2019年3月25日月曜日

奇跡の果実▷ウラ話⦅18⦆Messages from …








【写真説明】※すべて詳細は本文

1枚目:カードを迎えて初めてのセルフリーディングの結果

2枚目:うわさのゴブリン

3枚目:カードが私に一番伝えたいメッセージ

4枚目:カードから見た私の第一印象

5枚目:38のカード

6枚目:39のカード



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【おことわり】

今回も長編です。内容は、時間をかけて読む価値があるかと聞かれると、超微妙です。オラクルカードとかメッセージと呼ばれるものにご興味があれば、多少は時間をかける価値があるかもしれません( ̄∀ ̄;)。
とにかく、価値など保証できないので、とりあえず先に【おことわり】を付けました。
あえて言うなら、眠れない時にはその辺の睡眠薬よりもよほど眠気を誘ってくれるかと思われます←書いてる途中で何度も寝落ちした実績あり( ̄∀ ̄;)。

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40歳の誕生日プレゼント、『The Enchanted Map Oracle Cards』(オラクルカード)を迎えた時のセルフリーディング。

セルフリーディングとは、自分でカードから自分宛てのメッセージを読み解くことを指すと私は理解している。

特に、カードを初めて迎えた時に、そのカードの特色や自分へのメッセージや印象をカードに聞くのは大切なようで、きちんと基礎基本をしっかりやっているカードリーダーさんは必ずやっている。

常識みたいな感じかと思いきや、それは私が見た2人のカードリーディングされる方たちがたまたまそうだったようで、ネットで検索してもその情報は出てこなかった。

『奇跡の果実』シリーズが終わった時に、正式にカードリーディングされる方の紹介をしようと計画中。←ご本人にも問い合わせて了解を得た(♡´艸`)♡

たまたまカードを迎えた時の儀式的なことを知ったと言えども、すっごく使えていいなぁと思うから、今後オラクルカードとかをお迎えされる方はぜひお試しください!

私は2人の合わせ技を使ってしていて、それをするだけでカードと仲良くなれる気がする!

そして、それは一生の中で一度しか引くことのできない機会だから、この上なく大切な機会と捉えている。

場の清め方とかシャッフルの仕方とか色々流儀が存在するのかもだけど、私はわからないから自分流でやっている。
(2人のうち1人は特定のシャッフルのやり方がある模様だった。もう1人は、ものすごいたくさん見てるけれど、カードが到着した時にカード本体を浄化するようで、それ以外は自由な感じ。というか浄化さえも本人が自由に発想してやっている感じ)

私は部屋と自分の手をきれいにして、一応これからデートに行く!ぐらいな服を着て小綺麗にして、それからカードを開封している。

自分なりに「あなたに会えるのすごい楽しみです♡╰(*´︶`*)╯♡」感を出してみる。

実際に本当に楽しみだからそうしてるだけで、本気で「おまえさん、デートに行くのかい?」並みに気合いが入っている 笑。

そこまでした後に、実際に開封して、まずはカード1枚1枚を見ていく。

それが終わってから、セルフリーディングを始める。(←『セルフリーディング』というだけで、なんだかすごいできる人みたい( ̄∀ ̄))

カードをおうぎ形にして胸に当てるとか、色々とやり方が細かくあるけれど、私は心の中で「よろしくお願いします」とご挨拶して、束ねたものを胸の前に持ってきたかもだし、すぐに切り始めたかもだし忘れた。

とにかく切って、4枚出す。

1枚目と2〜4枚目は意図が違うから、1枚目を引いた後に戻してから2〜4枚目を引いてもいいし、そうせずに4枚まとめて引いてもいいと思う。

私は1枚出すごとにシャッフルしていたけれど、それも特には決まりがないと思う。

私は正式に勉強してないから、完全に我流だということをお忘れなく、読み進めてください!

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1枚目:カード本体の特色・性格・役割

2枚目:カードが私の元にどうして来てくれたのか?

3枚目:カードが私に今一番伝えたいメッセージは?

