参照記事:『奇跡の果実(19)傷を癒す』☆←リンク飛びます
【はじめに】
前回の記事『(19)傷を癒す』を書いた後、心の傷に関して色々メッセージが出てきたので紹介します。
最初に、出てきたメッセージそのままを載せます。
それを読んだ時にふと浮かんだこととか体や心に広がる感覚があれば、それを何よりも大切にしてください。
若干内容がナイーブなので、各自で読む読まないや読み解き方を自分の調子に合わせて調整をお願いします。
次に、各メッセージの解説を付けます。
また多分長くなるので、どうぞお時間ある時に参考までにお読みください。
最後に、「傷を癒す」ことに関して今回受け取ったメッセージの影の立役者の話を紹介します。
1人は私が人生で初めて出会った当時9歳の男の子。
もう1人は、数年前に1人で心理セラピー的なことをしていたら、小学校1年生か2年生の頃の私自身が出てきました。
この2人の子どもが見せてくれた傷が、今回のLessonの根底に流れています。
* Lesson 5 傷を癒す *
Messages for All
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・傷を有効活用する
・傷と一生付き合うと考えた時、どんな風に付き合いたいか
気持ち良く付き合う方法を探す
・傷は消えなくても癒す方法が必ず存在する
・傷を与えてきた人のことはとりあえず忘れる
・傷が運んでくるもの=自分に見せたい風景がある
・傷と向き合うこと=自分と向き合うこと
・傷は自分を守ってくれるもの
・傷は自分にとって何が大切かを教えてくれる
(=傷は何を教えてくれようとしてるんだろう?)
・自分のために泣いてあげられるのは自分
→自分を大切にする行為に繋がっている
・傷を悪者にしちゃいけない
・傷との付き合い方が超重要
・100%の解決を目指さないこと
→自分にとって、傷が邪魔にならないポイントを目指す
・“人が●●してくれたら”的な望みは捨てる
→これをすると、いつまで経っても、ずっと傷
・傷に向き合えば向き合うほど、傷に慣れて馴れてくる
・傷は人生に活かしていくもの
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▷傷を有効活用する
生きていれば、何かしら傷は出てくる。
どこからともなく何かが出てきて、気付けば「傷」が誕生している( ̄ཀ ̄;;)。
前回の記事に書いたMちゃんは、言葉の凶器によって自分の心に深い傷を負うことにはなったけれども、それと引き換えに「自分の感覚」が感じられるようになって、「自分自身と繋がる」ことができるようになった。
傷は決して傷のままじゃない。
傷は必ずギフトを持っている。
しかも傷は大きければ大きいほど、ギフトも大きなものになる。
「有効活用する」というのは、「傷に隠されているギフトを見つける」宝探しみたいなものだと私は思っている。
そして、それは自分しか見つけられない。
傷を味わうのも自分だったように、ギフトという大きな恩恵を受け取るのも自分しかいない。
自分のためにそのギフトを受け取りに行こう。
▷傷と一生付き合うと考えた時、どんな風に付き合いたいか
気持ち良く付き合う方法を探す
最後に子ども2人の話をする。
2人の子どもはそれぞれ別々の傷を持っている。
一生消えることのない、死ぬまで抱えて生きていかなきゃいけないものだったりする。
私はさておいても、もう1人は超ヘビーで、この子は生まれた瞬間から死ぬ瞬間までその傷を自分の体に持って生きていかなきゃいけない。
そうしたどうすることもできない傷、そうしたものとどんな風に付き合うと自分が楽かな?って考えてあげたり、その考えを行動に移してみることが大切だと、私は自分を見ても思う。
傷を悪いものにしたりダメなものにしてしまうと、そんなものを自分が一生持っていなきゃいけないわけで、それはどう考えてもしんどい。
その傷と共存できるあり方とかせめて自分がその傷を持っていても普段生きていける方法を、自分のために持ってあげることが本気で大切だと、身をもって言える。
▷傷は消えなくても癒す方法が必ず存在する
傷は消えない。
薄くなっても完全になくなることはほとんどの場合ないと思う。
でも、これだけは言い切れる。
どんな傷にも必ず癒す方法が存在する。
それがどういう形でやってくるかは各傷や各個人によって全く違うプロセスになるけれども、それでも癒す方法は必ず存在している。
自分自身の何百という傷を私は癒してきたのと、何百という他人様の傷の癒しのプロセスを見てきたのとで、100%言い切れる。
『絶対に癒す方法があるよ』って。
▷傷を与えてきた人のことはとりあえず忘れる
これ最初は難しいけれども、傷のきっかけを作ってきた人のことは、とりあえず脇によかす。
