2018年9月1日土曜日

人間幾何学にZoomする

ホロスコープから読み解く私の人間関係の特徴ーーー

・他人に傷付けられやすい
・他人に侵入されやすく、また私自身も侵入しやすい
・増幅しやすい不安感、心の拠り所のなさ

客観的なデータから読み解いたもの。

自覚している部分もあるし、自覚できてない部分もある。

自分がぐいぐいと相手に侵入しているのは、かなり無自覚に近い。

人間の防衛反応とはすごくて、「ヤバい、傷つきそう」と感じると逃げる。

意図的に逃げることは大人になってから増えた。

じゃないと、相手がぐいぐいとやって来て、そのぐいぐい来る人に限って私には重たい。

だから逃げる。

見えない距離感みたいなのがあって、そこの一線を超えて来る人から私はささーっと逃げてしまう。

私も多分同じようにやらかしてるだろうから、相手が逃げた時はそういうことなのかもしれない。

もうそこはきちんと線を守ることを努めたい。

善人ぶる気はないけれど、私は自分の人間関係によって生まれた傷を見ると、自分はなるべくそういうものを他の誰かには与えたくないと思う。

正直、この人間関係の特徴を示された時、私は少しずつ少しずつその意味が体に突き刺さってくる感じを感じていた。

客観的なデータでも、私にはものすごく主観的な体験としてやってくる。

それらは否定するのが難しいぐらいに、現実の世界に現れてくる。

しばらくこのことに悶々とした。

ちなみに、毎回どういうリンクの仕方をしてるのか知らないけれど、占星術の講座で得た個人的な情報と、そしてその直後に会うヒーラーのOさんから全く同じ話が出る。

占星術講座とOさんには何の関係もない。

何1つ繋がりがないのに、なぜかそれぞれで言われたことが勝手にシンクロする。

Oさんはその日言った。

「武士俣さんが近付くと、相手は何かを感じて遮断しようとする。
遮断されることで武士俣さんが傷付く、そういう流れになっていませんでしたか?」

ぐうの音も出なかった。

これはもう何なんだろう、私の決まりごとのように、人生で体験することなのかとかなりガッカリした。

しばらく沈んで、何もしたくなくて、眠ることで逃げれるところまで逃げて(2日半)、そうしたらシャキッとまた起き上がれて、そしてホロスコープの宿題を少し触った。

触りながら、ホロスコープは闇を見せるだけのものではないし、そして客観的に色々伝えてくれたホロスコープのU先生もヒーラーのOさんも、私を落とすために伝えてるのとは絶対に違う、というところに立った。

一応情報として知っておくと、こちらも心の準備はできるようになる。

だけど、いくら準備したところで、人間関係だけについて言えば、やっぱり何かあれば心は動揺するし、痛手を負うこともあるし、笑えないこともたくさん出てくる。

だからそれを避けるためにも徹底的にこもる時はこもるんだと思う。

そんなこんなのことを思いながら、小さくて見落としそうなズキッとした傷たちを集めて見ていた。

これは長年の積み重ねでやってきて、自分なりにわかってきたこと。

傷は絶対に傷だけに終わらない。

心がギュッと閉じてしまうようなものはもちろん嫌だし良かったとはならないけれど、傷は傷で大切なメッセージを伝えてくれてるものでもあると思う。

それは自分を守るためのメッセージかもしれないし、自分が大切にしたいものが何かを教えてくれるものかもしれない。

いずれにしても、そこには心にそっと手を当ててくれるようなメッセージがある。

それが何かということも見ていた。

私はあきらめたくないんだなぁと思った。

色々思い通りではなかったり、自分のしょうもないところを見てげんなりしたり、どうしてこうなっちゃうの⁉︎なんて時もあるけれど、それでもそこから何かを見出したり奇跡を見ることをあきらめたくないんだなと。

見知らぬ人の足の裏を見て「生きてる」なんて感じるぐらいの感性が自分にはあるんだから、自分はそういう自分に賭けてみたいと思ってる。

本気で笑えないことも逃げたくてたまらないこともたくさんあるけれど、それでもあきらめきれないものがある。

欲しい答えに達するまでものすごく年月のかかることも多々あるけれど、こういうことも起こるんだから、人生まだまだいけるのかもしれない。

このブログの後半の文章は、ホロスコープの講座の前日の朝に書いていたもの。

12年も要するのかと思うと気が遠くなりそうだけれど、生きていると時々大きなご褒美がやってくる。

時間がかかっただけあって、私は確実に癒された。

12年前の私が望んだものとは違っても、少なくとも今の私には十分なものだった。

傷は出逢いなくしては生まれない。

でもそれを癒すプロセスの中にも、新しい出逢いは含まれていた。

陰の功労者ではないけれど、全く予期もしていなかったところから出会い頭に出逢ったみたいな出逢いがあって大きく癒された。

傷を1つ2つ持っていても、人に新しく出逢うこともできれば、傷を生まれ変わらせることもできる。

瞬間瞬間は痛みで悶絶してても、長い目で見てみると、良いものたちも必ず人生にはある。

苦しい時間と癒された時間の分量がかなり不均衡ではあるけれど(もちろん前者が多い)、それでも癒された瞬間は現実に存在するようになった。



8月28日(火)9:00
ホロスコープで初めてはっきりと「そう出るのか」とわかったことがある。

去年の10月から今年の10月?11月?まで木星が蠍座に入っている。

木星は、拡大や繁栄なんかを表す星とされている。

蠍座は、深い変容、奥深くに潜んでいるもの、闇、深い愛、人には言えないもの、心の傷なんかを表す。

木星×蠍座で、心の奥深いところに秘めたものが暴かれるみたいなイメージがある。
(拡大・繁栄することで、これまで見えなかったものが大きくなったことで見える=暴かれる、という感じ)

