『時代の流れ 2018夏ー秋』を書いている時に、小さな実験のことがものすごくはっきりと頭の中に浮かんだ。
きつい中で自分が手にしているものの凄さを感じていた。
中年の危機なのか、時代の流れなのか、それとも単に人生のターニングポイント的なところなのか、今の私の状況が何に該当してるのかは知らない。
何でもいいけれど、自分と向き合うことのしんどさと言ったらない。
しんどくても、もう誤魔化せないところまで来てしまっているから、今さら逃げるわけにもいかない。
逃げたとしてもまたいつかは向き合わなきゃいけないことには変わりないと思っている。
向き合うのはいつかの自分のためだし、過去の自分への労わりでもあるから、それ自体は良いと信じている。
ただ、不安も恐怖も半端ない。
心が休まらない時間の方が圧倒的に多い。
そんな中、私は自分が始めた小さな実験はとても良かったと実感している。
小さな実験は、確実に私の気持ちを緩ませてくれるだけじゃなく、楽しませてくれる。
その人との時間を思い出して、小さなやりとりを何回でも反芻する。
その瞬間、私の心の中に平和が訪れる。
実験開始直前まで暴風雨どころか台風到来並みの荒れた心模様でも、実験を始めると途端に穏やかな気持ちが訪れる。
ダブルレインボーですかと言わんばかりに、心に虹が出るような明るさが即座に差す。
本人不在でもそのパワーの大きさたるや計り知れない。
2回目の実験の昨日、あえて無視された時のシーンを思い返した。
今はどんな風に映るのか興味があった。
今目の前で体験するわけじゃないし、当時の超絶ショックだった気持ちは何回か掘り起こして自分なりに癒したから、今はまた違う風景になるかもしれないと思った。
しかもそういう部分もあってのその人だと捉えるなら、余計と邪険にしたくはなかった。
きちんとその部分も居場所を作ってみよう!と本当に実験のごとく試した。
ミラクルだった。
私は今でも当時のシーンを再現できるほど、きっちりと記憶している。
その人がしたこともそっくりに模倣できるし、当時の私がどんな気持ちになったかもきっちり説明できる。
私はどちらの役もこなせるぐらいの名役者になっている(笑)。
私が来ると察知して、キーボードを叩くスピードも強さもアップしたのはわかったし(本人はどこまで自覚してたかはわからない)、私が仕事の用事で話しかけてるのに絶対に目を合わせず、一言「はい」って言えばいいだけなのにそれさえも言わなかったと記憶している。
キーボードを叩く音の大きさと速さが、絶対に私を近寄らせようとしない、無言だけど最強で最恐のバリアを張られてるみたいだった。
私が近づくにつれどんどん速くなるタイピングに、そこまでしなきゃいけないぐらいに私のこと嫌なんだと思った。
自分が無理やり普段と変わらない声と話し方で用件をやっとやっと言っていたことも、心の中は半袖の季節なのに一瞬にして大寒波到来の猛吹雪だったことも覚えている。
心はそれ以上ショックを受けないように一瞬で機能停止をしようとしてたし、だけどショック過ぎて本当はわぁわぁ泣きたいぐらいなのに平気なフリしてもっと心が死にそうになったこともよく覚えてる。
私はあえて、その時のことを2回目の小さな実験に使った。
実験中、不思議な感覚になった。
たしかにそのシーンで、現実に起こった様子をそのまま心の中でも見ていた。
だけど、私の気持ちとか余計な脚色は抜けていて、本当にシーンだけが出てきた。
その人の意図もわからなければ、どういう気持ちでいたのかは全くわからない。
でも、その人はその人そのものだったし、あぁそういう部分もあってのその人だと感じた。
私とはまた別の意味で本当に不器用な人なんだと思う。
だけど、私はその人のそういうところを否定する気にはならなかった。
それも含めてその人で、その不器用なところもその人の個性の1つなんだと感じた。
マニアックな手法だけど、過去の痛みを癒すために、あえてその状況を自分の中で自分の好きな形に変えて記憶に残す心理的手法がある。
例えばその時なら、その人がいつもの柔らかい感じの穏やかな表情で対応してくれるイメージにすり替える方法がある。
だけど私は実験中それをしたくなくて、もうそのままをじっと見ていた。
事実を自分の都合のいいように変えるんじゃなく、もうどんなに戻りたくても戻れないその時をそっくりそのまま形状記憶したかった。
その人のそのままの姿を私は覚えておきたかった。
どんなに見てももう嫌な気持ちにはならなかった。
その時のショックや痛みよりも、今はもう会えないことの方がうんと痛くて哀しいから、そうやって記憶の中だけでもその人に会いに行けるのは特別だった。
その時のことも、その時のその人も、両方をそっと包むような気持ちになっていた。
2回目の実験も、心の中は温かくなった。
当初は決して笑えなかったし、あんなの二度と体験したくないと思ったし、本気で嫌だった。
だけど、色んなことを経ていく中で、私はそれをそのまま受け止めるスペースや心の準備がいつの間にかできたらしい。
私が成長したり乗り越えたのとは違うと思う。
その人だから私はそうしたいんだと思う。
その人のそのままの姿をただただ見届ける、自分の中の記憶にそのまま残す、そうしたいんだとわかった。
そして、変に良い風に記憶を書き換えなかった分、逆に温かい気持ちになれた。
その人を否定せずに真っ直ぐそのまま見ていることが、逆に本物のような気がした。
そこまでの気持ちになっていたから、心の中はとても穏やかで、その穏やかな状態のまま胸に手を当てた。
祈るような気持ちでその温かくて穏やかなものが相手に届くように…と手と手を重ねた。
2回目の小さな実験も大成功だった。
しかも、あえてきついシーンで試したから、余計とその効果を強く感じた。
自分のことになるとなかなか自分を大切にできていない私だけれど(これでもかなり良くなった)、その人を大切だと感じる自分を見て、自分のことも同じように思いやれるかも!と可能性を見出せる。
私は自分の嫌だと思うところを受け入れるよりも、その人が見せた部分で受け入れ難かったことを受け入れていくことの方が何倍も簡単だと知った。
そこでしていることを何とか自分のことにも応用できないかと悪戦苦闘している。
そうやって、その人の存在は、私にとってなくてはならないもので、私に色んなことを教えてくれる。
自分と向き合うのは、やっぱりしんどい。
否定したい自分なんかはさらにキツさを増す。
でもそんな中において、その人は相変わらずあれこれ活躍してくれてる。
私に元気玉くれて、温かい気持ちをこれでもかというぐらいにプレゼントしてくれる。
この小さな実験は、まだまだたくさん面白いものを見せてくれそうだし、何よりもその人のことで具体的なエピソードを思い出すと自分の中がものすごく満たされるとわかったから、飽きるまで続けようと思う。
そしてせめてもの感謝じゃないけれど、この温かい気持ちにさせてもらえることへのお礼として、温かくなった気持ちをそのまま送り返すことをしばらく続けてみようと思っている。
私の気持ちを差し出すというんじゃなくて(そんなのそれこそ重たいと思う)、その人からもらったものをそっくりそのまま返すイメージ。
欲を言えば、それがその人の元に届いてくれたら嬉しい。
ということで、今日も寝る前にまた小さな実験を行う。
これ寝る前のその日1日のご褒美に匹敵するぐらい、素敵な時間だったりもする。
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