相手に対して色んな感情が出てくるのは無視せずに1つ1つ消化していく他ないけれども、ただ相手をいつまでも見ていても、恨んでも、あいつが悪いとしても、絶対に傷は癒されない。
むしろ、変な執着を生んでもっと悪化する。
相手のせいにだけしているうちは、傷は癒されない。
しかも、多分大抵の傷は、傷を作ったり与えたりした側の人間というのは、そんなの覚えてない場合の方が多い。
そんな相手と戦ってもこちらが消耗して終わるだけだから、私は個人的にそんな無駄なことやめた方がいいと思っている。
たとえこれが家族やパートナーとかいうすごい近しい人で日々避けて通れない人間関係でも。
相手に向けるエネルギーを、自分の心の方に持ってくる。
自分が何で傷付いたのかや、どの言動や行動に引っかかっているのかを見ていく方が、本気で癒される。
一番難しいところではあるけれど、私が自分のためにやった心の癒しの時、どのケースの時も最後は自分の内側しか見ていない。
そこにしか答えや癒しの方法がないから。
そして、自分にきちんと向くようになると、相手や周りの人たちの反応が変わってくる。
日常は変わらないのに、起こってくる出来事が変わってくる場合もある。
これは外側を変えようとしても多分ダメで、自分の内側を徹底的に見ていくしかない。
この辺の話は超専門的になって、変な混乱を生まないためにもここでストップします。
▷傷が運んでくるもの=自分に見せたい風景がある
これは私自身のストーリーを伝えたいと思う。(この記事の最後の方)
私はその時まで、傷は傷でしかないと思っていた。
だって傷でしょう?みたいな。
だけど、その瞬間に立った時(ちなみに私は子どもの時の体験を頭というか心の中で追体験した)、私が自分の体を張ってまで守っていたものが何かというのを初めて知った。
自分が本当に人生で3本の指に入るすごい冷酷で強烈な虐(しいた)げられてしまう体験をしていた時、私は自分の中の感覚という感覚を全てストップさせた。
それは痛みを感じなくて済むようにしていたとばかり思っていた。
でも本当はそうじゃなかった。
感覚をストップさせてまで私は全力で違うものを自分のために守っていた。
それを知ったのは、その時から数えて25年後ぐらいの時だった。
そこで見たものは、本当に自分の命を生かしていくために、私が自分の小さな体と小さな脳みそで考えてとっさに取った行動だった。
でもそのおかげで私は生き延びたし、今これだけ沢山の色んな心が温まる体験も手に入れている。
そうやって、傷は私に色んな風景を見せてくれた。
しかも傷は、その風景やその後の大切なギフトに行き着くために、自分の盾みたいになってくれてる。
▷傷と向き合うこと=自分と向き合うこと
傷を見るというのは、最初慣れるまでは悶絶級に嫌な気持ち悪い体験だけど、それが不思議と慣れてくる( ̄∀ ̄)。
しかも、無視してる方がもっと自分に悪影響が出るとわかると、余計と傷に向き合う痛みより向き合わない痛みの方が大変とわかって必死に向き合うようになる。
傷に向き合わないと、傷は気付いて欲しいから、あの手この手で色んな問題を山ほど引き起こしてくる。
現実的に本当に困ることや頭の痛いことが出てくる((((;゚Д゚)))))))。
顔文字の『((((;゚Д゚)))))))』ガクブルさんにご登場いただいているけれども、こんな可愛いもんじゃない。
はっきり言って、息が詰まりそうなほど苦しくなる、傷とか大切なことから目を反らしまくると。
繰り返し起こってくる出来事なんかは、「いい加減おまえ気付けよ!」と自分の内側からのメッセージの他ならない。
とにかく、少しずつでも自分の傷に触れてあげると、自分の心の奥深いところは本当に喜ぶ。
無視されてないとわかるから、無視されっぱなしの時とは比べものにならないぐらい良くなる。
なんなら、向き合えば向き合うほど、傷が自分に協力してくれるようになる。
癒すための知恵や手段なんかを運んできたりする、大真面目に。
これは自分の内面を見ていないと絶対に気付けないから、だから自分の中を見てあげること、すなわち内観や内省、自己対話というものがめちゃくちゃ大切になってくる。
▷傷は自分を守ってくれるもの
これも私の子どもの頃の話の方がわかりやすいかなと思うからここではさらっと流して終わりにする。
本当に傷がしてくれてるのは、自分自身を守ってくれてる。
傷は痛いけれども、傷の奥側は本当に最後の絶対的な安全空間のごとく守られてる。
その奥にあるものを本気で守りたいから、外側だけ傷を負う。
普段はその外側の傷しか見えないからわかりにくいけれども、その奥はもっと大切なものを守り続けている、他でもない自分自身のために。
▷傷は自分にとって何が大切かを教えてくれる
(=傷は何を教えてくれようとしてるんだろう?)
