人生で初めて、ちっとも嫌じゃない「がんばれ」に出逢った。
子どもの頃オール1でスタートした私の人生は、「がんばれ」の言葉が常に日常にあった。
母親をはじめ色んな人から「がんばれ」とよく言われた。
周りは励まそうと思って言っているのは何となくわかっていたけれど、それを言われるたびに私は「こんなにがんばっているのにまだがんばらなきゃいけないの?」とよく思っていた。
大人になってうつ病という病気が社会の中で広く認識されるようになった頃、「“がんばれ”という言葉はうつ病の人に言うとさらに本人を追い詰めるから良くない」と言われるようになった。
当時の私は自分がうつでもないのに、いたく共感していた。
大人になってから周りに言われる「がんばれ」という言葉には、もう一つ苦手な要素が加わった。
これは最近ようやく気付いたのだけれど(最近=2017年の秋)。
自分でも自覚があるけれど、私はこれはやりたい!とかやらなきゃ!という気持ちで動くと並々ならぬ集中力を発揮することがある。
それを周りの人から見ると、私は「とてもがんばった人」として映るらしい。
私的にがんばってるつもりはなくて、単に興味があるとかそうしたいからするという気持ちでやってるだけ。
なのにがんばった人になる。
そしてそれをわざわざ私に「がんばってるね!」と言ってくる人もいるわけで、言われると私はなぜかカチンとくる。
「がんばったってどういうこと?私は自分の気持ちに従っただけなのに…」と心の中で毒づく。
自分でも面倒くさい人だと思うけれど、そう自動的に感じてしまうのだから仕方ない。
そんな私が人生で初めてちっとも嫌じゃない「がんばれ」に出逢った。
そしてとっても前向きに「がんばろう」と思えたし、おそらくそれは少しずつ行動化されてきていると思う。
秋晴れとはいかなくてもそこそこ晴れたある土曜日。
秋から冬にかけて着る服を見に60キロ以上離れた大きなショッピングセンターに行った。
大きな国道をはさんで2つあるから、1つ目を見て2つ目を見ようと思った。
1つ目でまずショックな事実が判明した。
そこでお気に入りだったお店がなんと閉店していた。
ただでさえお気に入りの店が少ないのに(片手で数えても指が余る)、そのうちの1つが閉店。
気を取り直して、2つ目の大きなショッピングセンターへ移動した。
お目当ての店めがけて行こうとしたら、その途中であるイベントをしているのが目に入った。
目の前の人を見て感じたままを言葉に書き下ろすというもの。
書いた言葉の例がいくつも額に入って展示されていた。
私は足を止めていくつもの言葉を読んだ。
それらの言葉はいまいち心に入ってはこなかったけれど、妙に気になったのも本当だった。
ちょうど1人和服を着た女性がお客さんで書いてもらっていて、当然書き手の人も見えたけれど、その時もまだいまいち心が決まらずにいた。
高額すぎても困るから、とりあえず価格を確認しようと思った。
確認すると、安いことはなくても高いこともない。
そしてちょうど前日の友達の娘の家庭教師の金額で出せる風になっていた。
友達の娘の家庭教師代は特別なお金だから、私はそれを自分のための何か大切なものに代えている。
そういう意味でこの言葉を書いてもらうのはうってつけだった。
それでも私はまだ迷っていた。
そこで私はぐるっと店の中を回ってそれで決めようと決めた。
回る時、書き手の人と目がかち合ったけれど、にこっとしたのかどうしたか忘れたけれど、そそくさとその場を立ち去った。
10分もしないうちに、「書いてもらおう!」と決めた。
このまま立ち去っても気になるだけだし、それなら期待外れで損してもいいから書いてもらった方がすっきりすると思ったから。
何せ展示の言葉にいまいち引き込まれなかった私は、大きな期待もせずにそれに申し込んだ。
書く内容も私の希望に合わせてもらえるということで、私は「私を見て感じたまま書いて欲しい」とお願いした。
何がくるかわからなかったから。
その人は最初私に、どうしたいとか何か願望ありますか?と聞いた。
