>>>2019/03/10 22時過ぎ
湯船に浸かった自分のつま先を見ながら、「39歳もう少しで終わりだなぁ」と感慨深い気持ちでいた。
色々あったし、色々ありまくりのまま40代に引き継がれていくけれども、自分がここまでがんばったなぁと思ったら、涙が出そうなぐらいに色んな想いが去来した。
29歳最後の日を思い出していた。
私は30歳になる時、世間では恐れられる年齢なのに、むしろ楽しみにしていた。
どんな30代になるんだろう…って。
それが突然3日ぐらい前から、30歳になるのが怖くなった。
何が怖かったのかは言葉にできないけれども、突然足元がグラグラで1人じゃ不安でたまらない自分がニョッと顔を出した。
前日は友達何人かが住んでいる町に遊びに行ってお祝いしてもらい、そのままその日は友達2人と牢獄みたいなホテルに泊まった。
ワインを飲もうと買ってあったのに、日付が変わって早々私の手が当たって、ワインを床に落として割ってしまった。
30代凄い幕開けだなと思った。
友達2人からも「これ見てドッと疲れた」などと言われながら、そのまま寝た。
朝誰よりも早く起きた私は、暗い洗面所の鏡の前に立った。
鏡の中の自分を見てたら泣けてきた。
辛い時こそ笑うんだよ、と私に教えてくれた人の声が聞こえてきそうだった。
一瞬しか泣いてないのに、目が真っ赤になっていた。
友達に見られちゃまずいと思って、必死で顔を洗った。
職場には「今日は急用で行けなくなった」と言ってサボりの電話を入れ、私は高速バスを降りた後、今度は海に行くバスに乗って海に行った。
あれから10年、本当に頑張って走り抜けたなぁ…、そう思いながら自分のつま先を見た。
この体が39歳の自分まで引っ張ってきてくれたんだなと思ったら、自分に対して感謝の気持ちが湧き出た。
「ありがとう、本当にありがとう」と心の中で何度も自分にお礼を言った。
色々思い通りではなさすぎたけれども、それでもがんばっての今だとたくさん気付かされた。
そしてこの自分で明日からの40代もがんばれそう、この自分と生きていけそう、そう思えた。
29歳最後の夜とは違って、穏やかな気持ちで30代最後の夜を迎えることができた。
上の部分は、3/19すでに40歳になった自分が書いた。
下の文章は正真正銘、まだギリギリ39歳の私が書いた。
>>>2019/03/11 1:17
まだまだ39歳。
あと7時間少しで40歳。
30代はちゃめちゃ過ぎてどうなるかと思っていたけれども、終わってみたらものすごく大きなものを手にした10年間だった。
何も後悔していない。
39歳最後の夜、ものすごく満たされて眠りに就く。
ゼロからのスタート。
40歳は自分1人でスタート。
これまでの自分がここまで連れてきてくれたから、その自分で新たなはじまりを迎えられる。
どんな風になるのか楽しみ。
39年間走り続けた自分におつかれさまとありがとうの気持ちでいっぱい。
そういう穏やかな気持ちで39歳を締められて、そして次の40歳を迎えられるのはとっても嬉しい。
本当に嬉しい。
祝☆39年間の命のバトン
祝☆40歳からの自分
>>>2019/03/11 午前中
明るい気持ちで8:36を迎えた。
本当に40歳になった。
40歳どんな風にお祝いできるかな…と考えて、自分のためにカードとホロスコープからメッセージをもらうことを考えた。
そんなお祝いの仕方は初めてだったから、心はウキウキした。
友達から誕生日のメッセージもいただいて、心はじわじわと満たされていた。
ここから先に書くことが誕生日当日の凄まじかった時間のこと。
その凄まじかった時間の中の1つの方を今日は書く。
>>>2019/03/11 自分の心が決壊した時
facebookというツールは、そもそも同じ大学内のクラスメートたちだったかサークル内の仲間たちだったかが互いにすぐに全員と連絡を取れるようにしたくて作られたシステムだとどこかで読んだことがある。
そこから爆発的に発展したfacebookは、今やものすごい勢いで色んな人やものを瞬時に繋ぐ。
