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2018年3月19日月曜日

トイレ掃除戦争

今の職場は毎週水曜日掃除の日になっている。

事件は起きた。

というより起こした。

発端はこうだった。

職場には3つの男性トイレがある。

1つは特定の男性がいつも担当してくれていて、残り2つは別の男性たちがするか、男性が出払っていてする人がいなければ私たち女性陣で手分けしてやることになっている。

最新型のトイレを導入しているとは思えないぐらいにトイレが汚い。

本気で発狂レベルで汚い。

私はたかが数ヶ月の勤務で何回そのトイレたちを掃除したことだろう。

誰も男性がいない時は仕方ないし、現場仕事優先だから手伝ってあげたいとは思わなくてもできない時はお互い様と思って普通にする。

ところがこの間の掃除は違っていた。

手の空いてる人が2人もいながらにして、見ていると一向にする気配がない。

以前は物置のようになっていた部屋が応接室のような感じにここ2~3ヶ月でなって、私は廊下と階段のついでにそこも掃除してそして様子をうかがっていた。

でもだーれも来ない。

そのうち誰もいなくなって、それで私は仕方なしに1つ目のトイレの掃除を始めた。

誰かがくれば、もう1つお願いしようと思った。

だけど待てど暮らせど誰も来ない。

私はそこでもう策を変えた。

ここは一気に2つやりきって、その上で今日は物を申そうと決めた。

男性の長たちに(実際いた2人は長たち)、トイレ掃除をどうでも水曜日でなくていいから男性陣で当番制でやって欲しいと言おうと思った。

その時の私はもうキレ始めていた。

トイレ掃除に怒っていたわけじゃない。

タバコを吸う余裕があるくせしてトイレ掃除をしようともしないその態度にむかついたから。

だから2つやった上で、ましてや普段何も言わない私が突然声を上げるのだから絶対に相手はびびるだろうし、それはみんながいる前で言って誰も聞いてませんよみたいな状況にはさせないぞ!ぐらいな感じで案を練り始めた。

そのことを途中トイレグッズを取りに事務所に行った時、一番仲の良い女性に言った。

しばらくすると彼女もトイレ掃除をしている私の元へ来てこんな風に言ってくれた。

「ねぇ武士俣さん、武士俣さん1人だけが悪者になるのは絶対にだめだよ!

これみんなの問題なんだから、武士俣さんが全部かぶらなくていいんだよ!」

私はその申し出も嬉しかったけれど、月末にはやめるし、そしてこれからも残る他の女性陣の誰かにそれを言わせるのも忍びなかった。

だから私が言いますと言った。

そうしたらちょっと他の人とも相談しようということになって、一番年配の女性とも相談した。

結局はその年配の方が言ってくれるということになって、私は申し訳ないばかりだった。

「いいんだよ。これは誰かが言わなきゃいけないことだったし、そして本当に私たちも全員男性陣に何とかして欲しいとずっとずっと思ってきたことだから、良い機会だから言うよ」

