2018年9月13日木曜日

眠れなかった時のひとり言「愛だよ愛!」

眠れなかった時間に思い出したこと。

ドミニカ共和国での数々の珍事を思い出していた。

私はその国で上位数%の富裕層と下位数%の最貧困層の両方の人たちと知り合って、どちらの家にも何軒かずつおじゃました。

普段スラム街に通っていたから、下位層の人たちとの付き合いの方が数も時間も圧倒的に多かった。

・貧困
・10代の妊娠
・無戸籍
・子供の就労
・ドラッグ
・虐待
・DV
・エイズ
…etc

何でもありだった。

こうやって書くと、どんなにか可哀想に…なんてなるけれど、当事者たちは意外とケロリとしていて、悲壮感は皆無だった。

これは国民性もあると思うけれど、熱心なキリスト教徒の多いその国では、何でもかんでも「神が望むなら」が口癖で、本当に全てその一言で片付けてしまう場面を毎日何回も何回も見ていた。

例えば、同僚の人に「また明日!」と挨拶する。

普通は「また明日!」とか「バイバイ!」だと思う。

そこは違う。

「神が望むなら」とほとんどみんなが言う。

どう考えてもまた明日会うのに、何で「神が望むなら」と言う?と私は最初超パニックだった。

私はそれだけは言いたくなくて、いつでも誰にでもまた明日と言い続けた。

貧しくてお金すっからかんでも、他人や国のせいにするのも常だったし、いざとなれば互いに助け合う精神がものすごく強かったから、本当にごはんを食べるお金さえもなくなると、親戚や隣近所から分けてもらうことを普通にしていた。

いつだったかごはんに呼ばれて訪ねたら「今日の材料でお金がなくなっちゃった!あはは!」と豪快に笑って言われた。

その人は絶対に私にお金をせがまないのは知っていたから、本当にそれを笑って話のネタにしていた。

私はそんな時は自分たちのごはんを優先して!と言ったら、「だってフミコと約束したでしょ!約束をきちんと守る方が、フミコにごはんを食べさせる約束の方が大事だったから、これでいいのよ!」と説明された。

約束をきちんと守るなんて、ドミニカではあまりない、というかほとんどない習慣だったけれど、それだけ私のことや私との時間を大事にしてくれるのが本当に嬉しかった。

ちなみにその時に「えっ?本当に明日のごはんとかどうすんの?」と聞いたら、「いざとなれば何とかなるから大丈夫!」とこれまた笑顔で言われた。

ある意味スーパーポジティブな国民性だった。

10代の妊娠とかも日本じゃ大問題だけれど、私は結構な数の妊婦少女や10代の母たちを見た。

下手すると、30歳になる前に孫を持つ人までいた。

1人毎週会っていた女の子は、逆算すると最初の妊娠が14歳、次が翌年か翌々年、そして私と会った17歳の時には第3子妊娠中だった。

目の前でどんどんおなかが大きくなって、実際に出産して、その後体調が良くなったらまた私と関わって、その時は私の目の前で赤ちゃんにおっぱいをあげながら文字の読み書きの勉強をしていた。

日本じゃ考えられないけれど、国が運営するスラム街にある無料保育園の入園申込書の中の質問の1つに「戸籍は提出しましたか?」というのがある。

どのぐらいの割合かは忘れたけれど、一定数戸籍のない子たちがいる。

さっきの17歳のお母さんの子供たちもそうで、私は何回か戸籍取得の手続きを一緒にしてこよう!と誘ったけれど(やり方は知らないから、そこは周りに聞く予定でいた)、とうとう最後まで叶わずだった。

思い出したシーンの中に、電柱に上っている男の人がいた。

私はその時隣りにいた現地の人に「あの人はあそこで何してんの?」と聞いた。

「電気盗んでるんだよ」

「えっ⁉︎電気盗むってどういうこと?」

「自分の家の電線をよその家の電線に繋いでその電気を盗むんだよ」

と普通に何事もなく答えが返ってきた。

通報とかはしないらしい。

最も、警察自体もものすごくいい加減だったから、通報しない理由もよくわかる気がした。

何でこんなことを思い出したかと言うと、日本のある教育プログラムのサイトを見たからだった。

子供の未来は環境によって大きく左右されるから、そこを整えて可能性を開くことが大事とかなんとかあった。

言葉だけ見るとすごく良いこと言ってる風だけれど、私は違和感を覚えた。

これは色んな人生の現場を見て、そしてその後魂だの人生の青写真(=人生の計画)だのというスピリチュアルなことを学び、さらに今ホロスコープまで手にして思うこととギャップがあったから。

