2015年3月31日火曜日

小さな違和感のものがたり

数日前、ある人に贈り物をした。

この贈り物を買ったお店の人というのが、実に丁寧に包装をしてくれた。

これまで数々のものを色んな店で包装してもらったけど、

プレゼント用としてはこれまでの中で過去最高の包装だった。

華美な包装という意味ではなく、店にあるもので最大限の工夫を凝らしたもの、

そしてその工夫がこれまでに見たことなかったから、わたしはとても感動した。

しかも、わたしが買ったものは数百円のもので、その丁寧な包装が申し訳ない位だった。

それでもお店の人は、もっと値の張るものもその数百円のものも、

同じように包装してるんだろうなと思わせる仕事ぶりだった。

最後に心からのお礼を伝えた時も、お店の人は「そんな大層なことはしていない」と

さらりと笑顔で言っていた姿も印象的だった。


プレゼントを渡した当日。

プレゼントにもらい慣れてる方なんだと思う。

渡した時に小さな違和感があった。

当然その細かいプロセスなんか知らないのは承知の上だし、

いっぱいいっぱい感謝してくれ!なんて言うつもりはもちろんない。

だけど、渡された後のプレゼントの置かれ方がとても適当で、

わたしは何だか引っ掛かってしまった。

過去にもう1人だけそういう置き方をした人を見たことがあったけど、

やっぱりその時もすごく気になってしまった。

はっきり言ってしまえば、見ていて不快になる置き方だった。


その違和感については、忘れてしまおうと思った。

気にしていても仕方ないし、気にしたところでどうにもならないと思ったから。

ところが、今の便利な時代、寝た子を起こすように、

今度はネット上でプレゼントの行方を知ることとなってしまった。

小さな違和感は、すでに大きな違和感になった。

プレゼントを用意したことをひどく後悔すらした。


今日会った友達に、事の顛末を伝えずに、とりあえずネットで見たものを見せた。

何も言っていないのに、

「何なのこの人!」

と友達がわたしが思っていたことを代弁してくれた。

さらに、わたしは実際のプレゼントの写真も見せた。

何せ感動的な包装だったから、家に帰って写真撮影を決行したのだった。

それを見た友達も

「この包装、これすごいね~。

でも、多分この人には伝わらないと思うよ、こういう良さ」

と捨て台詞のように言っていた。


自分の小さな違和感は、自分独りだけで抱えている時は、自分の中で悶々と押し問答が続く。

意地悪な姑みたいだな・・・、自分の感覚って・・・、とも思った。

でも、その小さな違和感を1人でもわかってくれる人がいると心強い。

そして、多分わたしの違和感は、もしかしたらわたしや友達だけではなく、

実は多くの人にとっても不愉快なことなのかもしれない。


「人を裏切るのも人間であれば、人を救うのもこれまた人間だよね~」

と別の友達が教えてくれたことがあった。

別にプレゼントのことは裏切られたわけじゃないけれど、

このプレゼントによって、最初に覚えた感動は違和感や痛みに取って替わり、

そして最後またそれらは昇華されて最初の感動に戻った。

今回の一連の流れを通して、やっぱり自分はこういう小さな違和感を大切にしたいと思った。

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