題名:『春が来た』今年も梅の花が咲いた☆
私の話を聴く力がどこから生まれて、どう積み上げられたのか、今日まざまざと知った。
聞き上手とは自分で思わないけれど、これだけ色んな人たちが不意打ちに自分の何かを打ち明けていくところを見ると、けっこうなレベルの聴く力があるんだと思う。
もしくは、「この人になら話しても大丈夫」オーラを出してるか 笑。
どちらでもいいけれど、すごい納得したことがあった。
両親に自分の体質のことを打ち明けてみた。
もう黙っていても仕方ないと思ったから言ってみた。(何をしてるのかさっぱりわからない私を見かねて、「話し合いの時間が欲しい」と言われたことに端を発する)
想像以上に、こちらも返答に困る返答が返ってきて、話は平行線どころか、片方は日本語、片方は何語かもわからないぐらいの言葉で互いにやりとりしてる風だった。
見事なぐらいに交わらなくて、そもそも理解してもらおうなんて思ってなかったからそこは想定通りだったけれど、とりあえずわかったのは、すべて自分たちの価値観で言葉を捉えているから、こちらの辞書にはない新しい解釈で何かが返ってくる。
私が自分の体質を説明する際、「霊能力とは違うけれども、人のことがわかってしまう」と言った。
自分でもかなり無理があるなぁとは感じつつも、「人の潜在意識や魂から情報がくる」と言うよりもわかるかなと思ってそう言った。
父はそこはスルーで「俺にはよくわからない感覚だけど」程度の返答でまだ良かった。
母は「それはストレスと一緒だ。みんなストレスがある、誰しもが人生色々ある…」とか始まって、治したいなら医者に行けばいいとまで言いだした。
それはさすがに訂正した。
医者に行って治るものじゃなく、私が死ぬまで付き合っていかなきゃいけない体質のようなものだということ。
一事が万事そんな風だったから、私はその辺りの話はさっさと切り上げた。
3歳の姪っ子と話す方がよほど通じ合えてる気さえした。
それを見て思った。
子どもの頃から両親に何一つ外であったことを話さなかったのは、心配をかけたくないという子どもながらに健気な気持ちでいたのかと思っていたけれど、違う。
話してもわかってもらえないどころか自分が否定されると肌で感じていたからだと思う。
何かあると、私のがんばりが足りないだとか、相手には相手の事情があるだとか、とにかく全く自分の気持ちに寄り添ってもらえた記憶がない。
だから、わかってなんかもらえないし、大丈夫なんて言ってもらえないし、それなら自分1人で抱え込んでいる方が安全だと、あれは防衛本能のように働いていたと思う。
これは大人になってからもそうで、相手が私のためを思って何か言ってくれていても、私は重箱の隅をつつくように気付いてしまう。
この人、私のあり方だとか私の価値観を否定してるって。
もちろんそんなのは私の主観になるわけだけど、私はこれまでその自分の主観が「被害妄想」とか「自分の都合の良いように解釈している」と思っていて、あまり良い風には捉えていなかった。
だけど、この1年ほど、特に秋以降数ヶ月は何度も自分の主観を大事にしなさいよ的な出来事が相次いだ。
相手のことを否定するのは良くないと考え、私の捉え方の問題だと思おうとし、だけどモヤモヤすることが続いた。
自分の自信のなさや誰かを否定することは悪いことだと信じる心が、私をますます窮屈にさせていた。
ここに来て、私の主観で私の感覚でいいんだ、って思えた。
相手にその気がなくても、私は少なくとも不快だったり、グサッと心に言葉や態度が刺さったり、小骨が喉につっかえたみたいに違和感を覚えたり。
その自分の感覚でいいし、それを信じて大丈夫って思えた。
表面上面倒なことは嫌だから、余程のことでない限り相手に言ったりはしないにしても、自分の中で自分が感じたことはそのまま大事にしていいなぁって。
こういう感覚を、子どもの頃から育む環境に自分がいたんだなぁと思った。
そして、今はそれが財産だと思っている、大真面目に。
ふと思った。
もしうちの両親が聞き上手で気持ちに寄り添う術を持っている人たちだったなら、多分私は今の私とは違っていたと思う。
中学卒業ぐらいまで本当に家でも外でも自分の本音を言える場所がなかったから、私は自分の中に溜める術をマスターした。
それは、ただでさえ傷がいっぱいになっているところ、もっと傷を増やすようなことを外側からもたらされたくなかったから。
そうやって防御を固める術を身につけてきた。
そして、ようやくこの年になって、自分の感覚で良いんだなって、やっと自分が自分の感覚を心から受け入れて信じられるようになった。
私の感覚が正しいかどうかなんて他の人たちのものさしで計ったら違うかもしれない。
でも、私の感覚は私にとっては絶対なもので、それはとりあえず一旦はすべて受け入れよう、そう思った。
不具合があるならまたその都度その都度、見て感じたらいい。
私は自分のその外には言葉を出せない子どもの頃からの習慣があったから、人の話を聞く時は多分相当気をつけている。
否定の言葉は何も語尾が否定形とは限らない。
まるで肯定して一見寄り添う風でも、それでも言葉は凶器になったりする。
相手の人が何か自分のことを私に打ち明ける時、私はそれだけですごい勇気が必要なのを知っているから、だから基本的には黙って聞くことぐらいしかできない。
何か言うとしても、相手の体験したことがもし私の体験だとするなら何て言われたいか、そういう視点でパッと出てくるものがあれば言う。