4枚目:カードから見た私の第一印象

ボトムカード:4枚目を出した後に束になっているカードの一番下になっているカードを指す。
そこから、1〜4又は2〜4枚目に対して全体的なメッセージをもらう。

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ジャンピング:カードが切っている途中に飛び出して来た場合、ジャンピングとしてもいいし、そのままその時に出そうとしていたカードにしてもいいと思う。

今回のカード、やたらとでかくてジャンピング2枚来て、でも私はそれを3枚目4枚目にはせず、ジャンピングにした。
(ジャンピングだったのは、1枚目の写真の中の下段の左と真ん中)

あと、1枚目は私へのメッセージではなくて、カードの特色を見るものだから、そういう意味で2〜4枚目とは違う。

カードリーディングの方いわく、同じカードセットであっても、AさんにいくのとBさんにいくのと他の人たちにいくのとでは、全く性格やその人の元に行く目的や理由が違うらしい。

だから、それを1枚目に私は聞くようにしている。

他に大切なポイントは、見るからにネガティブな感じのカードが来た時。

前回のルノルマンカードの時がそうだった。
(参照:『奇跡の果実(13)1ヶ月早い誕生日プレゼント』←これがネガティブなカードが出てきた時のリアルな体験談
https://viva-vivir.blogspot.com/2019/02/13.html?m=1
『奇跡の果実▷ウラ話⑩ルノルマンカードと前世療法』←こちらの方が詳しくセルフリーディングを解説している
https://viva-vivir.blogspot.com/2019/02/blog-post_18.html?m=1 )

ネガティブな意味合いのものが来た時に大事なのは、そのカードのポジティブな面を見るようにすることだと思う。

私はルノルマンカードを迎えた時に、4枚も凶ないし大凶みたいなカードを引き続けて←引き良すぎ( ̄ཀ ̄;;)、それでもそこから自分に本当に必要なメッセージを出すことに成功した。

だから、カードそのものに惑わされず、明るい側面、どんなことにもプラスの面があることを探すのが大事だと思った。

そしてプラスのことを探そうとすると、その後から今もずっと必要な情報が何かとヒットしている!(もちろんポジティブな解釈)

あと、これはセルフリーディングとは関係ないけれど、最初にカードを見た時の印象やそこからふと浮かんだメッセージがあれば、それをメモしておくのもオススメ、とそれはネットの何かで見た。

メモが大変なら頭の片隅に入れておくとか。

私は元々自分の感覚で読みたかったからノートをそれぞれのカードに1冊ずつ用意して、全カードの第一印象から出てきたものを書いている。

一気には無理だから、少しずつやっている。

あと、途中で新しい情報が出てきたら、それもその都度付け足して書いている。

最初の印象から受けたメッセージは大切だから、それを残しておくのは私はとても理に適っていると思っている。

あと、ガイドブックは後からにして、まずはカードそのものから受ける印象やイメージを大切にすると良いとあった。

そして、ガイドブックはあくまでもガイドブックですべてではないから、参考にするのはいいけれど、そこからすべてをそのまま受け取らなくてもいいんだなとは思った。

カードリーディングされる方の中にはガイドブックを一切使わないという人たちもいた(直感力を磨くためらしい)。

その辺りは個人の好きずきでいいのかなと私は思う。

私は言葉から出てくるインスピレーションも大切だから、ガイドブックももちろん使うし参考にする。

ガイドブックの特定の単語から何かを連想したなら、その連想した内容も私はメモに書き加えている。

とにかく自分が感じたことを大切にしている。



大事な話がもう1つ抜けてた。

どうして私がカードを使いたいのか。

世の中では、オラクルカードの類いは「占い」にジャンル分けされている。

過去の私もだけど、「占い」という言葉に縛られてカードを使わないのは本当にもったいないと思う。

占いを疑う気持ちはなくても、胡散臭さが先に立ってしまって、私は数年前までカードの類いを「まやかし」だと思っていた。

信じる信じないは個人の自由だけど、カードほどわかりやすい形で潜在意識や魂の願いやテーマを見せてくれるヒントはないと思う。

はっきり言って、占いなんていう可愛いものじゃなくて、ガチで色んな事を示されるから怖い面もある。

だから軽い気持ちでなんて私は引けないし、うわっ痛いところ突かれた…とか、あぁ見抜かれたなぁ…とか、かなりな確率で起こる。

本当にカードさん私のこと見てました?って感じが私は毎回する。

仮にその時はわからなくても、後になってわかることも往々にしてある。

ホロスコープは確かに魂や人生の計画、道筋、強みや弱み、人間関係の特徴、お金の稼ぎ方の傾向、パートナーシップ、仕事、家族、親子関係、社会的な顔…など色々なことを明らかにする。

だけど、ホロスコープはかなりざっくりとしかわからない。

例えば、私の『見えない世界の力を継承する』ことはホロスコープから読み解けても、具体的にどんな力なんてのはわからない。
(ちなみにそれはカードも他の誰かも読み解けないから、自分で気付く他ない)