日本どころか世界のどこにいたって人と人とが繋がる。
30代のいつからか、私はfacebookを見なくなった。
自分の人生がとことん訳の分からない袋小路にハマって、自分でどうにかできるレベルを超え始めた。
望んだことは叶わないし、反対に願ってもないことは起こるしで、何か自分が本当に悪いことでもしてそれの罰ゲームでも受けてるのかと思った。
周りが結婚だの子どもだのキャリアだのと発展的に生きているように見える中、私はすべて後ろ向きなぐらい後ろというか、もう何をどうしたらいいのかわからなくて、途方に暮れた。
そんな時に周りの人たちの上手くいってるもしくは楽しくしてる様を、たとえfacebook上でも見るのはきつかった。
だから私はfacebookから離れた。
少なくとも見なければ心は揺さぶられない。
知らぬが仏とはこのことで、知らないままでいられる方が良いこともある。
そうやって離れてすでに数年が経過した。
ただ、facebookのすごいところは、誕生日になるとそれを「今日は武士俣史子さんの誕生日です」と繋がっている人たちに知らせてくるシステムがあること。
2年か3年前に、私は半年以上も経ってからメッセージに気付いて返信したことがあったから(そんなこと知らずにいた)、その時からは誕生日だけはfacebook開けて返信するようには心掛けてる。
という流れの中で開いたfacebookに過ぎなかった。
いつぶりかわからないぐらいにログインした。
ログインするとホームに行く。
ホームには繋がっている人たちの誰かしらの投稿がズラッと並ぶ。
投稿者やその内容は当然私に決められない。
その日のトップは、昔ある時期にとても仲良くしていて一緒に仕事関係でも絡みのある人だった。
つい最近第二子を産んだという投稿だった。
私の中でプツンと糸が切れた。
ギリギリのところでいつも保っていた細い糸が切れて、そこからの私は一気に崩れた。
泣きたいわけでもないのにとめどなく涙が溢れた。
お祝いモードはぶっ飛んで一瞬で掻き消された。
代わりに後悔と否定と羨望と絶望と他のありとあらゆる負の感情がごった煮状態でやってきた。
完全にノックアウトされて打ちのめされた。
誰も悪くないし、その子も私も生まれてきた命も何も誰も悪くない。
頭でわかっていてももう心はズタズタだった。
自分の満たされた気持ちや39歳最後の瞬間「頑張ったな自分」という気持ちが嘘の上に作られた虚像のようなものにしか見えなくなった。
ーー2009年3月11日
結婚・妊娠・出産・育児、30代で一通り経験したいな。20代は自分のためだけに生きてきたから、30代は自分以外の誰かのためにも生きていける人生であって欲しい。ーー
30歳の誕生日に、誕生日日記帳にはそのように書いて締めくくっている。
正直に言うと、30代は結婚と子育て以外のしたいことが私の中に全くなかった。
28〜30歳まで協力隊に行ったことで、私は自分がいかにキャリアとか仕事というものに興味がないのかもわかった。
地球の裏側から私は日本の料理ブロガーの人と手芸作家さんのブログにどハマりして読んでいた(ネット環境がある時)。
料理も手芸も面白い内容だったけれど、私がそれ以上に惹かれていたのは、旦那さんと子どもがいる生活そのものだった。
憧れ方も半端なくて、私はその人たちのブログを見て、超本気で自分もそういう生活を送るところをありありとイメージして、それがいつか叶わないかな…と思った。
ところが、30代蓋を開けてみれば、そういう路線ではない方に人生はどんどん運ばれた。
最初に私を待ち受けていたのは、リーマンショック後の就職活動とどう終わらせていいのかもわからない失恋とそして糸が切れた凧みたいに自分の中で何もやりたいことが思い付かないことへの焦りと…。
就職活動の時に聞かれた忘れられない質問がある。
「武士俣さんはこれからどうしたいですか?」
それはその職場のことではなく、生き方そのものを問われていた。
私は言葉に詰まった。
