数日前、ある人に贈り物をした。
この贈り物を買ったお店の人というのが、実に丁寧に包装をしてくれた。
これまで数々のものを色んな店で包装してもらったけど、
プレゼント用としてはこれまでの中で過去最高の包装だった。
華美な包装という意味ではなく、店にあるもので最大限の工夫を凝らしたもの、
そしてその工夫がこれまでに見たことなかったから、わたしはとても感動した。
しかも、わたしが買ったものは数百円のもので、その丁寧な包装が申し訳ない位だった。
それでもお店の人は、もっと値の張るものもその数百円のものも、
同じように包装してるんだろうなと思わせる仕事ぶりだった。
最後に心からのお礼を伝えた時も、お店の人は「そんな大層なことはしていない」と
さらりと笑顔で言っていた姿も印象的だった。
プレゼントを渡した当日。
プレゼントにもらい慣れてる方なんだと思う。
渡した時に小さな違和感があった。
当然その細かいプロセスなんか知らないのは承知の上だし、
いっぱいいっぱい感謝してくれ!なんて言うつもりはもちろんない。
だけど、渡された後のプレゼントの置かれ方がとても適当で、
わたしは何だか引っ掛かってしまった。
過去にもう1人だけそういう置き方をした人を見たことがあったけど、
やっぱりその時もすごく気になってしまった。
はっきり言ってしまえば、見ていて不快になる置き方だった。
その違和感については、忘れてしまおうと思った。
気にしていても仕方ないし、気にしたところでどうにもならないと思ったから。
ところが、今の便利な時代、寝た子を起こすように、
今度はネット上でプレゼントの行方を知ることとなってしまった。
小さな違和感は、すでに大きな違和感になった。
プレゼントを用意したことをひどく後悔すらした。
今日会った友達に、事の顛末を伝えずに、とりあえずネットで見たものを見せた。
何も言っていないのに、
「何なのこの人!」
と友達がわたしが思っていたことを代弁してくれた。
さらに、わたしは実際のプレゼントの写真も見せた。
何せ感動的な包装だったから、家に帰って写真撮影を決行したのだった。
それを見た友達も
「この包装、これすごいね~。
でも、多分この人には伝わらないと思うよ、こういう良さ」
と捨て台詞のように言っていた。
自分の小さな違和感は、自分独りだけで抱えている時は、自分の中で悶々と押し問答が続く。
意地悪な姑みたいだな・・・、自分の感覚って・・・、とも思った。
でも、その小さな違和感を1人でもわかってくれる人がいると心強い。
そして、多分わたしの違和感は、もしかしたらわたしや友達だけではなく、
実は多くの人にとっても不愉快なことなのかもしれない。
「人を裏切るのも人間であれば、人を救うのもこれまた人間だよね~」
と別の友達が教えてくれたことがあった。
別にプレゼントのことは裏切られたわけじゃないけれど、
このプレゼントによって、最初に覚えた感動は違和感や痛みに取って替わり、
そして最後またそれらは昇華されて最初の感動に戻った。
今回の一連の流れを通して、やっぱり自分はこういう小さな違和感を大切にしたいと思った。
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