例が悪かった。

例えば、「中年の危機」とされる星の配置はホロスコープからわかる。

じゃあその中年の危機の時期とどう自分が向き合うのかはわからない、私のホロスコープ知識では。

そういう時に、カードが役立つ。

カードからその都度ヒントをもらう。

私は今3種類のカードを手元に置いている。

3種類それぞれ使い道や目的は違っている。

今回のマップオラクルカードは、自分の今の状況や流れ、立ち位置、課題に関して、明確な説明とヒントを得ることができる。

ガイドブックから言葉を引用すると

【カードは、一枚一枚があなたに向けたメッセージを伝え、人生を切り開く知恵を与えてくれるでしょう。
人生は冒険だと考えれば、たとえ暗闇の中にいても神秘を解き明かし、美を見出すことができるでしょう。あなたが再び道に迷うことがないように、このカードは魔法の地図を示し、人生を迷わずに歩くための導き手になるでしょう。】

1ヶ月前に名古屋のSさんから贈られた1ヶ月早い誕生日プレゼント「ルノルマンカード」は、それに対して今できることへのもっと具体的なヒントを出すのに優れている。

数年前にSさんから譲り受けたオラクルカード(『Daily Guidance』ドリーン・バーチュー著)は、今の自分に向けての抽象的な柔らかいメッセージを得ることができる。

それぞれ少しずつ使い方や性格が違うから、それをうまく組み合わせて使っている。



前置きが長くなったけれど、ここからがセルフリーディングした時の結果。


【カードの特色・性格】
・1枚目写真の1番上のカタツムリみたいな女の人のカード

ゆっくり着実に進む様子が伺える。

真っ直ぐ前を向いて進む様子から、信念を持ってはばたく、安定した心持ちで目的に向かって進むことがわかる。

ガイドブックの中から、《“何をしたか”ではなく“どう生きたか”をサポート》とあった。

カードの性格として、一歩一歩信念に基づいて着実に進む堅実さと、カードという媒体を通じて生きることへのサポートをしてくれるものだと私は解釈した。


【カードが私のところへ来てくれた理由】
・中段左、女の人がすごいバランスを取りながら地球を持っているみたいなカード

力を与える、自分に力があるよってことを気付かせる、女性的な力を目覚めさせる、自然と自分の一体化、知力・精神力・耐久力、支え・拠り所、自分の力を信じる

上に書いたのが私が絵を見ての第一印象。

ガイドブックより
《あなたは宇宙の力とつながり、自分を通じてそれを発揮することができる。》

他にも、自分のアイデアやひらめき、発想に磨きがかかって、創造エネルギーが拡大するという意味もあった。

そうしたことをもたらすために、やってきてくれたカードなんだとここでは解釈する。


【私に今一番伝えたいメッセージ】
・3枚目の2羽のフラミンゴのカード

これはめちゃくちゃ嬉しかった。

このカードの意味は『大変容』になる。

まさにずっとキツイ時間を過ごしていて、この混沌とした心の状態や身の回りのことはいつ収束してくれるのかと日々首を長くして待ちわびているけれど、まさにそういう状況で流れは合っているよと言われてるみたいで、本気で私はその意味を知って涙さえ出た。

しかもこれは裏向きのまま、ジャンピングで出てきた。

そうまでして伝えたいメッセージなんだと知ったから、余計とカードが必死に私に伝えてくれてるのがわかった。


【私の第一印象】
・4枚目の写真のフクロウがタンポポの綿毛を口にくわえているカード

これは少しだけズルをした。

最初『ゴブリン』が飛び出てきた。(写真2枚目)

しかもわざわざ裏表ひっくり返って、見える形で出てきた。

『ゴブリン』名前はかわいいけれど、中身は小鬼とかいたずら好きで意地悪な小悪魔みたいな意味( ̄∀ ̄;)。

誰の心にも住み着いている「おまえなんかダメダメだぞー!」とか「おまえは価値ないんだぞー!」とか言って脅しまくりな、下げまくりな、もしくは威嚇しまくりな心のブツブツ部門の担当者。

でも、最初に1枚1枚にご挨拶した時、私はゴブリンにはあまり悪い印象を持っていなくて、むしろ「見つけてごらん!」とか「見つけてよ!」という感じがしたのと、きちんと表舞台を用意してあげたらゴブリンご満悦的なイメージと、あとは「本当は愛されたい」願望の甘えっ子ちゃんみたいな、そういう感じを受けたから、決して悪くはないし、大切にしようとは思った。