と言ってもらえた。

武士俣さん2つも掃除してぶちぎれてましたから!と言って下さいと笑いながら伝えて、あとは事の成り行きに任せた。

私が帰る1分前ぐらいにその女性は「○○○長、今いいですか?」と自分の席に着いたまま声を上げた。

「あ、いいですよ」

「あのですね、下の男子トイレなんですが、どうでも水曜日とかじゃなくていいので男性陣で相談して当番制とかにしてもらって掃除を担当してもらってもいいですか?」

「あ、いいですよ!そこは僕の担当ですからやります」

「じゃあお願いします。

今日すっごい汚かったみたいなんで。

そのすっごい汚いトイレを武士俣さんが2つもしてくれて、それで大変だということで、今後は男性陣にしてもらった方がいいだろうということで。

じゃあ来週からはよろしくお願いします」

こんな風にとてもスムーズに話が終わった。

主要メンバーの男性たちもいた。

私はその女性の耳元で「ありがとうございます」と言って、全体にお疲れさまでしたと言いながら事務所を出ようとした。

そうしたら長が

「武士俣さん、今日はトイレ掃除ありがとうございました」

とわざわざ言ってくれた。

実は長とは先日の飲み会の席でトイレ掃除についても話をしていた。

だからその時の感じを思い出して

「いえいえ。

ほんっと、今日は何の罰ゲームかと思いましたよ!特に便器の周りが超やばいですから!」

と返した。

「いや、これからはきれいに使うようにみんなに周知するので!」

と言ってくれたけれど、

「いやそれは大丈夫です。今後はみなさんで掃除してくれるから、どう使われても大丈夫です!」

と笑いながら言って帰ってきた。

飲みの席で男がトイレをきれいに使う、まして座ってするのは難しいと私に説明してくれていた。

そして立ってする時もきちんと便器の中に納めるのが難しいことも言っていた。

何でもいいけれど、掃除さえしてくれたら何でもいいよと返していた、その時も。

来週からのトイレ掃除が本当にどうなるかなんてわからない。

だけど穏便に話が終わって(ちなみにこの男性トイレの掃除については積年の課題だったらしい)、誰も嫌な思いをせず(多分)、とりあえずの方向性が出たのはとても大きい。

今の職場で私がした仕事の中で一番の功労かもしれないと思うほどだった(笑)。

私はこれもオルゴナイト効果のような気がしてならない。

実は女性陣で過去にも同じように当番制の導入を訴えたことがあったらしい。

だけど定着どころかそのようには一度もならなかったようで、現状のような状態がもう何年も続いていたとのこと。

そして私が言うと言った時、私は本当に言うのは構わなかったし誰かが言わなきゃいけないことだし、さらにはもういなくなるから本当に痛くもかゆくもなかった。

そしてそれで他の女性陣の負担も軽くなるなら、喜んで言います!ぐらいな気持ちだった。

だけどそこで私1人が悪者になるのは良くないと言ってくれる人が出てきたり、私が代わりに言うから大丈夫と言ってくれる人が出てきたり。

本当にありがたいばかりだった。

そういう他の人たちの心くばりが本当に本当にうれしかった。

そして最後に長は私にお礼まで言った。

当然かもしれないけれど、私はこの人がわざわざそう言ってくる時は相当な時じゃないと言わないのは普段の様子を見ていて知ってるから、だから余計とうれしかった。

そして誰も嫌な思いをしなくて済んだのはもっと良かった。

私は誰かが嫌な思いをしてまで何かを発言する気はないし、その負担の部分を誰かにさせるのも好きじゃない。

それなら自分で言う方が気持ちが楽だし、適当にやれる。

驚くぐらいに全てがスムーズで、そして硬い感じのお願いではなくきっちりとする中にも笑いが生まれるぐらいなのが良かった。

ということでトイレ掃除戦争は幕を閉じた。

2018年3月9日金曜日

有給休暇のとある1日


有給休暇のとある1日

 

妹と2歳の姪っ子メイが金沢から帰省してきた。

1年間の有休を使いきった私には有休がなく、そこを上の人にお願いして翌週3月から支給される新たな有休を前倒しで使いたいと言ったら2つ返事で了承を得て、それで昨日今日と有休を取っている。

(来週の有休に当てている2日分は普通に出勤して、本来有休でもなんでもない昨日と今日はタイムシート上は出勤扱いにしてもらった)

そんな大人の事情も含んだ有休の使途は…。

 

自宅から徒歩1分のところに児童館がある。

そこにメイと5分くらいかけて歩いて行ってきた。

そこには十数回通っているメイの方が詳しくて、丸っと初心者の私の方がドギマギした。

妹から噂かねがね聞いていたけれど、本当にだだっ広い敷地で、そこに色んなおもちゃから大型の遊具まで置いている。

そんな充実型の施設なのに、冬で寒いということとあまり知られていないのかほとんど人が来ないということだった。

昨日はメイと奥の方にインフルで学級閉鎖になったと思しき小学生の女の子しかいなくて、その大きな施設を貸し切り状態で使えた。

物珍しいおもちゃが満載で、メイは喜び勇んでいた。



子どもの施設で働いていた20代、私が仕事で一番嫌いだった時間は幼稚園に通う前の小さな子どもたちと一緒に過ごす日中の時間だった。

特にマンツーマンで2時間ぐらい一緒に過ごすのは、私にとって拷問の他の何ものでもなかった。

子どもはすぐに遊びに飽きるし、たまに特定の遊びにはまることはあるけれど、それはエンドレス怪獣ごっことかままごと要素の高い○○ごっこで同じことを繰り返しさせられる。