上の話にも繋がるけれど、傷は自分が何か大切にしているものとイコールになっている。
傷が付くところというのは、それだけ自分が大切にしているものだったりする。
例えば、今回のOさん対私のことで色々あったことは、Oさんから言われた言葉の先には私が大切にしている価値観と相反したり、それが大切にされてないとわかって、それで私は最初怒ってた。
Oさんが関わったSさんやMちゃんの件で私が怒ったのも同じ理由だった。
何で私の大切な人たちを大切にしてくれないの?と。
でもそれらを言い換えると、怒ったことの先には傷があって、そしてその先には私が大切にしたい価値観がある。
例えば私なら、自分でさえも扱いに若干困っている自分の思い込みや苦しくなる思考パターンに土足でズカズカ踏み込まれたり、すごい軽い感じで言われたりすることが耐えられなかった。
でもそれだけ、自分のそういうことを私自身は大切にしてるという意味でもある。
SさんやMちゃんの件に関しては、私にとって大切な人たちを大切にされなかったことへの怒りで、でもそれはそれだけ大切な人たちを自分が持ててるということでもある。
上手く言えないけれども、傷は大切なものを気付かせてくれるこの上ないヒントだったりもする。
▷自分のために泣いてあげられるのは自分
→自分を大切にする行為に繋がっている
自分のために涙を流すというのは、1番の心の浄化になる、と私は思っている。
最下部に書く自分の子どもの時の記憶が鮮明に蘇って、なんなら私はその時の凍らせた感覚なんかも全部出てきたけれども、その当時私は本気で3日間暇さえあれば泣いてた。
泣いて泣いて泣きまくった。
その当時仕事をしてなかったはずだから、本当に家にこもってずっとさめざめと泣いていた。
こんなに泣けるんだ!?と思って自分でもビックリしたけれども、そりゃそうだよねと思った。
子どもの私は、なんと全てに蓋をしたから泣くことさえしなかった。
しかも1回2回じゃなくて何回も強烈なことが繰り返し引き起こされてしまったけれども、その中でただの一度も私は泣かなかった。
家に帰って親に心配かけたくなくて、家では普通に振る舞った。
だから泣けるタイミングと場所がなかった。
いつも放課後に起こっていたから、30分ぐらいの家までの道のりで私は自分を何とか立て直して何事もなかったかのごとく家に帰ってた。
その時泣けなかった分を一気に泣いたわけだから、そりゃ3日じゃ済まないよねという感じ。
大人になってワァワァ泣くなんてある意味馬鹿らしいとは思わなくもないけれども、でも時間と場所が許されているなら大人こそ泣いた方がいいと思う。
あと男の人たち。
子どもを見ていた時いつも思ってた。
何でか男の子はある年齢に差し掛かると泣くのを避けるようになる。
社会的な文化や風潮もでかいなぁとは思うけれども、泣いたらいいのにって思う。
幼児見てるとわかるけれど、女の方が本気でえげつないから、男の子の方が全体的に純粋でナイーブな子が多い。
あんな小さなうちから女の涙を使うんだと思って呆気に取られたことがたくさんある。(←同性だから、ものすごい冷めた目で見てた)
私が動じないの知ってるから、頭の良い女の子は私の前じゃ涙通用しないこと知ってるから泣かない( ̄∀ ̄)。
男の子は本当にそんなの関係なく泣くから、すごい純粋だと思う。
だからギリギリいける年齢のところまで、私なんかは男の子たちが泣くと心の中じゃガッツポーズしてた。
私も積極的に泣かせてた。
これは近年の話だけど、大人の男の人たちも涙を流す。
本人たちの前じゃ絶対に言わないけれど、男の人たちの涙ってきれいだなと思う。
その涙に色んなストーリーや想いを感じるから、本当にきれいだなと。
涙はさておいても、とにかく「泣く」という行為は自分でしかできないし、泣こうと思って泣けるわけじゃないから、泣ける時はバンバン泣いている。
自分もスッキリするし、心の奥の方が癒される。
それって結局、自分を大切にするってことだと私は思っている。
▷傷を悪者にしちゃいけない
ここまで読んでみると、傷ってそんなに悪いものじゃないって気付いてもらえるととても嬉しい。
傷は悪者じゃない。
痛みとかがどうしても出てきてしまうけれども、それだって悪いものじゃない。
痛みのありかを教えてくれるものであって、それを知らないとますます自分自身がやりにくくなる。
私は自分が傷と向き合いにくかった理由の1つに、世に溢れてる情報のせいだとも思った。
私が今ここに書いているのは、全て自分の実体験に基づいて書いている。
私が心理だのスピリチュアルな心の旅だのを始めた2010年から今に至るまで、傷に関して良い風に言ってくれてる情報はめちゃくちゃ少ない。
逆に、触れるのがもっと怖くなっちゃうような情報ややり方が多い。
あんな風に言われちゃ、怖くて逆に触れられんわ!と私なんかは思ってる。
ここに書いてるのは、私が一番心の中に向き合わなければいけなくて強烈だった30代の数年間に知りたかったこと。
こんな情報があれば、私は自分の傷に触れる時、もっと気持ちを楽にしたり、怖さが薄らいだり、なんか良いことあるかもと思って自分に向き合えたと思う。
自分に向き合っている時、ずっと私は「これして何になるんだ( ̄3 ̄;)?」と思っていて、何年にも渡って何の意味もいまいち見出せなかった。
今は全然違う。
自分に向き合おうとしない人とか見ると、お節介ババアのごとく「向き合った方が絶対の絶対に良いよ!」と言いたくなる。
「じゃないと自分がもっと大変になるよ」とまではビビらせるだけだから言わないけれど。
ただ、自分と向き合う、特に傷となってる部分はその中でも向き合いにくいテーマだから、それと向き合うメリット知らないと普通はやる気が湧かなくて当たり前だと思う。
だから、せめて私は自分が知ってる【傷の正体】や【傷と向き合うメリット】に関しては、こうして外に向かって発信したい。
最初は誰しもが「痛い…やだ、向き合いたくない」っていう自分に気付くところからのスタートだから、その向き合いたくないものに少しでも向き合えるようなヒントがここに1つでもあれば、私はめちゃくちゃ嬉しい(o´艸`)。
▷傷との付き合い方が超重要
傷は付き合い方と扱い方をとにかく気をつけたら大丈夫。
自分のことだから、そんなに悪い風には傷も作用しない。
普段の人間関係を思い浮かべたらわかりやすい。
一緒にいる時にさりげなく気遣ってくれたり気にかけてくれたりする人と一緒にいたら嬉しくなるし気持ち良く過ごせる。
反対に毎回グダグダ文句ばかり言ったり人に何かを押し付けてくる人と一緒にいると、超絶気分が悪くなる。
それは傷と自分との関係にも同じことが言える。
何せ相手は「傷」だから、ただでさえデリケートだから、邪険に扱ったり無視なんかした日には、当然その報いがさらなる問題と化して、自分にとって非常に不愉快な出来事としてやってくる。
無視すんなよオイ!(*`へ´*)みたいな。
自分の好きな人たちと付き合うみたいに、自分の傷とも付き合うことが、私は本気で大切だと思ってる。
傷を飼い慣らすみたいな( ̄∀ ̄)。
▷100%の解決を目指さないこと
→自分にとって、傷が邪魔にならないポイントを目指す
傷に対して、100%の解決ははっきり言って無理。
そんな万能なやり方があるのであれば、私はそのやり方を是非とも知りたい!!!