でも、そんなのは大体何を言うにしても難しいから、とにかく黙って話を聞くに限る。
それって結局、私自身が一番されたかったことだから、それをしている。
それが良いか悪いかじゃなくて、もう究極のところそれしかできない。
話が少しそれるけれど、コーチングやカウンセリングの実践のための勉強をする時、必ず「質問力」というのが出てくる。
たしかに質問はすごく使えるツールだし、質問1つで世界が変わる場合もある。
私も質問に救われた体験はある。
だけど私は思う。
「質問する力」よりも大事なのは「質問しない力」だと思う。
質問しないで相手の話をうんうんと聞くのは、かなり能力が必要だと私は思っている。
質問もせず、ひたすらうんうんと話を聞いてもらうことの癒しの力と言ったらない。
ただただ聞いてもらえるだけで、どれだけ自分が癒されるか。
だから質問する力よりも質問しない力、質問しないで話を黙って聴く力の方が、私なんかはすごいと思っている。
そして、質問する力に関しても、相手の中から何かを引き出したい時は、コツがいると思う。
これに関して私は2つ思うことがある。
さりげに私は、「どうやって質問を思いついているのか」とか「どうやって質問を考えているのか」と何人かから聞かれたことがある。
結論から言うと「質問を考えていない」。
そう答えた時もあると記憶している。
聞かれたから気になって自分で観察してみたところ、私が聞く時は「単に私が聞きたいから」聞いている。
相手の話や考え方に興味を持って、それでふと気になったことを聞いてるだけだった。
だから、質問力を高めたいなら、相手の話に興味を持てば多分質問は浮かぶ←ザ・適当( ̄∀ ̄)
もう1つ。
これはされてめちゃくちゃ不快だったことで学んだ質問する力。
コーチングスクールでペアを組んで質問を使ってのカウンセリング的なことをした時や、実際に何人かの個人セッションを受けた時に感じたこと。
「良い質問をしよう」と考えながら質問している人は、肌で感じる。
そういう人は自分のことしか見てないから、私の話なんてさっぱり聞いていない。
話聞いてる風だけど、実際は違うことがすぐにわかる。
そして「いかに良い質問をして相手に気付きを与えるか」とかそんなことばかりを考えているのが丸見えだから、私の話はどうでもいいんだと私なんかは即シャッターを下ろす。
この人は私の話に興味があって質問しているのか、そうではない別の理由で質問しているのかはわかってしまう。
だから頭で考えたような質問をしても、結局は何も心に響かないどころか心を閉じてしまう要因になってしまう。
好き勝手に書いたけれども、人と人とは所詮分かり合えないと思いつつも、分かり合いたい、少しでも何かを共有したいと思っている私もいる。
それは自分の殻に閉じこもる時間が長かった私にとって、人と分かり合えたとかわかってもらえたという時の感覚はこれ以上ないぐらいに感動的で、私はすごくすごく満たされる。
何がしあわせか?ってランキングがあるとするなら、自分を他の誰かにわかってもらえたというのは私の中で相当高い順位にランクインしている。
すごいまとめ方だけど。
この話を『奇跡の果実』に入れたのは、【「自分の感覚で良いんだ」という感覚】を手に入れたことを書きたかったから。
『奇跡の果実』シリーズは本当に色んなことを私にプレゼントしてくれてる。
私の中では、『奇跡の果実⑧覚醒』に書いた
【自分にとって何が快で不快なのか
そうした全てで形作られている自分というものに気付いていくこと】
この部分に連動していると思っている。
メッセージに近いものだと私は感じている。
この私だけの感覚こそが私にとっての正解だったりヒントだったりする。
私はこれまで色んな怖さや不安や自信のなさから、自分の感覚でいいと思えないことが多かった。
でもここまで色んなことを体験していく中で、自分の感覚で大丈夫って、それを感じられておかげで楽になれたり安心できたりするスペースが心の中に増えた。
Lessonとも言い難かったからとりあえずウラ話に盛り込んだ。
またホロスコープ話だけど、今回の春分の日は、潜在意識や魂意識、集合意識、自分では周りの目から隠している心の奥深いところなんかに魂の傷やテーマを表す「キロン」という天体が来ている。
「魂の傷」じゃわかりにくいから言い換えると、自分の中で自信がないことや不安なことと言ってもいい。
キロンは癒すことで、強さや真の力を取り戻させてくれるものとされている。
春分の日の天体配置はこれから来年の春分の日の前日まで影響するとされているから、これから個人レベルでもそうした心の奥深いところへの揺さぶりがワッサワサとやってくる可能性がとても高い。
そうした時に、その傷を癒してさらにそこからメッセージを受け取ったり、その傷があったおかげで自分の何か才能とか資質に結びついていたりするものに気付けるととても強い。
ちなみに、今回の春分の日の天体配置、すごい強烈だったようで(←どうだと強烈でどうだと強烈ではないのか、その辺りの見極め方がさっぱりわからない)、体調不良やメンタル的にしんどい時間を過ごした人も多いとあった。
しばらくまだキツイらしく、私も無理せずにいこうと思っている。
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