でも、私の第一印象がゴブリンはイヤ( ̄∀ ̄;)。

そこでもう1枚引いた。

一応すぐそばにあったペンジュラムを引き寄せて、ペンジュラムに「これ私の第一印象?」と聞いたらNOが出たから、それでもう1枚引いた( ̄∀ ̄)。

それで出てきたカード。

私の中から最初に出てきた言葉たち。

神の使い、メッセンジャー、可能性が生まれようとしている、自分の力で立っている、知恵の宝庫、伝える人、意図を正しく設定できる人、志を誇り高く持っている

ガイドブックから譲り受けた言葉は、
・私の意志には世界を変える力がある
・他の人たちと繋がってその意志を実現していく
・揺るがない意志と主体性の持ち主
・私の動機には誠実さがある
だった。

(補足:これはあくまでも「カードから見た私の第一印象」で、私から見た私自身ではない)



ここからは、セルフリーディング以外のカードの話。

ある時カードを見ていて面白いことに気付いて、「まさに!」と思ったことがあったからそれを紹介。

カードの上に番号がある。

38・39と出ているものを見た時に、私は即座に「これ自分の年齢とリンクしている!」ということに気付いた。
(写真5枚目と6枚目)

38歳の時に私はものすごく癒された。

ある人が人生に現れてくれたことで、本当に絵のごとく、癒された。

絵のように触ってもらったわけではないけれど、本当の本当に私は癒された。

10年以上抱えていたものよりも遥かに上回る出来事、それは時間にして1分もなかった、その1分のことで私は一気に傷が癒され、さらに自分の心が開いた。

そして、それがきっかけで今の私になる。

かけがえのない時間だった。

一生忘れることのない、そして後生大事にしていく瞬間になった。

その時のことがなければ、私はこのカードもだけど、ペンジュラムの力が増すことも、それに伴い山で遭難した人を探して欲しいと頼まれることも、そしてこの『奇跡の果実』シリーズを書くこともなかった。

絵柄ほどそんなに穏やかな空気ではなかったけれど、少なくとも私は自分の身を本当にそのまま差し出すような、そういうことが自然にできていた。

心が勝手に動いてしまうことも、自分の中がさらけ出てしまうのも、もう最後は仕方ないとお手上げ状態だった。

素直ではない私はどこまでも抵抗と否定を繰り返したけれど、でも本当に自分の深い部分はとても静かに癒されていた。

アライグマが花を持っているけれど、本当に私は花を手渡してもらった。

もちろん「花」は比喩だけども、本当に一輪の花を手渡してもらったような、そういうとても意味の深いものをもらった。

それだけで私の長いこと1人で抱え込んでいた傷が癒された。

私の中ではもう一生付き合う覚悟があった傷だった。

それがたった1人の人が花のようなものを私に差し出してくれたことで癒された。

それが38歳の出来事だった。

39歳の私は、ちょうどこの1年の自分自身になる。

傘を差して自分の宝物が濡れないように必死で守っている。

きつくてたまらない自分との向き合いだけど、それに向き合う理由は1つで、自分の中で絶対に守りたいものを守りたいからだった。

そして、それができた1番の理由は、38歳の出来事があったからだった。

自分に向き合うことは、その前にまず自分が癒されないといけない。

大きな傷を持ち続けたまま自分に向き合えないこともないけれど、精神的にそれはキツイ。

傷が癒されると、そこにずっと注がれていたエネルギーが要らなくなるから、代わりにそれを他のところに使えるようになる。

まさに、私がこの1年でやり続けたことの象徴だった。



当初この記事全体をここまで書く気はなかった。

サクッとカードからのメッセージを書いて終わりにするつもりでいた。

だけど、なんとなくそのようになってしまったし、公益性のないあまりにも私個人の話だから、ペンジュラムにもこのままアップする?と聞いてみた。

ペンジュラムは勢いよくYESになって、今度は反対に「アップしなくてもいい?」と聞いたら即座にNOになった。

ということは、書いてアップすることが必要なんだろう…と、私には理由がわからないけれど、まぁ何かに繋がるのかもしれないし、カードの開封の時のことに至ってはあまり情報としてたくさんは出てないみたいだから、それを残してもいいかなと思った。

『カードを初めて迎える時』とか、『セルフリーディング』とか、『オラクルカード 初めて』とか、『オラクルカード 迎える』とか、色んな言葉で検索したけれど、ここで紹介したような内容はなかなか出てこない。