言うなれば「生き様」だと思う。

私は色々見ていて感じるのは、決して環境が良いから子供が良く育つわけでもなければ、環境が悪いから子供が悪く育つわけでもないということ。

そして、どの環境や体験を取っても、究極のところ、優劣はないと思う。

言い方がかなり乱暴だけれど、それぞれの人が体験することは、その人にとって絶対的に必要な体験だと感じる。

例えば、虐待されたとする。

虐待そのものを肯定するつもりはない。

けれど、虐待を通じて、その子どもも親もそこから「愛し方」や「愛され方」につきて深く知っていくきっかけが与えられる。

最初は虐待やら育児放棄された子どもたちと関わって、次が上に書いたような社会的な負を体験している子どもたち、そして最後に学習塾というお金を払える余裕のある家庭の子どもたちと関わった。

もう施設で働くことは生涯を通じてないと思うけれども、施設に入らなければいけないような家庭環境を体験する子どもたちというのは、それを魂的に選んで生まれてきている、と今は思う。

だから環境を良くする云々よりも、そういう生まれ方をしていて、愛情の形もずい分といびつだし歪んでいるけれども、それでも愛を見つけに生まれてきた、と今は思う。

当時の仕事を思い返してみても、何だかんだ色々あったけれども、子どもたちとしたことは「気持ちの交換」「愛の交換」みたいなことだった。

辞める直前の日記に私は「私が残りの仕事でするのは、1人1人の子どもにどれだけその子が好きかを伝えることだと思う」みたいなことを書いた。

5年半勤めた最後、私は自分にできることはそれしかない、と気付いた。

好きの伝え方は無限大にある。

言葉じゃない伝え方がたくさんある。

それを全身全霊でやることが私にできる最大のことだと思った。

子どもの支援や指導じゃなく、気持ちを伝える、それが全てだった。

塾に勤めた後から今に至るまで、私は今度子どもではなく強烈な体験をした子供時代を送った大人たちにたくさん会うようになった。

こちらの方がかなり重症で、社会的にはきちんとしていても心はボロボロみたいな人がかなりいる。

あと、塾の時に、私が本気で心配になる子どもに限って、親は教育関係者とか経営者とかが多かった。

環境は抜群でも、心の環境がズタボロ過ぎて、子どもは色んなSOSを出していた。

環境を整えて可能性を開くのは大切だけれど、これだけ色んな人たちの人生を見ていると、果たして何が良い環境で何が悪いのかなんて一概に言えなくなった。

さらに、そこに魂の話なんか絡んでくると余計と普通レベルとはズレた環境でもそれがその人の人生にとって必要な体験として設定されてたりするから、もっと何も言えなくなった。

2ヶ月ぐらい前に、死者の人の声を遺族に伝えることをしている霊能者の人の自叙伝を読んだことがあった。

何をする人なのか全く知らなくて、今私のヒーリングの勉強の先生をしてくれてるOさんが「この人は本物」だと言った2人のうちの1人だった。

だから名前しか知らなくて、本を読むまでは何をする人なのかさっぱりわからなかった。

ちなみにローラ・リン・ジャクソンさんと言われる。

彼女は死者の魂と繋がって、そこから死者が伝えたメッセージを遺族に伝える活動をしている。

アメリカにはそういう人たちを研究する機関があって、しかもそうした霊能力や超常現象を科学的に分析するらしい。

色んなテストをパスして死者とコンタクトが取れる人という証明書を彼女も取得して、それはたしか全米で19人しかいないとあった。
(名前だけ伝えられて、そこからその人に関係する死者と繋がって、その死者からどんな情報やメッセージを受け取ったのか、それを会ったこともない遺族に伝える、そしてその正誤性を遺族から判断してもらうというようなテストが大半だった)

興味ある方は、youtubeでも世界仰天ニュースかアンビリーバボで特集されたものがあるから見てみて下さい。

で、その本の中で、ある若い男の子が伝えてきたメッセージが私には衝撃だった。

その子は自閉傾向があって、人と関わるのが上手くなかった。

それ故に自分が周りから愛されてるということも信じられなくて、どんどん自分の内側に引きこもるようになったらしい。

その子は最後交通事故で亡くなるけれども、その事故に遭った時、すぐに駆け寄ってくれた人が最後までそばにいてくれたこと、その子が心細くならないようにずっと何かしら声をかけ続けてくれてたこと、そうしたことを体験して「自分は本当に愛されてるし、愛されるに値する人間なんだ」と分かったと言う。