何て答えていいのかわからなかった。
結婚がなくなり心は撃沈して、でも生きていかなきゃいけないから就職活動してるだけで、将来の希望も展望も皆無だった。
少しなのかだいぶなのかは覚えてないけれど、沈黙の後私はやっと口を開いた。
「すみません、わかりません」
それが本音だったし、それ以上も答えられなかった。
「武士俣さん、例えば南の方に住みたいとかそういう住みたい場所とかでもいいんですよ」
と面接官の方は助け船を出してくれた。
それでも私は
「本当にすみません。住みたい場所もどうしたいかも、本当にどうしたいのかわからないんです」
頭を下げながらそう言った。
そこは不採用になったけれど、今考えてもその人が現れたのは私の人生の軌道修正をしてくれる係の人だったんだと思う。
面接が終わってあとは帰るという時に、面接官の方に言われた。
「武士俣さん、僕たちの会社はどんなにその人が欲しい、その人にうちの会社に来て一緒に働いて欲しいと思っても、その人の人生にとって他に行く必要のあるところがある、その人にとって相応しい場所が他にあるってわかる時、本当に惜しくてたまらないんですが、その方を不採用にすることがあります」
40社以上の会社に応募して何社かは面接にも行ったからわかる。
そんなこと言ってくれた会社はそこだけだった。
そしてそこの会社に後日面接のお礼を書いてメールしたら、担当者から個人的なエールが贈られてきた。
「雨降り族が踊ると必ず雨が降る」という話を教えてくれた。
なぜ雨が降らない土地で雨降り族が踊ると雨が降るかと言えば、【雨が降るまで踊り続けるから】とあった。
武士俣さんの降らせたい雨は何ですか?降らせたい雨を見つけて、そして雨が降るまで武士俣さんも踊り続けてください、僕も10年ほどかけてようやく降らせたい雨が見つかりました、と書き添えられていた。
これ以上ない、すごいエールだった。
多分私を採用したかったんだと思う。
だけどあの時その人の決断で私は不採用になって、そして最終的に名古屋の会社に内定が出た。
名古屋の会社の方は、二次面接の本社の打ち合わせの時にすでに私はやらかしていて、もう行く前から落ちたと思っていた。
仙台の友達に会いに行ってさぁ帰るぞという頃に電話をもらったけれども、なんと充電が切れて電話が途中で切れた。
充電できないから連絡のしようがなく(折り返したくても番号もわからない)、翌日になって謝りながら面接の日程を打ち合わせた。
面接もひどくて、面接担当者は超適当だった。
落ちたんだなと思いながら帰ってきたら採用と言われてビックリした。
それで名古屋に引っ越して、本格的な30代がスタートした。
名古屋での6年半はドタバタだった。
よくわからない人生の流れは年々加速するし、元々「これしたい!」という強い意志もなかった私はますます迷って、自分の人生なのにひたすら混乱しまくっていた。
男の人たちを紹介されても2度目会う人は誰もおらず、誰かを好きになるイメージもなく、結婚どころか恋愛そのものから遠のいた。
今思うとわがまま放題だったけれど、相手が気に入ってくれても自分が何か嫌だと、何だかんだ理由をつけて断った。
自分が選べる立場にもないのに、自分の融通の効かなさには自分でも唖然とした。
年齢も妙齢過ぎて、中途半端に関係が進んだらもっと面倒くさくなると思って、早々と断っていた。
忘れられない人もいる、パートナーが欲しいと口では言いながらも本当は怖かった。
立ち直れないほどの痛手を受けるのが嫌だった。
周りが結婚、妊娠、子育てと進む中、もしくは仕事はじめ生き方の軸を定める中、私は自分がどうしたいのかますますわからなくなり、生きるってこんなにしんどいんだと暗い考えにどっぷりと浸かっていた。
3年か4年前のある日、私よりいくつか年上の女友達と電話で話した。
友達はその時40歳になった。
「40歳になって、やっと少しホッとした。もうさすがにこの年になったら、周りも結婚だの出産だのと言ってこなくなるから、ちょっとだけ気持ちが楽になった!