私は自分がどうしたいとかもよくわからないから、そのまま感じたままに言葉を書いて欲しいとだけお願いした。
その人は私の目をじっと見て(これが不思議とまったく嫌な感じがなかった)、その2~3分後、筆をとり書き始めた。
書き手の人は私より1〜2歳ほど年下の男性だったけれど、普通そんな同世代の男性にじっと目を見られたら恥ずかしいとか照れるとか出てくるのに、その時は本当に全く恥ずかしくなかった。
むしろ目の奥に何かメッセージがあるのなら、もっと見てください!ぐらいな勢いだった。
最初の一文を書いて、その後もう一度私の目をじっと覗き込んで、何かを手繰り寄せるように見ていた。
そこで出てきた言葉をまた続けて書いてくれて、書き終わると私にそこに込められている言葉を教えてくれた。
色紙に書いてくれた言葉。
【絶対的な
意志の
強さは、
使命と共に、
生き続けます。
納得を
追求して、
自分の心の人生を】
その後、口頭で説明してくれた言葉。
「目を見ていると、絶対的な意思の強さがある。
それは絶対的だから、曲げたりできない。
先祖からなのか世代からくるものなのか、とにかく脈々と流れてるものから来ている絶対的な強さの意思。
そこにはものすごい強いものを感じる。
世代を超えての因縁みたいなものかもしれないし、何代にも渡って成し遂げたいと思っていることなのかもしれない。
とにかくすごい強い意思を目の中に宿している。
そのために、それを成し遂げるために生まれてきたと言ってもいい。
そこに使命と繋がってるものがある。
自分の中の絶対を追求する、
自分の中の納得を大切にする、
もうそれ以外の生き方はできないし、逃げられない。
自分が納得できるものを追い求めるというのは、当然逆風も吹くし、敵対する人も出てくるだろうけど、とにかくがんばれ!
自分が納得するためにがんばれ!」
私は話を聞きながら、ボロボロ涙をこぼしてた。
感動したとかわかってもらえたとかそういうのとは違ってた。
魂が揺さぶられるような、そうした心の奥深いところで何かを感じ取ってボロボロ泣いていたと思う。
普段なら人前で泣くのも恥ずかしいし、ましてや男の人の前で泣くのはもっと抵抗がある。
私は涙を武器のようにして男の人に媚びるのが大嫌いだから、どんなに泣きたくてもぐっと歯を食いしばって泣かない。
だけど、その時はそのどれでもなく、涙がボロボロ出てくるのが当たり前みたいな感じだった。
「自分が納得するためにがんばる」
これはそれまで生きてきた中で、誰にも言われたことのない言葉だった。
そして、その時の私はそのがんばれをとても素直に受け取っていた。
これまでのがんばれは、自分が人並みではなくて、人並みに何かできるように「がんばれ」と言われたり、又は自分はがんばってるつもりがなくてもそれを「がんばってる」と第三者の目に映って言われてしまったりと、どちらもすごく嫌だった。
前者は、そのままの自分が否定されてるみたいで嫌だった。
後者は、そのままの自分が違う風に理解されてるのが悲しかった。
他人の理解の仕方なんて変えられないけれど、何か違う風に捉えられると本当の自分とは違っているみたいで、そしてその自分が理解されないみたいで、そうした「がんばれ」はいつも受け取れなかった。
だけど、その書家の方は全然違っていた。
私が自分に納得するためにがんばれと言った。
逆風が吹いたり、周りから理解されなかったりするだろうけれど、それでも自分の信念を貫くように伝えてくれた。
その励まし方は「大丈夫」とは一切言わなかったと思うけれど、全身全霊で「絶対に大丈夫だから!」と言ってもらえてるみたいだった。
書を手にして、家路に着こうとした。
ショッピングモールを出て10キロ走ったか走らないかの地点で、季節外れの打ち上げ花火を見た。
これでいいよ、これでいいんだよ、と言ってもらえてるみたいで、車を路肩に止めてしばらく花火を見ていた。
秋の夜空に舞う花火は、その時不安と悲しみばかりだった私の心にそっと寄り添った。
2017年10月14日
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