100%の解決が無理だから最初から何もケアしないというのも違っていて、できる範囲でケアする。
そして目指すのは、自分にとって生活していく上で気にならないぐらいにできたら御の字。
傷のせいであれもできないこれもできないだと生活していく上で困るわけで、そうならないポイントまで行けたら良いなぁと思ってる。
だから、ほどほどのところまで傷を自分の中で受け止めるなり軽くするなりできたら、本当にそれで十分良くやったと私は思う。
▷“人が●●してくれたら”的な望みは捨てる
→これをすると、いつまで経っても、ずっと傷
これは、私の中でものすごい時間がかかったけれども、かなり吹っ切れたもので、超絶気持ちを楽にしてくれたもの。
相手が●●してくれたら…系は、本当に何よりも気力を消耗する。
そんなの起こったらラッキー♪ぐらいな気持ちでいないと、こちらがもたない。
相手が謝ってくれたら、相手がわかってくれたら、相手が変わってくれたら…。
これ系は全部捨てる。
相手側から何かこちらが望むものをもたらしてくれる、みたいな棚ぼた的なことは望めば望むほど、要は期待すれば期待するほど、自分側がさらに苦しくなったりイライラしたりしなければいけなくなる。
期待してはいけないということではないけれども、そこが仮に満たされても傷が癒えるとは限らない。
傷というのは自分の方できちんと理解してあげないといつまで経っても傷だし、なんなら傷を見てないから傷を見るためのような嫌ーーーな出来事が次々と起こってくる。
だから、はっきり言ってその傷をもたらした相手は、自分の癒しのプロセスにおいて関係ない。
コーチングだのカウンセリングだのを学ぶとわかるけど、自分が祖父母になった年代になっても、だから子も孫もいても自分の死んだ親との関係に今なお悩む人たちが普通にたくさんいる。
だから、傷なんてのは場合によっては傷をもたらした相手がそもそもすでに亡くなっている場合なんかも普通にある。
そうしたら死ぬまで癒えないのか、と言ったらそういうことではない。
さっきどこかで言ったように、相手に矢印は向けず自分に矢印を向ける。
自分にだけ向けると、自分の気持ちにだけ集中できる。
傷側からしたら、そのもたらした相手ではなく、本人が傷の方を向いてくれるのを待っている。
▷傷に向き合えば向き合うほど、傷に慣れて馴れてくる
「慣れる」は
【経験を重ねることで上手にできるようになること。】
「馴れる」は
【その人に対して親しみを感じるようになる、違和感がなくなること。
また動物が人間に対して警戒心を持たなくなること。】
とある。
(引用元:『違いはネット』https://違いは.net/archives/2181.html)
傷に向き合うようになると、最初は向き合う行為そのものが不快だったり怖かったりするけれど、そのうち不快感や怖さは薄れてくる。
むしろ向き合うことにも傷にも慣れてくる。
そう、上の意味の通り、上手にそして安全に向き合えるようになる。
そしてもっともっと経験を重ねると、馴れてくる!
親しみも感じられれば、違和感や警戒心はかなり薄れる。
今の私は、向き合わない方がマイナスだと知ってるから、傷に向き合うことも自分に向き合うこともかなり慣れて馴れてきている。
この部分は誰でも自分で育てることができるから(向き合うためのコツは要るけれども)、時間はかかるけれどやる価値はものすごくある!!!