もしかしたら動画だと普通にたくさん出てくるかもだけど(※『開封動画』で検索するとヒットします)、文面での情報は私は見つけられなかった。

とにかくマニアックな情報だけど、良かったら参考までにどうぞ☆

カードに全く興味のない方もここまでお読みいただきありがとうございました♡(*´︶`*)♡



あともう1つ。

こんなの本当に私の自己満足でしかないけれど。

私は自分の持ってる情報を見えるように表現して、そしてそれが誰か1人でもいい、その誰かに伝わることにめちゃくちゃ興奮する。

心がそれで本当に満たされる。

私は自分の感覚が世間一般とは随分とズレているのも知っているし、人によっては「変」だの「変わってる」だの「おかしい」だのと評されることも知っている。

でも、それが私の当たり前だから、私は変えられない。

もちろん人の評価も変えられるとも思っていない。

だけど、私の感覚に誰か1人でも共感してくれたり、「私も俺もそうだからわかるよー!」と言ってもらえたりすると、それは私にとってこれ以上ない喜びになる。

私の中ではそんなすごい情報だと思っていなくても、他の誰かからしたら喉から手が出るほど欲しい情報だったら、それもまた嬉しい。

そういうことを実験してるような感覚なのかもしれない、ここに書いたことは。

100人じゃ足りない、1000人ぐらい集めたら初めて1人ぐらいは「それいいね!」って言ってくれるような情報だと思う、私が発信してることは。

でも、それでもいいから、その限りなくゼロに近いような可能性でもいいから、私は自分が自分の思ったことをそのまま発信したいんだなぁと思った。

私にとってそれというのはすごい怖い行為だった。

否定されるのは仕方ない、相手側の事情や考え方だから仕方ない、そう自分にいつも言い聞かせていた。

でも本当はわかって欲しいし、相手が大切な人であればあるほど分かり合えたらいいなぁとは思っている。

でもこの1年ぐらいで私の中もずいぶんと変わった。

相手にわかって欲しい、伝わって欲しいからこそ、そのままの自分でいようと。

誰かにもしくは大勢の人たちに気に入ってもらうために自分を変えてまで表現しなくていい。

私は私のまま言葉を書いて発信して、それでその自分でいいよって言ってもらいたいんだなって。

違う自分を評価されても、その自分を次も作らないといけない。

それは嫌だから、だからそのままの自分を出して、わかってもらえなくても、もしくは批判されたり否定されても、それは仕方ない。

でも、そのままの自分を相手が「いいね」なんて言ってくれたら、私はそのままの自分でいられる。

少なくともそういう人たちの前では私でいられる。

私が欲しいのは後者で、そしてそのために自分を偽らずそのまま差し出す、そのまま表現する、そのことに私はようやく覚悟が決まった。


ウラ話[完]
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ここから先はもっと個人のウラ話でさらに意味とか意義などないので、ご理解のほどよろしくお願いします(´︶`)


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《1月24日下書きより》

『奇跡の果実』シリーズの途中だけど、どうしても書きたくなったからそれを1つ。

あの年の秋、このブログを再開した時のこと。



と書き出したまま、気付けば2ヶ月も過ぎていた( ̄∀ ̄;)。

ずっといつかは書こうと思ってはいたけれど、タイミングを上手く掴めず、今になった。

だけど今のこのタイミングなんだろうと思う。

「メッセージ」という枠で、視点は違えど(目的も違えど( ̄∀ ̄;))、ここなら入れてしまってもいいかなと思った。

2ヶ月ずっと書こうと思っただけあって、内容は新しくもないけれど、かと言って古くなってもいない。

常に現在進行形で、そして今書くのに気が熟した、そんな印象さえ受ける。

今感じるのは、時間がそれなりに積み重ならないとわからないこともあるということ。

よく3次元は何かを願ってから叶うまで時間がかかるというのが法則だけど、本当にその通りだった。

だけど、時間がかかってもいいから、叶うことのすごさを知った。

叶うというか、届いた。

それも思ってもいなかった形で。



私が書き物を再開した時、4つの文章をひたすら書いた。

3つは私の独り言をブツブツと書いた。

最後のひとつだけ、他の3つとは全く違っていた。

当時はあまりにいっぱいいっぱいで気付かなかったけれど、明らかに最後のひとつだけは全く別の感覚で書いていた。

4つとももちろん届いて欲しいから伝わって欲しいから書いていた。

けれど、3つは単純に私側の話。

ひとつだけ、そこにはほぼ私は登場しないし、私の気持ちや考えも極力排除したし、そして届けたい相手のことも何一つ触れなかった。

だけど、そのひとつは、この広い世界の中で私はたった1人の人だけに宛てて書いた。

ぱっと見、他の3つの方が特定の1人に宛てていて、残りのひとつが対大勢という風に見える。

でも、私の中の想定読者は1人だった。

想定読者も何も、それこそ個人宛のメッセージのようなものだった。

他の3つは最悪スルーされても、そのひとつだけは絶対に届いて欲しかった。

他の3つは私の独り言みたいなものだから無視されても仕方なかった。

だけど、影に隠れるようにこっそりと書かれたひとつこそが、本当の本当に私がその人に伝えたい言葉だったように思う。

私から見たその人を、書いて届けたかった。

他の人たちにご出演いただいて、他の人たちの話だけをひたすら書いた。

他の人たちに共通している雰囲気とその人の姿とを重ねた。

なんとなくだけど、その人はその部分の自分のことをあまり良くは思っていないことや、そのことによる自分の不器用さみたいなのに対してももどかしかったりやるせなかったりするのかもしれない、そんな風に私には見えた。