それが嫌で私は3歳の子に3キロ近い距離を散歩させて過ごすということを何回もやった。

変な話、1人を見るより10人一斉に見る方が気持ちが楽だった。

バタバタしているうちに時間が過ぎるから、気にならない。

そんな私が10年ぶり以上に2歳の子どもと一緒にみっちり遊びだけをするというのは、ある種恐怖だった。

メイが指さすものを次から次へと出して遊ぶ方式でいってみた。

2歳児のするままごとはエンドレス同じことの繰り返しで、それが終わった時時計を見てあまり時間が経ってないことに心底がっかりした(苦笑)。

自分の姪っ子なら理由なしに可愛いから耐えられるのかと少し期待してみたりもしたけれど、そんな期待3回目ぐらいの同じ動きのままごとで見事に打ち砕かれた。



メイは超ニコニコだったけれど、この時の私の顔はさぞかしひきつっていたと思う。

ままごとの次は、木製のプラレールをやりたいと始まった。

それも全然構わなかったけれど、いかんせんそういう線路の組み立てとかが極端に苦手な私には、プラレールの部品たちを見てぞっとした。

これ組み立てられるの??という感じ。

しかもメイがこれを使えと1つ大きな踏切のついた道具も出してきた。

ますますわからない。

とりあえず繋げていけばなんとかなるだろうと思い、繋げ始めた。

途中からうっすらと気付いてはいたけれど、どこかから向きがおかしいのか凹凸の組み合わせがうまくない。

でもそんなのどこを直せばいいのかもわからず、しかも変に曲線になってるから、その扱いもどうしていいのかわからなかった。

どうすんのこれ?とぶつぶつ独り言言いながら、メイは楽しく完成部分に汽車を走らせて喜んでいたけれど、線路の繋がらない私は1人悪戦苦闘していた。


最後は私の力ではどうにもならないとあきらめ、こんな風に。



繋がっていなくてもそんなのは手で汽車を持ち上げて通過させればいいと開き直って、メイにもそのように実演したけれど、私の努力のかいも虚しく、メイは自分が気に入った大きな道具のところをひたすらリピートして汽車を走らせていた。

とりあえず頭を使ってぐったりしながらも、いらない道具をしまっていた時のこと。

メイは1メートル以上離れているのに何か臭い。

嫌な予感しかしなかったけれど、メイに聞いた。

「ねぇウンチした?」

「してない。ない!」

「見せて!」

「みない!」

もうこの否定っぷりはしている。

本当にしていない時は素直に「ないよ、みていいよ」と言ってくるから、この拒絶具合といい臭いといい、99%確信。

「じゃあしてなくていいから、少しだけ見せて!」

「しない!」

「おやつ食べようか?食べる前にちょっと見せて!」

「いいよ」

ようやく交渉成立。

広い施設の中には子ども用のトイレが2つもあるけれど、オムツをどこで替えるのかがわからない。

妹もおやつや出席シールや遊び方なんかは事細かに説明してくれたけれど、オムツについては「あ!一応かばんの中にオムツ入ってるから」の一言しか言わなかった。

妹はどこで替えていたんだろう?と思いながらきょろきょろしていると、おむつを替える台を見つけてそしてそこはカーテンで仕切れるのがわかった。

外でメイのオムツを替えたことない私は最初オムツ台を開いてセットしたけれど、よくよく考えたら横になられる方がもっと大変になるとすぐにわかって、立ったままオムツを替えることにした。

っていうか、家でもそうしていることを思い出した。

あまりにパニックで一瞬おかしなことを考えたけれど、そうじゃないことを思い出してようやく冷静になれた。

なんだろう、有休取ってまでしているメイのウンチのオムツ替え…。

絵文字の(-_-;)こんな顔になりそうだった。

ちなみに帰ってから妹に聞いたら、十数回行っている児童館でこれまで一度もウンチはしたことがないとのこと。

しかもメイは外だと緊張するのか外ですることはほとんどない。

よりにもよって昨日…。

だから妹も私に「出ないと思うけど、一応オムツ入れといたから」ととてもさらりと説明していた。

他のことはものすごい懇切丁寧に説明してくれてたけど…。

そんなまさかのウンチタイムが特大のおまけで付いてくるとは。

妹に「むしろ当たりじゃん!」と言われても全く嬉しくなかった。

 