▷傷は人生に活かしていくもの
ここまで読んでもらえて、傷は色んな活かし方があることをちょっとでもわかってもらえたとするなら、私は書いて本当に良かったと思ってる。
傷となるような体験だけは子どもの頃から筋金入りで多かったから、私はそれがどうして自分だけが…と思ったり、被害者意識バリバリだったり、それらのせいで自己否定だの無価値観だのが強いのかと思ったり。
でも、傷に向かい続けて、自分の心の中見て、そういうことを繰り返していくうちに、傷が悪いものではないと気付いた。
そのうち傷から恩恵が色んな形でもたらされたし、なんなら今なんてこうやってベラベラと説明できるぐらいに傷を活用できてるv( ̄∀ ̄)v
傷は結局自分の一番繊細な部分を見せてくれるものだし、そして自分が生きていく上で大切にしているものか何かを教えてくれるものでもある。
相手を責めたりする気持ちがある程度落ち着いたら、自分の気持ちに寄り添ってみる。
そうすると、見えなかったことが少しずつだけど見えてくるようになる。
いきなり声が聞こえるとか天啓がおりてくるとかそういうことじゃない。
例えば、弱りきってる時に、お茶を一杯丁寧に淹れると心が少しだけ呼吸できるようになることに気付くとか。
モヤモヤしたことをノートに書き出すと楽になるとか。
傷と向き合う最初はそういうところからスタートする。
当然苦しいから色んな形で自分のために何とかしようとする。
何とかしているうちに、必要な情報や人はありがたいことにやってきたりする。
もしくは自分で「これだった!」という何かに自然と気付く時もある。
傷との向き合い方・付き合い方だけは、スタンダードな誰しもが応用できる方法は基本的にない。
1人1人癒し方は違う。
その癒し方・向き合い方は、各自が自分と付き合っていく中で開拓する。
本当に辛い時は専門家の力に頼ることも大切だけど、最後はどんな傷でも「癒すのは自分」。
誰かの協力を得る場合があっても、やっぱり最後「癒す」ことを選ぶのは、他の誰でもない自分自身。
色々書いたけれども、どれもこれも私の超個人的な物の見方だから、違和感があればその違和感を何よりも大切にして欲しいと、僭越ながら私は思っています。
ちなみに。
自分で自分の傷を癒せるようになると、本当に感動する☆*:.。.٩((*⁰▿⁰*))۶.。.:*☆
〜 story of 小さな私 〜
調べたら、それは2013年の誕生日前だから、今から6年前になる。
私は家で1人で心理ワークみたいなことをしていた。
当時抱えていた何かしらの問題の芯にあるものを見ようと思って始めた。
そのワークは、表面上の問題から見ていって、最終的にもっとその奥に隠されている心の深いところにある傷や痛みとなっている出来事を特定したり、無意識のうちに足かせとなっている感情や人間関係が出てきたりする。
問題は忘れたけれども、当時のことだから、これから先どうしようかな?か、お金大丈夫かな?のどちらかだろうなぁと思う。
それでどんどん入っていった時に、突然私は小学校の1年生か2年生の時にいじめられたシーンにいる自分自身が出てきた。
感情を使って見ていく方法で、その時の感情は「恥ずかしい」だった。
「恥ずかしい」をキーワードにして、自分の中を見ていったら、その時のことが出てきた。
私は今でもその当時の話ができない。
他のことならいくらでも自分の経験をある程度開示できるけれど、それだけはできない。
本当に笑えないし、聞いた側も絶対に反応に間違いなく困るし、私も色んないじめを聞いたけれども私と同じ体験をした人の話は聞いたことがない。
えげつないし、残忍だし、自分の心も体もボロボロになった。
最近「しいたげられる」という言葉の漢字が「虐げられる」と知って絶句した。
まさに虐げられた経験の他の何ものでもなかった。
今の私と違って、当時の私は本当に寡黙で喋らない子どもだった。
嫌なことされてても黙って耐えている子だったし、怖すぎて「いやだ」とか「やめて」の一言が言えなかった。
今じゃコミュ障なんて言葉が普通にあるけれど、私は本気のコミュニケーション障害だった。
そのシーンが何回繰り返されたのかはわからない。
だけど、放課後になると密室に連れて行かれて、大人の目が一切ない場所で凄まじいことが日々繰り広げられていた。
タチが悪いことに、目に見える外傷はない暴力的なものだったから、誰も気付く人はいなかった。
それが終わると私は30分ほど歩いて家に帰った。
その間に自分の気持ちを整理して、何事もなかった顔をして毎日家に帰っていた。
私は何回そのことがあったかももはや覚えてないし、一体そこに誰がいたのかもはっきりとは記憶がない。
誰が言い出しっぺかもわからなければ、何がどうしたらそんな訳の分からない状況になっているのか、私には全く理解できなかった。
多分嫌とか言ったら、殴られたりしてた記憶はあるから、それも嫌だったんだろうなぁと思う。
ちなみに、私は殴られた方がいいと思ってる。
全力で殴られた方がまだマシだった。
それぐらいのことが放課後に控えていて、私は今もそこは記憶が途切れ途切れになっている。
ただその2013年のワークの時、それがいきなり出てきた。
そこで私は初めて、自分が本当はすごく怖くて恥ずかしくて嫌で嫌でたまらなくてそこから逃げたくて仕方なかった、その気持ちを本当に感じることができた。
子どもの私は、その時すべての感情を凍結させることで、それで自分を必死で守ってた。
感情をそこで出してしまったら本当に自分がもっと傷付いてしまうと、あれは頭ではなく本能だと思う、とっさの防御反応で私は感情を全部殺した。