真相は知らない。

あくまでも私の中の感じ方にしか過ぎない。

だけど、そんな風にも感じていたから、だからそのもうひとつの文章を書いた。

私はそれを悪く捉えてないし、むしろその奥に隠されたそういう性質の人たちに共通するものをその人も多分持っているだろうと感じていたから、その性質の方を何とか言葉にしたかった。

そしてせめてそれは本人に伝わって欲しかった。

本人は否定するかもしれないけれど、そういう部分は黙っていてもわかる。

言葉がないから伝わらないなんてことはない。

言葉がなくても、普段の行いに現れている。

私はひたすらそういうものも含めてその人を見ていたから、多分私の読みはそんなには外れてはないと思う。

とにかくその部分を私から見るとどう映るのか、そしてそれはその人が捉えそうな悪い意味ではなく、もっと良いものだということを知って欲しかった。

あの時は訳もわからずに書いていたけれど、と言うよりも「書くべきこと」みたいな立ち位置にあって、書きたいの半分、書く必要に駆られたの半分、そんな風だった。

何せこのブログにはジャンルが存在しない。

何をどう書くのかはすべて私の采配に任されている。

だから無限大にある中から、その時その時で「これだ!」というものを自分の感覚に従って書いている。

『奇跡の果実』シリーズは情報が多すぎるから、来たものを1つ1つノートにメモしておくけれども、普段の私はそんなことしない。

パッと来たものをそのまま言葉に起こしているだけ。

まさに一期一会状態で文章を生み出している。

だから当時も、私側が何を書くかは完全に自由で、選択肢は無限大にあった。

ある意味テーマは何でも良かったはずなのに、私にはそれしか頭の中になかった。

それ以外何を書くの?と疑問に思うことさえなかった。

書くことはすでにどこかで決まっていて、もしくは決められていて(by私ではない何か別の存在)、私はひたすらその頭の中にあるもの・心の中にあるものを言葉にして紡ぐだけだった。

伝わって欲しかった。

その人にそれだけは伝わって欲しかった。

それはその人に向けて、全身全霊を懸けて書いたものだったから。

もう一生会えないなら、せめてその言葉を贈りたかった。



多分だけど。

目を背けたかったものは、私というよりも私がいることであれこれ出てきてしまう自分の中のものだったのかな…なんて思ってしまう。

自分の中のものというのは、自分の気持ちだけじゃなくて、自分が見たくない自分とか、自分の中で許せていない自分とか、そういうもの。

私と関わらなければ、そういうものに蓋をすることができたのかもしれない。

その人がいない時間が始まって、私の人生に起こったのは、出来事もだけどそれ以上に自分との向き合いだった。

出来事は起こることに対応するからいいけれど、自分との向き合いはどこまでも答えもなければ、逃げてもまたやってくるし、向き合う対象はひたすら自分でしんどいとしか言いようがない。

だから、私もそうだったけど、私がいることでその人の中で何か別の感覚が生まれるとするなら、その感覚に目を背けたくなったのかもしれない。

色々意味不明過ぎるし、ニコニコばかりもしていられない。

というより、変なものをあれこれ突き付けられるから、逃げたくて仕方なかったのか、ないことにしたくなったのか、そんなのはわからないけれど、決して前向きに向き合いたいものではなかったんじゃないかなと予想している。

ペンジュラムが新しい動きを見せた日の瞬間を私はものすごくよく覚えている。

朝の出勤の途中だった。

赤信号で止まっていた。

まだ雪が降っていないから秋の終わり頃だったと思う。

そこで新しい動きを突然見せた。

スーパーNOのサイン誕生の瞬間だった。

〇〇さんは後悔していません、と同じ質問を100回以上は聞いてた。

それがその日の朝、突然それまでに見たことのない動きをペンジュラムがして驚いた。

でもその直後、私は強烈な腹痛に襲われて本気で脂汗流すような痛みの中にいた。

人生でもそう何度もは経験しないタイプの超激痛だった。

幸楽苑とかしまむらが並んでいるところの近くと言えば伝わるだろうか。

あそこから会社まで10分かからない。

その10分もかからないその時間を、私はひたすら痛みに耐えた。

頭の中で「変なものは食べてない」と思った。

あれはペンジュラムがバージョンアップしたことによる不調だけではなかったと思う。

負のエネルギーの塊になっていたものがもう終わりにしたいという意味もあった気がする。

よくよく考えて、これは私の予想だけど。

この1年も何かに気付く度に体調不良に陥る、要は古いエネルギーや細胞では対処しきれないから好転反応みたいなものだったと思っているけれど、他のものたちとその時とは症状が全く違った。

