて子供っぽくなる。
そんな38歳の私がひきつけられた人は、社会性や理性を持ち合わせた大人の自分では絶対に選ばない人だった。
相手の持つ肩書きや外見には全くと言っていいほど興味がなかった。
むしろ、その2つに関して言えば、絶対にタイプとして選ばない、むしろ除外するタイプの人だった。
だから最初自分は何にどう心が動かされているのかさっぱりわからなかった。
可笑しな例を挙げたらキリがないけれど、例えば、私が心動かされた瞬間として記憶に残ってるワンシーンは、相手がトイレに入ろうと動いてる姿だったりする。
何を知覚として持っているのか、私は自分の感性をそれこそ疑いまくった。
言葉にして書くとさらに可笑しい。
トイレに向かおうとしてるその人の姿を目に入れながら、私は自分でもどうしていいのかわからないぐらいに気持ちがあらぬ方に動かされていた。
そして私は自分で自分に38歳の大人なのに…と何度も言い聞かせた。
そんな日々を繰り返し過ごした。
そんな日々の中で、1つだけ最後までこだわったことがある。
本来なら名前で呼んでいい人ではなかった。
特定の呼び方をすることが大人としての常識であり、周りはみんなそうしていた。
だけど、私はそれだけはどうしてもしたくなかった。
あくまで個人としてのその人を呼びたくて、名前で呼ぶことを通した。
一度だけ大人の呼び方をしたけれど、実にしっくり来なくて、どうせ誰も聞いてないだろうし、本人もどこまでそれに気付いているのかなんてもっとわからないから、それっきりやめた。
なんなら、怪しまれないように、もう1人のことも名前で呼ぶことを通した。
カモフラージュ的な意味でしかなく、こちらの方は別に大人な呼び方でも良かった。
ちなみに今の私はもう名前にこだわる必要がないから、普通にその人の代わりの人のことは大人の呼び方をして呼んでる。
その人の時みたいに名前で呼びたいようなそんな気持ちは一切ないから、普通に大人の私になって常識人ぶってる 笑。
肩書きや外見ももちろん大事な要素だと思う。
社会生活を送る上で、ないよりもあった方がお得なこともたくさんあるだろう←両方ともない私にはわからない感覚 笑。
でも、そんなのその人についてる一部で、私の中では「私は日本人です。私の性別は女です」と同じくらいの位置でしかないものだった。
相手の肩書きは、本当にその人が年月をかけて積み重ねた結果だから、それに対してはもちろん凄いことだと大真面目に思ってる。
だけど、私の心はそんなところには一ミリも動かなかった。
むしろ、邪魔だとさえ思ってた。
相手との距離感や隔たりを生むようなものにしか見えず、いくら社会的常識に欠けてるような私でもなんとなく近寄りがたいものがあった。
私が見てたものは、肩書きでも外見でもなく、その人がその人であるものを見てた、そんな風だった。
そういうことも伝える機会がないまま今に至る。
職場の今日の日めくりカレンダーにはこうある。
「縁あっての出会い
出会いを大切に」
9月に見た時は、それを見て泣きそうだった。
思わず私は仕事を差し置いて、カレンダーを確認した。
とりあえず10月は休み=そのカレンダーを見なくて済むとわかったから。
仕事中に色んな感情が噴出してもらっては困る…そう思って確認してた。
11月は順当にいけば目にすることがわかった。
だけど、その日から数えて2ヶ月もあれば、11月に見る時は違う風が吹いてるかもしれないし…、と私はもしかしたら相手のことを忘れたりする可能性に淡い期待を寄せたりもした。
11月はそれを見て何を思ったか忘れたけれど、今日はその言葉を見てそんな風に思える人に出逢えたことにただただ感動した。
なぜならこの間、ネットサーフィン中にノーベル賞並みの素敵な考え方に触れて、そのことが頭にあって感動もひとしおだった。
ネットで読んだ内容はこうだった。
例えば毎日10人の人に新しく出逢ったとして、それで100歳まで生きたとすると、人生で出逢う人の合計は365日×10人×100年=365000人。
1日1人にしたって、30000人を超えるぐらい。
まさかそんなに毎日新しい人に出逢うわけではないから、現実的にはもっともっと少ない。
同級生とか同僚とか「知ってる」関係者を合わせたら一生で3000人ぐらいいけるかなどうかな?と考えたら、その中で特別な関係を結ぶ人なんて本当の本当にひと握りだってわかる。
それを読んだから、今日のカレンダーの言葉は9月とは別の意味で響いた。
現実的な結果どうこうではなくて、そんな人に出逢えた、そのことが凄い。
伝えたいことや聞きたいことはたくさんあったし、今だってチャンスさえあれば是非ともそうしたいと思ってる。
トイレに向かおうとしてた人を見て感情が動いてた自分、私は時間を追って忘れる方ではなくて、そんな自分が人生で出てきたこと、そんな自分の気持ちを素直に受け止めることにした。
今なら誰に迷惑をかけるわけでもないし、自分の気持ちを否定しないことは自分にとってもやさしい。
今は、自分の中で響き続けるもの、そういうものをただただひたすら温めている。
それがせめてもの、自分にしてあげられる最大のことだと思ってる。
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