何も感じないように、何もないように、ひたすら黙ってその時が過ぎ去ってくれるのを待った。
ずっとはその状況が続かないのも知っていたから、とにかくその時間、本当に時間にしたら数分が経過してすべて終わることを待った。
ちなみにそのいじめが終わったのは、家の引越しに伴って隣りの学区の小学校に転校したからだった。
当時のシーンが出てきて、私は初めて、本当にあれから25年以上経って初めて泣いた。
あの時泣けなかった、一度も本当に泣けなかった私が、当時のことを心から感じて涙を流したのは30代も半ばになってからだった。
私はその時3日間、本当に暇さえあればずっと泣いてた。
最初はワアワア本当に声を上げて泣いた。
子どもが声を上げて泣くみたいにして泣いた。
本当は当時それができたら良かったけれど、そうはできない色んな状況があった。
だけど、本当はそれぐらい泣かなきゃいけないようなことを7歳ぐらいの子どもが1人で、本当にたった1人で抱えていなきゃいけなかった。
親には心配させられないと思って言えなかった。
だから誰にも言わず、ずっとそれを自分の中だけに持って生き続けた。
年齢と共に当時の記憶も薄れて忘れたかと思っていたけれども、そんなことはなかった。
ものすごい鮮明にその時の自分が出てきて、「何も感じないようにしようとしてた」感覚まで出てきた。
風景まで、色やデザインまで覚えてる。
だからか…とある時合点がいったけれども、私はその風景を彷彿させる場所には近寄らない。
それを思い出させるような場所をとにかくずっと避けてる。
そんな風にして記憶にはずっと残っていた。
ある程度泣いた後、私は何かの拍子に気付いた。
私は最初怖くて当時の私は感情を殺してるのかと思ってた。
でもそうじゃなかった。
小さな私が自分の感情を押し殺してまでも必死で守ってたのは、【自分の尊厳】だった。
どこまでも誇り高く、自分の尊厳だけは全身全霊で守った。
その2013年の時も何かしら悩んでいたのは間違いないけれども、その時に繋がった。
全身全霊で自分の尊厳を守り抜いて、それで繋げてもらった今の命なんだな、と。
小さな自分が、小さな体と小さな脳みそ使って、そうまでして守り抜いたものなんだと。
小さな自分にものすごく感謝した。
傷だとばかり思っていた体験は、その裏側で自分を守る行為を同時にしていたんだと、その時初めて知った。
それからすぐの時に、Sさんにその話を聞いてもらった。
うちに遊びに来てもらったのか電話で話したかも忘れたけれども、Sさんは私の話を聞いて声を震わせて泣かれた。
「ぶっしーちゃん、よく生きてたね」とか、なんだろう、そんなような言葉をまずかけてもらった。
違う、電話だ。
本気で親身になって話を聞いてもらって、涙を私のために流してもらって、私は心底救われた。
その時にSさんから1つ私が小さな私にできることを教えてもらった。
「ぶっしーちゃん、何でもいいんだけど、小さな自分が喜ぶようなものを何か1つ買ってあげて。
何でもいいんだよ。
ちなみにその方法を紹介した女性は、チョコレート買ってたよ。
やってみたら、それがどんな気持ちになるのか絶対にわかるから」
Sさんに教えてもらったことを私は早速実行した。
実行する前に、小さな自分にもう一度会いに行ってみた。
(ワークじゃないけれど、やれる気がする!と思ってやってみたらできた)
目を閉じてしばらくすると、目の前には当時の自分がいた。
当時の自分は、普通にしていた。
私が見ると、はにかんだようにしてニコッと笑った。
私はそれを見ただけで号泣してしまった。
小さな自分にごめんねと謝っても、小さな私は気にしないと言わんばかりにはにかんだままだった。
一緒に買物に行ってくれる?と聞くと、コクンと頷いた。
そうだそうだ、そういうことも黙って首を縦に振るぐらいしかしない子どもだったなぁと思い出した。
私は小さな自分を引き連れてるつもりで、地下鉄を乗り継いで某ショッピングモールに行った。
ショッピングモールに行って、ノートを買おうと思った。
文房具も置いている書店に足を踏み入れた瞬間、ドキドキした。
すごい不思議な気持ちで、私は1人なんだけれど、その小さな私を引き連れて一緒に買物に行ってる気分だった。
当時妹が2人いたから、大人を自分だけが独り占めできることはなかったから、なんかそれだけで特別な感じがした。
キティーちゃんのノートを見つけた。
見てすぐにそれだとわかった。
見た時に私はその場でボロボロと涙をこぼした。
言葉では上手く言えないけれども、小さな自分が心から喜んでくれてるのがわかったし、そういうことを大人になった私が自分のためにできてるのも嬉しかった。
色んな気持ちが織り混ざっていた。
近くにキティーちゃんのペンも売っていて、これもセットで買ってあげよう!と思った。
そうやって連れ帰ったノートとペンを使って、私は小さな自分におてがみを書いた。
だから最初のページには「いとしの小さな史ちゃんへ。」と題して、2013年3月18日の日付で34歳になった私からおてがみを書いている。
その後、このノートは誕生日前日にその1年を振り返るノートに変わった。
今見たら、38歳の振り返りが一言以外真っ白でビビったけれども((((;゚Д゚)))))))。
ちなみに“38歳の軌跡”と題して一言だけ書いたのはこうだった。
「〇〇〇〇さんに出逢えたこと♡♡」
冒頭の写真は、そのキティーちゃんのノートとペン。
ペンは数十本のインクを入れ替えて使うぐらいに愛用している。