私、子ども残せない代わりに論文でも残すわ 笑」
電話越しにそんな風に笑いながら言える友達の強さを感じた。
この友達は超活発+姉御肌な人で、そして日本国内でもその分野での有名人みたいな特殊な専門性を研究しているけれど、その表に出ている顔と本人の本音は全く別のところにある。
本人は並々ならぬ家庭生活への憧れと、本当はすごい繊細で女性らしい配慮ができる人なのに、表に出ている顔が男勝りなところがあるからよく勘違いされやすい。
私はそうではない彼女のぬけてる可愛らしい面も知ってはいたけれども、そんなこと指摘したら変な空気が流れそうだから、本人には直接言ったことがない。
だけどある時、うっかり男友達が私に口を滑らせたことで彼女の意外な一面を知った。
男の人に対する理想が高すぎて男友達みんなから「そんな男いねぇよ!」と言われてばかりだったけれど、彼女は本当は本気で好きな人のためならキャリアや自分の資産全部手放してでも相手をサポートする覚悟を持っていた人だった。
男友達の話からそれが全部わかってしまった。
だから彼女のキャリアは本当に日本という国の中では絶対に欠かせないものだし、彼女の研究はこれから100年200年は当たり前に引き継がれていくようなものだけど、本当にそれがなければ普通に結婚してお母さんしたかったんだろうなぁと思う。
結婚とキャリアは別物かもしれないけれども、少なくともこれだけはわかる。
彼女が携わっている分野は、彼女が選んでる風だけど本当は仕事の方から選ばれてるんだろうなぁって。
彼女の専門分野は超現実派のものだけど、そこにも「お役目」を任される人たちがいるとするなら、彼女は間違いなくお役目の人。
多分死ぬまでその分野の人をやり尽くすと思う。
彼女のあきらめと未来への自分の道とを語ったその言葉をふと思い出した。
40代の私は論文を残さず何を残していくんだろう…。
胸の奥が痛かった。
facebookで見た第二子誕生の投稿。
自分が欲しいものがその画面の向こうに全部あった。
自分の中で見ないようにしていたものたちが一気に噴出した。
人の人生は人の人生だし、私の人生にしかないものだって当然ある。
もしかしたら私の持っているものは、他の人から見て羨ましいものだったり欲しいものだったりするかもしれない。
だけど、そんな風に頭で考えて割り切れるものではなかった。
スピリチュアル的なもの、見えない形の資質・体質的なもの、人は羨ましがるかもしれないけれど(実際に言われたこともある)、私は自分が欲して得たものではなかった。
その名古屋に行くことになった仕事が超ブラックな働き方をするところで、 10回近く退職願を出しても辞めさせてもらえず、本当に精神的に超追い詰められて、それで何とかしないとこのままいくと私の人生がものすごくやばいことになる、そう思って門戸を叩いた場所がコーチングで、そして「コーチング」たるものが何かもわからずに行った先にいたコーチとの出会いが私のスピリチュアルな扉を開いた。
当時は1ヶ月無休とかも当たり前だったし、朝は7時に家を出て帰りはその日のうちに帰れたら御の字みたいな生活で、さらに仕事内容も肌に合わないものが大半を占めていた。
余談だけど、そのコーチと出会った日、スピリチュアルな扉が開いたとわかるものがはっきりとホロスコープに出ている。
しかも今時間も調べて当時のホロスコープを出したら、もっと驚いた事実が出てきた。
過去世から今世へと続く魂のテーマ・道を表すものと子午線軸がピッタリと重なり合っていた。
それも360度中1度の誤差もなく重なっていた。(角度差が1度未満で重なると、ホロスコープ上ではウルトラスーパー強烈な影響があるとされている)
子午線軸の両方、社会的な役割の顔を表す側と心の拠り所を表す側と、その両方にピッタリと私の生まれた時のホロスコープが重なる。
もう避けては通れなかった道なんだと今さらながらに知った。
私がスピリチュアルな道に進んでいくのは、少なくとも興味があってそちらを勉強したんじゃなかった。
崩壊寸前と言わんばかりの人生と自分自身を立て直すために、藁にもすがる思いで出かけた説明会で、まさか会話1つで心が軽くなるそんな魔法がこの世に存在するだなんてビックリ仰天で、それでそのコーチが知ってるノウハウを私も知りたくて色々教えてもらったら、それがスピリチュアル的な要素も含んでいることが後々にわかった。