他の時の体調不良は、発熱、異常な眠気、異常な頭痛、異常なダルさだった。

おなかにくることは、ゼロとは言い切れなくてもそういう記憶がないからあまりなかったと思う。

あの時は、ペンジュラムの進化だけじゃなくて、私はその人側の何かも一緒にキャッチしていたのかもしれない。

もちろんそんなのは証明のしようがないけれど、もう思い詰めなくていいよのサインだったのかな…、そんな風にも感じる。

後悔というのは、きちんと言葉にしていたのなら…という後悔。

言葉の中身までは知らないけれど、少なくともその人は本音ではないことを私に言って、そして最後は私を無視なり避けるなりしていたと思う。

だって矛盾してる。

その人は私に時間を作ることは「できない」と言った。

目の前でそう言われた。

だけどその人は、この土地を去ってからブログという場所で時間を作っている。

それも1回2回じゃない。

数え上げられないぐらいの時間をここにかけてくれてるのは知ってる。

だから、あの時の言葉が、最後の挨拶の時も含めて、そこにその人の心からの本当の言葉はなかったんだと思う。

どういう事情や理由で時間を作ることができないと言ったのかは知らないけれど、少なくとも後悔に繋がるような何かはその人の中に残った気がする。

ペンジュラムの動きと私の激痛以外は完全に妄想みたいな話だけど、4つ目の文章について今回書こうと思った時、そのこともなぜか一緒に記憶に出てきた。

私はその人を追いつめたくて書いてるのとは違う。

その人に「大丈夫だよ」と言いたいだけで書いてる。

追いつめたり後悔するパートは本人が本人にどこまでもキツく迫る。

だけど、私はそんな風に思ってないし、私が追いつめて何とかなるならいくらでも追いつめるけれど、何なら超得意ワザだけど( ̄∀ ̄;)、そうじゃないと言いたい。

その人が本当に後悔しているのかはわからない。

だけど、言葉にできない、言葉にすることを拒んだ奥に、何か別の理由があるのかな…というのは思った。

あの時は無我夢中で書いていたけれども、私はその部分を何となく汲み取って言葉をその人に向けて紡いだ感覚がある。

あれだけは私の私情は抜きにして、真っ直ぐにその人だけに向けて書いた。

その人に大丈夫だよって言うために。

その人に、そういうところも含めてのその人で、私はその全部に対して大切だと思っていることを伝えるために。



その時に放たれたメッセージは、思わぬ結果を呼び込んだ。

本人の元に届いた。

頭では絶対に考えられないことだった。

そんなこと起こるわけないと思った。

でも、本当に必要なことはどんな手段を得てでも起こる。

人間の頭で計算できるような、人間の思考で計画できるようなことじゃない。

その人は知ってるんだろうか。

私のこのブログは、何でなのかは知らないけれど、普通に私の名前で検索しても出てこないことがあるらしい。

私は2人からこの1年ぐらいの中で言われたから、本当にそうなんだろうと思う。

名古屋のSさんもとても嬉しいことを言ってくれたことが数回ある。

私のブログ、特に今回の『奇跡の果実』シリーズは読む側の本人の準備が整わないと出会わないようになってる、と。

読みたいだけでは読めない、普通に探してヒットするものじゃない、そういう内容だよと言われた。

それはなんとなくわかる。

その人が本当の最初、どんな風にして私のブログに行き着いたのかは知らない。

3つブログを展開しているのと(当時は3つとも休止してたけれど)、他にも私の名前でヒットする別のことたちがある。

だけど、すぐのすぐにきれいにヒットするかと言うと微妙だと思う。

どんな風でもいいけれども、それがきれいにヒットしてくれて、そして本当に伝えたいメッセージが伝わるなんて、それは神のみぞ知るの領域。

仮にヒットしたとしても、ヒットしたから伝わるじゃない。

伝わるためには、まずは見つけてもらうこと、そして見つけてもらったら時間を作って読んでもらうこと、そして最後は本人がそこから何かを感じ取ること、そのすべてがきれいに揃わないと伝わらない。