こんな風にして、私は小さな自分から、傷だとばかり思っていた出来事から、自分の尊厳を必死で守っていたことやそれを経て今の自分にまで命を繋いでもらったことを知った。
それはもはや傷ではなかった。
もっともっと深いメッセージがその先にはあって、そのメッセージに私が気付くまでずっとメッセージはきれいに保管されていた。
※ここから先の話は、不慣れな人からするとヘビーです。具合悪くなっても私はケアできないので、各自のご判断で読み進めてください。
「性的虐待」という言葉が出てきます。それは言葉だけですが、そういう表現も含まれることをご承知おき下さい。
〜 story of タジー 〜
タジーに出会ったのは、2001年。
社会福祉の現場実習先でだった。
日本と違ってアメリカは実習の時間が長い。
私の行ってた学校は8ヶ月間450時間の現場実習が卒業単位のために必須だった。
私の実習先は当初全く予定もしていなかった、虐待なんかで重度の精神障害を負うことになった子どもたちをケアする長期治療を目的としたグループホームだった。
「精神障害」とか名前が仰々しいけれども、普通に見れば普通にどこにでもいる子ども。
話しただけでも気付かない。
深く関わると、その子たちの持っているものがわかる。
ちなみにこれは私の持論だけど、虐待とかで保護される子どもたちが世間では可哀想とかよく言われるけれども、私は色んな理由で可哀想だなんてただの一度も思ったことがない。
基本的に、修羅場を人生の早い時期に体験しただけあって、メンタル力はすごい強い。
生命力も強い。
もっと言うと、健やかな人間関係を築けなかったからなのか何なのか、大人をおちょくることは天下一品で、イライラさせられることは山ほどあっても「なんて可哀想な子どもたち」なんて思わない。
まじめに子ども相手に私もしょっちゅうブチ切れてたから、可哀想とか思う人たちは実情を知らないことがよくわかる。
ご多聞にもれず、タジーにも色々私はキレた。
その手の子どもたちで私をイラつかせたことのない子どもは1人もいなかった( ̄∀ ̄)。
だからと言ってはなんだけど、私はそういう子どもたちのことも特別視することはない。
「人間」という枠の中では私はみんな一緒だと思っているから、だから特別視も特別扱いもしない。
当時タジーは9歳だったと思う。
何百人という子どもたちを仕事で見たけれども、タジーはその中でも本当にピュアで真っ直ぐな子だった。
本人の生育歴からは考えられない、真っ直ぐな部分を宿してる子だった。
タジーは会うとすぐにわかる。
右手がブルブルっと震えてる。
本人左利きで、というか右手がそうだから左利きに仕立てたのかそこは私も知らないけれども、とにかく右手で鉛筆とかフォークを持つというのは大変なのはわかる。
生まれつきの後天的な障害でそうなってた。
タジーは、お母さんが薬物中毒で妊娠中もドラッグをやっていて、それでタジーは生まれた時から右手にそうした形の後遺症を持って誕生した。
生まれた時から死ぬ時までタジーはその右手の震えと付き合っていかなきゃいけない。
自分に命を与えた人から、命と同時に傷もセットで与えられた。
タジーのその手の震えを子どもたちはからかったりもよくしてた。
その度にタジーは説明する。
目は失望みたいな、何とも言えない目をして、「僕の手は、マミーがドラッグをしてたからこうなんだよ」と。
時々右手の方もどうしても使わないといけない時、手が震える度に「ばか!ばか!」と言いながら自分の手を叩いてその震えを止めようとしてた姿も記憶にある。
そんな風にしてタジーは日々色んな場面でその自分の手と、要は傷と付き合い続けている。
ある時から私は子どもたちの生育歴を読むことになった。
人生で読んだ中で一番強烈な生育歴だった。
母親のドラッグだけではない。
とにかく生きるか死ぬかみたいな話ばかりだった。
殺されかけたりもしている。
これがタジーだったのか他の子だったのかは忘れたけれども、何人か男の子なのに性的虐待を受けていた。
すごい衝撃だった。
女の子でもどうかと思うけれども、男の子の方も強烈過ぎる。
私は冗談抜きで涙は止まらないし震えるしショック過ぎて言葉もなかった。
21歳か22歳の頃の話だった。
それは調査員が聞き取って知り得た内容で、でもそんなのはタジーや他の子どもたちにとって生きてきた時間の中のごく一部の話で、実際はそこには載っていないもっと色んなことがあったんだろうなぁと思う。
それを見たから、私はそういう子どもたちを可哀想なんて絶対に思ってはいけないと思った。
すっごい修羅場をくぐり抜けて生きている今がある。
本当に死んでたっておかしくない状況から生還した命のサバイバーだとわかるから、そしてその自分の命を不器用ながらも一生懸命生きてるその姿を見て「可哀想」なんて思うこと自体が本気で失礼だと思った。
タジーはそんなすごい生育歴の中でも、天使のような笑顔を見せる子だった。
それは大人を取り込もうとか騙そうとかそういう意図は本当になくて、可愛い顔してニコニコニコニコ笑う子だった。
私の実習が終わる直前ぐらいに、タジーは施設の変更が決定された。
私の行ってた実習先は、州内で2番目に重度の子どもを預かる場所だった。
アメリカは症状別・年齢別・状況別・性別で子どもたちのグループホームは細かく分かれている。
日本と違って、基本的に里親が主流で施設という選択肢の方が少なかった。
だから施設に入る上に、その中でも「重度」と認定されるというのは、本当に命からがら系の子どものケースが多かった。
タジーは関係機関でのケース会議で、州内に唯一ある最重度のグループホームへの移籍が決まった。