だから、生き方そのものを悩むほどの事態に陥らなければ、私はスピリチュアルなことはおろかコーチングにさえも行き着かなかったと思う。
スピリチュアルなことも、私は自分の許容範囲内でしか最初は触らなかったから、あくまでもスピリチュアルな勉強ではなく、コーチの考え方や視点に惚れ込んでそれを教えてもらったらそれがスピリチュアル的なものだった、という流れで私は入っていった。
まさかそこから自分もある種の特異的な体質だと気付くとか、見えない世界にどんどん入っていくとか、考えられなかった。
そうした自分のオカルトチックな体質のこと、そしてそれは活かすために与えられているものだということを受け入れていくプロセス、それ相応の人生にますますなるだろうことへの覚悟、亀の歩みのようにやっと少しずつそうしたものを受け入れ始めたのがこの1年ほど。
もう逃れられないだろうことや、何だかんだ言いながらもやらなきゃいけないだろうこと、私の魂の設定かどうかは未だにわからなくてももうそのように人生が動き出していること、そういうものにも心を開き始めた。
そちらに自分が開いていくというのは、あくまでもそれ単体でのこと。
本音を言えば、自分が大切に想う人と一緒にいて日々の生活を営む、私が本当に望んでいるのはそれだけで、それ以上のことを望んでるつもりはない。
だけど、人生がそのようではないから、だから自分の願いはそっと自分の胸の奥にしまった。
誰にも見えないような場所へしまって、そしてあとはやってくる出来事たちをひたすら受け入れていく…、そうやって少しずつではあるけれども小さくそちらに歩を進めた矢先のfacebookだった。
38歳の夏、人生の色んなことが曖昧になりながらもとりあえず日々生活を送ることにだけ目一杯だった時、突然1人の男性が私の人生に現れた。
それは想定外なんてものではなかった。
恋愛の「れ」の字もないぐらいに、そしてそもそもそこは職場だったから、私はそこに出会いなんか一切求めていなかった。
私が求めたのは、平穏無事が得られる人的環境と仕事内容だけだった。
恋愛全般にとても臆病になり、そうした色んなことをあきらめた私には信じがたい光景だった。
仕事中気付くとその人を意識している自分に気付いたし、そして気付いた次の瞬間「これは何かの間違いだ」と思って、全力で否定していた。
これまでの人生で起こったことたちと比べても色々おかしいことには気付いたけれども、相手がイケメンだから自分は勘違いしてるだけだとか、そうしたことから長らく離れていたから少しぐらいやさしくされたからと言って自分の中で勝手に盛り上がっているだけだと思い込もうとした。
しばらくそれで悶々としていたけれども、このままじっとしていても仲良くなるチャンスなんて皆無だったから、私は何か行動しようと考えた。
3週間ほど悩みまくって男友達にも相談して、それでやっと動くという状態だった。
勇気振り絞ってごはんに誘ったけれど断られ、さらには無視され、もう最後は辛い時間がたくさん流れまくりだったけれども、それでも私はその人のことを嫌いになれなかった。
その人のことなら何でも許せるというのとは違って、表面に現れる小さなことたちがかすむくらいに、まずはその人がいてくれる、自分の世界の中に存在してくれてる、それが何よりも大切だった。
私はそこまでできた人間でもないし、自分にとって辛いことをされれば普段なら寛容さも包容力もないけれども、その人だけは全く違っていた。
自分が嫌われてもいいとは言わないけれど、それさえも受け入れる心づもりが私にはあった。
絶対に守りたい、他の何からも守りたい、そういう存在感を発揮しまくりな人だった。
そしてその人に出逢うことで私の人生は劇的に変わった。
この人は最初私に、生きる喜びと命に感謝することを授けてくれた。
全く興味もない仕事に行くにも関わらず、毎日「今日も朝が来た☆*:.。.٩((*⁰▿⁰*))۶.。.:*☆」と喜びに満ちた状態で1日を迎えた。
そして夜寝る前には「今日も本当に素敵な1日だった☆*:.。. o(*´꒳`*)o .。.:*☆」と、大げさではなく本当にそんな気持ちで毎日いた。
あれだけ楽しみだった週末はさほど楽しみではなくなり、日曜のサザエさんタイムの頃には俄然月曜日に向けて元気になる、という人生で体験したことのない感覚を味わった。
お盆休みなんかは、「早く終われー!!!」と思ったぐらい、多分もうそんな体験人生で二度とないと思う。