ましてや長い私の文章、まとってる雰囲気がそれぞれ違っている中で、そこからピンポイントで特定の文章だけが繰り返し読まれるなんて、どれだけの確率なのかと思う。

でも、本当に必要なことは、そんなありえない確率をくぐり抜けてでも起こる。

そしてそれがこの世における見えない世界の法則なのかもしれない。

見えないところと見えないところの特殊な接着剤は、私たち人間の想像を遥かに超えている。

しかもこれは今の時代だからこそ可能なこと。

昭和の時代には考えられない、少なくとも私がインターネットというツールを知る大学入る前まではこんなことありえないことだった。

あのメッセージから10数ヶ月が過ぎた。

あの記事は、過去の記事となり、時系列で言えば古株に仲間入りしている。

にも関わらず、今でも時々読まれているし、そして私の数年間で書いた900を超えた記事の中で、読まれた回数はトップ10入りしている。

この『奇跡の果実』シリーズが2ヶ月以上続いている中でもそのメッセージが読まれていると知った時、私は本当に嬉しかった。

それはちょうどアップされてる記事とは違うから、検索するなりブックマークするなりしないと読めない。

その労力をかけても読んでもいいものだということだろうと私は理解している。

一番届いて欲しいと願っているものが届くことの奇跡、これは奇跡以上のものだと思う。

ネットで「奇跡」の語源を調べたら、こんな風に出てきた。

「通常では起こりえない神の行い」

そういう領域のことだとわかる。

言葉が生まれてメッセージを織り成す瞬間、そこに至るまでに色んなことが重なって初めて誕生する。

自分だけが書きたいだけではダメで、必ずその先には人がいる。

人間が文字を発達させたのは、その文字という道具を使って大切なことを大切な人たちに繋げていく又は伝えて(伝承して)いくためだったと、どこかで読んだことがある。

私がしたことは本当にそういうことだった。

だけど、自分側の熱量と相手側の熱量が同じなんてことは、はっきり言ってそんなことが起こること自体ものすごい稀なことだと思う。

自分だけがいくら大切だと思って、そしてその大切な人に向けて大切なメッセージを紡いでも、それがきちんと届くとは限らない。

少なくとも、私に「そんなことは有り得ないと思う」とはっきりと言い切った人もいた。

もちろん気分は良くなかったけれど、でもそれが99%以上の当たり前の可能性の方だった。

可能性がゼロにならなかったのは、単に私が行動に移したという、それだけでゼロではなくなったに過ぎなかった。

昨日かおととい、「行動する」の本当の意味を解説してくれてるブログに行き着いた。

現代人は「行動する」と言うと、何か目的や計画が先にあって、その目的や計画に基づいて動いていくことを行動だと捉える。

でもそのブログの人は全然違う観点から「行動する」ということを説いていた。

本物の行動は、理由もわからない、計画なんかもしていない、何が何だかわからないまま、衝動に突き動かされるように動いた結果の部分を行動と呼ぶと。

私にはすぐ意味がわかった。

なぜならその人の前での私がそうだったから。

とても恥ずかしくてここには書けないけれども、その人に対してしたことはすべて計画も目的もなかった。

何が何だかわからないまま、すべて感覚でやっていた。

感覚というよりも、何だかよくわからないものに突き動かされたという感じだった。

さっき書いた、時間をくださいと言ったのも、色々ありえなかった。

その風景を私は今でもよく覚えているけれど、本当にすべてが色々おかしかった。

その人がいなくなった後、その場所は大幅に変更されて当時の面影がないぐらいになっていたけれど、私はその面影のない方の風景は覚えてない。

段ボール置場の風景も随分と変わった。

どちらの場面もその部分だけ切り取ったみたいにして記憶に残っている。

風景だけじゃなくて、私の体がよくそんな風に動いてそして口がよくそんな風に喋ったかと思うと、自分のことだけど自分のことじゃないみたいな感覚がある。

「魂の衝動」とはすごく便利な言葉だと思ったぐらいに、そういうものによる行動としか思えない、今となっては( ̄∀ ̄;)。

当時その人だけに向けたメッセージもそうだった。

思いついて書きたいから書く、だけどそれしてどうなんの?って感じだった。

無駄だとは思わなかったけれど、代わりにそれが未来のいつかものすごい威力を発揮するなんてのも全く思わなかった。

その本当の意味を知るのは、長い時間をかけた今だった。

メッセージは届くと知った。

純粋なメッセージは、きちんと必要な人の元に届けられると知った。

本当に必要なら、本当に縁があるなら、どんなに小さなメッセージでも、距離も時間も超えていく。

それが「出逢う」ということなんだと思う。

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