その後もメイと1時間ほど児童館で遊んでから、家に戻って今度は妹と3人で美味しいランチの店と美味しい珈琲を入れる店をたまたま見つけて行ったけれど、とにかく私の有休はメイとの児童館とウンチによるオムツ替えに費やされたことが一番だったことを言いたい。

これまで色んな有休の使い方をしてきたけれど、こんな使い方は初めてで斬新だった。

でもよくよく考えてみたら、こんな風に有休を使ってまででもメイと過ごせるのなんて今しかないなと思った。

徒歩1分の児童館もメイにとってはとても楽しいお出かけだったし(その週、何と週5で通い詰め、さらには最後の日は午前は妹と、午後はばあさん(母)と2回も行った)、とにかく飽きることなく毎日毎日喜んでいた。

ウンチを変えたのは私だけだったけれど、それだって面白い(?)思い出になる。

思い出を作るために誰かといるというのは最高に粋な有休の使い方だなと思う。

 

【追記】

メイと妹が帰る日、帰る直前にメイと2人で私の部屋に行った。

メイは階段が好きで、用事がなくても一緒に2階に上がること何十回とあった。

私の部屋でメイと妹と3人で寝たし、メイはウンチをする時の十中八九は私の部屋に1人で行きそこで力んでた。

私の部屋は完全にメイのウンチ部屋と化した。

そこにメイと2人で出発する直前に行った。

メイは今回も私がオイルマッサージをすることを好んだ。

その時も別にマッサージの必要はなかったけれど、メイに「オイルぬりぬりする?」と聞いたら「うん!」と元気な声で返事が返ってきた。

もう出発寸前だから、足じゃなくて手のかさかさしたところに塗った。

メイの小さな手をさすりながら私は泣きそうになった。

あぁもうこの時はこの時しかないんだということがわかって、また塗ってあげたくてももうあと数分後にはメイたちはここを去るんだなと思うと、切ない気持ちになった。

メイは黙って私の手の動きを見ていたけれど、私はその小さな手とメイを見て泣きそうになるところをぐっと抑えるのに必死だった。

声が震えそうになりながら、メイに「じゃあ下に行こうか!」と言うのがやっとだった。

お気に入りの1枚。
このぶさいくな寝起き顔が可愛くて愛しくてしかたない。
ぶさかわいい顔で、自分の相棒のタイ生まれのトンプソン(ぬいぐるみ)とリップと一緒に。
この日の朝は、抱っこして下に連れていかれたことが不満で、
「じぶん、じぶん」
(自分で階段降りる)
と言って、もう一度2階に上がって自ら階段を降りてる様子。
アンパンマンのチョッキは、私がメイにプレゼント。
妹は絶対にキャラクターものを買わない主義だから
そこはおばが代わってメイの希望を叶えてあげることに!

2018年1月15日月曜日

冬の散歩


外はすごく天気が良かったけれど、昨日1日動き過ぎたせいか今日(1/14)は朝からぐったりとしていた。

できれば何もしたくないという感じで、朝一度ブログの下書きをした後はずっと布団の中にもぐっていた。

夕刻になろうという頃、こんなに天気がいいのに一度も外に出ないのはもったいないと思い、冬の定番、上にダウンを羽織り下だけGパンに履きかえて外に歩いて出た。

遠くの山が空の青と雪の白のきれいなコントラストを織りなし、ものすごく映えていた。


来た道と同じ道をたどると、あるお宅の軒先に2メートルぐらいの梅か何かそういう類いの木があった。

枝にはどっさりと雪が積もっている。

近付いて見てみると、枝の先々につぼみらしきものが姿を見せていた。

春に確実に向かっている、はっきりとわかった。




名古屋にいた頃、あれは絶対にニートだったいつかの時だったと思う。

何で1時間も離れた駅の近くに行ったのかは忘れた。

地下鉄1駅分は歩こうと思って、平日の人が通らない道をひたすら歩いた。

その時にわりかし大きな1本の木の前で立ち止まった。

木はさくらだったんじゃないかなと思う。

つぼみが出ていた。

外は晴れていても気温は0度に近かったと思う。

ものすごく寒いのに、木は確実に次の季節に向けて準備をしていた。

木だから誰か人間が世話をしているわけじゃない。

だけど自分の力で、太陽の様子を見ながら次の季節に向かって自分の状態を整えていた。

その姿に私はものすごく感動した。

ニートの頃というのは、先々が色々見えなくて不安になることは多々あった。

そんな中自然の力を目の当たりにして、ものすごく感動した。

ただただ冬という時期を耐え忍んで、でも耐え忍びながらも次への準備をしていた木を見て、それが今の自分への応援みたいに見えた。

 