その人がくれたのは、生きる喜びとか命への感謝だけじゃなかった。
「愛」それも究極の形の愛みたいなものだった。(←書いててものすごく恥ずかしい。けれど、書かないとこの先の話が繋がっていかないから書く)
その人からはもらえなかったけれど(T ^ T)、自分の中にあるものを引き出してもらった。
自分の中にそういう感覚を持てるというのは本当に感動した。
そういう感覚さえもう自分は持てないと思っていたから、愛を知らない寂しい人生だなぁなんて思っていた。
ところが、それがガッと勝手に開いて、あんなに色々怖かったのに怖ささえ決壊して、もっと別の温かいものが自分の中から外に向かって溢れ出てきた。
自分でもものすごくビックリした。
そういう感覚になってる自分にも、自分の中にそういう感覚があることにも、とにかく驚いた。
そしてこれまで体験したことのない感覚でどんどんそちらは勝手に開いていった。
その人が転勤でいなくなった数ヶ月後、その人とは過去世でも毎日とても近いところにいた人だと、1年前に受けたホロスコープの鑑定士さんから教えてもらった。
さらにその数ヶ月後の去年の夏にも、霊視ができるヒーラーのOさんからも実に意味深な内容で、一度もOさんに話したこともないその人についての色々な情報を得た。
Oさんに視えてる時点で並々ならぬ関係なのは間違いない。
でも、現実はと言えば、最後は連絡先も交換しなければ何の接点も持たないまま、離れ離れになった。
離れたら気持ちも離れてくれるかとかなり私は期待していたけれども、これは読みが甘かった。
もう1年半になるけれど、存在感は相変わらず半端なく、むしろ大きくなった気がしなくもなく、だけど現実的には何の接点もないまま時間だけがどんどん過ぎていった。
その人の登場はものすごく重要だった。
私の魂が今世、現在の私みたいな体質で見えない世界のことにガッツリと深く関わることを決めて生まれてきたとするなら、何よりもまず感覚を開かないといけない。
感覚というのは、目に見えない部分の感覚、それは心だったり、言葉では説明できない部分の感覚。
自分自身に対して心を開くこと。
そして開いた状態で今度はその体質を受け入れ育てること。
そしてさらに他者に対してその体質や感覚を使う際、絶対基本となるのがその行為を愛を持って行うこと。
見えない世界の力は、悪用しちゃ絶対にいけない。
人間だから当然色んな感情が湧く。
私なんかは基本的に感情の振り幅がでかいから、しょっちゅう自分の感情に振り回される。
そういうものも自分の中で受け入れながら・なだめながら、誰かの人生に居合わせる時はキリッと自分を切り替える。
そして相手の人たちの何か人生における大切なものに関わらせてもらう時、それは愛なしではやれない。
「愛」と思ってはやらないけれど、私がいつもしているのは「相手の力をとことん信じること」と「絶対に大丈夫!と信じること」。
カオス過ぎる自分の人生でも、今この地点に立って、どの時のどんなこともこれ以上ないベストなタイミングでやってくることはわかるようになった。
そうした人生に起こる出来事に対して本気で信じられるようになったのは、その人と出逢えたからだった。
その人との出逢いは、時間が経てば経つほどどれだけの奇跡の上に成り立っていたのかがわかる。
1つのピースも狂ってはいけなかった。
現実的には到底受け入れられない強烈だった出来事たちさえも、その人に出逢うためには1つとして飛ばしちゃいけなかった。
それがなければ、私は自分の予測不能な人生を肯定なんか当然できなかったし、信じることも不可能だったと思う。
人生の流れを信じることと愛を持って人と交わること、この2つの感覚はその人なしには完成しなかった。
今だってオロオロするし不安になる時はガッツリ不安だけど、それでもこれが人に向き合う時、私はガッと切り替わる。
この体質を自覚できるようになって約1年。
この根底にはいつもその人の存在によってもたらされたものたちにずっと支えられてきたし、揺らぎまくりの私が何とかその時その時を全力でいけたのはその人のおかげで得た自分の感覚があったから。
本当に少しずつではあるけれど、自分の感覚を信じて自分の人生に流れ込んでくるものを受け入れて前を向いて小さな歩を進められるようになって…。
それで迎えた39歳・30代最後の夜だった。
facebookに載っていた、今は疎遠になりつつあってもかつてはとても仲良くしていた友達の第二子出産。