それが私の場合、まさに今、他者との関係を表すところにその蠍座の木星が来ている。

そして同時に、自分の冥王星に空の金星が重なってる。

冥王星は死と再生を表しているし、そこに美的感覚や好きなもの、愛なんかを司る金星が重なった。

それら全部を総合して言うと、恋愛やパートナーシップ的なもので何が出てきてもおかしくない配置にはなってる、と読める。

「何が出てきても」の「何が」は、心の奥深くにしまわれていたものや、根底からの変容に繋がるものと捉えることができる。

占星術で読めるのはそこまでで、それがどういう出方をするかは各個人によって全く違う。

しかも出てくるものは、その時になってみないとわからない。

事業計画みたいに、こうしたらこうなる、みたいな原因結果論では導き出せない。

残念ながら期待するような結果とは違うものの、過去から抱えてきたものが今まさに変容しようとしている。

それも私が働きかけたんじゃない。

相手側からの働きかけでそうなってる。

それはそれで嬉しいものであったし、まさに12年かけてここまで来たんだという感慨深さもある。



【9月1日(土) 追記分】

上に書いたことは読むとかなりわかりにくいけれど、過去からの傷が癒された、ということが書きたくて書いたことには変わりない。

もう一生癒されないと思っていたものが、意外な形で癒されることになった。

それが幸運の星と呼ばれる木星によってもたらされたものだった。

この一致感を見た時に、星の影響って凄いんだなと感じた。

何て言えばいいんだろう。

私は「蠍座の木星」の意味も知らなければ、それが自分の人生とどうマッチするのかなんて当然知らずに生きていた。

だけど、それに相応しい動きが人生の流れにいつの間にか表れて、そして今回の場合で言えば、心の奥深くにあったわだかまりが溶かされた。

そのわだかまりは、私の中で「一生付き合っていくもの」だと思ってた。

もう癒されることなんかあきらめてた。

そのうち気にならなくなればいいなぁとは思っても、癒されるなんてあまりにも願い事の大きさが不可能の域にありすぎて、私はそういうことを望まなくなった。

それはもう今ある以上の失望感や絶望感を増やしたくないからだった。

望まなければ、少なくともそうしたものは生まれない。

だから望むことを止めた。

「癒しが起こる」というのは、私の未来の計画表にはなかった。

わざと省くことで傷を最小限に抑えた。

なのにまさかのまさかで、突然癒しの瞬間はやってきた。

吉本ばななさんの『吹上奇譚』という小説をたったさっき読んで、その中に出てきた言葉。

「慣れるということと、見ないようにすることの差、(中略)その間には大きな違いがある。」
(p.154〜155)

「慣れる」というのは、目を背けないということだと思う。

背けたいことはたくさんあるし、見ないようにする時もある。

それは間違いではないし、生々しい傷を前にそれをガン見できる人なんてそうそういないと思う。

でも、時間をかけて時々ちょっと見て、また無理ー!となったら蓋をして、また少し見れるかも…となったら蓋を開けて少し見て、また無理ー!となって蓋をして…、そんなのの繰り返しの中で慣れてくるものはある。

それを繰り返した今、癒されるものがやってきた。

未来の計画表から省いたのにやってきた。

そして癒されることをあきらめたにも関わらず、まさかのまさかで癒しがもたらされた。

冒頭の人間関係の特徴を思い出す。

・他人に傷付けられやすい
・他人に侵入されやすく、また私自身も侵入しやすい
・増幅しやすい不安感、心の拠り所のなさ

それがわかっていても人と出逢うのは何でだろう?と思う時に、多分これが答えなんじゃないかと。

傷とか不安とか負のものも相当やってくるのは本当。

だけど、それと同じぐらいに私は人から救われてる。

人から奇跡を見せてもらってる。

人から人を好きになる気持ちを教えてもらってる。

そして生きてることに喜びがあることも教えてもらってる。

小さく閉じようとしてる自分の心に、花が差し出される感じ。

ドアを閉じようとしたら、そのすき間に誰かの足がさっと入って閉じないようにしようとしてくれてる、みたいな感じ。

今回自分の心がどこまでも閉じようとしてたから、余計と強く出たのかもしれない。

自分の心の動きについていけず疲れてきて、そんな時に私の人間関係の特徴データをもらって、さらに疲れが増した。

気付けば、疲れよりも怖さの方が上回ってた。

自分でもそれぞれの意味がどんな体験を指してるのかわかるから、それらを思い浮かべると「嫌だ」となる。

嫌と言うより怖い。

怖さの方が出る。

じゃあ人と関わらなければいいかと言うとそういうこととも違う。

そんなこんなが重なってしまった時、私は過去の色んなことを思い出す。

私が思い出す癒される瞬間は、必ず人がいる。

人がすっごい怖いくせして、その人にすっごい癒されてる。

私の人生において、ちょっと厄介な人間関係の特徴があるのは否めない。

厄介だし、心への負担はかなりデカイ。

それでもやっぱり私はこの間書いた「Love for you,Love for us!」の世界を見たい人なんだと思う。

人に出逢って、「あぁ生きてて良かった!」という瞬間がある。

それを全身全霊で感じたくて、自分は生きてるんじゃないかと思った。

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