家を出る前、母親に買物を頼まれて、今度は車で外に出た。

ついでにお墓にも寄ろうと思った。

路面に雪がほとんどないということは、もしかしたらお墓もある程度は近くまで行けるんじゃないかと思ったから。

着いてみると、連日の雪はそんなに甘いものじゃなくて、しっかりと積もっていた。

それは道路脇の高くなった雪壁とまったく一緒だった。

まぁ来たついでだから近くに行ってみようと思い、車を止めて近くまで行ってみた。

お墓に入る前に数段の階段がある。

なんと数段の階段には人が上った形跡があり、おかげで階段の上まで上がれるようになっていた。

こんな冬でもお墓参りをする人がいるんだとえらい感心した。
(私のはお墓参りという建前のもと、実際は願掛けという本音があるから、お墓参りとは言い難い)

階段を上りきってわかったこと。

階段を上りきったところのすぐ右側には6人のお地蔵さんが並んでいる。

先月ぐらいだったかに行った時、そのお地蔵さんたちに手作りのフェルトで作られた合羽を着せてくれている人がいることを知った。

どうやって寸法を測ったのかとかそんなの知らないけれど、実にぴったりの大きさの温かそうな合羽を6人全員が着ている。

そしてその誰かが歩いた足跡は、ちょうどお地蔵さんの前で終わっていた。

そのどなたかは、お地蔵さんに手を合わせるためだけにそこに立ち寄ったらしい。

しかも足跡を見るとわりと小さな足跡だったから、女性、おばあちゃんとかかもしれない。

そこに手を合わせるためだけにその誰かさんはここに来たんだなと知った。

そして多分その方がこのお地蔵さんに合羽を作って着せてあげたんだろうなということも想像できた。

願掛けの私は、お地蔵さんの末尾から1.5メートルほどしか離れていない我が家のお墓まで雪を掻き分けてそこに辿り着くような心は持ち合わせておらず(私の太ももあたりまで積もっていた)、一番末尾のお地蔵さんの前を失礼してそこから墓に向かって手を合わせた。

お地蔵さんたちにも手を合わせ、失敬と思いながら写真を数枚撮らせてもらった。







お墓のすぐ近くのスーパーで頼まれた物を買い込み、また家へと戻った。

家のすぐ近くから見える山が、今度は濃紺のような色の空を背景に白く光っているのが見えた。

私の技術ではその良さがさっぱり伝わらないけれど、途中その山がきれいに撮れそうな道に寄って写真に収めてきた。





たかが30分程度の外出だったけれど、心から満足した冬の散歩だった。

 

*おまけ*

【1月11日大雪の日のダイジェスト】

15:29 あまりの大雪に信号すら見えない


16:32 雪がやんだ白銀の風景

16:41 青空が姿を現した あの大雪の信号が見えなかった1時間前が嘘みたいだった


 

【1月12日】 

7:28 部屋から撮影した朝日



8:18 通勤途中、車から降りて撮影。昨日の雪が嘘のような青空




写真には撮れなかったけれど、12日は道路も信号についた雪も半端なく凍っていて、そうしたら、国道の信号の前で警察官の方が超ロングサイズ(青信号に届く長さ)の雪かきブラシで信号の表面についた雪を払っていた。

雪国生活で初めて見た光景だった。

職場の前の駐車場。車が雪で埋もれている。

【1月15日 月曜日の朝焼け】

2018年1月12日金曜日

食パン1枚の葛藤


100日記録のノート(☆)をパラパラとめくっていたら、Hさんとのやりとりが記されていた。

2012年の秋の日、Hさんが「俺の好きなものだけど…」と言ってポテトチップスとポップコーンを手土産に持ってきてくれたことと、それにより自分の怒りのボルテージが下がったことが書かれてあった。