で、それがその子の場合の「愛の学び」で、それを通じて自分は生きていた時に愛されていたんだと、最後の最後でわかった、それを両親に伝えて欲しいとローラにお願いしてた。

私の記憶だから詳細は若干怪しいけれども、それでも「愛」の意味がガラリと変わった。

この人生で何かを成し遂げたり何かを得たりするのももちろん大切だと思う。

だけれど、本当に誰しもが学んでいることは「そのままの自分で愛されること」「そのままの自分が一番なこと」なんだと思う。

残念ながら酷い虐待を受けて幼いまま亡くなる命がある。

これは別の本で読んだことだから本当かどうかは知らないけれど、そういう子たちの人生の目的はまた違っている。

その子たちが生をこの世に受けたのは、そうした悲惨な死を遂げることで社会にその死が発信される、そしてその発信によって他の人たちに命の大切さを訴えたり伝えたりする、またはそうした社会の仕組みを変えていくきっかけを作る、それを目的としているらしい。

そうやって世の中や人様の人生を見始めると、何が正しくて何が間違いなのかはわからなくなる。

もちろん、幼い命が奪われることは決して良いことにはならない。

でもその子の魂が「今回はこういう目的で生きます!」という設定があって、その通りの任務をこなしたと考えるなら、そこにはきちんと意味がある、と私は思う。

反対に、環境は恵まれているのに心がズタズタになる体験をする人たちも、それは子どもも大人も、それぞれがやっぱりその体験を通じてのテーマを持ってこの生を選んできていると思う。

最初に書いた17歳で三児の母とか、生まれた時(妊娠中)から後遺症が残るぐらいの虐待を受けていた子どもとか。

又は本人は問題なくても親がエイズとか。

目の前でヘビーなことをたくさん見て聞いてきた私にとって、それぞれの人生のテーマに共通しているのは、みんな「愛」って何だろうね?というのを一生を通じて探し求めるみたいな感じに思えてならない。

ちなみに、日本・アメリカ・ドミニカ共和国と3つの国で暮らして、圧倒的にヤバイと感じるのは実は日本だったりする。

これは私の超主観だけれど、本気でやばい。

病んでる人いっぱいいるし、病んでてもそれにさえ気付かない人もたくさんいるし、病んでなくても心はギリギリのところにいる人たちも多い。

基本的に真面目で勤勉で、協調性とか周りを大切にするとかおもてなし文化とか、それら全ての複合型で、良くも悪くも影響が出る。

良い方に出ると、経済の発展や助け合いの精神だし、悪い方に出ると社会や個人が病む。

あの自殺率の高さが物語っている。

ちなみにドミニカにいた2年間、確かに日々の安全という点では危ない国ではあったけれど、代わりにただの一度も「自殺」という言葉を聞かなかった。

多分自殺率の統計なんて取ってない気がする。

国の事業だったから、統計を取る時の手伝いもしたけれど、家庭内や親族に自殺者がいるいないなんて聞かなかった。

未だにスペイン語で「自殺」をどう言うのかその言葉を知らない。

自殺自体がゼロではないかもしれないけれど、本当にただの一度も聞かなかった。

人のせいにするのと神の信仰のおかげで、自殺するようなメンタルは基本的に持たない風だった。

日本人がわりかし誰でも「死にたい」と日常的に言うのに対して、ドミニカ人はそれを絶対に言わない。

と言うよりも、「言わない」ことさえ気付いてないと思う、だってその言わないのがあの国では当たり前だから。

日本人は相手にイラっとすると「死ね!」とか「殺すぞ!」と冗談でも言ったりするけれど、よく考えたらドミニカ人は言わなかった。

ちなみにドミニカ人はムカつくと「死ね」とか「殺す」の代わりに女性器の名前を言う。

よく考えたら、すごい国民性だと思う。

名誉のために言うと、私はその言葉を1回しか言ったことない。

しかも本気の本気でムカついて、相手が言った言葉を私も同じように返しただけ。

返した相手は見知らぬババアで、女性同士がそんなこと言ってる様は考えるとひどく滑稽だと思う。

ただ良くも悪くも、その言葉を言う恥ずかしさがスペイン語だとわからないから言えた。

日本語だったら、そんなこと恥ずかしくて言えない←当たり前。

話がだいぶそれた。

だから、あの素晴らしい理念を掲げた教育プログラムがどこか空虚なものに感じられたのは、そうした私のちょっと変わった体験が裏にあって、ものすごいひねくれてるのはわかっているけれど、そう感じるんだから仕方ない。