トラウマがあまりに深すぎて、私がいたところでは適切な治療が受けられない、そして思春期に入る前で今がもうラストチャンスだと有識者会議で決まった。
タジーはその後、大暴れをした日が一度だけあった。
その日は、タジーみたいに帰る家が本当にない、似たような状況の少し年上の男の子の送別会をする日だった、本当は。
その男の子も10数ヶ所転々として、やっと1人里親さんが決まった。
それだって上手くいくかどうかは分からなくて、もしかしたら施設戻るかもねと言われながらの一応退所で、そして里親さんへという流れだった。
でも子どもたちはそんな細かい事情は知らないから、わかるのはその子が里親引き取りで退所することだけだった。
パーティーが始まる30分ぐらい前だった。
タジーが本気で発狂した。
気付いたらその状況になっていて、覚えているのは動物みたいな獰猛な唸り声で泣き叫ぶタジーと、その小さなタジーの体を3人がかりで抑える男性スタッフたちと、子どもたちは呆然と立ち尽くしてそれぞれを抱きしめながら部屋に連れて行くのと。
その後どうしたのか全く記憶がない。
タジーはもしかしたらそこで緊急搬送とかを経て次の移転先の施設に移ったかもしれない。
タジーと最後挨拶した記憶がないから、多分そうだったのかなと思う。
写真もタジーと一緒に写したものがないところを見ると、すごい特殊な状況になったことで、やむを得ない対応に切り替わった気がする。
タジーは今も生きていれば27歳か28歳になってる。
タジーがその後どうなったかは知らないし、私も実習が終わってしまって消息は知らない。
1つ前の記事『(19)傷を癒す』を書いていた時、タジーのことを思い出した。
あの子が私に傷と共存する生き方を教えた最初の子だった。
あの後から今に至るまで色んな子どもたちと関わったし、色んな大人たちの人生の話も聞かせてもらった。
だけど、タジーだけは特別な存在なのか、私はこの話を泣かずには書けない。
細かいことは全部忘れた。
忘れたけれども、書庫みたいな二畳か三畳ぐらいの小さな部屋で上の方に小さな小窓があるだけの若干暗めな部屋の中で、タジーの調書を震えながら読んだことや、読んでて何度も目を背けたくなったこと、吐き気を覚えるかと思うぐらいの残忍な出来事、それがあの小さな体で体験したんだと思ったら、言葉なんか何も出てこなかった。
その直後だったのかな、いつだったのか、目の前にいるタジーのとびっきりの笑顔を見て、何とも言えない気持ちになった。
タジーの手のことはその後もしょっちゅう本人が説明しているのを聞いた。
本人も慣れたもんで、普通に淡々と説明する。
タジーはもちろん自分のその手を良いなんて全く思っていなかったし、自分の命さえも恨みたくなったことなんて数知れない回数であっただろうなぁと思う。
でも、笑うんだよね、子どもは。
すごいなって思う。
そして一生付き合わなければいけないその自分の手と、そこにまつわるお母さんとの関係、そうしたものすべてを知って生き続けるその姿を私は忘れられない。
タジーみたいな子がいたから、余計と私は傷を肯定したかったのかもしれない。
傷と共存しなければいけない、墓場まで自分と共に生きていかなければいけない傷がある場合、それを否定しながら生きていくというのはとても辛い。
私の勝手な予想だけど、タジーはそういう自分との付き合い方を覚えて今もどこかで元気にやってる気がする。
今思い出した。
当時、子どもたちの自由度は子どもたちの日々の行いを点数化して決められていた。
大概の子どもは一番下かその次をウロウロする中、5か6ぐらいあるレベルの中、タジーは相当上まで行ってた。
だから他の子たちよりも自由度が高い子だった。
そう、自分のために何かを頑張れる力を持ってる子だった。
深い闇、出生にまつわるどこまでも暗い過去なんか物ともせず、前を向く子だった。
だから、タジーなら何だかんだと上手くやっている、そんな気がする。
反対に最重度のグループホームから私たちのいるところに戻ってきた女の子もいたけれど、その子はもうその時点で生涯に渡ってそうした施設で生きるだろうことが決まっていた。
コミュニティで生きるのは難しいと判断された。
タジーはそうじゃなくて、関係者全員がタジーの持ってる治癒力に賭けて、最重度のグループホームに移行することを決めた。
将来タジーが自分の好きなところで好きなように生きられるように、それを賭けて、そしてタジーならいけるだろうという見解を持って、もっと専門的なトラウマ治療をしようとなった。
記憶が曖昧だけど、たしか本人にもそうやって説明してたと思う。
その施設はそういうところは隠さずに本人に伝えるやり方を採ってた気がするから、たしかそうだったと思う。
傷は消えないけれども、それと生きていかなければいけないことも往々にしてある。
タジーみたいな子も1人2人じゃなく、確実に世の中にはいる。
それぞれの人たちが持ち合わせている傷の種類は違うけれども、そうやって生きなければいけない時、私はみんなに等しく選択肢が与えられていると思う。
その傷を持っても明るく生きるか、その傷を持って暗く恨みながら生きるか。
それは個人の生きるセンスだと思っている。
そして、その生きるセンスを9歳の男の子に教えてもらった。
一生付き合う傷と望まれて生まれたとはとても思えない状況下で誕生した自分の命と日々向き合いながら、それでもとびっきりの笑顔で自分のためにがんばるタジーから教えてもらった。
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