元をただすとこうだった。

Hさんとは数年来の友達で、色んなことを深く話せる人だ。

当時Hさんは転職し、私から見て本人に合わない場所や人たちと付き合い始めた頃だった。

あの時は本人もいっぱいいっぱいだったのは今振り返ってみてもそう思うし、私は私で自分のことで手一杯だったから、Hさんを気遣ったり思いやったりするような余裕はなかった。

当時仕事を辞めて個人事業へと移行しようとしていた私は、時間の余裕だけはたくさんあった。

当時の手帳を見ないとわからないけれど、多分その年のその期間、事業を一緒にしていた人たち以外ではおそらく他の誰よりも会う回数が多かったんじゃないかと思う。

うちに来てくれるのは交通費や外食代を気にしなくて良かったからとってもありがたかったし、別にHさんじゃなくても私は家に誰かが来てくれる時は私が食べるものと同じで良ければごはんを出したりお茶を出したりは普通にしていた。

一度や二度はまだいいけれど、それが頻繁になり途中から私はものすごく嫌になった。

しかもHさんはいつも手ぶらでくる。

手土産を持ってこいと言いたいのではなく、あまりの気遣いのなさに私は腹を立て始めていた。

いつだったかの約束の時は、私はその前に用事で家を空けているから、お昼は食べてからうちに来て欲しいとHさんに伝えていた。

自分のごはんさえどうなるかわからなかったし、もういい加減色んなことに怒りを覚えていた私は、やんわりとごはんぐらいは食べてからうちに来てくれと思っていた。

その約束の日。

Hさんから何か食べさせて欲しいと言ったのか、私がごはん食べてきた?と聞いたのか覚えていない。

いや、なんとなく何か食べさせて欲しいと言われた気がする。

自慢ではないけれど、私は冷蔵庫にあるものや家にある乾物の類いなんかを見て、ぱっと何かを作ることができる。

自分の普段のスタイルがそうだから、その時だってチャーハンなり何か適当なものを作ることはいくらでもできた。

でも、もうそんなこと1ミリもしたくなかったのと、あれほどごはんを食べてから来て欲しいと言ったのになぜそうしてこなかったのかその無神経さに腹が立ったのとで、私はものすごく葛藤の末、Hさんに食パン1枚だけ出した。

トーストぐらいはしてあげたのかもしれない。

細かくは覚えていないけれど、とにかくたった1枚の6枚切りの食パンを出しただけだった。

Hさんに「ぶっしー何か塗るものある?」と聞かれ、私は「ない」と即答した。

「ぶっしーは普段こうやって何も塗らずに食べるの?」と続けて聞かれ、「そうだよ」と答えた。

バターがあればバターを塗るし、おかずがあれば何も塗らずにおかずと一緒に食べるというのが本当のところだったけれど、あまりの腹立たしさに私はもう何も出さない!と決めて「そうだよ」と返したのだった。

今書きながら私はあまりの自分やHさんと自分のやりとりの滑稽さに笑ってしまったけれど、当時はその食パン1枚にものすごく葛藤したし、多分食パンだろうが何か作って出しただろうが、はたまた何も出さなかっただろうが、今思えばどの選択でも後味が悪かったと思う。

そしてどの選択でもものすごく迷いと葛藤が生まれたと思う。

それでその次に会った時なのかもっと後になってからなのか忘れたけれど、Hさんがポテトチップスとポップコーンを持ってきてくれて、私はそのHさんの行動にものすごく感動を覚えた。

そしてそれまでの怒りが鎮まった。

その当時の一連のことを私はそのノートに記していた。

 