私は自分が何をしていたんだろう?と思った。
自分の生き方を間違えてるとも思ったし、本当は好きな人と一緒になることを本気で望んでいるんじゃないの?と思ったし、こんなにも意味不明な道の上を私は歩く気でいたけれども本当はそんな道さえも違うんじゃないの?とか。
生物学的には子を産めるのに、それを使わずにきた自分への罪悪感もものすごい出てきた。
婚活というスタイルそのものに納得できないから何もしなかったけれども、それも自分が頑固で自らの可能性を断っていたのかということも思った。
facebook上の友達の事情も多少知っていたから、余計そうだった。
その子は結婚する際、一度は自分のキャリアを手放した。
彼女の場合、大好きな仕事と大好きな人を一緒には選択できなかった。
どちらか片方しか選べない状況にあった。
彼女は苦渋の決断で大好きな人を選んだ。
そして今がある。
彼女は1つを選ぶ代わりにもう1つの大切なものを手放した。
私は彼女の仕事を近くで何回か見させてもらったし、一緒に組んでやったこともあったから、彼女のその仕事のセンスがものすごいことを知っている。
ああいうのを天職と呼ぶんだと思う。
その天職と大好きな人との両天秤はどう考えてもキツイ。
そのプロセスも知っていたから、私はそれと同じぐらい本気で何かをしてきたんだろうか?と思った。
人と比べるのはおかしいって普段なら思うけれども、もう止まらなかった。
何で私は自分が望む普通のしあわせが手に入らず、なんだかよくわからないことばかりがやってきて、とりあえずそれを受け入れていくしかなさそうで、でもそんなの私は望んだ覚えもない、すべてが嫌すぎた。
誰かの結婚も妊娠も出産も、ギリギリ笑っておめでとうと祝って、誰かの不妊治療の話も真剣に聞いて…。
でも私はずっとずっとそういうことが羨ましくて仕方なかったし、自分にないものを数えても仕方ない…と自分の気持ちに蓋をしまくっていたけれども、本当はそうじゃなかった。
普通に幸せになりたい、女として幸せになりたい、ただただそれだけだった。
ものすごい路線変更だらけの30代でいよいよ逃げてばかりもいられなくなって、その逃げられないことに少しずつでもいいから向き合おう、自分の人生に向き合おう…、そう思っていた矢先の急転直下だった。
自分の30代に何の意味があったんだろう?
全部が虚像みたいだった。
自分も自分の人生も、嘘の上に塗り固められたものみたいに見えた。
ちなみにもう1つ感情をものすごく揺さぶる爆弾的なことが誕生日にあって、そちらとダブルパンチで私はもう完全に廃人のようになってた。
40代も30代と変わらないすごいパンチが飛んできた。
あれから1週間以上経過して、だいぶ回復してきた。
本当は何をしたかをここで一緒に書こうと思ったけれども、長くなるから別々にすることにした。
完全に私の話ばかりで、これが『奇跡の果実』と何の関係があるんだ?状態だけれど、実はこれも連動している。
きっかけは決して望ましいことではなかったけれど、おかげで自分とガッツリ向き合う羽目になって、少しずつ癒されてる。
自分でもこんな超個人的なこと、実際に書いててかなり恥ずかしいところもあるけれど、よく書けるなぁと感心する。
おこがましさ満載だけど、私は1つだけ本気で願いながら書いている。
私が自分の実体験を話すことで、自分が体験した癒しのプロセスを公表することで、それが誰でもいい、誰か1人でもいいからその誰かの心に響いたらいい、一瞬でもその誰かが「自分だけじゃなかった」と思ってくれたらいい、そう思って書いてる。
そしてもう少し欲を言えば、私の話が私の癒しのプロセスが、他の誰かの心をほんの少しでも軽くしてくれたら、もっともっと嬉しい。
何となくわかってきたけれど、私の人生は「負の体験+癒しの体験」が常にセットでやってきて、そしてその両方を経ることでそこから得た知恵をまた他の誰かに渡していく、そういうことが人生の目的の中に入っていると思う。
自分で言うのもなんだけど、私の癒しの体験はものすごくユニークで、形は違えども他の人たちにも応用可能なものだと感じる。
癒しのプロセスは特にそうだけど、自分が体験していないと絶対に伝えられないし伝わらない。
だから、私は自分だけのものにせず、とりあえず誰が読んでくれてるかもわからないけれども(一部は知っている人たちではあるけれど)、自分が得たものはこうしてこれからも発信し続けようと思っている。