素晴らしい理念だけれど、まずは「否定」から入ってることがわかる。

私は自分がやらかしまくって何人か本気で怒らせてしまったから今はかなり気をつけているけれど、どんな状況や家庭環境、生き様でも、それは絶対に否定してはいけないこと。

それを当事者である本人が否定したら、そして本人がもし望むなら一緒に否定したらいい。

だけど、そうでもない限り、否定だけは絶対にしちゃいけないんだなとわかった。

だって、そんな中でも生きてきたわけで、本人だって受け入れがたいのは当然だと思うけれど、そうであったことは否定することはできない。

相手の取り方にもよるけれど、否定するとそれはイコール本人の生き様や歩んできた道を否定することになる。

もっとひどいと、その人自身が否定されたような気持ちになりかねない。

だから、何かや誰かと比べてたとえ可哀想な部類の状況でも、その中で生きてきたことに敬意を払っても、部外者がそれを駄目出しするのは私的にアウトだと思っている。

だから、あのきれいなプログラムが偽善者みたいに見えて仕方なかった。

もちろんそこで可能性を開く子たちも絶対にいる。

そしてそういうチャンスを欲しい子たちだって絶対にいる。

なんだけれども、そこに関わる大人たちの言葉に、私はどこか不信感を抱いかずにはいられなかった。

自分たちを上に見ていて、ある一定条件の付いてる子どもたちを下に見ている、その人間的卑しさみたいなのがどうしても目に付いてしまった。

ユートピアみたいな発想だけれど、私は自分が生きているうちにそれを見ることがギリギリできるんじゃないかなと思っていることが1つある。

それぞれの人が何を持っていて何を持っていなくても、
それぞれの人が何ができていて何ができていなくても、
プラスもマイナスも全部全部ひっくるめて、それぞれの人がそれぞれの人のそのままが一番!
という日が来るんじゃないかと思う。

日本はまだまだ条件付きの愛と条件付きの受容が浸透しまくっているけれども、もうそういう考え方はこれから先古くさくなる。

「恵まれない子ども」みたいな考え方や価値観も変わると思う。

ちなみに私は「恵まれない子ども」みたいな目でしか見れない人たちの方が貧相で下品だと思っている。

恵まれない環境があったとしても、それで個人の存在は何も汚れないし損なわれない。

ただそうだった、というだけのこと。

それだから「恵まれない子ども」っておかしな発想だと、そういうムーブメントがこれから時代の移り変わりと共にやってくる気がしている。

人の価値って、持ち物だったり環境だったり社会的なステータスで判断されるものじゃない。

これからは真っ裸のそれぞれの人がそのままを見てもらえる、そういう時代にどんどんなっていくと思う。

本で読んだことなのか自分で思いついたことか、全然覚えていないけれど、私はAIがこれから人間に代わって日々の生活に出てくることの意味は、何も人口減少による稼ぎ手や労働提供者の補てん的な意味だけじゃないと思っている。

AIが要は誰でもできることをしてくれるようになる。

それは言い換えると、それぞれの人が自分の持ち味を最大限に発揮できる社会的環境が整うということに繋がっていくと思う。

人工知能ではできない部分を人間の魅力や価値観とするなら、これからはそれを表現して発揮していくのが普通になると思う。

今は過渡期ゆえにすごいカオスな感じになっているけれども、多分そのうち落ち着く。

で、そうした中で何が大切かって、どんな自分でも愛されてるとわかることだと思う。

その土台さえしっかりしていれば、あとは何とでもなると思う。

私が言う自分の持ち味を最大限に発揮するというのは、何も良いことだけを指してるんじゃない。

今はまだそんなの超少数派の意見だけれど、ダメなところもひっくるめてその人であって、その人の魅力だとなっていくんじゃないかな…と。

これまでみたいにダメなところを隠したり何かで補ったりするんじゃなく、むしろそのダメなところもイイね!ってなっていく、そんなイメージを持っている。

色々書いたけれど、何が一番言いたかったって、人間は「愛だよ愛!」ということ。

そのままで愛されてると知って愛されてると実感できたら、み〜んな、すごく強く穏やかに堂々と生きていけるような気がする。

半分寝ぼけながら書いてるから、おかしなところはご愛嬌で!

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