上のことだけ書くとHさんがものすごく気の利かない人みたく映るかもしれないけれど、実際のHさんはさりげない気遣いができる天才的な人だったりする。

Hさんとはドミニカで知り合ったけれど、私のドミニカ生活を誰よりも評価してくれたのはHさんだった。

日本に帰る前、自分たちの事業報告を各自プレゼンすることになっていて、私も自分のものをした。

他の人たちはbefore afterがはっきりとわかるような改善を行ったり、数値化してどう変化が生まれたかがわかるような内容になっていた。

私のはそのどちらからも程遠く、自分が何をしてそしてあとは具体的な個人エピソードを披露するという方法をとる他なかった。

「実績」というものさしで見るなら、私のものはその土俵にさえ上がれないほどのレベルだった。

本当にその通りだから私はそれを隠すこともせず、ありのままを伝えた。

発表が終わってみんなそれぞれ和やかな雰囲気になっていた時、Hさんがわざわざ私のところにやってきてこう言ってくれた。

「ぶっしー、ぶっしーのやったことって本気ですごいやん!」

私はHさんに、他の人たちみたいに後世残るようなことは一切していないというようなことを言った。

そうしたらHさんはたたみ返すように伝えてくれた。

「ぶっしー、ぶっしーは人1人の人生を変えたんやで!それってほんますごいことやん!」

Hさんは本当にそれだけを伝えるために私のところにやってきた。

そしてHさんの一言で、私のドミニカ生活はものすごく肯定された。

Hさんというのは、そういう数字とか視覚では見えない部分をきちんとキャッチして言葉にしてくれる人だ。

それも感じたままを感じたまままっすぐに伝えられる人。

またある時は、Hさん含めて男女4人で30歳の誕生日を祝うための旅行に出かけた。

その時私はおなかを壊し、途中でトイレに長時間こもることになった。

いくら気心が知れてるとは言え、同世代の男性に延々トイレから出てこない私を待たせるというのはさすがに恥ずかしいものがあった。

みんな待たせてごめんねと私が言う前に、Hさんはトイレから戻ってきた私に「ぶっしー大丈夫?」と開口一番言ってきた。

そういう気遣いがさっとできる人だから、Hさんは女性陣にえらい好感をもたれていた。

だから、食パン1枚ごときでアホみたいに葛藤していた当時の自分も、そして本来色んな気遣いをものすごくさりげなくする人なのにそういうことが雲隠れしていた当時のHさんも、どちらもおかしかったと思う。

ちなみに、食パンやポテトチップスの後、Hさんの人生の大きな決断の時に私は思いっきり水を差して、それから絶縁に近い音信不通の状態が何年も続いた。

連絡先も変わったHさんの消息は、共通の友達からもたらされる情報だけで、もうこのまま会わないんだろうなぁと思っていた。

うちに来てもらうような距離ではお互いになくなったし、連絡を取るような何かがあるわけでもなかった。

そうしたら2017年、共通の友達が2人も結婚式をあげたことで、Hさんとは2回再会した。

1回目の結婚式の時は、連絡のとりようがなくて少し話しただけだった。

2回目の結婚式の時は、連絡先を交換してあったから式の前の夜に待ち合わせて一緒に飲み食いした。

最後ものすごくわだかまったまま音信不通になってたから、きちんと顔を合わせられる時に話をした方がいいような気がしていた。

それは当時のことを謝るとかそういうことではなく、何か大事なものを確認する、そんな感じだった。

近況報告の時に私がした質問はいきなりHさんを不機嫌にさせた。

不機嫌を通り越して「怒りに火をつけた」と言っても良かった。

あぁ私はまたやらかしてると思いつつ(最後の時もそんな風だった)、話をしていくうちにふっと空気が緩んだ。

それぞれに積み重ねたものがあるから昔と同じとはいかなくても、元々Hさんが持っている朗らかでまっすぐなところが自然と出てきた。

そこからはどんどん話が弾んで、気付けば夜中の1時を回っていて、明日があるから解散しようとなって解散した。

2人で本当に色んな話を自由にしたけれど、そういうところは今も昔も何一つ変わらなかった。

 

食パン1枚で葛藤していた自分が懐かしい。

食パンどころかもっとでかいこと、Hさんの生き方そのものを単刀直入に聞いてそこから気まずくなって音信不通となり。

そしてまた時間が経ってまた色んなことを話す。

もしかしたらその夜中の1時を過ぎたあの夜がHさんとの人生最後の顔合わせになるかもしれない。

いくらでも連絡は取り合えるけれど、もうお互いに近くに住むこともないだろうし、有志で集まろう!なんてことでもない限り、Hさんと顔と顔を合わせて話す機会はないような気がする。

でももう食パンのこともポテトチップスを持ってきてもらったことも、その後ずばずばと核心をついた質問をしてHさんを怒らせたことも、なぜかすべてがとても良い思い出になっている。