私がこの10年ほど、色んな人たちの知恵を借りながら何とかやってこれたように、今度は自分が自分のできることを自分のペースと自分の好きなスタイルでやっていこう、やっと少しずつそういう気持ちになっている。
誕生日の日のfacebookは、なるべくしてなった、水面下でタイミングぴったりに用意されたものだったと思う。
その後2日か3日は同じようにfacebookを開いた。
でも、どんどん投稿はプラスされていくから、出産の投稿は見えなくなっていた。
回復途中で、私は自分側のショックを抜きにすれば、その友達の第二子出産は本当におめでたいことだと思える自分がいることに気付いた。
それはこれまでとは違う自分だった。
それは年齢が上がったからなのかもしれないし、自分の中が癒されたからなのかもしれないし、もっと他の理由かもしれない。
いずれにしても、そう思える自分がいたことに、私は嬉しくなった。
強がりじゃなく、命の誕生を祝える自分がいることに、自分で自分に感動した。
誕生日当日ラスト3分という頃に、友達から誕生日メールが届いた。
まだ絶賛廃人中だった私は、それを読んでものすごく癒された。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
お互い良い時期も悪い時期もあり、いろんな場所でいろんな経験してきたよね。それらの全てがゆっくりとより上げられて繋がって、ぶっしーはいま、未開の険しい道のりを、みんなの先頭を切って進んでいこうとしているように見えます。
人より早い段階で苦しい思いをし、人より早い段階でそこを乗り越え、そして人より早い段階で天分の才能に気付き、…何もかもが世の中や周囲の人より早いタイミングで起きるために、たった一人で悩み、迷い、堪えなくてはならない事も本当に多かったと思う。
でも長い時間を経て、ぶっしーは自分の才能や使命みたいなものを形にするところまでやってきてる。それは生半可なことではなく(ほとんどの人は気が付かないまま死ぬのかもしれない)、満身創痍になっても、それでもぶっしーが魂の望みから目を逸らさずに、覚悟を持ってワイルドサイドを選択してきたからこそ、手に入れることができたものだと思う。
ぶっしーのブログを久しぶりに読んで、「ああ、やっぱりぶっしーは『人に伝える』役割を持ってるんだな」と改めて強く感じたし、ぶっしーを中心にして広がる人と人の繋がりや、そこから生まれるストーリーというのが、本当に鮮やかに、世界のエネルギーの色を変えているのを見ていると本当にワクワクする!
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
ガッツリと(勝手に1人で)落ちたけれども、それに勝るぐらい周りの人たちからたくさんお祝いしてもらった。
友達が書いてくれた言葉に、誕生日当日の最後、私はとっても癒された。
特に、心が決壊して撃沈していたから、余計と友達の言葉が心に沁み入った(T-T)。
私の人生をそんな風に見てくれてる人がいるというのは、ものすごく心強い。
友達の1人は、何の本かはわからないけれども、本を贈るねと連絡をくれた。
それもとっても嬉しかった。
名古屋のSさんは、日付変わってすぐにLINEをくれ、他にもメッセージを何人かからもらいとても温かい誕生日だった。
暴風雪+竜巻+台風みたいになっていたのは、私の心の中だけ( ̄∀ ̄;)。
そして、今回の癒しのプロセスに、この中に書いた人も含まれている。
こちらこそ思わぬ誤算どころか想定外のこと過ぎてびっくりしたけれども、ありがたくいただくことにした。
気にかけてもらえるということが、私にとってはとてつもなく心強いパワーになる。
私は元々メンタル系のことが睡眠にすぐ影響が出るから変な睡眠リズムになりやすいけれど、その人も大丈夫?と思う。
変な影響が出てないといいなぁと思う。
ここ最近は、2時間おきぐらいに目が覚めるから、その都度少し携帯を触るけれど、その時にその人もガッツリと起きていたことがわかった。
私は少なくともブツ切り睡眠でも眠れているからいいけれど、その人は眠れているんだろうか?ともはや心配になった。
体大事にしてね、と思う。
とにかく気にかけてもらえることで本当にパワーもらってます(o´艸`)。
ありがとう。
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